番外編 仔兎争奪大会
僕は、幼い頃から勘だけは良かった。
嫌な感じがする場所に行くと、実際に嫌なことが起こる。行かなければ何も起こらず、後日代わりに誰かがそこで不幸な目にあったと聞いたり。
僕が孤児でありながら凄惨なスラムを一人で生き抜いて来れたのも、この直感のおかげなのだと思っている。
あれは雲ひとつ無い、空が良く晴れていた日のこと。
スラムの入り口より少し奥の開けた一角に、一台の馬車がやってきた。馬車を引いていた御者と、中から鎧を装備した護衛の女性二人が降りてきて、大声で説明し始める。
この馬車は迷宮都市イシュルへ向かう馬車であり、迷宮を探索する人を募集している。小さい子供であろうが誰でも構わない、行きの食料も保証する、と。
最初はみんながみんな警戒していて、建物の影から様子を伺っていた。やがて集団の荒くれ者が二人に襲い掛かったけれど、全員が一人の護衛に綺麗に叩きのめされ、御者に手足を縛られて馬車の中に押し込まれた。
それからある程度の時間が経って、護衛が暇そうにあくびをし始めた頃。おそるおそると、やせ細った子供が近づいていった。「僕でも大丈夫ですか」と聞かれた御者と護衛はにこりと笑って、積んであった食料袋から大きめのパンと水を取り出して子供に手渡す。子供は嬉しそうにもらって馬車に入っていった。
それを皮切りにして、様々な人が乗っていった。乗る人には必ず食料を与え、病気や怪我の人には御者が回復魔法をかける。どんな人でも、優しく笑って受け入れていた。
僕はその様子をじっと眺めていた。その馬車からはとても嫌な感じがしたからだ。
けれど、同時にチャンスだとも僕は思っていた。多少酷い目にあっても、この最低な生活から、何もない世界から抜け出せるなら。擦り切れるまで読んだ絵物語の世界に、一歩でも近づけるなら、と。
迷いに迷って、踏み出した一歩。それが過ぎると、あれだけ重かった身体は不思議と動いた。
ここで感じた嫌な予感は、街についてからもずっと僕の心の中にあったんだ。
ただ、それを僕が無視していただけで。
迷宮都市イシュルに存在する『世界蛇のダンジョン』。その一階層で味わった死への恐怖は、容易く僕の心を支配した。
『ユニークモンスター』と呼ばれる実力が桁違いのモンスターから追いかけられ、命辛々逃げ出せたのは良かったものの、僕はダンジョンに潜れなくなった。怖じ気付いて竦む足は、前のようには動かない。
何度自分を叱咤しても、恐怖を克服することは出来なかった。
そんな現状を鑑みて僕は、この迷宮都市イシュルを去ることに決めた。
ダンジョンに潜れなければ収入が得られない。浪費していく貯蓄だけでなく、泊まっている宿との契約もそろそろ切れる。
このままこの都市にいるくらいであれば、どこか他の場所へと行って、新たな生活を始めた方が良いような気がしたのだ。
だから僕は、僕のことを心配して訪ねてきた先輩探索者であるケイトさんに言った。
「ケイトさん」
僕の理想でもある、物語の主人公のような彼に言うのは、少し勇気が必要だったけれど。
「・・・・ん、なんだ?」
「僕、探索者をやめてこの街を去ろうと思います」
僕の言葉に返ってきたのは「そうか」という短い一言。
僕はてっきり、ケイトさんは失望した顔を見せて、さっさとどこかに行ってしまうのだろうと思っていた。彼は、こんな僕に期待を掛けてくれていた、数少ない人だったのだから。
しかしそんな僕の予想を裏切って、ケイトさんは僕の頭に、ポンッと手を置く。
「まぁでも、探索者をやめるのは明日以降にしとけ。・・・・今日くらいは先輩の俺に奢らせろよな」
ケイトさんの言葉が、僕の心の中に染み込んでいく。
ああ、この人は、どこまでも優しい人だ。本当に格好良い人だ。やっぱりこの人こそ、ミーネさんには相応しかった。心の底からそう思えた。
臆病者の僕には、どうやったって叶いっこない望みだったんだ。
多くの人が暮らすイシュルは、僕一人がいなくなったところで何も変わりはしない。そんな当たり前のことになぜかほっとする自分がいる。
僕が探索者をやめることを決めて数日が経った。旅支度も終わり、もうこの街ですることはなく、あとはさっさと出て行くだけだ。
「この宿ともお別れか・・・・」
なんだかんだいって、一年以上はお世話になった部屋を眺める。
まとめられた荷物は大した量ではない。嵩張って邪魔になりそうなものは既に売り払い、買い込んだ日保ちする食糧以外は、ちょっとした小物を鞄に詰めただけ。元々それほど物を置いていたわけではないけれど、見慣れた部屋に一切私物がなくなれば、なんだか不思議な気分になった。
最後に、壁に掛けられた外套に目を向ける。それは、モンスターに襲われて大切な外套を失い、そのことを謝りに行った日に受け取った新しい外套だ。
「これは、・・・・返さなきゃ」
本当はもっと早い段階で返そうと思っていたのだけど、ミーネさんに会うのが怖くてずるずると引き延ばしてしまっていた。
外套を手に取って、さっと羽織った。着たのは数えるほどだったけれど、長年使ってたみたいに体に馴染む。
持って行きたい気持ちはある、でもそれは、僕に期待してくれていたミーネさんにあまりに不義理だろう。
それにきっと、未練になってしまうと思うから。
丁寧に外套を脱ぎ、畳んで綺麗な袋にしまった。
「・・・・よし、もう行こう」
部屋を出た僕は、フロントに座っていた宿の女将さんに挨拶する。長くお世話になったし、挨拶くらいはしておかなくては。
「女将さん、今までお世話になりました」
頭を下げてそういうと、女将さんは少し驚いた表情を浮かべた。
「あれ、フェイ君、宿替えるの?」
「いえ。この街を出て行こうと思います」
「ああそうなの、って・・・・は? え?」
「あはは、やっぱり僕には探索者は荷が重かったです。今までありがとうございました。またあとで荷物取りに来ます、鍵はその時に返しますね。それじゃあ、失礼します」
「・・・・んん?」
「んーー・・・・? んうええええええッ!?」
宿から出ると、女将さんの大きな声が外まで響いてきた。
ギルドの近くの『衣服装飾店』。僕の憧れの人がいるところ。
そんな店の前に来ても、いつも弾んでいた心が嘘みたいに静止していた。重石を載せたみたいで、気分が浮かぶことはない。
ゆっくりと扉を開けると、控えめなベルの音が鳴る。
いつもと変わらず、いつもの笑顔を携えて、ミーネさんが迎えてくれた。
「あ、フェイくん、久しぶり! 元気にしてた?」
「こんにちは、ミーネさん。・・・・ごめんなさい。忙しかったですか?」
見ると、店内のカウンター前に女の人がいた。ミーネさんはその人と話をしていたようだ。邪魔をしてしまったかもしれない。
「ううん大丈夫、忙しくないわ。・・・・御屋形様、申し訳ありませんが」
「ほう、ミーネよ。その子が前から話しておったやつか」
「御屋形様」
「・・・・わかったわかった、そう睨むでない。わらわは引っ込んでおるから、終わったら呼べよ」
そう言い残して、女性は奥の部屋へと行ってしまった。
「それでフェイくん、今日はどうしたの、何かあった? 最近来てくれないから心配してたのよ」
笑いかけてくるミーネさんを見ると、少し胸が苦しくなった。
・・・・なるべく、悔いは残したくない。心情を隠すために、無理やり薄笑いを浮かべる。うん、大丈夫。最後くらいは笑顔でお別れしたい。
僕は外套を入れていた袋を、カウンターに置いた。
「ミーネさん、この外套返しにきました」
「え、どうして。・・・・何か気に入らないところがあったかな?」
「いえ、そういうわけではまったくないです。ただ僕、この街を出るので、持っていくわけにもいかないから返しにきたんです」
「・・・・・・え?」
ミーネさんの笑顔が固まった。
「じょ、冗談よね。あれ、今日は冗談を言う日だったかしら? いやいやそれとも悪戯をする日・・・・」
壁にかけてある日付に目をやって、ぶつぶつ言うミーネさん。
「冗談とかじゃありません。僕、自分が探索者に向いてないって分かったのでやめようと思います。ミーネさんには今まで期待させてしまって申し訳ありませんでした」
ぺこりと頭を下げると、ミーネさんが慌てた様子で捲くし立ててくる。
「な、何を言ってるのよフェイくん!? やめる必要なんて全然ないじゃない・・・・! あなたには類い稀なる才能があるわ! 今のままでも中層くらいならさっさといける実力を持ってるし! どうしてそんなことを・・・・」
ミーネさんの言葉が、僕の胸に突き刺さる。劣等感ばかりが募り、ところかまわず当たりつけたくなる衝動に駆られた。それを押しとどめると、今度は視界が滲んできた。
「もう・・・・、げんかい、なんです」
僕が出来た言い訳は、ぽつりぽつりとした、細々としたもので。
「かっこわるいこといってしまいますけど、なんかいもいこうとしたけど、あしがうごかなくて、こわくて」
笑顔で別れようと決めてたのに。
溢れてくる涙を、止めることは出来なかった。
「ぼく、には・・・・むりでした。ごめんなさい」
そのまま言葉を残して、店の外へと飛び出した。
ああ、嫌だ。自分が嫌だ。期待に応えられない自分が、弱い自分が嫌いだ。
僕みたいな無力な人間は、身の丈にあった生活をしてひっそりと暮らしていくべきだったんだ。外の世界になんて憧れなければよかった。ごみをあさって雨水をすすって、そうしていれば少なくともこの絶望を感じずに済んだ。
僕は一刻も早くここからいなくなりたい――
「・・・・おーい、少年! 待て、待てというに!」
後ろから呼び止める声に、僕は振り返った。
「・・・・僕、ですか?」
僕を呼んだのは、たしか先ほどミーネさんのお店にいた人だった。
「そうそう。にしても、足が速いのう。追いかけるのも一苦労であったわ」
そういう彼女であったが、汗をかいている様子も、息を切らせている様子もない。
「それで、何の・・・・?」
「お主を呼び止めたのは、ミーネからの伝言があったからよ。他の人間には聞かれたくないそうだから、もうちょっと近くに寄れ」
目の前の彼女は、手招きをして僕を呼ぶ。
・・・・なぜだろう、とても嫌な予感がするのは。
「なぁ、なぜ足を止める。はよう、はよう来い」
こちらに来いと招く手が、地獄への誘いに思えて。
そんなはずはないのに。周りにちらほら人の姿はあるから、とても危険なことが起こるとは思えないというのに。
僕は頭を振って、女性の元へと近づいた。
「そう、そうじゃ、耳を貸せ。さて、伝言の内容はな・・・・」
「また後で・・・・、なーんてな。伝言なんてありはせん、今も店で立ったまま気絶中じゃ」
僕が覚えていられたのは、そこまでだった。
「うぅ〜、今日こそは! と思ったんだけどなあ・・・・。やっぱりソロはきついよねー。チノとキサラ、早く帰ってこないかな〜」
穏やかな昼下がり、早々にダンジョンから撤退した一匹の魔物娘がいた。
「んー? なんか掲示板の方にみんな集まってる。どうしたんだろ」
ダンジョンギルドの広間にて、大勢の魔物娘が大型掲示板の前に群がっている。強引に中に入っていくのは大変そうだったので、小柄な彼女は魔物娘達の足元をかがんで這い進み、掲示板前までくると立ち上がって内容を確認する。
「なになに、緊急イベント『仔兎ちゃん争奪大会』・・・・?。んーと、一階層のアイドル、仔兎ちゃんを奪い会う大会が急遽開催決定。人気のあの子が手に入るのは今回がラストチャンス!
