サラマンダーと出会った戦士(図鑑)
長年の風雨で赤く錆び付き、触れれば壊れてしまいそうな無骨な門を眇め、男は息を吐く。荒野だから雨など降らないとでも思ったのだろうか。ただその横には足場が設置され、近いうち作り変えるつもりなのだろうと推測される。
本日到着した傭兵の男にとって、この村の長期的な安全などどうでもよく、自分が泊まることになるであろう一晩だけでも安寧を得られればそれで良いのだが、男はどうにも気にしていた。
そこで、腰の曲がった老人が一人、男の元へ杖をついて歩いてきた。その後ろに数人、家の陰から除く者がいると男は気付いていた。
「お待ちしておりましたぞ。戦士様。ええと、お名前は……」
「それで構いません。お雇い有難うございます」
戦士の男は兜の面覆いを外し、軽く会釈する。「おお、おお」と老人はわずかに慌てたが、頭を下げた。
「ではこちらに」と老人が曲がった腰を庇いながら歩いていく。村の外と変わらぬ砂の大地ではさぞかし歩きにくかろうと男は憐憫の目をした。
そこは、教団の『聖都』や隣の大陸とは遠い、荒野の中の、山のふもとの村だった。背の低い草しか生えない荒野にあると言うのに、その村の建物は頑丈な鉄で作られ、まるで前線基地のような作りだった。更に奇妙なのは、昔ながらのバラックで作られた、『改築待ち』の家もその中に混じっていることで……つい最近、何か村に変化が起きたことは明確であった。こんな辺境の土地に商人すら来るかも怪しいと言うのに。
赤錆びた門なのに、村の周囲を囲む壁はスティールの光沢も眩しい砦のような鉄壁。貴重なはずの鉄資源をふんだんに使った村。
村民のほとんどが工夫であり、鉱山で採掘を行い、生計を立ててきていた。鉄や銅、銀の類はすべて遥か離れた都市で売り、路銀をようやく賄える程度の資金で食いつなぐ……という生活をしてきたが、数年前、それが一転したのだ。
親魔物の村。
それが、男がこの依頼を受ける時に知った第一の情報であり、依頼を受託した要因の一つでもあった。
男は村長の家に通され、大理石の丸椅子に座る。ふと外を見ると、粉塵にまみれた男たちの間をちょこまかと動く小さな影が目に入る。
鮮烈な橙色の髪の少女。いや、人間ではない。ドワーフだ。
鍛冶や採掘に長けた亜人で、聞くところによると魔物として扱われているという。その矮躯から想像もできないほどの力を持ち、大岩を砕くハンマーの扱いはもちろん、錬鉄の術や鉱脈を発見するシックス・センスも持ち合わせている。
魔物と共存することで売って余るほどの鉱山資源を手に入れ、繁栄した村。
「お待たせしました。ええと、戦士様、詳しい依頼についてお話致しましょうか」
味気ない茶を飲んでいると、先ほどの老人――村長が奥の部屋から現れ向かいの席につく。男は兜を外さず、面覆いだけを上げて会釈した。
「依頼にあった山というのはですね、この村の鉱脈の上にある小さな山でして。ドワーフたちの先見によれば、山の中腹にたくさんの銀があるそうなんですわ。
ただ、山道に剣を携えた魔物がいるらしく、我々はもちろん、ドワーフですら怖がって立ち入ることが出来ない始末で。戦士様のお力で、なんとかしていただけませんか」
戦士の男は相手の風体を聞いて黙考する。男には基本的なものだが、魔物についての知識があった。学者と言うには程遠いが、一般人よりは知っている。
剣を持つ魔物と言えばリザードマンかデュラハン、そのあたりだろう。だが、デュラハンのような上級魔物がこんな村にいるとは考えづらい。リザードマン程度なら、まあ倒せるはずだ――と考え、「わかりました」と返事をする。
「おお、頼もしい。歴戦の勇士と聞いておりますが、路銀程度の報酬しか出せんのが口惜しいですわ。ですがせめて、村総出で歓迎を」
「いえ。依頼書通りで構いません。それと、一晩の宿さえ頂ければ」
村長はまたしても困惑したが、せめて先払いでと思ったのか、地方都市特有の旧紙幣(地方ごとに使われていた非統一通貨)ではなく、教皇庁公認金貨を数枚――二週間分の食費程度を布に包んで置いた。戦士は会釈して受け取り、腰から下げたズタ袋に入れる。
鈍い銀に輝く鎧に身を包んだ戦士は、宿として案内された空き家へと歩いて行った。
村の北、ぱっくりと口を開けた地下鉱山への入り口から最後のトロッコが成果物と共に出てきて、村のあちこちで焚かれていたかがり火が落ちる。するとすぐに、男の元にぞくぞくと村人がやってきた。
村の救世主と聞いて、気にならないはずもない。
「おお、なんと頼もしい方……」「勇壮な鎧だ。相当名のあるお方だろう」「我が家に泊まっていきませんか。精一杯おもてなしいたしますよ」
戦士は面覆いをあげ、微笑で応じた。歓迎の後は質問攻めが始まる。
どこから来た方で? ――あてもなくさまよう浪人ですよ。
剣の腕は? ――ええ、一応覚えはあるつもりです。
魔物と戦ったことは? ――数度あります。
あなたの名前は? ――名乗るほどではありませんよ。
夜通し続きそうだったが、ドワーフたちが村人を急かすと彼らは去っていった。男は開け放たれた鉄の扉を閉め、この村では相当高級品であろう、シルクをふんだんに使ったベッドに腰を下ろす。
安全を確認すると腰に下げた剣をベッドの横に立てかけ、鎧を脱いだ。
荒野であるのに湯浴みが出来ることに驚きながらも、男は旅の汗を豊富な湯で流す。
ようやく精神が落ちついてから、男は思う。
村人たちは皆、荒野であるのに随分と裕福な暮らしをしている。鉱夫という性質上、服装は地味だが、今時石作りの家など聖都かその周りの都市にしかありはしない。
それも皆、魔物のおかげだ。この湯もウンディーネの力だろう。人と契約することで人に利するようになった水の精霊だ。
そこだけ見れば、この村はただ魔物によって栄えた村だろうが、おそらくこの村はただの親魔物領、すなわち魔物によって占領されたわけではなく……『教団の息がかかった親魔物領』だ。
教団の中にも、主神の教えより実利を優先する連中はいる。教えで腹が膨れれば苦労はしない。ただでさえ人間は魔物によって衰退し、聖都は度重なる地方の魔物被害で信仰による虚勢を失いつつある。そこで魔物を都合よく利用し、人間を潤すことを考えるのは合理的だ。
聖都繁栄のため、小さな村を『教団によって作られた親魔物の村』とし、その村を潤すと引き換えに大量の資源供給を聖都へ行う。もちろん秘密裏に。
こうすれば主神の名は穢されず、魔物の目は皆小さな村の小さな人々に向く。聖都は便利な魔物の力で栄える。なんとまあ、うまく出来ている。
この村の人は、そんな教団の思惑を知らない。いざとなれば魔界の一部として教団に狩られる可能性があることも、また。
「聖都……か」
男は鼻で笑った。どこまでも潔白で神聖な都市は、たくさんの魔物によって支えられているのだ。愚かしい。
だが自分がすべて暴露するなどしない。あくまで依頼のためだけに立ち寄り、依頼を完遂すればまた荒野へ戻るのだ。
