第二話 龍と遊ぶ
富くじに名前を書く。ただそれだけである。
金を払ってくじを買うだけではなく、控札と受取札の二枚一組の紙に名前を書き、抽籤で当たった上で筆跡を透かして調べる。不正をより厳粛に取り締まるための、最近導入された売り手側の苦肉の策だ。
元来、神社の祭りにあってはならない販売所なのだが、祭りの喧騒の中そのことについてあえて異を唱える者はおらず、故にその販売所の由縁も押して知るべし。
「ふむ。あの紙切れが金になるのか」
「ああ。当たりゃあな」
「楽じゃな。買えばよかろ」
「ああ」
次郎はさっきから手であごをさすりながらなにやら真剣な眼差しで販売所を眺め、いっこうにくじを買う気配がなかった。
順番でも待っているのかなにか次郎なりの気循でもあるのか、それとも如何わしい方法で購入するすべを考えているのか。ミヅチは傍らに寄り添って様子を見ていたが、半時ほども販売所の前を行ったり来たり。痺れを切らしたミヅチに言われるがまま、まるで餌付けのように屋台の食い物を買い与えているのだが、どことなく上の空でいったいどのくらい財布から金が飛び立っているのか分かっているのかあやしい。
神社の祭りといっても今日は簡素なもので、肝心要の神社からの催しは少なく参道の両脇にずらりと並んだ屋台で食って飲んで遊んで回るだけである。それでも数少ない娯楽の一つであるわけだから、町人はついつい財布の紐が緩みがちになってしまうし、屋台のおやじ共はここぞとばかりに商魂逞しく稼ぎに走る。まだまだ宵の口、増えていく参拝客に賑々しい雰囲気で満たされているが、もう一刻もすれば酔客同士の喧嘩や盛った若者たちの逢引が見られることだろう。
肩と肩がすれすれでぶつからないくらいの、これだけの人混みの中にあって、次郎と龍であるミヅチは堂々と祭りに参加していた。仮装祭りでもなければ人が踊らせる龍の張りぼての中にミヅチが入っているのでもない。いたって普通の祭りである。
「まだかの。次郎」
「もうちょっと待てって」
そう声をかけられた女には二本の足がある。艶やかな長髪は焚き火の光を吸い込む黒色で瞳の色も同じくし、高級織布のお色気むらむら仕立ての着物ではない地味な鳶色で仕立ての悪い安物を着ている。誰であろうミヅチが、である。
似姿。ミヅチほどの位になると自力で人の姿に化けることは雑作もない。変化に特化した一部の妖怪を除き似姿を取るのは余程の神通力と才が必要になる。妖怪自身の力ではなく呪符や呪具などを媒介した変化の法もあるが、それらを作るにもかかる労力は生半なものではなく、利用できる機会は少ない。
たかだか足が生えて角が消え髪と瞳が黒くなった程度、ミヅチの佳麗さは変わることはない。それどころか艶めかく匂い立つような女体は男たちの十目を集め、地味な安着物さえ引き立てる落ち着き払った佇まいは同姓すらも引き寄せる。
かくしてミヅチは人と暮らすための一番の障壁をなんなく飛び越え次郎とぼろ屋に住めている。概ね妖怪たちは人の間には住処は作らず、種族間の集団性が薄い者たちも多い。また妖怪たちへの偏見も根強いので今のミヅチのように人の中で暮らすには変化の術が必要だ。ミヅチが次郎の袖を強く引く。
「いい加減にせんか。買うのか買わんのかはっきりせい」
ミヅチは長くて太くて黄色い穀物を、口の端に食べかすが付いているのも気にせずむしゃむしゃしている。いまいち威厳がない。だがその言葉にようやく背中を押されたのか次郎はぎこちなく頷いた。
「う、うむ。買うぞ」
「はぁ。まったく訳のわからぬところで決断力がないのう。しかしこの焼いた南蛮黍という物は旨いな」
ちなみにミヅチはこの前に烏賊焼き飯と、西の地域から旅行ついでに遠征してきたという屋台の、小麦粉に野菜を混ぜて練った味噌焼きをやっつけていた。とても旨かった。屋台のおやじたちはミヅチを見るなり安くしてくれたり量をおまけしてくれたりしてそれはもう優しかった。食いかけを次郎に分けていたが次郎はやはりよく覚えていないようだ。それだけ何に心を奪われているのかそんなに富くじとは熟考を必要とするものなのか妾を放っておくほどに云々。
次郎は販売所に並ぶ人の合間に入り、おやじに小銭を払うと、年号月日、証文、くじ番号の書かれた二枚一組の札と墨の付いた筆を渡されて次郎の動きが止まる。ここまで来て固まる。
手持ち無沙汰になったミヅチがひょこっと次郎の肩越しに前を覗くと、まず札売りのおやじの困り顔と目が合う、次いで下を見ると次郎は筆を持つ手をぷるぷると震わせて札に穴が開くのではないかと思えるほどのにらめっこをしていた。
ひょっとして、
「次郎は字が書けんのか?」
だんまり。
「のう」
「うるせーな。ちょっと待ってろ。今思い出してるんだよ」
ミヅチをちらとも振り向かず、声がいつになく弱々しい。見れば、耳が真っ赤になっている。なるほどやはりそうなのか。
「どれ、ちょっと妾に貸してみい」
賑わう販売所でミヅチは強引に次郎の隣に割り込んで筆と札を取り上げた。体ごと胸を次郎の半身に押しつけているのは次郎の気をそらすためだ。
「うお、ちょ、なんだよお前」
「ぐじぐじとうるさいのう。ほれ、次郎の“じ”は数字の二か」
「じ? 数字? あ、えーと……いや、ちげぇな。もういっこのやつで……」
「ではこちらじゃな」
言うが早いか札に流れるようにさらさらと“次”を書く。
「“ろう”はきっとこれじゃろうな」
書き捨ての札には勿体無いくらいの瀟洒な文字で“次郎”と書き終える。
「おおそうそう! この字だこれこれ! すげーなおい。へぇ〜ほぉー」
腕を組んでまじまじと札に顔を近づけて感心し、幼子のように喜ぶ。すぐそばでくつくつとミヅチが笑っていた。
「な、なんでぇ。なにがおかしいんだ? おら、行くぞ」
ミヅチだけではなくおやじまでもが微笑ましそうにしているのが癪に障る。受取札をひったくってミヅチの腕を取り足早にその場を離れた。
取られた左腕をミヅチはそのまま絡ませてしなだれかかる。先ほどから口を押さえて肩を震わせているのが腕越しに伝わってきた。
「おめーいつまで笑ってんだよ」
一人で歩けないくらいおかしいのか。いよいよ次郎は腹が立ってきた。
「じゃ、じゃって。くっくっ……。じ、次郎が、か、」
か?
