出会いの章-新兵
小さい頃は暗闇が怖かった。
例えば夜中にトイレへ行くために起きた時、真っ暗な廊下を通るのは父に怒られるのと同じくらいに怖かった。そんな時に限って、母に聞かされた怖い魔物の話を思い出してしまい、居もしないはずの何かがいるよう感じてしまうのだ。
けれど、実際に進んでみればなんてことはなく、肩すかしを受けたようであり、安心したようでもある気持ちで再びベットに戻るのだった。
だからそう、今感じている不安や恐怖も大したことはない。きっと無事に帰ることができる。そうして後であの時の自分は間抜けだったと笑うに決まっている。そうに決まっている。
……そう自分に言い聞かせても、革手袋の下の手はじっとりと汗をかき、胸の鼓動は収まらなかった。
ガリアン・シーベルトは、港町ウェリンストンの騎士の家の三男として生を受けた。
優秀な兄二人を手本に育ち、特別に裕福ではないが貧乏でもない家庭の状態もあり、彼は十五歳になる頃には心の澄んだ真っ直ぐな青年になっていた。
しかし、十五歳を超えると彼は困ってしまった。これからの人生をどう生きるのか、その目標を見失ってしまったのである。
それまではただひたむきに日々の勉学・武芸に励みながら、主神の教えに恥じぬ生き方をしてきた。しかし、いざ目の前に将来への分かれ道が現れると、どうすればいいのかわからなくなってきたのだった。
既に長男は家を継ぐべく父の補佐として働いている。次男は武芸の才能を生かし、高名な騎士への道を歩みだした。それでは、自分はどうするのかと悩んでしまってのである。
幼い頃からの憧れである二人の兄、そのどちらかの跡を追うのか。それとも全く別の道へ進むのか。両親は三男である彼に対して、ゆっくりと考えればいいと言ってくれた。
…実はこの時、彼の悩みの中ではある夢が燻っていた。
ただの欲求と言ってしまっていいかもしれないその内容は、『外へ出ること』だった。思えば彼はこの街以外を知らなかったのだ。
勿論、全く知らないというわけではなかった。本で学んだ知識、外国から船でやって来た人の話などで知ることはできた。しかし、自分自身の目で見てみたい、手足で感じて見たいという、子供じみた冒険心が純粋な彼の中に残っていたのである。
無論、彼はそれを口に出すことはなかった。もしそんなことを言えば、母親は心底心配するだろうし、父親は渋い顔をする。兄たちも自分を諭すに決まっているとガリアンは悟っていたのである。
そうして、未だに燻り続ける夢を心の奥底に仕舞い、その上を現実的な悩みで覆ってしまった。 そのまま何事もなければ、彼はその街で暮らし続けていただろう。しかし、そんな彼の転機は唐突にやってきた。
十六歳になったばかりのある春の日、高い山々を間に挟んで内陸にある街が魔物の手に落ちたという報せが届いたのだ。
それまで魔物を知ってはいてもどこか遠い存在として感じていた街の人々にとっては青天の霹靂であった。幸いなことにこのことに憂慮した周りの地域や国々からすぐさま騎士団が編成されることとなった。
そんな時にガリアンは父親に頼み込んだ。自分をその騎士団に同行させて欲しいと。
勿論父親は反対した。しかし、結局は最初の出兵であるから武力を伴っての街への警告か偵察で終わるだろうという意見と、彼の熱意に押されて認めてしまった。
この行動が彼の中で隠していた夢が再燃したからなのか、それとも自分の力がどの程度なのかを知りたかったからなのかは定かではない。果たして、彼は父親のコネもあり無事騎士団の一員として(末端の一兵士という形ではあるが)参加することとなったのであった。
初めて体験した行軍はガリアンにとって大変なものだった。
以前は商人たちが行き来していた、山々の間を通り抜ける道を行くのは彼にとって想像以上のものであった。
それでも、足に感じる山道の険しさを、体に感じる疲労を、目に映る山々の景色を感じるたびに気分が高揚していくのを否定できなかった。
そうしてやっとの思いで山を超えると、目的の街が見えてきた。
その時の彼の感想は『拍子抜け』だった。魔物に支配された街というからにはもっと荒廃した感じになっていると思っていたのである。遠目にもそんな感じには見えなかったのだ。噂に聞く恐ろしい魔物の存在など感じられなかった。
やっぱり大した事など起こらないのではないか。そう思いながら山を下り終え、平地に入った瞬間に、ガリアンの記憶は途切れたのだった。
「……う、あぁ。」
そんなうめき声が自分の口から出でいるのを感じて、僕は意識を取り戻した。体に痛みはないものの、頭はモヤがかかったかのようにはっきりとしない。
「あれ、ここは…。」
不思議なことに自分は森の中で突っ立っていたようだった。それも行軍していた時のままの装備で。
「そんな、え、どうして……。」
自分がどうしてこんなところにいるのか、周りにいた他の兵士たちはどうしたのか、そもそもここはどこなのか、どうすればいいのか。
そんなことが頭の中で渦巻き、口から出るのは取り留めのない言葉ばかりだ。
とりあえず装備や体を確認してみることにする。手で触りながら怪我をしていたりなくしたものがないか確かめる。
頭には簡素な鉄兜、その下の髪の毛が茶色なのも変わっていない。手足を見てみれば、両腕に革手袋と、左手には木と鉄で作られた丸い小型のラウンドシールド。脚には行軍で汚れたブーツと革のすね当て。身につけているのは立派な甲冑ではなく革でできた胸当てと、腰に下げた十五歳の誕生日に父からもらった直剣だけだ。背負っていた荷物はどこかへなくしてしまったようだ。
腰の直剣のことを考え、ようやく思い当たる。一体僕はどこまで覚えているのだろうか。
家の場所や住んでいた町の名前、家族の顔や名前からゆっくり思い出していく。そうして、最近のことまで辿っていく。
そう、僕は騎士団に同行して、山をやっとのことで超えて、それから……。
「だめだ。それ以上が思い出せない…。」
自分の記憶がないという初めての体験に動揺するが、それどころではなかった。一体ここはどこなんだ。もしかしたら……。
「もしかして、はぐれたのか…。」
そうかもしれない。現に後ろには、ここまで歩いてきた証拠である自分の足跡が残されている。なれない行軍のせいで知らず知らずに疲労がたまり、それでフラフラとはぐれてしまったのだろう。そうさ、そうに決まってる。人を惑わす魔物の仕業なんてことは……。
「ないに決まってる。そうだ、大丈夫だ…。」
自分で言っていて虚しく感じる。それでも空元気を出して行くしかない。幸い、足跡は残っているのだ。遡って行けば道に出られるだろう。
……そう考え、森へと入って行ったのは無謀だっただろうか。
既に足跡は消えてしまっている上に、すっかりどこへ歩いているのかもわからなくなってしまっている。森の中は薄暗く、どこまでも木々が続いている。
荷物ごと水筒や食料も失ってしまったので、せめて川を見つけるか何か食べられるものを見つけなければいけない。そうしなければ、最悪の場合は飢え死にしてしれないかもしれない。
けれど、あのままあの場にいても何も変わらない。何とかしなくちゃ……、何とかしなくちゃ死ぬ……。
そう考えた途端に、今まで感じたことのないような感覚が体を覆った。手には汗が滲み、鼓動が早くなり、喉が渇いていく。
こんな事なら街を出なければ…。そんな考えが頭を過ぎるが急いで振り払う。自分から望んでおきながらそんなことを思うのはあまりにも身勝手すぎる。
けれど、やがて力尽き、動けなくなった自分の姿を想像してしまい、不安に押しつぶされそうになる。そんな想像を振り払うかのように脚を動かし続ける。きっと、一度しゃがみこんだらもう動けなくなってしまうだろう。
そんな風に無心で脚を動かし続けるがどんどん時間が過ぎていく。それにつれて焦りは大きくなり、やがて陽が天辺を過ぎても、未だに道に出ることもできずにいた。何か口に入れたいと思っても川のせせらぎも聞こえてこないし、食べられそうな物も見当たらない。そもそも見つけられたとしてもそれが有毒なものだったらおしまいだ。
「はぁ…、ぁ……うぅ!」
疲労と不安から動かなくなっていた脚を、ついに木の根に引っ掛けてしまった。急いで立ち上がろうとするが体に力がまるで入らない。心身両方の疲れのせいで手足が鉛になってしまったかのように重い。自分が思っていた以上に早く限界が来てしまったようだ。
「ああ……。」
仰向けになって見た空からは、木漏れ日が注いでいた。眺めているとだんだんと視界が滲んできた。いつの間にか目には涙が浮かんできていた。
僕は、僕は何をしに街を出たのだろうか。結局は、自分の夢も何も叶えられずに、何も残せずにどこともしれない場所で野垂れ死ぬ事になってしまった。そう思うと情けなさで胸がいっぱいになった。
僕は一体どうなってしまうのだろうか。このまま野晒しの死体に成り果てるのか。はたまた、本当に魔物におびき寄せられたならどこかに潜んでいる魔物達に食い殺されてしまうのだろうか…。 父や母、兄たちはどう思うだろうか。悲しむだろうか。それとも、呆れるだろうか。