このイベントには階層レベル、実力、ボス等のしがらみは一切不問・・・・!? どなたでも参加可能!! あ、お金はとるのね」
そうして掲示板を熱心に見ていると、突然、隣にいた魔物娘が話しかけてくる。
「あんた、この手の大会は初めて?」
「えっ、私? あ、うん、そうだけど」
「ふーん、じゃあ教えてあげる」
別に教えて欲しいともいってないのに、隣にいた魔物娘はべらべらと早口で話し始めた。
「この大会はたまに迷宮主のきまぐれで開催されるレアなイベントなのよ。こうして開催されたのは、三年前に教団から派遣された勇者がまだ都市にいなきゃいけない期間なのに、逃げようとしたとき以来ね。ごく普通の探索者が去るくらいなら、この手のイベントは開催されないけど、狙っている魔物娘が多い探索者だと話は別。
今回は『仔兎』。一階層に根を張って、それより下の階層には出てこない。実力は確かなのにまったく降りる気配がなくてジレていた魔物娘も多かったらしいわ。まぁとんでもない速さだっていう話だから、自信がないなら参加しないのが得策かもね」
言いたいことを言ったら、ひらひらと手を振ってどこかへと行ってしまった。親切なんだかお節介なんだかよくわからない魔物娘であった。
「むぅぅ・・・・『仔兎』ちゃんかぁ」
実はこの魔物娘は、一階層にて『仔兎』の少年に二度ほど遭遇したことがある。いずれも何も出来ずに逃していたため、少年の実力のほどは十分なくらいに理解していた。
「まあね。私には正直無理だとは思うよ。あれはゲット出来ないわー。大会参加費だってねえ」
ごそごそと懐の小袋を取り出し、中にあるお金を数え、
「・・・・こういうときに限って、ギリギリあるんだよねー。ぐぬぬ、ラストチャンスか・・・・」
数分後、受付カウンターにお金を叩きつける一匹の魔物娘がいたという。
どうして、こうなってしまったんだろうか。
何か、もっと良い方法があったんだろうか。
もっと良い方向に進めたんだろうか。
外套だって、あの人の事だって、諦めることをしないで、前に進めたのかな。
もう一人、違う僕がいたなら。
そんな道を、歩んでいけたのかな――。
「おーい、起きろ。起きぬか」
誰かが僕の頬を軽く叩く。先ほどまで見ていたまどろみの夢は、どこかへと溶けて混じって消えてしまった。
顔を上げて辺りを見渡すと、広い倉庫のような場所。床に蹲って寝ていたようだ。
目の前にはとても綺麗な女の人がいる。あの時、ミーネさんのお店にいた人だ。
・・・・僕はどうしてこんなとこにいるんだっけ?
記憶を徐々に思い出していく。確か・・・・、お店の外へ飛び出して、目の前の彼女に呼び止められて、近づいた時に、
「――ッ!」
突然頭に魔法を打ち込まれたんだ。咄嗟のこと、何より距離が近いことで、その攻撃を避けることなんて不可能だった。
僕はすぐに起きあがると、女の人と距離を取った。
「貴女は、なぜ僕に攻撃をしたんですか!」
この人に恨まれるようなことをした覚えがない。そもそもが初対面だったので、理由がまったくわからない。
「おおっ、自分が攻撃されたことに気づいておったか」
質問に返ってきたのは、微笑。彼女は悪びれもせず、心底楽しそうに声を弾ませ、僕を見据える。
「なぜ、と問われても、大雑把な説明ではわからぬだろうし、わざわざ一から説明するのも面倒。そして、そんな時間もないのよな。・・・・ただ、ちょいと遊ぶくらいはあるが」
彼女はそういって笑うと、その手に持っていた僕の鞄をこちらへと放った。
「その鞄はお主の宿から取ってきた。別に礼はいらぬぞ、なるべくフェアな方がわらわも楽しめると思ってな。ただ、入っているアイテムの類はなるべく使わないほうがよい、と言っておこう。無駄であろうし、ないと後で困ることになるだろうからな」
唐突に、強大な魔力が蜷局を巻くように空間内に迸った。彼女を中心に濃密すぎる魔力が廻り続ける。
威圧感は凄まじく、僕なんか軽く一呑みに出来る大蛇に睥睨されているみたいだった。僕は思わずそれから逃げるように後退って、彼女との距離を広げた。
「さて、それでは戯れを始めるとしようか」
この場所には窓のようなものはなく、外に通じるドアは二つ。中心にいる敵は、僕がドアに近づく素振りを見せれば、広範囲魔法を使ってくる。僕にはその攻撃を避けるのに手一杯で、ドアに近寄ることは出来なかった。
鞄に入っているアイテムは撹乱を主とした物ばかりで、この場で使えるものは少ない。有効そうな煙幕もすぐに掻き消されたし、数少ない攻撃系のスクロールだって目の前の敵にとってみれば子供騙しにしかなりえないだろう。
置かれている状況は絶望的で、どうしようもない。
「ほらほら、どうした! 逃げておるばかりでは何も解決はせんぞ!」
次々と放たれる魔法を避けながら、必死に考え続ける。
けれど、どんなに考えたって、良い方法は思い浮かばない。
「くそっ、なんで・・・・!」
僕はこんなにも無力なんだ。
仔兎みたいに跳び回って逃げて、昔から何一つ変わってない。
みんなに蔑まれ馬鹿にされても、二階層に行く気概もなく現状に甘んじ、あげくダンジョンにすら潜れなくなった。
そうして僕に期待してくれていた人達を裏切った。
あの人に見せたくない姿を見せてしまった。
「――――ッ!」
悔しい、悔しい、悔しい!
感情が昂ぶって、唇を薄く噛み千切る。血の味がかすかに広がった。
恐怖、危惧、焦燥、悲愴、嫉妬。様々な感情が綯い交ぜになると、頭が考えることを放棄し始めて、
「あっ――」
目の前に迫る魔法への対処が、僅かに遅れた。
世界が止まったように、ゆっくりになる。
最初は白い世界だった。
スラムで生きていた頃。僕の世界には僕以外には何もなくて空っぽだった。どこにも価値を見出せない、ただ無意味に生きている自分がいた。そんな自分が大嫌いだった。
でもイシュルに来てミーネさんに出会ったことで、僕の世界はあの人の髪色と同じ、綺麗な銀に染まった。彼女は僕にキラキラとした夢を与えてくれた。
ただ、大事だったそれも、すでに捨ててしまって。
今は黒。薄暗い闇で世界は塗り潰された。
僕にはもう、どうすることも出来ない。
・・・・。
あれ・・・・。
こことそっくりな場所があったような・・・・。
どこだっけ・・・・?
