刺客と八尾
淫魔ウィルマリナの足音が間延びして聞こえるのは、なかば跳ぶようにして床を蹴っているからである。勢いの割に足音がほとんどしないのは、音という「行き足にならない力」が生まれぬように足を動かしているからであり、床や大気に満ちた魔力を取り込んでいるから、一歩ごとに速さを増していく。
弩から放たれた矢のような。
魔物に堕ちてからのウィルマリナの戦いぶりをこう評したものがいる。
過たず目標までの最短距離を全速をもって突き進む。
盾も鎧も知ったことかとばかりに撃ち抜いて省みない。
おおむねは同意してもいい。ウィルマリナはそう思っている。
ただ一点納得できないことがあった。
矢は撃ち手のもとへと帰ってこないのだから。
……ともあれ彼女は、激烈なまでの怒りの中にあった。
強すぎるせいで、かえって頭に血が上らずに済んでいる。
それは、早朝から動かねばならないからであった。
暗黒国家レスカティエは眠らずの国とも呼ばれ、また微睡みの国とも呼ばれる。
魔界に堕ちてからというもの、その濃密すぎる魔力は陽光を遮り、昼間は薄暗いのが当たり前となった……洗濯物がよく乾くのは魔界における七不思議のひとつに数えられる。
翻って夜となればその魔力はむしろ昼より明るく輝くのである。
いつ寝ていつ起きるべきなのか、統一した見解というものが生まれづらい風土が出来ていた。
このことは魔界における時制や労働制度の不統一を生み、魔界の軍事的政治的拡大が遅れている一因となっている。
だが裏を返せば昼間は薄暗さを理由に夫と同衾を続けられるし、夜となれば大手を振って枕を交わせる。魔物達にとっては、諸々の拡大より余程値打ちのある闇であった。
無論、それはウィルマリナとて例外ではない。
延々と続く至福の始まりである、最愛の夫の匂いと温もりに包まれて始まる朝を無粋きわまりない侵入者に妨害されたのだ。
壁を打ち壊して進まぬだけ、まだ理性的とすら言えた。
ますます速度は上がり、たたらを踏まぬためには壁や天井すら足場にしなければ追いつかない。
腰から生えた翼は時折羽ばたいてさらに速度を上げ、尾は上下左右に波打って勢いを制御する。
猛禽にたとえてまだ足りぬほどの速度となって、侵入者を。
通り過ぎた。
気がついて振り返り、慌てて腰の羽根で勢いを殺す。
ほぼ無音とすらいえた移動とは打って変わって派手な音が、普段は粘った水音と喘ぎ声ばかりの王宮に鳴り響いた。
侵入者の正体は赤い外套を羽織った人影であった。
フードを目深に被っているせいで面相はわからない。
背格好が曖昧に見えるのは隠形術でも仕込まれているのだろう。
赤外套が、やや腰を引いて腕を腰の高さまで上げる。
おそらくは何か体術の構えであろうそれを、ウィルマリナは無視した。
床を無音で蹴って1歩。柱を捉えて2歩。天井に届いて3歩。
斬りかかった場所に戻るまで、一呼吸はかからなかっただろう。
赤外套はそれを驚きもせず、最初からその位置に立っていたかのようにウィルマリナに向き直っている。
わずかに、間合いが縮んでいた。
「うぃるまりな、のーすくりむ」
大陸交易語には、きついジパング訛り。
「……お国の言葉で構いませんけど?」
流暢なジパング語がウィルマリナの口から出てきた。
ジパング生まれの妹分が出来てからというもの、必死になって覚えた言語である。知らない言葉で内緒話などされてはたまったものではないからだ。
「ここを通せば、お前は殺さない」
赤外套も、ジパング語で返した。ぼそぼそと呟く言葉には敵意も慈悲も侮りも、およそ内容にふさわしい感情の一切がない。
すでに決定した事実を淡々と読み上げているような、ひとごとじみた空虚だけがそこにある。
「……では、誰を殺すというのです」
「この先に」
最後まで喋らせる必要はなかった。
正中線をまっすぐに振り下ろし、刃を返して横薙ぎの第二撃。
たったそれだけの連携が、身を二つに割って戦う幽鬼の仕業に見えた。
双十字星。かつてレスカティエ教国最強と言われた勇者、ウィルマリナ・ノースクリムがもっとも得意としていた剣技の極み。
魔に堕ちて心を盗む術を覚え、ただ一人を胸中に宿すが故に、迷いも澱みも消えて失せたその必殺の太刀筋を。
