ドラゴンの世界
朝目が覚めると、わたしは魔物になっていた!
「わぁ……」
うそじゃない。ほんと。ほんとにわたしの体は、緑色の鱗に覆われている。
湖のほとりにわたしは眠っていたらしい。そんなことどうでもよくて、わたしは湖に近づいて、自分の姿を早速確かめる。
「すごい……すごい! かっこいいっ!」
長くなった茶色い髪から大きな角が生えていて、顔もなんだか随分大人っぽくなってる。鼻のそばかすはそのままだけど……。それにそれに、背もうんと伸びていて脚もすらっと長い。
なにより、背中に大きな翼がある。立派な大きな翼。飛べる、とわたしにはわかる。
「これがわたし? 魔物になったわたし……こんなのなんだ」
まるで町の衛兵さんが持ってる武器みたいな両手をぐーぱーしてみると、とっても楽しくなる。
「ふふ……うふふ……っ」
笑いが止まらない。すごく楽しい。
わたしはエミリー=ノイマン。パサの町の町長を代々つとめる一家の次女。この次女と言う立場、わたしにはとても好都合だった。
結婚の心配もしなくていい。面倒な仕事はお姉様任せ。
わたしは本を読むのが好き。本を読んで、いろいろ考えるのが好き。想像するのが大好き。毎日寝るときに見る夢も好き。お父様は勉強しなさいって言うけど、そんなことより想像のほうが絶対楽しい。
毎日村からの離脱者がどうのとか、お父様もお母様もお姉様もむずかしい顔で言ってるけど、そんなことよりもっと楽しいことをすればいいのに。
人間は自由な生き物だって、本の中に出てくる白い髪の悪魔さんも言ってた。
わたしは魔物が好き。どうしてかわかんないけど、魔物が好き。人間を丸呑みするほどおっきくて、勇者もやっつけるぐらい強そうでかっこいい。わたしとお部屋の人形さんたち以外誰にも言ってないけど、わたしはずっとずっと魔物が好きだった。
ゴブリンでもいいから会ってみたいなぁと思ってた。町の外に出ようとするとすぐに衛兵さんがやってきて連れ戻されるから、会いに行くことはできなかったの。
でも。でも今は!
わたしが魔物になってる。ちょっと中途半端だけど、魔物に間違いない。
「……顔とか、変わらないのかな?」
まるで半分人間のままみたい。本の中の魔物と違って、なんだか人間とそっくり。どういうことなんだろう?
まあ半分でもいいや。魔物に会うどころかわたしが魔物になれたし!
「どんな力があるのかな? ……そうだ!」
わたしはとりあえず、空を飛んでみたいなと思った。だから背中の翼を大きく広げて、森から飛び上がった。
空を飛ぶことなんて、お屋敷の庭をお父様に見つからずに散歩することぐらい簡単だった。
強い風がとても心地よくて、下を流れる森がとても小さく見える。遠くまで見渡せるし、小鳥がわたしの姿を見ると大慌てで逃げていく。
空はすべてわたしのもの。そうに違いない。
「あっ……そうだ。ドラゴン! ドラゴンなんだわたし!」
いろんな本に出てくるすごく強い魔物。なんだか違うところもあるけど、わたしはドラゴンなんだ。しっぽだってあるし、こんなに空を飛べるのはドラゴンしかいない。
そう気付くと、どんどんやりたいことが増えてくる。ドラゴンと言えば地面を割って山を砕く魔物。とっても、とーっても強い。
「試してみようかな」
わたしは早速近くの草原に降りて、「えいやっ!」と両手の爪を地面に振り下ろした。ものすごい音がして、深く地面がへこむ。地面の底で眠っていた土の精霊が慌てて逃げていく。
「わぁ……!」
夢みたい。夢じゃないよね?
わたしは近くの大きな岩に近寄って、それを軽々持ち上げた。力をこめて投げ飛ばすと、ずっと向こうの木に当たって鳥たちが逃げていく。
「あははははっ! すごいっ。すごい力! さっすがドラゴン!」
もう夢見てるだけじゃないんだ。
わたしはほんとにほんとに、ドラゴンになったんだ!
その後もずっと草原や森の中で大暴れして、夜になってようやく落ち着いた。王者の風格とかも、大事だよね。
草原のはずれにある大樹の上にわたしは降り立って、翼をたたんだ。
「私はエミリー。空を統べるドラゴンだ。……なんちゃってね」
でもこういう話し方かっこいいかも。ドラゴンって感じがする。よし、がんばろう。
空の星が綺麗だけど、たぶん空を舞うわたしのほうが綺麗。それに星ぐらいがんばれば掴めそう。そんな気がする。
なんでもできる。それがドラゴン。
「後は周りに男でもいればなぁ」
それもわたしの強さに見合うほどの男。歴戦の勇者とかね。
「……あれ?」
どうしてわたし、男の子がいたらいいとか思ったんだろう?
よくわからないまま、わたしはなんとなく、自分のしっぽを掴む。しっぽの表は硬い鱗で覆われているけど、裏側の一部だけ、鱗が少し浮いて生えている部分がある。
そこにわたしは、爪をそっと這わせる。
「んっ」
強靭なはずのわたしの体がびくんと跳ねる。なぜか今、ここに男の子がいないとわかると――何かで紛らわしたくなった。だからわたしはまた、そのしっぽの鱗の隙間、鱗に隠された敏感な部分を撫でる。
「はぁっ……なんか、楽しいかも……」
大樹の太い枝に寝て、しっぽと――なんだか随分おっきくなった気がする胸を触る。びりっとくるような、快感。
胸を手で揉むと痺れと一緒にふにゃふにゃ形を変えるのが面白くて、わたしは勢いに任せて手を更に動かした。ぎしぎしと枝が軋むけど折れない。ドリアードあたりが支えてるのかなと思う。
「あっ…………はぁ」
鱗の内側を何か暖かい液が伝って、両手の動きが止まる。
なんだろう? でも、気持ちよかったな……。
わたしがふうっと長く吐いた息がなんだか大人っぽくて、もう一回しようかな、と思った。
日が昇ればまたわたしは翼を広げ、草原の上を飛ぶ。眼下にはのんびりと草を食む羊や牛が見える。
「そうだ。そろそろ朝ごはんの時間……♪」
両手の爪を開いて、急降下して羊を捕まえる。悲鳴を上げさせることも、周りの他の羊に気付かれることもない、突風のようにしか見えない一瞬の狩り。
ドラゴンになったわたしの歯は、王者にふさわしい牙になっている。羊の体に噛み付くと、あっさりと肉をはがした。
「あ……生だけどいいのかな」
お母様が生の肉は魔物がいるからいけませんって言ってたけど……まあいいか。わたしは王者なんだから。他の魔物に負けることなんてない。
血を滴らせて羊の生肉を食べ、また食べ足りないから牛を何体か狩って食べた。うん。満足。
草原をさらに飛ぶと、今度は鳥のように見える何かが近づいてくる。
「ふふっ……止まれ! ドラゴンの前であるぞ!」
王者として叫んで見ると、「ひいっ!」と悲鳴を上げて鳥のような何か――わたしのような、半分だけ鳥の魔物(?)がわたしの前に止まった。
「す、すいません。このへんはドラゴンさんの縄張りとはしらなんで……。わ、私らの郵便路にしたんすよ」
「ゆうびん? あなた、郵便の人なの?」
よく見ればその鳥の魔物の人は、何かマークの書いた鞄を下げている。
「あ、はい。今は向こうの魔女さんたちのキャンプからあっちのレスカティエまでの積荷の運搬の最中でして。私が先発で後から何人か来るんすけど、と、通ってもいいっすかね?」
レスカティエ……どこかで聞いたことあるなぁ。
「え? いいよー。じゃなくて……。お勤めご苦労である。王者が許可しよう。通るが良い」
