ロビン=ミンシュタイン4
夜。僕は眠れずに、二階の自室から一階のリビング兼勉強部屋へ降りてきていた。水路の蓋は固く閉じられ、施錠されている。だが僕は鍵を持っている。
ちゃぷん、ちゃぷん、というテッセ川の緩やかな流れが、僕をどうしてかひどく安心させる。小さなランプを叩いて火の精霊を活性化させ、水路蓋の横に置いた。僕はそこにペンと一抱えの袋を持ち、座る。今は、ペンは僕にとってのお守りに過ぎないが。
傍らに、ミンテリアースからもらった小さな石版を置いて。それを握って離すと、微かな潮の香りがする。遠い海から持ってきた――希少な鉱石の類だろうか?
僕は考えた。魔物という存在。父の言葉。父の言葉は忘れ得ない。
父にとって、この村にとって、教団の一部にとって、魔物とは生活の道具の一つ。そうと知らずに魔物たちは、持ち前の人間への友好性から僕たちに協力し続ける。
たとえ切り付けられようと。瀕死になろうと。
暗闇にぬらりと光る教団の剣が、まるで古い傷のように頭から離れない。
だが魔物たちは魔物たちで、人間と交わり、性交し、子を作るために友好的にしているのだという。人間へ愛想を振りまくことは求愛行動に等しい。そういうこと。
ミンテリアースのあの笑顔も、サハギンの少女が見せた謎の行動も。
皆、誰か人間への求愛。繁殖への欲望。
「……あのサキュバスがおかしいわけじゃなかったのか」
事の発端たる依頼者のサキュバス。あの文章は紛れもなく、魔物達のまっすぐな欲望だ。あのサキュバスは魔物として正しく、だからミンテリアースは評価していた。いくら理知的に、人間的に見えようと、奴も魔物だ。人間と魔物が、性的に近づくことを喜ばしいと思っているのだ。
だから魔物を道具として利用するのは、人間としての知恵。
魔物が狩られ、殺害されるのは、自業自得。
サハギンの少女の顔が、頭に浮かぶ。僕は確かに美しいと思った。あのか細い声をもっと聞きたいと思った。
腕に抱えた袋をほどこうと、指を動かす。
「……洗脳……」
指の動きが止まる。
今の状況を最も理論的に示せそうな言葉が浮かんでしまう。違う。そんなものではない。だがサハギンの少女は紛れもなく魔物だ。
学者としてすべきこと。魔物を冷静に観察し、その生態を記録すること。魔物を、魔物として見ること。あれは少女じゃない。ただの魔物だと見ること。
黒く邪悪な血を流し、魔物の子を産もうとする紛れもない魔物だと見ること。
学者の記録は多くの人が人間としていられる秩序を保ち、多くの人を貧困から救う。
僕は自分で嫌になるほど杓子定規で理詰めだと自己評価している。僕がすべきことは、契約した魔物の異常行動――人間の与えた業務を忘れ魔物の本能に負けそうになり、僕を犯そうとしたサハギンがいるという事実を記録し、通告すること。人間に利するために。学者見習いとして。学者修行の身として。
そうだ。そうに違いない。洗脳に負けるな。あの美しさも、人間の男を籠絡させるためのかりそめに過ぎない。
僕は震える手で、水路の鍵を開けた。川の流れは暗い。僕はうまく動かない指で、手元の包みを解いた。
村の漁師から届いた魚が数匹、そこにある。
サハギンの好むもの。
僕はそれを川へと落とした。魔物への餌付けなどあってはならない。当たり前だ。体力をつけた魔物ほど危険であり、人間にとっては不都合だ。
わかっている。わかっているのに、そうせずにはいられなかった。わざわざ包みを、まるで水の中でなびく旗のように垂らしたままで。
ばしゃん、と音を立て、無表情なサハギンの少女が現れる。
「……『契約』の対価?」
少女の顔はどことなく警戒の色がある。おそらく最低限しか払われていなかったであろう(使い捨てだったのかもしれないが)、餌を多く与えたこと。そして、僕が与えたこと。
もごもごと魚をいっぱいに頬張りながらそう言うサハギンの少女は、かわいらしかった。
「違うよ。話がしたくなったから」
僕は傍らの石版を握り、ガンガンと頭の中で鳴る警鐘を打ち消そうとする。夜の魔物。とても危険だと知っている。その危険の真の意味も。
足先だけを冷たい水につけると、少女はすっと僕に寄り添ってきた。ヒレの手で僕の腕に触れ、体を預けてくる。冷たい水に包まれた暖かい体。
「……君の名前は?」
僕はその体をそっと後ろから押さえ、あってはならないのに――抱きしめた。彼女の耳についたヒレが、清浄な川の匂いを放つ。
「……アレクシア。そう呼ばれる」
まるで人間のような名前。それは彼女たちにとって人間と性交する――いや、仲良くするための名前なのかもしれない。組織を築くシー・ビショップならともかく、同族意識の希薄な彼女たちにとって名前などあるものなのかと、僕はひどく冷静に考えていた。
考えるべきことはそうでないのに。
「君の狙いは、僕だ。僕と性交し、子を作ること。それが目的だろう?」
少女、アレクシアは迷いなく頷いた。
アレクシアはそれが悪いことだと思っていない。人間がそれこそを恐れていると知らない。だからこそ、危険なのだ。
「……すまないけど、僕はそれに応えられない。君のことは確かに 『好き』 だけど、それは、出来ないんだ。人間としても、僕自身の気持ちでも」
なんて折衷案だ。これでお帰り願おうと思ったわけじゃない。ただ、伝えたくて、伝えただけ。なんて非論理的だ。
僕がその言葉を洩らした理由もわからない。
ああ、どこまでも未熟だな、とまた自嘲する。いつものように。
未熟でいいだろ、と、父の顔と共に言葉が浮かぶ。
アレクシアが紺碧の目をぐっと見開く。僕の言葉に、反応した?