男は武器と防具を整え、眠りについた。
鉱夫と農夫の朝は早い。まだ日の昇らない頃からトロッコや鶴嘴を整備し、長い長い一日の作業へと備えるのだ。
ドワーフが甲高い声で指示を飛ばし、男たちが働く様を、戦士の男は己の武器を片手に眺めていた。傍らには村長とそのお付の女性が数人、そして役人らしい質実剛健な男がいた。
「さすがは戦士様……化けトカゲどもの力が出ない朝に叩くとは、見識が深いですね」
「いえ……。私は先ほど申し上げたとおりに探索を行い、魔物がいた場合は駆除を行います。もし正午までに帰らかったら、あなた方は鉱山の中へ宵まで避難してください」
戦士の微笑を浮かべた物言いに、村長以下は狼狽した。
「おお、戦士様、無理はよしてください。こんな辺鄙な街の我侭で歴戦の勇士を失うとあっては、神に顔向けできません」
「万が一、ですよ。魔物の多くは暗闇で生活することが出来ません。単純な魔物ですから、一日も経てば怒りを忘れて住処へ戻るでしょう。それでは」
男は長い剣を腰に差し、山道を歩く。後ろを振り返ると、両手を合わせて天に祈りを捧げる彼らがいた。ずっとそこで帰りを待つつもりなのだろうか。
「……すがるものは主神、生きるすべは魔物か」
男は何度目かわからない苦笑いを浮かべた。
生命に乏しい山道は重厚な鎧をつけた戦士には辛く、荒野特有の乾いた風が水分を奪う。村で得た最新式の保温水筒から冷たい水を飲み、ドワーフたちが目をつけたという銀脈の近くへ辿り着く。
不思議なもので、そのあたりは酷く暑かった。火を扱う魔物でもいるのかと剣に手をかける。僅かに鯉口を切った、その瞬間。
「おお、戦士じゃねぇか。やーっと見つけたぜ!」
真夏の太陽のような快活な、だが警戒心のない声がした。男はにわかに焦る。剣を抜き、後ろに広がる絶壁へ追い込まれないよう近くの岩を背にする。
小さな洞窟のような場所から、真っ赤に燃える女性――大きな剣を携えた赤髪の女性が出てきたのだ。
「……なんだ、おまえは?」
直立したトカゲのような魔物、リザードマンではない。しかし人間でもない。両手両足を紅の鱗が覆い、その目はギラギラと赤く輝いている。健康的な浅黒い肌を覆うのは防具ですらない、下着のような薄い布。
そして、赤い炎を燃やす爬虫類の尻尾。まるで『半分だけ人間』のような異様な女性だった。
「ははっ。まずはそっちから名乗りな。鎧で固めた弱虫さんよ!」
挑発するように剣の刃を上下に動かす。男は眉をひそめるが、なるべく冷静な声音で言う。
「私はこのふもとの村で討伐依頼を請け負ったものだ。剣を携えた人に害する魔物、貴様を討つという依頼だ」
赤髪の女性は眉を吊り上げた。怒っているようだった。
「ハァ? アタシが害だから討伐する? まーったくわかってねぇな。アタシはただ魔力が集まっていたから戦士が来るだろうと思って待っていただけってのに。魔力あるところに戦士ありってばっちゃんも言ってたぞ?
それに剣のない人間を襲うなんてそりゃほんとに魔物かぁ? ただの山賊じゃねぇの」
魔物がそれを言うのか? いや、そもそも本当にこいつは魔物、なのか……?
戦士は思考に浸ろうとするが、じわじわと高まる熱気と炎を映す鉄の塊のような女性の刃で我に帰る。正体が何であれ、この魔物の討伐こそが自分の使命だ。戦場での迷いは死を招く。男は鼓舞して剣を構える。長剣を少し足元へ落としたような型だ。
それを見て女性は口笛を吹く。尻尾の炎が燃え上がり、喜色を爆発させた。
「男ってのはそうこなくっちゃなぁ! さあ、勝負だ!」
疾駆する竜のようなスタンビートで近づき、剣を下段から振り上げてくる。その動きを予測していた彼は動きに合わせて己の剣を叩きつけ受け流す。
男の予測通り、剣は男の脇を逸れ眼前の女性が驚きを浮かべる。男は小手をはめた鉄の拳で腹を殴りつけた。
ずぶりと生の柔肌の感触が残り、思わず拳を引く。
「いってぇ……やるなぁおまえ!」
だが女性は怒りや苦痛どころか喜色を浮かべ、また間合いを離して突進してくる。さっきと同じ太刀筋。だが尻尾の炎は気のせいか勢いが強い。男は慌てて長剣を構えなおし、また受け流し拳を叩き込む。今度は力を抜かず、全力で。
苦痛に呼応するようにゴウッと炎がうねり、無数の火の粉が飛び交う。まるで煙幕のような炎に男が飛び去ると、笑顔を浮かべた女性が剣を振り下ろしてくる。
火の粉によく映える笑顔に、一瞬だけ見とれた。
「いいぜいいぜ! 燃えてきた! かかってこいよ!」
バックステップで後ろへ飛び、重い剣を片手でクルクルと回す女性。
やはり魔物だ。殴られた浅黒い肌にはうっ血の痕すらない。これは斬るしかないか、と男は思ったところで気付く。
どうして斬ることをためらっていたのだ?
こんな好戦的な存在を絶命なしで無力化させることなど不可能に違いない。なぜ殺害をためらう。血を浴びることなどなんの感慨もないというのに。
男はその刃で人を殺めた経験があった。一度二度ならず、暗殺依頼を請け負えば確実に首をはねて殺した。女盗賊を轢き回してやったこともあった。
なぜ、ためらう……?
「……くだらない」
男は鼻を鳴らして己の弱い部分を隠した。再び女性の突進。凄まじい力でまるで鈍器でも使うように剣を叩きつけてくるが、その攻撃パターンは単純だった。刃の通る筋を避けて、剣の――柄で後ろ頭を殴りつけた。
「いってぇ! おまえさっきから本気出してないな!? 真面目に戦え!」
後頭部を抑えながらも笑顔で言う。男の面覆いの内の表情に苛立ちが浮いた。
それは策などあったものではない、ただ洩れただけの嫌味の一つだろう。
「……剣の扱いを知らない蛮族に、なぜ本気を出す必要がある?」
挑発すればさらに戦いやすくなると思ったのか、言って僅かに後悔した。
そしてそれはすぐに大きな後悔になる。
「ははっ! ようやく男らしい台詞が聞けた! ますます気に入ったぜ!」
女性は一瞬ぽかんとした後、喜色を爆発させる。
そして体を沈め、飛びかかり噛み付く蛇のように突きを放ってきた。とっさのことに反応が遅れ、肩を覆う板金が吹き飛ぶ。
じわりと汗がにじんだ。戦士としての反射で長剣のリーチを生かした横薙ぎを加える頃にはもう相手は離れ、突進してくる。
ぞわり、と生命の危機を感じる。
「ああっ!!」
まるで新米兵士のようにがむしゃらに剣を振って鈍器のような刃を弾き返す。当然そんなことをすれば大きく体勢は崩れ、力で勝る相手がニヤリと笑う。
「そらぁっ!」
斜めから切り上げる一撃が兜を直撃し、目の前に星が散る。ゆがんだ兜をすかさず投げ捨て、男は視界もまだはっきりしないが奮迅のごとく唸り声を上げて剣を振るった。
ずぶりと女性のわき腹に剣が沈み込む。
「あ……」
それは男の声か女性の声かはっきりしない。慌てて剣を抜くと、尻尾の炎の勢いが冷めないまま女性はうつぶせに倒れた。
男はその場に膝をついて、あろうことか剣を手から落とした。
何かに見とれていたのだろうか? なぜあんながむしゃらの一撃が当たる?