「可愛いのじゃ……」
潤んだ瞳を上目遣いにして次郎に囁いた。
次郎の胸から頭のてっぺんまでごうっと炎が巻き起こった。札を前にしたときの比ではない。声を出そうにもなにやら胸がつかえてあぐあぐと間抜けな音が出るだけで呼吸が浅くなる。頭の中も酒に酔ったかのようにぐるぐる回ってろれつが回らない。このまま消し炭になってしまいそうだ。
笑いすぎて目の端に溜まった涙を拭うミヅチをまともに見られない。
「ばっ、おまっ、この! あのだなぁ! てめっ、字が書けるからって腹が膨れるかってんだこのやろう!」
今すぐにでも走り出したい衝動に駆られるが、図らずも強く絡まれたミヅチの腕を解けなかった。どうしてこういうときの女の腕力は強いのだろう。
ミヅチはうろたえる次郎を見て更に腹を抱えて笑う。
「よっ、よいよい。今時、字が読めても書けぬ者などざらにおる。なっなにも気に病むことはなかろ」
「てめー。あとでおぼえてろよ」
「くっくっ……。も、もう忘れたわ」
字が書けないなど大したことではない。本心だ。そんなことよりもそんなことを恥に思いミヅチに隠して葛藤していたであろう次郎が、ミヅチには愛らしく思えて堪らなかった。きっとばれてしまうからこそあれだけ財布の紐を緩めていたのだろう。まったくもって見栄っ張りの意地っ張りな人間だ。こんなにも楽しいことを、誰が忘れてやるものか。
◇
その後、しばらくは黙り一徹を決め込んだ次郎を、ミヅチはなだめすかしながら屋台をひやかした。次郎だってなにもさほど怒っていたのでない。恥ずかしいのをからかわれたのが我慢ならなかっただけで、ただそれでもミヅチにされると不思議と嫌な気持ちも半分で、何故か楽しい気持ちが半分。こうして怒って見せてもミヅチが怯まないのは、お互いくすぐり合っているようなもどかしい嬉しさを共にしているからかもしれない。
「のぅ〜。そろそろへそを曲げるのをやめんか? じ〜ろ〜う〜」
散々まとわりつき、眉根を寄せて上目遣いにそう請われるのにも、そろそろ耐えきれなくなってきた。
がっしとミヅチの頭に手を置き黒髪をわしゃわしゃと撫で回す。
「な、なんじゃ……むぅ〜」
頬を膨らませ嫌がりながらもされるがままだ。
「ったくいい加減にしとけよ」
それを聞いて、にこりと素直に笑うミヅチ。
「うむ。では詫びにひとつ、明日から妾が次郎に字を教えてやろう」
また得意げな顔に戻って指を立てる。こういうミヅチには本当に敵わないと次郎は思う。
「ところで次郎」
「なんだ」
「話は変わるが」
「おう」
「どうしても字を書かなくてはならないこともあったろう。その時はどうしていたんじゃ?」
「変わってねーじゃねーか!」
再びわしゃわしゃと髪を弄られてミヅチがくつくつと笑う。
「ったく。あーまあ、彦八とかお鈴にやってもらってたな」
む。
「なんだよその顔」
おもしろくない。
「なにもなかろ」
今までべったりしていたのに不意につんとして次郎の腕から離れてしまう。良く言えば一本気、悪く言えば機転の利かない次郎はこういうときに弱い。
「おい、ミヅチ」
「ふーん」
理由は分からずとも対処のしようはいくらかあるはずだが、次郎は先を行くミヅチの、揺れるでかい尻を見るばかり。
「次郎!」
ミヅチが振り向くよりも速く次郎の右手が勝手に左脇を探る。そこにあるはずの段平は携えられてはおらず、敢え無く次郎の眉間にミヅチの人差し指がびしりと突きつけられた。
「今、破廉恥なことを考えておったろう」
図星を突いたミヅチがにやにやと笑う。
「……ばっか。んなこたねーよ」
額に汗が滲む。唐突、突然だったとはいえ、ミヅチ相手に今の仕草は最低だ。ミヅチには敵意も害意も当然無かった、狼狽していた次郎がミヅチの気配に驚いて体が勝手に動いただけだ。武士でもあるまいしまだまだ俺も未熟だなと思うことなどなかったが、よりにもよってこの女に針ほどのでも殺気を持って身構えてしまったというただその一点が、次郎にはただならぬ衝撃だった。
気取られないように姿勢を直し、ゆっくりと息を整える。ミヅチが目を見開き気味に次郎を見て、
(悟られた!?)
どっと背中に嫌な汗が噴出す。
ミヅチがわずかに姿勢を崩す。
鞠を抱えた童女が尻餅をつく。
「ひゃっ!」
短い悲鳴が周囲の視線を集め空気を冷えさせたが、走っていた子供が女にぶつかって転んだだけだと分かると、すぐにもとの少し粘り気のある熱の篭もった祭り独特の雰囲気に戻る。
「大丈夫かえ」
ミヅチがしゃがんで視線を合わせ頭を撫でさする。童女はどことなる丸みのあり愛嬌のある顔をしていた。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫です」
人にぶつかって転んだ恥ずかしさからか顔を真っ赤にして立ち上がり、着物についた土を払った。ミヅチはまだ両手でなでなでしている。
「はよう仕舞うがよい。わらべよ」
次郎の聞いた事の無い凛とした声色。見たことの無い底の知れない微笑み。
「え?」
その声に童女は顔を跳ね上げてミヅチを見ると、途端にかわいそうなくらいにガチガチに固まった。
「おっおっ、おひい様っ!?」
「声が大きい。ほれ、見られたら困るぞえ」
次郎にだけ見えた。頭を撫でるようにして隠しているミヅチの手のひらの中に、茶色の髪と同じ色の毛の生えた、そこにあるはずのない大きな丸い耳。次郎は知っている。
「た」
「次郎」
ミヅチの刺すような視線が次郎の息を止める。
「も、もももっ、申し訳ありません! おひい様に対してなんていうご無れ」
「もうよいから隠せ」
「はっはい! 申し訳ありません! おひい様の前でこのような失態を私!」
こんなにちっこいのに無礼とか失態とか難しい言葉を使うとはどうして狸も賢いな。そう次郎はあんぐりと口を開けたまま思う。
「んっ! ……あれ、あれ?」
童女は鞠をぎゅっと両手で抱きしめて、何度か体に目いっぱい力を込め何かをしようと、恐らく耳を隠そうとしているが、焦るばかりで何も変わらない。それどころかどんどん涙目になり、しまいには赤くふっくらとした頬からびよんと細いひげが何本か伸びてしまう。もうひぃひぃと喉を引きつらせて見ていられない。
「うっ……うっ……」
「まったくしようのないわらべじゃの」
ミヅチが柔らかく苦笑して、両手で包み込むように頭から頬へ軽くするりと撫でる。すると何事もなかったように童女は愛らしい人の顔に戻っていた。
改めてミヅチは片手で童女の頭を撫でる。
「このくらいで似姿が解けては生きては行けぬぞ。母はおらぬのか」
「は、はい! ありがとうございます、おひい様」
一息。涙を拭いて。
「私、その、独り立ちしまして……母は父と一緒に東の故郷に」
「そうか。頑張っているな」
「はい! ありがとうございます!」
家族の話をしたときに顔にかかった寂しさの影は、ミヅチの労いの言葉で吹き飛んでしまった。が、次郎を見上げて再び怯えた表情になる。ミヅチの背後に隠れて囁く。
「おひい様、この男は……」
「心配ない。こやつは妾の連れで次郎じゃ。信用できる」
「そ、そうでしたか。あの、大変失礼しました」
ミヅチを前に地に頭が着くのではないかと思うほど腰を折る。
「おひい様。助けて頂いてありがとうございました。このご恩は一生忘れません」
「よいよい。そち、名は」
「はい! 刑部のハツエと申します」
「よい名じゃ。ではな、ハツエ。健やかに暮らせよ」
「はい! おひい様、次郎。それでは失礼します!」
え、俺だけ呼び捨て?
ハツエは鞠を大事そう抱え直し、何度もミヅチに振り返りながら人波の中を小走りに去っていった。
しばらく次郎は、ハツエの消えた先をぼうっと眺めていた。
「次郎。行くぞ」
何事もなかったかのように、なんの逡巡もなくミヅチは背を向けて歩き出した。
「あ、いや、あれってさ」
「見た通りじゃ。歩きながらでも話せよう」
あの犬から、よくよく妖怪に縁のある日々になってしまった。
ミヅチ曰く、あの手の変化が得意な妖怪は、次郎が思っているよりも多く人の世に住みついているという。