赤外套は布一枚で避けてみせた。火の粉にも血にも見える燐光が、廊下に広がってすぐに消える。
だがそれを眺めている余裕はウィルマリナにはなかった。
反撃は、獲物を捉えた蛇に似て唐突。
刺客が手にするものとしては無骨に過ぎる山刀は断じて伊達や酔狂の類ではなく、速さといい精度といい、かつての聖騎士団で、この攻めを三合しのげるものが、果たしてどれほどいたか。
虚に見えて実、実と見せて虚。
首を落としにくる動きは水月を抉るための布石に過ぎず、空振りにしか思えない下段は上体を縫い止めるための杭だ。
さりとて動きのすべてを見切ったところで、いかなる手管によるものか、全く予期せぬ方向、あるいはもっと致命的な死角から攻撃が飛んでくる。
襲撃者に対する認識を改めざるを得なかった。
というより、この事態そのものがウィルマリナの失策であった。
城そのものと半ば同化しているフランツィスカ女王の触手をかいくぐり、城壁に降りた小鳥さえ数えてのけるプリメーラの耳目をすり抜けるほどの技量を備えた刺客を、城に入るまでにサキュバスになるような有象無象と同じように考えてしまったことは、いかにも迂闊といえた。
破れかぶれで放った逆袈裟の一刀が、外套にふたつめの大きな傷を作るだけにとどまったのを見て、ウィルマリナは大きく距離を取る。
水面を切る投石のように、翼を使って大きく十二歩分。人間なら魔術やそれに類する助けがなければ踏み込みようがない間合いだ。
前方に襲撃者の赤い外套があるのを見て、内心安堵の息をつく。ああ、全く煩わしい。まさか今になって睦み事以外で頭を使わねばならないとは。
剣技が当たらないなら魔法でも使ってみるか。
そこまで考えてみたところで、肩を叩かれた。
「交代しましょか、マリィ姉さん」
その声の主を振り返るまでもない。
肩に置いた手の気遣わしげなこと、そこから流れ込む魔力の絶妙な不足感。
傷や疲労は綺麗に消してくれたのに、身体の奥にある疼きはむしろ強くなっている。
ここまで巧みに魔力を操り、守るべき背後からやってくるジパング西方訛りの大陸交易語となれば、心当たりはひとつしかない。
「今宵ちゃん?」
身に纏うのはジパングの伝統的な儀礼装束。
ただし紅白に色分けられていたそれが、淀んで濁った黒色に染まっていた。
頭にはせわしなく動く三角の耳、背後に広がった八本の尾は喜色で左右に揺れている。
そのどれもが今にも脈を打ちそうな赤みを帯びて漆黒に染まっている。
淫猥に蕩けた笑みが、彼女の堕ちた闇がいかに深く、また悦びとともにあるのかを示していた。
名を今宵。
ウィルマリナがそうであるように、すでに家名など何の意味もない。
はるかジパングにおいては神として崇められるという狐の魔物、稲荷であり、「彼」の妻の一人である。それだけで彼女には十分なのだ。
「はいー。今宵です」
「……お勤めは?ほったらかし?」
ウィルマリナの声には隠そうともしない怒りと非難がにじみ出ている。
この程度の敵で二人も夫の側から離れるなど、あってはならないのだから。
「その旦那様からの言いつけですー。
マリィは何処やー、マリィとちゅーさせてくれー、って。
まあ子供みたいで可愛かったです。
しゃあないからウチが呼びに来ましたんよ。妬けますなあ」
今宵が、明らかなからかいの笑みを袖で隠す。
顔色がめまぐるしく変わるのを、ウィルマリナは自覚した。
視界がぼやけているのは羞恥と歓喜の涙だろう。頬が熱い。
「で、でででででも。どうして貴女ひとりなの!?他のみんなは……」
「ミミル姉さんと小さい姉さん方を荒事に巻き込んだらあきませんやろ。
サーシャ姉さんはこういう戦いに不慣れや思いますし、プリム姉さんとフラン姉さんはこいつ相手やと分が悪すぎます。
まさか身重のメルセ姉さんに来てもらうわけにもいきませんし……消去法でウチが」
「……こいつ、何者なの?」
「ウチの同門みたいなもんです。細かい話は終わってからでエエでしょ」
「大丈夫なのね?」
「すぐ済ませて戻りますて。ほら、マリィ姉さんも急いで戻らな。
一番絞り飲みそびれてしまいますえ」
