ラミアの夫
僕の妻はラミアだ。
『聖都』からずっと遠い、エトラの村で僕は暮らしている。
いわゆる『親魔物』の村で、教団に見つかったらただでは済まない。だがここは今まで、見つかったことがない。
父さんも母さんも、魔物にさらわれた。帰って来ることはなかったけれど、母さんに似たサキュバスが、父さんのような人と仲良く森の中を歩いていたと聞いた。
僕は魔物を憎んだ。十七歳をすぎた頃に軍に入って、森の調査命令を受けた。
そこで、ラミアの群れに捕まって……僕とラミアのセレスティは夫婦になった。
「ここかっ」
僕はキッチンの扉を勢いよく開ける。白を基調とした美しいキッチンには、誰もいない。
僕は振り返って階段をのぼる。向かって右、寝室を開ける。
誰もいない。
ならどこへと、振り返る。
「……私の勝ちっ♪」
目の前に愛しい妻の顔。紺碧の目。色の薄い髪。切れ長の瞳に、縦向きに割れた瞳孔。
ぎゅうっと抱きしめられていた。
さっき通った時そこには誰もいなかった。だが今は、愛しい妻がしゅるりと蛇の下半身の先をよじらせている。
ぴたんぴたんと蛇の尻尾が楽しそうに動いている。
「セレス……どこにいたんだい?」
「ふふっ。ずっと後ろにいたわよ。アレク」
アレクサンダー=シミュズ。それが僕の名。
セレスはしゅるりと嬉しそうに蛇身をくねらせる。尻尾の先が片足に絡みつく。ぴたんぴたんと尻尾は絶えず動いている。
セレスの機嫌はこの動きでわかる。感情が表に出やすい。
「ねぇ、もう一回隠れていいかしら?」
「……ああ。どうぞ」
僕はセレスの頭を一度撫でる。セレスはちろりと割れた舌を出して、僕の顎を撫でる。後ろ向いてて。ということだ。
僕が後ろを向くと、しゅるりしゅるりと蛇身をよじる音が徐々に小さくなり……何度か扉を開け閉めする音がして、「もういいわよ」と返ってくる。
「……さて。次はどこかな」
僕はセレスの残り香に顔をほころばせて、あの抱擁をまた味わうために妻を捜す。
セレスは、他のラミアに比べ足音がとても小さい。そのせいで僕も森の中で音もなく忍び寄られ、捕まったのだ。
そんなセレスは僕とのかくれんぼを好む。僕の勘がよほど鋭くない限りは、セレスに後ろから声をかけられてしまう。
かくれんぼといいながらセレスは何度も音もなく移動するものだから、見つけるのも難しい。
まあ、途中で寂しくなって出てくるセレスも、可愛いのだけど。
「このあたりか?」
僕は寝室の反対の自室に入る。壁に飾られた折れた大剣と階級章が目に入る。思わず苦い笑みが浮かぶ。
別にセレスへの嫌がらせのつもりで飾っているわけじゃない。
僕はわずかに部屋のマットレス――魔女から取り寄せた高級品だ――の毛が倒れていることに気付く。それは部屋の隅、クローゼットの中へ。
「見つけたぞ。セレス」
クローゼットを開けると、蛇身を抱いて妖艶に笑うセレスがいる。蛇身の下部、色の違う鱗が陽光を反射してきらりと光る。
「ふふっ。見つかっちゃった。じゃあ……ね?」
僕はセレスの片手を取って、引き寄せて抱きしめる。豊満な胸の感触にごくりと唾を飲む。何度抱いても、慣れはしないのだ。
そんな様をセレスはまた「可愛い」と言って笑う。
「もう。抱いてもらうほうが私は好きなのに、いつも私が勝っちゃう」
「だったら言ってくれよ。わざわざこんな回りくどいことしなくても……」
「だーめ」
ふふっとセレスは唇に指を当てて笑い、
「あなたが私を見つけるために一生懸命になってくれる……それが、私には嬉しいのよ」
僕は思わずセレスをきつく抱きしめ、「あんっ」とセレスが可愛らしい声を上げた。
今日の夜は、いつもより長くなりそうだ……。
この村には、見目麗しい魔物たちがたくさんいる。伴侶のいる者、いない者。
人間の男性もそれなりにいるし、女性も僅かながらいる。ほとんどは男性の母や妹であるが。
魔物の恐怖に怯えることなどない。魔物は人を傷つけず――ワーウルフやラージマウスのような、魔力を拡散させる魔物はこの村にいない。
聞けば、セレスとその仲間がそういった魔物はお引取り願っているようだ。
未婚の男性がいて、未婚の魔物がいる。おかしいことだと思うだろうか?
