狐の恩返し 後編
押し倒した男と押し倒された女の二人分の体重を受けたベッドは、軋みもせず柔らかく女の背を受け止めた。
見つめあい、自然と唇が引き寄せられる。
「ん……、ふぅ……」
女の口から艶めかしい声が漏れる。
もっともっとと強請るように。
それに答えるように男は舌を女の口の中にねじ込み、蹂躙する。
「あむ……、んぅ……!」
息が苦しくなってきた。
が、それ以上に目の前の女が愛おしい。
この稲荷を悦ばせてやりたい、自分だけの物にしたいという欲望の方が勝っている。
口づけをしたまま着物を乱暴に開けさせ、彼女の豊満な胸を嬲る。
片手で収まりきらぬほどの大きさを持つそれは揉む度に柔らかく形を変え、その度に狐は身悶えた。
柔肌の感触は吸いつくようで滑らかだった。
女は手を男に押しつけて引き離そうとするが、その力は弱々しく、抵抗とはとても呼べない。
むしろ、わざと抵抗する素振りを見せて興奮を促そうとしているようだ。
しかし男はあえてそれを抵抗と見なすことにした。
唇と手を離し、体を起こして距離をとる。
女はどうしてと言わんばかりに潤んだ瞳を男に向けていた。
「やっぱり無理矢理されるのは嫌だったよな。ごめん」
「そっ、そんなことは……」
狐の表情から焦りの色が見える。
「ごめんな。押し倒したりして。嫌だったろ?」
そうしてベッドから立ち上がろうとして、袖を引っ張られることで阻止される。
「嫌……ではありませんが、その……」
女は俯いて言い淀む。
顔は見えないが、恐らくは羞恥で朱に染まっているのだろう。
「何をして欲しいんだ?」
そんな狐に男は助け船を出した。
が、それは彼女を救助するためではなく、追い打ちをするつもりで出されたものだった。
その証拠に、男の顔は獲物を追いつめた狩人のものであり、目の前の狐をどう料理してやろうかと舌なめずりをしていた。
女がどうして欲しいのかは既にわかっているがあえて口に出さない。
彼女が直接言うのを待つ。
そうやって彼女を煽ることで、自分の加虐心を満たそうとした。
そんな自分の隠れた黒さに内心驚きつつも、そんなことがどうでもなるように彼女が愛おしかった。
むしろ、愛おしいからこそサディストになっているのではないかという気さえする。
「……て下さい」
「ん?」
女は消え入るような声で呟いた。
男は聞き取れたが、あえて聞こえない振りをした。その方が楽しい。
「私にも……させて、下さい……」
消え入りそうな声で、俯きながら、おねだりするその仕草はとてもいじらしく、その様子に男はほくそ笑む。
ここで「何を」とは聞かなかった。
流石に焦らしすぎるのはよくない。
男は衣服を脱ぎ捨て、再び女の元に寄り添う。
そしてそっと女の体を抱きしめ、唇を合わせる。
啄むように、浅く。
何度も何度も。
それに応えるように彼女も手を男の胸板に這わせ、撫でる。
その手は徐々に下へと伸びてゆき、彼の分身にたどり着いた。
赤黒く脈打つそれは、火鉢の中に焼べられた木炭の様に熱く、固くなっていた。
彼女が愛おしむようにそれを撫ぜると、一瞬男の動きが硬直する。
女がそれを見逃すわけもなく、触るか触らないかぎりぎりの弱さでそれを扱く。
弱々しい刺激にもどかしさを感じる男であったが、女に責めさせると決めた以上、下手に抵抗するわけにもいかない。
女は唇を離し、その代わりに男の首周りに口づけを落としていく。
更に、逃がさないとばかりに尾を男の腰に巻き付ける。
手の動きも、先程から溢れでてくる先走りを潤滑油代わりにして徐々に早く、強くしていく。
女の口は男の首から胸板へと降りていき、舌で吹き出ている汗を舐めとる。
それと同時に、形の良い鼻を押しつけて大きく息を吸っている。
鼻腔いっぱいに男の臭いが充満し、それがより一層彼女を興奮させ、狂わせる。
「あはぁ……。貴方様の匂いぃ……」
その顔に先程までの貞淑さはなく、肉欲に溺れた一匹の雌としての表情だけがあった。
熱に浮かされたような惚けた声も、雌狐の淫靡さに拍車をかけていた。
「もっと、気持ちよくして差し上げますね……」
名残惜しそうに離れると、少し下がり頭を下げた。
男と向かい合い、ひれ伏すような体勢をとれば、目の前にあるのは彼の熱り立った分身である。
そして彼女はそれに顔を近づけ、根本から舐め始めた。
赤い小さな舌が彼の肉棒に沿って這い上がっていく。
熱を帯びた息が当たる。
潤んだ瞳を上目遣いにして男の顔を見つめている。
唇が先端に触れ、鈴口から滲み出た先走りを啜る。