かっこよく両手を広げて言うと、鳥の人は頭を下げてゆっくりと飛び去っていった。
その後も同じような鳥の魔物の人が通るたび、驚いたり頭を下げたりとみんなへりくだっている。それは当然。わたしは王者なのだから。
「ふふん。他の魔物のところも回ってみようかな」
わたしは草原を流れる川に近づいた。確か川には魔物がいるってお父様は言ってた気がする。それなら――
「えいっ!」
翼をはためかせ大風を起こした。水が空高くまで舞い上がって、驚いた小さな魔物が顔を出す。黒い髪の、大きな銛をもった魔物。
「…………何の用?」
「ふふ。王者の前でなんだその無表情は」
びっくりするほどその魔物の子には表情がない。
「……それが、私たち」
ぱしゃん、ぱしゃんと水音を立てて、ゆっくりと近寄ってくる。銛を川に突き立てて、ヒレのようになった手をわたしの手に伸ばし、触れた。
独特の動きで、ぺちゃりぺちゃりとわたしの鱗を撫でる。
「な、なに?」
「……すこしまえまで、人間?」
「な! な、なななにを言う。わた、私は王者だぞ。人間ではない!」
ドラゴンになって初めて汗をかいた。
「……隠し事は、良くない」
茶色の目がまっすぐわたしを見つめる。別に責めているわけじゃなくて、ただ思うことを言っただけみたい……。
「いい? 絶対誰にも言わないでよ……。ほんとは、元人間なの。でも今はドラゴン。これからどんどんわたしはドラゴンになるんだから!」
ぐっと大きな胸を張って言うと、その魔物の子はまたわたしの手をぺたぺた触って、
「……感覚、もらえる?」
感覚? と訊きかえすと、水の中から丸い小さな石を取ってわたしの前に――そのままわたしの口につけた。
「むぐっ!」
赤黒い光が一瞬散って、ちゅぱん、と音がして石が離れる。その子が両手で持つ石には、赤黒い模様とぼんやりした光が宿っている。
「そ、それは? 今わたしに何を?」
「……感応石。あなたの、感覚をここに」
魔物の女の子はじっとその石を見つめる。なんだか不思議だけど、暖かい雰囲気の子だなぁと思った。
わたしとは頭三つ分ぐらい背の高さが違うけど、同じ魔物として何か親近感が湧いた。
つっと女の子は顎を上げて、ゆっくりとわたしのすぐ前――わたしの胸に顔を埋めるように近づいた。わたしはそっと、彼女を抱きしめる。
わたしの翼の根元に、ヒレの手がそっと触れる。ぬめりとした感触がどことなく心地良い。
大きな影と小さな影が、水に揺らめいている。
それが別れの挨拶だと知ったのは、それからしばらくしてからのことだった。
わたしはあの子が川にいるとわかると、あんまり不用意に地面を荒らすことはやめた。王者は暴れるから王者ってわけじゃないんだ。常に泰然と、余裕をもってこそ王者。
「ふふん……」
随分わたしのドラゴンらしさも様になってきた。ドラゴンなんて見たことはもちろん、本の中でも少しだけしか読んだことがなかったけど――なぜか、これがドラゴンなんだとわかる。
日が暮れて、わたしはあの大樹ではなく、近くに見つけた山の洞窟に巣を作ることにした。食料を持ち込んで、適当に掘って広げれば完成。だだっ広いけど、どうしてか落ち着く。
でも。
「うーん……なんか寂しいな」
わたしのお屋敷の部屋にはたくさんの本とお人形があったけど、今欲しいのはそんなものじゃなくて……うーん、なんだろう。なんかこう、ぴかぴか光るもの。
「宝石! そうだ、宝石があれば!」
どうしてかわからないけど、宝石のことを思い浮かべるとわくわくする。赤や青や緑に光る魅惑の宝石……ああ、考えただけでヨダレが出てきた。
宝石があるところ。人間の町。そうだ。パサの町なら、お父様のお屋敷とか……
「……いや、やめとこ」
人間を傷つけるのはよくない。わたしは魔物なんだから。人間とは仲良くしないといけないんだ。
それならどこにあるだろう? 宝石が採れるのは鉱山。鉱山の守り人――ドワーフ。ドワーフに頼めばいい。報酬として遠くの土地の肉でもくれてやればいいだろう。
「……どうして知ってるんだろう?」
ドワーフって言葉を聞いたの、今が初めてな気がするんだけど……まあいい。王者は賢い。最高位の魔物として、すべての配下の名前を知ることは当然の義務だ。
明日もドワーフや色んな魔物に会いに行こう……。
そう思いながら、わたしは今日も胸としっぽをいじって夜を明かす。
「男が欲しいな……」
空ろな意識の中で呟きながら。
王者は暴君ではない。対等な対価として、遠くの海から海獣の肉を取り、山の向こうのドワーフの集落へ降り立つ。彼女たちはとても小さく、わたしの腰ほどの高さしかない。
「あれー? ドラゴン? あんたは誰の子?」
「なに? 私を知っているのか」
こんな山の向こうまでわたしの勇名が届いていたなんて……と思ったけど、ドワーフの代表らしいその人は首を振る。
聞けば、ドワーフとドラゴンは元々、協力関係にあるらしい。ドラゴンにとって大切な宝石を採れるドワーフ。ドワーフたちは鉱山や山の中に篭るので、食料や嗜好品が不足する。そこでドラゴンは対価としてそれらを与える――そんな協力関係だ。
ドワーフたちもドラゴンの家族別に宝石を取り置いているらしい。つまりわたしの分はないと思ったけれど……。
「ま、いいよ。ちゃんと食べ物持ってきたし、分けたげる。エミリーね。覚えたわ」
学士っぽい服を着たドワーフがわたしの名前と特徴を記録する。わたしの特徴は茶色い髪。普通のドラゴンは紫に近い色らしい……人間上がりだってバレないかな?
ドワーフたちはちっこいのに、大きなわたしの王者の風格に怯えすらしない。小さなテントと坑道をちょこまか行き来しながら、時々トロッコで荒削りの原石を掘り出してきたりする。
「なあドワーフよ。おまえも空を飛んでみたくはないか。王者の協力者として乗せてやってもいいぞ」
近くのドワーフに訊いてみた。でも小さな橙色の髪はふるふると横に振られる。
「別に飛んでみたいとは思わないわ。あたしらにとってこの地面こそが快適なの」
「新たな世界を知りたいとは思わないのか? 私にはそれが出来る。私に出来ないことなど何も無いのだ」
「知ってるわー。でも、あたしらは別に空や新しい土地に興味は無いの。なんか、ふもとの集落は最近、なんだっけ、なんとかって国にも行くようになったらしいんだけど、あたしらはずっとここにいるつもりかな」
なんだ。つまんないの。絶対外に出るほうが楽しいのに。たくさん男だっているし。
「男? あー、そういえばなんか、ふもとの集落では最近、人間の男が出入りしてるみたいね。あたしらの中でも――ほら、向こうの子なんかは男欲しいとかぼやいてるしさ。最近流行りなのかしら」
見れば、仕事をせずにふらふらと村の入り口をうろついているドワーフがいる。ドワーフの天性の明るさがなく、おろおろと困惑している。
私にはわかる。あのドワーフはサキュバスの魔力を受けている。まだ軽度だが――それでも、抗うことは出来ないだろう。魔王に連なる者達の魔力に抗える魔物はいない。
「……おまえにも、すぐにわかるだろう」
わたしは確定的な予測と共に呟いたが、ドワーフは「そう?」と軽く言って、作業に戻っていった。
夕刻前に、わたしの持ってきた肉とまあ相応であろう量の宝石が運ばれてくる。「次からは一月おきで」と言われた。
