夫に先立たれたしがない魔物の後日談
実りの月 十八の日
最愛の夫と死別して半年。
ようやくその事実を受け止め、自分も回りも落ち着いたところで今後の身の振りについて考えることとなった。
三人の娘らとその夫は私を誰の所に住まわせるか、取り合いまでしてくれたが、私は思う所あって辞退させてもらった。
というのも、やはり私は夫の傍で暮らしたいと思ったのだ。もうすでに然るべきところに問い合わせ、夫の眠る墓地の墓守の仕事を貰っている。
そう告げると娘らは驚いた顔をしたものの、納得してくれたようで、時折様子を見に来ると言って帰って行った。
なんとなく思い立ち、これからのことを日記に書いていくことにする。
これは夫に先立たれたしがない魔物のその後を綴った日記である。
実りの月 十九の日
改めて昨日の日記を読み返してみる。最後の一文が少し気恥ずかしいが、まあ気にしないことにしよう。
今日は夫の眠る墓地の近くの小屋に移り住む最初の日だ。
小屋にはジャイアントアントがいた。責任者の最終チェックだそうだ。
去り際にここで暮らす理由を聞かれたので正直に答えた。もう私の体は夫以外の精液を受け付けなくなっていたし、魔力補給の経口薬もとても飲めるものではなかった。
夫の精以外の魔力供給の方法を失った私は、文字通り夫がいなくては生きられない体になってしまっていたのだ。
だがそれを恨むつもりはない。私と夫は二人で一つ。片方がいなくなればもう片方も消える。そのあり方が至極自然な物に思えるのだ。
無論死が怖くないと言えば嘘になる。しかし、それは裏を返せばあの人の妻として生涯を終えることが出来るということだ。
そう考えればこれは決して嘆くべき運命ではない。少なくとも私は心の底からそう思う。
ジャイアントアントが私の考えに納得したのかは分からない。
だがそういう考えもあると分かってくれたなら、彼女が私の立場になったとき、悲しみを和らげることが出来るのではないだろうか。
いつかそれが彼女の助けになることを願いつつ、今日の日記を終えようと思う。
落陽の月 十九の日
ここで墓守を始めて今日で丁度一月になり、生活にも慣れてきた。
この墓地は街の共有施設なので、時折家族に先立たれた者逹が墓前に花を添えに来る。
老若男女様々な人達が来るこの墓地に今日来たのは、アマゾネスと少年の二人組、聞けば夫婦なのだという。少年はこの町の出身で、今日は少年の両親の墓参りなんだそうだ。
熱心に墓前に向かい祈りを捧げる少年に寄り添うアマゾネスというのは、なかなかに絵になる光景だった。
二人は私の身の上を真剣に聞き入っていた。いずれ避けられぬ死を恐れていた。
いつか訪れることではあるだろうが、それまでの時間は山ほどある。今は二人でたくさん愛し合い子を為せばいい。先立たれた寂しさは子が癒してくれるだろう。
私が今感じていることを素直に話すと、二人はお互いを慈しむように手を握りあった。
……懐かしいものだ。私も若い頃に夫とこうしているだけで幸せだったことを思い出す。
どうかあの若い二人が子宝に恵まれ、幸福な生涯を送ることを祈る。
静寂の月 十三の日
早いものでここで暮らしてもう二月近くにになり、顔見知りも増えてきた。
特に墓前に花を添えに来る老人達とは非常に親しくなり、部屋に招き茶を飲みながら、生前の婚約者のことや、自分の子供のことなどを語らうことが日課となっている。
今日は知り合った老人の一人に孫が出来るという話を聞いた。ずっと喧嘩ばかりで家を飛び出した息子が、一年ほど前に結婚相手を連れて帰ってきたのだそうだ。
生意気だった息子が一人前になり、父親になろうとしていることを彼は大変喜んでいた。
今では息子と一緒に酒を飲み交わすことが何よりの楽しみで、生まれてくる孫の話で二人して盛り上がっているのだとか。
懐かしい。自分の子供が成長するというのは喜ばしいことだ。
私も娘らと喧嘩をしたことはあるし、家出騒ぎの経験もある。
特に私に似て頑固だった次女とは取っ組み合いになったこともあった。
思い返せば恥ずかしい限りだが、それでも大切な思い出だ。
父親となる彼の息子も、そんな宝物のような記憶を手に入れることが出来るよう、祈りをこめて今日の日記を終えようと思う。
終わりの月 二十の日