未婚の魔物はなかなかに、僕にとって危険だ。
「ねぇねぇ。アレク。ちょっとあたしと遊ばない?」
黒く長い髪のラミア。セレスの知り合いのシェンティ。ぴっしりと並んだ鱗が妖しい輝きを放ち、きゅうっと縮んだ瞳孔がきらきら光って見える。魅了の魔術だろうか。
「すまんな。セレスに怒られる」
「もー……。わかってるけどさー、ちょっとぐらいあたしもいいじゃないー! あんたはかなりの優良物件だったのにー!」
ばしんばしんと太い蛇身をうならせて、だだをこねているように見える。
シェンティは未婚だ。毎日道行く男に(既婚未婚問わず)声をかけている。特に未婚の男にとってシェンティは恐怖ですらあるらしい。
僕と同じ隊の出の奴がそう言っていた。なまじ魔女から習った魅了の術を使えるものだから、夜に会おうものならそのままベッドインしてしまう。
ちなみにそいつはつい最近アルラウネの子と結婚した。この村の近くの湖のほとりで暮らしている。
本来、ラミアは道行く男性を捕縛し強引に性交する魔物だ。
だが、村という形が出来、こうやって安定した暮らしになると――なかなかそうするのも気が引けるらしい。
この村は珍しく、人間世界の秩序があるのだ。他の親魔物の村には、完全に魔界と化した場所もある。
「ねぇねぇ。ちょっとだけでいいから舐めさせてよ。ね? あんたの耳、なかなかいい形してるしさ」
ちろちろと二又の舌を出して近寄ってくる。ずりっ、ずりっと重たい音が僕にとっては正直怖い。セレスの足音が小さいだけに。
むっちりとした胸をそれとなく突き出してくるのがまた、シェンティらしい。慣れていても体が熱くなり、腰がわずかに引かれる。そこから目を離すことが出来ない。
「ねね? 触ってみたいでしょ。あたしのおっぱいも」
「い、いや。僕は……」
「僕にとって触りたいのはセレスのおっぱいだけ。でしょ?」
音もなく。
首筋にすっと手が当てられる。酷く冷たい。
振り向く。紺碧のセレスの目がぴったりと僕の瞳を捉えている。
「ね。そうでしょ? アレク」
「あ、ああ。もちろんだ。セレス」
僕はぎゅっと薄い布越しにセレスの(シェンティと比べれば小さい)胸を掴む。「ひゃっ」と喘いだのも一瞬、すぐに余裕のある笑みを浮かべて、僕の頭を胸に抱きしめる。
「シェン。私の夫に手を出さないで」
「わかってるってば。ちょっと遊ぼうと思っただけなのにー……」
ばしんばしんと黒い蛇身を叩く。セレスは「変わってないわね」と呆れ気味に言って、また僕の頭を撫でる。愛しそうに。そして少しだけ――寂しそうに。
そう気付くと僕は、セレスにキスしていた。「むぐっ」とセレスが珍しく慌てた声を出す。
「くちゅっ……ありがと。アレク」
すぐに細長い舌を、僕の舌にぐるぐると絡める。僕はぐいぐいと舌を動かしてわざと抵抗する。そうするとセレスは目をさらに細めて、動きを抑えるように絡めようとする。
こうすることでラミアは本能的な喜びを得るのだ。
「ふああっ……やっぱり、きもちいい。アレクの、舌」
