サハギンの世界
目覚めるとそこは、水の中。……えっ、水?
「――――っ!?」
本を読んでいるとよく開けっ放しになる口を閉じて天を仰ぐ。かなり浅い。私は急いで泳ぎ水上に顔を出す。冷たく張り付く感触が私には新鮮。口の中の水を吐き出す。
「はぁっ……はぁっ……なに。どうして川に?」
あたりは人気のない渓流。こんなところに来た覚えはない。私は寝ていた? 確か教皇院図書室で『魔力論』を読んでいたはず……。やっと順番が回ってきた、ケミー・ウェルズが最初に記した対魔物学のバイブルの一つなのに眠るなんてあり得ない。もちろん手元に本はないし、澄んだ川の中にもない。
「ここは……?」
辺りを見回す。私に植物学の知識があれば良かったのだけど、あたりに自生する植物から場所を判別することは出来ない。
ならばせめて気候で、と手を水上に出す。
「……なに? これ」
蒼い、ヒレのように変質した私の手。水掻きのようにも見える。ぐーぱーぐーぱーとしてみると、私の思い通りに動く。ぬめりとした粘液が手を覆っている。
「こ、これ……魔物……?」
反対の手も同じ。体も。ぴったりと胴に張り付くような衣服を着て、僅かな力で立ち泳ぎする足もそうだ。そして臀部のあたりから、魚類の尾びれのようなものが生えている。それも動かし方など知らないはずなのに、動かせる。
私は、水棲の魔物になった……?
「……魔力との接触? 教皇院の中で……?」
ありえない。最も神聖な場所で魔力なんて。でもどうして、それなら私が魔物になる?
私は、対魔物学の学者志望。高等教育を終えて、やっと入れた教皇院で対魔物学を学び、将来はレスカティエ奪還に行きたいと思っていた。別に魔物に恨みがあるわけじゃない。そうすれば飢えることはなくなるし、家族も良い暮らしが出来る。長女としての務め、かもしれない。
それとも、勉強以外何の才能もなかったから……なんてことかもね。
そんな私は、魔王の代替わりで変質した魔物のことは知っているし、女性は魔力を受けると魔物化することも知っている。
お母さんも友達もしきりに心配していたけど、杞憂だと流していた私が魔物になるなんて。
「……はぁ」
現在のところ、魔物化した女性を元に戻す方法はないし、その実験は枢密院から止められていると聞いた。なら私は…………。
「……そうだ。この姿ならレスカティエに入れる」
なんて皮肉。でも、この姿で堂々とレスカティエを調べ、その資料をまとめて妹のリシュにでも渡せば、名誉賞を賜ることも出来るだろう。
「急がないと、まずそうね」
知識も中途半端、読了していない本もたくさんある。そういった未練は、どうしてかあまり沸かなかった。
私は放浪の学者が記したらしい『魔物図鑑』に触れたことはなかったが、おそらく私のこの姿はサハギンではないだろうかとそれから数時間で断定した。川で主に魚を捕り、男性を川に引きずり込む獰猛な魔物だ。
「私の精神に、特に変わりはないか」
元々男とはあんまり縁がないけれど、別にお父さんや教皇院の先輩のことを思い浮かべても欲情はしない。この魔物化したときの状態をレポートにまとめるのも良いかもしれない。私自身、お金も欲しい。買いたい本はたくさんある。
私は日が沈むまでに、武器と寝床の確保にかかることにした。軍に身を置いたことはまったくないのに、なぜか私は石を削り尖頭器を作り、それで倒木を削って銛を作っていた。サハギンとしての本能? わからない。
銛は私の水かきの手によくなじむ。
「……魚、が食べたい」
間食する習慣があったせいか、私は川に潜り、川底を泳ぐ魚を銛で狩った。水泳は練習したこともないのに、足と尾びれで恐ろしく早く泳げて、とてもきもちいい。癖になりそう。水が夕焼けでキラキラと光る様子がとても美しい。
火はないが、私は生で数匹を食べた。水っぽいが、それがまたいい。
「……川の中のほうがいい」
寝床を森の中に作ろうと思ったけど、どうにも川の中のほうが落ち着く。穏やかな流れに身を任せると、そのまま眠りたくなる。
明日から。明日から、レスカティエへの道を探そう。
そして三日が過ぎる。私はレポートを十枚書けるぐらいにはこの体を知り、このへんの地形を知った。魚がどこに溜まっているかとか、どこから見た空の眺めが綺麗かとか。
大きな森の中で、危険な魔物やエルフなどの亜人種はいない。そして私は海に出ることが出来ない。塩水で体を覆う粘膜が痛んでしまう。
それなら川をさかのぼるしかないとわかってはいるけど、どうにも、元々家や図書室に引きこもり気味だったせいか動く気がしない。
「……きれい」
まだ人間だった頃は意識したこともなかったけど、森は美しい。詩でも書けそうなほどだ。川底に張り付く藻や岩の隙間で卵を産み育てる小さな魚もまた、愛しい気持ちになる。
「……はぁ」
海辺にある岩に張り付き、そこに身を預けることが最近見つけた新しい感覚。なんだか触覚が鋭くなっている気がする。冷たい岩が私のむき出しの腕や腿を撫ぜるとき、しびれるような快感が走るのだ。
「んっ……」
小さな虫が服の内に入った。……まずい。こんなことで感じるなんて。どうしよう。水の中へ戻ろう。いやでも、このまま身を任せるのもいいかもしれない……。
私はとがった岩肌の上で、小さな喘ぎ声をあげ身をよじる。そうやって静謐な自然の中で自慰することも最近のお気に入り。
……人間から踏み外している気がしなくもないけど、快楽に従うことも楽しい。人間時代はなにかと禁欲的だったから、私だってストレスが溜まることもあったんだ。