・・・・そうだ、この薄暗い闇はダンジョンの中にそっくりなんだ。
張り巡らされた蜘蛛の巣のような通路型階層。僕がいつも来ていた一階層の、閉塞的なダンジョンの通路。
・・・・僕が魔物に追いかけられて、ミーネさんの外套を手放したときだ。
思い出す度に何回も後悔が押し寄せてくる。逃げるのに邪魔になった外套を切り捨てたときのこと。
あのときああしていれば、こうしていればといった想像が頭の中を埋め尽くしていく。
想像の中の僕は成功して逃げおおせたり、失敗して捕まったりしたけれど、誰一人だって外套――大切な物を諦めたりしなかった。諦めたのは現実の僕だけだ。
「どうして、こうなってしまったんだろうか」
「何か、もっと良い方法があったんだろうか」
「もっと良い方向に進めたんだろうか」
無意識の内に声に出していたのかと思ったけれど、違った。
聴き馴染んだ声が聞こえたのは下からだった。
下に広がっていたのは銀世界。捨てたと思ってた、彼女の色。
僕が捨て切れなかった銀の色は、下の地面で鏡のように僕を映し出していた。
銀鏡の中の僕が、口を開いて喋りだす。
「力が、必要なんだ」
「別に圧倒的な力じゃなくていい」
「この状況を打開できるような」
「あの時、外套を切り捨てずに済んで」
「あの人のことを、自分から諦めなくてもいい、力」
そう、たとえば――
「「――もう一人、僕がいたら」」
意識が飛んでいたのはどれくらいだっただろうか。
恐らくそんなに長くはない。現に放たれた魔法はまだ僕に当たってはいないからだ。
とりあえず、目の前の魔法をなんとかしなければ・・・・。
そう思ったとき、ずるっ、と、僕の身体から何かが這い出た。途端に二つに増えた視界、音、感触。それに対する逡巡は少し。
普段から直感に頼っているせいだろうか。これは僕の魔力が作り出したものだとすぐにわかった。操り方も、なんとなく。
不思議なもので、今芽生えた能力なのにも関わらず理解していたのだ。
僕から出た分身が、目の前の魔法に被弾する。当然僕にダメージはないが、分身の魔力は削られてしまった。ひとまず分身を触って回収し、残った魔力を自分に戻す。
「ほう、お主、そんな隠し玉を持っておったのか!」
出来る事が格段に増えたせいか、全能感が僕を満たしていく。
ただ一つ、とても制御が難しい。もう一人の自分の身体も完璧に操作するとなると、ある程度の慣れが必要だろう。今の僕には到底出来そうもない。
「極東の者が使う分身の術に似ておるが、違うっぽいのう。わらわですら見分けがつかないとなると、固有能力の類か。くく、面白くなってきおった!」
――だけどまぁ、逃げるくらいなら出来そうだ。
再度始まった熾烈な攻撃を捌きつつ、僕はどう相手を出し抜くかを考えていた。
今ならやれることは多く、余裕も出来る。
まずは様子見に、さっきと同じように出口と思われるドアに近づいてみることにした。
だが、いざドアまで近づくと、先ほどまでと違って攻撃がぴたりと止んでしまった。広範囲の魔法攻撃がくる気配はない。
不自然に思うがチャンスではある。僕はドアに駆け寄ってノブに手を掛けた。
「えっ?」
こじ開けられない。というより、ドアの形をした壁のようなものだった。残りのドアにも駆け寄ってみるが全て同じだった。
「・・・・本当に惜しい。心が折れてしまわなければ、あとはあやつが唾をつけていなければ、わらわの夫候補であったな」
ここ、出口はどこなんだ?
「わらわはこの空間を支配しておる。故にわらわを倒さなければ逃げられぬよ。いくら足が速かろうと、籠の中では意味をなさん」
「嘘、だ・・・・」
僕は、周りの空間がさっきより狭くなっていることに気づいてしまった。
時間が経つにつれて、空間が狭くなっていく。この調子なら、いずれ攻撃を避けることも出来なくなるだろう。
敵は今まで多くの魔法をこちらに打ってきているが、身体の周囲に纏う魔力は質、量共に最初の状態から減っているようには見えない。
――逃げるのは無理だ。もう、やるしかない。
覚悟を決めた僕は、腰から短剣を引き抜いて、勢い良く敵に迫った。
「おう、やっとくるか・・・・って、速ぁっ!?」
驚く声と共に繰り出される魔法を、紙一重で避けていく。相手に直進しながら避けるのは難しいが、やるしかない。当たったときは死ぬのがちょっと早まっただけだと思おう。
そうしてあと七歩ほどで短剣が届く距離まできて、翼がなければ避けようもないほどの広範囲魔法が放たれた。さっきまでの僕はこれに苦しめられていて、ここまで近づいてしまったら避けようもなかった。
だけど今の僕なら、大丈夫だ。
「――ッ!」
分身を踏み台にし、大きく跳躍をした。普通なら届かない天井まで到達すると、それを足場にして間髪入れず敵に向かう。
チャンスは一度きり。後のことなんて考えても意味はない。どれだけ隙を作ろうとも、まず一撃で倒さなければならない。
驚愕に染まるその顔のすぐ下、何にも覆われていない細い首元目掛けて。
「はぁああッ!」
落下の勢いのまま、思いっきり短剣を突き出した。
「・・・・うーむ、一瞬ひやりとはしたが」
そんな僕の渾身の一撃は、空中で不自然にぎちぎちと止まっていた。
「わらわの防護結界を貫くには、だいぶ力が足りないな。あと武器も安物ではなぁ・・・・。まぁ、そろそろ頃合いか。なかなか楽しかったぞ」
その言葉を聞くと同時に、僕はまた気を失った。
びりっとした小さな痛みに目を覚ますと、
どこまでも澄み渡る、雲一つない青空と、
僕を見る、数多の視線があった。
「さあ、まもなく『チキチキ! 仔兎ちゃん争奪大会! ぽろりもあるよ!』が始まろうとしています。司会は私、ラモジーが担当します。解説者はこのお方、我らがダンジョンの主である御屋形様であります!」
「うむ、わらわである。しっかし、この参加者数は壮観であるな」
「まぁもともと争奪大会を開催すると、中層以上のダンジョンから魔物娘が消える、と言われてますからね。・・・・前回の勇者の時もやばかったです。あまりにもダンジョンに魔物娘がいなくて、ダンジョンギルドが臨時休業になったり」
「あ、今回も臨時休業じゃ」
「ですよねー。なんといっても、一階層の探索者が争奪大会の主賓になるのは今回が初。低階層所属も参加できる大会も今回が初です! 盛況なのも頷ける初物ずくしですね!」
「それに主賓も初物であろうしのう」
「御屋形様すっごいゲス顔! ユニコーンの参加者さんは頑張ってください!」
きゃあああああ!!!!!
「さぁ、大会の前に優勝候補の紹介と行きましょう。まずはこのお方、九十五層のボス、ミーネさん! 賭けのオッズはなんと2倍を切る1.9倍です! その視線と糸の特徴から、誰が呼んだか『絶対零度』」
「す、すごくダサい! ・・・・わらわにはそういう変なの付いてないであろうな」
「大丈夫です御屋形様、二つ名なんてそんなもんです。さて、そんな優勝候補のミーネさんと中継が繋がっています。中継のレイダさん?」
「はい。私、レイダは深層ボスのスタートライン前に来ています。あちらにおられるのがミーネさんですね。どうやら空を見上げて精神統一をしている様子です。さっそく意気込みを聞いてきたいと思います! ミーネさん、大会開始前にお気持ちを聞かせてください!」
「ああフェイくん大丈夫安心して私がずっと守ってあげるから何もしなくていいから私が全部してあげるからもう一生離れないから一人でどこにも行かせないからずっと一緒にいようねそれから春にはお花見をして夏には近くの湖に行こう秋には美味しいものいっぱい食べて冬には一緒に暖め合」
「ひいっ!」
「・・・・あれ、もしかしてこれやばいやつかのう」
「・・・・死者が出ないことを祈るばかりです。みなさーん、ミンチは避けてください。本部には優秀な医療班が待機しておりますが、ミンチは無理ですよー!」
「いざとなったらわらわが出張るしか・・・・」
「えー、気を取り直して、同じく優勝候補の九十九階層ボスのドラゴン、エレシアさん・・・・」
・・・・
・・・・・・・・
「さぁ紹介も終わったところで、まもなく! 時間ですね! あ、ちなみに大会中継は空からワイバーンの皆さんにお任せしていますよー」
「映写魔具は絶対壊すでないぞ! この都市でも数が四台しかないめちゃくちゃ高い魔道具だからな!」
「それでは改めて基本的な大会の説明に入りたいと思います。スタートと同時に眠りについている『仔兎』ちゃんに微弱な電気を流して強制的に起こします。今回の主賓である『仔兎』ちゃんの逃げ道は一つ! この先を真っ直ぐいったカタス村という場所まで着いたら『仔兎』ちゃんの勝利です。果たして『仔兎』ちゃんは無事にカタス村に着くことが出来るのか!?」
「まぁ今までの人間は、一度も着けたことはないがな」
「それは言わないお約束ですよ! 次に我々、魔物娘側のルールについて説明します」
「といってもルールは至って簡単。『仔兎』ちゃんを捕まえて、あつーいくちづけをぶちかませば大会優勝です! また禁止行為として、階層、階層主毎に定められたスタートライン以外からスタートすること、他の参加者をミンチにすることの二つがあげられます! それ以外はなんでもありです!」
「ミーネ、聞いておるか! ほんとルール守れよ!」
「それでは、3・2・1・・・」
「「スタート!!!」」
「ふん!」
「あー、やったわね!」
「おーっと? 開始直後、魔物娘の間で乱闘が繰り広げられていますよ?」
「今回も出たのう、参加者同士の潰しあいが。言ってしまえばバトルロイヤル要素も含んだ大会であるから、有望そうなのとか敵わなそうなのは今のうちに複数で潰してしまえといったところか」
「さすがみなさん手段は選ばない! 魔物娘同士の醜い戦いが繰り広げられています!」
「この大会の醍醐味と言っても良いであろう。さて、仔兎の方は・・・・」
「あれ? 仔兎ちゃんはどこに・・・・」
「もう消えたな」
「はぁ・・・・」
魔物娘達の爆発的な熱狂が、遠いこの場所まで響いてくる。九十五層のボスは佇み、ただ想い人が来るのを待っていた。茶番でしかない大会に溜息を一つ。
「・・・・有象無象に捕まえられるわけがないでしょう。この私から逃げきったのよ」
思い浮かべるのは、一階層での兎狩り。いずれ自分の階層まで来てくれると確信したときのこと。
・・・・来てくれると思っていたのだけど、ね。
少しだけ残念な気持ちになるが、これからの未来に比べれば些事でしかない。
考えていた予定とは少々違くなってしまっても、待ち望んだ時であることには変わりない。
ああ、もうすぐ望んだ、その時が、
貴方が私のものになる、その時が。
・・・・口が歪に緩むのも、仕方のないことよね?