「お、おい……」
揺すってみるとその体はとても暖かい。いや熱い。思わず手を離す。
びくりと尻尾が動いた。
「くっ、あ、アタシの負け、か……?」
痛みがひどいのか、うつぶせのまま問いかけてくる。男は何も考えずに「そ、そうみたいだな」と裏返った声で言う。
「負けか……ああくそっ、勝てると思ったんだけどなぁー……で、それで、だ」
ドンッと鱗に覆われた両手で地面を叩いて上半身を上げる。
燃える太陽のような笑顔があった。
「おまえが気に入った! 愛してる! アタシと結婚してくれ!」
「…………は?」
男はまるで戦闘前に彼女が浮かべたような本気の困惑面を浮かべた。女性は「よいしょ」と痛みを感じさせない様子で立ち上がり、剣を持たずに男の顔へ自分の顔を近づける。
「おーおー結構いい男じゃん。ますます愛してやりたい! いや今すぐ愛してやる!」
尻尾の炎を激しく燃え上がらせながら、女性はキスをした。
「むーっ!」と男がとっさのことで慌てた声を出す。
薄く涎を引いて男が飛び去り、剣を構える。
女性は「えへへ」と少しはにかんだ笑顔を浮かべていた。
「なんだよー照れんなよ。お? もう一戦やる? いいぜぇアタシの婚約者! 刃で愛を伝えてやる!」
これは、まずい。
男は一瞬で悟る。こいつは自分に倒せる相手ではない。いや、自分だからこそ倒せない。
なんと卑怯な、と舌打ちをして、男は。
逃げた。
「ちょっ、おいっ、なんで逃げるんだよ! 愛し方が足りないって言うのかー?」
転がり落ちるように男は山道を下っていった。
むき出しにされた顔の、湿った唇に当たる風を無視して。
策などあったものではない。ただ衝動的に走り続け、よほど急いでいたのか、行きは三十分かかったはずの道のりをわずか数分で駆け下り登山道の入り口までさしかかっていた。
そこには男の帰りを待っていたらしい老人と、その従者の男がいる。戦士の姿を見て喜びを浮かべたが、すぐにそのただならぬ様子に狼狽する。
「ど、どうなされたのですか!? まさか化け物に殺されかけたなど」
「い、いえ。そういうことではありません。ただ、依頼の魔物というのが、厄介、いえ、討伐することがままならない存在のようで」
平時の男なら絶対に言わないであろう、事実上の依頼放棄のような言い草であった。そこに何らかの考えはなく、ただ本心のままの言葉のようで、それに気付いたのか若い従者の男が訊ねる。
「戦士様、一体どのような魔物がいたのですか。あなたの腕で討伐のままならない魔物など、村全体の危機となります」
ドラゴンの類でも連想したのだろうか、戦士の男は兜がないおかげで呼吸が楽なことに今更気付き、ふうと息をついた。
「いえ。強力な魔物というわけではありません。確かに報告の通り、剣を携えた魔物でした。おそらく、あなた方へ襲い掛かることはないでしょう。彼女の言葉が正しいのなら」
「彼女……? 戦士様、一体どういうことですか。武器もなくされていらっしゃるとは」
武器……? と己の腰の鞘を見やって気付く。
長年連れ添った、異国の鉄で作られた無骨な相棒がそこにいなかった。
「馬鹿な……」
討伐途中に逃げてそのうえ武器まで忘れるとは、もう後悔や自責を通り越して疑問しか浮かばない。
剣のことは後回しだ、と目の前で怯える住民代表を見て割り切り、仮面のような微笑を浮かべようとする。いつも依頼人の前で浮かべている、穏便に物事を運ぶための処世術だ。
「す、少し不覚を取りまして、武器をなくしてしまったのです。ですがご安心ください。あの魔物が採掘の邪魔になることはないでしょう。そういう種類の魔物でしたから」
「戦士様! どうかお教えください! 一体何があったというのです!?」
だがますます不安を煽ってしまったらしい。しかしどう説明すればいいのかがわからない。
それに、あの燃え盛る女性は死ぬどころか気絶すらしておらず、なぜか自分に執着して――
「おーい! 逃げんなよっ! 愛してるって言ってるだろっ!」
来た。
振り返ると、険しい山道をものともせず、前時代の騎乗用竜のような疾走であの女性が追いかけてきていた。尻尾の炎はかがり火のように燃え盛り、ぶんぶんと激しく左右に振られている。
「な、あ、あれが魔物ですか!?」
村長の前に従者が歩み出て拳を構える。だが女性はそちらのほうなど見向きもしない。ただそのギラギラと輝く目に映るのは、戦士の男のみ。
戦士はそこで今自分がどうすべきかを閃いた。依頼を達成し、この魔物をこの村から遠ざける方法。後のことなど考える暇もない。
「あの魔物は私へ執着しています。ですから、私はこのまま荒野へ戻ります。そうすれば奴がここへ戻ることはないでしょう」
お世話になりました、とおざなりに新米騎士のような礼をして村長たちの脇を走っていく。村長たちが何か話していたが、もう答える時間はない。
幸いなことに、村の入り口には荒野を共に旅した戦士の黒馬がつながれていた。己が主を見つけ、その狼狽を感じ取ったかのように荒野へ鼻先を向ける。鎖を外し馬にまたがり一心不乱に駆けた。
村人を無視して錆びた鉄門の前にたどりついた女性は、逃げる男の背を見て笑顔を浮かべた。
「愛してるぞ――――っ!! 待ってろよ――!」
大音声を上げ、燃え盛る半蜥蜴の女性は、二本の剣を持ってその馬を追いかける。
抑えきれない熱に震える己と、愛しい男がつながる時を夢見て。
男はただひたすら走った。理性的な思考などありもせず、時々後ろから響く「愛してるぞー!」という声が死神の呼び声のようだ。教団の思想によれば死神とは鎧をまとう女戦士の姿らしいのだが、男にはそんな些事はどうでもよかった。
むしろ女戦士、という部分が被り更に恐怖が募る。精霊のいたずらで地の裂け目があるかもしれないのに、男は用心する余裕もない。
あ、愛を叫ぶ死神って何だよ……!