「僕も、だよ。セレス」
シェンティがとても面白くなさそうな顔をして、僕らの元を去っていくまで――いや、去ったしばらく後も。僕たちは路上でキスと洒落込んでいた。
セレスの朝は遅い。最近、特に。
「セレス。朝だよ」
僕はセレスの頬に手をあて、その柔らかい唇にキスをする。
とても冷たい。
僕は思わず毛布をめくり、薄いガウンに包まれた胸に手を当てる。「あんっ」と喘ぐ声も気にせず、僕はその鼓動を確かめる。
「……良かった」
どうにも、命に関することには過敏になっていけない。もう僕は軍人ではない、と己に言い聞かせ、僕はそっとセレスを抱く。しゅるりと蛇身がうねって、僕の足首に絡みつく。寝ぼけているのか、ぺちんぺちんと何度も叩いてきて、また可愛らしい。
「まだ寝かせてよ」とだだをこねているようで、僕の顔に自然と笑みが浮かぶ。
だが、あまり午睡を貪られても僕が寂しい。また少し揺する。長い睫毛の目が開く。
「んっ……ああ、アレク……。おは、よ」
「おはよう。セレス」
緩慢な動きながら、僕に身を寄せ、キスする。だが、セレスの細長い舌は僕の舌を絡み取ろうとしない。
僕は待ちぼうけを食らった犬のように舌をうねらせる。
「ふぁふぁ?」
セレスが眠たげな目のまま、何か言う。僕は名残惜しく唇を離し、訊ねる。
「セレス、具合でも悪い?」
セレスはしばらく舌を力なくちろちろとさせていたが……急に目をぱっちりと開けて、「べ、別に」と顔を逸らす。
こんなセレスは初めて見た。不安が首をもたげる。
「何か、病気でも?」
「違うわ。病気じゃない。アレク。そんなことより朝食にしましょう」
いつものような艶のある笑みを浮かべて、しゅるりと蛇身をくねらせ歩いていく。
僕はセレスの眠っていた場所を撫でる。
まるで氷枕を置いていたように、そこは冷たかった。
森を開いた村であろうと、晩秋になると木枯らしで随分と緑が消え、従軍していた頃のコートでも寒い。
シェンティの姿も、道端で見ない。というより、ラミアの姿をあまり見ない気がする。最近草原からこちらに来たケンタウロスやワーシープの人たちが、伴侶と噴水のあたりで話をしている。
「ちょっと、いいですかね」
「ああ。シミュズさん。こんにちは」
ワーシープの女性と共にいる、温和そうな男性に訊ねる。
「最近、ラミアの人たちを見かけないんですが……何か、あったんですか?」
彼は首を振った。
「確かに見かけないけど、ごめん。ぼくは知らないね。最近こっちに来たばかりで……。シャルミ、何か知ってる?」
ワーシープのシャルミさんはゆるやかに首を振る。ふわふわとした白い毛がまた、とても暖かそうだ。
ラミアの中には、人間の様式で作られた家に住まない人もいるという。森の中に住んでいるというわけだが……僕はそういう人の住処を知らない。
だから僕は唯一知る、セレス以外のラミアを訊ねる。
「はれ? アレク……様?」
なぜ様付けなのだろう。寝ぼけているのか?
