閑話 龍と狐
男は鬼の左から入った。
これで駄目なら仲間同様、肉を撒き散らして野豚の餌になる。
仲間の大男が鍔迫りで鬼に膝を着かされたその合間、隆々たる筋肉の張る鬼の右腕を狙った。鬼はいち早く男の殺気に反応し、押し込んでいた刀ごと金棒で人間を右に払いその軸線上にある男の上半身を吹き飛ばそうと金剛力を振るう。
男は素早く身を落とし眼前に迫る金棒を刀の上縁で滑らせ勢いを殺すことなく震脚。金棒を鞘に見立てた居合い斬りを大上段で鬼の右鎖骨から左脇腹へと抜いた。
血の色は人と同じ赤だった。
金棒を取り落として呆然と立ち尽くす鬼のまさかの応戦を嫌い、切った腹を足蹴にすると開いた傷から臓物を零して狂ったようにもんどり打ち、しばらく鬼は血の海の中で事切れた。
違和感は始めからあった。前の二匹は人と似ているとはいえ獣然とした体躯と気勢が抜けきらなかったが、この鬼は額に二本の角があり青い肌ではあるものの、女人と見た目はほとんど変わらなかった。何より前の妖怪と違うのは、ただ意の相容れない動物としての敵愾心を丸出しにして、あるいは空腹を満たすために捕食する命懸けの態度ともまるで違い、この鬼はただひたすら気が触れたかのように目に入る物も人も壊破し続けていた。
暴れていたときの血を吐くような雄叫びが、あたかも泣き声のように聞こえたのは果たして錯覚か。
人の女を斬り殺したかのような後味の悪さが、この血溜まりのごとく男の胸中に広がる。今日も男は生き残った。今回も仲間が四人死んだ。
しとしとと雨が降っていた。鬼の骸を見下ろす男の、熱を持った体から湯気が立ち上る。
体が動かない。
血の池に躊躇いもなく手を差し伸べて鬼の骸を抱き上げた者がいた。
男は激しい動悸も悪汗も止まらず歯の根が合わない、命乞いをするかのように見上げたその先に、大蛇の化身がいた。
「世話をかけたの」
人語を喋りやがった。
今先ほど命がけで戦った鬼が赤子に思えるほどの圧倒的な存在感。そしてその声音はまるで男など意に介していない。ただそこに人が居たから気まぐれに声をかけただけのように、実際の身長差よりも遙か高みからかけられたかのようだった。
「そう気負うことはない」
お主を害するつもりはない、と大蛇は言った。
それは嘘だ。
こうしてすぐに駆け付けられるくらいの近くで同じ妖怪が斬り殺されたのに、こんなにも鬼の返り血を浴びている人間を許す謂われはない。
男は生まれてこの方覚えが無いほど体が竦んでも、心までは折られまいと震える歯を砕けんばかりに食い縛る。大地を踏み締め刀が振れないほど柄を強く握り締め、大蛇の金色の眼を真正面から睨み付けた。
一人と一匹は、雨の降りしきる中ひととき、そうしていた。
近くの腰を抜かした仲間はすでに気を失っていたが、そいつのことなどすっかり頭から抜けていた。
生死の境だ。
大蛇が口を開く。
「たまさか、こういう者が生まれる。人にもおるじゃろう、鬼子という輩が。手が付けられなんだ、大概は同胞や人に害なす前に妾たちが諫めるのじゃが。妾たちの代わりにしてくれたこと、お主たちにも死人が出たであろ。恨みはせぬ。礼を言う」
人のように、思わぬ慈悲の籠もった大蛇の理解に、やっと男は気付いた。
長大な蛇の尾、鬼の頭を撫でる手腕にこそ雄々しい爪と鱗があるものの、大蛇の上半身はこの鬼のように人の形を取っており、天女のごとくあまりにも美しかった。思い掛けず白い肌を隠す着物に血が染みこむのも厭わず、薄く目を開いて固まった鬼の顔に頬を寄せ、泣いているようにも見えた。
「そいつをどうするつもりだ」
乾いた唾液ではり付いた喉からやっと搾り出せた言葉がこれだ。俺は何を言っているんだ。まるで人を相手にしたような言葉じゃないか。むしろ今言わねばならぬ言葉は、俺をどうするつもりだ、ではないか。大蛇の言葉を信用したのではないのに。男は狼狽する。
「妾が弔う。首でも取らんとお主が困るやもしれぬが、ここは承知してくれぬかえ」
是非もない。死体を嬲る趣味はない。それにこの大蛇に指一本触れようものなら、男は跡形もなく食い尽くされてしまう予感がある。だが、
「なら、金棒は貰っていってもいいか」
この一言に命をかけた。遺品を奪おうと言うのだ、この瞬間にあの尾で絞め殺されてもおかしくはない。だが、人としてこのまま屈服してしまってはつまらない。いまわの際に詰まる詰まらぬの話もないが、これまで数多の修羅場を駆け抜けてきた男なりの矜持だ。戦って勝利した印をくれ、無理なら殺してくれて構わない。
「よかろ」
大蛇は男を一瞥すると、これ以上語ること無しとばかりに尾をうねらせ遠ざかる。
「お、おい!」
咄嗟に男は自身も意味も分からず呼び止めるが、その背は昼なお暗い森の中へ消えていった。根が張ったような震える足では到底追いかけることはできなかったし、その意味もなかった。
あとには男の仲間の血肉が着いた金棒と、血を滴らせた大蛇の獣道だけが残った。
雨はすべてを洗い流す。
それは、半年以上も前の話だ。
次郎とミヅチの、あまりにも血生臭い馴れ初めである。
◇
昼飯のために長屋に戻った次郎が黙々と白飯を食っていると、空になった次郎の湯飲み茶碗に茶を注ぎつつミヅチが話しかけてきた。
尾がもぞもぞと左右に揺れている。なにか良いことでもあったのか。
「のう次郎。明日じゃがな、ここに客を呼んでもいいかの」
「客? 構わんが、誰だ」
「妾の昔馴染みじゃ」
いたのか、そんなの。かなり長生きしているらしいからいてもおかしくはないのだが、次郎の知っている、人間を除いたミヅチの交友関係と言えば、ミヅチの住処に住み込みで働いているらしい白蛇のミツハ一人だけだ。そう言えばこの前祭りで出会ったハツエは今頃どこで何をしているのだろうか。
「そうか。つまりえーと」
「妾と同じ妖怪じゃ。旅でこの近くに寄ったらしくてな、顔でも見たいと言ってきよった」
「文でも来たのか」
「虫の知らせじゃ」
便利だな、妖怪。大根の漬け物をぽりぽりと食い、急な話ですまんのじゃがとミヅチが言う。すまないも何も昔馴染みと会うなら次郎がなにをか言うことはない。旅に出ている者というのならなおのこと久しいだろう。周りの町人にばれないようにしてさえくれれば、どうぞいくらでも話に花を咲かせればいい。
「で、いつぶりくらいなんだ」
ミヅチは小首をかしげてしばし黙考する。
「つい最近会うたばかりじゃから……せいぜい五十年ぶりくらいじゃろうか」
次郎の物差しで計ればつい最近とはせいぜい三、四日前、長くとも一週間前だ。少し待たせれば遅いだのなんだのと喚き散らす癖に、どの口が五十年前をつい最近と言うのか。この口か。
次郎は気づくとミヅチの柔らかい頬を引っ張っていた。
「は、はにほすうほにゃ」
目を見張ってうろたえるミヅチ。
「すまん。つい」
「つい、で次郎は人の頬をつねるのか」
頬を撫で目に涙を溜めて恨めしそうに次郎をねめ付ける。
飯を食い終わってから一息つき、次郎は再び仕事に出る。手と一緒に尾をびたんびたんと振って送り出してくれるミヅチの姿もいい加減にこの部屋に馴染んできた。
「明日も次郎はお勤めかえ」
「いや、休みだ。邪魔だろうしその辺ぶらついてるさ」
「そんなことはないが、まあそうしてくれるとありがたい」
ミヅチにしては歯切れの悪い答えが返ってきた。妖怪同士、女同士、人に聞かれては不味い話もあるだろう。腹に一物両手に荷物。人である次郎だってミヅチに聞かれたくない話はある。
「わかった。んじゃあ今日はひとっ風呂浴びてくるわ。少し遅くなるからな」
「ふむ。次郎にも見知らぬ者に気を遣うという成長ができたか」
このやろうと手をあげる振りをすると、ミヅチは嬉しそうに尾を巻いた。
明日、次郎は一目挨拶くらいはするだろうが、ミヅチの昔馴染みに汗臭い体で会うのは憚れた。どういう者が訪れるのかが楽しみだ。
そしてその翌日。また次郎にしては珍しく、茶菓子を買いに行く気遣いを見せて長屋に戻ると、すでに件の来客があった。
恐らくこちら側に背を向けて龍のミヅチに相対しているその者は、次郎から見るとふさふさの毛で背中どころか後頭部すらも見えなかった。
「帰ったぞ。もう来てたのか」
素早く静かに戸板を閉める。次郎の声を聞いたその人は、毛をぱたりと倒して背後を振り向いた。次郎はここしばらくで色々な妖怪を見てきたが、その姿に思わず息を飲む。
琥珀色の長髪にぴんと立った獣の耳がある。後ろ姿を隠していた髪と同色の大量の毛は、ふうわりとした先端だけが白い尻尾だった。見分けが付きにくいが尻尾は一本ではなく両手の指ほどの数はあるように見える。顔の線には見目麗しく若々しいだけではない、老獪で厳かな影があった。およそ狐の妖怪だろうことが一目で分かる。
「お邪魔をしております」
いつかのミヅチのように、どこか荘厳な調べのある声音。
「おかえり、次郎。こやつが妾の馴染みで、タマモじゃ」
タマモは次郎に向き直り、居住まいを正し正座をして頭を下げる。
「お初にお目にかかります、次郎殿。儂は稲荷のタマモと申します。以後お見知りおきを」
堂の入った風格に、次郎は居心地が悪くなる。茶菓子はもう少し値の張った沖野谷の饅頭にしておけば良かったと後悔する。
「ああ、俺は次郎っていう。ミヅチの馴染みなんだって?」
動揺しているのかミヅチと同じ話を繰り返して言っていることに次郎は気づいていない。タマモもまた気づかない風に返答する。
「ええ。儂は伴侶と旅をしてあちこちふらついております故、懐かしい匂いがしたものですから。突然でご迷惑かとも思いましたが、図々しくも手土産の一つもなくまことに失礼致します」
タマモはミヅチより幾分か若い見目に似つかわしくない大らかな微笑みを浮かべる。
この狭くぼろい長屋に半獣半人の、龍と稲荷。得難い光景である。見る者が見れば平伏して震えが止まらないだろう、下手をしたら寿命が縮んでしまうかもしれない。しかしミヅチのある意味での正体を知っている次郎は今ひとつこの席の重大性に気づかず、タマモの美貌と手の中にある茶菓子の値段ばかり気にしている。
「タマモ。いい加減猫を被るのはやめい」
「あら、謂われのない言いがかりこそやめてくれんかの。のう、次郎殿」
のう、とそんな笑顔で振られても、次郎には返す言葉もない。さすがはミヅチの昔馴染み。いつも偉ぶっているミヅチを前にしてもまったく怯んでいる様子はない。
「ああそうだ。買ってきたぞ。ほら」
丁度よい逃げ口上に茶菓子をミヅチに渡す。甲野屋のまずまずな饅頭だが、口に合うだろうか。いつまでも隠しているよりましだ。そこでミヅチが思わぬ反応を示す。
「あ……、さすが次郎じゃ。妾はついうっかり忘れてしもうていた。久方ぶりに会う馴染みに茶菓子を出し忘れるなどと、まこと礼儀の欠けたことをしてしまうところであった。うむうむ。ほんに次郎は気の利く男じゃのう〜」
次郎は歯ががたがた浮いて全身が粟立ち毛という毛が逆立ったような気がした。なんだどうしたそんなに仲間に会えたのが嬉しくて心にもない言葉を並べてしまうほど興奮しているのかそれとも豆腐の角に頭でもぶつけたのか。
しかもミヅチが饅頭の箱を抱く手を胸の前で組んでくねくねして言うものだから、次郎は正視に堪えられなかった。早くここを出たい。
そして見ればタマモは袖を口に当てて目を伏せている。恥らっているのだろう。この二人の差は一体どういうことなのか。
「いえ、失礼しました。次郎殿はまことよい殿方であらせられるのですな。ミヅチの言葉にはこのタマモ、しっかと得心致しました」
前言撤回。やっぱりミヅチの昔馴染みなだけはある。
「ところで次郎殿……」
タマモが立ち上がる。ふさふさの尻尾が歩みに追随する。
慣れないやり取りに生気が抜け明後日の方角を向いて立ち尽くす次郎の腕を取り、ごく自然にタマモが腕を組んでミヅチほどではないが充分に大きい乳房を押しつけてきた。そして高級な布団でもここまでではなかろうという心地よいふわふわの尻尾が次郎を包み込む。
「おっ、え?」
「これほどよい殿方、放っておくのは勿体なき罪にも等しい。ミヅチなどとは別れて儂といいことしませんこと?」
琥珀の瞳を揺らめかせ、つま先だって、ふぅっ……と次郎の耳に息を吹きかける。心地の良い匂いと言葉。体の半身に押しつけられる柔らかく温かい感触で、次郎は立ち眩む。
「こんの泥棒狐!」
湯飲みがびゅっと投げつけられ、尻尾の一つにぽふっと当たって包まれ、床まで割れずに下ろされる。次郎は物を投げるほど激昂するミヅチを初めて見た。
「次郎も次郎じゃ! 情けなくも鼻の下を伸ばしくさりおって! さっさと出て行くがよい!」
俺の家なんだが……。
タマモは自分でしでかしたことなのに他人事に笑っている。
「お、俺かよ。っていや、それじゃタマモさん、また。ええっと、しばらく戻らないからごゆっくり」
冗談にしてはたちが悪い。気持ちは良かったが。
「タマモで結構ですよ、次郎殿……」
タマモの腕と尻尾から逃れる間際、タマモに両手で次郎の左手を包み込まれ、再び耳元で囁かれた。