走る、ただひたすらに。
横から迫る魔物を躱し、正面の魔物はフェイントを交えてすり抜ける。
時折、腰の鞄からポーションを取り出して体力を回復。水のスクロールを使用して仕掛けられた罠を強引に流し、火のスクロールを使用して目眩まし、土のスクロールを使用して足場を作ってジャンプ、風のスクロールを使用して飛距離を稼ぐ。
状況は理解不能で今も困惑しているけれど、辺りを魔物に囲まれている今、一刻も早く安全な場所へと行かなければいけないことくらいはわかる。
遊ぶように殺されたと思っていたけれど、なぜか僕は生きていた。生存本能のままに、僕は逃げ続ける。
幸いにして逃げ道はある。先程のようにないよりは随分とマシだ。
ただ、一つの懸念が頭に居座っている。
それは良く見ればわかること、道を外れた先には多くの罠や魔物が潜んでいるのだ。
僕は作られた逃げ道を走らされているかもしれない。
なんのためにかは、わからない。朝から続く、理不尽なまでの長い悪夢だと言われたほうが、まだ納得できるくらいだ。
そうしてどれくらい走っただろうか。必死だったからよくわからない。
立ちふさがる魔物達も、それほど速くはないから逃げることに問題はなかった。道中追ってきていた魔物、空からしつこく付いてきた魔物の姿も先程から見えない。
一息つこうかと考え、足を止めそうになったとき。それはいた。
「ああ――、――――やっと会えた」
先の道にいる魔物は俯いていた。巨大な蜘蛛の体が見て取れる。
嫌な予感が頭をよぎる。とびっきりの嫌な感覚。
なんでだろうか。それはあの一階層で出会ったユニークモンスターのようで。
あのモンスターはもう討伐されたはず。ここに存在するはずがない。
だから大丈夫って頭の中で繰り返し言い聞かせるけど、落ち着かない。少し近づく度に足が震える。
「・・・・あのときはね、ちょっと遊んでいたの。貴方を追いかけるのが楽しくて楽しくて。まるで何度も重ねる愛撫のように濃厚で、甘美な一時だった。でも、本当に逃げられるとは思わなかったわ。最後に全力は出したし奥の手も使ったけど遅かった。だから――」
目の前の魔物が顔を上げると同時に、放たれる威圧感。全身の神経が逆立ち、直感が頭の中に最大級の警報を鳴り響かせる。
ここから今すぐに逃げろ、と。
「――今回は、最初から全力。どこに逃げたっていつまでも追いかけるから! 私が貴方を捕まえるまで!」
間違いない。
これは、あの日に感じた恐怖と同じもの!
僕の心を支配しているのは恐怖。
それはあの日の再現だった。
変化は二つ。薄暗いダンジョンの中から、陽光が照らす大地に舞台が変わったこと。前とは違い出口がないということ。逃げ続ければ助かると信じて走るだけの絶望的な状況だ。
正面に対峙した魔物を、分身を使って避けたまでは良かった。初見ならまず成功すると思ったし、事実そうだった。それに僕の方が、あの魔物よりも速いということもある。
ただし、追われる立場になったら話は別だ。
後ろから繰り出される糸を避けるために、不規則な走りをしている。ただそれだけで、僕の速さは損なわれることになるし、体力も余計に消費する。
だけど、一つだけ良いことがわかった。
糸の射出方向に土のスクロールを使って薄い壁を作ってみた。正直期待薄の行動だったのだが、糸は壁を貫くことはなかったのだ。
つまり、糸自体の殺傷能力は極めて低く、ただ標的を捕らえるためのものということ。
それがわかれば、底を尽きかけたスクロールの代わりを、僕の分身が担うことができる。
後ろに迫る糸を避けず、当たる瞬間分身を出して、盾代わりにしたあと触れて分身を回収するだけでいい。
これで、今まで回避行動によって損なわれていた速さを取り戻すことができ、徐々に距離も広がるだろう。
ただ、あの分身を出す際に身体からごっそり魔力が失われている。分身を回収すればある程度は元に戻るものの、全部じゃない。
逃げ切る前に、その魔力が尽きたときが僕の終わりだろうか。
「やっぱりすごいね、フェイくん。これはもう少しとっておきたかったんだけど、ね!」
魔物との距離がだんだん離れたとき、背後にいる魔物の周囲の魔力が膨れ上がった。
嫌な予感に身体が竦む。
その数瞬後、糸が僕を目掛けて全方位から飛び出してきた!
「村までのコース設営って私の仕事なのよ」
後ろ、前、横。見渡す限りの糸が勢い良く殺到してくる。
ただ、あれだけの無数の糸を一つ一つ操ることは出来ないだろう。
おそらくはランダムで、ただ僕と僕の進行方向に向かって糸を伸ばしているだけだ。
ダンジョンの中であれば、詰みだったかもしれない。
でも、今は上に空がある。
分身の手を足場にして、両方の力を合わせて大きく跳躍する。分身を回収できないのは痛いが仕方ない。
白い糸の海を抜け出して、僕は青い空に飛び出した。
「――ッ!? もしかしてと思ってたけど、これも避けてくるなんて! ・・・・本当に、あなたはなんで――」
下には夥しいほどの糸群。あれに捕まっていたらと思わず身震いする。一本でも触れていれば、その場から動けなくなっていただろう。
体力回復のためのポーションを取り出そうと鞄に手を突っ込む。その際に一瞬だけ影が僕を覆った。
おかしい。攻撃は避けたはずなのに、寒気がおさまらない。
ポーションの瓶を傾け、中身を少し飲んだところで、慌ててもう一度鞄に手を突っ込んだ。
また影が僕を覆ってようやく、先程から続く寒気の正体がわかった。
後ろでもなく、前でもなく、横でもなく、下でもなく、
――上だ!
最初から気が緩んだところを狙われていたのかもしれない。
気づいたときにはもう遅い。
翼を持たない僕には回避行動はとれないし、アイテムを使うにも遅すぎる。
耐え切れないほどの衝撃が体中を駆け巡った。
気絶する前に見た、目の前の光景。
それは、人が畏怖の象徴とする強力な魔物、ドラゴンだった。
僕はとんでもない大馬鹿者だ。後ろの魔物にばっかり集中していた。
魔物が一体だけじゃないなんて、とっくに知っていたのに・・・・。
「あーっはっはっは! 油断したなミーネ! 追いかけるのに夢中で、頭が回らなかったのか?」
「・・・・邪魔しないでよ、エレシア」
響く高笑いに、俯いたミーネは不機嫌な声を返す。
「悪い。まだまだ時間がかかりそうだと思ったもんでな」
「横から掻っ攫うなんて、プライドの高い貴女がすることとは思えないわね」
エレシアは、手に抱えた獲物をチラリと見やる。
「ハッ、まぁそもそもアタシの目的はこいつじゃないからな」
「何が言いたいの・・・・?」
「お前がこいつに御執心なのは知ってた。こんな状況でもなければ、お前の本気を見る機会もないと思ってな。・・・・ミーネ、真剣勝負だ。アタシと全力で戦え! こいつを賭けてだ!」
その言葉を聞いたミーネの身体は震え出し、内包する魔力の密度が高まっていく。
「・・・・そう。そんな、そんなに、・・・・そんなにくだらないことで、私の最高の時間を潰したのね・・・・」
ミーネは苛立ちを抑えるように、淡々と喋る。
二者の様子を魔具を通して見ていた迷宮主は「エレシア、最近ミーネに構ってもらえなくて寂しかったのであろうなぁ」と暢気にコメントしていた。
ミーネは迷宮主とエレシアにとって教育係で、戦闘に関して言えば師匠と弟子、家族同然の間柄である。四六時中いちゃこらしてる両方の親達よりも顔を合わせている時間が長いかもしれないくらいだ。
そんなミーネが『仔兎』に出会ってから素っ気なくなった。教育係としての仕事を放棄し、店に篭って『仔兎』用の服を作りまくっているのである。
最初は「あのミーネが一丁前に女の顔してやがる! だはははっ!」とか大笑いしていたエレシアも、「今日も自主練だけかよ、ふざけんな!」と時間が経つに連れてプリプリと不機嫌になっていったのだ。
今回の事は、起こるべくして起こったと言えるのかもしれない。
「・・・・別にいいわよ、気が昂ぶってるから手加減はできそうもないけど。それがお望みなんでしょう?」
「ま、そうだな。こいつは一旦本部に預けて・・・・、・・・・・・・・んー。ミーネに勝った後のお楽しみにしようと思ってたけど、ちょっと味見しておこっかな。ちゅー」
「――ッ、触るな! 殺すぞチビトカゲぇッ!」
「ひぃい! ・・・・って何ビビってんだアタシは。上等じゃねえか、本気になったお前と一度戦ってみたかったんだよ!」
ところ変わって解説。
「あれれー? 争奪大会から一転、お二方とも変身して、なんか巨大蜘蛛vs巨大竜の怪獣大決戦になっちゃいましたよ?」
「他の参加者も巻き込まれたくないのか、遠巻きに見ているだけだのう」
「御屋形様、色々誤魔化せるんですかこれ? 映写魔具いらないレベルですが・・・・」
「ど、努力はしてみせよう!」
五分後。
「御屋形様! 森があちこちクレーターに! 環境被害が甚大です!」
「見えておるわ、デカいドラゴンがきゃんきゃん言わされてこっちに逃げてきおるのもな。しかしミーネの本気ってあんなに強かったのか・・・・。わらわもまだまだ精進が必要か」
「あの、相性はミーネさんの方が悪いですよね。なんで勝ってるんですか」
「年の功・・・・というのは冗談で、まぁこれが俗に言う愛の力であろう!」
「愛ってスゲー!」
・・・・
・・・・・・
・・・・・・・・
僕は誰かに語り掛けられながら頬をくすぐられていた。くすぐったさに身を捩りながら、ゆっくりと目を開けると、誰かが僕の顔を覗き込んでいる。
「あ、フェイ君、起きた?」
「う、あ。はい」
よくわからないが、とりあえず返事をする。そうして寝起きしたばかりの頭が徐々にはっきりしてくると、それは僕の想い人であるミーネさんだと気づいた。
ミーネさんの口元が、笑みの形を作る。
「・・・・あ、れ?」
僕の大好きな彼女の笑顔が、・・・・今は何故だかとても恐ろしいものに感じた。
了
嫌な感じがする場所に行くと、実際に嫌なことが起こる。行かなければ何も起こらず、後日代わりに誰かがそこで不幸な目にあったと聞いたり。
僕が孤児でありながら凄惨なスラムを一人で生き抜いて来れたのも、この直感のおかげなのだと思っている。
あれは雲ひとつ無い、空が良く晴れていた日のこと。
スラムの入り口より少し奥の開けた一角に、一台の馬車がやってきた。馬車を引いていた御者と、中から鎧を装備した護衛の女性二人が降りてきて、大声で説明し始める。
この馬車は迷宮都市イシュルへ向かう馬車であり、迷宮を探索する人を募集している。小さい子供であろうが誰でも構わない、行きの食料も保証する、と。