「そうだよ。シェンティ」
ひどく眠そうにその瞳を濁らせていたが、僕が前にいるとわかると、急に目をぱっちりと開きいつもの男を引き付ける笑顔を浮かべる。
「まさか来てくれるなんてもうっ。じゃあ、とりあえず耳からね。入って入って」
僕は首を振る。
「いや。ごめん。シェンティ。それはできない。でも、教えてほしいことがある」
「えぇー。せっかく眠い中出てきたのにそれ? レディの扱い、もっと心得てくれない?」
眠い? まだ昼だぞ。いつもきみが男を探している時間だ。
「もう冬なんだから、眠いに決まってるでしょー」
「どうして、冬で眠い?」
シェンティは男に媚びる様子もない、荒っぽい声で言う。
「だーかーら。冬は寒いから眠くなるのよ! こんな時男がいれば燃え上がれるんだけど、アレクがそうやって寸止めするから……どうしてくれんのよ。ねえ」
シェンティはあからさまに苛立っていた。鋭い眼が完全に僕を狙っている。野生のラミアの眼になりかけている。
僕は自分のコートを脱いで、露出過多のシェンティに着せた。すっとシェンティから苛立ちが抜ける。「あったかい……」と呆けた声で言う。
「起こして悪かった。それで勘弁してくれないか」
「ふ、ふん。まあいいわ……。たっぷり使わせてもらうから」
シェンティはコートの襟元に牙で穴を開け、満足げに舌で舐めていた。
僕は薄いセーター一枚のまま、冬の森へと走る。
「セレス!」
僕が家に戻ったのは、日も暮れ夜になった頃だった。ごうごうと暖炉の火が焚かれ、その前に、体を丸めたセレスがいる。蛇身に上半身を沈め、寒そうにしていた。
「あ……アレク。どこ、いってたの?」
「ちょっとね」
僕は霜のついたセーターを脱ぎ、鞄から橙色の石を取り出す。揺らめく陽炎が内側に封じられた、硝子のような石だ。
それをセレスの手に置く。ぼうっと光を放ち、セレスの目がぱっと開く。
「あったかい……アレク、これは」
「『太陽の石』って言うらしい。サバトから買ってきた。冬の間ぐらいはずっと温かいらしいぞ」
僕の精液と引き換えに。随分足元を見られて絞られた。
「えっ……ど、どうしてそんなものを」
「セレス。僕に隠し事をしているだろ」
セレスが目を逸らす。僕はセレスの頬に手をあて、ゆっくりとこちらへ向かせる。
「ラミアは冬の間冬眠しなきゃいけない。それを隠していた。そうだろ」
「…………そうよ。別に、大したことじゃないわ。冬が過ぎれば、また目覚めるから」
まったくそうには見えなかった。セレスの目は、不安そうに揺れている。
僕はセレスをきつく抱きしめる。
「僕は寂しい。セレスがずっと眠ったままなんて」
「…………ふふっ。子どもね。アレクは」
「声が泣いてるよ。セレス」
セレスはそれを隠すように、必死で普通の声を繕おうとする。
「別に死ぬわけじゃないのよ。アレク。ただ、少し……あ、会えなくなるだけ」
「寂しいのは、セレスも一緒だろ」
「ち、違うわ。私はそんなこと……」
それはラミアとしてのプライドなのだろうか。僕には強がる理由がわからない。
僕は僅かに腕の力を緩め、セレスと長いキスをする。とても冷たく、勢いのないセレスの舌。
ラミアという存在として、冬は皆そうなるものだといわれても、僕にはまるで、今生の別れのように感じてしまう。
僕は太陽の石をいくつか、セレスの蛇身に押し付ける。じんわりとセレスの舌が、腕が暖かくなる。
そうか。周りの気温に影響されやすいんだ。
「セレス。僕のわがままだけど……冬の間も、僕と一緒に毎日生活して、かくれんぼしてほしい。ずっと一緒にいたいんだ。セレス」
セレスは、透明な涙を流して笑う。
いつもの強気で気丈な、ラミアらしい彼女ではなく。
「……そんなの。私もそうに、決まってるじゃない……」
ぎゅっと小さな力で抱きしめる、壊れそうに脆く、守ってあげたい彼女として。
太陽の石に囲まれたセレスの体は、いつものように暖かい。
あの魔女に、心の底から感謝だ。
外がいくら冷たく、雪の降り積もる世界であろうとも。
僕とセレスは、この暖かな我が家で、愛を育み続けるのだ。