「……私は、こんなに愛しているのに?」
清浄な水に混じるような、天上のハープのような声。
ぐぐっと両手のヒレに力がこもり、腕を掴まれる。身を乗り出すように、膝下と尻尾の先だけを水につけて僕へと近づいてくる。
薄い微笑をたたえた美しい顔が、目の前にある。
「ロビン。私はあなたを愛している。私はいつもあなたを見ていた。契約に縛られ、会話すら出来なかったのに、運命の、ポセイドンと天の神の廻り合わせであなたと話が出来た。触れ合った手の暖かさを覚えている。この身が川の流れに消えるまで忘れられない暖かさを知った。人の肌の温もりは、どんな魚よりも体を満たし、ささいな傷など気にならない程に、私を貪った」
初めて聞く、アレクシアの長口上。
魔物の本音。回りくどい修辞を使った言い回し。
これが、サハギンの言葉……。
静寂の夜の中でその声は、昔見た月下を抱く吟遊詩人の歌のように滑らかに紡ぐ。
僕への、愛の言葉を。
荒れ狂う川の流れのような、人間には強すぎる感情。
僕のあらゆるものを揺さぶるような、濁流のような言葉。
アレクシアの体が僕と密着する。薄い布のようなサハギンの衣服と微かなふくらみ越しに、鼓動すら聞こえるほどに。
愛しい、と思った。
愛しいと思ってしまった。強く、強く。
「ああ……」
もう、戻れない。
諦観と共に、僕は笑った。
「ロビン。私と、一緒に――」
来て。
「……ああ。わかったよ」
お守りの石版を掴み、僕はアレクシアに体を預ける。一瞬で川底まで到達する。
僕の手からペンが離れ、微かに光の揺らめく水面へのぼっていく。
そして、アレクシアは。
僕の口を、唇で塞いだ。
体の中に、驚くほどの酸素が供給される。
数秒後唇を離し、淫靡に口のまわりをなめてから、アレクシアが淡い微笑で話す。
「ロビン。その手に持つもの。それは、シー・ビショップの予約権。レアものなのに。うらやましい」
これが?
「シー・ビショップはポセイドンの力を使い、人間と私たちが共に生きられるよう、婚礼を挙げるのが役目」
そうだったのか。それでシスターのような格好を……。
「さあ、呼んで。その権利を使って」
揺れる水の中で、僕に抱きついたままのアレクシアが笑う。翻弄するはずの流れはとても穏やかで、冷たいはずの川は懐かしい暖かさを感じる。
アレクシアの唇が、僕の頬に触れ、離れない。体すべてで僕に触れていたいと思っているかのように。
僕の中の何かを、食べているように感じた。
これを使えば、もう今度こそ、絶対に戻れない。
僕の最後の、学者見習いとしての部分が告げる。
だが、ためらいは一瞬だった。
手から離したペン、学者としての心構えと真っ向から刃を交える僕の心。
「ミリアっ!!」
僕は石版を掲げ、力の限り叫んだ。
シー・ビショップの彼女が、嬉々として近づいてきていた。
こうして始まる。僕とアレクシアの、新たな日が。
決して魔物娘を愛してはならないのが魔物学者なら、僕には最初から素質などなかったのかもしれない。
僕が遠いジパングという親魔物領に行きたがったように。
僕には昔から、魔物娘と共に暮らしたいと言う欲望が、胸に燻り続けていたのだから。
ちゃぷん、ちゃぷん、というテッセ川の緩やかな流れが、僕をどうしてかひどく安心させる。小さなランプを叩いて火の精霊を活性化させ、水路蓋の横に置いた。僕はそこにペンと一抱えの袋を持ち、座る。今は、ペンは僕にとってのお守りに過ぎないが。
傍らに、ミンテリアースからもらった小さな石版を置いて。それを握って離すと、微かな潮の香りがする。遠い海から持ってきた――希少な鉱石の類だろうか?