わたしは王者として礼を言い、ドワーフの集落を飛び去る。
「…………」
ふと気になって、彼女らの言った山のふもとの集落に目を落とす。
小さなドワーフたちが太陽の下で、人間の男性と交わり嬌声を上げていた。
うらやましいな、と思った。
あのドワーフたちの様子を見て、それから色々な土地を、色々な魔物を巡ったせいで――私は夕刻前には巣に戻り、夜明け前まで自慰(と言うらしい。魔女が教えてくれた)に耽ることになった。他の魔物の羨む私の大きな胸も、少し感度が悪く不便に思うことがある。
私は、男が欲しい。男を巣に連れて帰り交わりたい。
何度も男を見かけたことはある。旅人。吟遊詩人。見るたびに私の下半身が疼く。
でも決して近づきはしない。
「……私は王者だ。誰が人間など……」
それもまた本心だ。王者として、同族以外にへつらうことなど許されない。弱い者は支配すべきものであって番うものではない。ましてや己の処女を捧げるなどもってのほかだ。
いや、でも……。
「せめて、せめて戦士、いや勇者ほどでないとだめだ。私の強さに釣り合う程の勇者……勇者を探さねば」
王者であろうと、暴れ狂う感情には抗えない。
私は自慰をやめ、夜の帳の下りた巣の外へ出る。大きく翼を広げて、夜の空を飛ぶ。
夜に活動する魔物は少ない。大抵の魔物は巣にこもり、男と交わるか自慰に耽る。だが逆に、夜にしか活動しない魔物もいる。
そうだ。私は夜の魔物に王者としての名を示しに来たのだ。決して男探しではない。
夜の草原は冷たい風が吹き、背の高い草が獣の鳴き声に似た音を奏でる。セイレーンはこの音から歌のヒントを得ることもあるらしいが……私たちドラゴンに歌う習慣は無い。
ドラゴンとは絶対的な力の具現。人間どもの中でも私たちを神と崇める者がおり、辺境の地から着たアラクネによれば、その土地では水の神として多くの民がドラゴンを崇めているという。
「……そんな私が、男ごときに執着するなど……!」
苛立ちを炎として草原に吐き出す。空気を飲み込み巨大になった私の炎は、草原に巨大な火災を生み出す。まあしばらく経てばノームかウンディーネあたりが消すだろう。あるいはイグニスあたりが食い尽くすかもしれない。この大地は私のものなのだ。
私の奥で強い魔力が昂ぶるのを感じる。人間に似た肌を露出する片腕が、赤黒い魔力の光と共に完全に鱗に覆われる。
私たちドラゴンは、『原身』に還ることができる。
最高位の魔物である私ですらも、すべての魔物を統べる魔王の魔力から逃れることは出来ない。だから今私はこんな、人間の女性に似た姿をしている。
私の偉大な感情がおそらく――人間の男という支配すべき者に揺り動かされているのも、あの代替わりした魔王のせいだろう。
別に魔王を憎むという話ではない。原身とはつまり、先代魔王の頃の――人間に畏怖される、空を覆う巨大な魔物としてのドラゴンだ。
私は、少しの時間だが魔力を燃やして原身に還ることができるのだ。当代魔王の淫魔の魔力すら吹き飛ばす、王者へ還ることができる。
「……だめだ。人間が怖がる」
それに、意味など無い。魔力を供給できない状態でそんなことはだめだ。
と、そこで私は草原を緩やかに歩く影を見つける。青い魔力の光を纏った、半人半馬の魔物――。
ただの、低級の魔物ではない。魔女すら越える強い魔力。
あれは誰だ? ケンタウロスではない。あんな高次の魔力の気配はしない。
「止まれ。王者の命だ」
「ひゃあっ!」
青い魔力の炎が一瞬で霧散し、その魔物はこけた。私はその前に降り立ち、見下ろす。
「何者だ。私の知らない魔物か」
紫の外套と魔女のような帽子を被っている。その帽子の内から、涙に濡れた赤い目で私を見つめる。
「ど、ドラゴンさんですか。あ、すいません。わたし……ナイトメアです。その、魔物の中でも結構珍しいので、知らない人も多いみたいで……」
赤い瞳をきょろきょろと色々な方向へ動かし、ぽつぽつと呟く。体も小刻みに震えている。そこからはゴブリンにすら劣るほどの魔力圧しか感じない。力を持つがその統制が出来ていない。
私は鼻を鳴らした。
「何をそんなに怯えている。私は王者であるが、決して暴君ではない。臆せずに話せ」
ナイトメアという魔物に聞き覚えは無い。私は少しでも暴れる感情を紛らわすために、このナイトメアと話したかった。
「あ、あの、ありがとうございます。優しい、ですね」
水色の髪の下で僅かに微笑む。私は顎で続きを促す。
「ええと、わたしはナイトメアの……すいません、名前はないです。わたしたちナイトメアは、決して群れることもありませんし、その、現象の生命――精霊に近いんです。あ、もちろん、子を産むことは出来ますけど、だ、男性が、その、怖くて」
「怖い? ば、馬鹿を言うな。何を恐れることがある」
「何をといわれても、その、怖いものは怖いんです。も、もちろん大好きで、交わりたいと思うのは当たり前なんですけど……あ、わたしたちは人間の男性の精以外を食べないんです」
怖いものは怖い……わけがわからない。私には――生まれた時から王者の誇りを心に刻むドラゴンにはない感情だ。
いつもならこんな妄言ばかりの魔物は吹き飛ばすが、今の私は――どうにもこのナイトメアを放っておけなかった。
「怖がっていて何が変わるというのだ。信じろ。己の力を。おまえは私には及ばぬが、並の魔女を遥かに超える魔力がある。その魔力を信じて男を捕らえれば良いのだ」
私はナイトメアの肩に手を置く。震えるその肩は感覚がうつろだった。
ナイトメアの赤い目をまっすぐ見て、私は告げる。
「私たちは魔物……魔王の名の下に、人間と共に歩む存在だ」
ナイトメアはわずか驚いたように目を見開いて、柔らかく笑った。
「……ありがとうございます。ドラゴンさん。少し、自信がついたかも、しれないです。
別の、向こうの村で――がんばってみます。必ず」
「別の……? 前どこか人里にいたのか」
「はい。この向こうの、壊れた町に。一人だけ男の子がいたんですけど、その、わたしががんばっても、喜んでくれなくて……」
これほどの魔力に屈さない男……? まさか勇者か?
私の顔に会心の微笑が浮かんだことを知覚する。ようやく強い男が手に入る。それだけで私の下半身が疼いてたまらない。もう自慰だけでは満足できないのだ。
「そうか。なら私がその男を娶ってみせよう。王者の夫に相応しいならな」
ナイトメアは大鎌を持つ両手を胸の下で並べ、小さく頭を下げる。
「がんばってください。優しいドラゴンさん……ありがとう」
「言われるまでもない。ああそれと覚えておけ。私の名はエミリー。偉大なる王者だ」
私は翼を広げ、夜の空を再び飛ぶ。
大きな塔の立つ、海辺の町へ。
そこは廃墟だった。
元は放射状の大通りに軒を連ねた作りだったようだが、そのどれもが焼け焦げ、まるで上空から強烈な熱波が押し寄せたような様相だった。
町の端の屋敷もボロボロに、意図的に、執拗に破壊されている。窓ガラスは割られ、その内側まで焼け焦げている。屍は、一つも無い。
ただ一つ……象徴的な、細く長い塔だけが建っている。その頂上には、壊れた何かの像といくつかの長椅子がある。おそらくそれは人間の像ではない。
「……なんだこれは」
同族の仕業とは思えない。私たちドラゴンですら破壊をためらう。では誰が?
人間同士の争い? 何のために?