自然の炎を具象したような美しい蜥蜴女にいきなり口付けされ、己の戦の相棒を失い、命を狙われているわけではないのにほうほうの体で逃げ延びる。男の混乱は極限まで達していた。
だが、日が暮れるまで走ると、さすがに声は聞こえなくなり、振り返ると砂塵にまみれた荒野だけが見える。
「……やっと振り切ったか」
深い安堵の息を吐き、ようやく冷静さを取り戻した心が武器と宿の確保の必要性を叫ぶ。荒野で野宿など出来るはずもない。ちょうど行く先に城塞都市が見える。男は早馬で近づいた。
強力な対魔術障壁の張られた門まで近づいて、戦士の男は引き返すべきかと思ってしまう。
城塞都市とは、すなわち人間の重要な拠点。
小さなものだが、教団の直属都市のうち一つであった。
「……これくらいの大きさなら問題ないか」
引き返せばあの蜥蜴女に襲い掛かられるかもしれない。殺されることはないが、殺されるより酷い何かを受けるかもしれない。何なのかは知らないし、動悸が激しい。
男はケープを顔に巻いて、門番に旅の者だと告げて宿を所望した。少しの時間の後、輝く十字の刻まれた兜の下で門番は微笑して、男を通した。
精緻な石造りの町並みに、男は息をつく。
「……旅のお方、主神に祈りを捧げて行ってはいかがでしょう?」
門番の声に、男の体が凍りつく。依頼用の微笑で「いえ。こんな姿は神にお見せできません」と断るが、いつの間にか前にも教団の兵がいる。目立たない艶消しの黒の剣を持って。
「さあ、どうぞ。礼拝堂はこちらです。……もしかして、ご存知でしたか?」
腰に武器はない。自分の前後には教団の正規兵がいる。
「畜生め……」
男は蜥蜴女を強く強く恨んだ。恨みを抱えたまま、絢爛豪華な聖堂へと入っていく。
「やあ。ようやく会えたね。裏切り者」
ステンドグラスの光を浴びて、正規軍分隊長の男が気さくに言う。その周りを囲むのは、男も顔を知っている教団軍。
「……どうも。隊長殿」
男が微笑を浮かべて返す。後ろにいた教団兵が男の頭部を殴りつけた。
昏倒しない程度の痛み。鉄の具足で頭を踏みつけられる。まわりから笑い声が上がる。鎧越しに鈍器か何かで背を殴られ、呼吸が止まる。ひゅうひゅうと喉から洩れる息を隊長が笑った。
「のこのこ戻ってくるとはどういうつもりかな? 最期に主神の前でその穢い体を清めてもらおうってつもりかな?」
隊長が長い剣を男の鼻先に突きつける。男は微笑をやめ、本心のまま笑った。
「何が主神だ。魔物信仰どもめ」
ガンッ! と背中にもう一発。男が悶絶する。隊長は剣をしまって、読まれた形跡のない聖書を取り出す。それを手でもてあそびながら、
「いやぁ。困るんだよねそういうこと言ってくれると。上のほうからね、殺されるの。教団は人類の希望、そんなのが野良魔物どもを飼い慣らして聖都を維持してるなんて知られたら人類総堕落だよ? 大陸全部がレスカティエになっちゃうよ?」
「レスカ、ティエ……?」
男はおうむ返しに訊くことしかできなかった。
「あ、知らないんだ。じゃあいいや。ちなみに死体は焼却して共同墓地に葬ってあげるから心配しないでね。荒野にほっぽり出してゾンビ女としてよみがえってもらうっていう手もあるけど、君、無駄に強いからね。それに知識も残るからダメなの」
「戦士の屍は神の慈悲を受けて祝詞と共に肉体ごと棺におさめられるんじゃないのか……?」
かつて教団兵だった時代の知識で言ってやると、隊長はプッと噴き出した。
「またまた。そんなことしたらゾンビやグールとして蘇ってしまうじゃない。焼却だよ焼却。魔力耐性のない人間なんて危なっかしくて放置できないし。特に女はね」
これを教団の聖印を持つ連中が語っているとなると、もう笑いしか出てこなかった。
「さ、そろそろ殺すよ? 僕の剣が人の血で汚れると神の名に傷がついちゃうから、みんな、やっちゃって」
隊長が下がり、押さえ込まれた男の前に下級兵士たちが群がる。皆一様に笑っていた。鎧の下は修道服だろう。
ああ、これも全部あの蜥蜴女のせいだ。
畜生め、と最期の言葉を呟こうとした。
甲高い音を立てて、天上のステンドグラスが砕け散る。
火の粉を散らして、二刀を持つ赤髪の女が降り立つ。
尻尾の炎が激しく燃え上がる。
「やーっと見つけたぜ! アタシの愛する人!!」
男も教団兵も呆ける中、燃え盛る女性はどすどすと近寄り凄まじい力で男を救い上げて抱きしめた。
「はぁー会いたかったぜ! 暖かい……暖かいなおまえ!」
「ちょ、おい、おまえここがどこだか――」
女性の背後から兵士の剣が迫る。だが剣は何にも当たらず、尻尾の炎で溶けて散った。
「助けに来たぜ。アタシの愛する人」
女性はずっと持っていた男の剣を渡し、自身も剣を構える。教団兵は激しく狼狽した。
「おらぁ! かかってこい!」
燃え盛る炎のように、女性は教団兵を切り伏せていく。後ろから近づく兵を尻尾の炎で焼き払い、一騎当千のごとき強さで絶望的状況を変えていく。
男は気付く。自分の手に武器が戻った。それを握り締めると、闘争の勇気が沸く。
「おらぁっ!」
近くにいた教団兵を柄で殴り飛ばし、女性の背後から迫る兵士を袈裟で斬る。ヒュウッと女性が口笛を吹いた。
「やるねぇ愛する人! いい加減名前ぐらい教えてくれよ!」
「……マルクだ。あんたは」
その名前を聞いただけで女性は歓声をあげ、無言で近寄ってきた隊長の剣を弾き返す。
「ようやく聞けたっ! アタシの愛する人マルク! アタシはサラマンダーのジャンヌ。ザコを片付けたらさっさと逃げるか!」
やっぱり殺しはしないんだな、と戦士マルクは柔らかい目をした。マルクは隊長に肉薄し、顎を柄で殴りつける。
すべての敵を無力化したことを確認した途端、ジャンヌに手を掴まれ、はるか高い天上の穴から外へと逃げ出した。
街から離れた荒野のテントで、二人は焚き火を囲んでいた。
焚き火に映る影は、一つに重なっている。
「熱い。離れてくれ」
「やだね」
「……ジャンヌ。離れてくれ」
「ははっ。しょうがねぇな」
鎧をバシバシ叩きながら、サラマンダーの女性、ジャンヌは向かいに座る。
マルクはここまで逃げ延びた後、ジャンヌに自分の出自を語った。
元教団兵であったこと。
教団のやり方が気に入らず逃げ出そうとしたら見つかったこと。
することもなく、都市には戻れず、ただ漠然と依頼を受けて荒野を彷徨い続けていたこと。
「そうかー。ま、何かあったらまたアタシも戦うかな」
「相手が戦士だからか?」
「マルクを愛してるからに決まってるじゃねぇかー」
マルクは大いに赤面した。対面に座る、自分の運命を変えた女性を見る。
人間にはない、奇妙だが鮮烈な魅力。
こいつと共に過ごすのもいいか、とマルクは損得勘定なしで考えた。どうせもう人間の街には戻れない。
この歳になって初恋か、と自分の兵士としての半生を苦笑する。
「なぁ、それでさ、一回だけでいいから言ってくれよ」
どことなくもじもじしながらジャンヌが言う。彼女の感情にシンクロしているらしい尻尾の炎がごうごうと燃えている。