もうそんな事を考えても仕方がない。悔しいけれど、もう限界の様だ…。
そんな事を考えて目を閉じる。手足も広げて、ずっと手に持っていた盾も投げ出してしまう。そうすると、今まで気にしなかった木々のざわめきや流れる風を感じることができた。普段の街では感じることのないものだ
もしも、ただのピクニックで来ていたならどんなにいい場所だろう。暖かい日の光に柔らかい草に覆われた地面、辺りを漂う草木の甘い匂い……。
「あ、あま…い……?」
こんな状態になってようやく気付いたが、辺りには風に乗って甘い匂いが漂っている。それも砂糖とも、蜂蜜とも違う今まで嗅いだことのないような匂いだ。
なんの匂いか分からないが、木の実でもなんでも、何かあるなら口にしなければいけない。もしかしたら、助かるかもしれない。
そんな思いに動かされ、動かない体で這い蹲るようにして匂いの元である風上へ進んでいく。
途中で茂みをいくつも通り、腕や顔に細かい擦り傷や切り傷を作りながらも進んでいく。
もう諦めてしまおうかという気持ちが何度も湧き上がるが、僅かに残っていた体力、まだ生きていたいという気力。そして、何があるのかという好奇心で心を支えて進んでいく。
こんな状況にあって、まだそんなことを思っている事に呆れてしまうが、どうせダメでも何があるか知っておいた方がいいじゃないか。そんな風に思い直して進んでいく。
どのくらい進んでいるのかは分からないが、どんどんと匂いは濃厚になっていく。
やがて、最後の茂みをかき分けるとぽっかりと開いたところに出る。まるで用意された舞台にように陽が降り注ぎ、そこだけが円形に開いている。その真ん中に『甘い匂いの元』はあった。
「な……!えっ……。」
もしも、出せていたなら大声を出して驚いていただろう。今まで僕が見てきた中で、いや、多分他の街の人も見たことのないようなものが鎮座していた。
植物だ。それも巨大な。大きさは六頭立ての馬車ほどもある。
形も見たことがない。茎は太く短く、その上に大きな花の蕾のようなものが乗っかっている。長い葉の部分は地面ギリギリの所から生えている。全体の大部分は花の部分が占めていて、葉や茎はおまけ程度にしかない。
甘い匂いはその蕾の部分から漂ってきているようだ。証拠に蕾から一筋、とろりとした蜜がたれていて、限界に来ている今の僕にはまるで輝いているように見える。
思わず飛びつきたくなるが、この奇妙な植物に対しての警戒心がそれを押しとどめる。
よく見てみてみると、植物は微妙に動いていた。一定の感覚で少し膨らんだり萎んだりしている様子は、まるで呼吸をしている人間の胸の様だ。こんな動きをする植物があるなんて……。
意を決して、茂みから抜け出そうとした瞬間、今度は風に乗って音が聞こえてきた。どうやら誰かの声のようだ。
「今度…………自分で……………てる。」
「いや〜、無理………。だって………」
会話をしているらしい声は少しずつ近づいてくる。声からして、どうやら、両方とも女性のようだ。
近づいて来るに従って、おかしな音が聞こえてきた。誰かが歩いてくる足音はいいとして、もう一つ音が聞こえる。耳鳴りの時の音のような…、何かの楽器のような……。いや、これは羽音だ。虫の羽音にそっくりの音だ。
巨大花を挟んで反対側からやってきた人達の姿がようやく見えた。その姿を見た瞬間、息を飲んでしまう。
まず、やってきたのはやっぱり女性のようで、人数は二人だった。いや、『二人』と言っていいのかは分からない。やってきたのは人生で初めて目にした『魔物』だったからだ。一人は歩いて、もう一人は飛んでいる。
両方とも外見は人間の女性に似ていて、きちんと服も着ているが、やはり人間とは違う部分が多々ある。
歩いてきた方の魔物は体の各所や手足が動物のような毛に覆われている。両手には鋭い爪のようなものまで生えていて、その様子から熊を想起させる。
飛んできた方の魔物は背中から昆虫のような透明な羽が生えている。どうやらさっきから聞こえていた音はこれが原因のようだ。それ以外にも、お尻の部分から蜂のような黄色と黒の縞々の、これまた昆虫のような部分がくっついている。
人生で初めて魔物を見た事、その魔物が想像していたようなおぞましい姿をしていなかった事。そんなことに驚きながらも息を殺す。
もしも、あれが本物の人を喰らう魔物ならば、弱って倒れている兵士なんて格好の餌だろう。見つかればおそらく命はない。ここで初めて、さっきの倒れたところに盾を放り投げたままだったことを思い出す。
見つかったならば、頼りになるのはもはや腰の直剣一本だけだ。うつ伏せで茂みに隠れながら剣をお守りのように握り締める。主神よ、僕を御守りください…!
耳をそばだてると魔物達の会話が聞こえてくる。
「ほら〜。やーっぱり起きてないじゃないっすか。」
「あ〜、今日もダメだったの〜。ライラちゃーん。もうおひるですよ〜。」
「いつもどうりに起こすっす。」
二人は両手に持った大きな硝子瓶を地面に置いた。熊の魔物が持って来たのは空で、蜂の魔物のほうは琥珀色の液体が詰まっている。
二人は何故か、巨大花を叩いたり耳を当てたりし始めた。
ここで、熊のような魔物の耳が人間のような耳ではなく、獣のような耳が頭の上にあることに気がついた。もう一方の魔物の方も、昆虫の触覚が頭から生えている。
一体何をしているのかと見ていると、熊の魔物が花のてっぺんに手をかけた。
「ふんぬっ!!」
気合を入れるかのように声を出したこと思うと、いきなり花の口の部分を広げた!
本当に、一体何をしようとしているのだろうか…。
ますます注目していると、今度は蜂の魔物の方が花の上へ飛んでいった。様子を見ると、何やら準備するように手を動かしながらニヤニヤと笑っている。
「さーて、いつまでたっても起きないねぼすけには………、オシオキっすよ!!」
楽しそうにそう叫んだかと、勢いよく開いた巨大花の中へ飛び込んでいった!
花は、まるでいきなり入ってきたことに驚くかのように身体を震わせながら、口をパクパクと開いたり、閉じたりしている。
しかし、やがてはだらんと口を広げてしまった。そうすると……何と言うか…、なんだか艶かしい女性の声が聞こえてきたのだ。
こんな状況だというのに、今までとは違った意味で鼓動が早くなっていく。今まで恋人などいなかったため、こんな女性の声を聞くなんて初めてだった。
声が聞こえてきたのを合図に、熊の魔物の方が空のガラス瓶を花の中へ投げ入れた。
しばらく辺りに女性の嬌声が響くのが続き、声が止まると蜜だらけになった蜂の魔物が満足そうな表情で巨大花から飛び出てきた。手には花の蜜が入った瓶を持っている。
「いやぁー、今日もたっぷり採れましたよ。」
「おつかれさま〜。」
そんなことを言い交わしていると、ペロンと花が咲き開いた。
「もう、二人ともひどいですよ!」
そんな言葉とともに開いた花にはとんでもない中身が詰まっていた。
女の人だ。上半身しか見えないが、他の魔物達と違って肌の色が植物のようなのを除けば、普通の身体の形をしているように見える。
あの花も魔物の一種だったのだ。もしも、最初に警戒せずに近づいていたらどんなことになっていたか……。少なくともただで済んだとは思えない。
けれど、見れば見るほど中身は普通の女性にしか見えない。長い髪も、花の蜜と同じ色をした大きな瞳も、朝露を纏った葉のような瑞々しい唇も、たわわに実った果実のような零れ落ちそうなくらいの大きさの胸も………。
そこまで考え、慌てて目を他の場所へ向ける。一体何を考えているのか……。
三人の魔物は笑いながら話していた。花の魔物が文句を言っているのを他の二人は笑いながら流している。
「まったく。もっとほかの起こし方があるじゃない!」
「そうっすね〜。自分で起きればいいっすねぇ〜♪」
「うぐっ…。」
「そうだよ〜。ちゃんと自分で起きないと〜。」
「今度こそ!今度こそ自分で起きます!」
「今度っていつっすか……。」
こうして会話していると、まるでその様子は街角の少女たちに見える。花の魔物もその表情をころころと変化させている。本当に普通の少女にしか見えない。いや、むしろかなり可愛い……。
「そういえば〜、けさから森が騒がしいけど〜?」
「そうなんですか?気づかなかったですけど?」
「そりゃライラはずっと寝てたっすからね……。」
「なんかね〜。いっぱい人が来たみたいなの〜。」
「あっ!そういえば長老が言ってたっすよ。近々男の人がいっぱい来るって。」
「ほ、ほんとですかっ!」
「この前手伝いに行った時に聞いたから間違いないっす。あ〜あ、暇だったら見物しにいきたいっすけど。」
「と、と、ということは……きっと…」
「あ、それはないっす。」
「まだ何も言ってない!」
「そりゃ、いつも言ってりゃ予想もできるっすよ…。」
会話を聞いていて確信する。やっぱり、記憶を失っていきなり森に迷いこんだのは魔物の仕業だったらしい。
「ん……?」
「どしたっすか?」
「あそこに…何か……いるような…?」
心臓が飛び上がる。まさか……、まさか!