そう考え込む一方で私の翼は自然とある一軒、町のはずれの入り江近くの小屋に向く。屋根は吹き飛んでいるが、そこに微量の魔力が残っている。
つまり魔物の加護を受け、自壊を免れているのだ。
私はそこに足を踏み入れる。濃厚な男のにおいに足元がふらつくが、王者としての風格を保つ。小さな扉を開けると、そこにいた。
ベッドに横たわる、弱々しい少年が。
「……ごほっ。あれ、こんどは、誰?」
薄い金髪に青い目と育ちの良さそうな顔立ちだが、その顔色の薄さから病に侵されているのは明白だった。
私は愕然とする。
「わ、私はエミリー。王者だ」
おうじゃ? と首をかしげる弱々しい少年。
ありえない。勇者? 正反対だ。病に伏せた、剣を握ったことも無いような貧弱な少年! こんなのを娶るなど私はなんと愚かな宣言をしたのだろう。
そうだ。命の火が尽き果てる直前――だから魔力で誘惑することができなかったのだ。
食料も無い、助けも来ない、病に侵され死ぬであろう、病弱な少年だから。
「……待っていろ。食料を持ってきてやる」
私は決してこの少年を娶ることはない。こんな貧弱な者は私の夫に相応しくない。
だが、そのまま見殺しにするなど王者のすることではない。
草原から野草や肉の類を集め、焼き、虫取りに塩を振り少年へ渡す。少年は僅かに笑みを浮かべて、病的に細い手でそれを食べる。
「おいしい……ありがとう。ドラゴンさん」
「ふん。王者として当然のことだ」
私は持ち上がりそうになる口角を抑えて言う。何度も咳き込みながらも、少年は私のもってきた食料を食べていく。
「ごほっ。よかったぁ。まだ、大丈夫かも」
この少年はもはや、喋ることすら苦しそうだ。哀れだと思う。治してやりたいと思う。
――私の脳裏に治すための手段が浮かぶ。
魔力を注ぐこと。つまり交わり、夫として認めること――。
「ば、馬鹿な! 有り得ない。絶対に有り得ん! 誰がこんな男を……」
いけない。思わず声に出ていた。頬がとても熱い。
「……そうだ」
ならばせめて、幸せでも与えてやろう。私の巣で視界を埋める宝石でも見せてやろう。人間には決して拝めない景色を。
「人間よ。わ、私の巣に来るがいい。おまえに幸福を与えてやろう。それで病も治る」
「ほんと……? ありがとう。ドラゴンさん」
途中何度も咳き込む少年は私の腕に掴まる力も無く、私が両手で抱いて運ぶことになった。
両手で運ぶということは、熱い少年の体が私の胸を触るわけであり、私自身ほとんど空を飛びながら自慰している気分だった。喘ぎ声を口からもらすことを耐えるだけで平時の数倍の体力を使った。
私の胸は薄い皮膜で覆われているが、それ越しにでもわかるほど勃起する乳首に少年の息遣いやわずかなみじろきが当たって、今まで感じたことの無い快楽を覚える。
これが男性か。これが男か。
襲ってしまいたい。交わりたい。私の本能はそうささやくが、王者としての威厳がそれを押し留める。
私という、女としても最高の存在に抱かれながらも、少年は薄青い目でぼんやりと空を見ていた。私に苛立ちと危機感を同時に覚えさせた。
「どうだ。これで幸せだろう」
私は男性用に作っておいた中央の椅子に少年を座らせ、宝石のブーケを手に握らせる。ルビー、サファイア、エメラルド、オパール……無数の宝石でちりばめた私のコレクションだ。
「うん。綺麗だよ」
「そうだろうそうだろう。思う存分見るがいい。おまえには特別に王者である私が自ら宝石を与えてやるのだからな」
少年はどこかうつろな目のままで、巣の中を飾る宝石を見ていた。
あまりの幸せに忘我の域にあるのだな。ならもっと宝石を集めてやろう。
私は食料の場所を教え、白み始めた空の中を飛びあがる。
溜まりに溜まった本能の疼きは、空中で自慰することで解消した。
「ふふー。エミリー久しぶり。宝石、ほしいの?」
かの集落のドワーフのリーダーは大きく変質していた。頬を高潮させ、まるでインプたちのような淫靡な笑みを浮かべている。
見れば掘り出された宝石が無造作に転がっている。まったく執着などないように。
「いいよいいよ。さっさともっていって。あたしは忙しいのー。もっともーっと突っ込んでもらいたいからねー」
ふらふらと近くのテントに戻っていき、また喘ぐ声がする。
私は宝石をすべて持ち去り、また空中で自慰する。
巣に戻ると、宝石の中に少年は倒れていた。
はぁはぁと荒く息をして、それが明らかに幸せとはかけ離れていて――焦りという感情が私を支配する。
「ど、どうしたのだ! 何が一体……」
私の胸の中で薄く目を開ける。
「ごめんなさい、ドラゴンさん……ぼく……」
「エミリーと呼べ。私の名だ」
「え、エミリーさん。ぼく、ほんとはもう、長くないって旅のお医者様にも言われてて……お父様もお母様も、死んじゃって、大丈夫じゃない、かも……」
「私が、私がいるではないか! 何が欲しいのだ。宝石か? 食料か?」
少年はくすりと笑った。それは苦笑だったのかもしれない。
「……もうちょっとだけ、ぼく、エミリーさんと……」
げほっ、と大きく咳き込んで、少年の口から血が――私の胸にかかる。
血が……。人間の男性の血が……。
私が……!
「あああああああああああああああああああああっ!」
私の咆哮が天を衝き、感情のままの強烈な魔力が身を壊す。鱗が剥がれ落ち、角が折れた。
王者である私は――すぐに理解する。この少年が欲しかったものは宝石などではない。食料でも、たぶんない。
私との何か。何かはわからない。
でも今すべきことを私は理解した。
翼を広げ、魔力を燃やして全力で飛ぶ。
私の知るあらゆる魔物の元へ。
万病を治す薬はないか。
死んだかもしれない男を生き返らせる薬はないか。
無尽蔵とも言われる魔力が尽き掛け、鱗が剥がれ落ち血を流そうとも私はひたすら飛び続け、あらゆる魔物を訊ねる。
「お願いだ。治療薬を譲ってくれ。頼む」
どんな低級の魔物に頭を垂れてでも、どんな望みの薄い魔物に対しても。
