第一話 龍と食べる
次郎は文字通り平民の次男として生まれた。家柄はとても裕福とは言えないものではあったが、幼い頃から近所の手伝いを始めに、成長し男子としてそれなりの力を付けていくに合わせて汗を流せば食うに困ることはないといった生活だった。
おりしも先の大戦を終えたばかりのこの時勢、そこかしこでいざこざが起こって当たり前で次郎もまた男子なりに一旗上げてやろうと鼻息荒く意気込み、稼ぎ手が一人減ることに滅法親を困らせたがそこは次男の強みで生まれ故郷を離れた。よく名も知らぬ有力者の元でおっかなびっくり槍を突き出し握り飯を食うような、危険な目にあいつつもまだ死とはかけ離れた夢の毎日を送っていた。
そんな少年の日々を、仕える主を鞍替えしつつ送り十年。運良くまだ生きていた次郎はすっかり体格に恵まれ精悍な顔つきになり、そこかしこに切り傷刺し傷をこしらえて仲間内では比較的実力を認められるほどにはなった。また今はどこにも仕えてはいない。
大きな戦を二つ生き残り、小さな小競り合いは二年目で数えるのが面倒になった。世情は次郎が家を出た頃に比べれば幾分か落ち着いてはいるものの、やれ下克上だやれ一揆だ、やれ妖怪の討伐だと力自慢の傭兵に仕事を欠くことはなかった。
つまり、次郎は人を殺したことはあるし、妖怪も殺したことがある。
人の諍いは言うに及ばず、人に仇なす妖怪は滅多にいないが、滅多にはいるのである。
あれは初めての妖怪討伐に震えていた前夜、村の半分ボケたジジイから聞いたところによると妖怪たちは人を愛する者たちだという。じゃあ妖怪に遭遇したと思われる人々が帰って来ないのは何故かと問いただすと、その妖怪に故意か無意識に魅了され少なくともその者は幸せに暮らしているはずだという。そんな馬鹿げた話があるか、俺は妖怪に会ったことはないが実際に以前討伐に行った者たちがほとんど帰って来ずに、泣き伏せる親女房やガキ共を見ている。害にもならない悪戯をするだけの妖怪も居るって言うが、妖怪が人を愛してるならどうして人を悲しませるようなことをする? ありゃあ当然喰ってるに違いない。妖怪全部がそうじゃないにしても少なくともそういう人と相容れない奴らはいる。次郎はあと数刻もすれば自分が相対する妖怪に、会う前から負けないように自らを鼓舞する。ジジイは言う。お前が明日会う妖怪が問答無用で襲ってくるような者であれば、それは「古い者たちだ」と。
「ともすれば人を喰うような者たちであったほうが、あの娘らもまだ幸せであったかもしれん」
そう、ジジイは言った。
人がボケる瞬間を初めて見た。次郎はジジイの家族に知らせてやろうかと思ったがそもそもこのジジイの家を知らない。
「わしもそうだったんだ。あやつに老いて死ぬ様を見せたくなんだ。逃げ出したがな」
ボケジジイのたわ言だ。
そのたわ言はやはりたわ言でしかなかった。その翌日の夕方。こちらは数にして武器を持った大男が二十人。対する妖怪は小柄な半獣半人一匹。全身を犬のような毛で覆われ体躯は人のようにも見えるが人よりも四肢で走ることに適するように歪な形で安定している。
こいつに性別があるのか分からないがまるで少女のような顔を引きつらせて次郎たちを威嚇している。
妖怪たちは人のそばにいる。そばといっても長屋の隣部屋で五人組をしているわけではない。ずっとずっと昔から人と共にあったそうだ。だがそうそう見かけることはない。臆病だからだとか人よりオツムの中身が良くて人を相手にしないからだとか言われている。風の噂に聞く異国の教団とかいういかがわしい集団は、妖怪こそは闇で人を喰い殺す人の天敵であると言っている。次郎もこの目の前の妖怪を見る前からなんとなくそうなんじゃないかなーとは思っていたが、実際に見てからだとやはりそうなんだと思えてきた。
事実としては、妖怪による人攫いはわりとよく聞く。
事実としては、妖怪が殺したという人の死体は二度しか見たことがない。