「えっ……」
「なーにーをーしーてーおーるー?」
いつの間にか戸口に立つ二人のタマモの背後に、つまりタマモを挟んで次郎の正面にミヅチが牙を剥いて威嚇している。苛立たしげに床を打つ尾。漂う気配がいつになく恐ろしい。そんなミヅチを背負ってすらもタマモは笑顔で手を振って次郎を清々しく見送っている。こんなところでタマモの、人との胆力の違いを見せつけられた次郎であった。
◇
逃げるようにして長屋から出て行った次郎を見送る。戸板が閉められると同時にミヅチが息をつく。先ほど投げた湯飲みを拾い上げた。
「やりすぎではないのかえ」
「あら、儂はミヅチの興に乗っただけだぞ」
振り向いたタマモの可憐な笑みが、先ほどとは打って変わって狡猾な微笑みに変化する。
「しかし、なかなか見込みのある小僧ではあるな。それは嘘ではない」
「当たり前じゃ。それと小僧とは言うな」
「小僧でなければよちよち歩きの赤ん坊ではないか。乳はちゃんとくれてやっておるのか」
「妾からしたら、お主んとこの助八も同じ尻の青い洟垂れ餓鬼じゃがな」
ごぅとタマモの周囲に青い鬼火が数多も現れる。複数の尾を揺らめかせ俯き加減にミヅチを睨む、獣特有の牙を剥き出しにし咽を鳴らす。その気になればこの指先ほどの鬼火一つで、小さな村を焼き尽くせる妖力だ。
「……助八は餓鬼ではないぞ」
「ならば口を慎め。タマモ」
面倒くさそうにミヅチがひらりと手を振ると、鬼火全てがいともあっさり弾け消え去った。
ミヅチが席に戻り茶を淹れ直し始める。タマモも口を尖らせ小さく鼻を鳴らして改めて席に着いた。この程度のやりとりは二人の挨拶のようなものだ。
タマモの膳に茶を置き、茶菓子の包みを開ける。二つはタマモに、二つは土産に選り分け、一つは次郎に取っておき、残り一つを自分に。思ったよりも奮発したのだなと饅頭を見てミヅチは思う。
「物見遊山の旅はどうじゃ。なにか面白いことでもあったかの」
「国中は何度も回ったからな、再びあちこち行く度に同じ場所でも景色は変わるくらいか。ただ同胞も人も変わらぬのだから、結局は見た目が変わってるだけで中身は変わらん」
まあそれでもいくつか面白いところはあるがな、とタマモはあぐらをかいて茶を啜った。次郎の前ではあれだけ品の良い態度を取っていたのは本当に猫被りと思われるかもしれないが、ミヅチやタマモからすれば共に真也と言うだろう。要は場合によってどちらが楽かとそういう話だ。
楽しそうにタマモは尻尾をぼふぼふ振って話しを続ける。
「このあいだはな、温泉町にしばらくおった。温泉はいいぞ。身も心も洗われる。湯に浸かりながら酒を飲み、こう、しっぽりとな」
意味ありげに薄目で笑う。妖怪と人の雄、一緒にいればやることは一つだが、やはり雰囲気や工夫というのも大事だ。如何に互いの気持ちを分かっていても、気持ちに甘えていてはいつかは綻びが出る。人よりも魅了の術に長けた妖怪とてそれは同じだ。以前なら聞き流していたミヅチも、今となっては耳に痛い。素直に頷く。ただ単に温泉の良さも知っているからでもある。
「うむ。いいのう。妾もまた行きたいものじゃ」
「今からでも行くか?」
「次郎を置いては行けぬ」
「連れて行けばいいではないか」
きょとんとタマモが答えを出すと、ミヅチは視線を外して頬をかいた。
「う、うむ。そこらはちと、複雑な事情があってじゃな……」
話の矛先を変える。
「ともかくその話はあとじゃ」
息を飲む。
「……一つ、聞きたい。“百鬼改め方”の動きはあったか」
ぴくりとタマモの耳が反応する。嫌な名前を出されたものだ。
「あのキチガイ共か。まあ、最近幾度か会うことはあったな。助八が追っ払ったり儂が脅かしたりして適当にあしらっておいたが。なんぞあったか」
その問いには答えず更に質問を重ねる。
「大陸の教団と改め方が接触したとは知らなんだか」
「はて、去年も教団お膝元の異国におったが、そんな話はついぞ耳にはせんかったな」
さらりととんでもない言葉を出すもミヅチは流した。
ぼろ長屋には似つかわしく無い品の良い小さな箪笥の引き出しから布包みを一つ取り出す。包みを広げると出てきたのは簪に使われるような長く太い針。両の先端が鋭く研がれている。
「今から半年前の話じゃ、青鬼のアオナの頸椎からこれが見つかった」
「死んだか」
「うむ」
一瞬の間。
「それだけではない。アオナの最期、妾から見てもまるで“古い者”のような振る舞いじゃった」
その言葉に今度こそタマモが吃驚する。先祖返りは有り得ない。タマモもまた常しえを生きる者だが、主上の代替わり後の生まれだ。それでもあの妖怪の世代交代と言える出来事は知っているし、自分の中に息づく過去を自力で感じる術を会得した者として、やはりあの位の青鬼ごときが立ち返り出来るとは思えず、あのアオナだからこそやれることではないとも思う。だからこう言うしかない。
「アオナが? あやつほど聡明な青鬼もそうはおるまい。気でも触れたか」
「そうであればまだよかったやもしれぬ。この針にはな、深く刺された側に毒が塗ってあった。フタバに調べさせた物がこれじゃ」
次いで軟膏剤の容れ物を取り出す。蓋を開くと中には血のように赤い塗り薬のような半固形物が入っていた。
「強毒じゃ。肌に付くだけで肉が爛れる。遙か昔から教団の過激派が使う物と似ているそうじゃ。このような物、以前はこの国にはなかった」
小鼻を近づけ匂いを嗅いでからタマモは躊躇いもせず軟膏らしき毒を人差し指で掬い取り、ぺろりと舐める。ミヅチもまたそれを全く止めようとはしなかった。
口を忙しなく動かし舌の上で何度も確かめる。耳と尻尾がびりびりと震える。これほどの物、恐らく妖力や肉体に優れぬ者が摂取すれば、あっという間に死に至るだろう。タマモは茶で口を濯いだ。
「ふむ。強心作用のある薬に似ておる。これを百鬼改めの者共が、か」
口惜しそうにミヅチは歯噛みをした。
「妾の懈惰じゃ。アオナと改め方が会うたとは調べ切れなんだ。だが恐らくは」
「ミヅチ。次郎殿と会うたのも半年前と言っておったな」
「次郎は関係ない!」
一拍と置かずミヅチが叫んだ。白蛇にも見せたことのない剣幕で。だが、俯いている。前髪で表情が読めない。
タマモはただ有り得る可能性の高い事柄を一つ挙げただけだ。だからこそミヅチもすぐ冷静になる。
感情がごっそりと抜け落ちた平坦な言葉を吐く。
「そう……だと、本人が言っておった。百鬼改め方も、何をか知らなんだ」
「口だけならなんとでも言えよるぞ」
その通りだ。だからミヅチは予め用意していた言葉をそのまま口から落とす。
「調べた。関係はなかった」
次郎の“じ”は漢字が二つ以上あるはずだ。“ろう”にしても「きっとこれじゃろうな」では選べない似た漢字がある。
ミヅチは、次郎の名の漢字を、あの祭りよりずっと以前から知っていた。
誰しも思う青鬼を斃した者たちへの疑惑。次郎に対してそんなことはしたくなかったしできるわけがなかった。だが、ミヅチさえ信じていればそれでいいという出来事ではなかったのだ。
だから、ミヅチは恐ろしくて耳を塞いだ。フタバに全てを丸投げし洗い浚い調べさせ判断をも委ねた結果、何一つとして次郎の改め方への連なりは出てこなかった。放心した。安堵したと同時に次郎の過去全てに自分が介さなかったことが、胃の腑に熱く滾る黒々とした石を詰まらせ、苦しくて苦しくて堪らなくなった。
タマモは目を伏せて呟く。
「ふむ。そうか……」
血色のなくなった震える両腕でミヅチは自身を抱きしめて、我が身すらも支え切れずに腰を折った。
「疑ったから近づいたのではない。ただ妾は、会いとうて……。その間に事が勝手に大きゅうなって」
「わかっておる。ミヅチがそんな器用な女ではないことは、儂が一番知っておる」
優しい声音、温かな眼差し。タマモはミヅチの傍らに座り、両手と九尾全てを使いミヅチを抱擁し、何度も何度も背中を撫ぜた。
このミヅチの姿を見れば分かる。いっとう疑えない者を、何よりもはじめに強く疑わなくてはならなかった。
――可哀想な姉上。
アオナを殺したのは次郎だと、ミヅチはついに言えなかった。言っても詮無い話ではあっただろう。
針と毒を箪笥の中に仕舞う。落ち着くために茶を啜る。既に冷めて渋いだけだった。
幾分か持ち直したミヅチは、気怠げに話し始める。
「他の者にも訊いてみたがな、たったここ一年で“古い者”が四件。じゃがその実、そうと思われていただけの、針と毒が関わっていたのは三件じゃ。妾の周りで毎年一人出るか出ないかの、“古い者”がやけに多いと思っていたのじゃが、そういうからくりだったということじゃ」
見落としを含めれば、あと二割は増やしてもいいかもしれない。明らかに異常な数。相手の魂胆は明白だ。
「改め方も異能の集まりだからの。少なくともミヅチの白蛇たちぐらいのやり手が直接関わらねば、足跡なぞ消すのは容易かもしれぬな」
「それほどか」
「儂がこの前遊んでやった相手はな。助八が妙に苦戦しておると思うたら、きゃつらすっかり顔ぶれが変わっておった」
ミヅチはあごに手をやって黙考する。
「妾たちは人に仇なすことはできん。じゃが、このまま捨て置く訳にもいかぬ」
「その軟膏容れがあるということは、すでに証拠は掴んでおるのだろ」
もっともな指摘だが、ミヅチは肩を落としてため息をついた。
「刑部経由ですでに打診をしてはおる。じゃがどのお上も二の足を踏んでおってな。どうやら、改め方の後ろが碌でもないたわけ者に変わったらしいのじゃ」
なるほどタマモが簡単に思いつくことなどすでに試し済みか。タマモは目を伏せる。
「ふむ……。毒もそのためか。儂もうろうろ旅をしてもおられぬということかの」
「助かる」
「なに、ミヅチがそこまで骨を折っておるのだから、妹分の儂が遊んでいるわけにもいくまい。それに、娘らが心配でもあるしの」
このまま放っておけばおくほど犠牲者は鼠算に増え、それだけではなく妖怪の立つ瀬もなくなるだろう。もし助八や各地にいる娘たちが奸計に巻き込まれたら、タマモは理性を保てる自信がない。こうして考えているだけでも、はらわたが煮えくり返る。
今はまだ先触れに過ぎない。時がくればきっと抜き差しならぬ形勢になるはずだ。そうなってしまう前にどうにか先手を打たなければならない。
甘味が足りない。助八との夜相撲以外で久しぶりに頭を使ってしまった。次郎が買ってきてくれた饅頭を一つ、おもむろに囓る。
「うまいの。この饅頭」
「ん……? ああ。うむ、そうじゃろう。ふむ……」
ミヅチは最初タマモが何を言っているのか分からなかった。
次郎の手柄を褒められて一時頬を緩めたが、再び床の一点を凝視する。
「ミヅチ」
「なんじゃ」
「考えすぎもよろしくない。少し休め」
タマモはミヅチの膳に置かれた饅頭を掴み無理矢理ミヅチの口に押し込んだ。
「むおっ! んむ……、ん。旨い」
無礼な振る舞いに怒るでもなし、せっかく次郎が買ってきてくれた物だから、押し込められた饅頭でも充分に堪能して冷めた茶を啜った。
狐は腕を組んで龍にこれ見よがしに鼻でため息をつく。
「ミヅチは昔から一人で抱え込みすぎるのだ。もう何千年も前からその調子だもの、そろそろ頭が破裂してしまうぞ」
「そ、それは嫌じゃな」
「白蛇たちのことも勝手に一人で決めてしまうし」
「やれやれ、まだ根に持っておるのか。そのことは散々謝ったじゃろう」
「いーえ。あんな大事を、いくら遠方に居たとしても伝える術なぞいくらでもあろう。儂を除け者にして」
話を蒸し返している内に自分の言葉で段々と怒りまでも蘇って来たのだろう。タマモは子供のようにむすっとして頬を膨らませた。
ミヅチは苦笑して、湯を沸かすため薬缶を火にくべる。
「まったく。術で見たがミヅチは次郎殿にべたべたべたべたしておるくらいが丁度よい」
すとん、とミヅチの色が抜け落ちた。
「今……なんと」
「だからの、次郎殿相手にあはんうふんとぱーぷー娘をやってるくらいでミヅチは」
がっし。
「はぎゅっ……?」
白く滑らかだった前腕は、雄々しく力強い鱗ある龍腕に。男の手のひらほど幅のある鋭い爪が四本、タマモの頭を丸ごとぎりぎりと掴んでいた。この爪が金剛石すら軽く握り潰すのをタマモは見たことがある。
「二度は言わぬ」
「あうぇっ、姉上……様?」
姉上様の体から金色の燐光が溢れている鼻が触れそうなほど近くで目が血走っている首元が不気味に脈打っている今にも驪竜頷下の珠が、
「その術、金輪際使うなよ。なんなら妾が封じてやる今すぐにな」
「ごっごっご冗談を」
きっと術を封じるだけでは済まされまい。
「二度は言わぬと言うたよな」
ちびった。まさかこの年になって。
ごっごめんなさい〜すみません嘘です術なんて使ってないですそんな神様みたいな術は儂は使えません〜人がよくやる読心術というやつです違うんです術じゃありません見栄をはりましたただのはったりをかましてみただけです許してください姉上様〜!