僕は考えた。魔物という存在。父の言葉。父の言葉は忘れ得ない。
父にとって、この村にとって、教団の一部にとって、魔物とは生活の道具の一つ。そうと知らずに魔物たちは、持ち前の人間への友好性から僕たちに協力し続ける。
たとえ切り付けられようと。瀕死になろうと。
暗闇にぬらりと光る教団の剣が、まるで古い傷のように頭から離れない。
だが魔物たちは魔物たちで、人間と交わり、性交し、子を作るために友好的にしているのだという。人間へ愛想を振りまくことは求愛行動に等しい。そういうこと。
ミンテリアースのあの笑顔も、サハギンの少女が見せた謎の行動も。
皆、誰か人間への求愛。繁殖への欲望。
「……あのサキュバスがおかしいわけじゃなかったのか」
事の発端たる依頼者のサキュバス。あの文章は紛れもなく、魔物達のまっすぐな欲望だ。あのサキュバスは魔物として正しく、だからミンテリアースは評価していた。いくら理知的に、人間的に見えようと、奴も魔物だ。人間と魔物が、性的に近づくことを喜ばしいと思っているのだ。
だから魔物を道具として利用するのは、人間としての知恵。
魔物が狩られ、殺害されるのは、自業自得。
サハギンの少女の顔が、頭に浮かぶ。僕は確かに美しいと思った。あのか細い声をもっと聞きたいと思った。
腕に抱えた袋をほどこうと、指を動かす。
「……洗脳……」
指の動きが止まる。
今の状況を最も理論的に示せそうな言葉が浮かんでしまう。違う。そんなものではない。だがサハギンの少女は紛れもなく魔物だ。
学者としてすべきこと。魔物を冷静に観察し、その生態を記録すること。魔物を、魔物として見ること。あれは少女じゃない。ただの魔物だと見ること。
黒く邪悪な血を流し、魔物の子を産もうとする紛れもない魔物だと見ること。
学者の記録は多くの人が人間としていられる秩序を保ち、多くの人を貧困から救う。
僕は自分で嫌になるほど杓子定規で理詰めだと自己評価している。僕がすべきことは、契約した魔物の異常行動――人間の与えた業務を忘れ魔物の本能に負けそうになり、僕を犯そうとしたサハギンがいるという事実を記録し、通告すること。人間に利するために。学者見習いとして。学者修行の身として。
そうだ。そうに違いない。洗脳に負けるな。あの美しさも、人間の男を籠絡させるためのかりそめに過ぎない。
僕は震える手で、水路の鍵を開けた。川の流れは暗い。僕はうまく動かない指で、手元の包みを解いた。
村の漁師から届いた魚が数匹、そこにある。
サハギンの好むもの。
僕はそれを川へと落とした。魔物への餌付けなどあってはならない。当たり前だ。体力をつけた魔物ほど危険であり、人間にとっては不都合だ。
わかっている。わかっているのに、そうせずにはいられなかった。わざわざ包みを、まるで水の中でなびく旗のように垂らしたままで。
ばしゃん、と音を立て、無表情なサハギンの少女が現れる。
「……『契約』の対価?」
少女の顔はどことなく警戒の色がある。おそらく最低限しか払われていなかったであろう(使い捨てだったのかもしれないが)、餌を多く与えたこと。そして、僕が与えたこと。
もごもごと魚をいっぱいに頬張りながらそう言うサハギンの少女は、かわいらしかった。
「違うよ。話がしたくなったから」
僕は傍らの石版を握り、ガンガンと頭の中で鳴る警鐘を打ち消そうとする。夜の魔物。とても危険だと知っている。その危険の真の意味も。
足先だけを冷たい水につけると、少女はすっと僕に寄り添ってきた。ヒレの手で僕の腕に触れ、体を預けてくる。冷たい水に包まれた暖かい体。
「……君の名前は?」
僕はその体をそっと後ろから押さえ、あってはならないのに――抱きしめた。彼女の耳についたヒレが、清浄な川の匂いを放つ。
「……アレクシア。そう呼ばれる」
まるで人間のような名前。それは彼女たちにとって人間と性交する――いや、仲良くするための名前なのかもしれない。組織を築くシー・ビショップならともかく、同族意識の希薄な彼女たちにとって名前などあるものなのかと、僕はひどく冷静に考えていた。
考えるべきことはそうでないのに。
「君の狙いは、僕だ。僕と性交し、子を作ること。それが目的だろう?」
少女、アレクシアは迷いなく頷いた。
アレクシアはそれが悪いことだと思っていない。人間がそれこそを恐れていると知らない。だからこそ、危険なのだ。
「……すまないけど、僕はそれに応えられない。君のことは確かに 『好き』 だけど、それは、出来ないんだ。人間としても、僕自身の気持ちでも」
なんて折衷案だ。これでお帰り願おうと思ったわけじゃない。ただ、伝えたくて、伝えただけ。なんて非論理的だ。
僕がその言葉を洩らした理由もわからない。
ああ、どこまでも未熟だな、とまた自嘲する。いつものように。
未熟でいいだろ、と、父の顔と共に言葉が浮かぶ。
アレクシアが紺碧の目をぐっと見開く。僕の言葉に、反応した?