どうしてこんなことを、この王者である私が。私がしているのだ。
「……そうか」
私は――わたしは、勘違いしてた。
ドラゴンはなんでもできるわけじゃないし、とってもとっても強いけど、決して万能なんかじゃない。
助けたい人がいるのに助けられないこともある。余裕ぶって自分に嘘ついてたら、何もかわらないんだ。
そう気付く。
尊大な自尊心が砕け、わたしはただがむしゃらに飛ぶ。
助けたい人のために。
何日経ったかもわからなくなった時、私はついに人魚から万病を治すという薬をもらった。その代償は私の誇り高き角と両手の爪。痛くも無い。
「戻ってきたぞ!」
私は宝石の散乱する巣に戻り、もう荒い息すらない少年にそれを飲ませる。
名前でも聞いておきたかった。名前を呼びたかった。でも愚かだった私は名前を聞くこともしなかった。
尊大な自尊心によって。
胸に抱いて、何度も揺すった。
ただ一人の病すら壊せない私の力に打ちひしがれる。
「目を、開けてくれ……」
私はずっとずっと昔のように神に祈る。それが何の神かも知らないで。
――おねがいかみさま。
私は王者であるのに、私より強いものを夢想しただ一心に祈った。
げほっ、と咳き込んで、青い目が開く。
「……エミリー、さん。ちょっと、楽になったかも……うわっ!」
「わあああああああああっ!」
私は興奮のままに、少年に口付けていた。
それは婚礼の証。
別に後悔などしていない。相手の名前も知らずにいきなり襲って精を搾り取るとは下級魔物の所業だろう。冷静な部分はそう言う。
彼――ジェフ=マキスは病から解放され、目に見えて元気になった。
魔物を怖がることもなく、どころか私と一緒にいたいと言ってくれて。
それだけで私は満足だった。
王者としてふさわしくはないだろう。勇者どころか戦士ですらない。趣味は絵を描くことなどというただの人間だ。
だが、それでも私には……ジェフが愛しい。
愛に理由などいらないのだ。ただ愛しい。私は真理に気付いた。
「もう、エミリー……いい加減に絵を描かせてくれないかな」
「まあ待て。私の気が済むまでな」
ジェフは堅牢な樫の椅子に座り、私が宝石でジェフを飾る。この瞬間が私にとって堪らない。
「まったく……まあ、いいけどさ」
気が済むまでジェフを飾り付けて、そして私は、ジェフの膝に頭を乗せる。
「な、なあ。それで今日は、どこで……どこで交わるのだ。ジェフは、どこがいい?」
「うーん。いつも巣の中って言うのもなぁ……」
ジェフがいじわるっぽく笑う。私は高まる性欲のまま胸をジェフにこすりつけながら、どこがいいのかと尋ねる。私はジェフには従うのだ。
「ふふ。それじゃあ、誓いの塔の上で。いいかな?」
ジェフのいた町モルテガ。
その中に建つ塔の上で、私とジェフは交わる。
嬌声を我慢することもなく、ただ思いのままに精を求める。ジェフの指が私の乳首をなでるたびに、私の体は、王者の強靭な体はただ一人の女となっていく。
そこはモルテガと魔物の友好の地。かつて飾られていた像は、魔王の娘リリムのものであったという。
そしてモルテガが何かによって滅ぼされた後、病に伏せるまでジェフのお気に入りの場所だったという。
夕焼けの中、眼下の壊れた町並みが橙に染まる。
「とっても綺麗だと思わない? 世界にぼくたちだけしかいないみたいで……」
ああ、その通りだ。
私の統べる世界。そこにいるのは愛しいジェフと私だけ。
「愛してる。ジェフ」
「ぼくもだよ。エミリー……」
滅びた町の上の、染まり行く橙色の空の下で私たちは唇を重ねる。
これもまた、ドラゴンらしい場所だとジェフは言う。
近いうち、私がこの塔の上に原身で立つ姿を描きたいという。
「怖くないのか?」と訊ねても、「むしろ憧れるぐらいだよ」と笑顔で返され、翌日の朝まで交わりは続く。
ドラゴンの世界。
それは強大な力と大きな大きな愛によって支えられた、王者とその愛する夫の世界。
私の夫こそ、世界一だ。
「わぁ……」
うそじゃない。ほんと。ほんとにわたしの体は、緑色の鱗に覆われている。
湖のほとりにわたしは眠っていたらしい。そんなことどうでもよくて、わたしは湖に近づいて、自分の姿を早速確かめる。
「すごい……すごい! かっこいいっ!」
長くなった茶色い髪から大きな角が生えていて、顔もなんだか随分大人っぽくなってる。鼻のそばかすはそのままだけど……。それにそれに、背もうんと伸びていて脚もすらっと長い。
なにより、背中に大きな翼がある。立派な大きな翼。飛べる、とわたしにはわかる。
「これがわたし? 魔物になったわたし……こんなのなんだ」
まるで町の衛兵さんが持ってる武器みたいな両手をぐーぱーしてみると、とっても楽しくなる。
「ふふ……うふふ……っ」
笑いが止まらない。すごく楽しい。
わたしはエミリー=ノイマン。パサの町の町長を代々つとめる一家の次女。この次女と言う立場、わたしにはとても好都合だった。
結婚の心配もしなくていい。面倒な仕事はお姉様任せ。
わたしは本を読むのが好き。本を読んで、いろいろ考えるのが好き。想像するのが大好き。毎日寝るときに見る夢も好き。お父様は勉強しなさいって言うけど、そんなことより想像のほうが絶対楽しい。
毎日村からの離脱者がどうのとか、お父様もお母様もお姉様もむずかしい顔で言ってるけど、そんなことよりもっと楽しいことをすればいいのに。
人間は自由な生き物だって、本の中に出てくる白い髪の悪魔さんも言ってた。
わたしは魔物が好き。どうしてかわかんないけど、魔物が好き。人間を丸呑みするほどおっきくて、勇者もやっつけるぐらい強そうでかっこいい。わたしとお部屋の人形さんたち以外誰にも言ってないけど、わたしはずっとずっと魔物が好きだった。
ゴブリンでもいいから会ってみたいなぁと思ってた。町の外に出ようとするとすぐに衛兵さんがやってきて連れ戻されるから、会いに行くことはできなかったの。
でも。でも今は!