◇
――通りの飯屋できつねうどんの油揚げ抜きを頼んでみてください。そこに儂の伴侶がおります。
頼んだ。笑われた。
行きつけの飯屋での出来事だ。
ふて腐れついでに本当にきつねうどんの油揚げ抜きを食っていると、卓の正面に立つ者が居た。
「あんたが次郎さんかい」
若い。とは言っても二十歳になったかどうかあたりか。人当たりの良さそうな少し垂れ目の顔。身長と体格は見た目では次郎に劣る。祭りの人混みの中でも一発で見つけられそうな真っ赤な羽織。無精なのか腕が立つからなのか、随分と柄の小汚い小太刀を二本佩いている。風変わりな伊達男。
麺を啜ったままそこまで見て取る。次郎は何も言わずに視線を器に戻そうとすると、向かいの男が小さな紙片を次郎の前に置いた。
それを見た次郎も懐を探って紙片を出す。互いの紙片には半円が描かれていて、近くに置くと元は一枚の紙片だったことに気付く。
「あんたがタマモさんの旦那か」
男は少し目を見開いてから、にこりと笑い椅子を引いた。
「ああ。助八っていうんだ。よろしく」
「次郎だ。ミヅチから聞いたのか」
「先に挨拶済ませたときにね。ミヅチさんは……っと、ミヅチ様は次郎さんのことえらい買ってたからどういう人なのかって思ってたんだけど」
期待はずれということか。
「はっ。正直だな」
「いやいや。あのミヅチ様に見初められるなんて相当だよ。おっと、ちょっとこれ見て」
助八が指さした先を見ると、先ほど置いた紙片が風もないのに震え、なんと破かれた部分が一つにくっついた。しかもどういうわけか紙に書かれた円がみるみる内に銅銭に変わっていく。
「おおおおお?」
助八がその銅銭に指を置いて次郎の前に移した。
「迷惑料ってところで。うどん代」
「本物かこれ?」
手にとってまじまじと、どこからどう見ても本物の銅銭だ。
「大丈夫、本物だよ。タマモの悪戯なんだ」
「へぇ〜。うーむ。なら遠慮なく貰っておこう。こういうの見ると“らしい”感じがするな」
ミヅチが次郎に不思議な技を見せるのはほとんどなく似姿を取るくらいで、あとは見た目以外は人間とほとんど変わらない。にょろにょろと歩いてにょろにょろと炊事をしにょろにょろと掃除洗濯をしている。
よくよく考えてみると、あんなに偉そうにしているわりに案外家を守ってくれているのだなと次郎は思い直した。
「そういやミヅチを様付けで呼ばなくてもいいぞ。聞いてる俺のケツが痒くなる」
「ああ、それはミヅチ様にも言われているけど、そういう訳にもいかない。なんたって龍だからね。あの方の前でなら本人たっての希望だから無碍にはできないけど、それ以外、とりわけ旦那さんの前では気安くは呼べないさ」
「はぁ……そういうもんか。じゃあ俺もタマモ様って呼んだほうがいいのか。稲荷っていやぁ神社で祀られてるくらいだしな」
助八は苦笑して言う。
「いや、タマモでいいよ。彼女もそう言ってなかったかい」
「なら俺もお前も、様付け無しでってことで」
「わかった。あんたの前ではそうするとしよう」
話の分かる奴だ。
「あと俺はミヅチの旦那じゃないぞ」
「え?」
助八はぽかんと口を開いて、閉じて考え事をするように視線を落とし、何をか喋ろうとしてまたぽかんと口を開けたままで次郎を見る。思わず次郎は苦笑する。
「なんだよお前面白い奴だな」
「え、いや、そうだったのか。いや……あんたには驚かされることばかりだな」
「なんかおかしいのか?」
おかしいもなにも。いくら妖怪が人間の雄に甘く場合によっては手当たり次第……とはいえ、龍ほどの位の者となると、これと決めた雄とは婚儀を行うのが当たり前だ。ただの形式的な行事や体面ではなく、妖力の結びつきをより強固にする儀式でもあるからだ。事実、助八もミヅチの眷属であるタマモとはひと月の付き合いの後、正式に結婚をしている。長寿である妖怪だと、長い目でみると何度も婚儀を行うことにもなる場合があるが、そのあたりは妖怪と人の種族的な違いである。
そして何より龍の住処に住んでいないというのも解せなかった。少なくとも助八が知っている限り位が高かろうが低かろうが妖怪と結ばれれば殆どの場合その妖怪の住処に住むようになる。助八のように暇つぶしの旅に出ることもあろうが、人のように不自由な生活を、まして龍が、何故。
「いや、ちょっと他の妖怪と状況が違うものだったからさ」
「ふーん。俺にゃ違いがわからんが。まあ妖怪が人と住んでるっていうのは確かに変だよな」
次郎という男はいい奴だと思う。タマモに引き摺られて助八もそれなりに長寿になっているから、人の善し悪しも見分けられるようになった。だが、この男はいい奴なだけでそれほどの者には見えない。
次郎はうどんを食い終わると、下げにきた娘になにやら仕草をして、「あとこれも」と言って娘に「またおみつさんに怒られるよ」と頭をはたかれていた。
「あのよ、この際だから色々と聞いていいか」
「もちろん。俺の知ってることなら」
次郎はあごをさすって何を聞くのか考えあぐね、折り紙で鶴が折れるほどの時間を費やした。
「妖怪って、つまり何者なんだ」
「それって人間ってなんだっていうのと同じだろ」
「うむ、そうか。あーじゃあ妖怪ってよ、お伽噺にあるようなもんじゃねぇの? 人間食ったりかどわかしたりさ。良い奴もいるみたいだが」
事ここに至って次郎は何も知らないような質問だが、ミヅチと会ってから基本的なことは聞いている。知らない者同士が信頼を築くのには当たり前に必要なことだ。ミヅチを疑っているのではないが、ミヅチからは聞きづらかったこともいくつかあり、また同じ境遇にいる者の視線からの妖怪の姿を知りたくてそこから話を始めた。
助八は一つ頷いて口を開いた。
「昔はそうだったらしい。とは言っても想像もできないような昔だ。いつだか妖怪の主上が代替わりをし、今の妖怪のような姿になったそうだ。色々と面妖な姿をしているが、根は可愛いもんだよ。人の女と変わらない」
「そうさらっと言えるってことは相当いるんだよな」
「人の数にはかなわないけど、あんたが思っているより普通にいるさ。ここらは違うようだが、地域によっては妖怪と人が共存している場所もある」
「俺ぁ結構いろんなとこ渡り歩いたが、妖怪なんぞほとんど会った事ないし、そんな村や町なんて見たことねーぞ」
「妖怪と一緒に暮らしている人の中にも、龍が実在しないと思っている人もいる」
「む。ん〜」
あごをさすって質問を変える。
「なぜ人を攫う?」
「妖怪はね、女の見目通り妖怪同士では子を成すことができない。だからかな、人そのものじゃなくて、人の雄に異様に執着があるんだよ」
その助八の説明は実のところまったくの逆だ。このことに関しては信じがたいことだが理由より結果が先にある。それは助八やその他大勢の者たちは知らない。
「攫う場合もあれば、男から妖怪に着いて行く者もいる。人と同じように恋をして結ばれる場合もある。そして妖怪は男を傷つけることはない。人のように住処で暮らしているよ。事故で死ぬことはあってもね」
「俺は妖怪を三匹殺している」
助八は落ち着いて次郎の話を聞いている。
「あいつらはミヅチと違って人を殺して俺にも襲い掛かってきた。俺が知っているのはその三匹とミヅチと白蛇、狸、あと今日会ったタマモだ。両方見ている俺だがどうしてもそれだけでは話は納得できん」
「あいよー。酒持ってきたよ」
店の娘が徳利とお猪口を二つ盆からとんとん、卓の上に並べた。傍から見ても重くなった空気にすぐ厨房に戻るのかと思えば、次郎の横に立ったまま両手を腰にあてた。
「次郎あんたさぁ、ツケが溜まってるんだけど」
「今日の分は払うっつの」
「あら珍しい。しかもお二人分まいど」
「うるせぇよ。とっとと戻れ」
「ひっどい。あんたなんかどうせすぐおみつさんに愛想つかされてまーた男やもめに蛆がわくのよ」
「てめっ、飯屋の娘が蛆なんて言うんじゃねーよ」
べーっと舌を出して娘は厨房へ戻っていった。次郎は舌打ちして酒を注ぐ。
今朝にミヅチが「妾の都合じゃから」といくらか次郎に飯代を渡していた。一度は断ったものの、次郎も今日は夕方まで一人で遊び惚けようと思っていたものだから誘惑には勝てなかった。
「おっと悪いな。で、だ。さっきの続きなんだが」
助八が手のひらを向け、次郎をさえぎった。
「すまないがその前に、あんたのことが聞きたい。どこか所縁のある者か」
「ねぇよ」
お猪口を傾けて短く答える。
次郎の物腰にある程度の腕前は見て取れたが、人並みから脱するほどではないように思う。ならば縁になにかあるのかと思えば、次郎の答える態度に偽りは感じられない。
「その辺にある普通の平民の出だ。そりゃ俺だって一旗あげようって息巻いてた餓鬼の時分はあったがな。なんだかんだで生きてくだけで精一杯だ」
次郎は肘を突いて店の外を眺める。町人たちが右に左に活気の良い雑踏がある。
「そうか。すまないな、話の腰を折って。さっきの話だが、次郎さんが会ったという妖怪は“古い者”だ。普通の妖怪は、人を雄雌関係なく暴力で襲うことはない」
やはりここにきてボケ老人のたわ言か。
「稀に昔の気質を持った者が生まれるんだ。生まれる子供がみな五体満足で健康なら言うことないだろうけど、妖怪も人と同じで生き物としてはそこから逃れられないってことだろう。ミヅチさんが言うには、目が届く範囲では一年に一度、あるかないかだそうだ」
五年で三回。次郎の経験のみだが、辻褄は合う。
次郎は助八にも酒を勧める。
「それにしてもあんたよく“古い者”に会って生き残れたな。俺もそれなりに会ったことはあるけど、かなり……だったろ」
助八が口を濁したのは妖怪に関わりすぎたからか。あまり悪くは言いたくないのだろう。
「まあ、男大勢で囲ってやるだけだからな。こっちも死人が何人か出たし。俺は運が良かったんだ」
徳利を傾けるともう雫しか出なかった。助八は次郎に自分の徳利を差し出す。
「悪ぃな。たまの贅沢なんだ」
「そこまでとは見えなかったが。武士は食わねど高楊枝ってやつか」
次郎はくくっと歯を噛み締めて笑った。
「そう見えるなら俺も一人前かね。嫌いじゃねーな、お前みたいな奴は」
「あんたとは気が合いそうだ」
「――“百鬼改め方”って、なんだ」
助八の顔から感情の色が無くなる。
次郎もまた自分なりに調べていたことがあった。“改め方”と聞いていた。火盗改め方にはすぐ辿り着いたものの、だがたまたま雑談の最中にその言葉をぽろりと出したミヅチのあのときの不安げな表情が、それを指しているのではないと思った。とある酔席での怪談話で聞こえたのがその名前だ。
結局、名前以上は次郎では何も分からなかった。
助八の異様な佇まいに空気がぴんと張り詰め、周りの馬鹿笑いも聞こえなくなるほど次郎の肝は冷えたが、酔った緩い笑顔を崩さないまま助八から視線を外さない。
助八の目は次郎ではなく、次郎を通して別の何かを見ている。
次郎には目の前の若者が突然得体の知れない化け物かなにかに変質したようにも感じた、いや意味も分からずそう確信した。それでも口を止めない。
「異国の教団ってやつと関係があるのか」
助八はその名を聞いて次郎に手を伸ばすと、先ほど次郎に渡した自分の徳利を持ちぐいと一息に呷った。
酔うためだけのごりごりした安酒を飲み干し、再び次郎に顔を向けるとすでに先ほどまでの剣呑な雰囲気はすっかり消えていた。
「いや、すまない」
そう言って言葉通りすまなそうな笑顔になる。「もう一杯は俺が奢ろう」
「ああ構わねぇよ。もうそろそろお開きだ」
次郎は暗に話を促す。観念したのか、助八は苦笑して首を振った。
「まず、教団っていうのは異国で宗教を広めている団体だ。これもまた、もう誰も知らないくらい昔からあって、その宗教は異国では普遍的に信仰されている。それ自体は悪いことじゃない。人には拠り所が必要だからだ」
助八は空になった徳利を指で弄ぶ。
「己を律し人を助けよという教義は立派なものだし、事実それは人を幸せにしている面がある。だが、妖怪にとって問題なのは悪魔は排斥せよという教義もまた同時に存在することだ」
「悪魔って、妖怪のことか」
「うん。魔物とも呼ばれている。ちょっとこの国とは扱いが違う部分もあるけど、人を人だと一緒くたに括るとすると、彼女ら自身は、魔物も悪魔も妖怪も呼び方が違うだけの同種族だ。さっきまで話していた妖怪のことは魔物や悪魔にも通じる」