「……っ、ごめんなさい!あとで三回……ううん、五回分譲らせて!」
言い終わるよりも早く、ウィルマリナは床を蹴っていた。
完全なる無音と、電光に喩えたほうがよさそうな速度。
三歩目を数えるころには、すでに襲撃者のことは彼女の中から消えかけていた。
そう、可愛い妹分が任せろと言ったのだ。私は彼の妻としての勤めを果たさねばならない。
***
襲撃者は戸惑っていた。
「もー、何やの。せっかく隙だらけで喋ってあげてたんに。モテへんよ?」
眼前の、今宵と呼ばれた稲荷が仰々しくため息をついた。
ジパングの退魔稼業には「祀り」という言葉がある。
読んで字のごとく、神として崇められるほどの力を備えた魔物のことであり、これらに関しては敬して遠ざくことが至上にして唯一の策である。
稲荷は龍神と並んでその筆頭であった。
どれほど修練を重ねて武芸を修め秘術を我がものとしようとも、人間である限りにおいて太刀打ちできるのはせいぜいが三尾までとされていた。
だが退魔師にとってみれば、稲荷はそれほど警戒するべき魔物とはいえない。
もとより好んで人里に危害を加えたがる類の魔物ではない上に、高位になればなるほど己の社に引き籠もり、ときに豊穣をもたらす。
つまるところ、八尾の稲荷を向こうに回すということを、誰も真剣に考えてなどいなかったのだ。
「どうしたんよ、突っ立って。ウチはさっきのお姉さんよりだいぶ弱いで?」
あ、それとも自己紹介しといたほうがええかな?
ウチの名前は今宵。ご覧の通りの稲荷で……旦那様のお嫁さん」
今宵と名乗った稲荷は、敵意がないことを示すように、あるいは単にからかうようにひらひらと手を振っている。
頬に手を当てて小躍りする様は、まさしく笑いどころとしか思えないほどの隙。
だからこそ、迂闊に飛び込むことなど不可能である。
見え見えの虎ばさみに踏み込む獣がいないのと同じ事。
だが、魔界においての膠着は常に魔物に味方する。
ただ水を飲み息をするだけで人の心身は容易く蝕まれていくからだ。
仕込みに半年をかけた術も、先だって相手にした青髪のサキュバスに大方を吹き飛ばされてしまった。
残されている時間はそれほど長くない。
「そうだな。始めるか」
こちらの声に応じて、稲荷が前を向いた。それこそが本当の隙。
意識を向けているつもりでも、まだ肉体がそれに適応できていない、一瞬というにはあまりにも短い刹那。人間であれ魔物であれ、およそ意識あるものが陥る絶対の死角。
こちらの手札とは、まさしくその死角を掠め取るための修練。微塵の迷いも刹那の悔いもなく、人に似た首を落とす覚悟。
意識するよりも思考するよりも速く、相応しい形に体が動く。全身がバネ仕掛けになって、集約された加速は手から山刀の重量を消す。
次の瞬間に聞いた音は、石壁に山刀が突き刺さる音。
「なかなかの業物みたいやけど、女の命が切れるほどやなかったなあ」
ちょうど首筋あたりの髪の毛を手櫛で梳いていた。鯨にでも打ち込んだかのような感触の正体は髪であったらしい。
眼前の稲荷の笑み、粘ついた水音、甘く蕩けた雌の匂い。痺れがひかない右手、自分だけが感じ取れるかすかな気配。
ありえない事態と、無遠慮に流れ込んでくる五感は必然的に混乱を生む。
だがそれすらも、今の襲撃者にとっては行動を起こすきっかけにしかならない。半歩を踏み込む。顔に息がかかる。気を抜けば酔いそうな甘い香り。
黒稲荷の髪が頬に触れる。
反転。
天井と、口元を押さえて笑う、黒稲荷の姿。
転ばせるつもりが転んでいたのだと気づくのに、瞬き三つほどの時間。
「西域に上人あり。経絡導引をよく修め、仙女を妻とし夜毎に法悦境に入る。
己のみが喜悦を得ることを恥じて、修めた技をもって妻をいたわり、閨に花を咲かせること大なり。
花拳ここに開闢す。
いやー……まさかこんなところでお目にかかれるとは思わへんたわ。
ちょっと荒いけどいい技やなー……」
やけに視界が広い。
魔界独特の湿った空気が頬から首筋に触れ、服の下をなぞってくる。
対魔力防御の要たるフードが、転がされたときに外されていた。
わざとらしく口元を押さえて稲荷が嘆息する。
「別嬪さんが顔隠して……あぁ、勿体な」