『聖都』からずっと遠い、エトラの村で僕は暮らしている。
いわゆる『親魔物』の村で、教団に見つかったらただでは済まない。だがここは今まで、見つかったことがない。
父さんも母さんも、魔物にさらわれた。帰って来ることはなかったけれど、母さんに似たサキュバスが、父さんのような人と仲良く森の中を歩いていたと聞いた。
僕は魔物を憎んだ。十七歳をすぎた頃に軍に入って、森の調査命令を受けた。
そこで、ラミアの群れに捕まって……僕とラミアのセレスティは夫婦になった。
「ここかっ」
僕はキッチンの扉を勢いよく開ける。白を基調とした美しいキッチンには、誰もいない。
僕は振り返って階段をのぼる。向かって右、寝室を開ける。
誰もいない。
ならどこへと、振り返る。
「……私の勝ちっ♪」
目の前に愛しい妻の顔。紺碧の目。色の薄い髪。切れ長の瞳に、縦向きに割れた瞳孔。
ぎゅうっと抱きしめられていた。
さっき通った時そこには誰もいなかった。だが今は、愛しい妻がしゅるりと蛇の下半身の先をよじらせている。
ぴたんぴたんと蛇の尻尾が楽しそうに動いている。
「セレス……どこにいたんだい?」
「ふふっ。ずっと後ろにいたわよ。アレク」
アレクサンダー=シミュズ。それが僕の名。
セレスはしゅるりと嬉しそうに蛇身をくねらせる。尻尾の先が片足に絡みつく。ぴたんぴたんと尻尾は絶えず動いている。
セレスの機嫌はこの動きでわかる。感情が表に出やすい。
「ねぇ、もう一回隠れていいかしら?」
「……ああ。どうぞ」
僕はセレスの頭を一度撫でる。セレスはちろりと割れた舌を出して、僕の顎を撫でる。後ろ向いてて。ということだ。
僕が後ろを向くと、しゅるりしゅるりと蛇身をよじる音が徐々に小さくなり……何度か扉を開け閉めする音がして、「もういいわよ」と返ってくる。
「……さて。次はどこかな」
僕はセレスの残り香に顔をほころばせて、あの抱擁をまた味わうために妻を捜す。
セレスは、他のラミアに比べ足音がとても小さい。そのせいで僕も森の中で音もなく忍び寄られ、捕まったのだ。
そんなセレスは僕とのかくれんぼを好む。僕の勘がよほど鋭くない限りは、セレスに後ろから声をかけられてしまう。
かくれんぼといいながらセレスは何度も音もなく移動するものだから、見つけるのも難しい。
まあ、途中で寂しくなって出てくるセレスも、可愛いのだけど。
「このあたりか?」
僕は寝室の反対の自室に入る。壁に飾られた折れた大剣と階級章が目に入る。思わず苦い笑みが浮かぶ。
別にセレスへの嫌がらせのつもりで飾っているわけじゃない。
僕はわずかに部屋のマットレス――魔女から取り寄せた高級品だ――の毛が倒れていることに気付く。それは部屋の隅、クローゼットの中へ。
「見つけたぞ。セレス」
クローゼットを開けると、蛇身を抱いて妖艶に笑うセレスがいる。蛇身の下部、色の違う鱗が陽光を反射してきらりと光る。
「ふふっ。見つかっちゃった。じゃあ……ね?」
僕はセレスの片手を取って、引き寄せて抱きしめる。豊満な胸の感触にごくりと唾を飲む。何度抱いても、慣れはしないのだ。
そんな様をセレスはまた「可愛い」と言って笑う。
「もう。抱いてもらうほうが私は好きなのに、いつも私が勝っちゃう」
「だったら言ってくれよ。わざわざこんな回りくどいことしなくても……」
「だーめ」
ふふっとセレスは唇に指を当てて笑い、
「あなたが私を見つけるために一生懸命になってくれる……それが、私には嬉しいのよ」
僕は思わずセレスをきつく抱きしめ、「あんっ」とセレスが可愛らしい声を上げた。
今日の夜は、いつもより長くなりそうだ……。
この村には、見目麗しい魔物たちがたくさんいる。伴侶のいる者、いない者。
人間の男性もそれなりにいるし、女性も僅かながらいる。ほとんどは男性の母や妹であるが。
魔物の恐怖に怯えることなどない。魔物は人を傷つけず――ワーウルフやラージマウスのような、魔力を拡散させる魔物はこの村にいない。
聞けば、セレスとその仲間がそういった魔物はお引取り願っているようだ。
未婚の男性がいて、未婚の魔物がいる。おかしいことだと思うだろうか?