「……私は、こんなに愛しているのに?」
清浄な水に混じるような、天上のハープのような声。
ぐぐっと両手のヒレに力がこもり、腕を掴まれる。身を乗り出すように、膝下と尻尾の先だけを水につけて僕へと近づいてくる。
薄い微笑をたたえた美しい顔が、目の前にある。
「ロビン。私はあなたを愛している。私はいつもあなたを見ていた。契約に縛られ、会話すら出来なかったのに、運命の、ポセイドンと天の神の廻り合わせであなたと話が出来た。触れ合った手の暖かさを覚えている。この身が川の流れに消えるまで忘れられない暖かさを知った。人の肌の温もりは、どんな魚よりも体を満たし、ささいな傷など気にならない程に、私を貪った」
初めて聞く、アレクシアの長口上。
魔物の本音。回りくどい修辞を使った言い回し。
これが、サハギンの言葉……。
静寂の夜の中でその声は、昔見た月下を抱く吟遊詩人の歌のように滑らかに紡ぐ。
僕への、愛の言葉を。
荒れ狂う川の流れのような、人間には強すぎる感情。
僕のあらゆるものを揺さぶるような、濁流のような言葉。
アレクシアの体が僕と密着する。薄い布のようなサハギンの衣服と微かなふくらみ越しに、鼓動すら聞こえるほどに。
愛しい、と思った。
愛しいと思ってしまった。強く、強く。
「ああ……」
もう、戻れない。
諦観と共に、僕は笑った。
「ロビン。私と、一緒に――」
来て。
「……ああ。わかったよ」
お守りの石版を掴み、僕はアレクシアに体を預ける。一瞬で川底まで到達する。
僕の手からペンが離れ、微かに光の揺らめく水面へのぼっていく。
そして、アレクシアは。
僕の口を、唇で塞いだ。
体の中に、驚くほどの酸素が供給される。
数秒後唇を離し、淫靡に口のまわりをなめてから、アレクシアが淡い微笑で話す。
「ロビン。その手に持つもの。それは、シー・ビショップの予約権。レアものなのに。うらやましい」
これが?
「シー・ビショップはポセイドンの力を使い、人間と私たちが共に生きられるよう、婚礼を挙げるのが役目」
そうだったのか。それでシスターのような格好を……。
「さあ、呼んで。その権利を使って」
揺れる水の中で、僕に抱きついたままのアレクシアが笑う。翻弄するはずの流れはとても穏やかで、冷たいはずの川は懐かしい暖かさを感じる。
アレクシアの唇が、僕の頬に触れ、離れない。体すべてで僕に触れていたいと思っているかのように。
僕の中の何かを、食べているように感じた。
これを使えば、もう今度こそ、絶対に戻れない。
僕の最後の、学者見習いとしての部分が告げる。
だが、ためらいは一瞬だった。
手から離したペン、学者としての心構えと真っ向から刃を交える僕の心。
「ミリアっ!!」
僕は石版を掲げ、力の限り叫んだ。
シー・ビショップの彼女が、嬉々として近づいてきていた。
こうして始まる。僕とアレクシアの、新たな日が。
決して魔物娘を愛してはならないのが魔物学者なら、僕には最初から素質などなかったのかもしれない。
僕が遠いジパングという親魔物領に行きたがったように。
僕には昔から、魔物娘と共に暮らしたいと言う欲望が、胸に燻り続けていたのだから。
12/04/07 00:43更新 / 地味
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