わたしが魔物になってる。ちょっと中途半端だけど、魔物に間違いない。
「……顔とか、変わらないのかな?」
まるで半分人間のままみたい。本の中の魔物と違って、なんだか人間とそっくり。どういうことなんだろう?
まあ半分でもいいや。魔物に会うどころかわたしが魔物になれたし!
「どんな力があるのかな? ……そうだ!」
わたしはとりあえず、空を飛んでみたいなと思った。だから背中の翼を大きく広げて、森から飛び上がった。
空を飛ぶことなんて、お屋敷の庭をお父様に見つからずに散歩することぐらい簡単だった。
強い風がとても心地よくて、下を流れる森がとても小さく見える。遠くまで見渡せるし、小鳥がわたしの姿を見ると大慌てで逃げていく。
空はすべてわたしのもの。そうに違いない。
「あっ……そうだ。ドラゴン! ドラゴンなんだわたし!」
いろんな本に出てくるすごく強い魔物。なんだか違うところもあるけど、わたしはドラゴンなんだ。しっぽだってあるし、こんなに空を飛べるのはドラゴンしかいない。
そう気付くと、どんどんやりたいことが増えてくる。ドラゴンと言えば地面を割って山を砕く魔物。とっても、とーっても強い。
「試してみようかな」
わたしは早速近くの草原に降りて、「えいやっ!」と両手の爪を地面に振り下ろした。ものすごい音がして、深く地面がへこむ。地面の底で眠っていた土の精霊が慌てて逃げていく。
「わぁ……!」
夢みたい。夢じゃないよね?
わたしは近くの大きな岩に近寄って、それを軽々持ち上げた。力をこめて投げ飛ばすと、ずっと向こうの木に当たって鳥たちが逃げていく。
「あははははっ! すごいっ。すごい力! さっすがドラゴン!」
もう夢見てるだけじゃないんだ。
わたしはほんとにほんとに、ドラゴンになったんだ!
その後もずっと草原や森の中で大暴れして、夜になってようやく落ち着いた。王者の風格とかも、大事だよね。
草原のはずれにある大樹の上にわたしは降り立って、翼をたたんだ。
「私はエミリー。空を統べるドラゴンだ。……なんちゃってね」
でもこういう話し方かっこいいかも。ドラゴンって感じがする。よし、がんばろう。
空の星が綺麗だけど、たぶん空を舞うわたしのほうが綺麗。それに星ぐらいがんばれば掴めそう。そんな気がする。
なんでもできる。それがドラゴン。
「後は周りに男でもいればなぁ」
それもわたしの強さに見合うほどの男。歴戦の勇者とかね。
「……あれ?」
どうしてわたし、男の子がいたらいいとか思ったんだろう?
よくわからないまま、わたしはなんとなく、自分のしっぽを掴む。しっぽの表は硬い鱗で覆われているけど、裏側の一部だけ、鱗が少し浮いて生えている部分がある。
そこにわたしは、爪をそっと這わせる。
「んっ」
強靭なはずのわたしの体がびくんと跳ねる。なぜか今、ここに男の子がいないとわかると――何かで紛らわしたくなった。だからわたしはまた、そのしっぽの鱗の隙間、鱗に隠された敏感な部分を撫でる。
「はぁっ……なんか、楽しいかも……」
大樹の太い枝に寝て、しっぽと――なんだか随分おっきくなった気がする胸を触る。びりっとくるような、快感。
胸を手で揉むと痺れと一緒にふにゃふにゃ形を変えるのが面白くて、わたしは勢いに任せて手を更に動かした。ぎしぎしと枝が軋むけど折れない。ドリアードあたりが支えてるのかなと思う。
「あっ…………はぁ」
鱗の内側を何か暖かい液が伝って、両手の動きが止まる。
なんだろう? でも、気持ちよかったな……。
わたしがふうっと長く吐いた息がなんだか大人っぽくて、もう一回しようかな、と思った。
日が昇ればまたわたしは翼を広げ、草原の上を飛ぶ。眼下にはのんびりと草を食む羊や牛が見える。
「そうだ。そろそろ朝ごはんの時間……♪」
両手の爪を開いて、急降下して羊を捕まえる。悲鳴を上げさせることも、周りの他の羊に気付かれることもない、突風のようにしか見えない一瞬の狩り。
ドラゴンになったわたしの歯は、王者にふさわしい牙になっている。羊の体に噛み付くと、あっさりと肉をはがした。
「あ……生だけどいいのかな」
お母様が生の肉は魔物がいるからいけませんって言ってたけど……まあいいか。わたしは王者なんだから。他の魔物に負けることなんてない。
血を滴らせて羊の生肉を食べ、また食べ足りないから牛を何体か狩って食べた。うん。満足。
草原をさらに飛ぶと、今度は鳥のように見える何かが近づいてくる。
「ふふっ……止まれ! ドラゴンの前であるぞ!」
王者として叫んで見ると、「ひいっ!」と悲鳴を上げて鳥のような何か――わたしのような、半分だけ鳥の魔物(?)がわたしの前に止まった。
「す、すいません。このへんはドラゴンさんの縄張りとはしらなんで……。わ、私らの郵便路にしたんすよ」
「ゆうびん? あなた、郵便の人なの?」
よく見ればその鳥の魔物の人は、何かマークの書いた鞄を下げている。
「あ、はい。今は向こうの魔女さんたちのキャンプからあっちのレスカティエまでの積荷の運搬の最中でして。私が先発で後から何人か来るんすけど、と、通ってもいいっすかね?」
レスカティエ……どこかで聞いたことあるなぁ。
「え? いいよー。じゃなくて……。お勤めご苦労である。王者が許可しよう。通るが良い」
かっこよく両手を広げて言うと、鳥の人は頭を下げてゆっくりと飛び去っていった。
その後も同じような鳥の魔物の人が通るたび、驚いたり頭を下げたりとみんなへりくだっている。それは当然。わたしは王者なのだから。
「ふふん。他の魔物のところも回ってみようかな」
わたしは草原を流れる川に近づいた。確か川には魔物がいるってお父様は言ってた気がする。それなら――
「えいっ!」
翼をはためかせ大風を起こした。水が空高くまで舞い上がって、驚いた小さな魔物が顔を出す。黒い髪の、大きな銛をもった魔物。
「…………何の用?」
「ふふ。王者の前でなんだその無表情は」
びっくりするほどその魔物の子には表情がない。
「……それが、私たち」
ぱしゃん、ぱしゃんと水音を立てて、ゆっくりと近寄ってくる。銛を川に突き立てて、ヒレのようになった手をわたしの手に伸ばし、触れた。
独特の動きで、ぺちゃりぺちゃりとわたしの鱗を撫でる。
「な、なに?」
「……すこしまえまで、人間?」
「な! な、なななにを言う。わた、私は王者だぞ。人間ではない!」
ドラゴンになって初めて汗をかいた。
「……隠し事は、良くない」
茶色の目がまっすぐわたしを見つめる。別に責めているわけじゃなくて、ただ思うことを言っただけみたい……。
「いい? 絶対誰にも言わないでよ……。ほんとは、元人間なの。でも今はドラゴン。これからどんどんわたしはドラゴンになるんだから!」
ぐっと大きな胸を張って言うと、その魔物の子はまたわたしの手をぺたぺた触って、
「……感覚、もらえる?」
感覚? と訊きかえすと、水の中から丸い小さな石を取ってわたしの前に――そのままわたしの口につけた。
「むぐっ!」
赤黒い光が一瞬散って、ちゅぱん、と音がして石が離れる。その子が両手で持つ石には、赤黒い模様とぼんやりした光が宿っている。
「そ、それは? 今わたしに何を?」
「……感応石。あなたの、感覚をここに」
魔物の女の子はじっとその石を見つめる。なんだか不思議だけど、暖かい雰囲気の子だなぁと思った。
わたしとは頭三つ分ぐらい背の高さが違うけど、同じ魔物として何か親近感が湧いた。
つっと女の子は顎を上げて、ゆっくりとわたしのすぐ前――わたしの胸に顔を埋めるように近づいた。わたしはそっと、彼女を抱きしめる。
わたしの翼の根元に、ヒレの手がそっと触れる。ぬめりとした感触がどことなく心地良い。
大きな影と小さな影が、水に揺らめいている。
それが別れの挨拶だと知ったのは、それからしばらくしてからのことだった。
わたしはあの子が川にいるとわかると、あんまり不用意に地面を荒らすことはやめた。王者は暴れるから王者ってわけじゃないんだ。常に泰然と、余裕をもってこそ王者。
「ふふん……」
随分わたしのドラゴンらしさも様になってきた。ドラゴンなんて見たことはもちろん、本の中でも少しだけしか読んだことがなかったけど――なぜか、これがドラゴンなんだとわかる。
日が暮れて、わたしはあの大樹ではなく、近くに見つけた山の洞窟に巣を作ることにした。食料を持ち込んで、適当に掘って広げれば完成。だだっ広いけど、どうしてか落ち着く。
でも。
「うーん……なんか寂しいな」
わたしのお屋敷の部屋にはたくさんの本とお人形があったけど、今欲しいのはそんなものじゃなくて……うーん、なんだろう。なんかこう、ぴかぴか光るもの。
「宝石! そうだ、宝石があれば!」
どうしてかわからないけど、宝石のことを思い浮かべるとわくわくする。赤や青や緑に光る魅惑の宝石……ああ、考えただけでヨダレが出てきた。
宝石があるところ。人間の町。そうだ。パサの町なら、お父様のお屋敷とか……
「……いや、やめとこ」
人間を傷つけるのはよくない。わたしは魔物なんだから。人間とは仲良くしないといけないんだ。
それならどこにあるだろう? 宝石が採れるのは鉱山。鉱山の守り人――ドワーフ。ドワーフに頼めばいい。報酬として遠くの土地の肉でもくれてやればいいだろう。
「……どうして知ってるんだろう?」
ドワーフって言葉を聞いたの、今が初めてな気がするんだけど……まあいい。王者は賢い。最高位の魔物として、すべての配下の名前を知ることは当然の義務だ。
明日もドワーフや色んな魔物に会いに行こう……。
そう思いながら、わたしは今日も胸としっぽをいじって夜を明かす。
「男が欲しいな……」
空ろな意識の中で呟きながら。
王者は暴君ではない。対等な対価として、遠くの海から海獣の肉を取り、山の向こうのドワーフの集落へ降り立つ。彼女たちはとても小さく、わたしの腰ほどの高さしかない。
「あれー? ドラゴン? あんたは誰の子?」
