旅の終りと詩の翼

 ウェールズのアングルシー島。
 産業革命の余波が及んでいないこの島の、牧場と麦畑ばかりが広がる丘の一角に、そこそこ大きな二階建ての屋敷がある。
 庭にある背の高いオークの木が目印のこの屋敷こそ、イギリス貴族の三男坊で今年十五歳になるユーリが暮らす家だ。
 機械みたいに淡々と作業をこなす召使いと一緒に。
 血の繋がった家族と離れて。
 たったの一人ぼっちで。
 まるで幽閉でもされたかのように。



 ユーリの詩が翼を持ち始めたのは、ある冬の朝のことだ。
 閉め忘れた窓から吹き込んだ冷たい風でユーリが目を覚ますと、窓辺にセイレーンが居た。
 オークの木の太い枝に腰掛けて、ユーリがコマドリのために用意した栗をポリポリ齧りながら、小鳥たちとピーチクパーチクおしゃべりに興じている。
 それは非常に絵になる光景だった。
 娼婦よりも露出の多い、ともすればはしたないとさえ言える格好の女の子。しかし彼女の奔放な笑顔は力強く、生命力に溢れていて健康的だ。フラゴナールのロココ画のように、年頃の少女だけが持つ妖艶さと清純さの危ういバランスが見事に保たれている。
 だが、まだ十五歳のユーリにはそんな小難しいことは解らない。
 素敵な光景だな。
 そう思いながら、朝日に照らされるセイレーンを寝ぼけた眼で見つめているだけだ。

「おはよう少年。この木、ちょっと借りてるわよ」
「ああ、うん、どうぞ」

 低血圧のせいで全然動き出そうとしない脳味噌が、勝手に適当な返事をする。
 ユーリは、眼を覚ましてから動き出すまでに三十分もの暖機運転を必要とするのだ。
 でも、この日のユーリは頑張った。のそのそと冬眠中のクマみたいにゆっくり動くと、ベッド脇のナイトテーブルから万年筆とメモ帳を手繰り寄せる。
 新しい朝に、とか、オークの木の小鳥、とか象徴的な言葉が書き連ねてあるそのメモ帳は、ユーリの詩作メモだ。目の前のセイレーンに受けたインスピレーションをなんとかメモに残そうと、気だるい体を酷使しているのである。
 
「それ、なに?」

 じっと自分を見つめるユーリの視線が気になったのだろうか。セイレーンが小首を傾げて聞いてきた。
 ただの落書き。そう簡潔に答えたユーリに、セイレーンは納得しない。

「随分真剣な落書きなのね?」
「そう見える?」
「見えるから聞いてるのよ。ちょっと貸して」
 
 ユーリはのたのたと窓際まで歩くと、差し出されたセイレーンの翼にメモ帳を乗せた。
 羽毛に埋もれて見えないがちゃんと指があるらしく、翼を使って器用にメモ帳をめくる。
 
「翼の生えた少女……風の詩……狩人……これ、詩? メーリケのパクリっぽいのばっかり」
「好きなんだよ、メーリケ」

 エードゥアルト・メーリケはドイツのロマン主義詩人である。数多くの魔物と親交があったらしく、彼女たちから聞いた恋愛物語をときにユーモラスに、ときに強烈に、悲喜こもごもに仕立て上げる名人だ。
 ユーリは、感情の爆発ともいうべきメーリケの詩をはじめて見たときから、彼の熱烈なファンになった。

「へぇ。イギリス人なのにメーリケが好きなんだ? それじゃ、栗のお礼に――」

 セイレーンは何度か咳払いをして喉を整えると、歌い出す。

「僕は知っている! ハチミツよりも甘いものを! 愛する恋人とキスすることほど甘いものは、この世に無いのだということを! だが僕は、あの娘の唇の甘さを知らないのだ!」

 メーリケの、少年とハチミツという詩だ。
 女が歌うと味も素っ気も無いし、男が歌うと生々しく下衆た感じになるこの詩を、彼女は完璧に歌い上げた。ボーイッシュなセイレーンの歌声が、思春期のませた少年が抱く恋の矢となって放たれる。
 目標はユーリただ一人だけ。
 胸の奥の深いところを射抜かれて、一瞬グラリとよろめきそうになる。 
 一発で目が覚めた。
 気だるさが吹き飛んだ。
 寝起きの頭痛も消え去った。
 詩や物語の中でしか知らなかった恋という感情が身体の中で炸裂して、その真実をユーリに叩きつけてくる。甘いだけだと思っていたあの感情が、こんなにも激しいものだったなんて。