最初はみんながみんな警戒していて、建物の影から様子を伺っていた。やがて集団の荒くれ者が二人に襲い掛かったけれど、全員が一人の護衛に綺麗に叩きのめされ、御者に手足を縛られて馬車の中に押し込まれた。
それからある程度の時間が経って、護衛が暇そうにあくびをし始めた頃。おそるおそると、やせ細った子供が近づいていった。「僕でも大丈夫ですか」と聞かれた御者と護衛はにこりと笑って、積んであった食料袋から大きめのパンと水を取り出して子供に手渡す。子供は嬉しそうにもらって馬車に入っていった。
それを皮切りにして、様々な人が乗っていった。乗る人には必ず食料を与え、病気や怪我の人には御者が回復魔法をかける。どんな人でも、優しく笑って受け入れていた。
僕はその様子をじっと眺めていた。その馬車からはとても嫌な感じがしたからだ。
けれど、同時にチャンスだとも僕は思っていた。多少酷い目にあっても、この最低な生活から、何もない世界から抜け出せるなら。擦り切れるまで読んだ絵物語の世界に、一歩でも近づけるなら、と。
迷いに迷って、踏み出した一歩。それが過ぎると、あれだけ重かった身体は不思議と動いた。
ここで感じた嫌な予感は、街についてからもずっと僕の心の中にあったんだ。
ただ、それを僕が無視していただけで。
迷宮都市イシュルに存在する『世界蛇のダンジョン』。その一階層で味わった死への恐怖は、容易く僕の心を支配した。
『ユニークモンスター』と呼ばれる実力が桁違いのモンスターから追いかけられ、命辛々逃げ出せたのは良かったものの、僕はダンジョンに潜れなくなった。怖じ気付いて竦む足は、前のようには動かない。
何度自分を叱咤しても、恐怖を克服することは出来なかった。
そんな現状を鑑みて僕は、この迷宮都市イシュルを去ることに決めた。
ダンジョンに潜れなければ収入が得られない。浪費していく貯蓄だけでなく、泊まっている宿との契約もそろそろ切れる。
このままこの都市にいるくらいであれば、どこか他の場所へと行って、新たな生活を始めた方が良いような気がしたのだ。
だから僕は、僕のことを心配して訪ねてきた先輩探索者であるケイトさんに言った。
「ケイトさん」
僕の理想でもある、物語の主人公のような彼に言うのは、少し勇気が必要だったけれど。
「・・・・ん、なんだ?」
「僕、探索者をやめてこの街を去ろうと思います」
僕の言葉に返ってきたのは「そうか」という短い一言。
僕はてっきり、ケイトさんは失望した顔を見せて、さっさとどこかに行ってしまうのだろうと思っていた。彼は、こんな僕に期待を掛けてくれていた、数少ない人だったのだから。
しかしそんな僕の予想を裏切って、ケイトさんは僕の頭に、ポンッと手を置く。
「まぁでも、探索者をやめるのは明日以降にしとけ。・・・・今日くらいは先輩の俺に奢らせろよな」
ケイトさんの言葉が、僕の心の中に染み込んでいく。
ああ、この人は、どこまでも優しい人だ。本当に格好良い人だ。やっぱりこの人こそ、ミーネさんには相応しかった。心の底からそう思えた。
臆病者の僕には、どうやったって叶いっこない望みだったんだ。
多くの人が暮らすイシュルは、僕一人がいなくなったところで何も変わりはしない。そんな当たり前のことになぜかほっとする自分がいる。
僕が探索者をやめることを決めて数日が経った。旅支度も終わり、もうこの街ですることはなく、あとはさっさと出て行くだけだ。
「この宿ともお別れか・・・・」
なんだかんだいって、一年以上はお世話になった部屋を眺める。
まとめられた荷物は大した量ではない。嵩張って邪魔になりそうなものは既に売り払い、買い込んだ日保ちする食糧以外は、ちょっとした小物を鞄に詰めただけ。元々それほど物を置いていたわけではないけれど、見慣れた部屋に一切私物がなくなれば、なんだか不思議な気分になった。
最後に、壁に掛けられた外套に目を向ける。それは、モンスターに襲われて大切な外套を失い、そのことを謝りに行った日に受け取った新しい外套だ。
「これは、・・・・返さなきゃ」
本当はもっと早い段階で返そうと思っていたのだけど、ミーネさんに会うのが怖くてずるずると引き延ばしてしまっていた。
外套を手に取って、さっと羽織った。着たのは数えるほどだったけれど、長年使ってたみたいに体に馴染む。
持って行きたい気持ちはある、でもそれは、僕に期待してくれていたミーネさんにあまりに不義理だろう。
それにきっと、未練になってしまうと思うから。
丁寧に外套を脱ぎ、畳んで綺麗な袋にしまった。
「・・・・よし、もう行こう」
部屋を出た僕は、フロントに座っていた宿の女将さんに挨拶する。長くお世話になったし、挨拶くらいはしておかなくては。
「女将さん、今までお世話になりました」
頭を下げてそういうと、女将さんは少し驚いた表情を浮かべた。
「あれ、フェイ君、宿替えるの?」
「いえ。この街を出て行こうと思います」
「ああそうなの、って・・・・は? え?」
「あはは、やっぱり僕には探索者は荷が重かったです。今までありがとうございました。またあとで荷物取りに来ます、鍵はその時に返しますね。それじゃあ、失礼します」
「・・・・んん?」
「んーー・・・・? んうええええええッ!?」
宿から出ると、女将さんの大きな声が外まで響いてきた。
ギルドの近くの『衣服装飾店』。僕の憧れの人がいるところ。
そんな店の前に来ても、いつも弾んでいた心が嘘みたいに静止していた。重石を載せたみたいで、気分が浮かぶことはない。
ゆっくりと扉を開けると、控えめなベルの音が鳴る。
いつもと変わらず、いつもの笑顔を携えて、ミーネさんが迎えてくれた。
「あ、フェイくん、久しぶり! 元気にしてた?」
「こんにちは、ミーネさん。・・・・ごめんなさい。忙しかったですか?」
見ると、店内のカウンター前に女の人がいた。ミーネさんはその人と話をしていたようだ。邪魔をしてしまったかもしれない。
「ううん大丈夫、忙しくないわ。・・・・御屋形様、申し訳ありませんが」
「ほう、ミーネよ。その子が前から話しておったやつか」
「御屋形様」
「・・・・わかったわかった、そう睨むでない。わらわは引っ込んでおるから、終わったら呼べよ」
そう言い残して、女性は奥の部屋へと行ってしまった。
「それでフェイくん、今日はどうしたの、何かあった? 最近来てくれないから心配してたのよ」
笑いかけてくるミーネさんを見ると、少し胸が苦しくなった。
・・・・なるべく、悔いは残したくない。心情を隠すために、無理やり薄笑いを浮かべる。うん、大丈夫。最後くらいは笑顔でお別れしたい。
僕は外套を入れていた袋を、カウンターに置いた。
「ミーネさん、この外套返しにきました」
「え、どうして。・・・・何か気に入らないところがあったかな?」
「いえ、そういうわけではまったくないです。ただ僕、この街を出るので、持っていくわけにもいかないから返しにきたんです」
「・・・・・・え?」
ミーネさんの笑顔が固まった。
「じょ、冗談よね。あれ、今日は冗談を言う日だったかしら? いやいやそれとも悪戯をする日・・・・」
壁にかけてある日付に目をやって、ぶつぶつ言うミーネさん。
「冗談とかじゃありません。僕、自分が探索者に向いてないって分かったのでやめようと思います。ミーネさんには今まで期待させてしまって申し訳ありませんでした」
ぺこりと頭を下げると、ミーネさんが慌てた様子で捲くし立ててくる。
「な、何を言ってるのよフェイくん!? やめる必要なんて全然ないじゃない・・・・! あなたには類い稀なる才能があるわ! 今のままでも中層くらいならさっさといける実力を持ってるし! どうしてそんなことを・・・・」
ミーネさんの言葉が、僕の胸に突き刺さる。劣等感ばかりが募り、ところかまわず当たりつけたくなる衝動に駆られた。それを押しとどめると、今度は視界が滲んできた。
「もう・・・・、げんかい、なんです」
僕が出来た言い訳は、ぽつりぽつりとした、細々としたもので。
「かっこわるいこといってしまいますけど、なんかいもいこうとしたけど、あしがうごかなくて、こわくて」
笑顔で別れようと決めてたのに。
溢れてくる涙を、止めることは出来なかった。
「ぼく、には・・・・むりでした。ごめんなさい」
そのまま言葉を残して、店の外へと飛び出した。
ああ、嫌だ。自分が嫌だ。期待に応えられない自分が、弱い自分が嫌いだ。
僕みたいな無力な人間は、身の丈にあった生活をしてひっそりと暮らしていくべきだったんだ。外の世界になんて憧れなければよかった。ごみをあさって雨水をすすって、そうしていれば少なくともこの絶望を感じずに済んだ。
僕は一刻も早くここからいなくなりたい――
「・・・・おーい、少年! 待て、待てというに!」
後ろから呼び止める声に、僕は振り返った。
「・・・・僕、ですか?」
僕を呼んだのは、たしか先ほどミーネさんのお店にいた人だった。
「そうそう。にしても、足が速いのう。追いかけるのも一苦労であったわ」
そういう彼女であったが、汗をかいている様子も、息を切らせている様子もない。
「それで、何の・・・・?」
「お主を呼び止めたのは、ミーネからの伝言があったからよ。他の人間には聞かれたくないそうだから、もうちょっと近くに寄れ」
目の前の彼女は、手招きをして僕を呼ぶ。
・・・・なぜだろう、とても嫌な予感がするのは。
「なぁ、なぜ足を止める。はよう、はよう来い」
こちらに来いと招く手が、地獄への誘いに思えて。
そんなはずはないのに。周りにちらほら人の姿はあるから、とても危険なことが起こるとは思えないというのに。
僕は頭を振って、女性の元へと近づいた。
「そう、そうじゃ、耳を貸せ。さて、伝言の内容はな・・・・」
「また後で・・・・、なーんてな。伝言なんてありはせん、今も店で立ったまま気絶中じゃ」
僕が覚えていられたのは、そこまでだった。
「うぅ〜、今日こそは! と思ったんだけどなあ・・・・。やっぱりソロはきついよねー。チノとキサラ、早く帰ってこないかな〜」
穏やかな昼下がり、早々にダンジョンから撤退した一匹の魔物娘がいた。
「んー? なんか掲示板の方にみんな集まってる。どうしたんだろ」
ダンジョンギルドの広間にて、大勢の魔物娘が大型掲示板の前に群がっている。強引に中に入っていくのは大変そうだったので、小柄な彼女は魔物娘達の足元をかがんで這い進み、掲示板前までくると立ち上がって内容を確認する。
「なになに、緊急イベント『仔兎ちゃん争奪大会』・・・・?。んーと、一階層のアイドル、仔兎ちゃんを奪い会う大会が急遽開催決定。人気のあの子が手に入るのは今回がラストチャンス!