「何か〜?」
「気のせいかもしれないですけど…。」
「どれどれ〜。」
熊の魔物が確認しようと動き出す。花の魔物が指さした方へ…、僕が隠れている茂みのほうへ! こうなったら、もう覚悟を決めるしかない。相手が近づいたら先手を取って怯ませる。その隙に急いで逃げるしかない。逃げられる可能性は限りなく低いだろうが、やるしかない。
「んー、なんにもないように見えるっすけどね。」
「なんて言うのかな、気配っていうか……匂いっていうか…。」
いよいよ近づいてくる。剣にゆっくりと手を伸ばし抜こうとする。
しかし、動かそうとしても手が動かない。見ると手は震えていた。力を入れて握りこぶしを作ろうとするが、全く力が入らない。気がつくと歯が震え、カチカチと音を立てていた。
一体どうしてしまったんだ、手を動かすんだ!
そんな風に自分を激励するが効果はない。自分はこんなに腰抜けだったのかと愕然としてしまう。こんなに情けない気持ちになるのは今日だけで二回目だ。
足音はついにすぐそばまで近づいてきた。体は痺れたように感覚がなくなっていく。
こんな、こんな最期になるなんて。騎士の家に生まれておきながら魔物を目の前に一撃も加えることなく、ただ恐怖に震えて死ぬだけなんて……。これなら野垂れ死にの方がよかったかもしれない。
隠れている茂みが掻き分けられるのを感じる。うつ伏せのまま目を閉じてしまう。
「あれあれ〜?」
「え。ホントになんかあったんっすか?」
「う、うん…。」
大きな手に体が持ち上げられる。恐怖のあまり目は縫い付けられたかのように開かない。
「うえぇぇぇぇ!?」
「マ、マジっすかぁぁぁ!!」
そのままほかの二人の元と運ばれていく。
「んんー?もしかして森の中迷って力尽きたんっすかね。」
「なら〜見つけられてよかったね〜。」
「見たところ大した怪我もしてないようですし。」
どうやら、こっちが気を失っていると思っているようだ。
「それなら〜これで大丈夫かな〜?」
それまでの運ばれるような形から、まるで抱きかかえられるような形に変わる。
「ま、待ってください!私がやります!!」
「うん?いいけど…。」
一体何をされるのかと身構えていると、何かが柔らかく、細いものが口元に当たる。
それは優しく口を開かせると、それを伝って甘いものが口の中へ流れ込んできた。反射的に飲み込んでしまう。
甘いものを飲んだ瞬間、体が温かくなり力が戻ってくるのがわかる。こわばっていた体がゆっくりとほぐれていき、やっと目を開けることができた。
目に飛び込んできたのは、間近に迫った花の魔物の顔だった。こちらの方を興味深そうな顔をして覗き込んでいる。口に当たっているのは彼女の指だった。思わず声を上げてしまう。
「よ、よかった!気がついたんですね。痛いところとかありますか?」
いきなり近くから魔物に話しかけられ、戸惑ってしまう。
飲まされたのは彼女が出していた蜜の様だが、一体何で助けるような事をしたのか分からない。魔物相手だがお礼を言ったほうがいいのだろうか。どんなことを言えばいいのか…。
「とりあえず川に行こっか〜。服や傷口をきれいにしなくちゃいけないし〜。」
「あ、はい。」
そんな様子を見かねたのか熊の魔物が提案する。確かに這いずり回っていたため土で汚れているし、擦り傷や切り傷もなんとかしたい。
そのまま僕の身体を抱えて軽々と歩き出してしまう。花の魔物はどうするのかと見ると、なんと今まで地面に埋まっていた太い根っこが動き出し、足のように動かし始めた。どうやら植物なのに移動できるらしい。
このまま運ばれていっていいのか。けれど、今逃げ出したとしてもまた森のなかで彷徨うことになるだけだ。幸い魔物たちは今すぐ何かする気はなさそうだ。
あっという間に川に到着する。この何倍の時間も歩いていたというのに川を見つけられなかったのを思うとまた情けなくなってきた。
熊の魔物は僕を川原に座らせると、身につけていた装備を手際よく脱がせ始めた。次に腕についた傷を川水で洗い始める。傷口が少し痛むのに我慢していると、ニコニコしながらこちらに話しかけてきた。
「あの〜、名前は〜?」
「……え、あ…。」
「私はソフィア。あなたは?」
「……ガリアンです。」
「よろしくね〜。この森で家族と一緒に暮らしてます〜。」
「そ、そうですか…。」
「なんだか大変だったみたいだけどもう大丈夫だからね〜。」
熊の魔物改め、ソフィアさんはのんびりとした感じで話している。話していても敵意らしいものは感じないし、むしろ彼女の目には暖かさすら感じる。
「どこからやって来たの〜?」
「………ウェリンストンから。」
いろいろ言っていいものか迷ったが話し続けてしまう。黙っていてもしょうがないというのもあったが、何よりソフィアさんの雰囲気がこちらが安心させるものだったからだ。
「えっと、山の向こうの街だっけ?」
「は、はい。」
「兵士さんなの〜?」
「いえ、正式な兵では…。」
「へえ〜。あ、お腹とか空いてる?」
「……少し。」
「う〜ん、どうしよっかな〜?」
……てっきり、何のために兵士がこんなところにいるのか聞いてくると思ったが、なんだか興味がなさそうだ。ほかにもいくつか質問されるが、好きな食べ物だとかを聞かれただけだった。
ふと、ほかのふたりはどうしているのかと見ると、あちらはあちらでなんだか話し込んでいた。 「それにしても本当に叶うものなんですね…。」
「え、あれでいいんっすか!違くないっすか!」
「だって剣持ってるし…。」
「そ、そうっすか…。まあ……よかったっすね…。」
「うん……。えへへ……。」
「…こりゃ何言ってもムダそうっす。」
……何を話しているのかがイマイチ分からない。
「はい。終わったよ〜。」
「え、あ、ありがとう、ございます。」
いつの間にか脱がされた装備も綺麗になっていた。
「あ、ソニアがそろそろ帰って来るから戻らないと〜。」
「そうっすね。娘さん元気っすか?」
「うん。相変わらず元気いっぱいだよ〜。」
ソフィアさんには子供がいるらしい。そういえば家族と暮らしていると言っていた。
…思えば魔物がどんな風に生きているだとか、ましてや結婚するなどと想像してしたこともなかった。今までの魔物に対するイメージは改める必要がありそうだ。こうやって助けてくれているのを見ると問答無用で人を襲うということもなさそうだ。
「そうだ、ガルく〜ん。」
「え、僕のことですか…?」
「そうそう〜。よかったら夕食はうちに食べにきてね〜。」
「はぁ……。」
「あとはお願いね〜。ライラちゃん。」
そう言い残したあと、琥珀色の液体の詰まったガラス瓶を持って帰っていく。あれは確か蜂の魔物が持ってきたやつだったけどいいのだろうか。そう思って本人のほうを見ているとこちらに近づいてきた。
「どもー。ベルナっす。よろしく。」
「ど、どうも。」
「ベルナは帰らなくていいの?」
「せっかくだから一緒に行くっす。」
「サボってるとまたお姉さんたちに怒られるよ。」
「……ま、まぁ大丈夫っすよ!」
ふたりが話しているのを聞きながらこの後どうするか考える。
森を出ることは無理だ。闇雲に歩いても迷ってしまうし、例え地図があったとしても今の疲れた体では不可能だ。何より、わざわざ誘い込んだなら魔物たちにはなにか目的があるのだろう。
…それでも、彼女たちは良い人そうだし信じてみるか。
「それよりこれからどうするっすか?」
「うーん…せっかくだから森の中でも案内しようか、えーと、ガ、ガリアンくん。」
「…は、はい。お願いします。」
「そんな緊張しなくても今すぐとって喰おうなんて思ってないっすよ。敬語じゃなくてもいいっすし。」
「わ、わかった。」
"今すぐ"ということは、いずれは何かする気なのだろうか…。
「それじゃあ、出発ー!!」
とりあえずついていくしかなさそうだ……。
「へぇー、騎士の家っすか!カッコいいっすね!」
「そんなことはないよ。兄さんたちのほうがよっぽど優秀だし。」
歩き出した僕は魔物と互いに自己紹介を済ませると、すぐに質問攻めにあった。どうやらさっきまでは好奇心を抑えていたらしい。
「あ、あの!なんであんなところで倒れていたんですか!」
「その、情けないんだけどいきなり森の中にいて…。それで行き倒れていたんだ。」
「と、ということはあそこにいたのは偶然なんですねっ!」
「う、うん…。」
「そっかー……。運命的…。えへへ……。」
花の魔物(アルウネラという種族らしい)のライラは、なぜか興奮しながら質問してきた。
蜂の魔物(こっちはハニービーというらしい)のベルナは質問しながらも、そんなライラをにやにやして眺めている。
「じゃあすげー驚いたんじゃないっすか?」