生活に変化が起きたのは、二日後ぐらいのこと。
「……?」
ここ最近、なぜか口を使うことが少ない。
喋るより、体で何かを伝えるほうが良い気がするから。せっかくこの敏感な体があるんだから。合理的で、特に矛盾もない。
その伝える相手が、川辺にいる。長い黒髪、顔の横や体から飛び出たヒレ。よく見れば私のヒレと形が違う。弧の描き方が鋭利だ。そして頬や腿に、青い波のような模様が浮いている。私にはない。
彼女は私に気付くと、川に戻り泳いで近寄ってくる。どうしよう。緊張する。
「あ…………んっ!」
いきなり唇を重ねられた。舌と舌が重なる。熱っぽい親愛の情をそこから感じる。私も舌を動かし、それに応える。
近くで見ると、彼女はとても可愛い。ぱっちりと開いた紺碧の目が綺麗で、左目になきぼくろがある。私は一瞬で彼女に心奪われた。
「んっ……」
彼女のぬめった手が私の背ビレに触れ、つうっと指先が根元へ伝う。私もそれに返す。彼女はこの山の上にいた。強くなる季節風の行く末を確かめたくてここに来た。
ぴちゃりと音をたてて唇がまた重なる。私は少し首をひねる。レスカティエ……と言ってもわからないか。なら、この近くの人里が知りたい。
「……わたしが知りたいぐらい」
言葉に出すってことはよっぽど知りたいんだ。私も同じ。気が合うね。
「……感覚? 欲しい?」
彼女は口だけを動かして問いかける。
「うん」
でもどうやって感覚をもらうのだろう? と思っていたら、彼女は川底の石を一つ取り、それに口付けた。石が青く変色していく。魔法だ。こうやって魔法を使うんだ。すごい。
「……感応石、って言う」
受け取ってなでると、確かに彼女の感触を全身で感じる。私は彼女をぎゅっと抱きしめた。幸せ。ずっとこうしていたい。
「……マナーわるい」
むっとしてつき返された。ご、ごめんなさい。まだ成り立てだからわからなくて。
「……教えてあげる」
ありがとう。私は素直にそう思った。
何日間か、鋭敏な彼女にサハギンとしてのルールを教わった。抱きつくのは心からの喜びの時と、別れの時。ヒレを触れ合わせたり、指先だけを使うのが普通。魚はとりすぎない。
私に教えてくれるたびに、私の胸はどきどきする。性欲とかじゃなくて、サハギンとしての振舞い方を知るほど楽しくなるし、友達と一緒にいることはわくわくする。
彼女は孤高だから、頬をつけ、ヒレをこすりつけるのが私なりの精一杯の甘え。いいんだ。心の中で楽しむから。頬のぷにぷに具合がもうたまらない。かじりつきたい。
私の心は遠海のようにいつも揺らめき、すべての感触に大波が起きる。
彼女の感触の気持ちよさを言葉にすることは難しい。私たちにとって言葉とは、体で伝えづらい概念を伝えるためのものであって、それと同時に、いつか必ず結ばれる人間の男性との事務的会話の手段でもある。
どんな男の人と私は交わるんだろう。楽しみ。
サハギンとは個人主義で、ふつう、伴侶がいない限りは一人で過ごす。だから彼女を引き止めたいなら、私は彼女に満足を与えなきゃいけない。
「……詩?」
サハギンは詩や読書を嗜む性質がある。
私たちの感覚は言葉に置換することが難しいけど、詩をつむぐことは出来る。彼女の詩はどこか厭世的で、しかしそれゆえに、美しい。
もっと詩情を知らないと、サハギンとして生きていけないし……いつか出会う男性と交われないかもしれない。それは困る。
「…………?」
何かするべきことがあった気がするけど、思い出せない。記憶とは、自然の中では曖昧なものだ。
とにかく、私は詩を書いて彼女を引き止めたかった。でもうまく書けない。元々私は学術書・実用書ばかり読んでいたから、文学には疎かった。ああもう。どうしてそんな堅い本ばかり読んでいたんだろう。何にも面白くない。
私は山の上まで川を遡り、いつもと違う景色を見たけど何も浮かばない。きらきらと樹下に降り注ぐ光芒も、独特の音色を奏でる森の鳥も綺麗だとは強く思うけど、それを言葉に出来ない。
……どうしよう。
心にどしゃぶりの雨が降るよう。私は雨が好き。私の肌を、私の衣服の内を伝うのはとても気持ちがいい。だけど心に降る雨は不安だけを掻きたてる。
私は口から水を体内に含み、森の空き地まで歩く。ぺたん、ぺたんと水かきの足音がよく響く。歩くと体の中で水が揺れて気持ち悪い。地上での暮らしは難しい。
「あれー? なんか見ない顔がいるじゃん」
舞い散る蒼の羽と羽音に、私は天を仰ぐ。自然の中の色という色を集めたような、輝く色の鳥の女性が降りてきた。ひゅうっと口笛をふいて、翼の手で口元を覆う。
「へぇーサハギンって陸でも活動できたんだ? 意外ー。あ、アタシはカリハラ。このへんじゃ『暴風を呼ぶ女』って恐れられてるのよ?」
私はどうしようか少し考え、水かきでそっと彼女の翼を掴もうとする。カリハラは驚いて身をひねり私をかわす。
「ちょっ、何っ!? 何いきなり!?」
「……感触」
「え? 何?」
どうしよう。うまく伝えられない。どうしようどうしよう……。
「……舞い散る羽は、私の手では掴めない」
心から洩れた言葉をそのまま出すと、なんだかとても抽象的な物言いになった。でもカリハラは「ふぅん……?」と紫色の興味のまなざしを向ける。
「さっきのもしかして、あんたたちなりの歌? サハギンって歌がわかるんだ?」
「……ん」
私は重い体を動かして頷く。サハギンのコミュニケーションにはない動きだ。