未婚の魔物はなかなかに、僕にとって危険だ。
「ねぇねぇ。アレク。ちょっとあたしと遊ばない?」
黒く長い髪のラミア。セレスの知り合いのシェンティ。ぴっしりと並んだ鱗が妖しい輝きを放ち、きゅうっと縮んだ瞳孔がきらきら光って見える。魅了の魔術だろうか。
「すまんな。セレスに怒られる」
「もー……。わかってるけどさー、ちょっとぐらいあたしもいいじゃないー! あんたはかなりの優良物件だったのにー!」
ばしんばしんと太い蛇身をうならせて、だだをこねているように見える。
シェンティは未婚だ。毎日道行く男に(既婚未婚問わず)声をかけている。特に未婚の男にとってシェンティは恐怖ですらあるらしい。
僕と同じ隊の出の奴がそう言っていた。なまじ魔女から習った魅了の術を使えるものだから、夜に会おうものならそのままベッドインしてしまう。
ちなみにそいつはつい最近アルラウネの子と結婚した。この村の近くの湖のほとりで暮らしている。
本来、ラミアは道行く男性を捕縛し強引に性交する魔物だ。
だが、村という形が出来、こうやって安定した暮らしになると――なかなかそうするのも気が引けるらしい。
この村は珍しく、人間世界の秩序があるのだ。他の親魔物の村には、完全に魔界と化した場所もある。
「ねぇねぇ。ちょっとだけでいいから舐めさせてよ。ね? あんたの耳、なかなかいい形してるしさ」
ちろちろと二又の舌を出して近寄ってくる。ずりっ、ずりっと重たい音が僕にとっては正直怖い。セレスの足音が小さいだけに。
むっちりとした胸をそれとなく突き出してくるのがまた、シェンティらしい。慣れていても体が熱くなり、腰がわずかに引かれる。そこから目を離すことが出来ない。
「ねね? 触ってみたいでしょ。あたしのおっぱいも」
「い、いや。僕は……」
「僕にとって触りたいのはセレスのおっぱいだけ。でしょ?」
音もなく。
首筋にすっと手が当てられる。酷く冷たい。
振り向く。紺碧のセレスの目がぴったりと僕の瞳を捉えている。
「ね。そうでしょ? アレク」
「あ、ああ。もちろんだ。セレス」
僕はぎゅっと薄い布越しにセレスの(シェンティと比べれば小さい)胸を掴む。「ひゃっ」と喘いだのも一瞬、すぐに余裕のある笑みを浮かべて、僕の頭を胸に抱きしめる。
「シェン。私の夫に手を出さないで」
「わかってるってば。ちょっと遊ぼうと思っただけなのにー……」
ばしんばしんと黒い蛇身を叩く。セレスは「変わってないわね」と呆れ気味に言って、また僕の頭を撫でる。愛しそうに。そして少しだけ――寂しそうに。
そう気付くと僕は、セレスにキスしていた。「むぐっ」とセレスが珍しく慌てた声を出す。
「くちゅっ……ありがと。アレク」
すぐに細長い舌を、僕の舌にぐるぐると絡める。僕はぐいぐいと舌を動かしてわざと抵抗する。そうするとセレスは目をさらに細めて、動きを抑えるように絡めようとする。
こうすることでラミアは本能的な喜びを得るのだ。
「ふああっ……やっぱり、きもちいい。アレクの、舌」