「なにを?」
「あ、アタシのこと、愛してるってさ」
「……しょうがないな」
そして、戦い以外を知り、少しだけ心に情熱の炎を灯された男は言う。
「愛してるぞ。ジャンヌ」
本日到着した傭兵の男にとって、この村の長期的な安全などどうでもよく、自分が泊まることになるであろう一晩だけでも安寧を得られればそれで良いのだが、男はどうにも気にしていた。
そこで、腰の曲がった老人が一人、男の元へ杖をついて歩いてきた。その後ろに数人、家の陰から除く者がいると男は気付いていた。
「お待ちしておりましたぞ。戦士様。ええと、お名前は……」
「それで構いません。お雇い有難うございます」
戦士の男は兜の面覆いを外し、軽く会釈する。「おお、おお」と老人はわずかに慌てたが、頭を下げた。
「ではこちらに」と老人が曲がった腰を庇いながら歩いていく。村の外と変わらぬ砂の大地ではさぞかし歩きにくかろうと男は憐憫の目をした。
そこは、教団の『聖都』や隣の大陸とは遠い、荒野の中の、山のふもとの村だった。背の低い草しか生えない荒野にあると言うのに、その村の建物は頑丈な鉄で作られ、まるで前線基地のような作りだった。更に奇妙なのは、昔ながらのバラックで作られた、『改築待ち』の家もその中に混じっていることで……つい最近、何か村に変化が起きたことは明確であった。こんな辺境の土地に商人すら来るかも怪しいと言うのに。
赤錆びた門なのに、村の周囲を囲む壁はスティールの光沢も眩しい砦のような鉄壁。貴重なはずの鉄資源をふんだんに使った村。
村民のほとんどが工夫であり、鉱山で採掘を行い、生計を立ててきていた。鉄や銅、銀の類はすべて遥か離れた都市で売り、路銀をようやく賄える程度の資金で食いつなぐ……という生活をしてきたが、数年前、それが一転したのだ。
親魔物の村。
それが、男がこの依頼を受ける時に知った第一の情報であり、依頼を受託した要因の一つでもあった。
男は村長の家に通され、大理石の丸椅子に座る。ふと外を見ると、粉塵にまみれた男たちの間をちょこまかと動く小さな影が目に入る。
鮮烈な橙色の髪の少女。いや、人間ではない。ドワーフだ。
鍛冶や採掘に長けた亜人で、聞くところによると魔物として扱われているという。その矮躯から想像もできないほどの力を持ち、大岩を砕くハンマーの扱いはもちろん、錬鉄の術や鉱脈を発見するシックス・センスも持ち合わせている。
魔物と共存することで売って余るほどの鉱山資源を手に入れ、繁栄した村。
「お待たせしました。ええと、戦士様、詳しい依頼についてお話致しましょうか」
味気ない茶を飲んでいると、先ほどの老人――村長が奥の部屋から現れ向かいの席につく。男は兜を外さず、面覆いだけを上げて会釈した。
「依頼にあった山というのはですね、この村の鉱脈の上にある小さな山でして。ドワーフたちの先見によれば、山の中腹にたくさんの銀があるそうなんですわ。
ただ、山道に剣を携えた魔物がいるらしく、我々はもちろん、ドワーフですら怖がって立ち入ることが出来ない始末で。戦士様のお力で、なんとかしていただけませんか」
戦士の男は相手の風体を聞いて黙考する。男には基本的なものだが、魔物についての知識があった。学者と言うには程遠いが、一般人よりは知っている。
剣を持つ魔物と言えばリザードマンかデュラハン、そのあたりだろう。だが、デュラハンのような上級魔物がこんな村にいるとは考えづらい。リザードマン程度なら、まあ倒せるはずだ――と考え、「わかりました」と返事をする。
「おお、頼もしい。歴戦の勇士と聞いておりますが、路銀程度の報酬しか出せんのが口惜しいですわ。ですがせめて、村総出で歓迎を」
「いえ。依頼書通りで構いません。それと、一晩の宿さえ頂ければ」
村長はまたしても困惑したが、せめて先払いでと思ったのか、地方都市特有の旧紙幣(地方ごとに使われていた非統一通貨)ではなく、教皇庁公認金貨を数枚――二週間分の食費程度を布に包んで置いた。戦士は会釈して受け取り、腰から下げたズタ袋に入れる。
鈍い銀に輝く鎧に身を包んだ戦士は、宿として案内された空き家へと歩いて行った。
村の北、ぱっくりと口を開けた地下鉱山への入り口から最後のトロッコが成果物と共に出てきて、村のあちこちで焚かれていたかがり火が落ちる。するとすぐに、男の元にぞくぞくと村人がやってきた。
村の救世主と聞いて、気にならないはずもない。
「おお、なんと頼もしい方……」「勇壮な鎧だ。相当名のあるお方だろう」「我が家に泊まっていきませんか。精一杯おもてなしいたしますよ」
戦士は面覆いをあげ、微笑で応じた。歓迎の後は質問攻めが始まる。
どこから来た方で? ――あてもなくさまよう浪人ですよ。
剣の腕は? ――ええ、一応覚えはあるつもりです。
魔物と戦ったことは? ――数度あります。
あなたの名前は? ――名乗るほどではありませんよ。
夜通し続きそうだったが、ドワーフたちが村人を急かすと彼らは去っていった。男は開け放たれた鉄の扉を閉め、この村では相当高級品であろう、シルクをふんだんに使ったベッドに腰を下ろす。
安全を確認すると腰に下げた剣をベッドの横に立てかけ、鎧を脱いだ。
荒野であるのに湯浴みが出来ることに驚きながらも、男は旅の汗を豊富な湯で流す。
ようやく精神が落ちついてから、男は思う。
村人たちは皆、荒野であるのに随分と裕福な暮らしをしている。鉱夫という性質上、服装は地味だが、今時石作りの家など聖都かその周りの都市にしかありはしない。
それも皆、魔物のおかげだ。この湯もウンディーネの力だろう。人と契約することで人に利するようになった水の精霊だ。
そこだけ見れば、この村はただ魔物によって栄えた村だろうが、おそらくこの村はただの親魔物領、すなわち魔物によって占領されたわけではなく……『教団の息がかかった親魔物領』だ。
教団の中にも、主神の教えより実利を優先する連中はいる。教えで腹が膨れれば苦労はしない。ただでさえ人間は魔物によって衰退し、聖都は度重なる地方の魔物被害で信仰による虚勢を失いつつある。そこで魔物を都合よく利用し、人間を潤すことを考えるのは合理的だ。
聖都繁栄のため、小さな村を『教団によって作られた親魔物の村』とし、その村を潤すと引き換えに大量の資源供給を聖都へ行う。もちろん秘密裏に。
こうすれば主神の名は穢されず、魔物の目は皆小さな村の小さな人々に向く。聖都は便利な魔物の力で栄える。なんとまあ、うまく出来ている。
この村の人は、そんな教団の思惑を知らない。いざとなれば魔界の一部として教団に狩られる可能性があることも、また。
「聖都……か」
男は鼻で笑った。どこまでも潔白で神聖な都市は、たくさんの魔物によって支えられているのだ。愚かしい。
だが自分がすべて暴露するなどしない。あくまで依頼のためだけに立ち寄り、依頼を完遂すればまた荒野へ戻るのだ。
男は武器と防具を整え、眠りについた。