カリハラはふふっと笑って、翼の手で私の顎を触った。人好きのしそうな笑顔がまぶしく、うらやましいなと思った。
「へぇー……新しいインスピ得られるかも。ね、あんた、ちょっとアタシとお茶しない?」
「……川、に、来て」
「おっけーおっけー。最近とんと人が来なくて退屈だったのよねぇー。なんか少し前の魔力の風で番いは発情してみーんな住処にこもっちゃったし。独り身は辛いわー」
額に翼の手をあて、一目でわかる残念の表現をする。私たちには出来ないことだ。
川に戻り、私の精神はクリアになる。カリハラは私の銛にひどく興味をもっていた。
カリハラは背が高く、体を覆う露出の高い服装も、人間のような髪留め、髪型もいかにも男をひきつけそうだ。
「ね、あんたさっきアタシに触ろうとしたけど、何だったの? アタシを食べようとしたわけじゃないわよね?」
「……触れる温もりで、伝わる」
どうしても具体的なことがいえないけど、これもまた詩情に通じていそうでいいかなと思った。
「ふーん、サハギンってそうやって交流してんだ。ま、アタシらセイレーンはその真逆、歌や踊りで交流するんだけどね。アタシらにとってこの声は命! 歌えばどんな魔物も発情するって評判よ?」
彼女が短くさえずると、川の水がふわりと振動する。その揺れは私の体にも伝わり、冷たい水の内でも熱を感じる。
「うーん、じゃ、今回はあんたに合わせてあげる。喉と胸以外だったら触っていいわ」
はにかんでウィンクして、カリハラは川の中へ足を踏み入れる。私は半身で立って、その翼の手に触れた。
「あっ……」
私の手に馴染まない、新鮮な感覚。電撃のような感覚だった。私は一度息を吐いて整えて、気持ちを伝える。
「んー……詩? に? 憧れ? いや、書きたい? 詩を書きたい? あ、当たりか。不思議ー。なんか、なんとなく伝わってくる。きゃははっ」
とても可笑しそうに笑う。
「いいよー。教えたげる。サハギン界に新たな旋風を起こしちゃいな。じゃ、ちょっと耳貸して」
カリハラは私の体に密着し、ヒレの間に隠れた耳へ口を近づける。彼女の魔力がこもった歌の吐息が、私の芯までを揺さぶる。
「ひゃっ……」
絶頂に至るまでの昂りに似た恍惚。荒れ狂う感情の中に、その隙間を縫う糸のように、詩の心得が、セイレーンの歌の形が流動する。
「ふふん? やっぱり感じちゃうよねー? なんかイきかけのとこ見ると親近感わくわー。海と空で正反対だけど根っこのとこは同じなのよねーアタシたち。じゃ、もうちょっと教えてあげる」
ささやく歌がまた私に流れ込む。
「はぁっ……うくっ……」
私は程なく物理的な何を使わずとも絶頂に達し、カリハラにますます気に入られた。
翌日。私が生まれた海辺に一人で戻り、男性を求めて旅立つ彼女に詩を与えた。まるでカリハラの歌声が私に宿ったように、私の言葉は私の気持ちに彩りを添え、詩として昇華していた。
大切な友人との別れを惜しみつつ、未来の彼女の幸せを願う詩。
彼女は私の手を握ったまま、わずかな驚きを顔ににじませた。私にはそれが、彼女にとって嵐のような感情の変化だと知っている。
「……ありがとう」
私と彼女は抱きしめあった。そして口づけあった。間近で見る彼女の顔と、彼女の頬に刻まれた青い入れ墨の形を私は忘れない。
「……あなたに、幸運を」
彼女は私の頬に口付けた。それは気持ちを伝えるためではなく――痺れるような感触が頬から首へ、足先まで細く広がっていく。皮膚がひりつく。
「……きっと、あなたもすぐに素敵な男性と出会える」
流れる川に、私がぼんやりと映っている。その頬や手、腿に鋭利な青い入れ墨が刻まれている。
これはサハギンの幸運の証。そして、もう子どもではない旅する者の証。
サハギンは同族との別れで涙を流さない。私に別れが寂しいという感情はない。彼女の感触が宿った石と、彼女の魔力が常に私を包んでいるから。
それから更に何日か、何週間か、何ヶ月かが過ぎた。
豊穣な土地でも、同じところにとどまれば魚を取りつくしてしまう。私はそれから川を遡り、近くの湖に身を移した。あれから彼女とも、カリハラとも会っていない。
でも私の脳には、彼女の体の感触も、カリハラの感触も、一片も褪せずに残っている。その姿も。彼女のわずかに驚いた顔やカリハラの笑顔は、特に鮮烈に輝いている。
サハギンは一度覚えた人は決して忘れない。その癖も、その挙動の一つも。言葉を介さないそれらすべてが、私たちの心で輝く思い出となる。
毎夜毎夜思い出し、月光を抱きながら私は穏やかな湖で眠った。青い月光は光という抽象を越えて私を包み、私は詩を書き、私の心にとどめ続けた。
波のない水の上に浮き、空を眺める。時折魚がやってきて私の尾びれやヒレをつつく。そのくすぐったさが気持ちいい。湖底に潜り、偏光する空を眺めることも、とても楽しい。
すべてが私の揺り籠のよう。
珍しく空が曇った日、私は湖のほとりに人間を見つけた。
潜って近づく。銛を握る手が震える。
それは、白衣をまとった男性。
「っ……!」
心臓がすごい速さで鼓動を刻み始める。どうしようどうしよう。
男性だ。人間の男性がいる。理知的な眼鏡、文民に関わらず鍛えられた、質実剛健な男性だ。
私の表情は何も変わらない。だけど私の心はどこまでも焦っていた。
焚き火の横に何冊かの本を置き、鞄から何らかの器具を取り出している。こっちには気付いていない。
そっと水中から近づき、様子を伺う――
「誰だい? そこにいるのは」
ばれた! どうしよう! 隠れてたのにいきなり意識された! 嬉しいけどでも!