根底としては他の妖怪同様、人の雄と結ばれるのが目的ではあるが、人と触れ合う日々の中で人に順応して生きていくすべを身につけた。それ自体を己が気質と変化させ、自分の欲求を満たすために人の雄を幸せにするだけではなく、その周りの人にも利益となるような行動を取れるようになっているそうだ。
「とくに刑部の者たちはな、人の経済や利権といったものに興味を持ち、積極的に参画しておる」
「けい、ざい? りけん?」
「平たく言えば餅の売り買いと、寝てても年貢が入ることじゃな。む」
小麦麺の醤油炒め。
「にしてもあの年頃で独り立ちたぁ。妖怪も大変だな」
「ふぉんなひいなほほへはふぁい。ひょうふぁいひふぉっへはふふうにあるふぉふぉら」ずるずる。
こいつ……どんどん俗になっていっている気がするな。初めて出会った頃のあの全てを慴伏させるような、とてつもない威厳は、麺を啜り頬張りながら喋るミヅチからは欠片も見られなかった。
「んっく、んむ。そんなに異なことではない。妖怪にとっては普通にあることじゃ」
「あいつの名前、おはつ、だっけか」
「ハツエじゃな」
「そうそう、ハツエ。なんかお前を“おひい様”って呼んでたが」
次郎の疑問には二つの意味がある。ミヅチはその意を汲み取って、まずもうひと啜り麺を食い、ほれ食べるがよいと麺を挟んだ箸を次郎の口に差し向けてから答える。
「あやつとは馴染みではない。どこぞで妾の事を見聞きしたのじゃろ」
ほう。と次郎は腕を組んで、麺を咀嚼するあごをさすった。ミヅチはその次郎の反応を見て満足する。次郎は知識は足りんが頭の中まで筋肉ではない。
「つうか、お前も姿変えてるのにハツエもよくわかったな」
「易い隠形の術じゃからの。同胞ならこの程度は見れば変わらぬ」
唇の周りをぺろりと舐め取り、器代わりの笹の葉をくるめ立ち上がった。
童女のように笑って言う。
「旨かった。さて次郎、腹ごしらえも済んだしもう一回りするか」
歯に青のりが付いていた。
◇
夜も深まり子供たちや家族連れは減っていき、自然と酔客や恋仲と思われる人々が目に付くようになってくる。
どことなく如何わしい雰囲気が漂う中ミヅチは次郎の手を引いて、輪投げを投げては輪を入れるべき棒をちょん切って次郎を青ざめさせたり、型抜きを割っては食べ割っては食べて、金魚すくいをやりたいと言い出して網を持って狭い桶の中で健気に泳ぐ金魚たちを目の前すれば、口をもにゅもにゅさせて「不憫じゃ」と一言いうなりだっぱーんと桶の中で水柱が立って全ての金魚が桶の水ごとどこか空の彼方へ飛んで行ってしまい金魚すくい屋の哀れなおやじが気絶した。
ふと、立ち止まる。時間によって売れなくなった屋台がちらほら店仕舞いをし始める時分。異性同士の集まりで繁盛している一角があった。
「次郎ー。なんじゃーあれはー」
買って貰ったべっこう飴を舐めつついかにも平たい言葉で、読めるはずの看板を幼児のように無防備に指をさす。もう思考停止しているとしか思えない、いやことによっては退行していてもおかしくはない。次郎は姪か娘か近所の子供を連れてきて遊んでやっていると思って諦めた。これが本当に見た目も幼いならまだしも、出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいる妙齢の美貌の持ち主だから、周りからの視線はすでに次郎を羨むものではなく、体がでかいだけの頭の弱い可哀想な子だという憐れみの色が濃い。
「あー? 千里眼占術って、占いか」
「ほほう。人にしてはやるではないか」
「やめとけやめとけ。どうせ適当にいいこと並べて法螺吹いてるだけだ」
「じゃがあれだけ人が集まっているのじゃ。存外、当たるやもしれぬぞ」
そろそろ袖に入れてある財布の種が心許ない。ちらりとミヅチを見ると心底楽しそうにうずうずしている。
「はぁ〜。これやったら帰るぞ」
「うむうむ」
「なに占って貰うんだ?」
「まだ秘密じゃ」
列に並びくだらない話をしていると、程なくして次郎たちの番になる。
卓の上には予想通り何が書いてあるのか意味があるのかわからない図形のような早見が広げられ、筮竹や方角を示す盤や賽、色とりどりの札など怪しげな道具が置かれている。
すっかり干からびた婆さんがゆっくりと次郎、ミヅチの目を見た。
「何を占いましょうか」
ちらと次郎を見てからミヅチは卓に身を乗り出す。
「次郎と妾の仲を占ってみい」
「おいおい」
そういう恥ずかしいことは……。まあ、周りの客層を見れば言わずもがな。
「では、四柱推命はいかがですかな」
「なんでもよい。良きに計らえ」
占い婆に問われるがままに二人の生まれの年柱、月柱、日柱、時柱を答える。時間はさすがに細かく憶えているはずもなく、大体の適当な時間を次郎は言った。ミヅチはミヅチで、生まれの年をちょっと考えてから誤魔化したようだ。最後に、
「干支はなんですかな」
もちろんミヅチは自信満々得意満面こう言った。
「龍じゃ」
◇
悪い、ちょっくら小便行ってくる。そう言って人の行き交う鳥居の前にミヅチを残し参道を逆戻りしていった。まったくこんな夜中におなごを一人にするとはなんたる愚鈍な男か。
そう思ってはいるのに頬が自然と緩んでしまう。はしたないとはわかっているが思い出し笑いをしてしまう。占いの結果だ。なかなかの佇まいを持つ婆ではあったが、占いの最中、神通力の類いは一切感じられなかった。まあそうだろう。人の中にあって神通力を持ち得る者はそうはいない。
しかし婆の口から出る言葉は次第にミヅチを夢中にさせ、これから次郎と幸せいっぱい夢いっぱいになると確信してしまうやはりちょっと頭の緩い子にしてしまった。呆れる次郎の姿すらも、ミヅチから見れば満更でもなく照れているように見えていた。それはきっと多分半分くらいは間違っていると思う。
ミヅチがこの世に生を受け幾千年。主上が代替わりする前より生きてきた。今の姿になりミヅチはその抑えられない本能故に、他の妖怪同様数え切れないほどの人の雄と交わってきた。時には人が納める贄であったり、時には人の生活を捨て求婚をしてきた者であったり。
自己があるのは他者があるからで、この姿になる前も何者かと居ることでミヅチの心は安らぐことはあったが、この姿になってからは言いがたい寂しさを憶えてしまい、他者――人の雄を求めずには居られなかった。永遠にも思える時を生きて来て、生きていく者としては当然のこととも言えた。寂しさを埋めていただけではなかった。雄に対して真摯に向き合っていた。ミヅチにも心底尽くそうという気持ちは自然にあった。
しかし、いくら人の雄がミヅチの妖力に感化され寿命が延びミヅチが尽くしたとしても、所詮は人、いつかは死んでしまう。どんなに力があって讃え崇められようとも、一人で居るのは寂しい。だから雄を手に入れると碌々外にも出ずに住処でほとんど二人の世界に籠もっていた。雄たちもそうなることを望んでいた。
だが、ミヅチが何もしなくとも、そういう風になっている。
妖怪と雄、互いが望まなくとも、そうなってしまう。
そのことに気づいたのは、いいや薄々気づいていて、認めてしまったのは、次郎と出会ってからだ。
あるいは、雄以外の人とでも身体ではなく言葉で交わるのが楽しいと気づいたのは。交わる他に愉快なことがあると知ったのは。
怖気が走る。
まるで、まるで呪縛の如きこの本能から――
「――おい」
「ん、……妾か?」
「さっきから何度も呼んでんだけど〜」
へらへらした着流しの男たちが、ミヅチの正面に一人、右方に一人、右方斜めに一人。
どうやら沈思が過ぎたらしい。やぼったい今のミヅチの様がこの男たちには格好の餌に見えるのだろう。
「一人でぼーっと突っ立ってどうしたんだよ。こんな時間までそうしてるってことは、もしかして男に振られたか?」
ミヅチはそっぽを向いて答えない。答える義理も必要もない。答えたくも無い。
「あらら、ご機嫌斜めだな。俺らが楽しませてやるからさ、ちょっとこっちこいよ」
無遠慮に肩に伸ばしてきた手をすいと避ける。手で触れて撥ね除けることすら煩わしい。
男たちはミヅチに、まったくそこに居ない者のように扱われていると知ると、顔色が変わる。
「おい、へちゃむくれな癖に調子に乗ってんじゃねーぞ」
「痘痕も靨っつうの知ってるか?」