そのまま口を開き、彼の肉棒を咥内に入れる。
亀頭を舌で舐め回し、吸い上げる。
卑猥な水音をたて、彼を少しでも喜ばせようと奉仕している。
触覚と視覚、どちらからの刺激も男を興奮させるには十分だった。
先ほどの手淫よりも堅くなったそれが今まで以上に脈打ち、射精が近いことを知らせる。
女は口を離すと一端離れ、開けて乳房がまろび出ている着物を脱ぎ始める。
寸止めされた男は焦らされているようで、直ぐにでも押し倒してしまいたかったが、何とかして堪えた。
帯を解き、袖から腕を抜く。
それだけの動作なのに、扇情的で、時の流れが遅く感じた。
こうして生まれたままの姿になった彼女の体は、彼の情欲を一気に引き上げる。
狐の耳と尻尾という、非現実的な要素も相まって、男の目はその肢体に釘付けとなった。
彼女は再び先ほどの体勢に戻ると、今度は彼の剛直をその豊かな双球で挟み込んだ。
そして舌をつきだし、唾液を滴らせて収まりきれずにはみだした亀頭にかける。
そうして滑りをよくした上で左右の胸を手で掴んで上下させ、その先端を咥えこんだ。
「はむっ……、んちゅ……」
「ぐっ……」
うめき声が漏れる。
先ほどまで射精寸前だった上に、柔らかな胸に挟まれ、敏感な先端を舐められ、我慢など出来る筈もない。
もう少しこの感触を味わっていたかったが、既に限界だった。
「もう、出るぞっ……!」
そういって、彼は括約筋を緩め、精を吐き出す。
堰を切ったように白濁が飛び出していくのが分かる。
彼女はその全てを口で受け止めようとするが、彼女が口に含める量よりも多かったようで、思わず口を離してしまった。
射精は止まらず、彼女の顔を白く汚していく。
液体と固体の中間のような粘度を持つそれは、顔にしぶとくへばりつき、肌を焼くような熱をもたらした。
咥内の精液も、咀嚼しなければ嚥下できないほどに粘っこく、その度に彼女の舌と口を犯していく。
口を開けた時胸の上に垂れ落ちた精液は、白い喉を鳴らしながら精液を飲み込んでいく女の手で全体へと塗り広げられていく。
卑猥に形を変えながら、白い双球も桜色の突起も、白く化粧されていく。
目の前でそんな痴態を見せられ、彼はこの上なく興奮していた。
今までのどんな自慰よりも射精した。
それも本番ではなく、前戯でだ。
ならば、これからどうなるのだろう。
自然と垂れた涎を拭い、生唾を飲む。
「もう、我慢できません……」
彼女は股を開き、秘所の入り口を両手で広げ、彼にその奥がよく見えるようにした。
目の前の美女の、そんな痴態を見せられれば、誰でも股ぐらが熱り立つ。
復帰した自分の愚息をその入り口にあてがい、彼は避妊をしていないことも気づかないまま一気に突き入れた。
若干の抵抗はあったものの、奥まで貫くことが出来た。
しとどに濡れていた彼女の膣内はとても狭く、彼の男性器全体を締め付ける。
今まで女を抱いたことなどなかったが、これは紛れもなく名器だ、と彼は思った。
そのまま腰を動かしてしまえば直ぐにでも出してしまいそうになる。
一息つこうとして、彼女の様子を見ると、少しおかしいことに気づく。
一突きしただけであるというのに体を仰け反らせ、シーツを掴み、目を見開いて顔を天井に向けている。
絶頂の余韻に浸っているようにもみえるが、先ほどまで責められていた自分ならまだしも、責めていた彼女がそうなるのはまず無いだろう。
むしろ、生娘が初夜で痛みに悶えているように見える。
そこで初めて気がついた。
結合部から、赤い線が流れている。
それが破瓜の血であると気づくのにそう時間はかからなかった。
「初めて、だったのか……」
これほどの美貌を持った女が、あれほどの技巧を持った女が処女であったことに、彼は驚きを隠せなかった。
それと同時に、それまで男を知らなかった彼女を、極上の女を自分の手で「女」にしてやった事に彼はこの上ない優越を、満足を感じた。
その彼女の目には涙が滲んでいた。
「痛かったか……?」
処女が相手なら、乱暴に扱わない方がよかったと後悔しながら、痛みを堪えているのであろう彼女を気遣った。
「いえ……。ただ、私の操を貴方様に捧げられたのが嬉しくて……」
彼女の涙は痛みによってではなく、悦びによってだったのだ。
そんな、男にとってこれ以上ない言葉に、優しくするつもりだったのだが、理性が持ちそうになかった。
彼女の細い腰を掴み、狙いを定めると、乱暴に、それこそ獣のように腰を振った。
「あっ、んっ!あ、貴方様っ!やさ、しくぅ!」
腰の動きとベッドが連動し、スプリングの激しい音と共に軋む。