私はそっと顔だけを出す。微笑を浮かべた男性は私の姿を見て「ああ」と声を上げる。とても綺麗な声……。
「サハギンか。見るのは初めてだね。こんにちは」
「…………っ」
私は何もいえない。言えるような胸の内ではなかった。男性を目にして、話しかけられただけでこんなに緊張するなんて! と、とりあえず喜んでもらいたいけど、どうすれば。
「あー……やっぱり言葉は使わないのか。報告通りだね。ははっ」
わ、笑った! 笑ってくれた! よかった。笑った顔がとても美しくて、もう目が離せない。
「あ、僕はマクガネル=ロッソ。『聖都』……ってわかるかな? そこで一応対魔物学の研究してたんだけど、いつのまにか魔物になんか純粋に愛着わいて追い出されちゃって、それどころか親魔物派の重罪人として命狙われる始末でね。ははっ」
対魔物学……聖都……どこかで聞いたことがある気がする。でもそんなものはどうでもよくて、その理知的な口調に私の心はもう虜になっていた。
ただ、私の表情はどこまでも変わらない。だから彼、マクガネルに気付かれることはない。
「ここで魔力嵐が起きたって聞いて来たんだけど……見つけた魔物は君だけだったよ。まあそれでも、会えてよかった。よろしく」
マクガネルが手を差し出してくる。私はその手を握る。
「あっ…………っ」
体すべてが彼という男に反応する。見た目にはびくんと体が一度震えただけだけど、私の心はもう彼と交わることしか考えていなかった。彼と交わり一つになり、精を得ることだけ。
彼に触れたその手に全ての感覚が集中し、その少し硬い感触が私を燃え上がらせる。
「一人、なのかな? 仲間とはぐれてしまったの?」
マクガネルが心配そうに訊いて来る。その心配は的外れだけど、気にかけてくれたことがもう嬉しすぎてどうにかなってしまいそう。いや既に、私は彼の口の動き、彼のわずかな顔のしわ一つまで完璧に記憶に刻み付けていた。
「…………嬉しい」
「えっ?」
私の口はついに動いた。男性を見つけ、その男性を愛すると誓ったその時に、サハギンの私の口は動いた。
「……あなたを、愛してる」
私は半身を水上に出し、そのまま彼に抱きつく。彼は驚いているけど、私を軽く抱きしめ返してくれた。
私は彼に口付ける。心の中には彼と交わることしかなかった。私は片手で私の纏う服をずらす。青い入れ墨がぼんやりと光る。
「そうか……君もやっぱり、人間が好きなんだね。そういう素直なとこに、あのときの僕も惹かれたのかもしれないな……」
私は彼を水の中へ引きずり込む。重ねた唇から、彼に必要な酸素を与える。彼は笑って、白衣を脱いだ。私も衣服を脱ぎ、はぁっと熱い吐息を送る。私の気持ちのままに。
「君の、名前は……?」
私は少し考えて――サハギンは名前を持たないから――ふと頭の片隅に残った、短い女性の名前を口にしていた。
それを伝えると同時に、私は両手で、彼の頬に触れた。
心の中から溢れる感情のままに、笑った。
マクガネルが、とても驚いた顔をする。私の笑顔とはどんなだろう。知りたいけれど、それはすぐにわかるはず。
この先伴侶となる彼と交わるたび、私はきっと笑顔を浮かべるから。
この笑顔も、私がささやく愛の言葉も、彼だけのもの。
「……大好き。マクガネル」
それから先、私は川辺で彼と愛のまま交わった。私は変わらず、交わるとき以外は無表情で、それをからかわれることもあるけど、それもまた心地良い。
交わるたびに、「やっぱり君の笑顔は綺麗だ」とほめてくれるから。
彼の感触は何度交わろうとも飽きない。交わるたび、私の口からは新しい詩が洩れる。私の詩情も彼はほめてくれた。
彼は私に、シー・ビショップの存在を教えてくれた。シー・ビショップたちは人間の男性を水の中でも生きられるよう変える力を持っているらしい。
だから私はこれから、彼との交わりで得た魔力を使って海へ行く。彼と共に。
ついでに文字も習おうと思う。私の詩を後世に残したいと言ってくれたから……私にも何か才能はあった。それが嬉しかった。
いつか私の詩が人間世界の本屋に並ぶかもしれない――笑ってそんなことを言っていた。本当にそうなれば、嬉しいな。
サハギンの世界は、永久に忘れない無数の感覚と共に、自然の中に生きること。連なり続ける愛しい人の挙動一つ一つで、無数の言葉がつむがれていく。
私は大いなる水の中に抱かれて、愛しい人と過ごし続ける。
「――――っ!?」
本を読んでいるとよく開けっ放しになる口を閉じて天を仰ぐ。かなり浅い。私は急いで泳ぎ水上に顔を出す。冷たく張り付く感触が私には新鮮。口の中の水を吐き出す。
「はぁっ……はぁっ……なに。どうして川に?」
あたりは人気のない渓流。こんなところに来た覚えはない。私は寝ていた? 確か教皇院図書室で『魔力論』を読んでいたはず……。やっと順番が回ってきた、ケミー・ウェルズが最初に記した対魔物学のバイブルの一つなのに眠るなんてあり得ない。もちろん手元に本はないし、澄んだ川の中にもない。
「ここは……?」
辺りを見回す。私に植物学の知識があれば良かったのだけど、あたりに自生する植物から場所を判別することは出来ない。
ならばせめて気候で、と手を水上に出す。
「……なに? これ」
蒼い、ヒレのように変質した私の手。水掻きのようにも見える。ぐーぱーぐーぱーとしてみると、私の思い通りに動く。ぬめりとした粘液が手を覆っている。
「こ、これ……魔物……?」
反対の手も同じ。体も。ぴったりと胴に張り付くような衣服を着て、僅かな力で立ち泳ぎする足もそうだ。そして臀部のあたりから、魚類の尾びれのようなものが生えている。それも動かし方など知らないはずなのに、動かせる。
私は、水棲の魔物になった……?