「若旦那に逆らってあとでどうなるかわかってんだろうな」
そのへちゃむくれに目をぎらぎらさせて声をかけたおのれはなんなのだ。
面倒くさい。次郎が遅いからこんな面倒くさい目に遭うのだ。帰ってきたら容赦なくからかってやると心に決める。そして、
「どう、とはどうなのじゃ?」
「力ずくってことだよ」
「ほう……」
すっとミヅチの目が細められる。堪忍袋が常に開けっ放しな男たちに怒気が浮かぶ。
その頃次郎は、露天のおやじの右手首を掴んでいた。両者とも熱いまなざしを交わしている。
誤解のないように明記しておくと、次郎にそのケは毛頭ない。
「おい、俺が今さっき選んだのはそれじゃねぇよな」
「へぇ、なんのことですかい」
にこやかに圧力をかけてくるおやじの右手には玉簪が一本。左手には釣り銭を握っている。
翡翠玉の付いた簪に目をとめて、聞けば値段は手頃なのに質は次郎の給金半月分以上はしてもいい物だった。紅もいいかと見て回ったが、ミヅチの血色の良い唇には必要がない気がするし、いつか使い尽くされてしまう物よりも形に残る物がいいと思った。
一応今日はほぼ全財産を持ってきたにも関わらず、かなり飲み食い遊びに費やしてしまったため、この玉簪を買うと今月は鼻血も出なくなる。
だがきっと、この玉簪はあの蒼い髪に、似姿の黒髪の時でも似合うだろう。なによりミヅチの喜ぶ顔が見たい。
兄さんどうしたんだい気になる品でもあるのかいあぁお目が高いねぇその翡翠玉結構良いだろうでも今翡翠がよく取れるようになって前より安くなってるんだよただ鉱脈が浅いらしくてこの値段で出せるのも今日限りかもしれねぇなきっと兄さんの“いい人”に似合うと思うよ知ってるかい今ここら界隈でこの玉簪が流行っていてね欲しいって女はかなりいるから贈り物にしたらもう兄さんの“いい人”はアレでコレ。
買った。
金を渡しおやじが玉簪を台座から取って、調子のいいことをしゃべくりながら釣りを卓の下から出した時に玉簪を持った手首が嫌な動きをした。
「膝の上にあるもん見せな」
「へへっ、どうしたってんですかい。あっしはただ釣りを出そうと」
「このまま卓ごと蹴り上げられるか、それとも俺の前にこの簪を買っていった禿のおっさんを、俺と一緒に今から追いかけるか。どっちを選ぶ?」
顔にめちゃくちゃ傷のある筋肉膨れした禿のおっさんが、何を期待しているのかめろめろな顔をして玉簪を買って早足で踵を返して行った姿を想像して頂きたい。
喜ばせようとして迷ったあげくに時間をかけ、それで待たせて怒らせるのは本末転倒だ。次郎もまた急いで鳥居まで戻ると、案の定ミヅチの姿がなかった。怒ってその辺に隠れているのか、それとも中に次郎を探しに戻って擦れ違ったのか。
万が一にもあり得ないことだが、どこぞの柄の悪い連中に連れて行かれたとか。
焦って周りを見回す。幸運にもすぐにミヅチの後ろ姿が目に入った。そこに万が一があった。祭りの入り口にはよくある駆け付け三杯の立ち飲み屋。客をさばくために置いたその卓に、男二人に後ろを張られ、ミヅチの座る目の前には間違った方向に洒落込んだ男が座って睨みをきかせている。
三歩で参道を横切り一切の容赦なくミヅチの背後に立つ男の背中を蹴り飛ばすと同時にもう一人の腕を捻り退け背中を踏み付けつる。もう片方の手でミヅチの肩を持った。捻りあげた男の悲鳴にかき消されない大声で次郎が卓に座る男に言う。
「おい、俺の女になにしてやがる!」
「おえー? じろー?」
ぐらりと首を傾けて振り仰いだミヅチは真っ赤な顔をしてそれはとてもとても酒臭かった。目の前にいる男も、ミヅチを睨み付けているのではなく、薄目でかろうじて意識を保っているという風体だ。
次郎は目を白黒させた。
全く持って気づかなかったが、この卓を囲む野次馬が興味津々わっと歓声をあげた。
「おっとっと」
危なげな指先が徳利にぶつかる。倒れる前にがっしと掴み、開いた大口を上に向けて、持ち上げた徳利をひっくり返し豪快にがぱーと酒を飲み干す。端から零れて襟を濡らしても全然気にしてはいない。
「っぷはぁ。わ、わらわの、かちらら」
「わ、わかったからもう……いっれくれ……」
ごとり、と男の頭が卓に落ちる。男の側に置かれていた徳利が倒れ卓の上が酒浸しになってしまった。残りの二人も、助け船の役割だったのか、相当に酒臭かった。
「あのおろこららがなー、わらわをてごめにせんとしりょーとしたからら。こうらってはあかんと、らがわらわがひとをおそうわけにもいかんがなー、さけでしょうぶをつけららわらわがまけららよいつぶせれれつごーがよかろといったらら、あほうなやつららのってきおったなー」
「わかったわかった」
抱きかかえるようにして帰路を歩く。酒で足回りもおぼつかないからいくらミヅチが軽いといっても歩きづらいことこの上ない。人通りの少なくなった暗い通りでお経のように繰り返ししゃべり散らかす。吐く息が酒臭い。
つまりは男どもに絡まれたが酒の飲み比べに話を持っていったとそれだけなのだが、その原因はなんであろう次郎だ。
水神とも呼ばれる龍がこれほどまでに酔うとは相手も一体どれだけの酒豪なのかと思う。まさかあいつまで妖怪だったとかそんな話はあるまいな。
「飲み負けてたらどうすんだよったく」
「らいろーぶなのら。あんああほうろも、わらわのりんつーりりれ、さけなろみずのごろくさせられるのりゃ。ちょっろはふたんせねばおもろくないらりょ」
「それが馬鹿だっつってんだ」
「じろー!」
「はいはいなんだよ」
「わらわのはなひをきいているのりゃ」
「聞いてるっつの」
ミヅチはつんのめって立ち止まると正面から次郎の首に両腕を回し、ぎゅうううううっと抱きついてくる。非常に酒臭い。原因が自分にあっても本当に放っておいて一人で家に帰ろうかと不埒な思いが頭をかすめる。
「もとはといへばじろーがいつまでらってもいつまでらってもわらわのところにかえってこらいろがいかんのりゃろが!」
その通りでございます。
「じろーはわらわのことらどーれもいーんりゃろが!」
「んなこたねぇよ」
「なら、ならろーしてれんれんかえってこららったのりゃ……。わらわは」
俯く、声がか細くなる。
「わらわはさびしかったのに」
次郎はミヅチの腕を優しく解く。ふらふらと頼りなく立ちすくむミヅチは、ひどく不安な顔を見せた。
「待たせて悪かったよ。ほら、詫びの印だ」
袖に入れていた玉簪をミヅチの手に収める。
幼子が物を理解しようとじっと見つめるように、ミヅチもまた手に載せられた玉簪をじっと見ていた。長く見つめ続けた。
ゆっくりと理解の色を示して、次郎を見上げる。次郎の眼差しを受けると、歯痛を堪えるようにくしゃりと顔をゆがめ再び俯く。拳を握りしめ、ずびずびと鼻を鳴らした。
「あほう、この、おおたわけ……」
「なんだよ泣くなよ」
「うっうるさい泣いてなどおらんわ。このすっとこどっこい、がっ」
涙を散らかしてミヅチが髪を振り乱すと、水が流れるように黒色が抜け本来の蒼になる。人にはない角がいつの間にか戻っている。
喉が震えて乾く。胸が痛いほどに苦しい。金色の瞳の中に次郎の足下すら視界に収められない。
「ミヅチ」
「みっみるな! ……あっ」
頬に手を添えられ無理矢理上を向かされる。
ミヅチの動きが止まり、白い手が次郎の胸に添えられる。
暗闇の中、しばらく、二人はそうしていた。
◇
一働き終えて長屋に帰ると、尾を伸ばしてくつろいでいるミヅチがなにやら板に向かって微笑んでいた。髪には昨日渡した玉簪を挿している。喜んで貰えて次郎としても嬉しいが、そう板に向かって一人でにやにやしている不審な姿を見ると何やら間違ったような気がしてならない。
驚いたようにミヅチが顔を上げる。生き生きと微笑む。
「おかえり。次郎」
「ああ。ただいま。なにしてんだ」
「これか、鏡を見ていた」
「鏡?」
「うむ。住処から届けてもらったのじゃ」
尾を踏まないようにしてミヅチの横に回る。今まで見たことのない景色が薄い板の中に広がっていた。次郎とミヅチにうり二つの人相が目の前にある。
「すげぇな……これ」
「んう、そうじゃろうか?」