「なに? 私を知っているのか」
こんな山の向こうまでわたしの勇名が届いていたなんて……と思ったけど、ドワーフの代表らしいその人は首を振る。
聞けば、ドワーフとドラゴンは元々、協力関係にあるらしい。ドラゴンにとって大切な宝石を採れるドワーフ。ドワーフたちは鉱山や山の中に篭るので、食料や嗜好品が不足する。そこでドラゴンは対価としてそれらを与える――そんな協力関係だ。
ドワーフたちもドラゴンの家族別に宝石を取り置いているらしい。つまりわたしの分はないと思ったけれど……。
「ま、いいよ。ちゃんと食べ物持ってきたし、分けたげる。エミリーね。覚えたわ」
学士っぽい服を着たドワーフがわたしの名前と特徴を記録する。わたしの特徴は茶色い髪。普通のドラゴンは紫に近い色らしい……人間上がりだってバレないかな?
ドワーフたちはちっこいのに、大きなわたしの王者の風格に怯えすらしない。小さなテントと坑道をちょこまか行き来しながら、時々トロッコで荒削りの原石を掘り出してきたりする。
「なあドワーフよ。おまえも空を飛んでみたくはないか。王者の協力者として乗せてやってもいいぞ」
近くのドワーフに訊いてみた。でも小さな橙色の髪はふるふると横に振られる。
「別に飛んでみたいとは思わないわ。あたしらにとってこの地面こそが快適なの」
「新たな世界を知りたいとは思わないのか? 私にはそれが出来る。私に出来ないことなど何も無いのだ」
「知ってるわー。でも、あたしらは別に空や新しい土地に興味は無いの。なんか、ふもとの集落は最近、なんだっけ、なんとかって国にも行くようになったらしいんだけど、あたしらはずっとここにいるつもりかな」
なんだ。つまんないの。絶対外に出るほうが楽しいのに。たくさん男だっているし。
「男? あー、そういえばなんか、ふもとの集落では最近、人間の男が出入りしてるみたいね。あたしらの中でも――ほら、向こうの子なんかは男欲しいとかぼやいてるしさ。最近流行りなのかしら」
見れば、仕事をせずにふらふらと村の入り口をうろついているドワーフがいる。ドワーフの天性の明るさがなく、おろおろと困惑している。
私にはわかる。あのドワーフはサキュバスの魔力を受けている。まだ軽度だが――それでも、抗うことは出来ないだろう。魔王に連なる者達の魔力に抗える魔物はいない。
「……おまえにも、すぐにわかるだろう」
わたしは確定的な予測と共に呟いたが、ドワーフは「そう?」と軽く言って、作業に戻っていった。
夕刻前に、わたしの持ってきた肉とまあ相応であろう量の宝石が運ばれてくる。「次からは一月おきで」と言われた。
わたしは王者として礼を言い、ドワーフの集落を飛び去る。
「…………」
ふと気になって、彼女らの言った山のふもとの集落に目を落とす。
小さなドワーフたちが太陽の下で、人間の男性と交わり嬌声を上げていた。
うらやましいな、と思った。
あのドワーフたちの様子を見て、それから色々な土地を、色々な魔物を巡ったせいで――私は夕刻前には巣に戻り、夜明け前まで自慰(と言うらしい。魔女が教えてくれた)に耽ることになった。他の魔物の羨む私の大きな胸も、少し感度が悪く不便に思うことがある。
私は、男が欲しい。男を巣に連れて帰り交わりたい。
何度も男を見かけたことはある。旅人。吟遊詩人。見るたびに私の下半身が疼く。
でも決して近づきはしない。
「……私は王者だ。誰が人間など……」
それもまた本心だ。王者として、同族以外にへつらうことなど許されない。弱い者は支配すべきものであって番うものではない。ましてや己の処女を捧げるなどもってのほかだ。
いや、でも……。
「せめて、せめて戦士、いや勇者ほどでないとだめだ。私の強さに釣り合う程の勇者……勇者を探さねば」
王者であろうと、暴れ狂う感情には抗えない。
私は自慰をやめ、夜の帳の下りた巣の外へ出る。大きく翼を広げて、夜の空を飛ぶ。
夜に活動する魔物は少ない。大抵の魔物は巣にこもり、男と交わるか自慰に耽る。だが逆に、夜にしか活動しない魔物もいる。
そうだ。私は夜の魔物に王者としての名を示しに来たのだ。決して男探しではない。
夜の草原は冷たい風が吹き、背の高い草が獣の鳴き声に似た音を奏でる。セイレーンはこの音から歌のヒントを得ることもあるらしいが……私たちドラゴンに歌う習慣は無い。
ドラゴンとは絶対的な力の具現。人間どもの中でも私たちを神と崇める者がおり、辺境の地から着たアラクネによれば、その土地では水の神として多くの民がドラゴンを崇めているという。
「……そんな私が、男ごときに執着するなど……!」
苛立ちを炎として草原に吐き出す。空気を飲み込み巨大になった私の炎は、草原に巨大な火災を生み出す。まあしばらく経てばノームかウンディーネあたりが消すだろう。あるいはイグニスあたりが食い尽くすかもしれない。この大地は私のものなのだ。
私の奥で強い魔力が昂ぶるのを感じる。人間に似た肌を露出する片腕が、赤黒い魔力の光と共に完全に鱗に覆われる。
私たちドラゴンは、『原身』に還ることができる。
最高位の魔物である私ですらも、すべての魔物を統べる魔王の魔力から逃れることは出来ない。だから今私はこんな、人間の女性に似た姿をしている。
私の偉大な感情がおそらく――人間の男という支配すべき者に揺り動かされているのも、あの代替わりした魔王のせいだろう。
別に魔王を憎むという話ではない。原身とはつまり、先代魔王の頃の――人間に畏怖される、空を覆う巨大な魔物としてのドラゴンだ。
私は、少しの時間だが魔力を燃やして原身に還ることができるのだ。当代魔王の淫魔の魔力すら吹き飛ばす、王者へ還ることができる。
「……だめだ。人間が怖がる」
それに、意味など無い。魔力を供給できない状態でそんなことはだめだ。
と、そこで私は草原を緩やかに歩く影を見つける。青い魔力の光を纏った、半人半馬の魔物――。
ただの、低級の魔物ではない。魔女すら越える強い魔力。
あれは誰だ? ケンタウロスではない。あんな高次の魔力の気配はしない。
「止まれ。王者の命だ」
「ひゃあっ!」
青い魔力の炎が一瞬で霧散し、その魔物はこけた。私はその前に降り立ち、見下ろす。
「何者だ。私の知らない魔物か」
紫の外套と魔女のような帽子を被っている。その帽子の内から、涙に濡れた赤い目で私を見つめる。
「ど、ドラゴンさんですか。あ、すいません。わたし……ナイトメアです。その、魔物の中でも結構珍しいので、知らない人も多いみたいで……」
赤い瞳をきょろきょろと色々な方向へ動かし、ぽつぽつと呟く。体も小刻みに震えている。そこからはゴブリンにすら劣るほどの魔力圧しか感じない。力を持つがその統制が出来ていない。
私は鼻を鳴らした。
「何をそんなに怯えている。私は王者であるが、決して暴君ではない。臆せずに話せ」
ナイトメアという魔物に聞き覚えは無い。私は少しでも暴れる感情を紛らわすために、このナイトメアと話したかった。
「あ、あの、ありがとうございます。優しい、ですね」
水色の髪の下で僅かに微笑む。私は顎で続きを促す。
「ええと、わたしはナイトメアの……すいません、名前はないです。わたしたちナイトメアは、決して群れることもありませんし、その、現象の生命――精霊に近いんです。あ、もちろん、子を産むことは出来ますけど、だ、男性が、その、怖くて」
「怖い? ば、馬鹿を言うな。何を恐れることがある」
「何をといわれても、その、怖いものは怖いんです。も、もちろん大好きで、交わりたいと思うのは当たり前なんですけど……あ、わたしたちは人間の男性の精以外を食べないんです」
怖いものは怖い……わけがわからない。私には――生まれた時から王者の誇りを心に刻むドラゴンにはない感情だ。
いつもならこんな妄言ばかりの魔物は吹き飛ばすが、今の私は――どうにもこのナイトメアを放っておけなかった。
「怖がっていて何が変わるというのだ。信じろ。己の力を。おまえは私には及ばぬが、並の魔女を遥かに超える魔力がある。その魔力を信じて男を捕らえれば良いのだ」
私はナイトメアの肩に手を置く。震えるその肩は感覚がうつろだった。
ナイトメアの赤い目をまっすぐ見て、私は告げる。
「私たちは魔物……魔王の名の下に、人間と共に歩む存在だ」
ナイトメアはわずか驚いたように目を見開いて、柔らかく笑った。
「……ありがとうございます。ドラゴンさん。少し、自信がついたかも、しれないです。
別の、向こうの村で――がんばってみます。必ず」
「別の……? 前どこか人里にいたのか」
「はい。この向こうの、壊れた町に。一人だけ男の子がいたんですけど、その、わたしががんばっても、喜んでくれなくて……」
これほどの魔力に屈さない男……? まさか勇者か?
私の顔に会心の微笑が浮かんだことを知覚する。ようやく強い男が手に入る。それだけで私の下半身が疼いてたまらない。もう自慰だけでは満足できないのだ。
「そうか。なら私がその男を娶ってみせよう。王者の夫に相応しいならな」
ナイトメアは大鎌を持つ両手を胸の下で並べ、小さく頭を下げる。
「がんばってください。優しいドラゴンさん……ありがとう」
「言われるまでもない。ああそれと覚えておけ。私の名はエミリー。偉大なる王者だ」
私は翼を広げ、夜の空を再び飛ぶ。
大きな塔の立つ、海辺の町へ。
そこは廃墟だった。
元は放射状の大通りに軒を連ねた作りだったようだが、そのどれもが焼け焦げ、まるで上空から強烈な熱波が押し寄せたような様相だった。
町の端の屋敷もボロボロに、意図的に、執拗に破壊されている。窓ガラスは割られ、その内側まで焼け焦げている。屍は、一つも無い。
ただ一つ……象徴的な、細く長い塔だけが建っている。その頂上には、壊れた何かの像といくつかの長椅子がある。おそらくそれは人間の像ではない。
「……なんだこれは」
同族の仕業とは思えない。私たちドラゴンですら破壊をためらう。では誰が?
人間同士の争い? 何のために?
