■第三次レスカティエ奪還作戦のための先行調査報告書
※以下は、暗号で書かれた文章をレスカティエ公立図書館で翻訳・抜粋し、時系列順に並べ替えたものである。
■第三次レスカティエ奪還作戦のための先行調査報告書
記:サンドラ=フローレ/同行者:アレクセイ=ガーネフ
○到着まで
……先日来の数度の夜間行軍の際、多数の魔物を目視・魔力で確認。
脅威度は低いものの、練度の低い兵士の行軍には適さない。
レスカティエの城壁を目視確認。カッツェブルグを出立して十日後。
旅程は別途記載。
周辺の日照量の減少および魔力濃度の急激な上昇を確認。魔界化を認識。
魔力拡散範囲は先日の予測より小規模。
防御術式は有効に作動中。隠蔽・偽装術式も、現時点では問題無し。
ただし、より原始的な反応で獲物を捕食しようとする触手植物には術式の効果が薄い。群生地は添付した地図を参照されたし。
魔力溜まりも多数目撃したが、出現の位置、範囲、時間などに法則性は確認できない。行軍の際、重大な障害となるであろうことが予想される。
※私的覚書
厳密にはレスカティエに到達してもいないというのに、往復したほどの疲労が身体に溜まっている。
魔物との接近遭遇や交戦は避けられたものの、
群生する触手植物や魔力溜まりを回避するために、
結果として困難なルートを選択せざるを得なかったためだ。
また、防御と隠蔽のための術式が身体に与える負担も予想以上に大きい。
術式構成は必要十分だが、理力強度には一考の余地があるのではないか。
しかし強度を落として魔力の影響を受けていては本末転倒だ。悩ましい。
相棒は相変わらず沈黙を保っている。
昔から感情を表に出さない人間だが、こういうときには頼もしく感じる。
さあ、これからが本番だ。
***
○城壁周辺
野営後、レスカティエ城壁周辺を探索。
周辺のスラムが教団の記録にあるより拡大している。早朝にも関わらず、男女の交わりと思しき声があちこちから聞こえてくる。
同行者の協力を得て、わざと足音を立てて走り回るも、反応するものは無し。直接的な妨害に及ばない限り障害とはならないと判断する。
ただし街路が複雑であるため、またスライム亜種や人造物由来の魔物が擬態あるいは潜伏しているため、行軍には適さない。
迂回もしくは焼却の要あり。
城壁の防備は全体に薄く、上役の目を盗んで睦みごとに励んでいる兵士も一体や二体ではない。
少数の騎兵や工兵による突破・開放が有効である可能性が高い。ただし、相当数のガーゴイルが彫像に擬態している。注意が必要。
同行者に魔物が警戒らしい視線を送ってくるが、筆者の存在に気付くとその視線を緩めた。
番と思ったようだ。潜入工作の際は男女二人組が有効だろう。防御術式を隠形から迷彩に切り替え、特に何事もなく城門を通過する。
誰何には堕落神の信徒を名乗るが、特に怪しまれる様子もなかった。
記述している時刻が深夜のため、宿舎についての報告は後の報告を参照されたし。
※私的覚書
いよいよ魔物の群れの中に潜むことになる。
失敗すれば私も連中の一員と成り果て、
昼日中だろうとあさましく男を求めることになるのだろうか。
冗談ではない。
断固として私は生還し、レスカティエを我々の手に取り戻す手助けをせねばならない。
我らが敵たる堕落神の信徒を名乗ったことは戒律上の罪科にはなるだろうが、大義のためとあればお目こぼしを要求してもそれほど酷い罰は受けまい。
帰ってきたら懺悔をしよう……といったようなことを相棒に言ったら、珍しく笑っていた。何かおかしいことでもあったろうか?
まあ、いいものが見れたからよしとする。
***
○宿屋
城壁内部の魔力量は膨大であり、夜間であっても魔力知覚の術式にはむしろ昼間よりも明るい。夜間の隠密行動はほぼ不可能と見るべき。
退路確保のため、宿は城門近くにとる。安宿だが調度や食事の質は高い。
補給は潤沢であると見るべきだろう。
食事。パンと家畜らしい乳、野菜スープにチーズ。
魔力汚染が比較的低いと思われるため。
ワインの原料果実は触手植物とのこと。任務中のため拒否。
体内の解毒・中和術式は正常に動作中。
驚くべきことに教団勢力下の諸通貨すら流通している。
親魔物国家からの貿易か、、あるいは密貿易が行われているものか。
本報告書の趣旨と反するのでこの方面の調査は行わない。
寝室は同室。防音・遮光の部屋を選ぶ。
魔法技術の発達と普及は重大な脅威となる。留意されたし。
同行者の協力を得て、迷彩と偽装を中心に防御術式を書き換える。
以後、本格的な探索に入る。
※私的覚書
嘘をつきすぎて死ぬかと思った。
宿屋のおかみには新婚夫婦であると言い、部屋を選ぶときには夫だけに独占させたいと機密性の高い部屋を選ぶ。
大きめとはいえ、寝台が一つしかないのはどういうことだ。
魔物にとって夫婦の寝室とはそういうものなのか?
どうしたものかと悩んでいると相棒が床で寝ると言い出した。
なぜその発想を持たなかったのだろう。
自分の思考回路が理解できないのは初めてだ。
ともあれ、本格的に隠密から迷彩へと隠蔽術式を切り替える。同行者の掌がこちらの肌を吸おうとしているかのようだ。
魔界の魔力に当てられでもしたものか。注意が必要だ。
術式の書き換えが終わったあとに理法院特製の「サキュバスのコロン」なるものを二人に振りかける。
私の体液に魔術的な加工を施して「私がサキュバスに転化した際の体臭」を偽装するとのことだ。
今回のような隠密任務のために開発されたものらしいが、被験者に魔物化の兆候が現れたため開発は中止となったらしい。
勇敢な被験者と制作者の冥福を祈ろう。
生きているかもしれないが……いや、やめておこう。その考えは冒涜的だ。
同行者はいい匂いだと言っていた。
それも冒涜的だ。帰ってから言わないように釘を刺しておかねば。
……私の冒涜が移ったのではないかと、益体もないことを考えてしまった。
***
○大通り/市場
先述の通り商店には物資が溢れている。見たことも聞いたこともないような品物もあり、魔界の交易ルートの広さを伺わせる。
また、使われている言語も多種多様に及び、中には訓練を受けた筆者ですら聞き分けられないものもあったが、商店主らしき魔物たちはそれらのすべてを流暢に使い分けていた。
産物の魔力汚染感知および除染措置の実験のために適当に購入する。
検証結果は後に記載する。
また、ほぼ全ての店で教団勢力下の諸通貨の流通が確認できた。
王宮へと至る目抜き通りには魔物とインキュバスの番がそこかしこで絡み合い、天然の歩哨となっている。
言語の問題と合わせて考えるなら、少なくともこの通りで破壊活動を行うのは得策ではないだろう。
また、“独り身”の魔物達は辻に立っては街娼まがいに道行く男を誘っていた……同行者が聞き出したところによれば一種の“見合い”であり、
番をこうやって探すのだという。練度の低い兵士やモラルの欠如した指揮官が籠絡される危険性大。
城壁を越えてから顕著になっているが、王宮に近づけば近づくほど魔力による汚染が深刻になっている。
魔力感知を通さない通常の五感ですら光って見えるほどだ。