鏡を知らないわけではない。町の金持ちが自慢して見せられた鏡にも大層驚いた覚えがあるが、ここまで美しく景色を映してはいなかった。よくよく見れば周りの板も高級そうだ。髭を剃るには桶に張った水面を見るが、俺ってこういう顔をしていたのかと初めてこの鏡で自身の顔を見た気がして次郎は感慨深くなる。
「そんなことよりも、次郎はお勤めで疲れたであろ。夕餉の支度はできておるぞ」
いそいそと次郎の上着を脱がせ、湿らせた布巾を手渡してくる。笑顔と声がいつもよりいっそう柔らかく、なぜか頻繁にちらちらと次郎を見て目が合えば、目も口も線にして微笑んでくる。夕餉のおかずが一品多い。
あまりに出来過ぎていて一種空恐ろしい感も受けるが、これで良かったのだろう。その後もミヅチはかいがいしく次郎の世話を焼き、やることがなければ玉簪を挿した髪を鏡に映してあっちからこっちから嬉しそうに眺めている。
「のう、似合っておるかの」
「あ、ああ」
「そうか。次郎が買うてくれたものだものな」
このやりとりも今日何度目か。
どう見ても玉簪よりもこの鏡のほうが余程高いのではないかという言葉はこの際飲み込んでおく。
「のう」
「なんだ」
「…………。く、くじの当たりはどうだったのかの」
声が裏返っている。
「ああ、やっぱ外れた。ありゃだめだな、もう買わん」
そう言って懐からミヅチが書いた次郎の名前の書かれた札を見せた。
「ん? それは当たり外れなく返すのだと言っておらなんだか?」
次郎は慌てて札を懐に戻した。ごふんとわざとらしく咳を付く。
ミヅチは、はてと首をかしげるも、頬を染めてもう一つ言葉を紡ぐ。
「のう……」
「なんだよ」
「次郎は、あのときに」
あのときとは、次郎が必死の形相でミヅチの後ろに立って庇ったときだ。気付かなかったとはいえ、野次馬の中でとんでもないことを叫んでしまった。
「次郎は妾のこと、……と、言ってくれたじゃろ」
次郎は真っ赤になった顔を背ける。ミヅチは俯いて落ち着きなく蒼い髪を何度も手で梳く。
「もいっかい、言っては……くれなんだか?」
金を払ってくじを買うだけではなく、控札と受取札の二枚一組の紙に名前を書き、抽籤で当たった上で筆跡を透かして調べる。不正をより厳粛に取り締まるための、最近導入された売り手側の苦肉の策だ。
元来、神社の祭りにあってはならない販売所なのだが、祭りの喧騒の中そのことについてあえて異を唱える者はおらず、故にその販売所の由縁も押して知るべし。
「ふむ。あの紙切れが金になるのか」
「ああ。当たりゃあな」
「楽じゃな。買えばよかろ」
「ああ」
次郎はさっきから手であごをさすりながらなにやら真剣な眼差しで販売所を眺め、いっこうにくじを買う気配がなかった。
順番でも待っているのかなにか次郎なりの気循でもあるのか、それとも如何わしい方法で購入するすべを考えているのか。ミヅチは傍らに寄り添って様子を見ていたが、半時ほども販売所の前を行ったり来たり。痺れを切らしたミヅチに言われるがまま、まるで餌付けのように屋台の食い物を買い与えているのだが、どことなく上の空でいったいどのくらい財布から金が飛び立っているのか分かっているのかあやしい。
神社の祭りといっても今日は簡素なもので、肝心要の神社からの催しは少なく参道の両脇にずらりと並んだ屋台で食って飲んで遊んで回るだけである。それでも数少ない娯楽の一つであるわけだから、町人はついつい財布の紐が緩みがちになってしまうし、屋台のおやじ共はここぞとばかりに商魂逞しく稼ぎに走る。まだまだ宵の口、増えていく参拝客に賑々しい雰囲気で満たされているが、もう一刻もすれば酔客同士の喧嘩や盛った若者たちの逢引が見られることだろう。
肩と肩がすれすれでぶつからないくらいの、これだけの人混みの中にあって、次郎と龍であるミヅチは堂々と祭りに参加していた。仮装祭りでもなければ人が踊らせる龍の張りぼての中にミヅチが入っているのでもない。いたって普通の祭りである。
「まだかの。次郎」
「もうちょっと待てって」
そう声をかけられた女には二本の足がある。艶やかな長髪は焚き火の光を吸い込む黒色で瞳の色も同じくし、高級織布のお色気むらむら仕立ての着物ではない地味な鳶色で仕立ての悪い安物を着ている。誰であろうミヅチが、である。
似姿。ミヅチほどの位になると自力で人の姿に化けることは雑作もない。変化に特化した一部の妖怪を除き似姿を取るのは余程の神通力と才が必要になる。妖怪自身の力ではなく呪符や呪具などを媒介した変化の法もあるが、それらを作るにもかかる労力は生半なものではなく、利用できる機会は少ない。
たかだか足が生えて角が消え髪と瞳が黒くなった程度、ミヅチの佳麗さは変わることはない。それどころか艶めかく匂い立つような女体は男たちの十目を集め、地味な安着物さえ引き立てる落ち着き払った佇まいは同姓すらも引き寄せる。
かくしてミヅチは人と暮らすための一番の障壁をなんなく飛び越え次郎とぼろ屋に住めている。概ね妖怪たちは人の間には住処は作らず、種族間の集団性が薄い者たちも多い。また妖怪たちへの偏見も根強いので今のミヅチのように人の中で暮らすには変化の術が必要だ。ミヅチが次郎の袖を強く引く。
「いい加減にせんか。買うのか買わんのかはっきりせい」
ミヅチは長くて太くて黄色い穀物を、口の端に食べかすが付いているのも気にせずむしゃむしゃしている。いまいち威厳がない。だがその言葉にようやく背中を押されたのか次郎はぎこちなく頷いた。
「う、うむ。買うぞ」
「はぁ。まったく訳のわからぬところで決断力がないのう。しかしこの焼いた南蛮黍という物は旨いな」
ちなみにミヅチはこの前に烏賊焼き飯と、西の地域から旅行ついでに遠征してきたという屋台の、小麦粉に野菜を混ぜて練った味噌焼きをやっつけていた。とても旨かった。屋台のおやじたちはミヅチを見るなり安くしてくれたり量をおまけしてくれたりしてそれはもう優しかった。食いかけを次郎に分けていたが次郎はやはりよく覚えていないようだ。それだけ何に心を奪われているのかそんなに富くじとは熟考を必要とするものなのか妾を放っておくほどに云々。
次郎は販売所に並ぶ人の合間に入り、おやじに小銭を払うと、年号月日、証文、くじ番号の書かれた二枚一組の札と墨の付いた筆を渡されて次郎の動きが止まる。ここまで来て固まる。
手持ち無沙汰になったミヅチがひょこっと次郎の肩越しに前を覗くと、まず札売りのおやじの困り顔と目が合う、次いで下を見ると次郎は筆を持つ手をぷるぷると震わせて札に穴が開くのではないかと思えるほどのにらめっこをしていた。
ひょっとして、
「次郎は字が書けんのか?」
だんまり。
「のう」
「うるせーな。ちょっと待ってろ。今思い出してるんだよ」
ミヅチをちらとも振り向かず、声がいつになく弱々しい。見れば、耳が真っ赤になっている。なるほどやはりそうなのか。
「どれ、ちょっと妾に貸してみい」
賑わう販売所でミヅチは強引に次郎の隣に割り込んで筆と札を取り上げた。体ごと胸を次郎の半身に押しつけているのは次郎の気をそらすためだ。
「うお、ちょ、なんだよお前」
「ぐじぐじとうるさいのう。ほれ、次郎の“じ”は数字の二か」
「じ? 数字? あ、えーと……いや、ちげぇな。もういっこのやつで……」
「ではこちらじゃな」
言うが早いか札に流れるようにさらさらと“次”を書く。
「“ろう”はきっとこれじゃろうな」
書き捨ての札には勿体無いくらいの瀟洒な文字で“次郎”と書き終える。
「おおそうそう! この字だこれこれ! すげーなおい。へぇ〜ほぉー」
腕を組んでまじまじと札に顔を近づけて感心し、幼子のように喜ぶ。すぐそばでくつくつとミヅチが笑っていた。
「な、なんでぇ。なにがおかしいんだ? おら、行くぞ」
ミヅチだけではなくおやじまでもが微笑ましそうにしているのが癪に障る。受取札をひったくってミヅチの腕を取り足早にその場を離れた。
取られた左腕をミヅチはそのまま絡ませてしなだれかかる。先ほどから口を押さえて肩を震わせているのが腕越しに伝わってきた。
「おめーいつまで笑ってんだよ」
一人で歩けないくらいおかしいのか。いよいよ次郎は腹が立ってきた。
「じゃ、じゃって。くっくっ……。じ、次郎が、か、」
か?