次郎は視線を外し助八の話を止めた。右手をあげて、
「おい、お鈴!」
店の娘を呼んでもう二本酒を頼んだ。お鈴はむっとしながらも気配を察したのか、酒を持って戻るまでちらちらと見ていたが結局黙っていた。
「で、その因縁の教団とやらがこの国の改め方とどういう関係なんだ」
今度は助八も遠慮なく酒を呷り話を続ける。ちっとも顔が赤くはない。ザルか。
「これといって関係はないよ。今のところはね。百鬼改め方はこの国の妖怪討伐専門の組織だ、だがほとんど表には出てこない。教団もまたそうなんだけど、昔、人と妖怪が否応なしに敵対していた頃からの名残なんだ。それが人の心には未だに根付いているから妖怪を恐れる。少ないとはいえ“古い者”もいるから人が自分を守るためにはそんな組織があるのは仕方が無い部分もあるけどね。だけど、人からしたら普通の妖怪も“古い者”も区別が付かない場合が多い。それが俺たちにとっては脅威なんだ」
俺たちにとっては、と助八はそう言った。
◇
「うっううぅ〜!」
タマモは真っ赤に腫らした尻を剥き出しにし床に突っ伏して泣きべそをかいていた。
「まったく九尾ともあろう者が、このくらいで情けないのう」
一方ミヅチも真っ赤にした手のひらをぷらぷらと振っている。手腕は人の形になっている。
「姉上の尻叩きは容赦がないんじゃ!」
涙声でミヅチに噛み付く。こんな情けない姿は千年ぶりか、助八には死んでも見せられない。もうやけくそだ。
「昔は『あねうえー』と何処へ行くにも着いてきて、ふくふくとあどけないわらべじゃったのにの。いつからか言って良いことと悪いことの分別も付かない阿呆に」
「いったいどれだけ昔じゃ! だいたいあのくらいのこと! 夫婦なら当たり前のことだろうが!」
「次郎と妾は夫婦ではない」
「なんじゃと!」
タマモは仰天した。が、尻がぢんぢんと痛くて顔を上げるだけで身動きが取れない。もう出会って半年、同棲して三ヶ月ほどと言ってはいなかったか。あいや婚儀を行っていてタマモが呼ばれていなければそれはそれで大問題だ。それにしたって、
「姉上はもうずっとあれやこれや男としておいて、そういうことを儂に教えてくれたのも姉上であろうが!」
ミヅチは手を添えた頬をぽっと赤らめタマモから顔を背けた。
まさか、そんな、
「…………。次郎とは、まだそういうことはしておらん……」
「なんじゃとおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」
尻の痛みも忘れて今度こそタマモは立ち上がった。事前にミヅチが張っておいた結界をびりびりと震わせる。結界がなければこの辺り一帯の長屋の住人は鼓膜が破裂して耳から血を流し気絶していただろう。飯屋で飲んでいるはずの次郎と助八のもとへも届きそうな叫び声だった。
「これタマモ。尻ぐらい隠さんか」
「そんな場合か! どうして姉上はそうのうのうとしておられるのだ!」
交わりは種族繁栄に繋がる。どちらが先かは置いておいて、龍だろうが狐だろうがその強烈な本能には敵わないはずだ。人ですら性欲が祟れば体調に差し障るくらいなのに。
「仕方が無かろう。次郎はそういう睦み合いに疎いのじゃ」
拗ねるような呆れるようなその顔に嘘はあるまい。床を人差し指でぐりぐりとしながらミヅチは小さくため息をついた。
「ならば魅了の術でも使えばよかろう!」
「次郎に並の魅了は効かぬ。堪らず一度かけてしまったことがあったが、まったく効かなんだ。その後も弱く何度か試してみたが、どうやら耐性があるようじゃな」
珍しいがいることはいる。強引に自分へと惹き寄せる魅了の術が効きにくい人間。
それでもそんなに入れ込んでいるなら強い術でもかければいいのではないか。ミヅチは次郎とあんなにも気持ちの良い交わりをしたくないのか。こいつは果たして本当にあの姉上なのか。
がらりと戸板が開いた。今、戸を開けられる者は四人しかいない。
「おう、帰ったぞ」
「お邪魔します」
次郎と助八がほろ酔い加減で帰ってきた。
「八ぃいいいいい〜!」
尻丸出しの半べそ狐が助八へだだだっと飛び込んできた。隣にいた次郎はぎょっとして言葉をなくす。
「八っ! あやつをやっつけろ!」
「また龍相手に無茶な……」
びしりとミヅチを指さすタマモを、困り顔でいなす助八は手慣れているように見える。
あわあわと口をわななかせて、なおもタマモは助八に縋り付く。
「あやつは儂の姉上ではない! 姉上の皮を被った鬼か悪魔じゃ!」
いやそれは広義で言えば合っているがそう言うタマモ自身にも当てはまる。
取り乱しているようですみませんねと、助八は尻出し痴女狐の着物を直してからまだぎゃーぎゃー騒ぐタマモを背中に担いで長屋を早々に出て行った。このあと四人で飲もうと言っていたのだが、まだこの町に滞在するそうなのでまた後日と相成った。
次郎はまたもや呆然としつつ、落ち着いて茶を飲むミヅチに振り向いた。
「……あれ、今朝のと同じ?」
「うむ」
「姉上って言ってたが」
「姉妹の契りを交わしておるでな」
それくらいなら人でもあるか。ってそういう大事なことは先に言っとけ。次郎はいつもの場所に座るが、いつもより少しミヅチから遠い。ミヅチもそれに気付いたが特に何も言わなかった。
「…………」
「…………」
しばらく二人の間に妙な沈黙が降りる。
ミヅチはあんな話をしたばかりだし、実は次郎もあのあと当然の如く下の話になり今のタマモのような反応を助八にされて、次郎は不能か衆道を嗜んでいるのかと怪しまれ、果てはどんなに妖怪がいいものかということを訥々と語られたばかりだった。
見慣れたと痩せ我慢していた。
ミヅチの色っぽい女郎のような着物からのぞく白い首筋、肌から漂う香のような纏わり付く匂い、握れば折れそうな細腕、大きく柔らかそうな揉みしだきたい乳房。長大な龍尾もいっそ艶めかしく見える。
ごくりと喉を鳴らす。
緊張が伝染したのか、ミヅチも先ほどから湯飲みに口を付けたまま固まっていた。
次郎の床に着いた指が、僅かにミヅチへ、
「おひい様」
ミヅチが湯飲みを滑り落とし次郎が距離と取ろうとして失敗し床に頭をぶつけた。
声は戸板の外からだった。
「きょ、今日はやけに客が多いなぁ。おっ俺が出る」
戸板と割れた湯飲みを交互に見るミヅチを裏声で制して次郎は急いで戸を開いた。
外に立っていたのは、白い着物を着て肌もその長い髪も雪のように白い女だった。
誘いに乗れば冥府に堕とされそうな朱い瞳の美しい女が、次郎に腰を折る。
「このような夜分に失礼致します。次郎様」
一瞬ぎょっとした次郎だが、見知った顔に安心し女の髪をわしゃわしゃと撫でた。
「おう、ミツハか。久しぶりだな。どうした、ミヅチに用事でもあるのか」
ミツハと呼ばれた女は無表情に、されるがまま次郎を見つめている。
「ん? どうしたミツハ。元気ねぇな。もしかして腹でも痛ぇのか」
次郎は女の背に視線を合わせ、心配そうに顔をのぞき込んだ。
「いえ……」
そう言って女はやはり顔には何も映さずに次郎を見つめている。
次郎がミツハに初めて会ったのは、ミヅチの住処に呼ばれた時である。住み込みで働いていてミヅチの家族のような者だ。こうしてミヅチが次郎の長屋に転がり込んで来たあとも何度か顔を合わせていた。いつ会っても天真爛漫な笑顔を絶やさず無邪気でやかましいくらいの奴だと思っていたのだが。
「次郎、そのくらいにしておいてやれ」
ミヅチがくつくつと笑っている。
「あ?」
なにやらまた嫌な予感がする。
「フタバ。すまんの。妾の戯れに長く付き合わせて」
「いえ」
フタバ?
「えーと、どちらさま?」
失礼致します。と部屋に入ってきてミヅチに深々と礼をすると似姿を解く。ミヅチに似ている半人半蛇の白蛇だ。その真っ白な尾を生やした姿を見ても次郎にはやはり前から知っているミツハにしか見えない。
フタバは次郎を見上げ、
「次郎様は、以前私とお会いになったこと、憶えておいでではありませんか」
ぽつりぽつりと呟くように言う。
言われてみれば、ミツハがこんな雰囲気で話しかけてきたことがあったような気がする。その時も病気でもしてるんじゃないかと心配した記憶が朧気に蘇った。
「あんときの、っていうかこういうときのお前はフタバだったのか?」
フタバが頷いたように俯く。
「くっくっ……。すまんの次郎。妾の白蛇は姉妹で三人おってな。次郎の知ってる三女のミツハ、この次女のフタバ、あとおっとりしとるのが長女のヒトハじゃ」
こいつ本当に性格悪いな。
次郎はフタバに向き直り、崩した彼女の髪をなんとか撫で付ける。
「そ、そうか。悪かったな気付かなくて。フタバ、か。改めてよろしくな。いやこうするとミツハが喜んでたもんだから。すまんフタバ」
「いえ」
やはりされるがままのフタバは視線を落とした。やりづらい。ミヅチやミツハくらいなら分かりやすいのだが。
「フタバは大人しい子じゃからの。あまり苛めてくれるなよ」
「お前が言うな」
「…………」
その後フタバを交え夕餉を囲う。次郎は酔い冷ましに軽く、ミヅチはフタバにも夕餉を振る舞った。緑と白い尾が部屋中にうねっている様はなかなかに壮観だ。
フタバはあまり喋らないものの、人の話はよく聞き、最低限のツボを押さえた受け答えをして会話が成り立たないということはなかった。
いよいよ夜も更けフタバがミヅチに離席を求めると、ミヅチが小さな箪笥から何かを風呂敷に包みフタバに手渡していた。
「ん、なんだそれ」
「必要のない物を住処に引き取ってもらうのじゃ。そうじゃフタバ、これも持って行くがよい。次郎が買ってきてくれた物じゃ」
タマモへの手土産に選り分けていた甲野屋の饅頭を三つ包んだ。フタバは大事そうにそれを受け取ると、ミヅチと次郎に礼儀正しくお辞儀をする。
「ありがとうございます」
夜遅くなのだから今日は泊まって行けば良い、女が一人じゃ危ないぞ。と次郎が言うと二人ともきょとんとして、フタバは無表情に、ミヅチはにやにやと返した。
夜は妾たちの時間じゃぞ。
行灯の火を消し次郎が布団に入ると、ミヅチも寝る用意をした。大抵はとぐろを巻いてその上で上半身を横にしているのだが、時々だらしなく尾を伸ばし放題で寝たり似姿のまま寝たりする。
布団は一応二組あった。ミヅチはとぐろを巻いたあと、何を思ったかそれを解いて布団を敷き始めた。人の布団では尾がはみ出るどころではないだろう。似姿でも取るのか。
「ふむぅ……」
「寒くねぇのか」
本来の姿のままで布団に寝るミヅチはかなり滑稽だ。尾のほとんどは布団からはみ出してそこら中へ伸ばしている。
「最近は暖かくなったからの」
天井を見つめたまま答える。“最近”の使い方が次郎としては正しい。
そのまま二人とも目を閉じて眠気と暗闇に身を任せる。
しばらくすると、ごそごそと何度かミヅチが寝返りを打つような気配が、次郎の朧気な意識に聞こえた。
半ば以上眠りに入りながら薄目を開けると、ミヅチの白い左手が次郎のそばに伸びていた。寒そうだな、と次郎はその自分よりも一回りも小さい手を握った。ぴくっと驚いた仕草をした手は、恐る恐る次郎の手を指先で何度も撫でて、やがて少し強めに握り替えしてきた。
「次郎……」
細く甘い囁き声は、熟睡した次郎の耳には届かない。
それでもミヅチは幸せそうに、握り合った手を見つめながら目を閉じた。
これで駄目なら仲間同様、肉を撒き散らして野豚の餌になる。
仲間の大男が鍔迫りで鬼に膝を着かされたその合間、隆々たる筋肉の張る鬼の右腕を狙った。鬼はいち早く男の殺気に反応し、押し込んでいた刀ごと金棒で人間を右に払いその軸線上にある男の上半身を吹き飛ばそうと金剛力を振るう。
男は素早く身を落とし眼前に迫る金棒を刀の上縁で滑らせ勢いを殺すことなく震脚。金棒を鞘に見立てた居合い斬りを大上段で鬼の右鎖骨から左脇腹へと抜いた。
血の色は人と同じ赤だった。
金棒を取り落として呆然と立ち尽くす鬼のまさかの応戦を嫌い、切った腹を足蹴にすると開いた傷から臓物を零して狂ったようにもんどり打ち、しばらく鬼は血の海の中で事切れた。
違和感は始めからあった。前の二匹は人と似ているとはいえ獣然とした体躯と気勢が抜けきらなかったが、この鬼は額に二本の角があり青い肌ではあるものの、女人と見た目はほとんど変わらなかった。何より前の妖怪と違うのは、ただ意の相容れない動物としての敵愾心を丸出しにして、あるいは空腹を満たすために捕食する命懸けの態度ともまるで違い、この鬼はただひたすら気が触れたかのように目に入る物も人も壊破し続けていた。