今年も残すところあと十日。久しぶりに街へと出掛けてみると、町中が忙しそうに駆け回っている。
年の始まりには祝いがふさわしいが、祝いのためには準備がいる。盛大に祝おうとすればする程大がかりな準備が必要になってくる。
つまりこの時期に忙しいということは、この街に活気があると言うことだ。
皆、最愛の人と最高の新年を迎えようと躍起になっていて、あてられてしまいそうな熱気が街を包んでいる。
個人としての準備はもちろんのこと、街が一丸となって新年祭を催す予定もあるのでなおのことだ。
足早にすれ違う往来の中をゆっくりと歩けば、どの顔も新年を待ちわびているようで、こちらまで楽しみになってくる。
改めてこの街の素晴らしさを肌で感じることが出来た有意義な一日だった。
どうかこの街全ての人に新年の祝福がありますよう。
始まりの月 五の日
夫が死んでから初めての年が明けてからの五日間。長女の家で一族そろって盛大に新年を祝った。
ずいぶん久しぶりにこの小屋に帰ってきた気がする。日記も五日ぶりだ。
娘や孫、さらにひ孫までが集まり、数にして三十近い人数が集結したその光景は、なかなかに壮観だった。
こうして私と夫の血が受け継がれていくものなのだと考えると感慨深い。
それから老いるというものを初めて実感した。吊り気味だった目じりが目元のしわとともに下がり、口元には笑いじわがくっきりと刻まれ、口の端も少し下がっていた。
穏和な顔付きの老婆が鏡の前にいる。娘に言われるまで気が付かなかったが、なかなかどうして、愛嬌のある顔じゃないか。
人間の女性は老いることを嫌がるそうだが、こういう笑顔を繰り返した結果出来たようなしわなら、今まで笑顔で生きてきた証明として私は大歓迎だ。
ひ孫たちから私へ贈り物があったり、お返しにと聞かせた私と夫の若い頃の話を目を輝かせたり、娘や孫に似て素直ないい娘だった。
他にも長女の孫に近いうちに二人めが出来ることや、次女のひ孫が結婚間近なことなど、ここには書ききれないほどめでたいことに溢れていた。
皆笑顔で幸せそうで、これだけの幸福を私が造り出せたのだとしたら、なんと誇らしいことか。
どうか私の可愛い子供たちがずっとずっと幸せでありますよう。
雪の月 二十五の日
最近思うように体が動かない。ゼンマイが切れかけたおもちゃみたいに、ぎこちない感じがする。
おそらく私の体にはもうほとんど魔力が残っていないのだろう。これがなくなってしまった時、私の生は終わりを告げるのだと思う。
しかし、それをあまり怖いとも思わなくなった。もうすぐ夫の元へと逝けるのだ。そう思うと楽しみにさえなってくる。
私はただ日々を変わらなく暮らし、来るべき死を待つだけでいい。
死がこんなにも穏やかなものだとは思わなかった。理不尽に奪うだけのものだとばかり思っていたが、どうやら死神というものにも慈悲はあるらしい。
もう十分生きた。たくさんの子供達に恵まれた。私は役目を果たしたのだ。何を悲しむ事があるだろう。
そう、生き物は子を成すことによって自分を未来へ繋げていく。だからこそ、愛することは尊いものだ。
どうか全ての人と魔物がそのことに気が付き、愛に目覚められるようここで祈ることにする。
芽吹きの月 十七の日
どうやらとうとう最期の時が来たようだ。夫が呼んでいる。最愛の人のお迎えになるとは、まったく最期まで良い生涯だった。
最愛との人の絆がこんなにも大きく繋がっている。私から子へ、子から孫へ。こんなに幸せなことがあるだろうか。
人よ魔物よ、生きよ。生きて愛し、番い、産み、殖やせ。自らの血を絶やすな。
子を作り子孫を殖やし血を繋げることこそ生き物の生きる意味なのだから。
祝福を。過去を生きた魂、今を生きる命、そしてこれから生まれる生命に最大限の祝福を。
子よ孫よ、産まれてきてくれてありがとう。私が死んだ分、今度は新しい命を育みなさい。
元気で。さようなら。
―――
そうして母は父と同じ日に死にました。その顔はどこまでも穏やかで、笑っているようですらありました。
父とともに生き、私達を育て、父の妻として生涯を閉じた母は、自慢の母であり、尊敬すべきご先祖様です。
私達はこの先、子供に伝え聞かせていこうと思います。
「彼女のようになりなさい、彼女のように生きなさい」と。