「うん。魔物を見るのも初めてだった。」
「あー、向こうの街の人は見たことないらしいっすね。」
「……姿も聞いてた姿とぜんぜん違うしね。」
「「???」」
「あー、その、僕の所では魔物は人を襲って喰らうものって聞いていたんだ。子供のころからそんな風にきいていたから余計に驚いたんだよ。」
こう言うとふたりはおかしそうに笑い出した。
「あはは、そんなことないのに。」
「まあ、ソフィアさんとかは怒るとすごく怖いっすけどね。」
「……本当に、そうだね。」
長年、実は魔物は山々を挟んで隣に住んでいたというのによく知らなかったなんて。なぜあんな風に伝わっていたのだろうか。
彼女たちと話しているとよくわかった。姿形は違えど魔物はそれほど危険なものではない。少なくともこうして言葉を交わし、笑いあうことができる。決して人を襲う醜悪な化け物ではない。むしろ、容姿は整っている。いままで人間とは違う部分に注目していたが、二人ともすごい美人だ。 初めて目にした時見惚れてしまったライラはもちろん、ベルナも街では目にできないほどのかわいい。栗色のセミロングの髪に同じ色のくりくりとした目、快活な少女のような雰囲気や言葉使いだが、体つきはもう女性を主張しており、その対比が自然と目を向けさせてしまう。けれど、その主張する部分は隣で揺れているライラの方が圧倒的に……。
「あれあれ〜、どーこ見てるんっすかー。」
「い、いやそのなんだ、二人はいつもどうやって暮らしているんだ?」
「ごまかしちゃって〜。男の人はついつい見ちゃうらしいじゃないっすか。」
見ているのを指摘されからかわれてしまう。ライラのほうも恥ずかしそうにしてる。
「ふふ。私は普段は姉さんたちと一緒に蜜を作ってるっす。作った蜜はソフィアさんやほかの人と交換したり、時々来る商人に売ったりしてるっす。」
「へえ……。」
「たいへんなんすよ。あちこち飛ばなきゃいけないし、蜜を集めようにもライラは全然起きないし。」
「ベ、ベルっ!」
「いいじゃーないっすか。いずれバレるんだから。」
その話を聞いてベルナがライラの花に飛び込んでいった光景を思い出す。あれはそういうことだったのか。ということはあの声はライラの……。い、いや思い出さないようにしないと。なんだかさっきから失礼な事を考えてしまう。
「ライラは何をしているんだ?」
「わ、私はその、別に、森のみんなとのんびり暮らしてるだけです。」
「へえぇー。"別に"、ねぇ。」
「な、なによ…。」
「べっつにー。なんでもないっすよ〜。」
なんだかベルナは意味深な感じだ。
「ところで、どこに向かっているんだ?」
「あ、カルディナさんっていう人のところです。お肉とか交換してくれたり、大きな動物なんか解体してくれるひとなんです。」
「『長老』とか、『先生』にも会わせたいんっすけど、あいにくここからじゃちょっと遠いっすから。」
「いろんな人がいるんだな。」
「そうなんですよ!ほかにも……」
そんな感じで森の事を二人から聞きながら進んでいくと、なんだか香ばしい匂いが漂い始めた。前方に見える家から漂っているらしい。木造だがしっかりとした大きい家だ。住居と作業場らしいところに分かれている。
「うー、この匂い嗅ぐとたまらないっすね…。」
「私は食べれないんだけど…。」
作業場の扉が開いて誰か出てきた。その姿を見て腰を抜かしそうになる。何と血まみれだ。
「うわぁ、カルディナさんどうしたんっすか!」
「……解体。」
ベルナと同じ昆虫の魔物のようだが、こっちは両腕に切れ味良さそうな鎌が付いている。そこから新鮮な血が滴っている。
「カルディナさん!終わりましたよ!」
作業場のもう一方の扉からまた人が出てきた。野太い声から男性のようだ。
出てきた男性は魔物に劣らず目立つ人だった。見上げるような高さの筋骨隆々の身体、もじゃもじゃの髭を生やした熊のような男性だ。
「こんにちは、ゴードンさん。」
「おお、ライラとベルナか!そっちの若いのはどうした!」
「倒れてたんで助けてあげたっす。今は森を案内してるっす。」
「そうかそうか!」
そう言って分厚い手を突き出す。こっちも手を伸ばすとがっちりと握手された。
「ゴードンだ。猟師をやってる。」
「ガ、ガリアン・シーベルトです。」
「ゴードンさんはソフィアさんの旦那さんっす。」
「なんだぁ、ソフィアと会ったのか!どうだ、美人だったろ!」
「は、はい…。」
「そりゃそうだろうな!!何せ自慢の嫁だからな!」
自慢そうに大笑いしている。夫婦揃って熊みたいな外見だが、性格はおっとりのんびりしたソフィアさんとは正反対だ。
「それにしても今日は大勢来てるな!何かあったのか!ンン?」
「大勢…?」
「おう。狩りをしてたらそこら中で兵士がフラフラしててな、今カルディナさんちで飯を食わしてる!」
「そうだったんですか…。」
「……食べた分は働いてもらう。」
ほかの人たちはどうなったか気になっていたが、この様子や僕の体験を考えるとなんだかんだで大丈夫そうだ。
「そういえばソフィアさんに夕食誘われてましたね。」
「おおう、それじゃ話はその時にゆっくりと聞くとするか!」
「ついでにあたしも一緒に……」
「へーえ、それじゃ誰が代わりにお仕事してくれるのかしら?」
「そりゃもちろん……げぇ!」
いつの間にかベルナと同じ種族の人たちが上に飛んでいた。顔つきも似ているし、話にあったお姉さんたちだろうか。どうやらお怒りのようだ。
「またあんたはサボって!」
「ほらとっとと仕事に戻る!」
「うぎゃー!ライラ、ガルっち、また明日〜!」
ベルナは両脇を抱えられ、連れて行かれてしまった。
「ま、ベルナは残念だが帰るとするか!ガリアン、うちの嫁の飯は旨いぞ!」
そんな様子を誰も気にも留めていない。日常茶飯事なのだろう。ゴードンさんがずんずん進んていくのをライラと一緒に慌てて追いかける。
いつの間にか辺りは夕暮れ色に染まっていた。
……本当にこれからどうなっていくのだろうか。そんなことを考えていると、隣を歩いていたライラが口をひらいた。
「あの、ガリアン。」
「うん?」
「ほかにも合わせたい人とか、見せたいものがいっぱいあるので、是非ゆっくりしていってくださいね!みんなきっと歓迎してくれますよ!」
「う、うん……。」
いつの間にかここに長期滞在することが決まっていた。家族は心配するんじゃないだろうか…。 「もしかして…、ご迷惑、ですか…?」
「い、いや。そんなことないよ。よろしく。」
…『外へ出たい』という僕のひそかな夢。それを叶える場所としてはここはぴったりじゃないだろうか。ここには僕の知らない事や想像もしたことのない物がたくさんあるに違いない。
なにより…。
「えへへ、よかったですっ!」
…こんな笑顔を向けられたら、断れないじゃないか。
「えへ〜、えへへ〜よかったです〜。」
「…そんなにうれしいのか?」
「だって…その……。」
ライラは口篭ると、顔を真っ赤にしながら話し始めた。
「わ、私、夢があって。」
「夢?どんな?」
「ど、ど、どんなって………笑わないでくださいね?」
「ああ。」
「…私、小さいころから夢見てたんです。いつか本で読んだ物語みたいに格好良いナイト様と出会って結ばれたいって。」
…もしかして、もしかすると。
「ベルナにも笑われたりしたんです。そんな都合のいい事起きないって。実際にずーっとナイト様どころか男の人とも出会いませんでしたし。けど…。」
ライラがこちらを見る。その顔はまさに恋に恋する乙女の顔だった。
「今日ガリアンと、偶然、そう偶然私は出会ったんです。格好良いナイト様と…運命的な出会いを果たしたんです!」
気がつくと、花の中から手を握られていた。彼女の顔が目の前に来る。
「これからよろしくおねがいしますね……ガリアン♥」
……もしかすると、大変なことになったかもしれない。
例えば夜中にトイレへ行くために起きた時、真っ暗な廊下を通るのは父に怒られるのと同じくらいに怖かった。そんな時に限って、母に聞かされた怖い魔物の話を思い出してしまい、居もしないはずの何かがいるよう感じてしまうのだ。
けれど、実際に進んでみればなんてことはなく、肩すかしを受けたようであり、安心したようでもある気持ちで再びベットに戻るのだった。
だからそう、今感じている不安や恐怖も大したことはない。きっと無事に帰ることができる。そうして後であの時の自分は間抜けだったと笑うに決まっている。そうに決まっている。
……そう自分に言い聞かせても、革手袋の下の手はじっとりと汗をかき、胸の鼓動は収まらなかった。
ガリアン・シーベルトは、港町ウェリンストンの騎士の家の三男として生を受けた。