稲荷の声に驚きはない。
外套に隠れた胸元、鬱陶しいばかりの膨らみをなぞる指にも、退屈さに似たものを感じずにはいられない。
編み込んだ髪をほどく指先だけが、奇妙なほどに繊細だった。
そこまでは襲撃者にとっても予想の範疇だった。
妖怪に篭絡されるのを恐れるあまり、白粉を塗りたくり薫香を炊きしめて部屋の奥に閉じこもって出てこなかった若君がいたという。
十四の歳に牛鬼に攫われ、そのまま行方をくらましたと伝承は続く。
妖物は香でも消せぬ匂いや立ち居振舞い、あるいはもっと根本的な気配を感じ取り、男女の別を見極めるのだろう。
匂いを嗅ぐ鼻息が耳元で聞こえた。
羞恥とも怒りとも言いきれない熱が背筋を這いあがる。
稲荷が胸元を押さえるのは、2本の指のみ。
たったそれだけが、千斤の大岩となって反撃を試みようとする意志すら押さえ込む。
黒稲荷の表情は笑みをさらに深くし、今にも舌なめずりを始めそうだった。
おそらく最後の好機である。
この時をおいて他は、仕留める機会など訪れまい。
「そうだな。私の勝ちだ」
狐の聴力をもってやっと聞こえるような、呟いた本人すら定かでないような一言が、合図。
その一瞬だけ、襲撃者は黒稲荷に何の注意も向けていなかった。
得物は呪いがかりの長杖、始まりは柱の上。
飛び降りる勢いに合わせて全身の力を振り絞った大上段が、襲撃者もろともに稲荷の頭を打ち砕こうと降ってくる。
白い外套に埋もれきらずに伸びているのは、外套と対照的な、あまりに深い黒髪。
理想的な脱力が生む笑みに、がらんどうの眼。
戦者としては華奢にすら思える両の腕。
最後に見るのがそれだというなら、上々の部類だ。
五体から力が抜けていく。
唐突にやってくるまどろみに身を任せ、眼を瞑る。
大岩が、霞のように消えた。
次に感じたのは、革鞭を打つのに似て、乾いた音。
どう聞いても頬を平手で張る音だが、痛みも熱もない。
身体の自由がきくことを思い出して、首を動かせば、そこにあったものは。
「阿呆か!相棒が死んでたらどうする気やったんや!」
相棒を打擲し、怒声を発する、稲荷であった。
どこか作為的にさえ感じた、今までの余裕はどこにもない。
稲荷の目は怒りに満ちて涙に濡れ、口角から飛ぶ唾が見えるような錯覚すら感じる。
己の命を奪おうとしたものが諸共に死ぬのが許せない。
そんな義憤にしか思えなかった。
「……出来るだけ優しくするつもりやったんやけど……残念やな」
声の質が変わる。
目の光は単に獲物を捉えたというだけのものでは、すでにない。
どうしようもない失策を、襲撃者は悟らざるを得なかった。
今まさに、自分たちは八尾の稲荷を敵に回したのだ。
「黒曜!」
相棒はこの時まで棒立ちになっていた。
普段なら舌打ちのひとつもするところだが、今回ばかりは致し方ない。
敵に叱られたことなど、そう多くないだろう。
だが、いかに自失の最中にあろうとも、否、そうであるからこそ、骨身に染みた鍛錬というものは主を裏切ることはない。
こちらの言葉を理解する間など無かったろうに、慌ててこちらに戻ってくる。杖を構えて、視線を向けずに一言。
「鬼灯(ほおずき)、怪我は?」
今まさに殺そうとした相手の身を案じる、自分たちにとってはよくある話だ。諸共に殺さねばならないなら仕方ないが、死なずに済むならそれに越したことはない。
「大丈夫だ、黒曜」
襲撃者……鬼灯は改めて眼前の敵に向き直る。すでに視界は熱を持って潤み、動悸がここまで早くなったのはいつ以来か。
技量のほどを当人よりも知っているはずの黒曜が心配でならない。
ここは一度退くよりほかに取る道は無いかと諦めて、背を向けずに間合いを空けていく。
踵に触れるのは、血の気が退いていくような熱。
背後に迫っている、おぞましいまでの歓喜。
そちらに逃げようとしていて。そちらに行けば良いことがあるという確信があるのに。
意志や感情とは別の所が、大音量で警告を発していた。
「敵は逃がさへん。その壁を越えたら、もうアンタらは敵やない。
妖怪になって降伏するか、屈服して妖怪になるか。
好きなほう選んだらええわ」
真正面を向いて正中線はがら空き。