鉱夫と農夫の朝は早い。まだ日の昇らない頃からトロッコや鶴嘴を整備し、長い長い一日の作業へと備えるのだ。
ドワーフが甲高い声で指示を飛ばし、男たちが働く様を、戦士の男は己の武器を片手に眺めていた。傍らには村長とそのお付の女性が数人、そして役人らしい質実剛健な男がいた。
「さすがは戦士様……化けトカゲどもの力が出ない朝に叩くとは、見識が深いですね」
「いえ……。私は先ほど申し上げたとおりに探索を行い、魔物がいた場合は駆除を行います。もし正午までに帰らかったら、あなた方は鉱山の中へ宵まで避難してください」
戦士の微笑を浮かべた物言いに、村長以下は狼狽した。
「おお、戦士様、無理はよしてください。こんな辺鄙な街の我侭で歴戦の勇士を失うとあっては、神に顔向けできません」
「万が一、ですよ。魔物の多くは暗闇で生活することが出来ません。単純な魔物ですから、一日も経てば怒りを忘れて住処へ戻るでしょう。それでは」
男は長い剣を腰に差し、山道を歩く。後ろを振り返ると、両手を合わせて天に祈りを捧げる彼らがいた。ずっとそこで帰りを待つつもりなのだろうか。
「……すがるものは主神、生きるすべは魔物か」
男は何度目かわからない苦笑いを浮かべた。
生命に乏しい山道は重厚な鎧をつけた戦士には辛く、荒野特有の乾いた風が水分を奪う。村で得た最新式の保温水筒から冷たい水を飲み、ドワーフたちが目をつけたという銀脈の近くへ辿り着く。
不思議なもので、そのあたりは酷く暑かった。火を扱う魔物でもいるのかと剣に手をかける。僅かに鯉口を切った、その瞬間。
「おお、戦士じゃねぇか。やーっと見つけたぜ!」
真夏の太陽のような快活な、だが警戒心のない声がした。男はにわかに焦る。剣を抜き、後ろに広がる絶壁へ追い込まれないよう近くの岩を背にする。
小さな洞窟のような場所から、真っ赤に燃える女性――大きな剣を携えた赤髪の女性が出てきたのだ。
「……なんだ、おまえは?」
直立したトカゲのような魔物、リザードマンではない。しかし人間でもない。両手両足を紅の鱗が覆い、その目はギラギラと赤く輝いている。健康的な浅黒い肌を覆うのは防具ですらない、下着のような薄い布。
そして、赤い炎を燃やす爬虫類の尻尾。まるで『半分だけ人間』のような異様な女性だった。
「ははっ。まずはそっちから名乗りな。鎧で固めた弱虫さんよ!」
挑発するように剣の刃を上下に動かす。男は眉をひそめるが、なるべく冷静な声音で言う。
「私はこのふもとの村で討伐依頼を請け負ったものだ。剣を携えた人に害する魔物、貴様を討つという依頼だ」
赤髪の女性は眉を吊り上げた。怒っているようだった。
「ハァ? アタシが害だから討伐する? まーったくわかってねぇな。アタシはただ魔力が集まっていたから戦士が来るだろうと思って待っていただけってのに。魔力あるところに戦士ありってばっちゃんも言ってたぞ?
それに剣のない人間を襲うなんてそりゃほんとに魔物かぁ? ただの山賊じゃねぇの」
魔物がそれを言うのか? いや、そもそも本当にこいつは魔物、なのか……?
戦士は思考に浸ろうとするが、じわじわと高まる熱気と炎を映す鉄の塊のような女性の刃で我に帰る。正体が何であれ、この魔物の討伐こそが自分の使命だ。戦場での迷いは死を招く。男は鼓舞して剣を構える。長剣を少し足元へ落としたような型だ。
それを見て女性は口笛を吹く。尻尾の炎が燃え上がり、喜色を爆発させた。
「男ってのはそうこなくっちゃなぁ! さあ、勝負だ!」
疾駆する竜のようなスタンビートで近づき、剣を下段から振り上げてくる。その動きを予測していた彼は動きに合わせて己の剣を叩きつけ受け流す。
男の予測通り、剣は男の脇を逸れ眼前の女性が驚きを浮かべる。男は小手をはめた鉄の拳で腹を殴りつけた。
ずぶりと生の柔肌の感触が残り、思わず拳を引く。
「いってぇ……やるなぁおまえ!」
だが女性は怒りや苦痛どころか喜色を浮かべ、また間合いを離して突進してくる。さっきと同じ太刀筋。だが尻尾の炎は気のせいか勢いが強い。男は慌てて長剣を構えなおし、また受け流し拳を叩き込む。今度は力を抜かず、全力で。
苦痛に呼応するようにゴウッと炎がうねり、無数の火の粉が飛び交う。まるで煙幕のような炎に男が飛び去ると、笑顔を浮かべた女性が剣を振り下ろしてくる。
火の粉によく映える笑顔に、一瞬だけ見とれた。
「いいぜいいぜ! 燃えてきた! かかってこいよ!」
バックステップで後ろへ飛び、重い剣を片手でクルクルと回す女性。
やはり魔物だ。殴られた浅黒い肌にはうっ血の痕すらない。これは斬るしかないか、と男は思ったところで気付く。
どうして斬ることをためらっていたのだ?
こんな好戦的な存在を絶命なしで無力化させることなど不可能に違いない。なぜ殺害をためらう。血を浴びることなどなんの感慨もないというのに。
男はその刃で人を殺めた経験があった。一度二度ならず、暗殺依頼を請け負えば確実に首をはねて殺した。女盗賊を轢き回してやったこともあった。
なぜ、ためらう……?
「……くだらない」
男は鼻を鳴らして己の弱い部分を隠した。再び女性の突進。凄まじい力でまるで鈍器でも使うように剣を叩きつけてくるが、その攻撃パターンは単純だった。刃の通る筋を避けて、剣の――柄で後ろ頭を殴りつけた。
「いってぇ! おまえさっきから本気出してないな!? 真面目に戦え!」
後頭部を抑えながらも笑顔で言う。男の面覆いの内の表情に苛立ちが浮いた。
それは策などあったものではない、ただ洩れただけの嫌味の一つだろう。
「……剣の扱いを知らない蛮族に、なぜ本気を出す必要がある?」
挑発すればさらに戦いやすくなると思ったのか、言って僅かに後悔した。
そしてそれはすぐに大きな後悔になる。
「ははっ! ようやく男らしい台詞が聞けた! ますます気に入ったぜ!」
女性は一瞬ぽかんとした後、喜色を爆発させる。
そして体を沈め、飛びかかり噛み付く蛇のように突きを放ってきた。とっさのことに反応が遅れ、肩を覆う板金が吹き飛ぶ。
じわりと汗がにじんだ。戦士としての反射で長剣のリーチを生かした横薙ぎを加える頃にはもう相手は離れ、突進してくる。
ぞわり、と生命の危機を感じる。
「ああっ!!」
まるで新米兵士のようにがむしゃらに剣を振って鈍器のような刃を弾き返す。当然そんなことをすれば大きく体勢は崩れ、力で勝る相手がニヤリと笑う。
「そらぁっ!」
斜めから切り上げる一撃が兜を直撃し、目の前に星が散る。ゆがんだ兜をすかさず投げ捨て、男は視界もまだはっきりしないが奮迅のごとく唸り声を上げて剣を振るった。
ずぶりと女性のわき腹に剣が沈み込む。
「あ……」
それは男の声か女性の声かはっきりしない。慌てて剣を抜くと、尻尾の炎の勢いが冷めないまま女性はうつぶせに倒れた。
男はその場に膝をついて、あろうことか剣を手から落とした。
何かに見とれていたのだろうか? なぜあんながむしゃらの一撃が当たる?