優秀な兄二人を手本に育ち、特別に裕福ではないが貧乏でもない家庭の状態もあり、彼は十五歳になる頃には心の澄んだ真っ直ぐな青年になっていた。
しかし、十五歳を超えると彼は困ってしまった。これからの人生をどう生きるのか、その目標を見失ってしまったのである。
それまではただひたむきに日々の勉学・武芸に励みながら、主神の教えに恥じぬ生き方をしてきた。しかし、いざ目の前に将来への分かれ道が現れると、どうすればいいのかわからなくなってきたのだった。
既に長男は家を継ぐべく父の補佐として働いている。次男は武芸の才能を生かし、高名な騎士への道を歩みだした。それでは、自分はどうするのかと悩んでしまってのである。
幼い頃からの憧れである二人の兄、そのどちらかの跡を追うのか。それとも全く別の道へ進むのか。両親は三男である彼に対して、ゆっくりと考えればいいと言ってくれた。
…実はこの時、彼の悩みの中ではある夢が燻っていた。
ただの欲求と言ってしまっていいかもしれないその内容は、『外へ出ること』だった。思えば彼はこの街以外を知らなかったのだ。
勿論、全く知らないというわけではなかった。本で学んだ知識、外国から船でやって来た人の話などで知ることはできた。しかし、自分自身の目で見てみたい、手足で感じて見たいという、子供じみた冒険心が純粋な彼の中に残っていたのである。
無論、彼はそれを口に出すことはなかった。もしそんなことを言えば、母親は心底心配するだろうし、父親は渋い顔をする。兄たちも自分を諭すに決まっているとガリアンは悟っていたのである。
そうして、未だに燻り続ける夢を心の奥底に仕舞い、その上を現実的な悩みで覆ってしまった。 そのまま何事もなければ、彼はその街で暮らし続けていただろう。しかし、そんな彼の転機は唐突にやってきた。
十六歳になったばかりのある春の日、高い山々を間に挟んで内陸にある街が魔物の手に落ちたという報せが届いたのだ。
それまで魔物を知ってはいてもどこか遠い存在として感じていた街の人々にとっては青天の霹靂であった。幸いなことにこのことに憂慮した周りの地域や国々からすぐさま騎士団が編成されることとなった。
そんな時にガリアンは父親に頼み込んだ。自分をその騎士団に同行させて欲しいと。
勿論父親は反対した。しかし、結局は最初の出兵であるから武力を伴っての街への警告か偵察で終わるだろうという意見と、彼の熱意に押されて認めてしまった。
この行動が彼の中で隠していた夢が再燃したからなのか、それとも自分の力がどの程度なのかを知りたかったからなのかは定かではない。果たして、彼は父親のコネもあり無事騎士団の一員として(末端の一兵士という形ではあるが)参加することとなったのであった。
初めて体験した行軍はガリアンにとって大変なものだった。
以前は商人たちが行き来していた、山々の間を通り抜ける道を行くのは彼にとって想像以上のものであった。
それでも、足に感じる山道の険しさを、体に感じる疲労を、目に映る山々の景色を感じるたびに気分が高揚していくのを否定できなかった。
そうしてやっとの思いで山を超えると、目的の街が見えてきた。
その時の彼の感想は『拍子抜け』だった。魔物に支配された街というからにはもっと荒廃した感じになっていると思っていたのである。遠目にもそんな感じには見えなかったのだ。噂に聞く恐ろしい魔物の存在など感じられなかった。
やっぱり大した事など起こらないのではないか。そう思いながら山を下り終え、平地に入った瞬間に、ガリアンの記憶は途切れたのだった。
「……う、あぁ。」
そんなうめき声が自分の口から出でいるのを感じて、僕は意識を取り戻した。体に痛みはないものの、頭はモヤがかかったかのようにはっきりとしない。
「あれ、ここは…。」
不思議なことに自分は森の中で突っ立っていたようだった。それも行軍していた時のままの装備で。
「そんな、え、どうして……。」
自分がどうしてこんなところにいるのか、周りにいた他の兵士たちはどうしたのか、そもそもここはどこなのか、どうすればいいのか。
そんなことが頭の中で渦巻き、口から出るのは取り留めのない言葉ばかりだ。
とりあえず装備や体を確認してみることにする。手で触りながら怪我をしていたりなくしたものがないか確かめる。
頭には簡素な鉄兜、その下の髪の毛が茶色なのも変わっていない。手足を見てみれば、両腕に革手袋と、左手には木と鉄で作られた丸い小型のラウンドシールド。脚には行軍で汚れたブーツと革のすね当て。身につけているのは立派な甲冑ではなく革でできた胸当てと、腰に下げた十五歳の誕生日に父からもらった直剣だけだ。背負っていた荷物はどこかへなくしてしまったようだ。
腰の直剣のことを考え、ようやく思い当たる。一体僕はどこまで覚えているのだろうか。
家の場所や住んでいた町の名前、家族の顔や名前からゆっくり思い出していく。そうして、最近のことまで辿っていく。
そう、僕は騎士団に同行して、山をやっとのことで超えて、それから……。
「だめだ。それ以上が思い出せない…。」
自分の記憶がないという初めての体験に動揺するが、それどころではなかった。一体ここはどこなんだ。もしかしたら……。
「もしかして、はぐれたのか…。」
そうかもしれない。現に後ろには、ここまで歩いてきた証拠である自分の足跡が残されている。なれない行軍のせいで知らず知らずに疲労がたまり、それでフラフラとはぐれてしまったのだろう。そうさ、そうに決まってる。人を惑わす魔物の仕業なんてことは……。
「ないに決まってる。そうだ、大丈夫だ…。」
自分で言っていて虚しく感じる。それでも空元気を出して行くしかない。幸い、足跡は残っているのだ。遡って行けば道に出られるだろう。
……そう考え、森へと入って行ったのは無謀だっただろうか。
既に足跡は消えてしまっている上に、すっかりどこへ歩いているのかもわからなくなってしまっている。森の中は薄暗く、どこまでも木々が続いている。
荷物ごと水筒や食料も失ってしまったので、せめて川を見つけるか何か食べられるものを見つけなければいけない。そうしなければ、最悪の場合は飢え死にしてしれないかもしれない。
けれど、あのままあの場にいても何も変わらない。何とかしなくちゃ……、何とかしなくちゃ死ぬ……。
そう考えた途端に、今まで感じたことのないような感覚が体を覆った。手には汗が滲み、鼓動が早くなり、喉が渇いていく。
こんな事なら街を出なければ…。そんな考えが頭を過ぎるが急いで振り払う。自分から望んでおきながらそんなことを思うのはあまりにも身勝手すぎる。
けれど、やがて力尽き、動けなくなった自分の姿を想像してしまい、不安に押しつぶされそうになる。そんな想像を振り払うかのように脚を動かし続ける。きっと、一度しゃがみこんだらもう動けなくなってしまうだろう。
そんな風に無心で脚を動かし続けるがどんどん時間が過ぎていく。それにつれて焦りは大きくなり、やがて陽が天辺を過ぎても、未だに道に出ることもできずにいた。何か口に入れたいと思っても川のせせらぎも聞こえてこないし、食べられそうな物も見当たらない。そもそも見つけられたとしてもそれが有毒なものだったらおしまいだ。
「はぁ…、ぁ……うぅ!」
疲労と不安から動かなくなっていた脚を、ついに木の根に引っ掛けてしまった。急いで立ち上がろうとするが体に力がまるで入らない。心身両方の疲れのせいで手足が鉛になってしまったかのように重い。自分が思っていた以上に早く限界が来てしまったようだ。
「ああ……。」
仰向けになって見た空からは、木漏れ日が注いでいた。眺めているとだんだんと視界が滲んできた。いつの間にか目には涙が浮かんできていた。
僕は、僕は何をしに街を出たのだろうか。結局は、自分の夢も何も叶えられずに、何も残せずにどこともしれない場所で野垂れ死ぬ事になってしまった。そう思うと情けなさで胸がいっぱいになった。
僕は一体どうなってしまうのだろうか。このまま野晒しの死体に成り果てるのか。はたまた、本当に魔物におびき寄せられたならどこかに潜んでいる魔物達に食い殺されてしまうのだろうか…。 父や母、兄たちはどう思うだろうか。悲しむだろうか。それとも、呆れるだろうか。
もうそんな事を考えても仕方がない。悔しいけれど、もう限界の様だ…。
そんな事を考えて目を閉じる。手足も広げて、ずっと手に持っていた盾も投げ出してしまう。そうすると、今まで気にしなかった木々のざわめきや流れる風を感じることができた。普段の街では感じることのないものだ
もしも、ただのピクニックで来ていたならどんなにいい場所だろう。暖かい日の光に柔らかい草に覆われた地面、辺りを漂う草木の甘い匂い……。