このイベントには階層レベル、実力、ボス等のしがらみは一切不問・・・・!? どなたでも参加可能!! あ、お金はとるのね」
そうして掲示板を熱心に見ていると、突然、隣にいた魔物娘が話しかけてくる。
「あんた、この手の大会は初めて?」
「えっ、私? あ、うん、そうだけど」
「ふーん、じゃあ教えてあげる」
別に教えて欲しいともいってないのに、隣にいた魔物娘はべらべらと早口で話し始めた。
「この大会はたまに迷宮主のきまぐれで開催されるレアなイベントなのよ。こうして開催されたのは、三年前に教団から派遣された勇者がまだ都市にいなきゃいけない期間なのに、逃げようとしたとき以来ね。ごく普通の探索者が去るくらいなら、この手のイベントは開催されないけど、狙っている魔物娘が多い探索者だと話は別。
今回は『仔兎』。一階層に根を張って、それより下の階層には出てこない。実力は確かなのにまったく降りる気配がなくてジレていた魔物娘も多かったらしいわ。まぁとんでもない速さだっていう話だから、自信がないなら参加しないのが得策かもね」
言いたいことを言ったら、ひらひらと手を振ってどこかへと行ってしまった。親切なんだかお節介なんだかよくわからない魔物娘であった。
「むぅぅ・・・・『仔兎』ちゃんかぁ」
実はこの魔物娘は、一階層にて『仔兎』の少年に二度ほど遭遇したことがある。いずれも何も出来ずに逃していたため、少年の実力のほどは十分なくらいに理解していた。
「まあね。私には正直無理だとは思うよ。あれはゲット出来ないわー。大会参加費だってねえ」
ごそごそと懐の小袋を取り出し、中にあるお金を数え、
「・・・・こういうときに限って、ギリギリあるんだよねー。ぐぬぬ、ラストチャンスか・・・・」
数分後、受付カウンターにお金を叩きつける一匹の魔物娘がいたという。
どうして、こうなってしまったんだろうか。
何か、もっと良い方法があったんだろうか。
もっと良い方向に進めたんだろうか。
外套だって、あの人の事だって、諦めることをしないで、前に進めたのかな。
もう一人、違う僕がいたなら。
そんな道を、歩んでいけたのかな――。
「おーい、起きろ。起きぬか」
誰かが僕の頬を軽く叩く。先ほどまで見ていたまどろみの夢は、どこかへと溶けて混じって消えてしまった。
顔を上げて辺りを見渡すと、広い倉庫のような場所。床に蹲って寝ていたようだ。
目の前にはとても綺麗な女の人がいる。あの時、ミーネさんのお店にいた人だ。
・・・・僕はどうしてこんなとこにいるんだっけ?
記憶を徐々に思い出していく。確か・・・・、お店の外へ飛び出して、目の前の彼女に呼び止められて、近づいた時に、
「――ッ!」
突然頭に魔法を打ち込まれたんだ。咄嗟のこと、何より距離が近いことで、その攻撃を避けることなんて不可能だった。
僕はすぐに起きあがると、女の人と距離を取った。
「貴女は、なぜ僕に攻撃をしたんですか!」
この人に恨まれるようなことをした覚えがない。そもそもが初対面だったので、理由がまったくわからない。
「おおっ、自分が攻撃されたことに気づいておったか」
質問に返ってきたのは、微笑。彼女は悪びれもせず、心底楽しそうに声を弾ませ、僕を見据える。
「なぜ、と問われても、大雑把な説明ではわからぬだろうし、わざわざ一から説明するのも面倒。そして、そんな時間もないのよな。・・・・ただ、ちょいと遊ぶくらいはあるが」
彼女はそういって笑うと、その手に持っていた僕の鞄をこちらへと放った。
「その鞄はお主の宿から取ってきた。別に礼はいらぬぞ、なるべくフェアな方がわらわも楽しめると思ってな。ただ、入っているアイテムの類はなるべく使わないほうがよい、と言っておこう。無駄であろうし、ないと後で困ることになるだろうからな」
唐突に、強大な魔力が蜷局を巻くように空間内に迸った。彼女を中心に濃密すぎる魔力が廻り続ける。
威圧感は凄まじく、僕なんか軽く一呑みに出来る大蛇に睥睨されているみたいだった。僕は思わずそれから逃げるように後退って、彼女との距離を広げた。
「さて、それでは戯れを始めるとしようか」
この場所には窓のようなものはなく、外に通じるドアは二つ。中心にいる敵は、僕がドアに近づく素振りを見せれば、広範囲魔法を使ってくる。僕にはその攻撃を避けるのに手一杯で、ドアに近寄ることは出来なかった。
鞄に入っているアイテムは撹乱を主とした物ばかりで、この場で使えるものは少ない。有効そうな煙幕もすぐに掻き消されたし、数少ない攻撃系のスクロールだって目の前の敵にとってみれば子供騙しにしかなりえないだろう。
置かれている状況は絶望的で、どうしようもない。
「ほらほら、どうした! 逃げておるばかりでは何も解決はせんぞ!」
次々と放たれる魔法を避けながら、必死に考え続ける。
けれど、どんなに考えたって、良い方法は思い浮かばない。
「くそっ、なんで・・・・!」
僕はこんなにも無力なんだ。
仔兎みたいに跳び回って逃げて、昔から何一つ変わってない。
みんなに蔑まれ馬鹿にされても、二階層に行く気概もなく現状に甘んじ、あげくダンジョンにすら潜れなくなった。
そうして僕に期待してくれていた人達を裏切った。
あの人に見せたくない姿を見せてしまった。
「――――ッ!」
悔しい、悔しい、悔しい!
感情が昂ぶって、唇を薄く噛み千切る。血の味がかすかに広がった。
恐怖、危惧、焦燥、悲愴、嫉妬。様々な感情が綯い交ぜになると、頭が考えることを放棄し始めて、
「あっ――」
目の前に迫る魔法への対処が、僅かに遅れた。
世界が止まったように、ゆっくりになる。
最初は白い世界だった。
スラムで生きていた頃。僕の世界には僕以外には何もなくて空っぽだった。どこにも価値を見出せない、ただ無意味に生きている自分がいた。そんな自分が大嫌いだった。
でもイシュルに来てミーネさんに出会ったことで、僕の世界はあの人の髪色と同じ、綺麗な銀に染まった。彼女は僕にキラキラとした夢を与えてくれた。
ただ、大事だったそれも、すでに捨ててしまって。
今は黒。薄暗い闇で世界は塗り潰された。
僕にはもう、どうすることも出来ない。
・・・・。
あれ・・・・。
こことそっくりな場所があったような・・・・。
どこだっけ・・・・?