「可愛いのじゃ……」
潤んだ瞳を上目遣いにして次郎に囁いた。
次郎の胸から頭のてっぺんまでごうっと炎が巻き起こった。札を前にしたときの比ではない。声を出そうにもなにやら胸がつかえてあぐあぐと間抜けな音が出るだけで呼吸が浅くなる。頭の中も酒に酔ったかのようにぐるぐる回ってろれつが回らない。このまま消し炭になってしまいそうだ。
笑いすぎて目の端に溜まった涙を拭うミヅチをまともに見られない。
「ばっ、おまっ、この! あのだなぁ! てめっ、字が書けるからって腹が膨れるかってんだこのやろう!」
今すぐにでも走り出したい衝動に駆られるが、図らずも強く絡まれたミヅチの腕を解けなかった。どうしてこういうときの女の腕力は強いのだろう。
ミヅチはうろたえる次郎を見て更に腹を抱えて笑う。
「よっ、よいよい。今時、字が読めても書けぬ者などざらにおる。なっなにも気に病むことはなかろ」
「てめー。あとでおぼえてろよ」
「くっくっ……。も、もう忘れたわ」
字が書けないなど大したことではない。本心だ。そんなことよりもそんなことを恥に思いミヅチに隠して葛藤していたであろう次郎が、ミヅチには愛らしく思えて堪らなかった。きっとばれてしまうからこそあれだけ財布の紐を緩めていたのだろう。まったくもって見栄っ張りの意地っ張りな人間だ。こんなにも楽しいことを、誰が忘れてやるものか。
◇
その後、しばらくは黙り一徹を決め込んだ次郎を、ミヅチはなだめすかしながら屋台をひやかした。次郎だってなにもさほど怒っていたのでない。恥ずかしいのをからかわれたのが我慢ならなかっただけで、ただそれでもミヅチにされると不思議と嫌な気持ちも半分で、何故か楽しい気持ちが半分。こうして怒って見せてもミヅチが怯まないのは、お互いくすぐり合っているようなもどかしい嬉しさを共にしているからかもしれない。
「のぅ〜。そろそろへそを曲げるのをやめんか? じ〜ろ〜う〜」
散々まとわりつき、眉根を寄せて上目遣いにそう請われるのにも、そろそろ耐えきれなくなってきた。
がっしとミヅチの頭に手を置き黒髪をわしゃわしゃと撫で回す。
「な、なんじゃ……むぅ〜」
頬を膨らませ嫌がりながらもされるがままだ。
「ったくいい加減にしとけよ」
それを聞いて、にこりと素直に笑うミヅチ。
「うむ。では詫びにひとつ、明日から妾が次郎に字を教えてやろう」
また得意げな顔に戻って指を立てる。こういうミヅチには本当に敵わないと次郎は思う。
「ところで次郎」
「なんだ」
「話は変わるが」
「おう」
「どうしても字を書かなくてはならないこともあったろう。その時はどうしていたんじゃ?」
「変わってねーじゃねーか!」
再びわしゃわしゃと髪を弄られてミヅチがくつくつと笑う。
「ったく。あーまあ、彦八とかお鈴にやってもらってたな」
む。
「なんだよその顔」
おもしろくない。
「なにもなかろ」
今までべったりしていたのに不意につんとして次郎の腕から離れてしまう。良く言えば一本気、悪く言えば機転の利かない次郎はこういうときに弱い。
「おい、ミヅチ」
「ふーん」
理由は分からずとも対処のしようはいくらかあるはずだが、次郎は先を行くミヅチの、揺れるでかい尻を見るばかり。
「次郎!」
ミヅチが振り向くよりも速く次郎の右手が勝手に左脇を探る。そこにあるはずの段平は携えられてはおらず、敢え無く次郎の眉間にミヅチの人差し指がびしりと突きつけられた。
「今、破廉恥なことを考えておったろう」
図星を突いたミヅチがにやにやと笑う。
「……ばっか。んなこたねーよ」
額に汗が滲む。唐突、突然だったとはいえ、ミヅチ相手に今の仕草は最低だ。ミヅチには敵意も害意も当然無かった、狼狽していた次郎がミヅチの気配に驚いて体が勝手に動いただけだ。武士でもあるまいしまだまだ俺も未熟だなと思うことなどなかったが、よりにもよってこの女に針ほどのでも殺気を持って身構えてしまったというただその一点が、次郎にはただならぬ衝撃だった。
気取られないように姿勢を直し、ゆっくりと息を整える。ミヅチが目を見開き気味に次郎を見て、
(悟られた!?)
どっと背中に嫌な汗が噴出す。
ミヅチがわずかに姿勢を崩す。
鞠を抱えた童女が尻餅をつく。
「ひゃっ!」
短い悲鳴が周囲の視線を集め空気を冷えさせたが、走っていた子供が女にぶつかって転んだだけだと分かると、すぐにもとの少し粘り気のある熱の篭もった祭り独特の雰囲気に戻る。
「大丈夫かえ」
ミヅチがしゃがんで視線を合わせ頭を撫でさする。童女はどことなる丸みのあり愛嬌のある顔をしていた。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫です」
人にぶつかって転んだ恥ずかしさからか顔を真っ赤にして立ち上がり、着物についた土を払った。ミヅチはまだ両手でなでなでしている。
「はよう仕舞うがよい。わらべよ」
次郎の聞いた事の無い凛とした声色。見たことの無い底の知れない微笑み。
「え?」
その声に童女は顔を跳ね上げてミヅチを見ると、途端にかわいそうなくらいにガチガチに固まった。
「おっおっ、おひい様っ!?」
「声が大きい。ほれ、見られたら困るぞえ」
次郎にだけ見えた。頭を撫でるようにして隠しているミヅチの手のひらの中に、茶色の髪と同じ色の毛の生えた、そこにあるはずのない大きな丸い耳。次郎は知っている。
「た」
「次郎」
ミヅチの刺すような視線が次郎の息を止める。
「も、もももっ、申し訳ありません! おひい様に対してなんていうご無れ」
「もうよいから隠せ」
「はっはい! 申し訳ありません! おひい様の前でこのような失態を私!」
こんなにちっこいのに無礼とか失態とか難しい言葉を使うとはどうして狸も賢いな。そう次郎はあんぐりと口を開けたまま思う。
「んっ! ……あれ、あれ?」
童女は鞠をぎゅっと両手で抱きしめて、何度か体に目いっぱい力を込め何かをしようと、恐らく耳を隠そうとしているが、焦るばかりで何も変わらない。それどころかどんどん涙目になり、しまいには赤くふっくらとした頬からびよんと細いひげが何本か伸びてしまう。もうひぃひぃと喉を引きつらせて見ていられない。
「うっ……うっ……」
「まったくしようのないわらべじゃの」
ミヅチが柔らかく苦笑して、両手で包み込むように頭から頬へ軽くするりと撫でる。すると何事もなかったように童女は愛らしい人の顔に戻っていた。
改めてミヅチは片手で童女の頭を撫でる。
「このくらいで似姿が解けては生きては行けぬぞ。母はおらぬのか」
「は、はい! ありがとうございます、おひい様」
一息。涙を拭いて。
「私、その、独り立ちしまして……母は父と一緒に東の故郷に」
「そうか。頑張っているな」
「はい! ありがとうございます!」
家族の話をしたときに顔にかかった寂しさの影は、ミヅチの労いの言葉で吹き飛んでしまった。が、次郎を見上げて再び怯えた表情になる。ミヅチの背後に隠れて囁く。
「おひい様、この男は……」
「心配ない。こやつは妾の連れで次郎じゃ。信用できる」
「そ、そうでしたか。あの、大変失礼しました」
ミヅチを前に地に頭が着くのではないかと思うほど腰を折る。
「おひい様。助けて頂いてありがとうございました。このご恩は一生忘れません」
「よいよい。そち、名は」
「はい! 刑部のハツエと申します」
「よい名じゃ。ではな、ハツエ。健やかに暮らせよ」
「はい! おひい様、次郎。それでは失礼します!」
え、俺だけ呼び捨て?
ハツエは鞠を大事そう抱え直し、何度もミヅチに振り返りながら人波の中を小走りに去っていった。
しばらく次郎は、ハツエの消えた先をぼうっと眺めていた。
「次郎。行くぞ」
何事もなかったかのように、なんの逡巡もなくミヅチは背を向けて歩き出した。
「あ、いや、あれってさ」
「見た通りじゃ。歩きながらでも話せよう」
あの犬から、よくよく妖怪に縁のある日々になってしまった。
ミヅチ曰く、あの手の変化が得意な妖怪は、次郎が思っているよりも多く人の世に住みついているという。
根底としては他の妖怪同様、人の雄と結ばれるのが目的ではあるが、人と触れ合う日々の中で人に順応して生きていくすべを身につけた。それ自体を己が気質と変化させ、自分の欲求を満たすために人の雄を幸せにするだけではなく、その周りの人にも利益となるような行動を取れるようになっているそうだ。
「とくに刑部の者たちはな、人の経済や利権といったものに興味を持ち、積極的に参画しておる」
「けい、ざい? りけん?」
「平たく言えば餅の売り買いと、寝てても年貢が入ることじゃな。む」
小麦麺の醤油炒め。
「にしてもあの年頃で独り立ちたぁ。妖怪も大変だな」
「ふぉんなひいなほほへはふぁい。ひょうふぁいひふぉっへはふふうにあるふぉふぉら」ずるずる。