「お、おい……」
揺すってみるとその体はとても暖かい。いや熱い。思わず手を離す。
びくりと尻尾が動いた。
「くっ、あ、アタシの負け、か……?」
痛みがひどいのか、うつぶせのまま問いかけてくる。男は何も考えずに「そ、そうみたいだな」と裏返った声で言う。
「負けか……ああくそっ、勝てると思ったんだけどなぁー……で、それで、だ」
ドンッと鱗に覆われた両手で地面を叩いて上半身を上げる。
燃える太陽のような笑顔があった。
「おまえが気に入った! 愛してる! アタシと結婚してくれ!」
「…………は?」
男はまるで戦闘前に彼女が浮かべたような本気の困惑面を浮かべた。女性は「よいしょ」と痛みを感じさせない様子で立ち上がり、剣を持たずに男の顔へ自分の顔を近づける。
「おーおー結構いい男じゃん。ますます愛してやりたい! いや今すぐ愛してやる!」
尻尾の炎を激しく燃え上がらせながら、女性はキスをした。
「むーっ!」と男がとっさのことで慌てた声を出す。
薄く涎を引いて男が飛び去り、剣を構える。
女性は「えへへ」と少しはにかんだ笑顔を浮かべていた。
「なんだよー照れんなよ。お? もう一戦やる? いいぜぇアタシの婚約者! 刃で愛を伝えてやる!」
これは、まずい。
男は一瞬で悟る。こいつは自分に倒せる相手ではない。いや、自分だからこそ倒せない。
なんと卑怯な、と舌打ちをして、男は。
逃げた。
「ちょっ、おいっ、なんで逃げるんだよ! 愛し方が足りないって言うのかー?」
転がり落ちるように男は山道を下っていった。
むき出しにされた顔の、湿った唇に当たる風を無視して。
策などあったものではない。ただ衝動的に走り続け、よほど急いでいたのか、行きは三十分かかったはずの道のりをわずか数分で駆け下り登山道の入り口までさしかかっていた。
そこには男の帰りを待っていたらしい老人と、その従者の男がいる。戦士の姿を見て喜びを浮かべたが、すぐにそのただならぬ様子に狼狽する。
「ど、どうなされたのですか!? まさか化け物に殺されかけたなど」
「い、いえ。そういうことではありません。ただ、依頼の魔物というのが、厄介、いえ、討伐することがままならない存在のようで」
平時の男なら絶対に言わないであろう、事実上の依頼放棄のような言い草であった。そこに何らかの考えはなく、ただ本心のままの言葉のようで、それに気付いたのか若い従者の男が訊ねる。
「戦士様、一体どのような魔物がいたのですか。あなたの腕で討伐のままならない魔物など、村全体の危機となります」
ドラゴンの類でも連想したのだろうか、戦士の男は兜がないおかげで呼吸が楽なことに今更気付き、ふうと息をついた。
「いえ。強力な魔物というわけではありません。確かに報告の通り、剣を携えた魔物でした。おそらく、あなた方へ襲い掛かることはないでしょう。彼女の言葉が正しいのなら」
「彼女……? 戦士様、一体どういうことですか。武器もなくされていらっしゃるとは」
武器……? と己の腰の鞘を見やって気付く。
長年連れ添った、異国の鉄で作られた無骨な相棒がそこにいなかった。
「馬鹿な……」
討伐途中に逃げてそのうえ武器まで忘れるとは、もう後悔や自責を通り越して疑問しか浮かばない。
剣のことは後回しだ、と目の前で怯える住民代表を見て割り切り、仮面のような微笑を浮かべようとする。いつも依頼人の前で浮かべている、穏便に物事を運ぶための処世術だ。
「す、少し不覚を取りまして、武器をなくしてしまったのです。ですがご安心ください。あの魔物が採掘の邪魔になることはないでしょう。そういう種類の魔物でしたから」
「戦士様! どうかお教えください! 一体何があったというのです!?」
だがますます不安を煽ってしまったらしい。しかしどう説明すればいいのかがわからない。
それに、あの燃え盛る女性は死ぬどころか気絶すらしておらず、なぜか自分に執着して――
「おーい! 逃げんなよっ! 愛してるって言ってるだろっ!」
来た。
振り返ると、険しい山道をものともせず、前時代の騎乗用竜のような疾走であの女性が追いかけてきていた。尻尾の炎はかがり火のように燃え盛り、ぶんぶんと激しく左右に振られている。
「な、あ、あれが魔物ですか!?」
村長の前に従者が歩み出て拳を構える。だが女性はそちらのほうなど見向きもしない。ただそのギラギラと輝く目に映るのは、戦士の男のみ。
戦士はそこで今自分がどうすべきかを閃いた。依頼を達成し、この魔物をこの村から遠ざける方法。後のことなど考える暇もない。
「あの魔物は私へ執着しています。ですから、私はこのまま荒野へ戻ります。そうすれば奴がここへ戻ることはないでしょう」
お世話になりました、とおざなりに新米騎士のような礼をして村長たちの脇を走っていく。村長たちが何か話していたが、もう答える時間はない。
幸いなことに、村の入り口には荒野を共に旅した戦士の黒馬がつながれていた。己が主を見つけ、その狼狽を感じ取ったかのように荒野へ鼻先を向ける。鎖を外し馬にまたがり一心不乱に駆けた。
村人を無視して錆びた鉄門の前にたどりついた女性は、逃げる男の背を見て笑顔を浮かべた。
「愛してるぞ――――っ!! 待ってろよ――!」
大音声を上げ、燃え盛る半蜥蜴の女性は、二本の剣を持ってその馬を追いかける。
抑えきれない熱に震える己と、愛しい男がつながる時を夢見て。
男はただひたすら走った。理性的な思考などありもせず、時々後ろから響く「愛してるぞー!」という声が死神の呼び声のようだ。教団の思想によれば死神とは鎧をまとう女戦士の姿らしいのだが、男にはそんな些事はどうでもよかった。
むしろ女戦士、という部分が被り更に恐怖が募る。精霊のいたずらで地の裂け目があるかもしれないのに、男は用心する余裕もない。
あ、愛を叫ぶ死神って何だよ……!