「僕も、だよ。セレス」
シェンティがとても面白くなさそうな顔をして、僕らの元を去っていくまで――いや、去ったしばらく後も。僕たちは路上でキスと洒落込んでいた。
セレスの朝は遅い。最近、特に。
「セレス。朝だよ」
僕はセレスの頬に手をあて、その柔らかい唇にキスをする。
とても冷たい。
僕は思わず毛布をめくり、薄いガウンに包まれた胸に手を当てる。「あんっ」と喘ぐ声も気にせず、僕はその鼓動を確かめる。
「……良かった」
どうにも、命に関することには過敏になっていけない。もう僕は軍人ではない、と己に言い聞かせ、僕はそっとセレスを抱く。しゅるりと蛇身がうねって、僕の足首に絡みつく。寝ぼけているのか、ぺちんぺちんと何度も叩いてきて、また可愛らしい。
「まだ寝かせてよ」とだだをこねているようで、僕の顔に自然と笑みが浮かぶ。
だが、あまり午睡を貪られても僕が寂しい。また少し揺する。長い睫毛の目が開く。
「んっ……ああ、アレク……。おは、よ」
「おはよう。セレス」
緩慢な動きながら、僕に身を寄せ、キスする。だが、セレスの細長い舌は僕の舌を絡み取ろうとしない。
僕は待ちぼうけを食らった犬のように舌をうねらせる。
「ふぁふぁ?」
セレスが眠たげな目のまま、何か言う。僕は名残惜しく唇を離し、訊ねる。
「セレス、具合でも悪い?」
セレスはしばらく舌を力なくちろちろとさせていたが……急に目をぱっちりと開けて、「べ、別に」と顔を逸らす。
こんなセレスは初めて見た。不安が首をもたげる。
「何か、病気でも?」
「違うわ。病気じゃない。アレク。そんなことより朝食にしましょう」
いつものような艶のある笑みを浮かべて、しゅるりと蛇身をくねらせ歩いていく。
僕はセレスの眠っていた場所を撫でる。
まるで氷枕を置いていたように、そこは冷たかった。
森を開いた村であろうと、晩秋になると木枯らしで随分と緑が消え、従軍していた頃のコートでも寒い。
シェンティの姿も、道端で見ない。というより、ラミアの姿をあまり見ない気がする。最近草原からこちらに来たケンタウロスやワーシープの人たちが、伴侶と噴水のあたりで話をしている。
「ちょっと、いいですかね」
「ああ。シミュズさん。こんにちは」
ワーシープの女性と共にいる、温和そうな男性に訊ねる。
「最近、ラミアの人たちを見かけないんですが……何か、あったんですか?」
彼は首を振った。
「確かに見かけないけど、ごめん。ぼくは知らないね。最近こっちに来たばかりで……。シャルミ、何か知ってる?」
ワーシープのシャルミさんはゆるやかに首を振る。ふわふわとした白い毛がまた、とても暖かそうだ。
ラミアの中には、人間の様式で作られた家に住まない人もいるという。森の中に住んでいるというわけだが……僕はそういう人の住処を知らない。
だから僕は唯一知る、セレス以外のラミアを訊ねる。
「はれ? アレク……様?」
なぜ様付けなのだろう。寝ぼけているのか?