「……魔力との接触? 教皇院の中で……?」
ありえない。最も神聖な場所で魔力なんて。でもどうして、それなら私が魔物になる?
私は、対魔物学の学者志望。高等教育を終えて、やっと入れた教皇院で対魔物学を学び、将来はレスカティエ奪還に行きたいと思っていた。別に魔物に恨みがあるわけじゃない。そうすれば飢えることはなくなるし、家族も良い暮らしが出来る。長女としての務め、かもしれない。
それとも、勉強以外何の才能もなかったから……なんてことかもね。
そんな私は、魔王の代替わりで変質した魔物のことは知っているし、女性は魔力を受けると魔物化することも知っている。
お母さんも友達もしきりに心配していたけど、杞憂だと流していた私が魔物になるなんて。
「……はぁ」
現在のところ、魔物化した女性を元に戻す方法はないし、その実験は枢密院から止められていると聞いた。なら私は…………。
「……そうだ。この姿ならレスカティエに入れる」
なんて皮肉。でも、この姿で堂々とレスカティエを調べ、その資料をまとめて妹のリシュにでも渡せば、名誉賞を賜ることも出来るだろう。
「急がないと、まずそうね」
知識も中途半端、読了していない本もたくさんある。そういった未練は、どうしてかあまり沸かなかった。
私は放浪の学者が記したらしい『魔物図鑑』に触れたことはなかったが、おそらく私のこの姿はサハギンではないだろうかとそれから数時間で断定した。川で主に魚を捕り、男性を川に引きずり込む獰猛な魔物だ。
「私の精神に、特に変わりはないか」
元々男とはあんまり縁がないけれど、別にお父さんや教皇院の先輩のことを思い浮かべても欲情はしない。この魔物化したときの状態をレポートにまとめるのも良いかもしれない。私自身、お金も欲しい。買いたい本はたくさんある。
私は日が沈むまでに、武器と寝床の確保にかかることにした。軍に身を置いたことはまったくないのに、なぜか私は石を削り尖頭器を作り、それで倒木を削って銛を作っていた。サハギンとしての本能? わからない。
銛は私の水かきの手によくなじむ。
「……魚、が食べたい」
間食する習慣があったせいか、私は川に潜り、川底を泳ぐ魚を銛で狩った。水泳は練習したこともないのに、足と尾びれで恐ろしく早く泳げて、とてもきもちいい。癖になりそう。水が夕焼けでキラキラと光る様子がとても美しい。
火はないが、私は生で数匹を食べた。水っぽいが、それがまたいい。
「……川の中のほうがいい」
寝床を森の中に作ろうと思ったけど、どうにも川の中のほうが落ち着く。穏やかな流れに身を任せると、そのまま眠りたくなる。
明日から。明日から、レスカティエへの道を探そう。
そして三日が過ぎる。私はレポートを十枚書けるぐらいにはこの体を知り、このへんの地形を知った。魚がどこに溜まっているかとか、どこから見た空の眺めが綺麗かとか。
大きな森の中で、危険な魔物やエルフなどの亜人種はいない。そして私は海に出ることが出来ない。塩水で体を覆う粘膜が痛んでしまう。
それなら川をさかのぼるしかないとわかってはいるけど、どうにも、元々家や図書室に引きこもり気味だったせいか動く気がしない。
「……きれい」
まだ人間だった頃は意識したこともなかったけど、森は美しい。詩でも書けそうなほどだ。川底に張り付く藻や岩の隙間で卵を産み育てる小さな魚もまた、愛しい気持ちになる。
「……はぁ」
海辺にある岩に張り付き、そこに身を預けることが最近見つけた新しい感覚。なんだか触覚が鋭くなっている気がする。冷たい岩が私のむき出しの腕や腿を撫ぜるとき、しびれるような快感が走るのだ。
「んっ……」
小さな虫が服の内に入った。……まずい。こんなことで感じるなんて。どうしよう。水の中へ戻ろう。いやでも、このまま身を任せるのもいいかもしれない……。
私はとがった岩肌の上で、小さな喘ぎ声をあげ身をよじる。そうやって静謐な自然の中で自慰することも最近のお気に入り。
……人間から踏み外している気がしなくもないけど、快楽に従うことも楽しい。人間時代はなにかと禁欲的だったから、私だってストレスが溜まることもあったんだ。
生活に変化が起きたのは、二日後ぐらいのこと。
「……?」
ここ最近、なぜか口を使うことが少ない。
喋るより、体で何かを伝えるほうが良い気がするから。せっかくこの敏感な体があるんだから。合理的で、特に矛盾もない。
その伝える相手が、川辺にいる。長い黒髪、顔の横や体から飛び出たヒレ。よく見れば私のヒレと形が違う。弧の描き方が鋭利だ。そして頬や腿に、青い波のような模様が浮いている。私にはない。
彼女は私に気付くと、川に戻り泳いで近寄ってくる。どうしよう。緊張する。
「あ…………んっ!」
いきなり唇を重ねられた。舌と舌が重なる。熱っぽい親愛の情をそこから感じる。私も舌を動かし、それに応える。
近くで見ると、彼女はとても可愛い。ぱっちりと開いた紺碧の目が綺麗で、左目になきぼくろがある。私は一瞬で彼女に心奪われた。
「んっ……」