暴れていたときの血を吐くような雄叫びが、あたかも泣き声のように聞こえたのは果たして錯覚か。
人の女を斬り殺したかのような後味の悪さが、この血溜まりのごとく男の胸中に広がる。今日も男は生き残った。今回も仲間が四人死んだ。
しとしとと雨が降っていた。鬼の骸を見下ろす男の、熱を持った体から湯気が立ち上る。
体が動かない。
血の池に躊躇いもなく手を差し伸べて鬼の骸を抱き上げた者がいた。
男は激しい動悸も悪汗も止まらず歯の根が合わない、命乞いをするかのように見上げたその先に、大蛇の化身がいた。
「世話をかけたの」
人語を喋りやがった。
今先ほど命がけで戦った鬼が赤子に思えるほどの圧倒的な存在感。そしてその声音はまるで男など意に介していない。ただそこに人が居たから気まぐれに声をかけただけのように、実際の身長差よりも遙か高みからかけられたかのようだった。
「そう気負うことはない」
お主を害するつもりはない、と大蛇は言った。
それは嘘だ。
こうしてすぐに駆け付けられるくらいの近くで同じ妖怪が斬り殺されたのに、こんなにも鬼の返り血を浴びている人間を許す謂われはない。
男は生まれてこの方覚えが無いほど体が竦んでも、心までは折られまいと震える歯を砕けんばかりに食い縛る。大地を踏み締め刀が振れないほど柄を強く握り締め、大蛇の金色の眼を真正面から睨み付けた。
一人と一匹は、雨の降りしきる中ひととき、そうしていた。
近くの腰を抜かした仲間はすでに気を失っていたが、そいつのことなどすっかり頭から抜けていた。
生死の境だ。
大蛇が口を開く。
「たまさか、こういう者が生まれる。人にもおるじゃろう、鬼子という輩が。手が付けられなんだ、大概は同胞や人に害なす前に妾たちが諫めるのじゃが。妾たちの代わりにしてくれたこと、お主たちにも死人が出たであろ。恨みはせぬ。礼を言う」
人のように、思わぬ慈悲の籠もった大蛇の理解に、やっと男は気付いた。
長大な蛇の尾、鬼の頭を撫でる手腕にこそ雄々しい爪と鱗があるものの、大蛇の上半身はこの鬼のように人の形を取っており、天女のごとくあまりにも美しかった。思い掛けず白い肌を隠す着物に血が染みこむのも厭わず、薄く目を開いて固まった鬼の顔に頬を寄せ、泣いているようにも見えた。
「そいつをどうするつもりだ」
乾いた唾液ではり付いた喉からやっと搾り出せた言葉がこれだ。俺は何を言っているんだ。まるで人を相手にしたような言葉じゃないか。むしろ今言わねばならぬ言葉は、俺をどうするつもりだ、ではないか。大蛇の言葉を信用したのではないのに。男は狼狽する。
「妾が弔う。首でも取らんとお主が困るやもしれぬが、ここは承知してくれぬかえ」
是非もない。死体を嬲る趣味はない。それにこの大蛇に指一本触れようものなら、男は跡形もなく食い尽くされてしまう予感がある。だが、
「なら、金棒は貰っていってもいいか」
この一言に命をかけた。遺品を奪おうと言うのだ、この瞬間にあの尾で絞め殺されてもおかしくはない。だが、人としてこのまま屈服してしまってはつまらない。いまわの際に詰まる詰まらぬの話もないが、これまで数多の修羅場を駆け抜けてきた男なりの矜持だ。戦って勝利した印をくれ、無理なら殺してくれて構わない。
「よかろ」
大蛇は男を一瞥すると、これ以上語ること無しとばかりに尾をうねらせ遠ざかる。
「お、おい!」
咄嗟に男は自身も意味も分からず呼び止めるが、その背は昼なお暗い森の中へ消えていった。根が張ったような震える足では到底追いかけることはできなかったし、その意味もなかった。
あとには男の仲間の血肉が着いた金棒と、血を滴らせた大蛇の獣道だけが残った。
雨はすべてを洗い流す。
それは、半年以上も前の話だ。
次郎とミヅチの、あまりにも血生臭い馴れ初めである。
◇
昼飯のために長屋に戻った次郎が黙々と白飯を食っていると、空になった次郎の湯飲み茶碗に茶を注ぎつつミヅチが話しかけてきた。
尾がもぞもぞと左右に揺れている。なにか良いことでもあったのか。
「のう次郎。明日じゃがな、ここに客を呼んでもいいかの」
「客? 構わんが、誰だ」
「妾の昔馴染みじゃ」
いたのか、そんなの。かなり長生きしているらしいからいてもおかしくはないのだが、次郎の知っている、人間を除いたミヅチの交友関係と言えば、ミヅチの住処に住み込みで働いているらしい白蛇のミツハ一人だけだ。そう言えばこの前祭りで出会ったハツエは今頃どこで何をしているのだろうか。
「そうか。つまりえーと」
「妾と同じ妖怪じゃ。旅でこの近くに寄ったらしくてな、顔でも見たいと言ってきよった」
「文でも来たのか」
「虫の知らせじゃ」
便利だな、妖怪。大根の漬け物をぽりぽりと食い、急な話ですまんのじゃがとミヅチが言う。すまないも何も昔馴染みと会うなら次郎がなにをか言うことはない。旅に出ている者というのならなおのこと久しいだろう。周りの町人にばれないようにしてさえくれれば、どうぞいくらでも話に花を咲かせればいい。
「で、いつぶりくらいなんだ」
ミヅチは小首をかしげてしばし黙考する。
「つい最近会うたばかりじゃから……せいぜい五十年ぶりくらいじゃろうか」
次郎の物差しで計ればつい最近とはせいぜい三、四日前、長くとも一週間前だ。少し待たせれば遅いだのなんだのと喚き散らす癖に、どの口が五十年前をつい最近と言うのか。この口か。
次郎は気づくとミヅチの柔らかい頬を引っ張っていた。
「は、はにほすうほにゃ」
目を見張ってうろたえるミヅチ。
「すまん。つい」
「つい、で次郎は人の頬をつねるのか」
頬を撫で目に涙を溜めて恨めしそうに次郎をねめ付ける。
飯を食い終わってから一息つき、次郎は再び仕事に出る。手と一緒に尾をびたんびたんと振って送り出してくれるミヅチの姿もいい加減にこの部屋に馴染んできた。
「明日も次郎はお勤めかえ」
「いや、休みだ。邪魔だろうしその辺ぶらついてるさ」
「そんなことはないが、まあそうしてくれるとありがたい」
ミヅチにしては歯切れの悪い答えが返ってきた。妖怪同士、女同士、人に聞かれては不味い話もあるだろう。腹に一物両手に荷物。人である次郎だってミヅチに聞かれたくない話はある。
「わかった。んじゃあ今日はひとっ風呂浴びてくるわ。少し遅くなるからな」
「ふむ。次郎にも見知らぬ者に気を遣うという成長ができたか」
このやろうと手をあげる振りをすると、ミヅチは嬉しそうに尾を巻いた。
明日、次郎は一目挨拶くらいはするだろうが、ミヅチの昔馴染みに汗臭い体で会うのは憚れた。どういう者が訪れるのかが楽しみだ。
そしてその翌日。また次郎にしては珍しく、茶菓子を買いに行く気遣いを見せて長屋に戻ると、すでに件の来客があった。
恐らくこちら側に背を向けて龍のミヅチに相対しているその者は、次郎から見るとふさふさの毛で背中どころか後頭部すらも見えなかった。
「帰ったぞ。もう来てたのか」
素早く静かに戸板を閉める。次郎の声を聞いたその人は、毛をぱたりと倒して背後を振り向いた。次郎はここしばらくで色々な妖怪を見てきたが、その姿に思わず息を飲む。
琥珀色の長髪にぴんと立った獣の耳がある。後ろ姿を隠していた髪と同色の大量の毛は、ふうわりとした先端だけが白い尻尾だった。見分けが付きにくいが尻尾は一本ではなく両手の指ほどの数はあるように見える。顔の線には見目麗しく若々しいだけではない、老獪で厳かな影があった。およそ狐の妖怪だろうことが一目で分かる。
「お邪魔をしております」
いつかのミヅチのように、どこか荘厳な調べのある声音。
「おかえり、次郎。こやつが妾の馴染みで、タマモじゃ」
タマモは次郎に向き直り、居住まいを正し正座をして頭を下げる。
「お初にお目にかかります、次郎殿。儂は稲荷のタマモと申します。以後お見知りおきを」
堂の入った風格に、次郎は居心地が悪くなる。茶菓子はもう少し値の張った沖野谷の饅頭にしておけば良かったと後悔する。
「ああ、俺は次郎っていう。ミヅチの馴染みなんだって?」
動揺しているのかミヅチと同じ話を繰り返して言っていることに次郎は気づいていない。タマモもまた気づかない風に返答する。
「ええ。儂は伴侶と旅をしてあちこちふらついております故、懐かしい匂いがしたものですから。突然でご迷惑かとも思いましたが、図々しくも手土産の一つもなくまことに失礼致します」
タマモはミヅチより幾分か若い見目に似つかわしくない大らかな微笑みを浮かべる。
この狭くぼろい長屋に半獣半人の、龍と稲荷。得難い光景である。見る者が見れば平伏して震えが止まらないだろう、下手をしたら寿命が縮んでしまうかもしれない。しかしミヅチのある意味での正体を知っている次郎は今ひとつこの席の重大性に気づかず、タマモの美貌と手の中にある茶菓子の値段ばかり気にしている。
「タマモ。いい加減猫を被るのはやめい」
「あら、謂われのない言いがかりこそやめてくれんかの。のう、次郎殿」
のう、とそんな笑顔で振られても、次郎には返す言葉もない。さすがはミヅチの昔馴染み。いつも偉ぶっているミヅチを前にしてもまったく怯んでいる様子はない。
「ああそうだ。買ってきたぞ。ほら」
丁度よい逃げ口上に茶菓子をミヅチに渡す。甲野屋のまずまずな饅頭だが、口に合うだろうか。いつまでも隠しているよりましだ。そこでミヅチが思わぬ反応を示す。
「あ……、さすが次郎じゃ。妾はついうっかり忘れてしもうていた。久方ぶりに会う馴染みに茶菓子を出し忘れるなどと、まこと礼儀の欠けたことをしてしまうところであった。うむうむ。ほんに次郎は気の利く男じゃのう〜」
次郎は歯ががたがた浮いて全身が粟立ち毛という毛が逆立ったような気がした。なんだどうしたそんなに仲間に会えたのが嬉しくて心にもない言葉を並べてしまうほど興奮しているのかそれとも豆腐の角に頭でもぶつけたのか。
しかもミヅチが饅頭の箱を抱く手を胸の前で組んでくねくねして言うものだから、次郎は正視に堪えられなかった。早くここを出たい。
そして見ればタマモは袖を口に当てて目を伏せている。恥らっているのだろう。この二人の差は一体どういうことなのか。
「いえ、失礼しました。次郎殿はまことよい殿方であらせられるのですな。ミヅチの言葉にはこのタマモ、しっかと得心致しました」
前言撤回。やっぱりミヅチの昔馴染みなだけはある。
「ところで次郎殿……」
タマモが立ち上がる。ふさふさの尻尾が歩みに追随する。
慣れないやり取りに生気が抜け明後日の方角を向いて立ち尽くす次郎の腕を取り、ごく自然にタマモが腕を組んでミヅチほどではないが充分に大きい乳房を押しつけてきた。そして高級な布団でもここまでではなかろうという心地よいふわふわの尻尾が次郎を包み込む。
「おっ、え?」
「これほどよい殿方、放っておくのは勿体なき罪にも等しい。ミヅチなどとは別れて儂といいことしませんこと?」
琥珀の瞳を揺らめかせ、つま先だって、ふぅっ……と次郎の耳に息を吹きかける。心地の良い匂いと言葉。体の半身に押しつけられる柔らかく温かい感触で、次郎は立ち眩む。
「こんの泥棒狐!」
湯飲みがびゅっと投げつけられ、尻尾の一つにぽふっと当たって包まれ、床まで割れずに下ろされる。次郎は物を投げるほど激昂するミヅチを初めて見た。
「次郎も次郎じゃ! 情けなくも鼻の下を伸ばしくさりおって! さっさと出て行くがよい!」
俺の家なんだが……。
タマモは自分でしでかしたことなのに他人事に笑っている。
「お、俺かよ。っていや、それじゃタマモさん、また。ええっと、しばらく戻らないからごゆっくり」
冗談にしてはたちが悪い。気持ちは良かったが。
「タマモで結構ですよ、次郎殿……」
タマモの腕と尻尾から逃れる間際、タマモに両手で次郎の左手を包み込まれ、再び耳元で囁かれた。
「えっ……」
「なーにーをーしーてーおーるー?」
いつの間にか戸口に立つ二人のタマモの背後に、つまりタマモを挟んで次郎の正面にミヅチが牙を剥いて威嚇している。苛立たしげに床を打つ尾。漂う気配がいつになく恐ろしい。そんなミヅチを背負ってすらもタマモは笑顔で手を振って次郎を清々しく見送っている。こんなところでタマモの、人との胆力の違いを見せつけられた次郎であった。
◇
逃げるようにして長屋から出て行った次郎を見送る。戸板が閉められると同時にミヅチが息をつく。先ほど投げた湯飲みを拾い上げた。