気怠げに降ろした両腕はぷらぷらと揺れている。
八つある尾と耳がそれに合わせて動いているあたり、奇妙なおかしみを感じさせ、それ故に何よりも恐ろしい。
目は寝起きよりもなお虚ろで、声といえば極北を吹き荒れる嵐とどちらが冷たいか。
前に進めば死地、後ろに下がれば人でなしの土俵際。
嘆息する稲荷の手は狐の形。
そこから巻き起こる黒い炎が獣の姿をしているので、かえって罠を疑いたくなる。
敵に姿をさらして真正面から戦わねばならぬ時点で、刺客としては下策もいいところ。
だというのに。
「つきあってもらうぞ、地獄まで」
「いつでも」
いつから己は痴れ者に堕したのだろう。戦いが楽しいようでは本当に救いがない。
合図どころか目配せもない。必殺の一撃を叩き込むべき時は骨身に染みてわかっている。
十歩に満たない間合いを詰めるまでに仕掛けた牽制は三十を超す。
蜘蛛の網もかくやという十重二十重の罠を張り、斬撃刺突の起点は常に死角。
だが。
八つある尾が振り返り、漆黒の毛並みがなびく。稲荷の口元に浮かぶ笑みは悪戯が図に乗った悪童のそれ。
己の失策を悟ったときにはもう遅い。
当然のように手足は制御を失い、腰と背中からバラバラに力が抜け、石畳に膝をつく。その感触が不思議と遠い。
稲荷が黒曜の胸元に伸ばす手には、狐火が宿っていた。
***
そこからどう動いたのか、事が終わったあとでも思い出すことができない。
天分も修練も与えてくれず、夢にすら見ることを許されなかった速度。
瞬きよりもなお速い刹那を己のものとした、自分自身。
それを、眼前の敵を屠るためではなく。
必要ならば己の命のように使い捨てるべし。そう言われて育った相棒を守るために、身を差し出したのだ。
悔いる間も省みる暇もない。息をつけるかどうかも怪しいところ。
痛みらしいものといえば、胸元に起こる一瞬の熱だけ。
体内に巻き起こるものは糸くずを火にかざしたような、水に墨を落としたような。
圧倒的で、取り返しのつかない変化。
説明はできない。理解も把握も及ばない。
人であればこそ、人とは何かという問いが永遠の命題となるように。
すでに変わってしまった以上、今の己について客観視などできるわけがないのだ。
場違いに澄んだ音は地面から。掌に忍ばせておいた呪い仕込みの毒針が石畳に当たって砕ける音。
それが自分の切り札であることは覚えている。千金を積んでも買えぬ代物であることも。
だが、それを十分に理解した上で、たいしたことではないと判断した。
時は夜明け前。頭の片隅にある刺客というものへの自負。
今立っているのは旧レスカティエ王城の最奥。示された目的地。眼前で蕩けた笑みを見せる黒毛の稲荷が敵であることもわかっている。
知っていて、わかっていてもなお。それらは、二の次だった。
振り返る。視界に目当てが写る。足を踏み出す。鎖に繋がれて川に流されたときのことを思い出す。
腕を広げる。心に比べて、なんと重い身体であることか。
獲物を前にした狼は何を考えているのだろう。案外、何も考えていないのではないかと鬼灯は思う。
目の前に獲物がいるというその事実こそが重要なのであって、己の内心など掻き消えてしまうような脆いものではないのか。
「黒曜っ……!」
半歩の距離が果てしなく遠い。背中に腕を巻き付けて、温もりが伝わる刹那が惜しい。
鼻から吸う息に雄の香気が乗っていないような気分になる。
頭の上と腰骨の先が、今まで感じたことのない何かを動かしていた。
黒曜が震えているのは、恐怖のためばかりではない。
無言のままこちらを見上げる怯えた目の奥に、どうしようもない劣情が透けて見えた。
もう耐えられない。耐えようとも思えない。
大口を開けた。涎が溢れて口元を伝う。己のものとは信じられない、甘く媚びた匂いが鼻につく。
「こぉら、そこまでにしとき」
首筋から冷気が血管に入り込み、そのまま全身を痛めつけ引き締める。
耐えられないほどではない。だが耐えられるが故に、耐えてしまう。それ以外の選択肢を身体が拒んでしまうのだ。
「それはそれで風流やけどね。花は秘してこそ、や」