まだ二十半ばに届かなかった次郎だが、それなりの数の戦場を駆け巡り、それなりの地域を訪れ、それなりの数の人に接してきた。
だが事実としては、そうである。
「おいなにやってる!」
ジジイのたわ言が次郎に余計な考えを働かせ、ふと気づくと妖怪が目と鼻の先に大口を開けて迫っていた。刀を振り上げる暇も無くぐっと身を逸らして噛み付きをギリギリで避ける。得体の知れない死に肌が触れた。その次郎と妖怪のギリギリの隙間に誰かが棍を突っ込んできて俊足の妖怪がごり押しで跳ね除けられ見た目どおりの犬のような悲鳴を上げて背中から落ちる。そこからは切った張ったの、大捕り物とは言いがたい虐殺だ。それは仕方がない。こいつも既に人を四人喰っていた。こいつが死ぬまでにこちらの手勢が二人死んだ。
人だろうがただの獣だろうが、人を襲う者を人は許すことができない。
相手がなんであれ滅多にない討伐なものだから一度箔がつけば同じようなことで呼ばれてしまう。そんなわけで次郎は二十も半ばを過ぎたあたりまでであれから二度、仲間と共に妖怪を打ち倒した。通算では五年の間に三度あって三度とも相手は一匹だった。犬と猫と鬼だった。
五年で三回。人攫いはそれ以上の数にのぼる。
◇
「次郎」
「あ?」
「なにを阿保みたいに呆けておる」
「え、そうだったか」
「ん」
すらりとした白い手が目の前に突き出される。
「お手?」
「たわけ。おかわりはいるかと訊いておる。聞いてはおらなんだか」
「あ、ああ。いや。もらうもらう」
「ふむ」
ぺったらぺったらと碗に白飯を盛りつけるミヅチ。飯を盛るのももう随分手慣れた。掃除をして、ただでさえぼろい家具を木屑にすることも、洗濯をしてぼろ切れを増やすことも少なくなった。
顔立ちは通りを歩けば十人が十人振り向くほどの器量だし胸はこれでもかというほどに腫れてるし言葉遣いは武家のように仰々しいが気立ては優しく申し分ない。次郎には過ぎた女だと思う。
ミヅチは山のように盛った白飯にふんと鼻を鳴らして満足し、差し出したその柔らかな手が次郎に触れる。途端に次郎の目を射貫くように見つめる。
「のう」
「なんだ」
「今日もお勤めに行くんじゃろ」
「当たり前だろう」
「妾を放っておいて」
「放っておくわけじゃないだろ。金を稼がんと飯も食えん」
「妾を放っておいて」
二度目。
どこの辻芝居で憶えてきたのか最近はこの口癖がお気に入りのようだ。碗を次郎に渡すとミヅチは、よよよと袖で口を覆ってしなを作る。
色っぽい。流れる長髪はしっとりと濡れたような蒼。どこで売っているのか織布の質はべらぼうに良く所々品の良い仕立てなくせに胸元が深く開いている女郎一歩手前の着物からは、床に崩れるように傾けた肩がむき出しになり、長いまつげを震わせ悲しげに伏せている。鼻血が出そうなほど色っぽい。しゃもじを持っていなければ。
それが振りだとわかっていても女の悲しげな様子を見るのは苦手な次郎は、頑張って無視して白飯をかっこみ菜物と焼き魚をほぐしては口に入れ汁物をすする。またあれやこれやミヅチに構っていて仕事の依頼主に遅刻でこっぴどく叱られるのは勘弁願いたかった。
「…………」
がつがつ。
「…………かっ、」
がつがつ。
「金、金、金と! 金なら! 妾が持っているのを見せたであろう!」
あ、怒った。
「馬鹿っ! あんな大金持ってたら生きた心地がしねぇって言ったろ!」
次郎が米粒を飛ばして怒鳴り返すと途端にミヅチが怯む。
「うっ……く……」
「あのなぁ人にゃあ分相応って言葉があるんだよ。俺みてぇな唐変木が床が抜けるほどの金持ってたら三日で三途の河行きだ。いや死ぬ前にケツの毛までむしられて渡り賃だって払えたもんだか」
そういう奴らを次郎は何人も見てきた。自分も勢いに任せてあぶく銭を豪快に使った時に命の危険に晒されたこともあった。世の中金だが、持ちすぎても良いことなんて無いことは身に染みている。
「うっうっうぅ〜……」