最愛の夫と死別して半年。
ようやくその事実を受け止め、自分も回りも落ち着いたところで今後の身の振りについて考えることとなった。
三人の娘らとその夫は私を誰の所に住まわせるか、取り合いまでしてくれたが、私は思う所あって辞退させてもらった。
というのも、やはり私は夫の傍で暮らしたいと思ったのだ。もうすでに然るべきところに問い合わせ、夫の眠る墓地の墓守の仕事を貰っている。
そう告げると娘らは驚いた顔をしたものの、納得してくれたようで、時折様子を見に来ると言って帰って行った。
なんとなく思い立ち、これからのことを日記に書いていくことにする。
これは夫に先立たれたしがない魔物のその後を綴った日記である。
実りの月 十九の日
改めて昨日の日記を読み返してみる。最後の一文が少し気恥ずかしいが、まあ気にしないことにしよう。
今日は夫の眠る墓地の近くの小屋に移り住む最初の日だ。
小屋にはジャイアントアントがいた。責任者の最終チェックだそうだ。
去り際にここで暮らす理由を聞かれたので正直に答えた。もう私の体は夫以外の精液を受け付けなくなっていたし、魔力補給の経口薬もとても飲めるものではなかった。
夫の精以外の魔力供給の方法を失った私は、文字通り夫がいなくては生きられない体になってしまっていたのだ。
だがそれを恨むつもりはない。私と夫は二人で一つ。片方がいなくなればもう片方も消える。そのあり方が至極自然な物に思えるのだ。
無論死が怖くないと言えば嘘になる。しかし、それは裏を返せばあの人の妻として生涯を終えることが出来るということだ。
そう考えればこれは決して嘆くべき運命ではない。少なくとも私は心の底からそう思う。
ジャイアントアントが私の考えに納得したのかは分からない。
だがそういう考えもあると分かってくれたなら、彼女が私の立場になったとき、悲しみを和らげることが出来るのではないだろうか。
いつかそれが彼女の助けになることを願いつつ、今日の日記を終えようと思う。
落陽の月 十九の日
ここで墓守を始めて今日で丁度一月になり、生活にも慣れてきた。
この墓地は街の共有施設なので、時折家族に先立たれた者逹が墓前に花を添えに来る。
老若男女様々な人達が来るこの墓地に今日来たのは、アマゾネスと少年の二人組、聞けば夫婦なのだという。少年はこの町の出身で、今日は少年の両親の墓参りなんだそうだ。
熱心に墓前に向かい祈りを捧げる少年に寄り添うアマゾネスというのは、なかなかに絵になる光景だった。
二人は私の身の上を真剣に聞き入っていた。いずれ避けられぬ死を恐れていた。
いつか訪れることではあるだろうが、それまでの時間は山ほどある。今は二人でたくさん愛し合い子を為せばいい。先立たれた寂しさは子が癒してくれるだろう。
私が今感じていることを素直に話すと、二人はお互いを慈しむように手を握りあった。
……懐かしいものだ。私も若い頃に夫とこうしているだけで幸せだったことを思い出す。
どうかあの若い二人が子宝に恵まれ、幸福な生涯を送ることを祈る。
静寂の月 十三の日
早いものでここで暮らしてもう二月近くにになり、顔見知りも増えてきた。
特に墓前に花を添えに来る老人達とは非常に親しくなり、部屋に招き茶を飲みながら、生前の婚約者のことや、自分の子供のことなどを語らうことが日課となっている。
今日は知り合った老人の一人に孫が出来るという話を聞いた。ずっと喧嘩ばかりで家を飛び出した息子が、一年ほど前に結婚相手を連れて帰ってきたのだそうだ。
生意気だった息子が一人前になり、父親になろうとしていることを彼は大変喜んでいた。
今では息子と一緒に酒を飲み交わすことが何よりの楽しみで、生まれてくる孫の話で二人して盛り上がっているのだとか。
懐かしい。自分の子供が成長するというのは喜ばしいことだ。
私も娘らと喧嘩をしたことはあるし、家出騒ぎの経験もある。
特に私に似て頑固だった次女とは取っ組み合いになったこともあった。
思い返せば恥ずかしい限りだが、それでも大切な思い出だ。
父親となる彼の息子も、そんな宝物のような記憶を手に入れることが出来るよう、祈りをこめて今日の日記を終えようと思う。
終わりの月 二十の日
今年も残すところあと十日。久しぶりに街へと出掛けてみると、町中が忙しそうに駆け回っている。