視界の隅で何かが動いた。身体がやけに頼りない。生ぬるく湿った空気が、なぜか鋭敏に感じられる。
違和感を探ろうと視線を巡らせて、なぜか見慣れた肌色が視界に入る。
「……ッ!?」
膝を突く一瞬前に、黒曜の目に写るものが見えてしまった。一糸まとわぬ、自分の姿。
それを認識してしまっては、もう身動きが取れない。
頬まで上がってくる熱は羞恥。文字通り丸裸にされた無力感。さりとて後ろに下がるには、内側で蠢く獣性は強すぎた。
血の気が引いていき、また全身に回る。視線が床に落ちたままなのは、どういう顔を黒曜に向けていいのかわからないだけの話。
それでも視界の隅には、どうしようもなく黒曜が写る。今までそうしてきたように。
「はっ……ふっ……ぅうぅ……」
吐息に涙が混じる。視界が滲む。なぜこの無様を見て、相棒が先ほどよりも欲情しているのか。
肩に、布地が触れた。
絹地より滑らかで、日に干した綿入れのように暖かい。漆黒というにはどこか生々しい艶を備えた打ち掛けを、かき抱く。
「追われると逃げる。逃げると追う。殿方の習性って奴やろなあ……。ウチの旦那様は違うけど」
本人の前で言うことではないだろう。最後に残った理性が冷ややかにそう言う。そして理性が色事にかまけている事実を認識する。
鬼灯は、やっと己の敗北を噛みしめることができた。
視界に、闇が降りる。透けて見える赤色に、かすかに脈打つ温もり。その全ての源は、おそらく稲荷の掌。
「ほら、目ぇ閉じて」
目元に、濡れたような冷感がある。目元に凝り固まった熱が、音を立てて消えていくような気がした。
肌の表面をなぞる、刷毛のようなものは恐らく稲荷の尾。
ときおり毛先が皮膚をつついてくるせいで、感触に慣れることさえ許してくれない。
柔らかい熱に包まれていく。体の中心から何かが溶け出していって、その部分にぽっかり穴が空く。
溶け出したはずの自分が、考えている自分を囃し立てる。
その部分を何かで埋めようと、ふさがれた目の代わりに鋭敏になった耳と鼻が探り出そうとして。
全身が硬直した。体の節々にかんぬきをかけられたような、どうしようもない重みと固さ。
だがそこに不安はあっても恐怖はない。それは未知では無いからだ。鬼灯のよく知るジパングの封禁術、それも苦痛を伴わない類のもの。
「感じるだけで済まそうとしたらあかんよ。
想うことや。愛しい愛しいひとのことを、ちゃーんと考えてあげることや」
「く、ふっ……!?」
今宵の囁きは文字通り冷や水を差す感覚。
思考は冷たく冴えていくのに、悟性や理性と呼ばれるものはいっこうに回復してくれない。そう、優しく撫でる指が敵であるから、それを倒さねばならないといったようなことが。
そして冷感が次々と増えていく。正体は軟膏を塗られた札だとわかる。
護符を肌身離さず携えねばならないが、文身を刻むほどではない。
その問題に対する、ジパング術者の工夫。
冷感は熱になる。熱に変わって楔になる。下腹が溶けて、それが胃の腑にも飢えになって伝わる。
だが飢えはもはや鬼灯を動かす原動力たり得ない。全身に打たれた快楽の楔が、かえって体内を暴れ回る淫気と情欲を抑えてくれていた。
骨肉、皮膚、経絡を流れる力の流れ。
己という器からあふれ出るほどの力が、ただ呼吸するだけで整えられていく。
温もりが失せ、代わりに冷感がやってくる。
目隠し代わりに札が貼られ、冴えるとも蕩けるともつかない奇妙な感覚は、ますます強くなっていった。
視界を封じられたが故に、脳裏には見るよりもなお鮮やかに黒曜の涼しげな笑みが浮かぶ。
ただ襲いかかるだけでは意味がない。それでは己の飢えを示すだけで、どれほど黒曜の存在が自分にとって欠くべからざるものかを明らかにできない。
ではどうするべきか。そこから先が思いつかない。
自分の内側で暴れるけだものを押さえ込むのに必死になっているせいで。
それ以上それ以外を考える余裕がない。
「んー。難儀やねえ」
稲荷の声が飢えから降ってきた。そこにあるのは、昔を懐かしむとも恥じるともつかない苦笑いだった。
「妖怪になった言うてもな。
鬼灯ちゃんが鬼灯ちゃんで無くなったわけやない。
落ち着いて、楽に、やりやすいように動いてみ。