迷彩用に調整した現在の術式では突破される危険もある。
同行者とも協力して新たな術式を構築する必要があるだろう。
探索を続行する。
※私的覚書
こと物質的な充足に限って言うなら、私の知るどんな大都市よりも豊かに見えた。規律を伴わない豊かさなど私はごめんだが。
両替商は“教皇保証”つきの通貨ですら嫌な顔も怪訝な態度も出さずに喜んで受け取っていた……我々が思っているほど、連中は我々を敵と思っていないのではないか?いや、まさか。
それにしても、何故相棒は色目を使って商店主と談笑し、あまつさえ街娼にすら声をかけているのだろうか。理不尽だ。腹立たしい。
……感情を抑えるのは得意だったはずなのだが。
これもまた理不尽で、腹立たしい。
***
○上下水道
大通り及び市場に関する調査と同日。
同行者の協力で上下水道の概観を把握する。
規模・密度ともに旧レスカティエと比べて爆発的に拡大しており、
スラムにすらそれらの恩恵は与えられていた。
補修のためにドワーフ族があちこちを駆け回っているのを何度か目撃する。
水脈の魔力汚染度はかなり高く、通常の魔力だけではなく闇精霊化したウンディーネの魔力を確認できる。
城壁外の下水槽近辺で山賊くずれと思しき男数人に絡まれる。
交戦の必要に迫られるも、戦端が開く前にバブルスライムの群生体が襲撃者を地下まで引きずり込んだ。
潜入経路として考えるなら、下水道は最悪であり、上水道はなお悪い。
同行者の行動もあり、負傷は無し。再び探索を続行する。
※私的覚書
夢のような話だ。
冷たく(魔力汚染さえ考えなければ)澄んだ水を好き放題に使えるとは。
湯浴みが毎晩行えるとは。
もしこの魔界と化したレスカティエに価値があるとすれば、この水脈の異様なまでの豊かさを置いて他にはあるまい。
だからこそ我々が奪還しなければ、というのはいささかお追従が過ぎる気もする。少なくとも我々の功績でないことだけは確かなのだから。
だが、危険度は極めて高い。魔物の巣窟か魔力の源泉かどちらかを選べ、というわけだ。
水質浄化と魔力中和によって得た水はひどく味気ない……味を気にできる状況ではないが。
相棒はひどくこちらを気にかけている。心配性も相変わらずだ。
このところ魔界に汚染されたような言行が目立つが、あるいは取り越し苦労だったのかもしれない。そうだといいな。
***
○飲食物
ほぼ全てが深刻なレベルでの魔力汚染を受けている。解毒は不可能ではないが、味や栄養価はかなり劣化しているものと判断する。
現地調達はほぼ不可能。我々(筆者と同行者のこと)と同等の術式適性を持つ兵団を構築する必要があるが、あまり現実的ではない。
なお、体内の術式で魔力の中和・分解が可能なレベルの汚染のみを受けていた飲食物に関しては非常な美味であり、魔術的解析によれば栄養価も豊富であった。
「釣り餌」として考えるのであれば、相当に危険度が高い。
食糧の現地調達はほぼ不可能と見るべきだろう。
※私的覚書
ホルスタウロスのミルクが旨い。
魔力汚染が比較的マシなものが魔物の体液だというのも、
なかなか皮肉な話ではある。
理法院で受けた説明と合わせて考えるなら、魔力は魔物の体内に残留し、“飲ませる”ことを目的とした体液、
たとえばホルスタウロスの母乳やアルラウネの蜜などには純粋な薬理作用だけが残る、ということではないだろうか。
配達に来たホルスタウロス本人もそう言っていた。
胸が大きいからってそれがなんだ。少し脱線した。
ただし、これは体液の保持者が望まない、あるいは何も考えなかった場合の話であって、たとえばホルスタウロスは、つがいや子に飲ませるための母乳にはたっぷり魔力を注ぎ込むのだという。
どういう気分なのだろう。搾っているときか、あるいは直に飲まれているというのは。また脱線した。
まず第一にやるべきはホルスタウロスの胸に無遠慮な視線を注いでいた相棒に説教してやることだ。
女性の価値は胸の大きさで決まるものではないし、
私が多少起伏に乏しい体型をしているからといって気に病んでいると思ったら大間違いだということを。
***
○王宮周辺/中央街・1
空間の拡大、時間の停滞、レッサーサキュバスの即時サキュバス化を確認。
魔力濃度が極めて大と判断。現行の防御術式では突破は困難。
同行者の協力を得て術式を再構築し、再び潜入を試みる。
※私的覚書
マイダンの溶鉱炉を直視しているような気分だった。
熱いとか眩しいといったようなことを感じるよりも、自分が場違いなところにいるという違和感が先に来る。
そして最大の恐怖。引き込まれたくなる恐怖。おそろしい。おそろしい。
…………どうやら取り乱してしまっていたようだ。
自分が回復できたことに気づくまで一晩かかるとは、情けない。
***
○王宮周辺/中央街・2
術式を再構築・強化して再度王宮周辺の探索に入る。
「我らが信仰のごとく」純白であった城壁は桃色がかった漆黒に塗られた未知の素材で作られている。
石畳といわず壁面といわず、ローパーのものと思しき触手が蠢き、ときおり侵入者、あるいは来客を絡め取っていた。
防御措置を取っていなければ同行者もろとも飲み込まれることになるだろう。
何もないように見えた場所から触手の出現を数度確認。
通常のローパーが犠牲者の衣服に偽装するように、建造物に擬態している可能性がある。
進軍すれば軍勢もろとも飲み込まれる危険性が高い。
攻城兵器あるいは大規模魔法による間接攻撃を推奨する。
擬態が疑われる部分を排除した内門までの予測構造図を別途添付する。
参照されたし。
※私的覚書
盲点といえば盲点だった。
口が「体の外側」であるという認識が欠けていた。
だが内側に針で刺青を入れるわけにはいかず、
さりとて通常の儀式に使う薬は口の中に入れるには強すぎた。
アレクセイが「魔術に適し、毒にならず、魔力を除染しても薬理を失わない」という鎧の上から心臓を撃ち抜くような軟膏の製法を知っていなければ王宮の探索を諦めていただろう。
施術者の体液を供給しなければならないのが難点といえば難点だが、
探索が続けられなくなるよりはずっといい。
つくづく思うが、兵隊を辞めても薬師としてやっていけると思う。
……やめておこう。薬屋のおかみがつとまる柄でもない。
***
○魔力汚染経過・1
体調不良。
疾病予防の術式が発動していなかったことから、
魔界特有の風土病の可能性がある。
解熱・鎮痛の術式も効果が希薄。既知の病原ではないのか?
※私的覚書
微熱、酩酊感、過度の高揚。人体の魔力汚染の症状と合致。
薬の服用、アレクセイの整体、術式の再調整、唾液の経口投与を受けて一時的に鎮静化。
ことに唾液投与の効果は覿面であり、この文章も半ば唾を与えられながら書いているようなものだ。
極上の葡萄酒のように甘く、身体の中に熱となって残る。
そのくせ思考は鈍るどころかますます明晰になり、筆も進む。
……アレクが離れた。
○魔力汚染経過・2
投薬 整体 復調遅れ。行動 支障なし 思考 まとまらず。要観察。
※私 覚
とろけている。乾く。熱い。寒い。矛盾。アレクセイ、欲しい。
アレク、どこ?