「やりすぎではないのかえ」
「あら、儂はミヅチの興に乗っただけだぞ」
振り向いたタマモの可憐な笑みが、先ほどとは打って変わって狡猾な微笑みに変化する。
「しかし、なかなか見込みのある小僧ではあるな。それは嘘ではない」
「当たり前じゃ。それと小僧とは言うな」
「小僧でなければよちよち歩きの赤ん坊ではないか。乳はちゃんとくれてやっておるのか」
「妾からしたら、お主んとこの助八も同じ尻の青い洟垂れ餓鬼じゃがな」
ごぅとタマモの周囲に青い鬼火が数多も現れる。複数の尾を揺らめかせ俯き加減にミヅチを睨む、獣特有の牙を剥き出しにし咽を鳴らす。その気になればこの指先ほどの鬼火一つで、小さな村を焼き尽くせる妖力だ。
「……助八は餓鬼ではないぞ」
「ならば口を慎め。タマモ」
面倒くさそうにミヅチがひらりと手を振ると、鬼火全てがいともあっさり弾け消え去った。
ミヅチが席に戻り茶を淹れ直し始める。タマモも口を尖らせ小さく鼻を鳴らして改めて席に着いた。この程度のやりとりは二人の挨拶のようなものだ。
タマモの膳に茶を置き、茶菓子の包みを開ける。二つはタマモに、二つは土産に選り分け、一つは次郎に取っておき、残り一つを自分に。思ったよりも奮発したのだなと饅頭を見てミヅチは思う。
「物見遊山の旅はどうじゃ。なにか面白いことでもあったかの」
「国中は何度も回ったからな、再びあちこち行く度に同じ場所でも景色は変わるくらいか。ただ同胞も人も変わらぬのだから、結局は見た目が変わってるだけで中身は変わらん」
まあそれでもいくつか面白いところはあるがな、とタマモはあぐらをかいて茶を啜った。次郎の前ではあれだけ品の良い態度を取っていたのは本当に猫被りと思われるかもしれないが、ミヅチやタマモからすれば共に真也と言うだろう。要は場合によってどちらが楽かとそういう話だ。
楽しそうにタマモは尻尾をぼふぼふ振って話しを続ける。
「このあいだはな、温泉町にしばらくおった。温泉はいいぞ。身も心も洗われる。湯に浸かりながら酒を飲み、こう、しっぽりとな」
意味ありげに薄目で笑う。妖怪と人の雄、一緒にいればやることは一つだが、やはり雰囲気や工夫というのも大事だ。如何に互いの気持ちを分かっていても、気持ちに甘えていてはいつかは綻びが出る。人よりも魅了の術に長けた妖怪とてそれは同じだ。以前なら聞き流していたミヅチも、今となっては耳に痛い。素直に頷く。ただ単に温泉の良さも知っているからでもある。
「うむ。いいのう。妾もまた行きたいものじゃ」
「今からでも行くか?」
「次郎を置いては行けぬ」
「連れて行けばいいではないか」
きょとんとタマモが答えを出すと、ミヅチは視線を外して頬をかいた。
「う、うむ。そこらはちと、複雑な事情があってじゃな……」
話の矛先を変える。
「ともかくその話はあとじゃ」
息を飲む。
「……一つ、聞きたい。“百鬼改め方”の動きはあったか」
ぴくりとタマモの耳が反応する。嫌な名前を出されたものだ。
「あのキチガイ共か。まあ、最近幾度か会うことはあったな。助八が追っ払ったり儂が脅かしたりして適当にあしらっておいたが。なんぞあったか」
その問いには答えず更に質問を重ねる。
「大陸の教団と改め方が接触したとは知らなんだか」
「はて、去年も教団お膝元の異国におったが、そんな話はついぞ耳にはせんかったな」
さらりととんでもない言葉を出すもミヅチは流した。
ぼろ長屋には似つかわしく無い品の良い小さな箪笥の引き出しから布包みを一つ取り出す。包みを広げると出てきたのは簪に使われるような長く太い針。両の先端が鋭く研がれている。
「今から半年前の話じゃ、青鬼のアオナの頸椎からこれが見つかった」
「死んだか」
「うむ」
一瞬の間。
「それだけではない。アオナの最期、妾から見てもまるで“古い者”のような振る舞いじゃった」
その言葉に今度こそタマモが吃驚する。先祖返りは有り得ない。タマモもまた常しえを生きる者だが、主上の代替わり後の生まれだ。それでもあの妖怪の世代交代と言える出来事は知っているし、自分の中に息づく過去を自力で感じる術を会得した者として、やはりあの位の青鬼ごときが立ち返り出来るとは思えず、あのアオナだからこそやれることではないとも思う。だからこう言うしかない。
「アオナが? あやつほど聡明な青鬼もそうはおるまい。気でも触れたか」
「そうであればまだよかったやもしれぬ。この針にはな、深く刺された側に毒が塗ってあった。フタバに調べさせた物がこれじゃ」
次いで軟膏剤の容れ物を取り出す。蓋を開くと中には血のように赤い塗り薬のような半固形物が入っていた。
「強毒じゃ。肌に付くだけで肉が爛れる。遙か昔から教団の過激派が使う物と似ているそうじゃ。このような物、以前はこの国にはなかった」
小鼻を近づけ匂いを嗅いでからタマモは躊躇いもせず軟膏らしき毒を人差し指で掬い取り、ぺろりと舐める。ミヅチもまたそれを全く止めようとはしなかった。
口を忙しなく動かし舌の上で何度も確かめる。耳と尻尾がびりびりと震える。これほどの物、恐らく妖力や肉体に優れぬ者が摂取すれば、あっという間に死に至るだろう。タマモは茶で口を濯いだ。
「ふむ。強心作用のある薬に似ておる。これを百鬼改めの者共が、か」
口惜しそうにミヅチは歯噛みをした。
「妾の懈惰じゃ。アオナと改め方が会うたとは調べ切れなんだ。だが恐らくは」
「ミヅチ。次郎殿と会うたのも半年前と言っておったな」
「次郎は関係ない!」
一拍と置かずミヅチが叫んだ。白蛇にも見せたことのない剣幕で。だが、俯いている。前髪で表情が読めない。
タマモはただ有り得る可能性の高い事柄を一つ挙げただけだ。だからこそミヅチもすぐ冷静になる。
感情がごっそりと抜け落ちた平坦な言葉を吐く。
「そう……だと、本人が言っておった。百鬼改め方も、何をか知らなんだ」
「口だけならなんとでも言えよるぞ」
その通りだ。だからミヅチは予め用意していた言葉をそのまま口から落とす。
「調べた。関係はなかった」
次郎の“じ”は漢字が二つ以上あるはずだ。“ろう”にしても「きっとこれじゃろうな」では選べない似た漢字がある。
ミヅチは、次郎の名の漢字を、あの祭りよりずっと以前から知っていた。
誰しも思う青鬼を斃した者たちへの疑惑。次郎に対してそんなことはしたくなかったしできるわけがなかった。だが、ミヅチさえ信じていればそれでいいという出来事ではなかったのだ。
だから、ミヅチは恐ろしくて耳を塞いだ。フタバに全てを丸投げし洗い浚い調べさせ判断をも委ねた結果、何一つとして次郎の改め方への連なりは出てこなかった。放心した。安堵したと同時に次郎の過去全てに自分が介さなかったことが、胃の腑に熱く滾る黒々とした石を詰まらせ、苦しくて苦しくて堪らなくなった。
タマモは目を伏せて呟く。
「ふむ。そうか……」
血色のなくなった震える両腕でミヅチは自身を抱きしめて、我が身すらも支え切れずに腰を折った。
「疑ったから近づいたのではない。ただ妾は、会いとうて……。その間に事が勝手に大きゅうなって」
「わかっておる。ミヅチがそんな器用な女ではないことは、儂が一番知っておる」
優しい声音、温かな眼差し。タマモはミヅチの傍らに座り、両手と九尾全てを使いミヅチを抱擁し、何度も何度も背中を撫ぜた。
このミヅチの姿を見れば分かる。いっとう疑えない者を、何よりもはじめに強く疑わなくてはならなかった。
――可哀想な姉上。
アオナを殺したのは次郎だと、ミヅチはついに言えなかった。言っても詮無い話ではあっただろう。
針と毒を箪笥の中に仕舞う。落ち着くために茶を啜る。既に冷めて渋いだけだった。
幾分か持ち直したミヅチは、気怠げに話し始める。
「他の者にも訊いてみたがな、たったここ一年で“古い者”が四件。じゃがその実、そうと思われていただけの、針と毒が関わっていたのは三件じゃ。妾の周りで毎年一人出るか出ないかの、“古い者”がやけに多いと思っていたのじゃが、そういうからくりだったということじゃ」
見落としを含めれば、あと二割は増やしてもいいかもしれない。明らかに異常な数。相手の魂胆は明白だ。
「改め方も異能の集まりだからの。少なくともミヅチの白蛇たちぐらいのやり手が直接関わらねば、足跡なぞ消すのは容易かもしれぬな」
「それほどか」
「儂がこの前遊んでやった相手はな。助八が妙に苦戦しておると思うたら、きゃつらすっかり顔ぶれが変わっておった」
ミヅチはあごに手をやって黙考する。
「妾たちは人に仇なすことはできん。じゃが、このまま捨て置く訳にもいかぬ」
「その軟膏容れがあるということは、すでに証拠は掴んでおるのだろ」
もっともな指摘だが、ミヅチは肩を落としてため息をついた。
「刑部経由ですでに打診をしてはおる。じゃがどのお上も二の足を踏んでおってな。どうやら、改め方の後ろが碌でもないたわけ者に変わったらしいのじゃ」
なるほどタマモが簡単に思いつくことなどすでに試し済みか。タマモは目を伏せる。
「ふむ……。毒もそのためか。儂もうろうろ旅をしてもおられぬということかの」
「助かる」
「なに、ミヅチがそこまで骨を折っておるのだから、妹分の儂が遊んでいるわけにもいくまい。それに、娘らが心配でもあるしの」
このまま放っておけばおくほど犠牲者は鼠算に増え、それだけではなく妖怪の立つ瀬もなくなるだろう。もし助八や各地にいる娘たちが奸計に巻き込まれたら、タマモは理性を保てる自信がない。こうして考えているだけでも、はらわたが煮えくり返る。
今はまだ先触れに過ぎない。時がくればきっと抜き差しならぬ形勢になるはずだ。そうなってしまう前にどうにか先手を打たなければならない。
甘味が足りない。助八との夜相撲以外で久しぶりに頭を使ってしまった。次郎が買ってきてくれた饅頭を一つ、おもむろに囓る。
「うまいの。この饅頭」
「ん……? ああ。うむ、そうじゃろう。ふむ……」
ミヅチは最初タマモが何を言っているのか分からなかった。
次郎の手柄を褒められて一時頬を緩めたが、再び床の一点を凝視する。
「ミヅチ」
「なんじゃ」
「考えすぎもよろしくない。少し休め」
タマモはミヅチの膳に置かれた饅頭を掴み無理矢理ミヅチの口に押し込んだ。
「むおっ! んむ……、ん。旨い」
無礼な振る舞いに怒るでもなし、せっかく次郎が買ってきてくれた物だから、押し込められた饅頭でも充分に堪能して冷めた茶を啜った。
狐は腕を組んで龍にこれ見よがしに鼻でため息をつく。
「ミヅチは昔から一人で抱え込みすぎるのだ。もう何千年も前からその調子だもの、そろそろ頭が破裂してしまうぞ」
「そ、それは嫌じゃな」
「白蛇たちのことも勝手に一人で決めてしまうし」
「やれやれ、まだ根に持っておるのか。そのことは散々謝ったじゃろう」
「いーえ。あんな大事を、いくら遠方に居たとしても伝える術なぞいくらでもあろう。儂を除け者にして」
話を蒸し返している内に自分の言葉で段々と怒りまでも蘇って来たのだろう。タマモは子供のようにむすっとして頬を膨らませた。
ミヅチは苦笑して、湯を沸かすため薬缶を火にくべる。
「まったく。術で見たがミヅチは次郎殿にべたべたべたべたしておるくらいが丁度よい」
すとん、とミヅチの色が抜け落ちた。
「今……なんと」
「だからの、次郎殿相手にあはんうふんとぱーぷー娘をやってるくらいでミヅチは」
がっし。
「はぎゅっ……?」
白く滑らかだった前腕は、雄々しく力強い鱗ある龍腕に。男の手のひらほど幅のある鋭い爪が四本、タマモの頭を丸ごとぎりぎりと掴んでいた。この爪が金剛石すら軽く握り潰すのをタマモは見たことがある。
「二度は言わぬ」
「あうぇっ、姉上……様?」
姉上様の体から金色の燐光が溢れている鼻が触れそうなほど近くで目が血走っている首元が不気味に脈打っている今にも驪竜頷下の珠が、
「その術、金輪際使うなよ。なんなら妾が封じてやる今すぐにな」
「ごっごっご冗談を」
きっと術を封じるだけでは済まされまい。
「二度は言わぬと言うたよな」
ちびった。まさかこの年になって。
ごっごめんなさい〜すみません嘘です術なんて使ってないですそんな神様みたいな術は儂は使えません〜人がよくやる読心術というやつです違うんです術じゃありません見栄をはりましたただのはったりをかましてみただけです許してください姉上様〜!