彼女のぬめった手が私の背ビレに触れ、つうっと指先が根元へ伝う。私もそれに返す。彼女はこの山の上にいた。強くなる季節風の行く末を確かめたくてここに来た。
ぴちゃりと音をたてて唇がまた重なる。私は少し首をひねる。レスカティエ……と言ってもわからないか。なら、この近くの人里が知りたい。
「……わたしが知りたいぐらい」
言葉に出すってことはよっぽど知りたいんだ。私も同じ。気が合うね。
「……感覚? 欲しい?」
彼女は口だけを動かして問いかける。
「うん」
でもどうやって感覚をもらうのだろう? と思っていたら、彼女は川底の石を一つ取り、それに口付けた。石が青く変色していく。魔法だ。こうやって魔法を使うんだ。すごい。
「……感応石、って言う」
受け取ってなでると、確かに彼女の感触を全身で感じる。私は彼女をぎゅっと抱きしめた。幸せ。ずっとこうしていたい。
「……マナーわるい」
むっとしてつき返された。ご、ごめんなさい。まだ成り立てだからわからなくて。
「……教えてあげる」
ありがとう。私は素直にそう思った。
何日間か、鋭敏な彼女にサハギンとしてのルールを教わった。抱きつくのは心からの喜びの時と、別れの時。ヒレを触れ合わせたり、指先だけを使うのが普通。魚はとりすぎない。
私に教えてくれるたびに、私の胸はどきどきする。性欲とかじゃなくて、サハギンとしての振舞い方を知るほど楽しくなるし、友達と一緒にいることはわくわくする。
彼女は孤高だから、頬をつけ、ヒレをこすりつけるのが私なりの精一杯の甘え。いいんだ。心の中で楽しむから。頬のぷにぷに具合がもうたまらない。かじりつきたい。
私の心は遠海のようにいつも揺らめき、すべての感触に大波が起きる。
彼女の感触の気持ちよさを言葉にすることは難しい。私たちにとって言葉とは、体で伝えづらい概念を伝えるためのものであって、それと同時に、いつか必ず結ばれる人間の男性との事務的会話の手段でもある。
どんな男の人と私は交わるんだろう。楽しみ。
サハギンとは個人主義で、ふつう、伴侶がいない限りは一人で過ごす。だから彼女を引き止めたいなら、私は彼女に満足を与えなきゃいけない。
「……詩?」
サハギンは詩や読書を嗜む性質がある。
私たちの感覚は言葉に置換することが難しいけど、詩をつむぐことは出来る。彼女の詩はどこか厭世的で、しかしそれゆえに、美しい。
もっと詩情を知らないと、サハギンとして生きていけないし……いつか出会う男性と交われないかもしれない。それは困る。
「…………?」
何かするべきことがあった気がするけど、思い出せない。記憶とは、自然の中では曖昧なものだ。
とにかく、私は詩を書いて彼女を引き止めたかった。でもうまく書けない。元々私は学術書・実用書ばかり読んでいたから、文学には疎かった。ああもう。どうしてそんな堅い本ばかり読んでいたんだろう。何にも面白くない。
私は山の上まで川を遡り、いつもと違う景色を見たけど何も浮かばない。きらきらと樹下に降り注ぐ光芒も、独特の音色を奏でる森の鳥も綺麗だとは強く思うけど、それを言葉に出来ない。
……どうしよう。
心にどしゃぶりの雨が降るよう。私は雨が好き。私の肌を、私の衣服の内を伝うのはとても気持ちがいい。だけど心に降る雨は不安だけを掻きたてる。
私は口から水を体内に含み、森の空き地まで歩く。ぺたん、ぺたんと水かきの足音がよく響く。歩くと体の中で水が揺れて気持ち悪い。地上での暮らしは難しい。
「あれー? なんか見ない顔がいるじゃん」
舞い散る蒼の羽と羽音に、私は天を仰ぐ。自然の中の色という色を集めたような、輝く色の鳥の女性が降りてきた。ひゅうっと口笛をふいて、翼の手で口元を覆う。
「へぇーサハギンって陸でも活動できたんだ? 意外ー。あ、アタシはカリハラ。このへんじゃ『暴風を呼ぶ女』って恐れられてるのよ?」
私はどうしようか少し考え、水かきでそっと彼女の翼を掴もうとする。カリハラは驚いて身をひねり私をかわす。
「ちょっ、何っ!? 何いきなり!?」
「……感触」
「え? 何?」
どうしよう。うまく伝えられない。どうしようどうしよう……。
「……舞い散る羽は、私の手では掴めない」
心から洩れた言葉をそのまま出すと、なんだかとても抽象的な物言いになった。でもカリハラは「ふぅん……?」と紫色の興味のまなざしを向ける。
「さっきのもしかして、あんたたちなりの歌? サハギンって歌がわかるんだ?」
「……ん」
私は重い体を動かして頷く。サハギンのコミュニケーションにはない動きだ。
カリハラはふふっと笑って、翼の手で私の顎を触った。人好きのしそうな笑顔がまぶしく、うらやましいなと思った。
「へぇー……新しいインスピ得られるかも。ね、あんた、ちょっとアタシとお茶しない?」
「……川、に、来て」
「おっけーおっけー。最近とんと人が来なくて退屈だったのよねぇー。なんか少し前の魔力の風で番いは発情してみーんな住処にこもっちゃったし。独り身は辛いわー」
額に翼の手をあて、一目でわかる残念の表現をする。私たちには出来ないことだ。