年の始まりには祝いがふさわしいが、祝いのためには準備がいる。盛大に祝おうとすればする程大がかりな準備が必要になってくる。
つまりこの時期に忙しいということは、この街に活気があると言うことだ。
皆、最愛の人と最高の新年を迎えようと躍起になっていて、あてられてしまいそうな熱気が街を包んでいる。
個人としての準備はもちろんのこと、街が一丸となって新年祭を催す予定もあるのでなおのことだ。
足早にすれ違う往来の中をゆっくりと歩けば、どの顔も新年を待ちわびているようで、こちらまで楽しみになってくる。
改めてこの街の素晴らしさを肌で感じることが出来た有意義な一日だった。
どうかこの街全ての人に新年の祝福がありますよう。
始まりの月 五の日
夫が死んでから初めての年が明けてからの五日間。長女の家で一族そろって盛大に新年を祝った。
ずいぶん久しぶりにこの小屋に帰ってきた気がする。日記も五日ぶりだ。
娘や孫、さらにひ孫までが集まり、数にして三十近い人数が集結したその光景は、なかなかに壮観だった。
こうして私と夫の血が受け継がれていくものなのだと考えると感慨深い。
それから老いるというものを初めて実感した。吊り気味だった目じりが目元のしわとともに下がり、口元には笑いじわがくっきりと刻まれ、口の端も少し下がっていた。
穏和な顔付きの老婆が鏡の前にいる。娘に言われるまで気が付かなかったが、なかなかどうして、愛嬌のある顔じゃないか。
人間の女性は老いることを嫌がるそうだが、こういう笑顔を繰り返した結果出来たようなしわなら、今まで笑顔で生きてきた証明として私は大歓迎だ。
ひ孫たちから私へ贈り物があったり、お返しにと聞かせた私と夫の若い頃の話を目を輝かせたり、娘や孫に似て素直ないい娘だった。
他にも長女の孫に近いうちに二人めが出来ることや、次女のひ孫が結婚間近なことなど、ここには書ききれないほどめでたいことに溢れていた。
皆笑顔で幸せそうで、これだけの幸福を私が造り出せたのだとしたら、なんと誇らしいことか。
どうか私の可愛い子供たちがずっとずっと幸せでありますよう。
雪の月 二十五の日
最近思うように体が動かない。ゼンマイが切れかけたおもちゃみたいに、ぎこちない感じがする。
おそらく私の体にはもうほとんど魔力が残っていないのだろう。これがなくなってしまった時、私の生は終わりを告げるのだと思う。
しかし、それをあまり怖いとも思わなくなった。もうすぐ夫の元へと逝けるのだ。そう思うと楽しみにさえなってくる。
私はただ日々を変わらなく暮らし、来るべき死を待つだけでいい。
死がこんなにも穏やかなものだとは思わなかった。理不尽に奪うだけのものだとばかり思っていたが、どうやら死神というものにも慈悲はあるらしい。
もう十分生きた。たくさんの子供達に恵まれた。私は役目を果たしたのだ。何を悲しむ事があるだろう。
そう、生き物は子を成すことによって自分を未来へ繋げていく。だからこそ、愛することは尊いものだ。
どうか全ての人と魔物がそのことに気が付き、愛に目覚められるようここで祈ることにする。
芽吹きの月 十七の日
どうやらとうとう最期の時が来たようだ。夫が呼んでいる。最愛の人のお迎えになるとは、まったく最期まで良い生涯だった。
最愛との人の絆がこんなにも大きく繋がっている。私から子へ、子から孫へ。こんなに幸せなことがあるだろうか。
人よ魔物よ、生きよ。生きて愛し、番い、産み、殖やせ。自らの血を絶やすな。
子を作り子孫を殖やし血を繋げることこそ生き物の生きる意味なのだから。
祝福を。過去を生きた魂、今を生きる命、そしてこれから生まれる生命に最大限の祝福を。
子よ孫よ、産まれてきてくれてありがとう。私が死んだ分、今度は新しい命を育みなさい。
元気で。さようなら。
―――
そうして母は父と同じ日に死にました。その顔はどこまでも穏やかで、笑っているようですらありました。
父とともに生き、私達を育て、父の妻として生涯を閉じた母は、自慢の母であり、尊敬すべきご先祖様です。
私達はこの先、子供に伝え聞かせていこうと思います。
「彼女のようになりなさい、彼女のように生きなさい」と。
11/10/14 21:55更新 / タッチストーン