「拍手とか、無いの?」
「あ」

 ついさっきまでとは違う理由でぼうっとしていたユーリは、促されて慌てて手を叩く。
 セイレーンは仰々しく頭を垂れると、それじゃあね、と手を振って飛んでいってしまった。

「あ」

 ユーリは何の声もかけられず、セイレーンを見送るしかなかった。
 時間にして五分にも満たない出来事だったけれど、胸に植えつけられた甘い疼きはもう二度と消えそうに無い。
 
「また来てくれるかな」

 もう見えなくなってしまった彼女の姿を探して、ユーリは空を見上げ続けていた。



 なんと、セイレーンはそれから毎朝やってくるようになった。
 オークの枝に腰掛けて、庭に巣を作ったコマドリたちとお喋りしながらユーリを待つ。
 ユーリが起き出してくると、前の日の分のメモをひったくって読む。
 それが終わると短い詩をひとつ歌って、どこかへと飛んで行く。
 一緒に居てくれる時間は日によってまちまちだが、それでも十分を超えることは無い。
 詩というのはそんなに長いものではないので、いくつかに目を通してもらい感想をもらうだけだと、五分程度もあれば済んでしまうのだ。
 それでもユーリは嬉しかった。
 彼女はユーリと同じで感情をストレートに表現するロマン派を支持していたし、彼女の持つ詩や歌に関する知識はユーリを凌いでいた。なにより、その指摘はいつも確実だった。
 反面、彼女は凄く厳しい一面も持っていて、ユーリは泣かされそうになったこともある。

「ロマン派を気取るならドイツ語とフランス語くらいペラペラ喋れなきゃ! 勉強よ!」
「上っ面だけで語るなら詩なんかやめちゃいなさいよ!」
「恋でも恐怖でも恨みでも良いの! 一番強烈な感情を短く鮮烈に歌うのが詩なのよ!」
「なにこれ? え? 詩なのこれ? 幼児の日記かと思ったわ」

 でも、良い詩が出来たときは大げさなまでに褒めてくれる。

「これ最高! 歌いたくてウズウズする!」
「シェークスピアの再来ね!」
「ユーリ詩集って纏めて売り出せば売れるんじゃない?」
「そのメモ暗記するから寄越しなさい!」

 実際に小鳥たちのさえずりに合わせて、即興で歌ってくれたこともある。
 あるときなんて、興奮しすぎて枝から落っこちたこともあった。
 そんな、ユーリの師匠とも言えるセイレーンだが、彼女自身は詩作が全然出来ないらしい。覚えたり歌ったりするのと作るのとでは、全然違うことなのだろう。

「おぉ、翼を持った超美人なお嬢さん……」
「超美人ってどんな美人さ!」
「じゃあ、パーフェクトガールなお嬢さん」
「ガール被ってる!」
「くっ! ユーリの癖に生意気なのよ!」

 しかも、ツッコミどころが満載の詩を作るくせに、指摘すると起こったり拗ねたりするから手に負えない。酷いときには、コマドリに命じてユーリの頭を突かせたりしてくるのだ。
 その上、そういう日に彼女が歌う詩は決まって暗い詩ばかり。
 戦場に行って帰ってきたら彼女が浮気していただとか、幽霊になって帰ってみると奥さんが再婚していただとか、そんな一日が暗くなるような詩を朝っぱらから歌ってくれるのだから、ユーリとしては堪ったものではない。
 対策としてナイトテーブルにお菓子を隠しておき、怒らせてしまったときには謝りながらそれを差し出すという、ちょっと姑息な技を駆使するハメになった。

「お菓子なんかで許したりは……」
「ナッツたっぷりのタルトだよ?」
「そ、そのくらいじゃ」
「チョコもかかってるよ?」
「くっ! 今日だけなんだからね!」
「はいはい。それじゃ、あーんして」

 いっつも今日だけって言っているよなぁ。
 そんなことを考えながら、ユーリはセイレーンの口にタルトを突っ込む。
 セイレーンは羽が邪魔でフォークを使いにくいらしく、初めてケーキをあげた日には落っことして粉砕してしまった。それ以来、お菓子を食べるときにはユーリが食べさせてあげるのが暗黙の了解になった。
 