川に戻り、私の精神はクリアになる。カリハラは私の銛にひどく興味をもっていた。
カリハラは背が高く、体を覆う露出の高い服装も、人間のような髪留め、髪型もいかにも男をひきつけそうだ。
「ね、あんたさっきアタシに触ろうとしたけど、何だったの? アタシを食べようとしたわけじゃないわよね?」
「……触れる温もりで、伝わる」
どうしても具体的なことがいえないけど、これもまた詩情に通じていそうでいいかなと思った。
「ふーん、サハギンってそうやって交流してんだ。ま、アタシらセイレーンはその真逆、歌や踊りで交流するんだけどね。アタシらにとってこの声は命! 歌えばどんな魔物も発情するって評判よ?」
彼女が短くさえずると、川の水がふわりと振動する。その揺れは私の体にも伝わり、冷たい水の内でも熱を感じる。
「うーん、じゃ、今回はあんたに合わせてあげる。喉と胸以外だったら触っていいわ」
はにかんでウィンクして、カリハラは川の中へ足を踏み入れる。私は半身で立って、その翼の手に触れた。
「あっ……」
私の手に馴染まない、新鮮な感覚。電撃のような感覚だった。私は一度息を吐いて整えて、気持ちを伝える。
「んー……詩? に? 憧れ? いや、書きたい? 詩を書きたい? あ、当たりか。不思議ー。なんか、なんとなく伝わってくる。きゃははっ」
とても可笑しそうに笑う。
「いいよー。教えたげる。サハギン界に新たな旋風を起こしちゃいな。じゃ、ちょっと耳貸して」
カリハラは私の体に密着し、ヒレの間に隠れた耳へ口を近づける。彼女の魔力がこもった歌の吐息が、私の芯までを揺さぶる。
「ひゃっ……」
絶頂に至るまでの昂りに似た恍惚。荒れ狂う感情の中に、その隙間を縫う糸のように、詩の心得が、セイレーンの歌の形が流動する。
「ふふん? やっぱり感じちゃうよねー? なんかイきかけのとこ見ると親近感わくわー。海と空で正反対だけど根っこのとこは同じなのよねーアタシたち。じゃ、もうちょっと教えてあげる」
ささやく歌がまた私に流れ込む。
「はぁっ……うくっ……」
私は程なく物理的な何を使わずとも絶頂に達し、カリハラにますます気に入られた。
翌日。私が生まれた海辺に一人で戻り、男性を求めて旅立つ彼女に詩を与えた。まるでカリハラの歌声が私に宿ったように、私の言葉は私の気持ちに彩りを添え、詩として昇華していた。
大切な友人との別れを惜しみつつ、未来の彼女の幸せを願う詩。
彼女は私の手を握ったまま、わずかな驚きを顔ににじませた。私にはそれが、彼女にとって嵐のような感情の変化だと知っている。
「……ありがとう」
私と彼女は抱きしめあった。そして口づけあった。間近で見る彼女の顔と、彼女の頬に刻まれた青い入れ墨の形を私は忘れない。
「……あなたに、幸運を」
彼女は私の頬に口付けた。それは気持ちを伝えるためではなく――痺れるような感触が頬から首へ、足先まで細く広がっていく。皮膚がひりつく。
「……きっと、あなたもすぐに素敵な男性と出会える」
流れる川に、私がぼんやりと映っている。その頬や手、腿に鋭利な青い入れ墨が刻まれている。
これはサハギンの幸運の証。そして、もう子どもではない旅する者の証。
サハギンは同族との別れで涙を流さない。私に別れが寂しいという感情はない。彼女の感触が宿った石と、彼女の魔力が常に私を包んでいるから。
それから更に何日か、何週間か、何ヶ月かが過ぎた。
豊穣な土地でも、同じところにとどまれば魚を取りつくしてしまう。私はそれから川を遡り、近くの湖に身を移した。あれから彼女とも、カリハラとも会っていない。
でも私の脳には、彼女の体の感触も、カリハラの感触も、一片も褪せずに残っている。その姿も。彼女のわずかに驚いた顔やカリハラの笑顔は、特に鮮烈に輝いている。
サハギンは一度覚えた人は決して忘れない。その癖も、その挙動の一つも。言葉を介さないそれらすべてが、私たちの心で輝く思い出となる。
毎夜毎夜思い出し、月光を抱きながら私は穏やかな湖で眠った。青い月光は光という抽象を越えて私を包み、私は詩を書き、私の心にとどめ続けた。
波のない水の上に浮き、空を眺める。時折魚がやってきて私の尾びれやヒレをつつく。そのくすぐったさが気持ちいい。湖底に潜り、偏光する空を眺めることも、とても楽しい。
すべてが私の揺り籠のよう。
珍しく空が曇った日、私は湖のほとりに人間を見つけた。
潜って近づく。銛を握る手が震える。
それは、白衣をまとった男性。
「っ……!」
心臓がすごい速さで鼓動を刻み始める。どうしようどうしよう。
男性だ。人間の男性がいる。理知的な眼鏡、文民に関わらず鍛えられた、質実剛健な男性だ。
私の表情は何も変わらない。だけど私の心はどこまでも焦っていた。
焚き火の横に何冊かの本を置き、鞄から何らかの器具を取り出している。こっちには気付いていない。
そっと水中から近づき、様子を伺う――
「誰だい? そこにいるのは」
ばれた! どうしよう! 隠れてたのにいきなり意識された! 嬉しいけどでも!