・・・・そうだ、この薄暗い闇はダンジョンの中にそっくりなんだ。
張り巡らされた蜘蛛の巣のような通路型階層。僕がいつも来ていた一階層の、閉塞的なダンジョンの通路。
・・・・僕が魔物に追いかけられて、ミーネさんの外套を手放したときだ。
思い出す度に何回も後悔が押し寄せてくる。逃げるのに邪魔になった外套を切り捨てたときのこと。
あのときああしていれば、こうしていればといった想像が頭の中を埋め尽くしていく。
想像の中の僕は成功して逃げおおせたり、失敗して捕まったりしたけれど、誰一人だって外套――大切な物を諦めたりしなかった。諦めたのは現実の僕だけだ。
「どうして、こうなってしまったんだろうか」
「何か、もっと良い方法があったんだろうか」
「もっと良い方向に進めたんだろうか」
無意識の内に声に出していたのかと思ったけれど、違った。
聴き馴染んだ声が聞こえたのは下からだった。
下に広がっていたのは銀世界。捨てたと思ってた、彼女の色。
僕が捨て切れなかった銀の色は、下の地面で鏡のように僕を映し出していた。
銀鏡の中の僕が、口を開いて喋りだす。
「力が、必要なんだ」
「別に圧倒的な力じゃなくていい」
「この状況を打開できるような」
「あの時、外套を切り捨てずに済んで」
「あの人のことを、自分から諦めなくてもいい、力」
そう、たとえば――
「「――もう一人、僕がいたら」」
意識が飛んでいたのはどれくらいだっただろうか。
恐らくそんなに長くはない。現に放たれた魔法はまだ僕に当たってはいないからだ。
とりあえず、目の前の魔法をなんとかしなければ・・・・。
そう思ったとき、ずるっ、と、僕の身体から何かが這い出た。途端に二つに増えた視界、音、感触。それに対する逡巡は少し。
普段から直感に頼っているせいだろうか。これは僕の魔力が作り出したものだとすぐにわかった。操り方も、なんとなく。
不思議なもので、今芽生えた能力なのにも関わらず理解していたのだ。
僕から出た分身が、目の前の魔法に被弾する。当然僕にダメージはないが、分身の魔力は削られてしまった。ひとまず分身を触って回収し、残った魔力を自分に戻す。
「ほう、お主、そんな隠し玉を持っておったのか!」
出来る事が格段に増えたせいか、全能感が僕を満たしていく。
ただ一つ、とても制御が難しい。もう一人の自分の身体も完璧に操作するとなると、ある程度の慣れが必要だろう。今の僕には到底出来そうもない。
「極東の者が使う分身の術に似ておるが、違うっぽいのう。わらわですら見分けがつかないとなると、固有能力の類か。くく、面白くなってきおった!」
――だけどまぁ、逃げるくらいなら出来そうだ。
再度始まった熾烈な攻撃を捌きつつ、僕はどう相手を出し抜くかを考えていた。
今ならやれることは多く、余裕も出来る。
まずは様子見に、さっきと同じように出口と思われるドアに近づいてみることにした。
だが、いざドアまで近づくと、先ほどまでと違って攻撃がぴたりと止んでしまった。広範囲の魔法攻撃がくる気配はない。
不自然に思うがチャンスではある。僕はドアに駆け寄ってノブに手を掛けた。
「えっ?」
こじ開けられない。というより、ドアの形をした壁のようなものだった。残りのドアにも駆け寄ってみるが全て同じだった。
「・・・・本当に惜しい。心が折れてしまわなければ、あとはあやつが唾をつけていなければ、わらわの夫候補であったな」
ここ、出口はどこなんだ?
「わらわはこの空間を支配しておる。故にわらわを倒さなければ逃げられぬよ。いくら足が速かろうと、籠の中では意味をなさん」
「嘘、だ・・・・」
僕は、周りの空間がさっきより狭くなっていることに気づいてしまった。
時間が経つにつれて、空間が狭くなっていく。この調子なら、いずれ攻撃を避けることも出来なくなるだろう。
敵は今まで多くの魔法をこちらに打ってきているが、身体の周囲に纏う魔力は質、量共に最初の状態から減っているようには見えない。
――逃げるのは無理だ。もう、やるしかない。
覚悟を決めた僕は、腰から短剣を引き抜いて、勢い良く敵に迫った。
「おう、やっとくるか・・・・って、速ぁっ!?」
驚く声と共に繰り出される魔法を、紙一重で避けていく。相手に直進しながら避けるのは難しいが、やるしかない。当たったときは死ぬのがちょっと早まっただけだと思おう。
そうしてあと七歩ほどで短剣が届く距離まできて、翼がなければ避けようもないほどの広範囲魔法が放たれた。さっきまでの僕はこれに苦しめられていて、ここまで近づいてしまったら避けようもなかった。
だけど今の僕なら、大丈夫だ。
「――ッ!」
分身を踏み台にし、大きく跳躍をした。普通なら届かない天井まで到達すると、それを足場にして間髪入れず敵に向かう。
チャンスは一度きり。後のことなんて考えても意味はない。どれだけ隙を作ろうとも、まず一撃で倒さなければならない。
驚愕に染まるその顔のすぐ下、何にも覆われていない細い首元目掛けて。
「はぁああッ!」
落下の勢いのまま、思いっきり短剣を突き出した。
「・・・・うーむ、一瞬ひやりとはしたが」
そんな僕の渾身の一撃は、空中で不自然にぎちぎちと止まっていた。
「わらわの防護結界を貫くには、だいぶ力が足りないな。あと武器も安物ではなぁ・・・・。まぁ、そろそろ頃合いか。なかなか楽しかったぞ」
その言葉を聞くと同時に、僕はまた気を失った。
びりっとした小さな痛みに目を覚ますと、
どこまでも澄み渡る、雲一つない青空と、
僕を見る、数多の視線があった。
「さあ、まもなく『チキチキ! 仔兎ちゃん争奪大会! ぽろりもあるよ!』が始まろうとしています。司会は私、ラモジーが担当します。解説者はこのお方、我らがダンジョンの主である御屋形様であります!」
「うむ、わらわである。しっかし、この参加者数は壮観であるな」
「まぁもともと争奪大会を開催すると、中層以上のダンジョンから魔物娘が消える、と言われてますからね。・・・・前回の勇者の時もやばかったです。あまりにもダンジョンに魔物娘がいなくて、ダンジョンギルドが臨時休業になったり」
「あ、今回も臨時休業じゃ」
「ですよねー。なんといっても、一階層の探索者が争奪大会の主賓になるのは今回が初。低階層所属も参加できる大会も今回が初です! 盛況なのも頷ける初物ずくしですね!」
「それに主賓も初物であろうしのう」
「御屋形様すっごいゲス顔! ユニコーンの参加者さんは頑張ってください!」
きゃあああああ!!!!!
「さぁ、大会の前に優勝候補の紹介と行きましょう。まずはこのお方、九十五層のボス、ミーネさん! 賭けのオッズはなんと2倍を切る1.9倍です! その視線と糸の特徴から、誰が呼んだか『絶対零度』」
「す、すごくダサい! ・・・・わらわにはそういう変なの付いてないであろうな」
「大丈夫です御屋形様、二つ名なんてそんなもんです。さて、そんな優勝候補のミーネさんと中継が繋がっています。中継のレイダさん?」
「はい。私、レイダは深層ボスのスタートライン前に来ています。あちらにおられるのがミーネさんですね。どうやら空を見上げて精神統一をしている様子です。さっそく意気込みを聞いてきたいと思います! ミーネさん、大会開始前にお気持ちを聞かせてください!」
「ああフェイくん大丈夫安心して私がずっと守ってあげるから何もしなくていいから私が全部してあげるからもう一生離れないから一人でどこにも行かせないからずっと一緒にいようねそれから春にはお花見をして夏には近くの湖に行こう秋には美味しいものいっぱい食べて冬には一緒に暖め合」
「ひいっ!」
「・・・・あれ、もしかしてこれやばいやつかのう」
「・・・・死者が出ないことを祈るばかりです。みなさーん、ミンチは避けてください。本部には優秀な医療班が待機しておりますが、ミンチは無理ですよー!」
「いざとなったらわらわが出張るしか・・・・」
「えー、気を取り直して、同じく優勝候補の九十九階層ボスのドラゴン、エレシアさん・・・・」
・・・・
・・・・・・・・
「さぁ紹介も終わったところで、まもなく! 時間ですね! あ、ちなみに大会中継は空からワイバーンの皆さんにお任せしていますよー」
「映写魔具は絶対壊すでないぞ! この都市でも数が四台しかないめちゃくちゃ高い魔道具だからな!」
「それでは改めて基本的な大会の説明に入りたいと思います。スタートと同時に眠りについている『仔兎』ちゃんに微弱な電気を流して強制的に起こします。今回の主賓である『仔兎』ちゃんの逃げ道は一つ! この先を真っ直ぐいったカタス村という場所まで着いたら『仔兎』ちゃんの勝利です。果たして『仔兎』ちゃんは無事にカタス村に着くことが出来るのか!?」
「まぁ今までの人間は、一度も着けたことはないがな」
「それは言わないお約束ですよ! 次に我々、魔物娘側のルールについて説明します」
「といってもルールは至って簡単。『仔兎』ちゃんを捕まえて、あつーいくちづけをぶちかませば大会優勝です! また禁止行為として、階層、階層主毎に定められたスタートライン以外からスタートすること、他の参加者をミンチにすることの二つがあげられます! それ以外はなんでもありです!」
「ミーネ、聞いておるか! ほんとルール守れよ!」
「それでは、3・2・1・・・」
「「スタート!!!」」
「ふん!」
「あー、やったわね!」
「おーっと? 開始直後、魔物娘の間で乱闘が繰り広げられていますよ?」
「今回も出たのう、参加者同士の潰しあいが。言ってしまえばバトルロイヤル要素も含んだ大会であるから、有望そうなのとか敵わなそうなのは今のうちに複数で潰してしまえといったところか」
「さすがみなさん手段は選ばない! 魔物娘同士の醜い戦いが繰り広げられています!」
「この大会の醍醐味と言っても良いであろう。さて、仔兎の方は・・・・」
「あれ? 仔兎ちゃんはどこに・・・・」
「もう消えたな」
「はぁ・・・・」
魔物娘達の爆発的な熱狂が、遠いこの場所まで響いてくる。九十五層のボスは佇み、ただ想い人が来るのを待っていた。茶番でしかない大会に溜息を一つ。
「・・・・有象無象に捕まえられるわけがないでしょう。この私から逃げきったのよ」
思い浮かべるのは、一階層での兎狩り。いずれ自分の階層まで来てくれると確信したときのこと。
・・・・来てくれると思っていたのだけど、ね。
少しだけ残念な気持ちになるが、これからの未来に比べれば些事でしかない。
考えていた予定とは少々違くなってしまっても、待ち望んだ時であることには変わりない。
ああ、もうすぐ望んだ、その時が、
貴方が私のものになる、その時が。
・・・・口が歪に緩むのも、仕方のないことよね?