「あ、あま…い……?」
こんな状態になってようやく気付いたが、辺りには風に乗って甘い匂いが漂っている。それも砂糖とも、蜂蜜とも違う今まで嗅いだことのないような匂いだ。
なんの匂いか分からないが、木の実でもなんでも、何かあるなら口にしなければいけない。もしかしたら、助かるかもしれない。
そんな思いに動かされ、動かない体で這い蹲るようにして匂いの元である風上へ進んでいく。
途中で茂みをいくつも通り、腕や顔に細かい擦り傷や切り傷を作りながらも進んでいく。
もう諦めてしまおうかという気持ちが何度も湧き上がるが、僅かに残っていた体力、まだ生きていたいという気力。そして、何があるのかという好奇心で心を支えて進んでいく。
こんな状況にあって、まだそんなことを思っている事に呆れてしまうが、どうせダメでも何があるか知っておいた方がいいじゃないか。そんな風に思い直して進んでいく。
どのくらい進んでいるのかは分からないが、どんどんと匂いは濃厚になっていく。
やがて、最後の茂みをかき分けるとぽっかりと開いたところに出る。まるで用意された舞台にように陽が降り注ぎ、そこだけが円形に開いている。その真ん中に『甘い匂いの元』はあった。
「な……!えっ……。」
もしも、出せていたなら大声を出して驚いていただろう。今まで僕が見てきた中で、いや、多分他の街の人も見たことのないようなものが鎮座していた。
植物だ。それも巨大な。大きさは六頭立ての馬車ほどもある。
形も見たことがない。茎は太く短く、その上に大きな花の蕾のようなものが乗っかっている。長い葉の部分は地面ギリギリの所から生えている。全体の大部分は花の部分が占めていて、葉や茎はおまけ程度にしかない。
甘い匂いはその蕾の部分から漂ってきているようだ。証拠に蕾から一筋、とろりとした蜜がたれていて、限界に来ている今の僕にはまるで輝いているように見える。
思わず飛びつきたくなるが、この奇妙な植物に対しての警戒心がそれを押しとどめる。
よく見てみてみると、植物は微妙に動いていた。一定の感覚で少し膨らんだり萎んだりしている様子は、まるで呼吸をしている人間の胸の様だ。こんな動きをする植物があるなんて……。
意を決して、茂みから抜け出そうとした瞬間、今度は風に乗って音が聞こえてきた。どうやら誰かの声のようだ。
「今度…………自分で……………てる。」
「いや〜、無理………。だって………」
会話をしているらしい声は少しずつ近づいてくる。声からして、どうやら、両方とも女性のようだ。
近づいて来るに従って、おかしな音が聞こえてきた。誰かが歩いてくる足音はいいとして、もう一つ音が聞こえる。耳鳴りの時の音のような…、何かの楽器のような……。いや、これは羽音だ。虫の羽音にそっくりの音だ。
巨大花を挟んで反対側からやってきた人達の姿がようやく見えた。その姿を見た瞬間、息を飲んでしまう。
まず、やってきたのはやっぱり女性のようで、人数は二人だった。いや、『二人』と言っていいのかは分からない。やってきたのは人生で初めて目にした『魔物』だったからだ。一人は歩いて、もう一人は飛んでいる。
両方とも外見は人間の女性に似ていて、きちんと服も着ているが、やはり人間とは違う部分が多々ある。
歩いてきた方の魔物は体の各所や手足が動物のような毛に覆われている。両手には鋭い爪のようなものまで生えていて、その様子から熊を想起させる。
飛んできた方の魔物は背中から昆虫のような透明な羽が生えている。どうやらさっきから聞こえていた音はこれが原因のようだ。それ以外にも、お尻の部分から蜂のような黄色と黒の縞々の、これまた昆虫のような部分がくっついている。
人生で初めて魔物を見た事、その魔物が想像していたようなおぞましい姿をしていなかった事。そんなことに驚きながらも息を殺す。
もしも、あれが本物の人を喰らう魔物ならば、弱って倒れている兵士なんて格好の餌だろう。見つかればおそらく命はない。ここで初めて、さっきの倒れたところに盾を放り投げたままだったことを思い出す。
見つかったならば、頼りになるのはもはや腰の直剣一本だけだ。うつ伏せで茂みに隠れながら剣をお守りのように握り締める。主神よ、僕を御守りください…!
耳をそばだてると魔物達の会話が聞こえてくる。
「ほら〜。やーっぱり起きてないじゃないっすか。」
「あ〜、今日もダメだったの〜。ライラちゃーん。もうおひるですよ〜。」
「いつもどうりに起こすっす。」
二人は両手に持った大きな硝子瓶を地面に置いた。熊の魔物が持って来たのは空で、蜂の魔物のほうは琥珀色の液体が詰まっている。
二人は何故か、巨大花を叩いたり耳を当てたりし始めた。
ここで、熊のような魔物の耳が人間のような耳ではなく、獣のような耳が頭の上にあることに気がついた。もう一方の魔物の方も、昆虫の触覚が頭から生えている。
一体何をしているのかと見ていると、熊の魔物が花のてっぺんに手をかけた。
「ふんぬっ!!」
気合を入れるかのように声を出したこと思うと、いきなり花の口の部分を広げた!
本当に、一体何をしようとしているのだろうか…。
ますます注目していると、今度は蜂の魔物の方が花の上へ飛んでいった。様子を見ると、何やら準備するように手を動かしながらニヤニヤと笑っている。
「さーて、いつまでたっても起きないねぼすけには………、オシオキっすよ!!」
楽しそうにそう叫んだかと、勢いよく開いた巨大花の中へ飛び込んでいった!
花は、まるでいきなり入ってきたことに驚くかのように身体を震わせながら、口をパクパクと開いたり、閉じたりしている。
しかし、やがてはだらんと口を広げてしまった。そうすると……何と言うか…、なんだか艶かしい女性の声が聞こえてきたのだ。
こんな状況だというのに、今までとは違った意味で鼓動が早くなっていく。今まで恋人などいなかったため、こんな女性の声を聞くなんて初めてだった。
声が聞こえてきたのを合図に、熊の魔物の方が空のガラス瓶を花の中へ投げ入れた。
しばらく辺りに女性の嬌声が響くのが続き、声が止まると蜜だらけになった蜂の魔物が満足そうな表情で巨大花から飛び出てきた。手には花の蜜が入った瓶を持っている。
「いやぁー、今日もたっぷり採れましたよ。」
「おつかれさま〜。」
そんなことを言い交わしていると、ペロンと花が咲き開いた。
「もう、二人ともひどいですよ!」
そんな言葉とともに開いた花にはとんでもない中身が詰まっていた。
女の人だ。上半身しか見えないが、他の魔物達と違って肌の色が植物のようなのを除けば、普通の身体の形をしているように見える。
あの花も魔物の一種だったのだ。もしも、最初に警戒せずに近づいていたらどんなことになっていたか……。少なくともただで済んだとは思えない。
けれど、見れば見るほど中身は普通の女性にしか見えない。長い髪も、花の蜜と同じ色をした大きな瞳も、朝露を纏った葉のような瑞々しい唇も、たわわに実った果実のような零れ落ちそうなくらいの大きさの胸も………。
そこまで考え、慌てて目を他の場所へ向ける。一体何を考えているのか……。
三人の魔物は笑いながら話していた。花の魔物が文句を言っているのを他の二人は笑いながら流している。
「まったく。もっとほかの起こし方があるじゃない!」
「そうっすね〜。自分で起きればいいっすねぇ〜♪」
「うぐっ…。」
「そうだよ〜。ちゃんと自分で起きないと〜。」
「今度こそ!今度こそ自分で起きます!」
「今度っていつっすか……。」
こうして会話していると、まるでその様子は街角の少女たちに見える。花の魔物もその表情をころころと変化させている。本当に普通の少女にしか見えない。いや、むしろかなり可愛い……。
「そういえば〜、けさから森が騒がしいけど〜?」
「そうなんですか?気づかなかったですけど?」
「そりゃライラはずっと寝てたっすからね……。」
「なんかね〜。いっぱい人が来たみたいなの〜。」
「あっ!そういえば長老が言ってたっすよ。近々男の人がいっぱい来るって。」
「ほ、ほんとですかっ!」
「この前手伝いに行った時に聞いたから間違いないっす。あ〜あ、暇だったら見物しにいきたいっすけど。」
「と、と、ということは……きっと…」
「あ、それはないっす。」
「まだ何も言ってない!」
「そりゃ、いつも言ってりゃ予想もできるっすよ…。」
会話を聞いていて確信する。やっぱり、記憶を失っていきなり森に迷いこんだのは魔物の仕業だったらしい。
「ん……?」
「どしたっすか?」
「あそこに…何か……いるような…?」
心臓が飛び上がる。まさか……、まさか!