かっと開いた金色の瞳を潤ませてミヅチが尻をついたまま両手で後ずさる。狭い部屋の奥に突き当たりそこでずるずるととぐろを巻いて上半身をすっかり緑色の鱗で覆われた尾の中に隠してしまった。比喩ではない。本当に長々とした尾が目の前でとぐろを巻いている。
ただでさえ狭い部屋の中が暑苦しい。さっきまでは次郎が座る場所以外足の踏み場も無いほどに広げていた長大な尾が、今はとぐろを巻いたせいで小山のようにうず高く、目の前にあるだけで圧倒される。しかもその中心で隠れきれなかったミヅチの白い腰が窮屈そうに天井についてしまっている。
次郎は嘆息する。自分まで感情的になって大声を出しては駄目だ。それは壁や天井にいくつも張り付けられた板切れが物語っている。ここは長屋の一角。今誰かに戸板を開かれれば狂乱必須の事態だが、落ち着いて行動しなければならない。
「あー……。なぁ」
「…………」
「おい、お前」
「妾はお前という名ではない」
くぐもった鼻声が頭の上から降ってきた。
「……ミヅチ。ちょっと聞いてくれ」
「いやじゃ」
「いやいやいや、じゃあ俺もう仕事行っちゃうよ?」
「行けばよい。妾を放っておいて」
三度目。
空になった碗と箸を置いて次郎は立ち上がる。大蛇もかくやという山盛りのとぐろを前にしても次郎は物怖じをしていない。わりともう慣れた。
緑色の鱗に触れる。冷たくも体温は感じられる。固いがせいぜい甲虫の背ほどの弾力だ。ミヅチも本気で怒っているのではない。拗ねているだけだ。怒っていたら鱗に触れるだけで指の二、三本は軽く落とされる。
触れた手をすっと滑らすとミヅチはくすぐったそうに尾をよじった。
「あのな、何度も言ってるが俺は、っていうか人間は食わないとすぐ死んじまうんだよ。食うためには働かなきゃならん」
「だから、妾の持ってる金が」
「働かざる者食うべからずってな。人間ってやつぁ怠けもんでよ。ちょっとでも余裕があるとあっちゅう間に腐っちまうんだ。俺ぁそういう輩にはなりたかねぇんでな」
「…………」
今度は腰をよじったのが天井の軋みでわかった。
「確かにお前のあの金は、俺だって欲しい。そりゃもう喉から手が出るほどだ。でもよ、俺が今まで生きてきた経験で言うとよ……まあろくな経験してないけどよ」
「……次郎はろくな人間ではないのか」
「他人に言われるとむかつくなー。まあいいや。俺は今の生活で満足してるんだ。毎日飯が食えて、壁と屋根があるところに住めて、三日にいっぺんくらいは酒を飲んで、贅沢言やぁ丁半くらいはやりたいところだが……って話がそれた。あれだ、そんくらいの毎日が暮らせるくらいの小銭があればいいんだよ」
そこに妾はいるのか、とは、とぐろに埋もれた白い腰は問わなかった。
「じゃあ明日は休み貰ってくるからさ。どっかに遊びに行くか。ん?」
それはうそだと尾をよじる。
「嘘じゃないって。まあ明日くらいなら用心棒の代わりも都合付けられるだろうから。楽しみにしとけよ。あーそういや明日は神社で祭りがあったよなぁ」
ちらりと見上げた山の上でのっそりとミヅチが上半身を起こした。まだ疑い深く半眼で次郎を見下ろしている。起きたときに頭を天井にごつんとぶつけたが気にはしていけない。
「まことか?」
「ほんとほんと」
「よもや妾に嘘をつくとあとが恐ろしいぞ」
「わかってるって」
「絶対じゃぞ」
「絶対? ああ、遊びに行くってのがな。絶対」
「絶対の絶対じゃぞ」
「絶対の絶対だ。ったくしつけぇな――」
次郎がいい加減呆れてがりがりと頭をかいたその姿勢で腰までミヅチの尾に巻き取られ、上半身は普通に抱きしめられた。慣れたとはいえさすがにこういう体勢は生きた心地が目減りする。あとほんのちょっと強く締め付けられたら全身の骨が粉々だ。ミヅチが次郎に馳走を振舞うために、山で野生の馬を絞め殺したあの光景が脳裏に甦る。対してミヅチは満面の笑みで猫のように自分の顔を次郎の顔に何度もすりつけてくる。