○魔力汚染経過・3
先日来の体調不良は魔力汚染の症状と合致した。
正しければ12日目で「要塞級」の防御が突破されたということになる。
解毒・解呪に3日を要した。自覚できる後遺症は無し。
同行者アレクセイ=ガーネフは最上位の癒し手であることを追記しておく。
長期の攻城戦・市街戦は事実上不可能であると結論する。
少数精鋭精力による暗殺か広域殲滅魔法による都市全域の爆撃以外に方法は無いのではないか。
※私的覚書
投薬と整体によって魔力の影響はほぼ除去されたと見ていい。
どうやら人は羞恥では死なないらしいとわかった。とはいえ魔力が人間の心身に与える影響を残す意味で、先日の覚書は破棄しないことにした。
まさかアレクに素肌を見られて素手で触られるぐらいで恥ずかしがるとは、本当にどうかしている。
先日来、アレクが何やら視線を逸らすことが多くなった。
何かやましいことでもあるのだろうか。監視を強めねばなるまい。
そう、たとえば入浴まで共にしてみるとか。
***
○軍港・港湾地帯
予定を一部変更する。
魔力汚染を回避するために王宮の探索をいったん中止。
王都から離れてレスカティエ軍港へ向かう。
移動速度と機密性を考慮し、馬車を一台借り上げる。
街道は多くの馬車や旅人で賑わっていた。
聖都へ向かう巡礼者や主要国家間の交易に匹敵する規模であろうと思われる。
工兵隊と思しきジャイアントアントの群れ、伝令・巡察を兼ねているであろうケンタウロス部隊を数度目撃。
さらに王都へ向かう“旧態”のドラゴンを軍港到着までに二度目撃。
目視した情報と伝聞情報を合わせてドラゴン遊弋の予測ルートを添付。参照されたし。
王都から軍港への所要時間は記録に残っているものより三割ほど短い。
街道は整備されており、野生動物や山賊の類が出てくることもなかった。
軍港へ到着。記録にあるものより小型船が多いが、親魔物国家のものと思われる大型船も多数確認できる。
ガレー船の船影は確認できず。魔物の助力によって海流や風向き、風速を予測・制御可能な故と思われる。
上空はハーピー種が飛び交い、沖の海面ではマーメイド種が談笑している。
夜間においてはそれぞれの歌が相乗効果を発揮。
防御術式のいくつかが無力化されるも、アレクセイの努力もあって即時修復に成功。
魔力汚染の影響はごく軽微。
また、海面に地形上ありえない渦潮が不規則に出現していた。
カリュブディスが海底に潜伏している可能性大。
アレクセイから海路による一時撤退を進言されるも、これを却下する。
まだ調査は完了していないと判断できること、魔力汚染が再度発生しつつあること、再調査に適当な人物がいないであろうこと、を理由としてあげる。
船便を利用し、交易国家へ偽装した文書を提出する。
無事に到着することを祈る。
※私的覚書
いよいよ我々の勝ち目が薄くなってきたように思う。
陸路の直進はほぼ不可能。海路は緩慢な自殺。
飛船か何かを用意して空を飛ぼうものならドラゴンの餌食だ。
……餌食といっても食糧にするわけでは無いようだが。
少数精鋭の戦力を用意しようにも、一番それに適した「勇者」を投入するためのレスカティエが陥落しているというジレンマがある。
まあ、私の仕事は作戦を立案することではなくレスカティエの調査だ。
報告には書けなかったが帰りは乗り合い馬車を使った。
アレクは渋ったが理由がわからない。
夫婦の偽装をしなければ怪しまれるだけだというのに。
アレクが魅了されるのを防ぐために膝の上に座り、視線をこちらの顔に固定させる。
これであの魔物どもの色目が私のアレクに向かなくてすむというものだ。
それにしても唾液の供給や皮膚同士の接触が頻度・時間ともに増えてしまっている。術式の調整は申し出るまで待ってやろう。私は慈悲深いのだ。
どうせ、まだもうしばらくはここにいる。
まだしばらくは、アレクと一緒にいられる。
ああ、そういえば何故アレクは帰ろうとしたのだろう?私と一緒にいたくないとしたら……少し強引になったほうがいいのかもしれない。
***
○森林
軍港より離脱後、王宮周辺の魔力汚染の影響を避けるために、浄化が終わるまでの間王都城壁の外側の探索に入る。
アレクセイより資金調達の申し出を受けており、その手段となるであろう薬種の調達も兼ねてのことである。
教団より支給されていた約20日分の滞在・調査費用は一ヶ月を超えた現状においても、さらに一ヶ月程度の滞在が可能である。
これらは魔物に「費用」という概念が希薄であり、生活費も異様なまでに低く抑えられていることが原因であろう。
井戸代も臼代もかまど代も払わなくて済む、という世界が神々の国以外にあるとは。……これ自体が何かの罠である可能性も否定できない。
余力は残されているが、しかし備えも必要である、というアレクセイの判断は妥当なものであろうと確信する。
森が法の及ばぬところである、というのはたとえ魔界であれ同じようだ。
一応秩序らしきものを作っていた市街とは異なり、文字通りけだものの如く獲物……多くは人間の男性であるが、同族をより短絡的に増やすべく女性も襲っているようだ……に襲いかかり、思うさま男を貪っている。
我々が獲物として認識されていないのは潜入初日に使用した「サキュバスのコロン」の効果であろうと思われる。
理法院で受けた説明よりもずっと効果が長い。理由については調査中。
アレクセイが薬草(我々の知る薬草と同じか、その近縁種が魔力汚染を受けたものと思われる)や動物、ある種の鉱物から薬理成分を抽出、薬品へと加工する。
市場においてどれほどの価値が得られるものであろうか。
※私的覚書
強い酒を飲むようだったレスカティエ市街の魔力とは違い、森の魔力はもっと複雑で、その分飽きが来ない。
この表現は不穏当の極みであろうが、これが私の実感だった。
それにしてもアレクセイにはつくづく頭が下がる……私が一人であればとうに私はサキュバスに堕ちていただろう。
感謝しても、どうせ軽く笑うだけなのだろうけれども。憎らしい。
***
○旧軍事施設
予測よりも早く魔力汚染の浄化が終わったことから、王都郊外にある練兵場跡に潜入。アレクセイの技量が上がっているのは喜ばしいことだ。
王宮同様に素材から魔力汚染を受けており、意図的なものであるかどうかは不明だが、外部への魔力漏洩を防ぐ類の魔法結界が敷設されていた。
内部は外観より広大な面積を有しているように見え、構造上のトリックというより、なにがしかの魔法が働いているものと思われる。
レスカティエ建国の伝説が記されていたというレリーフは取り外され、人とラミア種が淫らに絡み合う様を描いたものに掛け替えられているほか、教団の資料にあった蛇神信仰の神殿の様式とほぼ合致する。
まるで魔物がそのまま石になったかのような臨場感だ。特に逃げ場を封じるように男を絡め取るエキドナの姿は見事の一言であった。
心臓や下腹部を中心に内臓の不調を感じるも、行動に支障はない。アレクセイの顔がちらついて離れない。行動に支障はない。
芝生が植えられていることには変わりがないようだが、紫色をした魔界の植物であるようだ。
遠目からも柔らかく、絨毯と言われても信じたかもしれない。見分けられたのはアレクセイのおかげだ。
多種多様な魔物たちが番いから様々な方法で精を搾り取っている。
しばらく観察するが、男性が死ぬようなことはなく、また過度の苦痛を感じているようにも見えない。
また、通説定説とは異なり、魔物たちは執拗なまでに一人の番いにこだわっていて、夫を次から次に取り替えるようなことはない。
それは男のほうも同じようで、妻と定めた魔物以外には触れようともしなかった。ただし、妻を複数持つ夫はいたようだが。
いっそ我々の貴族よりも貞節という意味では上回っているのかもしれない。
中央には全体を見下ろせるほどに高いやぐらが組まれ、そこにはエキドナ種と思しき魔物が番の男性にからみつきながら眼下の魔物の交わり方に指示を出していた。
隻眼その他の特徴からレスカティエに勇者として登録されていたメルセ・ダスカロスと推定する。
これが他人の空似でなく本人であったなら、最上位の魔物であるエキドナ種へと人間を変化させられる何かがレスカティエに居ることになる。
帰還者の何人かが目撃したというリリムの情報も、確度をあげるべきと判断する。
※私的覚書
蛇、蛇、蛇。とにかく蛇だった。
まとわりつき絡みついてぐるぐる巻いて離さない。
ああいう風になるのも悪くないかもしれない……アレクが喜ぶかどうかはともかく。
気になるのはメルセ・ダスカロス(あるいは他人の空似)だ。時折こちらを向いていた視線は確実に我々の存在を認識していた。
放っておかれたのか何か別の意図があったのか……ともあれ私たちの戦力では交戦自体が不可能だ。無事をひとまずは喜ぼう。
そういえば、まだ唾液をアレクからもらっていなかった。
頻度も必要とする量もさらに増えている。最近お腹が空かないのと何か関係があるのだろうか?