こいつ……どんどん俗になっていっている気がするな。初めて出会った頃のあの全てを慴伏させるような、とてつもない威厳は、麺を啜り頬張りながら喋るミヅチからは欠片も見られなかった。
「んっく、んむ。そんなに異なことではない。妖怪にとっては普通にあることじゃ」
「あいつの名前、おはつ、だっけか」
「ハツエじゃな」
「そうそう、ハツエ。なんかお前を“おひい様”って呼んでたが」
次郎の疑問には二つの意味がある。ミヅチはその意を汲み取って、まずもうひと啜り麺を食い、ほれ食べるがよいと麺を挟んだ箸を次郎の口に差し向けてから答える。
「あやつとは馴染みではない。どこぞで妾の事を見聞きしたのじゃろ」
ほう。と次郎は腕を組んで、麺を咀嚼するあごをさすった。ミヅチはその次郎の反応を見て満足する。次郎は知識は足りんが頭の中まで筋肉ではない。
「つうか、お前も姿変えてるのにハツエもよくわかったな」
「易い隠形の術じゃからの。同胞ならこの程度は見れば変わらぬ」
唇の周りをぺろりと舐め取り、器代わりの笹の葉をくるめ立ち上がった。
童女のように笑って言う。
「旨かった。さて次郎、腹ごしらえも済んだしもう一回りするか」
歯に青のりが付いていた。
◇
夜も深まり子供たちや家族連れは減っていき、自然と酔客や恋仲と思われる人々が目に付くようになってくる。
どことなく如何わしい雰囲気が漂う中ミヅチは次郎の手を引いて、輪投げを投げては輪を入れるべき棒をちょん切って次郎を青ざめさせたり、型抜きを割っては食べ割っては食べて、金魚すくいをやりたいと言い出して網を持って狭い桶の中で健気に泳ぐ金魚たちを目の前すれば、口をもにゅもにゅさせて「不憫じゃ」と一言いうなりだっぱーんと桶の中で水柱が立って全ての金魚が桶の水ごとどこか空の彼方へ飛んで行ってしまい金魚すくい屋の哀れなおやじが気絶した。
ふと、立ち止まる。時間によって売れなくなった屋台がちらほら店仕舞いをし始める時分。異性同士の集まりで繁盛している一角があった。
「次郎ー。なんじゃーあれはー」
買って貰ったべっこう飴を舐めつついかにも平たい言葉で、読めるはずの看板を幼児のように無防備に指をさす。もう思考停止しているとしか思えない、いやことによっては退行していてもおかしくはない。次郎は姪か娘か近所の子供を連れてきて遊んでやっていると思って諦めた。これが本当に見た目も幼いならまだしも、出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいる妙齢の美貌の持ち主だから、周りからの視線はすでに次郎を羨むものではなく、体がでかいだけの頭の弱い可哀想な子だという憐れみの色が濃い。
「あー? 千里眼占術って、占いか」
「ほほう。人にしてはやるではないか」
「やめとけやめとけ。どうせ適当にいいこと並べて法螺吹いてるだけだ」
「じゃがあれだけ人が集まっているのじゃ。存外、当たるやもしれぬぞ」
そろそろ袖に入れてある財布の種が心許ない。ちらりとミヅチを見ると心底楽しそうにうずうずしている。
「はぁ〜。これやったら帰るぞ」
「うむうむ」
「なに占って貰うんだ?」
「まだ秘密じゃ」
列に並びくだらない話をしていると、程なくして次郎たちの番になる。
卓の上には予想通り何が書いてあるのか意味があるのかわからない図形のような早見が広げられ、筮竹や方角を示す盤や賽、色とりどりの札など怪しげな道具が置かれている。
すっかり干からびた婆さんがゆっくりと次郎、ミヅチの目を見た。
「何を占いましょうか」
ちらと次郎を見てからミヅチは卓に身を乗り出す。
「次郎と妾の仲を占ってみい」
「おいおい」
そういう恥ずかしいことは……。まあ、周りの客層を見れば言わずもがな。
「では、四柱推命はいかがですかな」
「なんでもよい。良きに計らえ」
占い婆に問われるがままに二人の生まれの年柱、月柱、日柱、時柱を答える。時間はさすがに細かく憶えているはずもなく、大体の適当な時間を次郎は言った。ミヅチはミヅチで、生まれの年をちょっと考えてから誤魔化したようだ。最後に、
「干支はなんですかな」
もちろんミヅチは自信満々得意満面こう言った。
「龍じゃ」
◇
悪い、ちょっくら小便行ってくる。そう言って人の行き交う鳥居の前にミヅチを残し参道を逆戻りしていった。まったくこんな夜中におなごを一人にするとはなんたる愚鈍な男か。
そう思ってはいるのに頬が自然と緩んでしまう。はしたないとはわかっているが思い出し笑いをしてしまう。占いの結果だ。なかなかの佇まいを持つ婆ではあったが、占いの最中、神通力の類いは一切感じられなかった。まあそうだろう。人の中にあって神通力を持ち得る者はそうはいない。
しかし婆の口から出る言葉は次第にミヅチを夢中にさせ、これから次郎と幸せいっぱい夢いっぱいになると確信してしまうやはりちょっと頭の緩い子にしてしまった。呆れる次郎の姿すらも、ミヅチから見れば満更でもなく照れているように見えていた。それはきっと多分半分くらいは間違っていると思う。
ミヅチがこの世に生を受け幾千年。主上が代替わりする前より生きてきた。今の姿になりミヅチはその抑えられない本能故に、他の妖怪同様数え切れないほどの人の雄と交わってきた。時には人が納める贄であったり、時には人の生活を捨て求婚をしてきた者であったり。
自己があるのは他者があるからで、この姿になる前も何者かと居ることでミヅチの心は安らぐことはあったが、この姿になってからは言いがたい寂しさを憶えてしまい、他者――人の雄を求めずには居られなかった。永遠にも思える時を生きて来て、生きていく者としては当然のこととも言えた。寂しさを埋めていただけではなかった。雄に対して真摯に向き合っていた。ミヅチにも心底尽くそうという気持ちは自然にあった。
しかし、いくら人の雄がミヅチの妖力に感化され寿命が延びミヅチが尽くしたとしても、所詮は人、いつかは死んでしまう。どんなに力があって讃え崇められようとも、一人で居るのは寂しい。だから雄を手に入れると碌々外にも出ずに住処でほとんど二人の世界に籠もっていた。雄たちもそうなることを望んでいた。
だが、ミヅチが何もしなくとも、そういう風になっている。
妖怪と雄、互いが望まなくとも、そうなってしまう。
そのことに気づいたのは、いいや薄々気づいていて、認めてしまったのは、次郎と出会ってからだ。
あるいは、雄以外の人とでも身体ではなく言葉で交わるのが楽しいと気づいたのは。交わる他に愉快なことがあると知ったのは。
怖気が走る。
まるで、まるで呪縛の如きこの本能から――
「――おい」
「ん、……妾か?」
「さっきから何度も呼んでんだけど〜」
へらへらした着流しの男たちが、ミヅチの正面に一人、右方に一人、右方斜めに一人。
どうやら沈思が過ぎたらしい。やぼったい今のミヅチの様がこの男たちには格好の餌に見えるのだろう。
「一人でぼーっと突っ立ってどうしたんだよ。こんな時間までそうしてるってことは、もしかして男に振られたか?」
ミヅチはそっぽを向いて答えない。答える義理も必要もない。答えたくも無い。
「あらら、ご機嫌斜めだな。俺らが楽しませてやるからさ、ちょっとこっちこいよ」
無遠慮に肩に伸ばしてきた手をすいと避ける。手で触れて撥ね除けることすら煩わしい。
男たちはミヅチに、まったくそこに居ない者のように扱われていると知ると、顔色が変わる。
「おい、へちゃむくれな癖に調子に乗ってんじゃねーぞ」
「痘痕も靨っつうの知ってるか?」
「若旦那に逆らってあとでどうなるかわかってんだろうな」
そのへちゃむくれに目をぎらぎらさせて声をかけたおのれはなんなのだ。
面倒くさい。次郎が遅いからこんな面倒くさい目に遭うのだ。帰ってきたら容赦なくからかってやると心に決める。そして、
「どう、とはどうなのじゃ?」
「力ずくってことだよ」
「ほう……」
すっとミヅチの目が細められる。堪忍袋が常に開けっ放しな男たちに怒気が浮かぶ。
その頃次郎は、露天のおやじの右手首を掴んでいた。両者とも熱いまなざしを交わしている。
誤解のないように明記しておくと、次郎にそのケは毛頭ない。
「おい、俺が今さっき選んだのはそれじゃねぇよな」
「へぇ、なんのことですかい」
にこやかに圧力をかけてくるおやじの右手には玉簪が一本。左手には釣り銭を握っている。
翡翠玉の付いた簪に目をとめて、聞けば値段は手頃なのに質は次郎の給金半月分以上はしてもいい物だった。紅もいいかと見て回ったが、ミヅチの血色の良い唇には必要がない気がするし、いつか使い尽くされてしまう物よりも形に残る物がいいと思った。
一応今日はほぼ全財産を持ってきたにも関わらず、かなり飲み食い遊びに費やしてしまったため、この玉簪を買うと今月は鼻血も出なくなる。
だがきっと、この玉簪はあの蒼い髪に、似姿の黒髪の時でも似合うだろう。なによりミヅチの喜ぶ顔が見たい。
