素直にならないと、まともな恋はできないのでしょうか?
薄暗い部屋の中心で、ぐつぐつと煮えたぎる鍋を前に、黒い笑みを浮かべる影が一つ。 彼女はキーリアナ。友人達からはキーアちゃんという愛称で呼ばれている。 「クフフ…ついに…遂にできたぞ…」 真っ黒なローブをまとう彼女のフードは、人間の少女がかぶっているにしては少々いびつな形に膨らんでいる。 それもそのはず、彼女の頭部に生える一対の山羊のような立派な角が、フードを内側から押し上げているからである。 彼女はバフォメット。 魔界でも上位の魔物で、魔女たちを引き連れるサバトのリーダーなのだ。 「これで…これで、やっと我が物に…待っているがいい、我が愛しの兄上よ…グフフ…」 なんとも形容しがたい蛍光グリーンの液体が煮える鍋を覗き込んでから、キーアは自分の机の上の、立派な額縁に飾られた一人の男の写真を見つめた。 その時、薄暗い部屋の何処かから、大きめな音の軽快なメロディが流れ出した。 「ひうっ!?わ、わわわ!(ゴトッ)ぎゃ!(ドスン)あたっ!(ドサリ)ぐ、ぐぅ…」 うっとりと写真を見つめていたキーアはこの音に飛び上がり、派手な音を立てて、何冊もの分厚い本を重ねた台の上から転がり落ちた。 その間も、そんなお間抜けな彼女の行動をあざ笑うかのように、軽快なメロディが鳴り響いた。 「い、いたたた…ぐぬぅ…一体誰じゃ…こんな時に…どこじゃどこじゃ…?」 キーアは痛む側頭部を摩りながら、音の発信源を捜し、やっとそれをつかむと、耳に押し当てて少し棘のある口調で言った。 「…もしもし?誰じゃ?」 「あ、ごめんねキーアちゃん!忙しかった?」 電話の向こうから聞こえた明るい声に、不機嫌そうだったキーアの表情は一気に緩んだ。 「おお、華憐ちゃんではないか!どうしたのじゃ?」 電話の相手は、彼女の通う中学校のクラスメイトであり、大親友の桐原華憐(きりはらかれん)だった。 「どうしたって聞いてくるって事は、もう約束忘れちゃったの?」 受話器の向こうから、少し呆れたような声が返ってくる。 「やくそく…?」 そのフレーズに、キーアは机上のコルク板に目を留める。 普段、忘れてしまいそうな約束や、決まりごとなどを書いた紙をピンで留めて置くその板には、小さな紙が留めてあった。 『可憐ちゃん兄 惚れ薬』 短く、たったそれだけが走り書きされていたが、それだけでキーアの記憶は呼び起こされた。 「もぅ…この間相談したでしょ?お兄ちゃんの為の惚れ薬作ってって…」 「そ、そうじゃったな!忘れていたわけではないぞ!ちゃんと作ったからな!」 「本当に!?」 受話器の向こうから、飛び上がらんばかりに嬉しそうな声が上がった。 「あ、ああ。ちょうど明日は休みやじゃし、今から濃度を調整して、明日には渡せるぞ。」 黒い大鍋を見上げながら、キーアは答えた。 「やった!キーアちゃん大好き!明日だね?オッケー。じゃあ明日取りに行くよ。今度は忘れないでよ?」 「もちろんじゃ!」 「フフッ…やっぱり忘れてたんだ?」 「な、ちがっ……ごめんなのじゃ…」 慌てて取り繕おうとしたキーアだったが、すぐに諦め、素直に謝ることにした。 「別にいいよ。ちゃんと作ってくれたみたいだし。頼んだのは私だからね。忙しい時に電話してごめんね?それじゃ、明日のお昼頃に行くね。おやすみ。」 キーアの謝罪をきちんと受け取ると、可憐は話題を切って別れを告げた。 「うむ。おやすみなのじゃ。夜更かしはしないようにのぅ!」 「それはキーアちゃんもでしょ!」 陽気に冗談を言い合って電話を切ると、キーアは大鍋からビーカーに薬品を移し、大きな机の上の冷蔵室にしまった。 翌日の朝、キーアは眠い目を擦りながらもベッドから這い出て、机の上の冷蔵室を開けた。 「…ぬぅ……濃さは…ええと…んぅ?」 冷蔵室から取り出したビーカーを片手に、対象や効果時間ごとに薬品の適正な濃さをまとめた表を、机の上から探し出す。 まだ半分眠っているような顔で表を見ながら、肉球で器用に小さいビーカーに二つ薬品を分け、試験管を取り出し、水を汲み、スポイトで少しずつ水を加えて濃さを調整していく。 途中、何も無いところにスポイトを向けて、何かを吸おうとしていたり、パジャマの上に羽織ったローブの袖が、他のビーカーに引っかかって落っこちそうになったりと、危なっかしい場面が多かったが、なんとか作業は終えたようである。 しかし、やっぱりやらかしてしまったようだ。 彼女は気付いていないが、彼女の読んだ表の欄は、一つ上の薬品のものなのだ。 「ふ、あぁぁぁ〜…あとは…少し寝かせるだけなのじゃ……わしも寝るのじゃ…」 小さい口を大きく開けて、可愛らしい欠伸をすると、試験管立てに二本の試験管を立て、冷蔵室にしまった。 それから床に散らばる本の類に何度か躓きそうになりながらもベッドにたどり着き、数秒の後には寝息を立てていた。 「寝過ごしたああああ!!!」 鋭角に射していた朝日が、大きな角度で地上を照らし出した頃、キーアは再び目覚め、時計を見て悲鳴を上げた。 急いで身支度を整え、冷蔵室の中から試験管を二本取り出し、数回振って栓をし、鞄の中に突っ込む。 市販の菓子パンをかじりながら家を飛び出す彼女は、やはり、試験管の中身が危険な薬品である事に気付いてはいなかった。 |
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