それにしても、また聖都に戻れるのかどうか。
レスカティエの城門をくぐった時、帰ってきたのだな、と思ってしまった。
戻ろうとしているのかどうか……アレクがいれば、どこでもいいか。
***
○薬品商
アレクセイが調合した薬品の買い取り先を求めて市場を散策する。
店主達や常連客から、目抜き通りから少し離れた場所にある店を紹介されたので、そちらに向かうことにする。
「魔界の薬屋」という言葉からくる禍々しい印象とは異なり、雑然とはしていたが清潔感があり、緊張がほぐれていく。
店番は小さな女の子に見えるが、醸し出す気配からは老成した雰囲気が漂っている。
おそらくは魔女の類と思われるが、こちらに敵意がないので取引を続行。
これまでと同程度の生活水準が続くと仮定した場合、15日前後の生活費に相当する額で買い取られた。
棚に並んでいるのは種類はともあれ「閨の薬」で、いわゆる「普通の薬」は需要に比べて供給が少ないらしい。
少々の傷なら風邪程度なら自然に治るか、性行為を通じて魔力を融通することで早く治るから、というのが理由だそうだ。
つまり「少々の傷でなく、しかも魔法を使えない」という層に対する即時医療は遅れてしまう危険性がある、ということでもある。
継続的な取引を行うのなら、それらに関しても買い取る用意があるとの申し出を受けた。アレクセイは渋っていたがこれを了承する。
研究材料として棚にあった媚薬や魔法薬を購入。
これを解析・中和することでより効率的に魔力を浄化、
あるいは予防することを目論んでのことである。
被験者は筆者が行う。
体調や魔力汚染の経緯を記録しているため、記録を取りやすいこと。
アレクセイの治療技能を越えるものが教団内でもごく少数であることが、理由である。
※私的覚書
とんとん拍子には気をつけろ。
諜報員の心得というより生活の知恵と言っていいような話ではあるが、この日に起こったことすべてが罠だとしてもそれほど驚くには値しない。
だが、離れない一つの考えがある。彼らは我々の敵であるが、我々は彼らの敵ではない。敵とみなしていない。これはもはや確信だ。
毒薬や病気を誘発する薬はアレクの解析でも出てこなかった。媚薬や魔力汚染は彼らの価値観において悪でない以上、彼らは人間に敵意を持っていない。
彼らは基本的に善良である。
あるいは悪意を持つほどこちらに注意を払っていないのではないだろうか?
すでに伴侶を得て人生を満足いくものとしているのだ。
悪事を働くほど暇ではないのだろう。
教団に見つかれば火あぶりものだが……なら、その前に色々アレクに言っておかないと。
***
○休日
レスカティエ王都に戻って最初の安息日(基本的に暦は我々と同一のものを使用している)。先日購入した薬品はまだ服用せず。
王宮方面から莫大な魔力の奔流を感知。「赤みがかった黒い光」としか表現できない。速度自体は遅く、目視できる射程はほぼレスカティエ全域。
以前、数度の安息日にも感知した魔力の流れと同一のものと判断できる。
これが人間の魔法によるものであれば、たとえ敵意が無くとも破壊的な影響を及ぼすであろう、そういう魔力量である。
たとえば滝の流水は自然の理によるものだが、下手に当たれば打たれたところが痛み、石でも流れてくれば命の危険さえあるように。
だが、以前と同じく王都の住民に警戒や恐怖の色はない。むしろ自分のほうに飛んでこなかったことを惜しんでいるようだ。
住民から聞き込みを行った結果、王宮に住んでいる魔物の誰かが安息日やその他休日のたびに魔力を放出しているらしかった。
それを浴びた人間や魔物は極度に発情し、夫あるいは妻を持つものはその相手と、持っていなければそうなれるものを探して契りを結ぶとのことだ。
休日のたびに賜る宝のようなものなのだろう。
黒い光が視界を覆ったのを最後に、しばらく意識を失っていたらしい。
アレクが私の体を抱きかかえ、心配そうにこちらを見下ろしている。
何かに耐えているようにも見える。可愛い。
全身の感覚が鋭敏になっている。アレクの心臓の音すら聞こえてきそうだ。
男の匂いが漂ってくる。熱い。
魔力の塊を浴びたことで、防御術式のいくつかが機能不全に陥っている。
以前の症状と合わせて考えると、確実に私の心身は魔力に汚染されている。
だが私はいたって正常である。アレク以外の「男」がこの世にいるのだと考えつきもしない。
これはきっと愛のなせる業だ。愛があれば魔力汚染の影響を受けない精神を持つことができるのだ。なんという発見だ。
魔界への潜入任務はお互いに心を通じた、あるいは恋情をどちらかに抱いている男女であるべきだ。私たちのように。
※私的覚書
安息日が終わった後でこの文章を読み返している……いささか冷静さを欠いているが、この認識は間違いなく事実である。
祝杯でもあげたい気分だ。……アレクがどうにも浮かない顔なのが気にかかる。長い魔界の夜を利用して根掘り葉掘り聞き出してやろうか。
○治療行為
アレクから相談を受ける。
私が真実に開眼した安息日以降、単独行動が増えたり、自室に籠もって魔法陣が記された巻物や書物を広げていた。
何か背信行為を行っていたものかと緊張するも、杞憂。
安息日に今まで施されていた魔法そのもの、それも術式の根幹部分が魔力の汚染を受けていたというのだ。
考慮するべき可能性だった。魔界で生産されたゴーレムはときに命令を無視して己の心のままに動くという。
これはつまり魔力そのものがある種の指向性を持っている証拠である。
魔法によって動くゴーレムがその影響を受けるというのであれば、全く同じ理屈で防御術式が汚染されていても不思議はないのだ。
だが、何の問題があるだろう。私は人格を汚染されずに済んでいるし、アレクを愛している心になんの曇りもない。
それよりも、アレクのほうが問題だ。
安息日以降、精の匂いがひどく強力になり、目を伏せているつもりでも私に向ける欲望は日に日に強さを増している。
体質の関係上、アレクは彼自身に私と同程度の防御術式を施すことができない。
インキュバス化の危険を避けるために、精液を排出させる必要がある。方法については問題なく実行できると確信する。
魔力に方向性があるように、精神に投影された魔物の魔力は男性が持つ獣性を刺激するための方法を伝授するのだ。
サキュバスと化してしまえば無垢な村娘も百戦錬磨の娼婦が裸足で逃げ出すだけの技術を持つのは、おそらくこれが原因である。
まさか魔物も、自ら与えた技術で魔物化の進行を止められるとは思っていまい。これはまさに人間の勝利だと誇りをもって断言する。
※私的覚書
……不覚を取ったような、全てが上手くいっているような、矛盾した気分が消えない。
結論を先に書こう。私の処女はアレクに捧げることになった。
痛みはすでに消え、ただ餓えたような疼きが下腹にあるばかりだ。
薬屋の魔女は「精液は万能薬である」といった。それは正しい。
心身にあった違和感はほぼ完全に消え去り、今までの20年足らずの人生で最も充実した体調だ。
今なら王宮に突入しても無事に帰ってこられるだろう。
それにしても、この世にこれほど甘美な夜があるとは。
……アレクが、あんなに優しくて、激しい男だったとは。
この夜にもらったキスを、触られたところを、押し込まれた痛みとその後に来た悦楽を、私は生涯忘れないだろう。
○身体変化
インキュバス化を防ぐ処置を行ったところ、アレクの体内に残留していた魔力の影響を受けたものか、角、羽根、尻尾といった器官が生成されていた。
肉体はほぼ完全にサキュバス化したようだが、
精神は未だに平衡を保っている。
感覚は鋭敏になり、思考は性的なものへと流れる傾向があるが、日常生活には支障がない。