◇
――通りの飯屋できつねうどんの油揚げ抜きを頼んでみてください。そこに儂の伴侶がおります。
頼んだ。笑われた。
行きつけの飯屋での出来事だ。
ふて腐れついでに本当にきつねうどんの油揚げ抜きを食っていると、卓の正面に立つ者が居た。
「あんたが次郎さんかい」
若い。とは言っても二十歳になったかどうかあたりか。人当たりの良さそうな少し垂れ目の顔。身長と体格は見た目では次郎に劣る。祭りの人混みの中でも一発で見つけられそうな真っ赤な羽織。無精なのか腕が立つからなのか、随分と柄の小汚い小太刀を二本佩いている。風変わりな伊達男。
麺を啜ったままそこまで見て取る。次郎は何も言わずに視線を器に戻そうとすると、向かいの男が小さな紙片を次郎の前に置いた。
それを見た次郎も懐を探って紙片を出す。互いの紙片には半円が描かれていて、近くに置くと元は一枚の紙片だったことに気付く。
「あんたがタマモさんの旦那か」
男は少し目を見開いてから、にこりと笑い椅子を引いた。
「ああ。助八っていうんだ。よろしく」
「次郎だ。ミヅチから聞いたのか」
「先に挨拶済ませたときにね。ミヅチさんは……っと、ミヅチ様は次郎さんのことえらい買ってたからどういう人なのかって思ってたんだけど」
期待はずれということか。
「はっ。正直だな」
「いやいや。あのミヅチ様に見初められるなんて相当だよ。おっと、ちょっとこれ見て」
助八が指さした先を見ると、先ほど置いた紙片が風もないのに震え、なんと破かれた部分が一つにくっついた。しかもどういうわけか紙に書かれた円がみるみる内に銅銭に変わっていく。
「おおおおお?」
助八がその銅銭に指を置いて次郎の前に移した。
「迷惑料ってところで。うどん代」
「本物かこれ?」
手にとってまじまじと、どこからどう見ても本物の銅銭だ。
「大丈夫、本物だよ。タマモの悪戯なんだ」
「へぇ〜。うーむ。なら遠慮なく貰っておこう。こういうの見ると“らしい”感じがするな」
ミヅチが次郎に不思議な技を見せるのはほとんどなく似姿を取るくらいで、あとは見た目以外は人間とほとんど変わらない。にょろにょろと歩いてにょろにょろと炊事をしにょろにょろと掃除洗濯をしている。
よくよく考えてみると、あんなに偉そうにしているわりに案外家を守ってくれているのだなと次郎は思い直した。
「そういやミヅチを様付けで呼ばなくてもいいぞ。聞いてる俺のケツが痒くなる」
「ああ、それはミヅチ様にも言われているけど、そういう訳にもいかない。なんたって龍だからね。あの方の前でなら本人たっての希望だから無碍にはできないけど、それ以外、とりわけ旦那さんの前では気安くは呼べないさ」
「はぁ……そういうもんか。じゃあ俺もタマモ様って呼んだほうがいいのか。稲荷っていやぁ神社で祀られてるくらいだしな」
助八は苦笑して言う。
「いや、タマモでいいよ。彼女もそう言ってなかったかい」
「なら俺もお前も、様付け無しでってことで」
「わかった。あんたの前ではそうするとしよう」
話の分かる奴だ。
「あと俺はミヅチの旦那じゃないぞ」
「え?」
助八はぽかんと口を開いて、閉じて考え事をするように視線を落とし、何をか喋ろうとしてまたぽかんと口を開けたままで次郎を見る。思わず次郎は苦笑する。
「なんだよお前面白い奴だな」
「え、いや、そうだったのか。いや……あんたには驚かされることばかりだな」
「なんかおかしいのか?」
おかしいもなにも。いくら妖怪が人間の雄に甘く場合によっては手当たり次第……とはいえ、龍ほどの位の者となると、これと決めた雄とは婚儀を行うのが当たり前だ。ただの形式的な行事や体面ではなく、妖力の結びつきをより強固にする儀式でもあるからだ。事実、助八もミヅチの眷属であるタマモとはひと月の付き合いの後、正式に結婚をしている。長寿である妖怪だと、長い目でみると何度も婚儀を行うことにもなる場合があるが、そのあたりは妖怪と人の種族的な違いである。
そして何より龍の住処に住んでいないというのも解せなかった。少なくとも助八が知っている限り位が高かろうが低かろうが妖怪と結ばれれば殆どの場合その妖怪の住処に住むようになる。助八のように暇つぶしの旅に出ることもあろうが、人のように不自由な生活を、まして龍が、何故。
「いや、ちょっと他の妖怪と状況が違うものだったからさ」
「ふーん。俺にゃ違いがわからんが。まあ妖怪が人と住んでるっていうのは確かに変だよな」
次郎という男はいい奴だと思う。タマモに引き摺られて助八もそれなりに長寿になっているから、人の善し悪しも見分けられるようになった。だが、この男はいい奴なだけでそれほどの者には見えない。
次郎はうどんを食い終わると、下げにきた娘になにやら仕草をして、「あとこれも」と言って娘に「またおみつさんに怒られるよ」と頭をはたかれていた。
「あのよ、この際だから色々と聞いていいか」
「もちろん。俺の知ってることなら」
次郎はあごをさすって何を聞くのか考えあぐね、折り紙で鶴が折れるほどの時間を費やした。
「妖怪って、つまり何者なんだ」
「それって人間ってなんだっていうのと同じだろ」
「うむ、そうか。あーじゃあ妖怪ってよ、お伽噺にあるようなもんじゃねぇの? 人間食ったりかどわかしたりさ。良い奴もいるみたいだが」
事ここに至って次郎は何も知らないような質問だが、ミヅチと会ってから基本的なことは聞いている。知らない者同士が信頼を築くのには当たり前に必要なことだ。ミヅチを疑っているのではないが、ミヅチからは聞きづらかったこともいくつかあり、また同じ境遇にいる者の視線からの妖怪の姿を知りたくてそこから話を始めた。
助八は一つ頷いて口を開いた。
「昔はそうだったらしい。とは言っても想像もできないような昔だ。いつだか妖怪の主上が代替わりをし、今の妖怪のような姿になったそうだ。色々と面妖な姿をしているが、根は可愛いもんだよ。人の女と変わらない」
「そうさらっと言えるってことは相当いるんだよな」
「人の数にはかなわないけど、あんたが思っているより普通にいるさ。ここらは違うようだが、地域によっては妖怪と人が共存している場所もある」
「俺ぁ結構いろんなとこ渡り歩いたが、妖怪なんぞほとんど会った事ないし、そんな村や町なんて見たことねーぞ」
「妖怪と一緒に暮らしている人の中にも、龍が実在しないと思っている人もいる」
「む。ん〜」
あごをさすって質問を変える。
「なぜ人を攫う?」
「妖怪はね、女の見目通り妖怪同士では子を成すことができない。だからかな、人そのものじゃなくて、人の雄に異様に執着があるんだよ」
その助八の説明は実のところまったくの逆だ。このことに関しては信じがたいことだが理由より結果が先にある。それは助八やその他大勢の者たちは知らない。
「攫う場合もあれば、男から妖怪に着いて行く者もいる。人と同じように恋をして結ばれる場合もある。そして妖怪は男を傷つけることはない。人のように住処で暮らしているよ。事故で死ぬことはあってもね」
「俺は妖怪を三匹殺している」
助八は落ち着いて次郎の話を聞いている。
「あいつらはミヅチと違って人を殺して俺にも襲い掛かってきた。俺が知っているのはその三匹とミヅチと白蛇、狸、あと今日会ったタマモだ。両方見ている俺だがどうしてもそれだけでは話は納得できん」
「あいよー。酒持ってきたよ」
店の娘が徳利とお猪口を二つ盆からとんとん、卓の上に並べた。傍から見ても重くなった空気にすぐ厨房に戻るのかと思えば、次郎の横に立ったまま両手を腰にあてた。
「次郎あんたさぁ、ツケが溜まってるんだけど」
「今日の分は払うっつの」
「あら珍しい。しかもお二人分まいど」
「うるせぇよ。とっとと戻れ」
「ひっどい。あんたなんかどうせすぐおみつさんに愛想つかされてまーた男やもめに蛆がわくのよ」
「てめっ、飯屋の娘が蛆なんて言うんじゃねーよ」
べーっと舌を出して娘は厨房へ戻っていった。次郎は舌打ちして酒を注ぐ。
今朝にミヅチが「妾の都合じゃから」といくらか次郎に飯代を渡していた。一度は断ったものの、次郎も今日は夕方まで一人で遊び惚けようと思っていたものだから誘惑には勝てなかった。
「おっと悪いな。で、だ。さっきの続きなんだが」
助八が手のひらを向け、次郎をさえぎった。
「すまないがその前に、あんたのことが聞きたい。どこか所縁のある者か」
「ねぇよ」
お猪口を傾けて短く答える。
次郎の物腰にある程度の腕前は見て取れたが、人並みから脱するほどではないように思う。ならば縁になにかあるのかと思えば、次郎の答える態度に偽りは感じられない。
「その辺にある普通の平民の出だ。そりゃ俺だって一旗あげようって息巻いてた餓鬼の時分はあったがな。なんだかんだで生きてくだけで精一杯だ」
次郎は肘を突いて店の外を眺める。町人たちが右に左に活気の良い雑踏がある。
「そうか。すまないな、話の腰を折って。さっきの話だが、次郎さんが会ったという妖怪は“古い者”だ。普通の妖怪は、人を雄雌関係なく暴力で襲うことはない」
やはりここにきてボケ老人のたわ言か。
「稀に昔の気質を持った者が生まれるんだ。生まれる子供がみな五体満足で健康なら言うことないだろうけど、妖怪も人と同じで生き物としてはそこから逃れられないってことだろう。ミヅチさんが言うには、目が届く範囲では一年に一度、あるかないかだそうだ」
五年で三回。次郎の経験のみだが、辻褄は合う。
次郎は助八にも酒を勧める。
「それにしてもあんたよく“古い者”に会って生き残れたな。俺もそれなりに会ったことはあるけど、かなり……だったろ」
助八が口を濁したのは妖怪に関わりすぎたからか。あまり悪くは言いたくないのだろう。
「まあ、男大勢で囲ってやるだけだからな。こっちも死人が何人か出たし。俺は運が良かったんだ」
徳利を傾けるともう雫しか出なかった。助八は次郎に自分の徳利を差し出す。
「悪ぃな。たまの贅沢なんだ」
「そこまでとは見えなかったが。武士は食わねど高楊枝ってやつか」
次郎はくくっと歯を噛み締めて笑った。
「そう見えるなら俺も一人前かね。嫌いじゃねーな、お前みたいな奴は」
「あんたとは気が合いそうだ」
「――“百鬼改め方”って、なんだ」
助八の顔から感情の色が無くなる。
次郎もまた自分なりに調べていたことがあった。“改め方”と聞いていた。火盗改め方にはすぐ辿り着いたものの、だがたまたま雑談の最中にその言葉をぽろりと出したミヅチのあのときの不安げな表情が、それを指しているのではないと思った。とある酔席での怪談話で聞こえたのがその名前だ。
結局、名前以上は次郎では何も分からなかった。
助八の異様な佇まいに空気がぴんと張り詰め、周りの馬鹿笑いも聞こえなくなるほど次郎の肝は冷えたが、酔った緩い笑顔を崩さないまま助八から視線を外さない。
助八の目は次郎ではなく、次郎を通して別の何かを見ている。
次郎には目の前の若者が突然得体の知れない化け物かなにかに変質したようにも感じた、いや意味も分からずそう確信した。それでも口を止めない。
「異国の教団ってやつと関係があるのか」
助八はその名を聞いて次郎に手を伸ばすと、先ほど次郎に渡した自分の徳利を持ちぐいと一息に呷った。
酔うためだけのごりごりした安酒を飲み干し、再び次郎に顔を向けるとすでに先ほどまでの剣呑な雰囲気はすっかり消えていた。
「いや、すまない」
そう言って言葉通りすまなそうな笑顔になる。「もう一杯は俺が奢ろう」
「ああ構わねぇよ。もうそろそろお開きだ」
次郎は暗に話を促す。観念したのか、助八は苦笑して首を振った。
「まず、教団っていうのは異国で宗教を広めている団体だ。これもまた、もう誰も知らないくらい昔からあって、その宗教は異国では普遍的に信仰されている。それ自体は悪いことじゃない。人には拠り所が必要だからだ」
助八は空になった徳利を指で弄ぶ。