そう考え込む一方で私の翼は自然とある一軒、町のはずれの入り江近くの小屋に向く。屋根は吹き飛んでいるが、そこに微量の魔力が残っている。
つまり魔物の加護を受け、自壊を免れているのだ。
私はそこに足を踏み入れる。濃厚な男のにおいに足元がふらつくが、王者としての風格を保つ。小さな扉を開けると、そこにいた。
ベッドに横たわる、弱々しい少年が。
「……ごほっ。あれ、こんどは、誰?」
薄い金髪に青い目と育ちの良さそうな顔立ちだが、その顔色の薄さから病に侵されているのは明白だった。
私は愕然とする。
「わ、私はエミリー。王者だ」
おうじゃ? と首をかしげる弱々しい少年。
ありえない。勇者? 正反対だ。病に伏せた、剣を握ったことも無いような貧弱な少年! こんなのを娶るなど私はなんと愚かな宣言をしたのだろう。
そうだ。命の火が尽き果てる直前――だから魔力で誘惑することができなかったのだ。
食料も無い、助けも来ない、病に侵され死ぬであろう、病弱な少年だから。
「……待っていろ。食料を持ってきてやる」
私は決してこの少年を娶ることはない。こんな貧弱な者は私の夫に相応しくない。
だが、そのまま見殺しにするなど王者のすることではない。
草原から野草や肉の類を集め、焼き、虫取りに塩を振り少年へ渡す。少年は僅かに笑みを浮かべて、病的に細い手でそれを食べる。
「おいしい……ありがとう。ドラゴンさん」
「ふん。王者として当然のことだ」
私は持ち上がりそうになる口角を抑えて言う。何度も咳き込みながらも、少年は私のもってきた食料を食べていく。
「ごほっ。よかったぁ。まだ、大丈夫かも」
この少年はもはや、喋ることすら苦しそうだ。哀れだと思う。治してやりたいと思う。
――私の脳裏に治すための手段が浮かぶ。
魔力を注ぐこと。つまり交わり、夫として認めること――。
「ば、馬鹿な! 有り得ない。絶対に有り得ん! 誰がこんな男を……」
いけない。思わず声に出ていた。頬がとても熱い。
「……そうだ」
ならばせめて、幸せでも与えてやろう。私の巣で視界を埋める宝石でも見せてやろう。人間には決して拝めない景色を。
「人間よ。わ、私の巣に来るがいい。おまえに幸福を与えてやろう。それで病も治る」
「ほんと……? ありがとう。ドラゴンさん」
途中何度も咳き込む少年は私の腕に掴まる力も無く、私が両手で抱いて運ぶことになった。
両手で運ぶということは、熱い少年の体が私の胸を触るわけであり、私自身ほとんど空を飛びながら自慰している気分だった。喘ぎ声を口からもらすことを耐えるだけで平時の数倍の体力を使った。
私の胸は薄い皮膜で覆われているが、それ越しにでもわかるほど勃起する乳首に少年の息遣いやわずかなみじろきが当たって、今まで感じたことの無い快楽を覚える。
これが男性か。これが男か。
襲ってしまいたい。交わりたい。私の本能はそうささやくが、王者としての威厳がそれを押し留める。
私という、女としても最高の存在に抱かれながらも、少年は薄青い目でぼんやりと空を見ていた。私に苛立ちと危機感を同時に覚えさせた。
「どうだ。これで幸せだろう」
私は男性用に作っておいた中央の椅子に少年を座らせ、宝石のブーケを手に握らせる。ルビー、サファイア、エメラルド、オパール……無数の宝石でちりばめた私のコレクションだ。
「うん。綺麗だよ」
「そうだろうそうだろう。思う存分見るがいい。おまえには特別に王者である私が自ら宝石を与えてやるのだからな」
少年はどこかうつろな目のままで、巣の中を飾る宝石を見ていた。
あまりの幸せに忘我の域にあるのだな。ならもっと宝石を集めてやろう。
私は食料の場所を教え、白み始めた空の中を飛びあがる。
溜まりに溜まった本能の疼きは、空中で自慰することで解消した。
「ふふー。エミリー久しぶり。宝石、ほしいの?」
かの集落のドワーフのリーダーは大きく変質していた。頬を高潮させ、まるでインプたちのような淫靡な笑みを浮かべている。
見れば掘り出された宝石が無造作に転がっている。まったく執着などないように。
「いいよいいよ。さっさともっていって。あたしは忙しいのー。もっともーっと突っ込んでもらいたいからねー」
ふらふらと近くのテントに戻っていき、また喘ぐ声がする。
私は宝石をすべて持ち去り、また空中で自慰する。
巣に戻ると、宝石の中に少年は倒れていた。
はぁはぁと荒く息をして、それが明らかに幸せとはかけ離れていて――焦りという感情が私を支配する。
「ど、どうしたのだ! 何が一体……」
私の胸の中で薄く目を開ける。
「ごめんなさい、ドラゴンさん……ぼく……」
「エミリーと呼べ。私の名だ」
「え、エミリーさん。ぼく、ほんとはもう、長くないって旅のお医者様にも言われてて……お父様もお母様も、死んじゃって、大丈夫じゃない、かも……」
「私が、私がいるではないか! 何が欲しいのだ。宝石か? 食料か?」
少年はくすりと笑った。それは苦笑だったのかもしれない。
「……もうちょっとだけ、ぼく、エミリーさんと……」
げほっ、と大きく咳き込んで、少年の口から血が――私の胸にかかる。
血が……。人間の男性の血が……。
私が……!
「あああああああああああああああああああああっ!」
私の咆哮が天を衝き、感情のままの強烈な魔力が身を壊す。鱗が剥がれ落ち、角が折れた。
王者である私は――すぐに理解する。この少年が欲しかったものは宝石などではない。食料でも、たぶんない。
私との何か。何かはわからない。
でも今すべきことを私は理解した。
翼を広げ、魔力を燃やして全力で飛ぶ。
私の知るあらゆる魔物の元へ。
万病を治す薬はないか。
死んだかもしれない男を生き返らせる薬はないか。
無尽蔵とも言われる魔力が尽き掛け、鱗が剥がれ落ち血を流そうとも私はひたすら飛び続け、あらゆる魔物を訊ねる。
「お願いだ。治療薬を譲ってくれ。頼む」
どんな低級の魔物に頭を垂れてでも、どんな望みの薄い魔物に対しても。
どうしてこんなことを、この王者である私が。私がしているのだ。
「……そうか」
私は――わたしは、勘違いしてた。
ドラゴンはなんでもできるわけじゃないし、とってもとっても強いけど、決して万能なんかじゃない。
助けたい人がいるのに助けられないこともある。余裕ぶって自分に嘘ついてたら、何もかわらないんだ。
そう気付く。
尊大な自尊心が砕け、わたしはただがむしゃらに飛ぶ。
助けたい人のために。
何日経ったかもわからなくなった時、私はついに人魚から万病を治すという薬をもらった。その代償は私の誇り高き角と両手の爪。痛くも無い。
「戻ってきたぞ!」
私は宝石の散乱する巣に戻り、もう荒い息すらない少年にそれを飲ませる。
名前でも聞いておきたかった。名前を呼びたかった。でも愚かだった私は名前を聞くこともしなかった。
尊大な自尊心によって。
胸に抱いて、何度も揺すった。
ただ一人の病すら壊せない私の力に打ちひしがれる。
「目を、開けてくれ……」
私はずっとずっと昔のように神に祈る。それが何の神かも知らないで。
――おねがいかみさま。
私は王者であるのに、私より強いものを夢想しただ一心に祈った。
げほっ、と咳き込んで、青い目が開く。
「……エミリー、さん。ちょっと、楽になったかも……うわっ!」
「わあああああああああっ!」
私は興奮のままに、少年に口付けていた。
それは婚礼の証。
別に後悔などしていない。相手の名前も知らずにいきなり襲って精を搾り取るとは下級魔物の所業だろう。冷静な部分はそう言う。
彼――ジェフ=マキスは病から解放され、目に見えて元気になった。
魔物を怖がることもなく、どころか私と一緒にいたいと言ってくれて。
それだけで私は満足だった。
王者としてふさわしくはないだろう。勇者どころか戦士ですらない。趣味は絵を描くことなどというただの人間だ。
だが、それでも私には……ジェフが愛しい。
愛に理由などいらないのだ。ただ愛しい。私は真理に気付いた。
「もう、エミリー……いい加減に絵を描かせてくれないかな」
「まあ待て。私の気が済むまでな」
ジェフは堅牢な樫の椅子に座り、私が宝石でジェフを飾る。この瞬間が私にとって堪らない。
「まったく……まあ、いいけどさ」
気が済むまでジェフを飾り付けて、そして私は、ジェフの膝に頭を乗せる。
「な、なあ。それで今日は、どこで……どこで交わるのだ。ジェフは、どこがいい?」
「うーん。いつも巣の中って言うのもなぁ……」
ジェフがいじわるっぽく笑う。私は高まる性欲のまま胸をジェフにこすりつけながら、どこがいいのかと尋ねる。私はジェフには従うのだ。
「ふふ。それじゃあ、誓いの塔の上で。いいかな?」
ジェフのいた町モルテガ。
その中に建つ塔の上で、私とジェフは交わる。
嬌声を我慢することもなく、ただ思いのままに精を求める。ジェフの指が私の乳首をなでるたびに、私の体は、王者の強靭な体はただ一人の女となっていく。
そこはモルテガと魔物の友好の地。かつて飾られていた像は、魔王の娘リリムのものであったという。
そしてモルテガが何かによって滅ぼされた後、病に伏せるまでジェフのお気に入りの場所だったという。
夕焼けの中、眼下の壊れた町並みが橙に染まる。
「とっても綺麗だと思わない? 世界にぼくたちだけしかいないみたいで……」
ああ、その通りだ。
私の統べる世界。そこにいるのは愛しいジェフと私だけ。
「愛してる。ジェフ」
「ぼくもだよ。エミリー……」
滅びた町の上の、染まり行く橙色の空の下で私たちは唇を重ねる。
これもまた、ドラゴンらしい場所だとジェフは言う。
近いうち、私がこの塔の上に原身で立つ姿を描きたいという。
「怖くないのか?」と訊ねても、「むしろ憧れるぐらいだよ」と笑顔で返され、翌日の朝まで交わりは続く。
ドラゴンの世界。
それは強大な力と大きな大きな愛によって支えられた、王者とその愛する夫の世界。
私の夫こそ、世界一だ。
12/07/29 01:36更新 / 地味
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