「そうだよ。シェンティ」
ひどく眠そうにその瞳を濁らせていたが、僕が前にいるとわかると、急に目をぱっちりと開きいつもの男を引き付ける笑顔を浮かべる。
「まさか来てくれるなんてもうっ。じゃあ、とりあえず耳からね。入って入って」
僕は首を振る。
「いや。ごめん。シェンティ。それはできない。でも、教えてほしいことがある」
「えぇー。せっかく眠い中出てきたのにそれ? レディの扱い、もっと心得てくれない?」
眠い? まだ昼だぞ。いつもきみが男を探している時間だ。
「もう冬なんだから、眠いに決まってるでしょー」
「どうして、冬で眠い?」
シェンティは男に媚びる様子もない、荒っぽい声で言う。
「だーかーら。冬は寒いから眠くなるのよ! こんな時男がいれば燃え上がれるんだけど、アレクがそうやって寸止めするから……どうしてくれんのよ。ねえ」
シェンティはあからさまに苛立っていた。鋭い眼が完全に僕を狙っている。野生のラミアの眼になりかけている。
僕は自分のコートを脱いで、露出過多のシェンティに着せた。すっとシェンティから苛立ちが抜ける。「あったかい……」と呆けた声で言う。
「起こして悪かった。それで勘弁してくれないか」
「ふ、ふん。まあいいわ……。たっぷり使わせてもらうから」
シェンティはコートの襟元に牙で穴を開け、満足げに舌で舐めていた。
僕は薄いセーター一枚のまま、冬の森へと走る。
「セレス!」
僕が家に戻ったのは、日も暮れ夜になった頃だった。ごうごうと暖炉の火が焚かれ、その前に、体を丸めたセレスがいる。蛇身に上半身を沈め、寒そうにしていた。
「あ……アレク。どこ、いってたの?」
「ちょっとね」
僕は霜のついたセーターを脱ぎ、鞄から橙色の石を取り出す。揺らめく陽炎が内側に封じられた、硝子のような石だ。
それをセレスの手に置く。ぼうっと光を放ち、セレスの目がぱっと開く。
「あったかい……アレク、これは」
「『太陽の石』って言うらしい。サバトから買ってきた。冬の間ぐらいはずっと温かいらしいぞ」
僕の精液と引き換えに。随分足元を見られて絞られた。
「えっ……ど、どうしてそんなものを」
「セレス。僕に隠し事をしているだろ」
セレスが目を逸らす。僕はセレスの頬に手をあて、ゆっくりとこちらへ向かせる。
「ラミアは冬の間冬眠しなきゃいけない。それを隠していた。そうだろ」
「…………そうよ。別に、大したことじゃないわ。冬が過ぎれば、また目覚めるから」
まったくそうには見えなかった。セレスの目は、不安そうに揺れている。
僕はセレスをきつく抱きしめる。
「僕は寂しい。セレスがずっと眠ったままなんて」
「…………ふふっ。子どもね。アレクは」
「声が泣いてるよ。セレス」
セレスはそれを隠すように、必死で普通の声を繕おうとする。
「別に死ぬわけじゃないのよ。アレク。ただ、少し……あ、会えなくなるだけ」
「寂しいのは、セレスも一緒だろ」
「ち、違うわ。私はそんなこと……」
それはラミアとしてのプライドなのだろうか。僕には強がる理由がわからない。
僕は僅かに腕の力を緩め、セレスと長いキスをする。とても冷たく、勢いのないセレスの舌。
ラミアという存在として、冬は皆そうなるものだといわれても、僕にはまるで、今生の別れのように感じてしまう。
僕は太陽の石をいくつか、セレスの蛇身に押し付ける。じんわりとセレスの舌が、腕が暖かくなる。
そうか。周りの気温に影響されやすいんだ。
「セレス。僕のわがままだけど……冬の間も、僕と一緒に毎日生活して、かくれんぼしてほしい。ずっと一緒にいたいんだ。セレス」
セレスは、透明な涙を流して笑う。
いつもの強気で気丈な、ラミアらしい彼女ではなく。
「……そんなの。私もそうに、決まってるじゃない……」
ぎゅっと小さな力で抱きしめる、壊れそうに脆く、守ってあげたい彼女として。
太陽の石に囲まれたセレスの体は、いつものように暖かい。
あの魔女に、心の底から感謝だ。
外がいくら冷たく、雪の降り積もる世界であろうとも。
僕とセレスは、この暖かな我が家で、愛を育み続けるのだ。
12/10/28 02:06更新 / 地味