兄さんどうしたんだい気になる品でもあるのかいあぁお目が高いねぇその翡翠玉結構良いだろうでも今翡翠がよく取れるようになって前より安くなってるんだよただ鉱脈が浅いらしくてこの値段で出せるのも今日限りかもしれねぇなきっと兄さんの“いい人”に似合うと思うよ知ってるかい今ここら界隈でこの玉簪が流行っていてね欲しいって女はかなりいるから贈り物にしたらもう兄さんの“いい人”はアレでコレ。
買った。
金を渡しおやじが玉簪を台座から取って、調子のいいことをしゃべくりながら釣りを卓の下から出した時に玉簪を持った手首が嫌な動きをした。
「膝の上にあるもん見せな」
「へへっ、どうしたってんですかい。あっしはただ釣りを出そうと」
「このまま卓ごと蹴り上げられるか、それとも俺の前にこの簪を買っていった禿のおっさんを、俺と一緒に今から追いかけるか。どっちを選ぶ?」
顔にめちゃくちゃ傷のある筋肉膨れした禿のおっさんが、何を期待しているのかめろめろな顔をして玉簪を買って早足で踵を返して行った姿を想像して頂きたい。
喜ばせようとして迷ったあげくに時間をかけ、それで待たせて怒らせるのは本末転倒だ。次郎もまた急いで鳥居まで戻ると、案の定ミヅチの姿がなかった。怒ってその辺に隠れているのか、それとも中に次郎を探しに戻って擦れ違ったのか。
万が一にもあり得ないことだが、どこぞの柄の悪い連中に連れて行かれたとか。
焦って周りを見回す。幸運にもすぐにミヅチの後ろ姿が目に入った。そこに万が一があった。祭りの入り口にはよくある駆け付け三杯の立ち飲み屋。客をさばくために置いたその卓に、男二人に後ろを張られ、ミヅチの座る目の前には間違った方向に洒落込んだ男が座って睨みをきかせている。
三歩で参道を横切り一切の容赦なくミヅチの背後に立つ男の背中を蹴り飛ばすと同時にもう一人の腕を捻り退け背中を踏み付けつる。もう片方の手でミヅチの肩を持った。捻りあげた男の悲鳴にかき消されない大声で次郎が卓に座る男に言う。
「おい、俺の女になにしてやがる!」
「おえー? じろー?」
ぐらりと首を傾けて振り仰いだミヅチは真っ赤な顔をしてそれはとてもとても酒臭かった。目の前にいる男も、ミヅチを睨み付けているのではなく、薄目でかろうじて意識を保っているという風体だ。
次郎は目を白黒させた。
全く持って気づかなかったが、この卓を囲む野次馬が興味津々わっと歓声をあげた。
「おっとっと」
危なげな指先が徳利にぶつかる。倒れる前にがっしと掴み、開いた大口を上に向けて、持ち上げた徳利をひっくり返し豪快にがぱーと酒を飲み干す。端から零れて襟を濡らしても全然気にしてはいない。
「っぷはぁ。わ、わらわの、かちらら」
「わ、わかったからもう……いっれくれ……」
ごとり、と男の頭が卓に落ちる。男の側に置かれていた徳利が倒れ卓の上が酒浸しになってしまった。残りの二人も、助け船の役割だったのか、相当に酒臭かった。
「あのおろこららがなー、わらわをてごめにせんとしりょーとしたからら。こうらってはあかんと、らがわらわがひとをおそうわけにもいかんがなー、さけでしょうぶをつけららわらわがまけららよいつぶせれれつごーがよかろといったらら、あほうなやつららのってきおったなー」
「わかったわかった」
抱きかかえるようにして帰路を歩く。酒で足回りもおぼつかないからいくらミヅチが軽いといっても歩きづらいことこの上ない。人通りの少なくなった暗い通りでお経のように繰り返ししゃべり散らかす。吐く息が酒臭い。
つまりは男どもに絡まれたが酒の飲み比べに話を持っていったとそれだけなのだが、その原因はなんであろう次郎だ。
水神とも呼ばれる龍がこれほどまでに酔うとは相手も一体どれだけの酒豪なのかと思う。まさかあいつまで妖怪だったとかそんな話はあるまいな。
「飲み負けてたらどうすんだよったく」
「らいろーぶなのら。あんああほうろも、わらわのりんつーりりれ、さけなろみずのごろくさせられるのりゃ。ちょっろはふたんせねばおもろくないらりょ」
「それが馬鹿だっつってんだ」
「じろー!」
「はいはいなんだよ」
「わらわのはなひをきいているのりゃ」
「聞いてるっつの」
ミヅチはつんのめって立ち止まると正面から次郎の首に両腕を回し、ぎゅうううううっと抱きついてくる。非常に酒臭い。原因が自分にあっても本当に放っておいて一人で家に帰ろうかと不埒な思いが頭をかすめる。
「もとはといへばじろーがいつまでらってもいつまでらってもわらわのところにかえってこらいろがいかんのりゃろが!」
その通りでございます。
「じろーはわらわのことらどーれもいーんりゃろが!」
「んなこたねぇよ」
「なら、ならろーしてれんれんかえってこららったのりゃ……。わらわは」
俯く、声がか細くなる。
「わらわはさびしかったのに」
次郎はミヅチの腕を優しく解く。ふらふらと頼りなく立ちすくむミヅチは、ひどく不安な顔を見せた。
「待たせて悪かったよ。ほら、詫びの印だ」
袖に入れていた玉簪をミヅチの手に収める。
幼子が物を理解しようとじっと見つめるように、ミヅチもまた手に載せられた玉簪をじっと見ていた。長く見つめ続けた。
ゆっくりと理解の色を示して、次郎を見上げる。次郎の眼差しを受けると、歯痛を堪えるようにくしゃりと顔をゆがめ再び俯く。拳を握りしめ、ずびずびと鼻を鳴らした。
「あほう、この、おおたわけ……」
「なんだよ泣くなよ」
「うっうるさい泣いてなどおらんわ。このすっとこどっこい、がっ」
涙を散らかしてミヅチが髪を振り乱すと、水が流れるように黒色が抜け本来の蒼になる。人にはない角がいつの間にか戻っている。
喉が震えて乾く。胸が痛いほどに苦しい。金色の瞳の中に次郎の足下すら視界に収められない。
「ミヅチ」
「みっみるな! ……あっ」
頬に手を添えられ無理矢理上を向かされる。
ミヅチの動きが止まり、白い手が次郎の胸に添えられる。
暗闇の中、しばらく、二人はそうしていた。
◇
一働き終えて長屋に帰ると、尾を伸ばしてくつろいでいるミヅチがなにやら板に向かって微笑んでいた。髪には昨日渡した玉簪を挿している。喜んで貰えて次郎としても嬉しいが、そう板に向かって一人でにやにやしている不審な姿を見ると何やら間違ったような気がしてならない。
驚いたようにミヅチが顔を上げる。生き生きと微笑む。
「おかえり。次郎」
「ああ。ただいま。なにしてんだ」
「これか、鏡を見ていた」
「鏡?」
「うむ。住処から届けてもらったのじゃ」
尾を踏まないようにしてミヅチの横に回る。今まで見たことのない景色が薄い板の中に広がっていた。次郎とミヅチにうり二つの人相が目の前にある。
「すげぇな……これ」
「んう、そうじゃろうか?」
鏡を知らないわけではない。町の金持ちが自慢して見せられた鏡にも大層驚いた覚えがあるが、ここまで美しく景色を映してはいなかった。よくよく見れば周りの板も高級そうだ。髭を剃るには桶に張った水面を見るが、俺ってこういう顔をしていたのかと初めてこの鏡で自身の顔を見た気がして次郎は感慨深くなる。
「そんなことよりも、次郎はお勤めで疲れたであろ。夕餉の支度はできておるぞ」
いそいそと次郎の上着を脱がせ、湿らせた布巾を手渡してくる。笑顔と声がいつもよりいっそう柔らかく、なぜか頻繁にちらちらと次郎を見て目が合えば、目も口も線にして微笑んでくる。夕餉のおかずが一品多い。
あまりに出来過ぎていて一種空恐ろしい感も受けるが、これで良かったのだろう。その後もミヅチはかいがいしく次郎の世話を焼き、やることがなければ玉簪を挿した髪を鏡に映してあっちからこっちから嬉しそうに眺めている。
「のう、似合っておるかの」
「あ、ああ」
「そうか。次郎が買うてくれたものだものな」
このやりとりも今日何度目か。
どう見ても玉簪よりもこの鏡のほうが余程高いのではないかという言葉はこの際飲み込んでおく。
「のう」
「なんだ」
「…………。く、くじの当たりはどうだったのかの」
声が裏返っている。
「ああ、やっぱ外れた。ありゃだめだな、もう買わん」
そう言って懐からミヅチが書いた次郎の名前の書かれた札を見せた。
「ん? それは当たり外れなく返すのだと言っておらなんだか?」
次郎は慌てて札を懐に戻した。ごふんとわざとらしく咳を付く。
ミヅチは、はてと首をかしげるも、頬を染めてもう一つ言葉を紡ぐ。
「のう……」
「なんだよ」
「次郎は、あのときに」
あのときとは、次郎が必死の形相でミヅチの後ろに立って庇ったときだ。気付かなかったとはいえ、野次馬の中でとんでもないことを叫んでしまった。
「次郎は妾のこと、……と、言ってくれたじゃろ」
次郎は真っ赤になった顔を背ける。ミヅチは俯いて落ち着きなく蒼い髪を何度も手で梳く。
「もいっかい、言っては……くれなんだか?」
12/02/29 23:53更新 / 野月あおい
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