私はそっと顔だけを出す。微笑を浮かべた男性は私の姿を見て「ああ」と声を上げる。とても綺麗な声……。
「サハギンか。見るのは初めてだね。こんにちは」
「…………っ」
私は何もいえない。言えるような胸の内ではなかった。男性を目にして、話しかけられただけでこんなに緊張するなんて! と、とりあえず喜んでもらいたいけど、どうすれば。
「あー……やっぱり言葉は使わないのか。報告通りだね。ははっ」
わ、笑った! 笑ってくれた! よかった。笑った顔がとても美しくて、もう目が離せない。
「あ、僕はマクガネル=ロッソ。『聖都』……ってわかるかな? そこで一応対魔物学の研究してたんだけど、いつのまにか魔物になんか純粋に愛着わいて追い出されちゃって、それどころか親魔物派の重罪人として命狙われる始末でね。ははっ」
対魔物学……聖都……どこかで聞いたことがある気がする。でもそんなものはどうでもよくて、その理知的な口調に私の心はもう虜になっていた。
ただ、私の表情はどこまでも変わらない。だから彼、マクガネルに気付かれることはない。
「ここで魔力嵐が起きたって聞いて来たんだけど……見つけた魔物は君だけだったよ。まあそれでも、会えてよかった。よろしく」
マクガネルが手を差し出してくる。私はその手を握る。
「あっ…………っ」
体すべてが彼という男に反応する。見た目にはびくんと体が一度震えただけだけど、私の心はもう彼と交わることしか考えていなかった。彼と交わり一つになり、精を得ることだけ。
彼に触れたその手に全ての感覚が集中し、その少し硬い感触が私を燃え上がらせる。
「一人、なのかな? 仲間とはぐれてしまったの?」
マクガネルが心配そうに訊いて来る。その心配は的外れだけど、気にかけてくれたことがもう嬉しすぎてどうにかなってしまいそう。いや既に、私は彼の口の動き、彼のわずかな顔のしわ一つまで完璧に記憶に刻み付けていた。
「…………嬉しい」
「えっ?」
私の口はついに動いた。男性を見つけ、その男性を愛すると誓ったその時に、サハギンの私の口は動いた。
「……あなたを、愛してる」
私は半身を水上に出し、そのまま彼に抱きつく。彼は驚いているけど、私を軽く抱きしめ返してくれた。
私は彼に口付ける。心の中には彼と交わることしかなかった。私は片手で私の纏う服をずらす。青い入れ墨がぼんやりと光る。
「そうか……君もやっぱり、人間が好きなんだね。そういう素直なとこに、あのときの僕も惹かれたのかもしれないな……」
私は彼を水の中へ引きずり込む。重ねた唇から、彼に必要な酸素を与える。彼は笑って、白衣を脱いだ。私も衣服を脱ぎ、はぁっと熱い吐息を送る。私の気持ちのままに。
「君の、名前は……?」
私は少し考えて――サハギンは名前を持たないから――ふと頭の片隅に残った、短い女性の名前を口にしていた。
それを伝えると同時に、私は両手で、彼の頬に触れた。
心の中から溢れる感情のままに、笑った。
マクガネルが、とても驚いた顔をする。私の笑顔とはどんなだろう。知りたいけれど、それはすぐにわかるはず。
この先伴侶となる彼と交わるたび、私はきっと笑顔を浮かべるから。
この笑顔も、私がささやく愛の言葉も、彼だけのもの。
「……大好き。マクガネル」
それから先、私は川辺で彼と愛のまま交わった。私は変わらず、交わるとき以外は無表情で、それをからかわれることもあるけど、それもまた心地良い。
交わるたびに、「やっぱり君の笑顔は綺麗だ」とほめてくれるから。
彼の感触は何度交わろうとも飽きない。交わるたび、私の口からは新しい詩が洩れる。私の詩情も彼はほめてくれた。
彼は私に、シー・ビショップの存在を教えてくれた。シー・ビショップたちは人間の男性を水の中でも生きられるよう変える力を持っているらしい。
だから私はこれから、彼との交わりで得た魔力を使って海へ行く。彼と共に。
ついでに文字も習おうと思う。私の詩を後世に残したいと言ってくれたから……私にも何か才能はあった。それが嬉しかった。
いつか私の詩が人間世界の本屋に並ぶかもしれない――笑ってそんなことを言っていた。本当にそうなれば、嬉しいな。
サハギンの世界は、永久に忘れない無数の感覚と共に、自然の中に生きること。連なり続ける愛しい人の挙動一つ一つで、無数の言葉がつむがれていく。
私は大いなる水の中に抱かれて、愛しい人と過ごし続ける。
12/06/11 01:07更新 / 地味
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