「お菓子も詩も、甘いのが一番よね」
「僕はあんまり食べられないから、これもあげる」
「そんなんで機嫌が良くなったりしないんだからね!」
「はいはい」

 毎朝の短い逢瀬は、ユーリにとってもの凄く幸せな時間だったのだ。



 クリスマスなんて、いつまでも来なければ良いのに。
 ベッドの中に篭ったユーリは、生まれて初めて神を呪った。
 神には何の責任も無い。けれど、そうせずにはいられなかった。

「明日、クリスマスの日に、ナイチンゲールたちと旅立つの」

 セイレーンは、バックコーラスを務めるナイチンゲールたちと行動を共にするらしい。だから、ナイチンゲールが渡りを始める十二月になると徐々に南へと旅立っていくのだ。

「ギリギリまで延期していたんだけど、明日、最後の一団と一緒に行くわ。だから、会えるのは明日の朝が最後」
「そう、なんだ」
 
 旅立ちを知らされたとき、ユーリは結局それしか言えなかった。
 
「西アフリカで冬を越すのよ」
「へぇ」
「美味しいものもいっぱいあるそうよ」
「へぇ」
「ちょっと、ちゃんと聞いてる?」
「うん」

 もちろん聞いていなかった。
 甘かったはずの胸の疼きは、たったの一瞬で姿を変えた。尖りに尖ったその想いは、以前の甘さを微塵も感じさせずに痛く苦しく胸を刺す。それと戦うのに精一杯で、ユーリは西アフリカという地名と彼女が旅立つということ以外聞いちゃいなかったのだ。
 だから。そんなことだから。

「バカ! ユーリはバカ! 結局、私の言うことなんてこれっぽっちも解ってなかったんじゃない! これじゃあ、私がバカみたいじゃない! 私、何のために……」
「え、いや、その、ごめん」
「もう帰る! 今日は歌ってあげない! もし明日もそんなふうだったら、アフリカに行ったきり帰ってなんか来ないんだから!」
「あ」

 初めて出会ったあの日のように、ユーリは何の声もかけられずセイレーンを見送った。
 結局、ユーリは何一つあの日と変わっちゃいなかったのだ。
 元気で、物知りで、怒りっぽくて、でも詩作が下手なあのセイレーンと毎日逢瀬を重ねて、それでも何にも成長できていなかったのである。
 だから、愛想を尽かされたのだ。ユーリはそう思い込んでしまった。
 ベッドの上で甲羅に引っ込んだ亀みたいになったユーリは、やっぱり亀みたいにそこから手だけをニョキっと伸ばしてメモ帳を手繰り寄せる。それから首もニョキっと突き出して、ページを捲りはじめた。
 そこに書かれているのは二つの筆跡。
 澱みのない流れるような筆跡はユーリのもの。まがりなりにも貴族らしい文字の内容は、ほとんどが詩かそのための詩作メモだ。最初の頃のモチーフは窓の景色や本から得たものだけだが、後ろにいくに従い、ムクドリがオレンジを盗んだ話やコマドリの夫婦喧嘩の話などの、セイレーンが喋る外の出来事が増えていく。
 もう一つの筆跡。ところどころで引っ掛かったように歪む文字はセイレーンのもの。フォークも満足に使えないような翼の手で、ユーリのために書いてくれた文字。特に重要な部分は何重にも○で囲まれていて、これでもかと強調してあった。
 
 ――詩は戦いだ!
 ――強烈な感情を短く鮮烈に歌うのが詩!
 ――感じたことを素直に!
 ――男の子は欲しがるもの! 女の子は待っているもの!
 ――甘い恋は喜劇に! 辛い恋は悲劇に!
 
「あれ? これって……」



 次の日、ユーリは珍しく早起きをした。普段なら会話もしない召使に何度も言い聞かせて、日が昇るのと同時に起こしてもらうようにしたのだ。
 舞踏会用の、結局一度も着る機会がなかったジュストコールを引っ張り出してしっかり身支度を整え、評判の良かったナッツのタルトやアーモンドチョコなんかのお菓子もたっぷり用意して、ユーリは窓辺でセイレーンを待つ。
 ウェールズの冬にしては珍しく霧の無い空に、小さな黒い点が浮かんだ。
 それがだんだんと大きくなって、次第に人間のような輪郭を帯びてくる。
 ユーリはバクバクと鳴る心臓を抑えながら、一度だけ深呼吸をした。
 じとり。
 いつものように木の上に腰掛けた彼女は、そんな音が聞こえてきそうなほど不機嫌な顔でユーリを睨め付ける。