肉と肉がぶつかり合い、シーツに汗が飛び散る。
彼女の乳房はピストンに応じて大きく、そして無造作に揺れる。
その手は彼の肩に食い込み、脚は彼の腰に。
彼は彼女の上に倒れ込み、体を押しつける。
互いの汗で互いの肌を濡らし、甘い空気を漂わせ、こもらせながら交わる。
柔らかな胸が彼の胸板によって押しつぶされ、上下する度に形を変える。
膣内をかき回す感触もさることながら、快楽によって乱れ、歪んでいる美女の顔を間近で見れることが心地よい。
さらにその快楽が自分のもたらすものであるという事実が彼の情欲をそそった。
狐の耳を甘噛みし、舌をその中に突き入れ、ねっとりと舐め回す。
結合部と口、あるいは耳から聞こえる二つの水音が二人の性感をより高めた。
特に、性感帯である耳を責められ、直接水音の内の一つを聞き取っている彼女にとって、これは脳に響くようなものだった。
「はぁっ!んぁ……。もう、私……、あぁ!」
彼女は彼の背中に手を回し、達する時が近いことを伝えた。
彼は腕で彼女の頭を優しく包み、腰をぶつける速度を上げる。
密着していた彼女のたわわに実った乳房がさらに押しつけられ、擦れる乳首の感触がたまらなく官能的だった。
互いに汗にまみれ、肌を擦り合わせる。
「あぁっ、貴方様っ!貴方様ぁっ!」
彼が一層強く腰を打ちつけて、二人はほぼ同時に絶頂に身を震わせた。
二度目だというのに、放たれた精液は量も濃度も変わらず、むしろいつもより多いぐらいだ。
おまけに、先程精を吐き出したばかりの肉棒は未だに萎える気配を見せていない。
絶頂の余韻に浸っている稲荷をよそに、男は再び腰を打ちつけた。
不意をつかれた女が仰け反るが、このさい関係ない。
女が何か言っている。
しかし彼の耳にはまるで入らなかった。
彼女の体を反転させ後ろから、つまり後背位で、ケダモノじみた目合いをする。
目の前で揺れる尻尾を乱暴に掴み、自分の分身がされたように扱きだした。
彼女は懇願の言葉すらままならず、容赦ない責めをただ一身に受けるだけだ。
組伏され、両手両膝をついた女は嬌声をあげ、舌をつきだし、涎を垂れ流し、その様はまさしく雌の狐そのものであった。
そうして女が数回果て、碌な言葉も喋れずにただうめき声を上げるだけになった頃に、三度目の精を放つ。
殆ど失神している様な状態だが、それでも下の口は肉棒に絡みつき、放たれた精を一滴も逃すまいと吸いついてくる。
男は彼女の体を起こすと、虚ろな目で放心している彼女の顔に舌を這わせ、だらしなく開いた唇に、そして口の中に舌を入れる。
それに応えるように彼女は舌を絡ませた。
今度は彼が下になり、騎乗位の体勢になる。
まだだ。まだ足りない。
もっと。もっともっと。
欲望のままにこの体を貪りたい。
未だに萎える様子を見せないこの性欲で、この雌狐を犯し抜きたい。
そういった思考が彼を支配していた。
まるで畜生ではないか。
最後に、僅かに残された理性で考える。
――それがどうした。
彼女は狐で、男は獣なのだから。
何も問題ない。何一つ。
彼はそれを瞬く間に一蹴し、自分に跨っている狐を突き上げた。
夜が更ける。
互いの身体を貪りあった二人は並んでベッドに寝そべっていた。
どれだけしたのだろう。女の体は男の出した白濁によって白く染められていた。
「覚えていますか?貴方様が私の家に初めて来た時のことを」
女がぽつりとこぼした。
男は思い出す。
学生時代、暇つぶしに行っていた神社のことを。
「貴方様は毎日欠かさず来て下さいましたね。
私はそれまでずっと独りで、寂しかったんです」
周囲と上手く馴染めず、孤独な学生生活を送っていた男にとって、学校の近くにあった寂れたそこは、唯一の憩いの場所だった。
稲荷にとっては独りぼっち同士、引き合う何かを感じたのかも知れない。
しかし当時の男はそんなことも知らず、ただ静けさに身を任せて孤独を癒していた。
「貴方様が来なくなってから、私は貴方様の臭いだけを頼りにずっとずっと探し続けました……」
三年生になってからは受験勉強に没頭した。
神社に立ち寄ることもなくなり、それ以降は足を踏み入れていない。
大学へ進学する際に引っ越したからだ。
「本当は貴方様の元へすぐに行きたかったのですが、社から離れることもできず、ずっと待たなければなりませんでした……」
そして久しぶりに母校へ行くと、その近くにあった神社は更地になっていた。
聞くところによると、荒れ放題の廃墟は若者がたむろする原因となるということで取り壊されてしまったようだ。