「むふふ〜。約束じゃからな」
「はいはい」
妖怪には犬と猫と鬼もいる。
こうしてじゃれて抱きついて柔らかく良い匂いのするミヅチは、妖怪であり、龍だった。
上半身こそ女人と変わらないが下半身は蛇のように鱗のある、女人の胴ほどの太さのある長い尾。蛇のようだと言うとミヅチは怒る。だが実在すると知っている普通の妖怪だってそう会うことがないのだ。龍なんてお伽噺や小難しい神話で想像上の生き物であろうということを疑うことすらしていなかった。目の前で「私は龍です」とか言われて「はいそうですか」とはいかなかった。
それでもこの蛇よりも遙かに威厳のある尾があり頭にはご丁寧に角まであって雲一つ無い抜けるような青空の日に指先一つ振っただけで肌が痛くなるほどの土砂降りを降らせられたら信じる信じないの前にああ龍ってこういう奴なのかと思わざるを得なかった。
龍は神の使い、または神そのものと聞いたことがある。
上機嫌になった甘えたがりのミヅチはいっこうに次郎を離してはくれず、結局仕事には遅刻をしてしまった。だが強く抱きしめられてあの無駄に腫れた胸を充分堪能したから依頼主からどんなに怒鳴り散らされようが釣りも出ようってものだ。
ミヅチと出会う前から腰を落ち着けているこの町は、他の地域と比べると平穏で傭兵家業は成り立たず、用心棒も楽なものだった。逆を言えば楽すぎて今までの給金より低いため、慣れない仕事もいくつか平行してしなくてはならないのが面倒と言えば面倒だ。
そしてミヅチだって飯を食うし服もいる。洒落だってしたいだろう。だがしかし朝にも話にあったが、最初の頃に男の見栄を張りミヅチの申し入れを断った手前、今になって「自分の食い扶持くらいは出して貰えませんか」とは口が裂けても言えなかった。
まあ贅沢さえしなければ二人が慎ましく暮らすくらいは稼げている。この調子でしばらくはいけばいいだろう。
時折ミヅチが、次郎の財布に小銭を足していることに、次郎は露程も気づいていない。
おりしも先の大戦を終えたばかりのこの時勢、そこかしこでいざこざが起こって当たり前で次郎もまた男子なりに一旗上げてやろうと鼻息荒く意気込み、稼ぎ手が一人減ることに滅法親を困らせたがそこは次男の強みで生まれ故郷を離れた。よく名も知らぬ有力者の元でおっかなびっくり槍を突き出し握り飯を食うような、危険な目にあいつつもまだ死とはかけ離れた夢の毎日を送っていた。
そんな少年の日々を、仕える主を鞍替えしつつ送り十年。運良くまだ生きていた次郎はすっかり体格に恵まれ精悍な顔つきになり、そこかしこに切り傷刺し傷をこしらえて仲間内では比較的実力を認められるほどにはなった。また今はどこにも仕えてはいない。
大きな戦を二つ生き残り、小さな小競り合いは二年目で数えるのが面倒になった。世情は次郎が家を出た頃に比べれば幾分か落ち着いてはいるものの、やれ下克上だやれ一揆だ、やれ妖怪の討伐だと力自慢の傭兵に仕事を欠くことはなかった。
つまり、次郎は人を殺したことはあるし、妖怪も殺したことがある。
人の諍いは言うに及ばず、人に仇なす妖怪は滅多にいないが、滅多にはいるのである。
あれは初めての妖怪討伐に震えていた前夜、村の半分ボケたジジイから聞いたところによると妖怪たちは人を愛する者たちだという。じゃあ妖怪に遭遇したと思われる人々が帰って来ないのは何故かと問いただすと、その妖怪に故意か無意識に魅了され少なくともその者は幸せに暮らしているはずだという。そんな馬鹿げた話があるか、俺は妖怪に会ったことはないが実際に以前討伐に行った者たちがほとんど帰って来ずに、泣き伏せる親女房やガキ共を見ている。害にもならない悪戯をするだけの妖怪も居るって言うが、妖怪が人を愛してるならどうして人を悲しませるようなことをする? ありゃあ当然喰ってるに違いない。妖怪全部がそうじゃないにしても少なくともそういう人と相容れない奴らはいる。次郎はあと数刻もすれば自分が相対する妖怪に、会う前から負けないように自らを鼓舞する。ジジイは言う。お前が明日会う妖怪が問答無用で襲ってくるような者であれば、それは「古い者たちだ」と。