一番短い距離を一番早く、って業やないやろ?」
内側のけだものが言葉を覚えた。そういう感触が背筋を走る。
ずれていた骨組みが噛み合うような、間違えて覚えた手順を正しく覚えなおしたような。
そう、たとえて言うなら。
生まれて初めて米粒を箸でつまめた日のような感動。
修練を積み修羅場を潜ってきた戦いの間合いが、魔に堕ちてそのまま男を絡め取る手管に変わっていた。
追いかければ逃げる。では、忍び込めばいい。
手を前に突いて、腰を高く上げた。
紡ぐ言葉を思う。そして口に出す。
「鬼神の金剛縄をもって命ず。我が赤縁の縄のごとくに、彼のものを縛れ」
「ひっ……!?」
自分でも意外なほど、普段通りの声。
黒曜が息を呑む、嗜虐を煽る音。
裏切らぬまま敵に回るという未知ゆえの恐怖。
ぞくりぞくりと背筋を這い回る歓喜。
石畳を打つ水音は間違いなく涎であろう。
声の位置から、座った状態で柱に括りつけられたのだと、わかる。
身じろぎの音。呼吸の乱れ。冷や汗に混じるわずかな怯えの匂い。
血肉が上げる叫び声を修練と覚悟をもって押さえこむ、鬼灯にとって欠くべからざるもの。唯一無二の相棒。
服の合わせから黒曜の胸元へ、手を滑りこませる。
かすかな熱は仕込んであった魔除け矢避けの札が、燃え尽きたときのもの。
肌が火傷を負わないことは知っていた。だが、何かせずにはいられない。
それを狙い澄ましたように降ってくる、天啓のふりをした今宵の声。
「ほら、その粘りを塗ったげ。軟膏の要領や」
「うっ……!」
指を滑らせると、相棒の口から出るのは拒絶ではなく、その感触に甘えた己を恥じるような、喉を転がす音のみ。
「すけべ」
鬼灯の声に合わせて、黒曜の息に涙が混じる。
胸元をまさぐるうちに、手に触れた突起があった。鬼灯の布の下と同じように、硬いしこりになった乳首。
男は乳を出さぬのに、なぜ乳首があるのか。
聞くともなしに年寄りに問うた幼い日のことを思い出す。
知恵者に聞いても首をかしげるばかりであったその問いの答えを、今こそ鬼灯は手に入れた。
それは、女に弄ばれるためにあるのだ。
舌を這わせ、唾液を潤滑剤がわりにして指で転がし、後が残らぬよう甘く噛む。
「鬼灯、これっ、ほどいてっ……!」
快楽にのたうち回りながらの懇願など、夕餉の飾り付けにしかならない。
そのことを理解できなかったから、退魔は誰もかれもいずれ負けていくのだ。
黒曜の手首を掴んで、ツボを押さえる。
魔力妖力を流し込んで、反抗の意志ごと根こそぎにかかる。
「ふぁ、あ、あぁ……」
熱い湯に入ったときのように、相棒の声が蕩けていく。
逸る己を律することが、絵物語で読んだ抱擁に似ている。
たまに女たちがうそぶく、不自由ゆえの楽しみとはこのようなものだったのかと、今更ながらに思い知る。
黒曜の肌が熱い。息も熱い。見えぬからこそ、視線に籠もる情欲もまた、熱として感じられる。
それを探して、腰を密着させる。
「……っ。本当に、すけべ……」
生唾の音は、果たしてどちらのものだったか。
自分の腰から熱が溢れ、袴に液体となって染みていく。
似たような感触が、黒曜の腰からも伝わってくる。
黒曜の口が喉が、何か言葉を紡ごうと動く。
先手を取るには絶好の機会。
「……こんなすけべな男に、他の女を嫁がせるわけにはいかないなあ」
目元の符が剥がれて落ちた。怒りも悲しみも戸惑いも、おそらくは肉の悦びも。それらの全てが宙ぶらりんになった鬼灯の顔が見える。
桃色に淀んで濁った霊気の耳を生やした、己の顔が、その瞳の奥にある。
「鬼神の金剛縄に重ねて命ずる。諸共に我らを縛せ」
黒曜を柱に縛り付けていた、黒く濁る炎でできた糸が、首輪となってお互いを縄で繋ぐ。
「鬼灯っ、なにを……」
「床入り」
組み打ちの要領で襟首を掴み、そのまま後ろに倒れ込む。
そうして出来上がるのは、黒曜が鬼灯を押し倒した構図である。
「わたしになら、好きなだけすけべになっていいんだ」
胸元がひとりでにはだけていく。護符を書き込んだサラシが、火花と音を立てて破れる。
青髪のサキュバスの一刀。
編み込んでいた髪が解れて、頬にかかる。今まで押し込めていたものが、一気に解き放たれる快感。