「己を律し人を助けよという教義は立派なものだし、事実それは人を幸せにしている面がある。だが、妖怪にとって問題なのは悪魔は排斥せよという教義もまた同時に存在することだ」
「悪魔って、妖怪のことか」
「うん。魔物とも呼ばれている。ちょっとこの国とは扱いが違う部分もあるけど、人を人だと一緒くたに括るとすると、彼女ら自身は、魔物も悪魔も妖怪も呼び方が違うだけの同種族だ。さっきまで話していた妖怪のことは魔物や悪魔にも通じる」
次郎は視線を外し助八の話を止めた。右手をあげて、
「おい、お鈴!」
店の娘を呼んでもう二本酒を頼んだ。お鈴はむっとしながらも気配を察したのか、酒を持って戻るまでちらちらと見ていたが結局黙っていた。
「で、その因縁の教団とやらがこの国の改め方とどういう関係なんだ」
今度は助八も遠慮なく酒を呷り話を続ける。ちっとも顔が赤くはない。ザルか。
「これといって関係はないよ。今のところはね。百鬼改め方はこの国の妖怪討伐専門の組織だ、だがほとんど表には出てこない。教団もまたそうなんだけど、昔、人と妖怪が否応なしに敵対していた頃からの名残なんだ。それが人の心には未だに根付いているから妖怪を恐れる。少ないとはいえ“古い者”もいるから人が自分を守るためにはそんな組織があるのは仕方が無い部分もあるけどね。だけど、人からしたら普通の妖怪も“古い者”も区別が付かない場合が多い。それが俺たちにとっては脅威なんだ」
俺たちにとっては、と助八はそう言った。
◇
「うっううぅ〜!」
タマモは真っ赤に腫らした尻を剥き出しにし床に突っ伏して泣きべそをかいていた。
「まったく九尾ともあろう者が、このくらいで情けないのう」
一方ミヅチも真っ赤にした手のひらをぷらぷらと振っている。手腕は人の形になっている。
「姉上の尻叩きは容赦がないんじゃ!」
涙声でミヅチに噛み付く。こんな情けない姿は千年ぶりか、助八には死んでも見せられない。もうやけくそだ。
「昔は『あねうえー』と何処へ行くにも着いてきて、ふくふくとあどけないわらべじゃったのにの。いつからか言って良いことと悪いことの分別も付かない阿呆に」
「いったいどれだけ昔じゃ! だいたいあのくらいのこと! 夫婦なら当たり前のことだろうが!」
「次郎と妾は夫婦ではない」
「なんじゃと!」
タマモは仰天した。が、尻がぢんぢんと痛くて顔を上げるだけで身動きが取れない。もう出会って半年、同棲して三ヶ月ほどと言ってはいなかったか。あいや婚儀を行っていてタマモが呼ばれていなければそれはそれで大問題だ。それにしたって、
「姉上はもうずっとあれやこれや男としておいて、そういうことを儂に教えてくれたのも姉上であろうが!」
ミヅチは手を添えた頬をぽっと赤らめタマモから顔を背けた。
まさか、そんな、
「…………。次郎とは、まだそういうことはしておらん……」
「なんじゃとおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」
尻の痛みも忘れて今度こそタマモは立ち上がった。事前にミヅチが張っておいた結界をびりびりと震わせる。結界がなければこの辺り一帯の長屋の住人は鼓膜が破裂して耳から血を流し気絶していただろう。飯屋で飲んでいるはずの次郎と助八のもとへも届きそうな叫び声だった。
「これタマモ。尻ぐらい隠さんか」
「そんな場合か! どうして姉上はそうのうのうとしておられるのだ!」
交わりは種族繁栄に繋がる。どちらが先かは置いておいて、龍だろうが狐だろうがその強烈な本能には敵わないはずだ。人ですら性欲が祟れば体調に差し障るくらいなのに。
「仕方が無かろう。次郎はそういう睦み合いに疎いのじゃ」
拗ねるような呆れるようなその顔に嘘はあるまい。床を人差し指でぐりぐりとしながらミヅチは小さくため息をついた。
「ならば魅了の術でも使えばよかろう!」
「次郎に並の魅了は効かぬ。堪らず一度かけてしまったことがあったが、まったく効かなんだ。その後も弱く何度か試してみたが、どうやら耐性があるようじゃな」
珍しいがいることはいる。強引に自分へと惹き寄せる魅了の術が効きにくい人間。
それでもそんなに入れ込んでいるなら強い術でもかければいいのではないか。ミヅチは次郎とあんなにも気持ちの良い交わりをしたくないのか。こいつは果たして本当にあの姉上なのか。
がらりと戸板が開いた。今、戸を開けられる者は四人しかいない。
「おう、帰ったぞ」
「お邪魔します」
次郎と助八がほろ酔い加減で帰ってきた。
「八ぃいいいいい〜!」
尻丸出しの半べそ狐が助八へだだだっと飛び込んできた。隣にいた次郎はぎょっとして言葉をなくす。
「八っ! あやつをやっつけろ!」
「また龍相手に無茶な……」
びしりとミヅチを指さすタマモを、困り顔でいなす助八は手慣れているように見える。
あわあわと口をわななかせて、なおもタマモは助八に縋り付く。
「あやつは儂の姉上ではない! 姉上の皮を被った鬼か悪魔じゃ!」
いやそれは広義で言えば合っているがそう言うタマモ自身にも当てはまる。
取り乱しているようですみませんねと、助八は尻出し痴女狐の着物を直してからまだぎゃーぎゃー騒ぐタマモを背中に担いで長屋を早々に出て行った。このあと四人で飲もうと言っていたのだが、まだこの町に滞在するそうなのでまた後日と相成った。
次郎はまたもや呆然としつつ、落ち着いて茶を飲むミヅチに振り向いた。
「……あれ、今朝のと同じ?」
「うむ」
「姉上って言ってたが」
「姉妹の契りを交わしておるでな」
それくらいなら人でもあるか。ってそういう大事なことは先に言っとけ。次郎はいつもの場所に座るが、いつもより少しミヅチから遠い。ミヅチもそれに気付いたが特に何も言わなかった。
「…………」
「…………」
しばらく二人の間に妙な沈黙が降りる。
ミヅチはあんな話をしたばかりだし、実は次郎もあのあと当然の如く下の話になり今のタマモのような反応を助八にされて、次郎は不能か衆道を嗜んでいるのかと怪しまれ、果てはどんなに妖怪がいいものかということを訥々と語られたばかりだった。
見慣れたと痩せ我慢していた。
ミヅチの色っぽい女郎のような着物からのぞく白い首筋、肌から漂う香のような纏わり付く匂い、握れば折れそうな細腕、大きく柔らかそうな揉みしだきたい乳房。長大な龍尾もいっそ艶めかしく見える。
ごくりと喉を鳴らす。
緊張が伝染したのか、ミヅチも先ほどから湯飲みに口を付けたまま固まっていた。
次郎の床に着いた指が、僅かにミヅチへ、
「おひい様」
ミヅチが湯飲みを滑り落とし次郎が距離と取ろうとして失敗し床に頭をぶつけた。
声は戸板の外からだった。
「きょ、今日はやけに客が多いなぁ。おっ俺が出る」
戸板と割れた湯飲みを交互に見るミヅチを裏声で制して次郎は急いで戸を開いた。
外に立っていたのは、白い着物を着て肌もその長い髪も雪のように白い女だった。
誘いに乗れば冥府に堕とされそうな朱い瞳の美しい女が、次郎に腰を折る。
「このような夜分に失礼致します。次郎様」
一瞬ぎょっとした次郎だが、見知った顔に安心し女の髪をわしゃわしゃと撫でた。
「おう、ミツハか。久しぶりだな。どうした、ミヅチに用事でもあるのか」
ミツハと呼ばれた女は無表情に、されるがまま次郎を見つめている。
「ん? どうしたミツハ。元気ねぇな。もしかして腹でも痛ぇのか」
次郎は女の背に視線を合わせ、心配そうに顔をのぞき込んだ。
「いえ……」
そう言って女はやはり顔には何も映さずに次郎を見つめている。
次郎がミツハに初めて会ったのは、ミヅチの住処に呼ばれた時である。住み込みで働いていてミヅチの家族のような者だ。こうしてミヅチが次郎の長屋に転がり込んで来たあとも何度か顔を合わせていた。いつ会っても天真爛漫な笑顔を絶やさず無邪気でやかましいくらいの奴だと思っていたのだが。
「次郎、そのくらいにしておいてやれ」
ミヅチがくつくつと笑っている。
「あ?」
なにやらまた嫌な予感がする。
「フタバ。すまんの。妾の戯れに長く付き合わせて」
「いえ」
フタバ?
「えーと、どちらさま?」
失礼致します。と部屋に入ってきてミヅチに深々と礼をすると似姿を解く。ミヅチに似ている半人半蛇の白蛇だ。その真っ白な尾を生やした姿を見ても次郎にはやはり前から知っているミツハにしか見えない。
フタバは次郎を見上げ、
「次郎様は、以前私とお会いになったこと、憶えておいでではありませんか」
ぽつりぽつりと呟くように言う。
言われてみれば、ミツハがこんな雰囲気で話しかけてきたことがあったような気がする。その時も病気でもしてるんじゃないかと心配した記憶が朧気に蘇った。
「あんときの、っていうかこういうときのお前はフタバだったのか?」
フタバが頷いたように俯く。
「くっくっ……。すまんの次郎。妾の白蛇は姉妹で三人おってな。次郎の知ってる三女のミツハ、この次女のフタバ、あとおっとりしとるのが長女のヒトハじゃ」
こいつ本当に性格悪いな。
次郎はフタバに向き直り、崩した彼女の髪をなんとか撫で付ける。
「そ、そうか。悪かったな気付かなくて。フタバ、か。改めてよろしくな。いやこうするとミツハが喜んでたもんだから。すまんフタバ」
「いえ」
やはりされるがままのフタバは視線を落とした。やりづらい。ミヅチやミツハくらいなら分かりやすいのだが。
「フタバは大人しい子じゃからの。あまり苛めてくれるなよ」
「お前が言うな」
「…………」
その後フタバを交え夕餉を囲う。次郎は酔い冷ましに軽く、ミヅチはフタバにも夕餉を振る舞った。緑と白い尾が部屋中にうねっている様はなかなかに壮観だ。
フタバはあまり喋らないものの、人の話はよく聞き、最低限のツボを押さえた受け答えをして会話が成り立たないということはなかった。
いよいよ夜も更けフタバがミヅチに離席を求めると、ミヅチが小さな箪笥から何かを風呂敷に包みフタバに手渡していた。
「ん、なんだそれ」
「必要のない物を住処に引き取ってもらうのじゃ。そうじゃフタバ、これも持って行くがよい。次郎が買ってきてくれた物じゃ」
タマモへの手土産に選り分けていた甲野屋の饅頭を三つ包んだ。フタバは大事そうにそれを受け取ると、ミヅチと次郎に礼儀正しくお辞儀をする。
「ありがとうございます」
夜遅くなのだから今日は泊まって行けば良い、女が一人じゃ危ないぞ。と次郎が言うと二人ともきょとんとして、フタバは無表情に、ミヅチはにやにやと返した。
夜は妾たちの時間じゃぞ。
行灯の火を消し次郎が布団に入ると、ミヅチも寝る用意をした。大抵はとぐろを巻いてその上で上半身を横にしているのだが、時々だらしなく尾を伸ばし放題で寝たり似姿のまま寝たりする。
布団は一応二組あった。ミヅチはとぐろを巻いたあと、何を思ったかそれを解いて布団を敷き始めた。人の布団では尾がはみ出るどころではないだろう。似姿でも取るのか。
「ふむぅ……」
「寒くねぇのか」
本来の姿のままで布団に寝るミヅチはかなり滑稽だ。尾のほとんどは布団からはみ出してそこら中へ伸ばしている。
「最近は暖かくなったからの」
天井を見つめたまま答える。“最近”の使い方が次郎としては正しい。
そのまま二人とも目を閉じて眠気と暗闇に身を任せる。
しばらくすると、ごそごそと何度かミヅチが寝返りを打つような気配が、次郎の朧気な意識に聞こえた。
半ば以上眠りに入りながら薄目を開けると、ミヅチの白い左手が次郎のそばに伸びていた。寒そうだな、と次郎はその自分よりも一回りも小さい手を握った。ぴくっと驚いた仕草をした手は、恐る恐る次郎の手を指先で何度も撫でて、やがて少し強めに握り替えしてきた。
「次郎……」
細く甘い囁き声は、熟睡した次郎の耳には届かない。
それでもミヅチは幸せそうに、握り合った手を見つめながら目を閉じた。
12/05/26 07:12更新 / 野月あおい
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