「ともすれば人を喰うような者たちであったほうが、あの娘らもまだ幸せであったかもしれん」
そう、ジジイは言った。
人がボケる瞬間を初めて見た。次郎はジジイの家族に知らせてやろうかと思ったがそもそもこのジジイの家を知らない。
「わしもそうだったんだ。あやつに老いて死ぬ様を見せたくなんだ。逃げ出したがな」
ボケジジイのたわ言だ。
そのたわ言はやはりたわ言でしかなかった。その翌日の夕方。こちらは数にして武器を持った大男が二十人。対する妖怪は小柄な半獣半人一匹。全身を犬のような毛で覆われ体躯は人のようにも見えるが人よりも四肢で走ることに適するように歪な形で安定している。
こいつに性別があるのか分からないがまるで少女のような顔を引きつらせて次郎たちを威嚇している。
妖怪たちは人のそばにいる。そばといっても長屋の隣部屋で五人組をしているわけではない。ずっとずっと昔から人と共にあったそうだ。だがそうそう見かけることはない。臆病だからだとか人よりオツムの中身が良くて人を相手にしないからだとか言われている。風の噂に聞く異国の教団とかいういかがわしい集団は、妖怪こそは闇で人を喰い殺す人の天敵であると言っている。次郎もこの目の前の妖怪を見る前からなんとなくそうなんじゃないかなーとは思っていたが、実際に見てからだとやはりそうなんだと思えてきた。
事実としては、妖怪による人攫いはわりとよく聞く。
事実としては、妖怪が殺したという人の死体は二度しか見たことがない。
まだ二十半ばに届かなかった次郎だが、それなりの数の戦場を駆け巡り、それなりの地域を訪れ、それなりの数の人に接してきた。
だが事実としては、そうである。
「おいなにやってる!」
ジジイのたわ言が次郎に余計な考えを働かせ、ふと気づくと妖怪が目と鼻の先に大口を開けて迫っていた。刀を振り上げる暇も無くぐっと身を逸らして噛み付きをギリギリで避ける。得体の知れない死に肌が触れた。その次郎と妖怪のギリギリの隙間に誰かが棍を突っ込んできて俊足の妖怪がごり押しで跳ね除けられ見た目どおりの犬のような悲鳴を上げて背中から落ちる。そこからは切った張ったの、大捕り物とは言いがたい虐殺だ。それは仕方がない。こいつも既に人を四人喰っていた。こいつが死ぬまでにこちらの手勢が二人死んだ。
人だろうがただの獣だろうが、人を襲う者を人は許すことができない。
相手がなんであれ滅多にない討伐なものだから一度箔がつけば同じようなことで呼ばれてしまう。そんなわけで次郎は二十も半ばを過ぎたあたりまでであれから二度、仲間と共に妖怪を打ち倒した。通算では五年の間に三度あって三度とも相手は一匹だった。犬と猫と鬼だった。
五年で三回。人攫いはそれ以上の数にのぼる。
◇
「次郎」
「あ?」
「なにを阿保みたいに呆けておる」
「え、そうだったか」
「ん」
すらりとした白い手が目の前に突き出される。
「お手?」
「たわけ。おかわりはいるかと訊いておる。聞いてはおらなんだか」
「あ、ああ。いや。もらうもらう」
「ふむ」
ぺったらぺったらと碗に白飯を盛りつけるミヅチ。飯を盛るのももう随分手慣れた。掃除をして、ただでさえぼろい家具を木屑にすることも、洗濯をしてぼろ切れを増やすことも少なくなった。
顔立ちは通りを歩けば十人が十人振り向くほどの器量だし胸はこれでもかというほどに腫れてるし言葉遣いは武家のように仰々しいが気立ては優しく申し分ない。次郎には過ぎた女だと思う。
ミヅチは山のように盛った白飯にふんと鼻を鳴らして満足し、差し出したその柔らかな手が次郎に触れる。途端に次郎の目を射貫くように見つめる。
「のう」
「なんだ」
「今日もお勤めに行くんじゃろ」
「当たり前だろう」