常にアレクを欲して止まないのはこれ以上の魔力侵食を防ぐべきであるというエロス神のご加護だろう。
筆者は信仰においてそれほど優秀であるとは言えなかったが、レスカティエに来て考えを変えた。寝室にイコンを飾らねばならない。
私とアレクが愛し合う様をご覧になっていただければよいのだが。
※私的覚書
書くことがなくなった……というより、書いている暇があるならアレクに触れねばならない。アレクを味わいたい。そうだ、アレクのところにいこう。
○総括
以上をもってレスカティエ奪還のための報告書をいったん結ぶ。
レスカティエ再侵攻のために必要なものは大軍ではない。
最悪の場合、レスカティエに到達する前に魔界の餌食となる。
少数の精鋭、それも情愛と信頼によって結ばれた男女によって構成された一軍をもって、
王宮を突破、首魁を討ち果たすのが最も現実的な方法だろう。
魔物化という尊い犠牲は払わねばならないが、精神や自我は伴侶への情愛がある限り保たれる。
そうすれば魔物の能力と人間の理性を備えた軍隊が構成できるというわけだ。
王宮のより詳細な構造や王宮内の戦力については、後日報告する。
無事に帰還できればよいのだが。
いや、問題ない。私には愛する人がいる。それだけで私は無敵になれる。
■第三次レスカティエ奪還作戦のための先行調査報告書
記:サンドラ=フローレ/同行者:アレクセイ=ガーネフ
○到着まで
……先日来の数度の夜間行軍の際、多数の魔物を目視・魔力で確認。
脅威度は低いものの、練度の低い兵士の行軍には適さない。
レスカティエの城壁を目視確認。カッツェブルグを出立して十日後。
旅程は別途記載。
周辺の日照量の減少および魔力濃度の急激な上昇を確認。魔界化を認識。
魔力拡散範囲は先日の予測より小規模。
防御術式は有効に作動中。隠蔽・偽装術式も、現時点では問題無し。
ただし、より原始的な反応で獲物を捕食しようとする触手植物には術式の効果が薄い。群生地は添付した地図を参照されたし。
魔力溜まりも多数目撃したが、出現の位置、範囲、時間などに法則性は確認できない。行軍の際、重大な障害となるであろうことが予想される。
※私的覚書
厳密にはレスカティエに到達してもいないというのに、往復したほどの疲労が身体に溜まっている。
魔物との接近遭遇や交戦は避けられたものの、
群生する触手植物や魔力溜まりを回避するために、
結果として困難なルートを選択せざるを得なかったためだ。
また、防御と隠蔽のための術式が身体に与える負担も予想以上に大きい。
術式構成は必要十分だが、理力強度には一考の余地があるのではないか。
しかし強度を落として魔力の影響を受けていては本末転倒だ。悩ましい。
相棒は相変わらず沈黙を保っている。
昔から感情を表に出さない人間だが、こういうときには頼もしく感じる。
さあ、これからが本番だ。
***
○城壁周辺
野営後、レスカティエ城壁周辺を探索。
周辺のスラムが教団の記録にあるより拡大している。早朝にも関わらず、男女の交わりと思しき声があちこちから聞こえてくる。
同行者の協力を得て、わざと足音を立てて走り回るも、反応するものは無し。直接的な妨害に及ばない限り障害とはならないと判断する。
ただし街路が複雑であるため、またスライム亜種や人造物由来の魔物が擬態あるいは潜伏しているため、行軍には適さない。
迂回もしくは焼却の要あり。
城壁の防備は全体に薄く、上役の目を盗んで睦みごとに励んでいる兵士も一体や二体ではない。
少数の騎兵や工兵による突破・開放が有効である可能性が高い。ただし、相当数のガーゴイルが彫像に擬態している。注意が必要。
同行者に魔物が警戒らしい視線を送ってくるが、筆者の存在に気付くとその視線を緩めた。
番と思ったようだ。潜入工作の際は男女二人組が有効だろう。防御術式を隠形から迷彩に切り替え、特に何事もなく城門を通過する。
誰何には堕落神の信徒を名乗るが、特に怪しまれる様子もなかった。
記述している時刻が深夜のため、宿舎についての報告は後の報告を参照されたし。
※私的覚書
いよいよ魔物の群れの中に潜むことになる。
失敗すれば私も連中の一員と成り果て、
昼日中だろうとあさましく男を求めることになるのだろうか。
冗談ではない。
断固として私は生還し、レスカティエを我々の手に取り戻す手助けをせねばならない。
我らが敵たる堕落神の信徒を名乗ったことは戒律上の罪科にはなるだろうが、大義のためとあればお目こぼしを要求してもそれほど酷い罰は受けまい。
帰ってきたら懺悔をしよう……といったようなことを相棒に言ったら、珍しく笑っていた。何かおかしいことでもあったろうか?
まあ、いいものが見れたからよしとする。
***
○宿屋
城壁内部の魔力量は膨大であり、夜間であっても魔力知覚の術式にはむしろ昼間よりも明るい。夜間の隠密行動はほぼ不可能と見るべき。
退路確保のため、宿は城門近くにとる。安宿だが調度や食事の質は高い。
補給は潤沢であると見るべきだろう。
食事。パンと家畜らしい乳、野菜スープにチーズ。
魔力汚染が比較的低いと思われるため。
ワインの原料果実は触手植物とのこと。任務中のため拒否。
体内の解毒・中和術式は正常に動作中。
驚くべきことに教団勢力下の諸通貨すら流通している。
親魔物国家からの貿易か、、あるいは密貿易が行われているものか。
本報告書の趣旨と反するのでこの方面の調査は行わない。
寝室は同室。防音・遮光の部屋を選ぶ。
魔法技術の発達と普及は重大な脅威となる。留意されたし。
同行者の協力を得て、迷彩と偽装を中心に防御術式を書き換える。
以後、本格的な探索に入る。
※私的覚書
嘘をつきすぎて死ぬかと思った。
宿屋のおかみには新婚夫婦であると言い、部屋を選ぶときには夫だけに独占させたいと機密性の高い部屋を選ぶ。
大きめとはいえ、寝台が一つしかないのはどういうことだ。
魔物にとって夫婦の寝室とはそういうものなのか?
どうしたものかと悩んでいると相棒が床で寝ると言い出した。
なぜその発想を持たなかったのだろう。
自分の思考回路が理解できないのは初めてだ。
ともあれ、本格的に隠密から迷彩へと隠蔽術式を切り替える。同行者の掌がこちらの肌を吸おうとしているかのようだ。
魔界の魔力に当てられでもしたものか。注意が必要だ。
術式の書き換えが終わったあとに理法院特製の「サキュバスのコロン」なるものを二人に振りかける。
私の体液に魔術的な加工を施して「私がサキュバスに転化した際の体臭」を偽装するとのことだ。
今回のような隠密任務のために開発されたものらしいが、被験者に魔物化の兆候が現れたため開発は中止となったらしい。
勇敢な被験者と制作者の冥福を祈ろう。
生きているかもしれないが……いや、やめておこう。その考えは冒涜的だ。
同行者はいい匂いだと言っていた。
それも冒涜的だ。帰ってから言わないように釘を刺しておかねば。
……私の冒涜が移ったのではないかと、益体もないことを考えてしまった。
***
○大通り/市場
先述の通り商店には物資が溢れている。見たことも聞いたこともないような品物もあり、魔界の交易ルートの広さを伺わせる。
また、使われている言語も多種多様に及び、中には訓練を受けた筆者ですら聞き分けられないものもあったが、商店主らしき魔物たちはそれらのすべてを流暢に使い分けていた。
産物の魔力汚染感知および除染措置の実験のために適当に購入する。
検証結果は後に記載する。
また、ほぼ全ての店で教団勢力下の諸通貨の流通が確認できた。
王宮へと至る目抜き通りには魔物とインキュバスの番がそこかしこで絡み合い、天然の歩哨となっている。