「ほら」
手鞠ほどの大きさにまで育っていた乳房を持ち上げた。生唾を飲む音が聞こえる。
黒曜の視線が、面白いように揺らいだ。
相棒の中に、恐らく欠片ほどは残っていた稲荷への注意や警戒が、完全に意識の外へと追いやられた。他の誰にわからなくとも、鬼灯にはわかるのだ。
これでは色仕掛けを受けたときにどうするのやら、と自らを棚に上げて。
指先で、視線を胸元から腹へ誘う。首輪が細かく揺れて、赤黒い鎖がじゃらじゃらとわざとらしく音を立てた。
闇。
肌に稲妻。耳元に獣の息。股ぐらで混ざり合う二つの粘液。湧き上がる、いのちの匂い。
奔流に飲み込まれて、水の色を覚えておられぬようなもの。唇を塞がれて息ができない。
口の中で暴れていたものが黒曜の舌と気づいたのは、唾液の糸がふたりの間にかかってから。
背後に感じていたはずの、今宵の気配が消えていた。
「鬼灯っ……!」
乳房に指が伸びてくる。お世辞にも優雅とは言えない手つき。その荒々しさが、痛みと交互に快楽を連れてきた。
形を変える胸を見た。まるで餅だな、と人ごとのように思う。
そうでもしなければ、獣じみた声をあげてしまいそうだからだ。息を殺すことだけでさえ、一杯いっぱいなのに。
「鬼灯……、好き、好きっ……」
そういうことを言うものではない、と言おうとして、何か喉の奥に甘いものが詰まる。
長い髪の奥に手を伸ばして、櫛を入れるつもりで頭を撫でてやる。困ったことに、どうにも手が離れない。
ふたり分の甘い吐息に混じって、粘ついた水音。下腹から背筋を通って心をかき乱す、重い重い快感。
体の中に虚ろが出来て、それが溢れ出す。
「……黒曜……きて……」
て、を言い終わる前に、体の中で何かがちぎれた。
ひとのものになるという、支配のかたち。他人を、己の主というかたちに変える快楽。
黒曜から与えられるものは、痛みすら快楽に成り果てていた。
押し込まれるのを待ちきれなくて背中に手を回す。
引き抜かれるのに耐えられなくて足でしがみつく。
いつの間にか尻に回されていた手に、幻の尻尾を撫で回される。
お互いの涙が混じって、床に落ちた。
「……っ、くっ……鬼灯っ、もう……!」
その意味を解する前より早く、熱が体の一番奥まで打ち込まれる。血は知っている。肉も知っている。はらわただって何度も手に触れたことがある。
だがこれは知らない。まるで体の中すべてを火種に変えるように激烈なくせに。
布団のように一時だって離れていたくないような、こんな熱は。
「そう、か……これ、子種……黒曜の……」
自分の声が、腑に落ちたとき。胸の奥の飢えが色欲だとはっきり認識できる。
飽きもせず貪る黒曜を眺めながら、ゆっくり微睡みの中に落ちていった。
***
鳥の声に混ざって、男女の喘ぐ声。
ああ、良いものだとしがみついて固まった体を外そうとして。
「お目覚めー?」
からかうような笑みに、一気に引き戻された。声の主は今宵。自分をどうしようもなく狐憑きに変えてしまった、黒稲荷。
さてどう対処するべきか、と鬼灯は考える。腕の中で指を吸いながら眠る黒曜と思いを遂げさせてもらった恩人である。
しかし、未だに標的であることに違いはない。結果、鬼灯は何もできずに固まっていた。
「ああ、別にええんやけどね……鬼灯ちゃん、黒曜くん。依頼主さんにはウチのほうから話つけとくから……ウチに雇われてくれへん?
そやねえ……月に二十日のお休みと、金三十でどう?」
「は?」
「ちょっと調べてもろたんよ。
別に家名やら宗門やら背負ってるわけでもないみたいやからね。
ええ腕してる子らは何人いてもええし……。ウチも妹分欲しいし」
照れくさそうに耳が動き、尻尾がゆっくり左右に振れた。
金で引き抜こうとするのは珍しくもない。
だが、休みが報酬とはどういう意味だろう。
「その休みで、好きなだけ黒曜くんと子供こさえられるんやで?
ええと思わへん?」
まさしく殺し文句であった。首を縦に振らぬ妖などいようか。
***
レスカティエの王城内で、時折ジパング人の若夫婦が見受けられるのは、このような顛末によるのである。
13/04/09 23:37更新 / 青井