「妾を放っておいて」
「放っておくわけじゃないだろ。金を稼がんと飯も食えん」
「妾を放っておいて」
二度目。
どこの辻芝居で憶えてきたのか最近はこの口癖がお気に入りのようだ。碗を次郎に渡すとミヅチは、よよよと袖で口を覆ってしなを作る。
色っぽい。流れる長髪はしっとりと濡れたような蒼。どこで売っているのか織布の質はべらぼうに良く所々品の良い仕立てなくせに胸元が深く開いている女郎一歩手前の着物からは、床に崩れるように傾けた肩がむき出しになり、長いまつげを震わせ悲しげに伏せている。鼻血が出そうなほど色っぽい。しゃもじを持っていなければ。
それが振りだとわかっていても女の悲しげな様子を見るのは苦手な次郎は、頑張って無視して白飯をかっこみ菜物と焼き魚をほぐしては口に入れ汁物をすする。またあれやこれやミヅチに構っていて仕事の依頼主に遅刻でこっぴどく叱られるのは勘弁願いたかった。
「…………」
がつがつ。
「…………かっ、」
がつがつ。
「金、金、金と! 金なら! 妾が持っているのを見せたであろう!」
あ、怒った。
「馬鹿っ! あんな大金持ってたら生きた心地がしねぇって言ったろ!」
次郎が米粒を飛ばして怒鳴り返すと途端にミヅチが怯む。
「うっ……く……」
「あのなぁ人にゃあ分相応って言葉があるんだよ。俺みてぇな唐変木が床が抜けるほどの金持ってたら三日で三途の河行きだ。いや死ぬ前にケツの毛までむしられて渡り賃だって払えたもんだか」
そういう奴らを次郎は何人も見てきた。自分も勢いに任せてあぶく銭を豪快に使った時に命の危険に晒されたこともあった。世の中金だが、持ちすぎても良いことなんて無いことは身に染みている。
「うっうっうぅ〜……」
かっと開いた金色の瞳を潤ませてミヅチが尻をついたまま両手で後ずさる。狭い部屋の奥に突き当たりそこでずるずるととぐろを巻いて上半身をすっかり緑色の鱗で覆われた尾の中に隠してしまった。比喩ではない。本当に長々とした尾が目の前でとぐろを巻いている。
ただでさえ狭い部屋の中が暑苦しい。さっきまでは次郎が座る場所以外足の踏み場も無いほどに広げていた長大な尾が、今はとぐろを巻いたせいで小山のようにうず高く、目の前にあるだけで圧倒される。しかもその中心で隠れきれなかったミヅチの白い腰が窮屈そうに天井についてしまっている。
次郎は嘆息する。自分まで感情的になって大声を出しては駄目だ。それは壁や天井にいくつも張り付けられた板切れが物語っている。ここは長屋の一角。今誰かに戸板を開かれれば狂乱必須の事態だが、落ち着いて行動しなければならない。
「あー……。なぁ」
「…………」
「おい、お前」
「妾はお前という名ではない」
くぐもった鼻声が頭の上から降ってきた。
「……ミヅチ。ちょっと聞いてくれ」
「いやじゃ」
「いやいやいや、じゃあ俺もう仕事行っちゃうよ?」
「行けばよい。妾を放っておいて」
三度目。
空になった碗と箸を置いて次郎は立ち上がる。大蛇もかくやという山盛りのとぐろを前にしても次郎は物怖じをしていない。わりともう慣れた。
緑色の鱗に触れる。冷たくも体温は感じられる。固いがせいぜい甲虫の背ほどの弾力だ。ミヅチも本気で怒っているのではない。拗ねているだけだ。怒っていたら鱗に触れるだけで指の二、三本は軽く落とされる。
触れた手をすっと滑らすとミヅチはくすぐったそうに尾をよじった。
「あのな、何度も言ってるが俺は、っていうか人間は食わないとすぐ死んじまうんだよ。食うためには働かなきゃならん」
「だから、妾の持ってる金が」
「働かざる者食うべからずってな。人間ってやつぁ怠けもんでよ。ちょっとでも余裕があるとあっちゅう間に腐っちまうんだ。俺ぁそういう輩にはなりたかねぇんでな」
「…………」
今度は腰をよじったのが天井の軋みでわかった。
「確かにお前のあの金は、俺だって欲しい。そりゃもう喉から手が出るほどだ。でもよ、俺が今まで生きてきた経験で言うとよ……まあろくな経験してないけどよ」