「お、おはよう」
「……おはよう」

 可愛い女の子って、怒るともの凄く怖い。ユーリは、世の男性が一度は感じたことのある真実に、同じように到達していた。

「私の教えたこと、ちゃんと解ってるのよね?」
「多分、ね」
「ふうん。 で、なんでそんな華美華美しい服なワケよ?」
「一世一代の大舞台だから」
「ふうん」

 何を言っても「ふうん」で返ってくる。
 正解なんだか不正解なんだか解りやしない。
 ただでさえ弱い胃は緊張で痛くなってくるし、ストレスで頭痛まで併発しそうだ。田舎での静養を促されるほどの虚弱体質は伊達じゃないのである。正直なところ、逃げ出したくて堪らない。とっとと貧血で気絶して、楽になってしまいたい。というか、いつもなら既にそうなっているだろう。
 だが! 今日だけはそういうわけにはいかないのだ! 
 男の子は欲しがるもの! 女の子は待っているもの!
 男の子のユーリが欲しがっているなら、女の子のセイレーンは――。
 ユーリは下っ腹に思い切り力を込めて歌いだす。

「ねえ、旅人よ! どこへ行くんだい? 待って! 聴いて! せっかく出会ったんだから!
可愛い人よ、もうどこへも行かないで! 僕たちの出会いは恋の旅路の終りなのだから!」

 身体はヒョロヒョロだし、そもそも十五歳の少年が歌うような歌ではない。しかも発声練習だってロクにしていない上に、歌い方の基本は滅茶苦茶だ。覚えたり歌ったりするのと作るのでは全然違うことなのだと、改めて思い知る。
 もちろんそんなユーリの詩は、声は掠れるし音程は外すしで悲惨なものだった。

「シェイクスピアの僕の恋人ね……下手にも程ってものがあるわよ」

 もちろん頂いたのは酷評中の酷評で、得た評価は下の下の下。
 だけれども。
 セイレーンは笑っていた。さっきまでの怖い顔はどっかへ吹っ飛んで、いつもの可愛らしい健康的な笑顔で可笑しそうに笑っていた。

「これはアレね! 私が一年中付き添って教えないとダメね!」
「ってことは」
「何よ!? 男の子の癖に、女の子に皆まで言わせるつもり!?」
「違います」
「よろしい」
 
 そこでセイレーンは後ろを振り返り、大きく手を振った。
 いつの間にか庭園の木々に留まっていたナイチンゲールたちが、一斉に空へと飛び立つ。

「こんなにいっぱいいたの?」
「そうよ、私モテモテだったんだから」

 空を覆いつくすナイチンゲールたちが南を目指して渡っていく。初めて見る光景に、ユーリは見蕩れてしまった。あの小柄な身体で、遠い遠いアフリカまで飛んでいくのだ。
 もの凄い勇気だと思う。もの凄い頑張りだと思う。
 あんな小鳥に負けてなんかいられない。
 拳をぎゅっと握り固めていることに、ユーリ自身は気付いていなかったけれど。

「ユーリ、今一瞬だけ男の顔してた」
「え? いつだって男の顔だと思うんだけど?」

 男の顔が女になったら怖いじゃないか。

「やっぱりユーリはバカなのね」
「なんでさ!」
「しーらない」


 
 ウェールズのアングルシー島。
 産業革命の余波が及んでいないこの島の、牧場と麦畑ばかりが広がる丘の一角に、そこそこ大きな二階建ての屋敷がある。
 庭にある背の高いオークの木が目印のこの屋敷こそ、イギリス貴族の三男坊で今年十五歳になるユーリが暮らす家だ。
 礼儀正しく正確に職務をこなす有能な召使を従えて。
 ロンドンで暮らす親兄弟と親しく手紙のやり取りを交わしながら。
 愛する魔物と二人で一緒に。
 清浄な空気と豊かな自然を満喫しながら。
 
 セイレーンの少女は恋人と出会い旅を終え、翼を持った少年の詩は心の中へと飛び込めるようになったのだ。

初投稿ですがよろしくお願いします。
投稿者はボーイミーツガールが好きです。
特に主人公が成長するやつとか大好物です。
なので、そういうのを書いてみました。
皆様の胸が甘酸っぱくなりますように。

11/12/18 00:47 ムササビ

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