「何か〜?」
「気のせいかもしれないですけど…。」
「どれどれ〜。」
熊の魔物が確認しようと動き出す。花の魔物が指さした方へ…、僕が隠れている茂みのほうへ! こうなったら、もう覚悟を決めるしかない。相手が近づいたら先手を取って怯ませる。その隙に急いで逃げるしかない。逃げられる可能性は限りなく低いだろうが、やるしかない。
「んー、なんにもないように見えるっすけどね。」
「なんて言うのかな、気配っていうか……匂いっていうか…。」
いよいよ近づいてくる。剣にゆっくりと手を伸ばし抜こうとする。
しかし、動かそうとしても手が動かない。見ると手は震えていた。力を入れて握りこぶしを作ろうとするが、全く力が入らない。気がつくと歯が震え、カチカチと音を立てていた。
一体どうしてしまったんだ、手を動かすんだ!
そんな風に自分を激励するが効果はない。自分はこんなに腰抜けだったのかと愕然としてしまう。こんなに情けない気持ちになるのは今日だけで二回目だ。
足音はついにすぐそばまで近づいてきた。体は痺れたように感覚がなくなっていく。
こんな、こんな最期になるなんて。騎士の家に生まれておきながら魔物を目の前に一撃も加えることなく、ただ恐怖に震えて死ぬだけなんて……。これなら野垂れ死にの方がよかったかもしれない。
隠れている茂みが掻き分けられるのを感じる。うつ伏せのまま目を閉じてしまう。
「あれあれ〜?」
「え。ホントになんかあったんっすか?」
「う、うん…。」
大きな手に体が持ち上げられる。恐怖のあまり目は縫い付けられたかのように開かない。
「うえぇぇぇぇ!?」
「マ、マジっすかぁぁぁ!!」
そのままほかの二人の元と運ばれていく。
「んんー?もしかして森の中迷って力尽きたんっすかね。」
「なら〜見つけられてよかったね〜。」
「見たところ大した怪我もしてないようですし。」
どうやら、こっちが気を失っていると思っているようだ。
「それなら〜これで大丈夫かな〜?」
それまでの運ばれるような形から、まるで抱きかかえられるような形に変わる。
「ま、待ってください!私がやります!!」
「うん?いいけど…。」
一体何をされるのかと身構えていると、何かが柔らかく、細いものが口元に当たる。
それは優しく口を開かせると、それを伝って甘いものが口の中へ流れ込んできた。反射的に飲み込んでしまう。
甘いものを飲んだ瞬間、体が温かくなり力が戻ってくるのがわかる。こわばっていた体がゆっくりとほぐれていき、やっと目を開けることができた。
目に飛び込んできたのは、間近に迫った花の魔物の顔だった。こちらの方を興味深そうな顔をして覗き込んでいる。口に当たっているのは彼女の指だった。思わず声を上げてしまう。
「よ、よかった!気がついたんですね。痛いところとかありますか?」
いきなり近くから魔物に話しかけられ、戸惑ってしまう。
飲まされたのは彼女が出していた蜜の様だが、一体何で助けるような事をしたのか分からない。魔物相手だがお礼を言ったほうがいいのだろうか。どんなことを言えばいいのか…。
「とりあえず川に行こっか〜。服や傷口をきれいにしなくちゃいけないし〜。」
「あ、はい。」
そんな様子を見かねたのか熊の魔物が提案する。確かに這いずり回っていたため土で汚れているし、擦り傷や切り傷もなんとかしたい。
そのまま僕の身体を抱えて軽々と歩き出してしまう。花の魔物はどうするのかと見ると、なんと今まで地面に埋まっていた太い根っこが動き出し、足のように動かし始めた。どうやら植物なのに移動できるらしい。
このまま運ばれていっていいのか。けれど、今逃げ出したとしてもまた森のなかで彷徨うことになるだけだ。幸い魔物たちは今すぐ何かする気はなさそうだ。
あっという間に川に到着する。この何倍の時間も歩いていたというのに川を見つけられなかったのを思うとまた情けなくなってきた。
熊の魔物は僕を川原に座らせると、身につけていた装備を手際よく脱がせ始めた。次に腕についた傷を川水で洗い始める。傷口が少し痛むのに我慢していると、ニコニコしながらこちらに話しかけてきた。
「あの〜、名前は〜?」
「……え、あ…。」
「私はソフィア。あなたは?」
「……ガリアンです。」
「よろしくね〜。この森で家族と一緒に暮らしてます〜。」
「そ、そうですか…。」
「なんだか大変だったみたいだけどもう大丈夫だからね〜。」
熊の魔物改め、ソフィアさんはのんびりとした感じで話している。話していても敵意らしいものは感じないし、むしろ彼女の目には暖かさすら感じる。
「どこからやって来たの〜?」
「………ウェリンストンから。」
いろいろ言っていいものか迷ったが話し続けてしまう。黙っていてもしょうがないというのもあったが、何よりソフィアさんの雰囲気がこちらが安心させるものだったからだ。
「えっと、山の向こうの街だっけ?」
「は、はい。」
「兵士さんなの〜?」
「いえ、正式な兵では…。」
「へえ〜。あ、お腹とか空いてる?」
「……少し。」
「う〜ん、どうしよっかな〜?」
……てっきり、何のために兵士がこんなところにいるのか聞いてくると思ったが、なんだか興味がなさそうだ。ほかにもいくつか質問されるが、好きな食べ物だとかを聞かれただけだった。
ふと、ほかのふたりはどうしているのかと見ると、あちらはあちらでなんだか話し込んでいた。 「それにしても本当に叶うものなんですね…。」
「え、あれでいいんっすか!違くないっすか!」
「だって剣持ってるし…。」
「そ、そうっすか…。まあ……よかったっすね…。」
「うん……。えへへ……。」
「…こりゃ何言ってもムダそうっす。」
……何を話しているのかがイマイチ分からない。
「はい。終わったよ〜。」
「え、あ、ありがとう、ございます。」
いつの間にか脱がされた装備も綺麗になっていた。
「あ、ソニアがそろそろ帰って来るから戻らないと〜。」
「そうっすね。娘さん元気っすか?」
「うん。相変わらず元気いっぱいだよ〜。」
ソフィアさんには子供がいるらしい。そういえば家族と暮らしていると言っていた。
…思えば魔物がどんな風に生きているだとか、ましてや結婚するなどと想像してしたこともなかった。今までの魔物に対するイメージは改める必要がありそうだ。こうやって助けてくれているのを見ると問答無用で人を襲うということもなさそうだ。
「そうだ、ガルく〜ん。」
「え、僕のことですか…?」
「そうそう〜。よかったら夕食はうちに食べにきてね〜。」
「はぁ……。」
「あとはお願いね〜。ライラちゃん。」
そう言い残したあと、琥珀色の液体の詰まったガラス瓶を持って帰っていく。あれは確か蜂の魔物が持ってきたやつだったけどいいのだろうか。そう思って本人のほうを見ているとこちらに近づいてきた。
「どもー。ベルナっす。よろしく。」
「ど、どうも。」
「ベルナは帰らなくていいの?」
「せっかくだから一緒に行くっす。」
「サボってるとまたお姉さんたちに怒られるよ。」
「……ま、まぁ大丈夫っすよ!」
ふたりが話しているのを聞きながらこの後どうするか考える。
森を出ることは無理だ。闇雲に歩いても迷ってしまうし、例え地図があったとしても今の疲れた体では不可能だ。何より、わざわざ誘い込んだなら魔物たちにはなにか目的があるのだろう。
…それでも、彼女たちは良い人そうだし信じてみるか。
「それよりこれからどうするっすか?」
「うーん…せっかくだから森の中でも案内しようか、えーと、ガ、ガリアンくん。」
「…は、はい。お願いします。」
「そんな緊張しなくても今すぐとって喰おうなんて思ってないっすよ。敬語じゃなくてもいいっすし。」
「わ、わかった。」
"今すぐ"ということは、いずれは何かする気なのだろうか…。
「それじゃあ、出発ー!!」
とりあえずついていくしかなさそうだ……。
「へぇー、騎士の家っすか!カッコいいっすね!」
「そんなことはないよ。兄さんたちのほうがよっぽど優秀だし。」
歩き出した僕は魔物と互いに自己紹介を済ませると、すぐに質問攻めにあった。どうやらさっきまでは好奇心を抑えていたらしい。
「あ、あの!なんであんなところで倒れていたんですか!」
「その、情けないんだけどいきなり森の中にいて…。それで行き倒れていたんだ。」
「と、ということはあそこにいたのは偶然なんですねっ!」
「う、うん…。」