言語の問題と合わせて考えるなら、少なくともこの通りで破壊活動を行うのは得策ではないだろう。
また、“独り身”の魔物達は辻に立っては街娼まがいに道行く男を誘っていた……同行者が聞き出したところによれば一種の“見合い”であり、
番をこうやって探すのだという。練度の低い兵士やモラルの欠如した指揮官が籠絡される危険性大。
城壁を越えてから顕著になっているが、王宮に近づけば近づくほど魔力による汚染が深刻になっている。
魔力感知を通さない通常の五感ですら光って見えるほどだ。
迷彩用に調整した現在の術式では突破される危険もある。
同行者とも協力して新たな術式を構築する必要があるだろう。
探索を続行する。
※私的覚書
こと物質的な充足に限って言うなら、私の知るどんな大都市よりも豊かに見えた。規律を伴わない豊かさなど私はごめんだが。
両替商は“教皇保証”つきの通貨ですら嫌な顔も怪訝な態度も出さずに喜んで受け取っていた……我々が思っているほど、連中は我々を敵と思っていないのではないか?いや、まさか。
それにしても、何故相棒は色目を使って商店主と談笑し、あまつさえ街娼にすら声をかけているのだろうか。理不尽だ。腹立たしい。
……感情を抑えるのは得意だったはずなのだが。
これもまた理不尽で、腹立たしい。
***
○上下水道
大通り及び市場に関する調査と同日。
同行者の協力で上下水道の概観を把握する。
規模・密度ともに旧レスカティエと比べて爆発的に拡大しており、
スラムにすらそれらの恩恵は与えられていた。
補修のためにドワーフ族があちこちを駆け回っているのを何度か目撃する。
水脈の魔力汚染度はかなり高く、通常の魔力だけではなく闇精霊化したウンディーネの魔力を確認できる。
城壁外の下水槽近辺で山賊くずれと思しき男数人に絡まれる。
交戦の必要に迫られるも、戦端が開く前にバブルスライムの群生体が襲撃者を地下まで引きずり込んだ。
潜入経路として考えるなら、下水道は最悪であり、上水道はなお悪い。
同行者の行動もあり、負傷は無し。再び探索を続行する。
※私的覚書
夢のような話だ。
冷たく(魔力汚染さえ考えなければ)澄んだ水を好き放題に使えるとは。
湯浴みが毎晩行えるとは。
もしこの魔界と化したレスカティエに価値があるとすれば、この水脈の異様なまでの豊かさを置いて他にはあるまい。
だからこそ我々が奪還しなければ、というのはいささかお追従が過ぎる気もする。少なくとも我々の功績でないことだけは確かなのだから。
だが、危険度は極めて高い。魔物の巣窟か魔力の源泉かどちらかを選べ、というわけだ。
水質浄化と魔力中和によって得た水はひどく味気ない……味を気にできる状況ではないが。
相棒はひどくこちらを気にかけている。心配性も相変わらずだ。
このところ魔界に汚染されたような言行が目立つが、あるいは取り越し苦労だったのかもしれない。そうだといいな。
***
○飲食物
ほぼ全てが深刻なレベルでの魔力汚染を受けている。解毒は不可能ではないが、味や栄養価はかなり劣化しているものと判断する。
現地調達はほぼ不可能。我々(筆者と同行者のこと)と同等の術式適性を持つ兵団を構築する必要があるが、あまり現実的ではない。
なお、体内の術式で魔力の中和・分解が可能なレベルの汚染のみを受けていた飲食物に関しては非常な美味であり、魔術的解析によれば栄養価も豊富であった。
「釣り餌」として考えるのであれば、相当に危険度が高い。
食糧の現地調達はほぼ不可能と見るべきだろう。
※私的覚書
ホルスタウロスのミルクが旨い。
魔力汚染が比較的マシなものが魔物の体液だというのも、
なかなか皮肉な話ではある。
理法院で受けた説明と合わせて考えるなら、魔力は魔物の体内に残留し、“飲ませる”ことを目的とした体液、
たとえばホルスタウロスの母乳やアルラウネの蜜などには純粋な薬理作用だけが残る、ということではないだろうか。
配達に来たホルスタウロス本人もそう言っていた。
胸が大きいからってそれがなんだ。少し脱線した。
ただし、これは体液の保持者が望まない、あるいは何も考えなかった場合の話であって、たとえばホルスタウロスは、つがいや子に飲ませるための母乳にはたっぷり魔力を注ぎ込むのだという。
どういう気分なのだろう。搾っているときか、あるいは直に飲まれているというのは。また脱線した。
まず第一にやるべきはホルスタウロスの胸に無遠慮な視線を注いでいた相棒に説教してやることだ。
女性の価値は胸の大きさで決まるものではないし、
私が多少起伏に乏しい体型をしているからといって気に病んでいると思ったら大間違いだということを。
***
○王宮周辺/中央街・1
空間の拡大、時間の停滞、レッサーサキュバスの即時サキュバス化を確認。
魔力濃度が極めて大と判断。現行の防御術式では突破は困難。
同行者の協力を得て術式を再構築し、再び潜入を試みる。
※私的覚書
マイダンの溶鉱炉を直視しているような気分だった。
熱いとか眩しいといったようなことを感じるよりも、自分が場違いなところにいるという違和感が先に来る。
そして最大の恐怖。引き込まれたくなる恐怖。おそろしい。おそろしい。
…………どうやら取り乱してしまっていたようだ。
自分が回復できたことに気づくまで一晩かかるとは、情けない。
***
○王宮周辺/中央街・2
術式を再構築・強化して再度王宮周辺の探索に入る。
「我らが信仰のごとく」純白であった城壁は桃色がかった漆黒に塗られた未知の素材で作られている。
石畳といわず壁面といわず、ローパーのものと思しき触手が蠢き、ときおり侵入者、あるいは来客を絡め取っていた。
防御措置を取っていなければ同行者もろとも飲み込まれることになるだろう。
何もないように見えた場所から触手の出現を数度確認。
通常のローパーが犠牲者の衣服に偽装するように、建造物に擬態している可能性がある。
進軍すれば軍勢もろとも飲み込まれる危険性が高い。
攻城兵器あるいは大規模魔法による間接攻撃を推奨する。
擬態が疑われる部分を排除した内門までの予測構造図を別途添付する。
参照されたし。
※私的覚書
盲点といえば盲点だった。
口が「体の外側」であるという認識が欠けていた。
だが内側に針で刺青を入れるわけにはいかず、
さりとて通常の儀式に使う薬は口の中に入れるには強すぎた。
アレクセイが「魔術に適し、毒にならず、魔力を除染しても薬理を失わない」という鎧の上から心臓を撃ち抜くような軟膏の製法を知っていなければ王宮の探索を諦めていただろう。
施術者の体液を供給しなければならないのが難点といえば難点だが、
探索が続けられなくなるよりはずっといい。
つくづく思うが、兵隊を辞めても薬師としてやっていけると思う。
……やめておこう。薬屋のおかみがつとまる柄でもない。
***
○魔力汚染経過・1
体調不良。
疾病予防の術式が発動していなかったことから、
魔界特有の風土病の可能性がある。
解熱・鎮痛の術式も効果が希薄。既知の病原ではないのか?
※私的覚書
微熱、酩酊感、過度の高揚。人体の魔力汚染の症状と合致。
薬の服用、アレクセイの整体、術式の再調整、唾液の経口投与を受けて一時的に鎮静化。
ことに唾液投与の効果は覿面であり、この文章も半ば唾を与えられながら書いているようなものだ。
極上の葡萄酒のように甘く、身体の中に熱となって残る。
そのくせ思考は鈍るどころかますます明晰になり、筆も進む。
……アレクが離れた。
○魔力汚染経過・2
投薬 整体 復調遅れ。行動 支障なし 思考 まとまらず。要観察。
※私 覚
とろけている。乾く。熱い。寒い。矛盾。アレクセイ、欲しい。
アレク、どこ?