「……次郎はろくな人間ではないのか」
「他人に言われるとむかつくなー。まあいいや。俺は今の生活で満足してるんだ。毎日飯が食えて、壁と屋根があるところに住めて、三日にいっぺんくらいは酒を飲んで、贅沢言やぁ丁半くらいはやりたいところだが……って話がそれた。あれだ、そんくらいの毎日が暮らせるくらいの小銭があればいいんだよ」
そこに妾はいるのか、とは、とぐろに埋もれた白い腰は問わなかった。
「じゃあ明日は休み貰ってくるからさ。どっかに遊びに行くか。ん?」
それはうそだと尾をよじる。
「嘘じゃないって。まあ明日くらいなら用心棒の代わりも都合付けられるだろうから。楽しみにしとけよ。あーそういや明日は神社で祭りがあったよなぁ」
ちらりと見上げた山の上でのっそりとミヅチが上半身を起こした。まだ疑い深く半眼で次郎を見下ろしている。起きたときに頭を天井にごつんとぶつけたが気にはしていけない。
「まことか?」
「ほんとほんと」
「よもや妾に嘘をつくとあとが恐ろしいぞ」
「わかってるって」
「絶対じゃぞ」
「絶対? ああ、遊びに行くってのがな。絶対」
「絶対の絶対じゃぞ」
「絶対の絶対だ。ったくしつけぇな――」
次郎がいい加減呆れてがりがりと頭をかいたその姿勢で腰までミヅチの尾に巻き取られ、上半身は普通に抱きしめられた。慣れたとはいえさすがにこういう体勢は生きた心地が目減りする。あとほんのちょっと強く締め付けられたら全身の骨が粉々だ。ミヅチが次郎に馳走を振舞うために、山で野生の馬を絞め殺したあの光景が脳裏に甦る。対してミヅチは満面の笑みで猫のように自分の顔を次郎の顔に何度もすりつけてくる。
「むふふ〜。約束じゃからな」
「はいはい」
妖怪には犬と猫と鬼もいる。
こうしてじゃれて抱きついて柔らかく良い匂いのするミヅチは、妖怪であり、龍だった。
上半身こそ女人と変わらないが下半身は蛇のように鱗のある、女人の胴ほどの太さのある長い尾。蛇のようだと言うとミヅチは怒る。だが実在すると知っている普通の妖怪だってそう会うことがないのだ。龍なんてお伽噺や小難しい神話で想像上の生き物であろうということを疑うことすらしていなかった。目の前で「私は龍です」とか言われて「はいそうですか」とはいかなかった。
それでもこの蛇よりも遙かに威厳のある尾があり頭にはご丁寧に角まであって雲一つ無い抜けるような青空の日に指先一つ振っただけで肌が痛くなるほどの土砂降りを降らせられたら信じる信じないの前にああ龍ってこういう奴なのかと思わざるを得なかった。
龍は神の使い、または神そのものと聞いたことがある。
上機嫌になった甘えたがりのミヅチはいっこうに次郎を離してはくれず、結局仕事には遅刻をしてしまった。だが強く抱きしめられてあの無駄に腫れた胸を充分堪能したから依頼主からどんなに怒鳴り散らされようが釣りも出ようってものだ。
ミヅチと出会う前から腰を落ち着けているこの町は、他の地域と比べると平穏で傭兵家業は成り立たず、用心棒も楽なものだった。逆を言えば楽すぎて今までの給金より低いため、慣れない仕事もいくつか平行してしなくてはならないのが面倒と言えば面倒だ。
そしてミヅチだって飯を食うし服もいる。洒落だってしたいだろう。だがしかし朝にも話にあったが、最初の頃に男の見栄を張りミヅチの申し入れを断った手前、今になって「自分の食い扶持くらいは出して貰えませんか」とは口が裂けても言えなかった。
まあ贅沢さえしなければ二人が慎ましく暮らすくらいは稼げている。この調子でしばらくはいけばいいだろう。
時折ミヅチが、次郎の財布に小銭を足していることに、次郎は露程も気づいていない。
12/03/05 08:12更新 / 野月あおい
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