「そっかー……。運命的…。えへへ……。」
花の魔物(アルウネラという種族らしい)のライラは、なぜか興奮しながら質問してきた。
蜂の魔物(こっちはハニービーというらしい)のベルナは質問しながらも、そんなライラをにやにやして眺めている。
「じゃあすげー驚いたんじゃないっすか?」
「うん。魔物を見るのも初めてだった。」
「あー、向こうの街の人は見たことないらしいっすね。」
「……姿も聞いてた姿とぜんぜん違うしね。」
「「???」」
「あー、その、僕の所では魔物は人を襲って喰らうものって聞いていたんだ。子供のころからそんな風にきいていたから余計に驚いたんだよ。」
こう言うとふたりはおかしそうに笑い出した。
「あはは、そんなことないのに。」
「まあ、ソフィアさんとかは怒るとすごく怖いっすけどね。」
「……本当に、そうだね。」
長年、実は魔物は山々を挟んで隣に住んでいたというのによく知らなかったなんて。なぜあんな風に伝わっていたのだろうか。
彼女たちと話しているとよくわかった。姿形は違えど魔物はそれほど危険なものではない。少なくともこうして言葉を交わし、笑いあうことができる。決して人を襲う醜悪な化け物ではない。むしろ、容姿は整っている。いままで人間とは違う部分に注目していたが、二人ともすごい美人だ。 初めて目にした時見惚れてしまったライラはもちろん、ベルナも街では目にできないほどのかわいい。栗色のセミロングの髪に同じ色のくりくりとした目、快活な少女のような雰囲気や言葉使いだが、体つきはもう女性を主張しており、その対比が自然と目を向けさせてしまう。けれど、その主張する部分は隣で揺れているライラの方が圧倒的に……。
「あれあれ〜、どーこ見てるんっすかー。」
「い、いやそのなんだ、二人はいつもどうやって暮らしているんだ?」
「ごまかしちゃって〜。男の人はついつい見ちゃうらしいじゃないっすか。」
見ているのを指摘されからかわれてしまう。ライラのほうも恥ずかしそうにしてる。
「ふふ。私は普段は姉さんたちと一緒に蜜を作ってるっす。作った蜜はソフィアさんやほかの人と交換したり、時々来る商人に売ったりしてるっす。」
「へえ……。」
「たいへんなんすよ。あちこち飛ばなきゃいけないし、蜜を集めようにもライラは全然起きないし。」
「ベ、ベルっ!」
「いいじゃーないっすか。いずれバレるんだから。」
その話を聞いてベルナがライラの花に飛び込んでいった光景を思い出す。あれはそういうことだったのか。ということはあの声はライラの……。い、いや思い出さないようにしないと。なんだかさっきから失礼な事を考えてしまう。
「ライラは何をしているんだ?」
「わ、私はその、別に、森のみんなとのんびり暮らしてるだけです。」
「へえぇー。"別に"、ねぇ。」
「な、なによ…。」
「べっつにー。なんでもないっすよ〜。」
なんだかベルナは意味深な感じだ。
「ところで、どこに向かっているんだ?」
「あ、カルディナさんっていう人のところです。お肉とか交換してくれたり、大きな動物なんか解体してくれるひとなんです。」
「『長老』とか、『先生』にも会わせたいんっすけど、あいにくここからじゃちょっと遠いっすから。」
「いろんな人がいるんだな。」
「そうなんですよ!ほかにも……」
そんな感じで森の事を二人から聞きながら進んでいくと、なんだか香ばしい匂いが漂い始めた。前方に見える家から漂っているらしい。木造だがしっかりとした大きい家だ。住居と作業場らしいところに分かれている。
「うー、この匂い嗅ぐとたまらないっすね…。」
「私は食べれないんだけど…。」
作業場の扉が開いて誰か出てきた。その姿を見て腰を抜かしそうになる。何と血まみれだ。
「うわぁ、カルディナさんどうしたんっすか!」
「……解体。」
ベルナと同じ昆虫の魔物のようだが、こっちは両腕に切れ味良さそうな鎌が付いている。そこから新鮮な血が滴っている。
「カルディナさん!終わりましたよ!」
作業場のもう一方の扉からまた人が出てきた。野太い声から男性のようだ。
出てきた男性は魔物に劣らず目立つ人だった。見上げるような高さの筋骨隆々の身体、もじゃもじゃの髭を生やした熊のような男性だ。
「こんにちは、ゴードンさん。」
「おお、ライラとベルナか!そっちの若いのはどうした!」
「倒れてたんで助けてあげたっす。今は森を案内してるっす。」
「そうかそうか!」
そう言って分厚い手を突き出す。こっちも手を伸ばすとがっちりと握手された。
「ゴードンだ。猟師をやってる。」
「ガ、ガリアン・シーベルトです。」
「ゴードンさんはソフィアさんの旦那さんっす。」
「なんだぁ、ソフィアと会ったのか!どうだ、美人だったろ!」
「は、はい…。」
「そりゃそうだろうな!!何せ自慢の嫁だからな!」
自慢そうに大笑いしている。夫婦揃って熊みたいな外見だが、性格はおっとりのんびりしたソフィアさんとは正反対だ。
「それにしても今日は大勢来てるな!何かあったのか!ンン?」
「大勢…?」
「おう。狩りをしてたらそこら中で兵士がフラフラしててな、今カルディナさんちで飯を食わしてる!」
「そうだったんですか…。」
「……食べた分は働いてもらう。」
ほかの人たちはどうなったか気になっていたが、この様子や僕の体験を考えるとなんだかんだで大丈夫そうだ。
「そういえばソフィアさんに夕食誘われてましたね。」
「おおう、それじゃ話はその時にゆっくりと聞くとするか!」
「ついでにあたしも一緒に……」
「へーえ、それじゃ誰が代わりにお仕事してくれるのかしら?」
「そりゃもちろん……げぇ!」
いつの間にかベルナと同じ種族の人たちが上に飛んでいた。顔つきも似ているし、話にあったお姉さんたちだろうか。どうやらお怒りのようだ。
「またあんたはサボって!」
「ほらとっとと仕事に戻る!」
「うぎゃー!ライラ、ガルっち、また明日〜!」
ベルナは両脇を抱えられ、連れて行かれてしまった。
「ま、ベルナは残念だが帰るとするか!ガリアン、うちの嫁の飯は旨いぞ!」
そんな様子を誰も気にも留めていない。日常茶飯事なのだろう。ゴードンさんがずんずん進んていくのをライラと一緒に慌てて追いかける。
いつの間にか辺りは夕暮れ色に染まっていた。
……本当にこれからどうなっていくのだろうか。そんなことを考えていると、隣を歩いていたライラが口をひらいた。
「あの、ガリアン。」
「うん?」
「ほかにも合わせたい人とか、見せたいものがいっぱいあるので、是非ゆっくりしていってくださいね!みんなきっと歓迎してくれますよ!」
「う、うん……。」
いつの間にかここに長期滞在することが決まっていた。家族は心配するんじゃないだろうか…。 「もしかして…、ご迷惑、ですか…?」
「い、いや。そんなことないよ。よろしく。」
…『外へ出たい』という僕のひそかな夢。それを叶える場所としてはここはぴったりじゃないだろうか。ここには僕の知らない事や想像もしたことのない物がたくさんあるに違いない。
なにより…。
「えへへ、よかったですっ!」
…こんな笑顔を向けられたら、断れないじゃないか。
「えへ〜、えへへ〜よかったです〜。」
「…そんなにうれしいのか?」
「だって…その……。」
ライラは口篭ると、顔を真っ赤にしながら話し始めた。
「わ、私、夢があって。」
「夢?どんな?」
「ど、ど、どんなって………笑わないでくださいね?」
「ああ。」
「…私、小さいころから夢見てたんです。いつか本で読んだ物語みたいに格好良いナイト様と出会って結ばれたいって。」
…もしかして、もしかすると。
「ベルナにも笑われたりしたんです。そんな都合のいい事起きないって。実際にずーっとナイト様どころか男の人とも出会いませんでしたし。けど…。」
ライラがこちらを見る。その顔はまさに恋に恋する乙女の顔だった。
「今日ガリアンと、偶然、そう偶然私は出会ったんです。格好良いナイト様と…運命的な出会いを果たしたんです!」
気がつくと、花の中から手を握られていた。彼女の顔が目の前に来る。
「これからよろしくおねがいしますね……ガリアン♥」
……もしかすると、大変なことになったかもしれない。
13/12/04 17:45更新 / てにはに
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