○魔力汚染経過・3
先日来の体調不良は魔力汚染の症状と合致した。
正しければ12日目で「要塞級」の防御が突破されたということになる。
解毒・解呪に3日を要した。自覚できる後遺症は無し。
同行者アレクセイ=ガーネフは最上位の癒し手であることを追記しておく。
長期の攻城戦・市街戦は事実上不可能であると結論する。
少数精鋭精力による暗殺か広域殲滅魔法による都市全域の爆撃以外に方法は無いのではないか。
※私的覚書
投薬と整体によって魔力の影響はほぼ除去されたと見ていい。
どうやら人は羞恥では死なないらしいとわかった。とはいえ魔力が人間の心身に与える影響を残す意味で、先日の覚書は破棄しないことにした。
まさかアレクに素肌を見られて素手で触られるぐらいで恥ずかしがるとは、本当にどうかしている。
先日来、アレクが何やら視線を逸らすことが多くなった。
何かやましいことでもあるのだろうか。監視を強めねばなるまい。
そう、たとえば入浴まで共にしてみるとか。
***
○軍港・港湾地帯
予定を一部変更する。
魔力汚染を回避するために王宮の探索をいったん中止。
王都から離れてレスカティエ軍港へ向かう。
移動速度と機密性を考慮し、馬車を一台借り上げる。
街道は多くの馬車や旅人で賑わっていた。
聖都へ向かう巡礼者や主要国家間の交易に匹敵する規模であろうと思われる。
工兵隊と思しきジャイアントアントの群れ、伝令・巡察を兼ねているであろうケンタウロス部隊を数度目撃。
さらに王都へ向かう“旧態”のドラゴンを軍港到着までに二度目撃。
目視した情報と伝聞情報を合わせてドラゴン遊弋の予測ルートを添付。参照されたし。
王都から軍港への所要時間は記録に残っているものより三割ほど短い。
街道は整備されており、野生動物や山賊の類が出てくることもなかった。
軍港へ到着。記録にあるものより小型船が多いが、親魔物国家のものと思われる大型船も多数確認できる。
ガレー船の船影は確認できず。魔物の助力によって海流や風向き、風速を予測・制御可能な故と思われる。
上空はハーピー種が飛び交い、沖の海面ではマーメイド種が談笑している。
夜間においてはそれぞれの歌が相乗効果を発揮。
防御術式のいくつかが無力化されるも、アレクセイの努力もあって即時修復に成功。
魔力汚染の影響はごく軽微。
また、海面に地形上ありえない渦潮が不規則に出現していた。
カリュブディスが海底に潜伏している可能性大。
アレクセイから海路による一時撤退を進言されるも、これを却下する。
まだ調査は完了していないと判断できること、魔力汚染が再度発生しつつあること、再調査に適当な人物がいないであろうこと、を理由としてあげる。
船便を利用し、交易国家へ偽装した文書を提出する。
無事に到着することを祈る。
※私的覚書
いよいよ我々の勝ち目が薄くなってきたように思う。
陸路の直進はほぼ不可能。海路は緩慢な自殺。
飛船か何かを用意して空を飛ぼうものならドラゴンの餌食だ。
……餌食といっても食糧にするわけでは無いようだが。
少数精鋭の戦力を用意しようにも、一番それに適した「勇者」を投入するためのレスカティエが陥落しているというジレンマがある。
まあ、私の仕事は作戦を立案することではなくレスカティエの調査だ。
報告には書けなかったが帰りは乗り合い馬車を使った。
アレクは渋ったが理由がわからない。
夫婦の偽装をしなければ怪しまれるだけだというのに。
アレクが魅了されるのを防ぐために膝の上に座り、視線をこちらの顔に固定させる。
これであの魔物どもの色目が私のアレクに向かなくてすむというものだ。
それにしても唾液の供給や皮膚同士の接触が頻度・時間ともに増えてしまっている。術式の調整は申し出るまで待ってやろう。私は慈悲深いのだ。
どうせ、まだもうしばらくはここにいる。
まだしばらくは、アレクと一緒にいられる。
ああ、そういえば何故アレクは帰ろうとしたのだろう?私と一緒にいたくないとしたら……少し強引になったほうがいいのかもしれない。
***
○森林
軍港より離脱後、王宮周辺の魔力汚染の影響を避けるために、浄化が終わるまでの間王都城壁の外側の探索に入る。
アレクセイより資金調達の申し出を受けており、その手段となるであろう薬種の調達も兼ねてのことである。
教団より支給されていた約20日分の滞在・調査費用は一ヶ月を超えた現状においても、さらに一ヶ月程度の滞在が可能である。
これらは魔物に「費用」という概念が希薄であり、生活費も異様なまでに低く抑えられていることが原因であろう。
井戸代も臼代もかまど代も払わなくて済む、という世界が神々の国以外にあるとは。……これ自体が何かの罠である可能性も否定できない。
余力は残されているが、しかし備えも必要である、というアレクセイの判断は妥当なものであろうと確信する。
森が法の及ばぬところである、というのはたとえ魔界であれ同じようだ。
一応秩序らしきものを作っていた市街とは異なり、文字通りけだものの如く獲物……多くは人間の男性であるが、同族をより短絡的に増やすべく女性も襲っているようだ……に襲いかかり、思うさま男を貪っている。
我々が獲物として認識されていないのは潜入初日に使用した「サキュバスのコロン」の効果であろうと思われる。
理法院で受けた説明よりもずっと効果が長い。理由については調査中。
アレクセイが薬草(我々の知る薬草と同じか、その近縁種が魔力汚染を受けたものと思われる)や動物、ある種の鉱物から薬理成分を抽出、薬品へと加工する。
市場においてどれほどの価値が得られるものであろうか。
※私的覚書
強い酒を飲むようだったレスカティエ市街の魔力とは違い、森の魔力はもっと複雑で、その分飽きが来ない。
この表現は不穏当の極みであろうが、これが私の実感だった。
それにしてもアレクセイにはつくづく頭が下がる……私が一人であればとうに私はサキュバスに堕ちていただろう。
感謝しても、どうせ軽く笑うだけなのだろうけれども。憎らしい。
***
○旧軍事施設
予測よりも早く魔力汚染の浄化が終わったことから、王都郊外にある練兵場跡に潜入。アレクセイの技量が上がっているのは喜ばしいことだ。
王宮同様に素材から魔力汚染を受けており、意図的なものであるかどうかは不明だが、外部への魔力漏洩を防ぐ類の魔法結界が敷設されていた。
内部は外観より広大な面積を有しているように見え、構造上のトリックというより、なにがしかの魔法が働いているものと思われる。
レスカティエ建国の伝説が記されていたというレリーフは取り外され、人とラミア種が淫らに絡み合う様を描いたものに掛け替えられているほか、教団の資料にあった蛇神信仰の神殿の様式とほぼ合致する。
まるで魔物がそのまま石になったかのような臨場感だ。特に逃げ場を封じるように男を絡め取るエキドナの姿は見事の一言であった。
心臓や下腹部を中心に内臓の不調を感じるも、行動に支障はない。アレクセイの顔がちらついて離れない。行動に支障はない。
芝生が植えられていることには変わりがないようだが、紫色をした魔界の植物であるようだ。
遠目からも柔らかく、絨毯と言われても信じたかもしれない。見分けられたのはアレクセイのおかげだ。
多種多様な魔物たちが番いから様々な方法で精を搾り取っている。
しばらく観察するが、男性が死ぬようなことはなく、また過度の苦痛を感じているようにも見えない。
また、通説定説とは異なり、魔物たちは執拗なまでに一人の番いにこだわっていて、夫を次から次に取り替えるようなことはない。
それは男のほうも同じようで、妻と定めた魔物以外には触れようともしなかった。ただし、妻を複数持つ夫はいたようだが。
いっそ我々の貴族よりも貞節という意味では上回っているのかもしれない。
中央には全体を見下ろせるほどに高いやぐらが組まれ、そこにはエキドナ種と思しき魔物が番の男性にからみつきながら眼下の魔物の交わり方に指示を出していた。
隻眼その他の特徴からレスカティエに勇者として登録されていたメルセ・ダスカロスと推定する。
これが他人の空似でなく本人であったなら、最上位の魔物であるエキドナ種へと人間を変化させられる何かがレスカティエに居ることになる。
帰還者の何人かが目撃したというリリムの情報も、確度をあげるべきと判断する。
※私的覚書
蛇、蛇、蛇。とにかく蛇だった。
まとわりつき絡みついてぐるぐる巻いて離さない。
ああいう風になるのも悪くないかもしれない……アレクが喜ぶかどうかはともかく。
気になるのはメルセ・ダスカロス(あるいは他人の空似)だ。時折こちらを向いていた視線は確実に我々の存在を認識していた。
放っておかれたのか何か別の意図があったのか……ともあれ私たちの戦力では交戦自体が不可能だ。無事をひとまずは喜ぼう。
そういえば、まだ唾液をアレクからもらっていなかった。
頻度も必要とする量もさらに増えている。最近お腹が空かないのと何か関係があるのだろうか?