自然の炎を具象したような美しい蜥蜴女にいきなり口付けされ、己の戦の相棒を失い、命を狙われているわけではないのにほうほうの体で逃げ延びる。男の混乱は極限まで達していた。
だが、日が暮れるまで走ると、さすがに声は聞こえなくなり、振り返ると砂塵にまみれた荒野だけが見える。
「……やっと振り切ったか」
深い安堵の息を吐き、ようやく冷静さを取り戻した心が武器と宿の確保の必要性を叫ぶ。荒野で野宿など出来るはずもない。ちょうど行く先に城塞都市が見える。男は早馬で近づいた。
強力な対魔術障壁の張られた門まで近づいて、戦士の男は引き返すべきかと思ってしまう。
城塞都市とは、すなわち人間の重要な拠点。
小さなものだが、教団の直属都市のうち一つであった。
「……これくらいの大きさなら問題ないか」
引き返せばあの蜥蜴女に襲い掛かられるかもしれない。殺されることはないが、殺されるより酷い何かを受けるかもしれない。何なのかは知らないし、動悸が激しい。
男はケープを顔に巻いて、門番に旅の者だと告げて宿を所望した。少しの時間の後、輝く十字の刻まれた兜の下で門番は微笑して、男を通した。
精緻な石造りの町並みに、男は息をつく。
「……旅のお方、主神に祈りを捧げて行ってはいかがでしょう?」
門番の声に、男の体が凍りつく。依頼用の微笑で「いえ。こんな姿は神にお見せできません」と断るが、いつの間にか前にも教団の兵がいる。目立たない艶消しの黒の剣を持って。
「さあ、どうぞ。礼拝堂はこちらです。……もしかして、ご存知でしたか?」
腰に武器はない。自分の前後には教団の正規兵がいる。
「畜生め……」
男は蜥蜴女を強く強く恨んだ。恨みを抱えたまま、絢爛豪華な聖堂へと入っていく。
「やあ。ようやく会えたね。裏切り者」
ステンドグラスの光を浴びて、正規軍分隊長の男が気さくに言う。その周りを囲むのは、男も顔を知っている教団軍。
「……どうも。隊長殿」
男が微笑を浮かべて返す。後ろにいた教団兵が男の頭部を殴りつけた。
昏倒しない程度の痛み。鉄の具足で頭を踏みつけられる。まわりから笑い声が上がる。鎧越しに鈍器か何かで背を殴られ、呼吸が止まる。ひゅうひゅうと喉から洩れる息を隊長が笑った。
「のこのこ戻ってくるとはどういうつもりかな? 最期に主神の前でその穢い体を清めてもらおうってつもりかな?」
隊長が長い剣を男の鼻先に突きつける。男は微笑をやめ、本心のまま笑った。
「何が主神だ。魔物信仰どもめ」
ガンッ! と背中にもう一発。男が悶絶する。隊長は剣をしまって、読まれた形跡のない聖書を取り出す。それを手でもてあそびながら、
「いやぁ。困るんだよねそういうこと言ってくれると。上のほうからね、殺されるの。教団は人類の希望、そんなのが野良魔物どもを飼い慣らして聖都を維持してるなんて知られたら人類総堕落だよ? 大陸全部がレスカティエになっちゃうよ?」
「レスカ、ティエ……?」
男はおうむ返しに訊くことしかできなかった。
「あ、知らないんだ。じゃあいいや。ちなみに死体は焼却して共同墓地に葬ってあげるから心配しないでね。荒野にほっぽり出してゾンビ女としてよみがえってもらうっていう手もあるけど、君、無駄に強いからね。それに知識も残るからダメなの」
「戦士の屍は神の慈悲を受けて祝詞と共に肉体ごと棺におさめられるんじゃないのか……?」
かつて教団兵だった時代の知識で言ってやると、隊長はプッと噴き出した。
「またまた。そんなことしたらゾンビやグールとして蘇ってしまうじゃない。焼却だよ焼却。魔力耐性のない人間なんて危なっかしくて放置できないし。特に女はね」
これを教団の聖印を持つ連中が語っているとなると、もう笑いしか出てこなかった。
「さ、そろそろ殺すよ? 僕の剣が人の血で汚れると神の名に傷がついちゃうから、みんな、やっちゃって」
隊長が下がり、押さえ込まれた男の前に下級兵士たちが群がる。皆一様に笑っていた。鎧の下は修道服だろう。
ああ、これも全部あの蜥蜴女のせいだ。
畜生め、と最期の言葉を呟こうとした。
甲高い音を立てて、天上のステンドグラスが砕け散る。
火の粉を散らして、二刀を持つ赤髪の女が降り立つ。
尻尾の炎が激しく燃え上がる。
「やーっと見つけたぜ! アタシの愛する人!!」
男も教団兵も呆ける中、燃え盛る女性はどすどすと近寄り凄まじい力で男を救い上げて抱きしめた。
「はぁー会いたかったぜ! 暖かい……暖かいなおまえ!」
「ちょ、おい、おまえここがどこだか――」
女性の背後から兵士の剣が迫る。だが剣は何にも当たらず、尻尾の炎で溶けて散った。
「助けに来たぜ。アタシの愛する人」
女性はずっと持っていた男の剣を渡し、自身も剣を構える。教団兵は激しく狼狽した。
「おらぁ! かかってこい!」
燃え盛る炎のように、女性は教団兵を切り伏せていく。後ろから近づく兵を尻尾の炎で焼き払い、一騎当千のごとき強さで絶望的状況を変えていく。
男は気付く。自分の手に武器が戻った。それを握り締めると、闘争の勇気が沸く。
「おらぁっ!」
近くにいた教団兵を柄で殴り飛ばし、女性の背後から迫る兵士を袈裟で斬る。ヒュウッと女性が口笛を吹いた。
「やるねぇ愛する人! いい加減名前ぐらい教えてくれよ!」
「……マルクだ。あんたは」
その名前を聞いただけで女性は歓声をあげ、無言で近寄ってきた隊長の剣を弾き返す。
「ようやく聞けたっ! アタシの愛する人マルク! アタシはサラマンダーのジャンヌ。ザコを片付けたらさっさと逃げるか!」
やっぱり殺しはしないんだな、と戦士マルクは柔らかい目をした。マルクは隊長に肉薄し、顎を柄で殴りつける。
すべての敵を無力化したことを確認した途端、ジャンヌに手を掴まれ、はるか高い天上の穴から外へと逃げ出した。
街から離れた荒野のテントで、二人は焚き火を囲んでいた。
焚き火に映る影は、一つに重なっている。
「熱い。離れてくれ」
「やだね」
「……ジャンヌ。離れてくれ」
「ははっ。しょうがねぇな」
鎧をバシバシ叩きながら、サラマンダーの女性、ジャンヌは向かいに座る。
マルクはここまで逃げ延びた後、ジャンヌに自分の出自を語った。
元教団兵であったこと。
教団のやり方が気に入らず逃げ出そうとしたら見つかったこと。
することもなく、都市には戻れず、ただ漠然と依頼を受けて荒野を彷徨い続けていたこと。
「そうかー。ま、何かあったらまたアタシも戦うかな」
「相手が戦士だからか?」
「マルクを愛してるからに決まってるじゃねぇかー」
マルクは大いに赤面した。対面に座る、自分の運命を変えた女性を見る。
人間にはない、奇妙だが鮮烈な魅力。
こいつと共に過ごすのもいいか、とマルクは損得勘定なしで考えた。どうせもう人間の街には戻れない。
この歳になって初恋か、と自分の兵士としての半生を苦笑する。
「なぁ、それでさ、一回だけでいいから言ってくれよ」
どことなくもじもじしながらジャンヌが言う。彼女の感情にシンクロしているらしい尻尾の炎がごうごうと燃えている。
「なにを?」
「あ、アタシのこと、愛してるってさ」
「……しょうがないな」
そして、戦い以外を知り、少しだけ心に情熱の炎を灯された男は言う。
「愛してるぞ。ジャンヌ」
12/04/19 00:25更新 / 地味