走る、ただひたすらに。
横から迫る魔物を躱し、正面の魔物はフェイントを交えてすり抜ける。
時折、腰の鞄からポーションを取り出して体力を回復。水のスクロールを使用して仕掛けられた罠を強引に流し、火のスクロールを使用して目眩まし、土のスクロールを使用して足場を作ってジャンプ、風のスクロールを使用して飛距離を稼ぐ。
状況は理解不能で今も困惑しているけれど、辺りを魔物に囲まれている今、一刻も早く安全な場所へと行かなければいけないことくらいはわかる。
遊ぶように殺されたと思っていたけれど、なぜか僕は生きていた。生存本能のままに、僕は逃げ続ける。
幸いにして逃げ道はある。先程のようにないよりは随分とマシだ。
ただ、一つの懸念が頭に居座っている。
それは良く見ればわかること、道を外れた先には多くの罠や魔物が潜んでいるのだ。
僕は作られた逃げ道を走らされているかもしれない。
なんのためにかは、わからない。朝から続く、理不尽なまでの長い悪夢だと言われたほうが、まだ納得できるくらいだ。
そうしてどれくらい走っただろうか。必死だったからよくわからない。
立ちふさがる魔物達も、それほど速くはないから逃げることに問題はなかった。道中追ってきていた魔物、空からしつこく付いてきた魔物の姿も先程から見えない。
一息つこうかと考え、足を止めそうになったとき。それはいた。
「ああ――、――――やっと会えた」
先の道にいる魔物は俯いていた。巨大な蜘蛛の体が見て取れる。
嫌な予感が頭をよぎる。とびっきりの嫌な感覚。
なんでだろうか。それはあの一階層で出会ったユニークモンスターのようで。
あのモンスターはもう討伐されたはず。ここに存在するはずがない。
だから大丈夫って頭の中で繰り返し言い聞かせるけど、落ち着かない。少し近づく度に足が震える。
「・・・・あのときはね、ちょっと遊んでいたの。貴方を追いかけるのが楽しくて楽しくて。まるで何度も重ねる愛撫のように濃厚で、甘美な一時だった。でも、本当に逃げられるとは思わなかったわ。最後に全力は出したし奥の手も使ったけど遅かった。だから――」
目の前の魔物が顔を上げると同時に、放たれる威圧感。全身の神経が逆立ち、直感が頭の中に最大級の警報を鳴り響かせる。
ここから今すぐに逃げろ、と。
「――今回は、最初から全力。どこに逃げたっていつまでも追いかけるから! 私が貴方を捕まえるまで!」
間違いない。
これは、あの日に感じた恐怖と同じもの!
僕の心を支配しているのは恐怖。
それはあの日の再現だった。
変化は二つ。薄暗いダンジョンの中から、陽光が照らす大地に舞台が変わったこと。前とは違い出口がないということ。逃げ続ければ助かると信じて走るだけの絶望的な状況だ。
正面に対峙した魔物を、分身を使って避けたまでは良かった。初見ならまず成功すると思ったし、事実そうだった。それに僕の方が、あの魔物よりも速いということもある。
ただし、追われる立場になったら話は別だ。
後ろから繰り出される糸を避けるために、不規則な走りをしている。ただそれだけで、僕の速さは損なわれることになるし、体力も余計に消費する。
だけど、一つだけ良いことがわかった。
糸の射出方向に土のスクロールを使って薄い壁を作ってみた。正直期待薄の行動だったのだが、糸は壁を貫くことはなかったのだ。
つまり、糸自体の殺傷能力は極めて低く、ただ標的を捕らえるためのものということ。
それがわかれば、底を尽きかけたスクロールの代わりを、僕の分身が担うことができる。
後ろに迫る糸を避けず、当たる瞬間分身を出して、盾代わりにしたあと触れて分身を回収するだけでいい。
これで、今まで回避行動によって損なわれていた速さを取り戻すことができ、徐々に距離も広がるだろう。
ただ、あの分身を出す際に身体からごっそり魔力が失われている。分身を回収すればある程度は元に戻るものの、全部じゃない。
逃げ切る前に、その魔力が尽きたときが僕の終わりだろうか。
「やっぱりすごいね、フェイくん。これはもう少しとっておきたかったんだけど、ね!」
魔物との距離がだんだん離れたとき、背後にいる魔物の周囲の魔力が膨れ上がった。
嫌な予感に身体が竦む。
その数瞬後、糸が僕を目掛けて全方位から飛び出してきた!
「村までのコース設営って私の仕事なのよ」
後ろ、前、横。見渡す限りの糸が勢い良く殺到してくる。
ただ、あれだけの無数の糸を一つ一つ操ることは出来ないだろう。
おそらくはランダムで、ただ僕と僕の進行方向に向かって糸を伸ばしているだけだ。
ダンジョンの中であれば、詰みだったかもしれない。
でも、今は上に空がある。
分身の手を足場にして、両方の力を合わせて大きく跳躍する。分身を回収できないのは痛いが仕方ない。
白い糸の海を抜け出して、僕は青い空に飛び出した。
「――ッ!? もしかしてと思ってたけど、これも避けてくるなんて! ・・・・本当に、あなたはなんで――」
下には夥しいほどの糸群。あれに捕まっていたらと思わず身震いする。一本でも触れていれば、その場から動けなくなっていただろう。
体力回復のためのポーションを取り出そうと鞄に手を突っ込む。その際に一瞬だけ影が僕を覆った。
おかしい。攻撃は避けたはずなのに、寒気がおさまらない。
ポーションの瓶を傾け、中身を少し飲んだところで、慌ててもう一度鞄に手を突っ込んだ。
また影が僕を覆ってようやく、先程から続く寒気の正体がわかった。
後ろでもなく、前でもなく、横でもなく、下でもなく、
――上だ!
最初から気が緩んだところを狙われていたのかもしれない。
気づいたときにはもう遅い。
翼を持たない僕には回避行動はとれないし、アイテムを使うにも遅すぎる。
耐え切れないほどの衝撃が体中を駆け巡った。
気絶する前に見た、目の前の光景。
それは、人が畏怖の象徴とする強力な魔物、ドラゴンだった。
僕はとんでもない大馬鹿者だ。後ろの魔物にばっかり集中していた。
魔物が一体だけじゃないなんて、とっくに知っていたのに・・・・。
「あーっはっはっは! 油断したなミーネ! 追いかけるのに夢中で、頭が回らなかったのか?」
「・・・・邪魔しないでよ、エレシア」
響く高笑いに、俯いたミーネは不機嫌な声を返す。
「悪い。まだまだ時間がかかりそうだと思ったもんでな」
「横から掻っ攫うなんて、プライドの高い貴女がすることとは思えないわね」
エレシアは、手に抱えた獲物をチラリと見やる。
「ハッ、まぁそもそもアタシの目的はこいつじゃないからな」
「何が言いたいの・・・・?」
「お前がこいつに御執心なのは知ってた。こんな状況でもなければ、お前の本気を見る機会もないと思ってな。・・・・ミーネ、真剣勝負だ。アタシと全力で戦え! こいつを賭けてだ!」
その言葉を聞いたミーネの身体は震え出し、内包する魔力の密度が高まっていく。
「・・・・そう。そんな、そんなに、・・・・そんなにくだらないことで、私の最高の時間を潰したのね・・・・」
ミーネは苛立ちを抑えるように、淡々と喋る。
二者の様子を魔具を通して見ていた迷宮主は「エレシア、最近ミーネに構ってもらえなくて寂しかったのであろうなぁ」と暢気にコメントしていた。
ミーネは迷宮主とエレシアにとって教育係で、戦闘に関して言えば師匠と弟子、家族同然の間柄である。四六時中いちゃこらしてる両方の親達よりも顔を合わせている時間が長いかもしれないくらいだ。
そんなミーネが『仔兎』に出会ってから素っ気なくなった。教育係としての仕事を放棄し、店に篭って『仔兎』用の服を作りまくっているのである。
最初は「あのミーネが一丁前に女の顔してやがる! だはははっ!」とか大笑いしていたエレシアも、「今日も自主練だけかよ、ふざけんな!」と時間が経つに連れてプリプリと不機嫌になっていったのだ。
今回の事は、起こるべくして起こったと言えるのかもしれない。
「・・・・別にいいわよ、気が昂ぶってるから手加減はできそうもないけど。それがお望みなんでしょう?」
「ま、そうだな。こいつは一旦本部に預けて・・・・、・・・・・・・・んー。ミーネに勝った後のお楽しみにしようと思ってたけど、ちょっと味見しておこっかな。ちゅー」
「――ッ、触るな! 殺すぞチビトカゲぇッ!」
「ひぃい! ・・・・って何ビビってんだアタシは。上等じゃねえか、本気になったお前と一度戦ってみたかったんだよ!」
ところ変わって解説。
「あれれー? 争奪大会から一転、お二方とも変身して、なんか巨大蜘蛛vs巨大竜の怪獣大決戦になっちゃいましたよ?」
「他の参加者も巻き込まれたくないのか、遠巻きに見ているだけだのう」
「御屋形様、色々誤魔化せるんですかこれ? 映写魔具いらないレベルですが・・・・」
「ど、努力はしてみせよう!」
五分後。
「御屋形様! 森があちこちクレーターに! 環境被害が甚大です!」
「見えておるわ、デカいドラゴンがきゃんきゃん言わされてこっちに逃げてきおるのもな。しかしミーネの本気ってあんなに強かったのか・・・・。わらわもまだまだ精進が必要か」
「あの、相性はミーネさんの方が悪いですよね。なんで勝ってるんですか」
「年の功・・・・というのは冗談で、まぁこれが俗に言う愛の力であろう!」
「愛ってスゲー!」
・・・・
・・・・・・
・・・・・・・・
僕は誰かに語り掛けられながら頬をくすぐられていた。くすぐったさに身を捩りながら、ゆっくりと目を開けると、誰かが僕の顔を覗き込んでいる。
「あ、フェイ君、起きた?」
「う、あ。はい」
よくわからないが、とりあえず返事をする。そうして寝起きしたばかりの頭が徐々にはっきりしてくると、それは僕の想い人であるミーネさんだと気づいた。
ミーネさんの口元が、笑みの形を作る。
「・・・・あ、れ?」
僕の大好きな彼女の笑顔が、・・・・今は何故だかとても恐ろしいものに感じた。
了
19/03/24 06:34更新 / 涼織
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