それにしても、また聖都に戻れるのかどうか。
レスカティエの城門をくぐった時、帰ってきたのだな、と思ってしまった。
戻ろうとしているのかどうか……アレクがいれば、どこでもいいか。
***
○薬品商
アレクセイが調合した薬品の買い取り先を求めて市場を散策する。
店主達や常連客から、目抜き通りから少し離れた場所にある店を紹介されたので、そちらに向かうことにする。
「魔界の薬屋」という言葉からくる禍々しい印象とは異なり、雑然とはしていたが清潔感があり、緊張がほぐれていく。
店番は小さな女の子に見えるが、醸し出す気配からは老成した雰囲気が漂っている。
おそらくは魔女の類と思われるが、こちらに敵意がないので取引を続行。
これまでと同程度の生活水準が続くと仮定した場合、15日前後の生活費に相当する額で買い取られた。
棚に並んでいるのは種類はともあれ「閨の薬」で、いわゆる「普通の薬」は需要に比べて供給が少ないらしい。
少々の傷なら風邪程度なら自然に治るか、性行為を通じて魔力を融通することで早く治るから、というのが理由だそうだ。
つまり「少々の傷でなく、しかも魔法を使えない」という層に対する即時医療は遅れてしまう危険性がある、ということでもある。
継続的な取引を行うのなら、それらに関しても買い取る用意があるとの申し出を受けた。アレクセイは渋っていたがこれを了承する。
研究材料として棚にあった媚薬や魔法薬を購入。
これを解析・中和することでより効率的に魔力を浄化、
あるいは予防することを目論んでのことである。
被験者は筆者が行う。
体調や魔力汚染の経緯を記録しているため、記録を取りやすいこと。
アレクセイの治療技能を越えるものが教団内でもごく少数であることが、理由である。
※私的覚書
とんとん拍子には気をつけろ。
諜報員の心得というより生活の知恵と言っていいような話ではあるが、この日に起こったことすべてが罠だとしてもそれほど驚くには値しない。
だが、離れない一つの考えがある。彼らは我々の敵であるが、我々は彼らの敵ではない。敵とみなしていない。これはもはや確信だ。
毒薬や病気を誘発する薬はアレクの解析でも出てこなかった。媚薬や魔力汚染は彼らの価値観において悪でない以上、彼らは人間に敵意を持っていない。
彼らは基本的に善良である。
あるいは悪意を持つほどこちらに注意を払っていないのではないだろうか?
すでに伴侶を得て人生を満足いくものとしているのだ。
悪事を働くほど暇ではないのだろう。
教団に見つかれば火あぶりものだが……なら、その前に色々アレクに言っておかないと。
***
○休日
レスカティエ王都に戻って最初の安息日(基本的に暦は我々と同一のものを使用している)。先日購入した薬品はまだ服用せず。
王宮方面から莫大な魔力の奔流を感知。「赤みがかった黒い光」としか表現できない。速度自体は遅く、目視できる射程はほぼレスカティエ全域。
以前、数度の安息日にも感知した魔力の流れと同一のものと判断できる。
これが人間の魔法によるものであれば、たとえ敵意が無くとも破壊的な影響を及ぼすであろう、そういう魔力量である。
たとえば滝の流水は自然の理によるものだが、下手に当たれば打たれたところが痛み、石でも流れてくれば命の危険さえあるように。
だが、以前と同じく王都の住民に警戒や恐怖の色はない。むしろ自分のほうに飛んでこなかったことを惜しんでいるようだ。
住民から聞き込みを行った結果、王宮に住んでいる魔物の誰かが安息日やその他休日のたびに魔力を放出しているらしかった。
それを浴びた人間や魔物は極度に発情し、夫あるいは妻を持つものはその相手と、持っていなければそうなれるものを探して契りを結ぶとのことだ。
休日のたびに賜る宝のようなものなのだろう。
黒い光が視界を覆ったのを最後に、しばらく意識を失っていたらしい。
アレクが私の体を抱きかかえ、心配そうにこちらを見下ろしている。
何かに耐えているようにも見える。可愛い。
全身の感覚が鋭敏になっている。アレクの心臓の音すら聞こえてきそうだ。
男の匂いが漂ってくる。熱い。
魔力の塊を浴びたことで、防御術式のいくつかが機能不全に陥っている。
以前の症状と合わせて考えると、確実に私の心身は魔力に汚染されている。
だが私はいたって正常である。アレク以外の「男」がこの世にいるのだと考えつきもしない。
これはきっと愛のなせる業だ。愛があれば魔力汚染の影響を受けない精神を持つことができるのだ。なんという発見だ。
魔界への潜入任務はお互いに心を通じた、あるいは恋情をどちらかに抱いている男女であるべきだ。私たちのように。
※私的覚書
安息日が終わった後でこの文章を読み返している……いささか冷静さを欠いているが、この認識は間違いなく事実である。
祝杯でもあげたい気分だ。……アレクがどうにも浮かない顔なのが気にかかる。長い魔界の夜を利用して根掘り葉掘り聞き出してやろうか。
○治療行為
アレクから相談を受ける。
私が真実に開眼した安息日以降、単独行動が増えたり、自室に籠もって魔法陣が記された巻物や書物を広げていた。
何か背信行為を行っていたものかと緊張するも、杞憂。
安息日に今まで施されていた魔法そのもの、それも術式の根幹部分が魔力の汚染を受けていたというのだ。
考慮するべき可能性だった。魔界で生産されたゴーレムはときに命令を無視して己の心のままに動くという。
これはつまり魔力そのものがある種の指向性を持っている証拠である。
魔法によって動くゴーレムがその影響を受けるというのであれば、全く同じ理屈で防御術式が汚染されていても不思議はないのだ。
だが、何の問題があるだろう。私は人格を汚染されずに済んでいるし、アレクを愛している心になんの曇りもない。
それよりも、アレクのほうが問題だ。
安息日以降、精の匂いがひどく強力になり、目を伏せているつもりでも私に向ける欲望は日に日に強さを増している。
体質の関係上、アレクは彼自身に私と同程度の防御術式を施すことができない。
インキュバス化の危険を避けるために、精液を排出させる必要がある。方法については問題なく実行できると確信する。
魔力に方向性があるように、精神に投影された魔物の魔力は男性が持つ獣性を刺激するための方法を伝授するのだ。
サキュバスと化してしまえば無垢な村娘も百戦錬磨の娼婦が裸足で逃げ出すだけの技術を持つのは、おそらくこれが原因である。
まさか魔物も、自ら与えた技術で魔物化の進行を止められるとは思っていまい。これはまさに人間の勝利だと誇りをもって断言する。
※私的覚書
……不覚を取ったような、全てが上手くいっているような、矛盾した気分が消えない。
結論を先に書こう。私の処女はアレクに捧げることになった。
痛みはすでに消え、ただ餓えたような疼きが下腹にあるばかりだ。
薬屋の魔女は「精液は万能薬である」といった。それは正しい。
心身にあった違和感はほぼ完全に消え去り、今までの20年足らずの人生で最も充実した体調だ。
今なら王宮に突入しても無事に帰ってこられるだろう。
それにしても、この世にこれほど甘美な夜があるとは。
……アレクが、あんなに優しくて、激しい男だったとは。
この夜にもらったキスを、触られたところを、押し込まれた痛みとその後に来た悦楽を、私は生涯忘れないだろう。
○身体変化
インキュバス化を防ぐ処置を行ったところ、アレクの体内に残留していた魔力の影響を受けたものか、角、羽根、尻尾といった器官が生成されていた。
肉体はほぼ完全にサキュバス化したようだが、
精神は未だに平衡を保っている。
感覚は鋭敏になり、思考は性的なものへと流れる傾向があるが、日常生活には支障がない。
常にアレクを欲して止まないのはこれ以上の魔力侵食を防ぐべきであるというエロス神のご加護だろう。
筆者は信仰においてそれほど優秀であるとは言えなかったが、レスカティエに来て考えを変えた。寝室にイコンを飾らねばならない。
私とアレクが愛し合う様をご覧になっていただければよいのだが。
※私的覚書
書くことがなくなった……というより、書いている暇があるならアレクに触れねばならない。アレクを味わいたい。そうだ、アレクのところにいこう。
○総括
以上をもってレスカティエ奪還のための報告書をいったん結ぶ。
レスカティエ再侵攻のために必要なものは大軍ではない。
最悪の場合、レスカティエに到達する前に魔界の餌食となる。
少数の精鋭、それも情愛と信頼によって結ばれた男女によって構成された一軍をもって、
王宮を突破、首魁を討ち果たすのが最も現実的な方法だろう。
魔物化という尊い犠牲は払わねばならないが、精神や自我は伴侶への情愛がある限り保たれる。
そうすれば魔物の能力と人間の理性を備えた軍隊が構成できるというわけだ。
王宮のより詳細な構造や王宮内の戦力については、後日報告する。
無事に帰還できればよいのだが。
いや、問題ない。私には愛する人がいる。それだけで私は無敵になれる。
12/01/29 09:48更新 / 青井