祟りも畏れぬ愚行だと無神論者ながらに思った。
昔の居場所だった神社をそんな理由で奪われてしまったのに腹を立てていたからかも知れない。
「社から離れることができてからはこの館に住むことになったのです」
居場所を失ったのはこの稲荷も同じだ。家を壊されてしまったのだから。
ひょっとしたら、この館は居場所を奪われたものが避難するような場所なのかも知れない。男はそう思った。
「そしてようやく今日、貴方様に逢えました」
女は男の手を握る。
「もう二度と離れたくありません。離したくありません」
そうして、稲荷は男の顔を見つめる。
彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「どうか、私の体に、貴方様を刻みつけて下さい……」
どうやらこの牝狐は、顔も耳も、胸も腹も脚もつま先まで、尾すら白濁に侵されてもなお犯され足りないらしい。
男はその「おねだり」に応えるために再びその身体を抱き、欲望を叩きつける。
獣(おとこ)と狐(おんな)の狂宴は終わらない。
結局の所、二人は明け方まで犯し、犯された。
女は既に失神している。が、男はそれでもなお雌狐の身体を貪っていた。
そうして散々犯し抜いたあげく、何度目か数えるのも馬鹿馬鹿しくなる射精を迎え、気絶するように眠った。
グゥゥゥゥ
のならよかったのだが、眠欲と同じ三大欲求である食欲を満たす方が優先されてしまったらしい。
首を吊るために樹海へ足を踏み入れたのだから、当然食事などしていない。
つまり、彼はほぼ半日何も口にしていないのである。
「くっ……」
幸いにも目の前の女は眠っていて、自分の腹の虫が盛大に鳴いたことにも気がつかなかったようだ。
しかしどうしようか。
寝てしまいたいのは山々だが、空腹がそれを許してくれそうにもない。
その状況を打開する策を考える間もなく、男はドアがノックされる音を聞いた。
「お客様。御朝食をお持ちいたしました。部屋に運び入れてもよろしいでしょうか?」
受付で聞いたハスキーボイスだ。
あまりにも取り計ったようなタイミングだが、今はそんなことどうでもよい。
男はとりあえずパンツだけはいてドアを開けた。
「おはようございますお客様。今日は玉子サンドにしてみました」
「どうも。えっと……」
そこで気づいた。
今目の前にいるのは誰だろう?
名前も聞いていない。
「お客様方からは館主と呼ばれておりますので、そうお呼び下さいませ」
「あ、じゃぁ、どうもありがとう。館主さん」
「いえいえ。お客様におよろこび頂くことこそワタクシの仕事であり楽しみですので」
館主はそう言って、二人分の朝食が乗ったトレイを渡した。
スクランブルエッグが挟まれているそれは、手っとり早く食べて寝たい男にとってはうってつけだった。
「では、ごゆっくり」
館主が立ち去ると、男はその場でそれを口に入れた。
味わうよりも空腹を満たす事を優先とした食事をすませた後、女の分の食事を部屋にあった冷蔵庫に入れ、ベッドに横になり、そのまま泥のように眠った。
男が目覚めたのは昼頃。
かすかにシャワーの音が聞こえる。
女が身体を清めているのだろう。
トレイの上にある皿が二枚重なっている所から、女も食事はとったのだろう。
男は女が用意したと思われる浴衣を着て、女が出て来るのを待った。
暫くして女が出てくると、男はその姿に息を飲んだ。
同じく浴衣に着替えた女の顔はほんのりと赤みを帯びている。
浴衣の合わせから見える谷間や御御脚は実に悩ましい。
一晩にして三本に増えた尾も、男を手招きするように揺れている。
まだ乾ききっていない毛並みもまた、艶めかしさをより一層増長させていた。
「おはようございます。貴方様」
「あ、あぁ。おはよう……っていってももう昼なんだけどな、ははは」
等と冗談を言って男は気を落ち着かせる。
そうでもなければ、また情欲に任せて目の前の狐を襲ってしまいかねない。
コンコン
二人の時間に水を差すようなノックの音がした。
男にとっては丁度良いタイミングだったが。
「お客様、少しよろしいでしょうか?」
館主だ。今度は昼食でも持ってきたのだろうか。
「館主さまですか?今御開けします」
稲荷がドアを開けて、館主が部屋へ入る。
すらりとしたその身体に、黒のスーツは良く似合っていた。
「あぁ、少しばかり込み入っておりますので、どうぞおかけ下さいませ」
そう言って、館主は二人を備え付けの椅子に座らせた。
館主もテーブルを挟んで向かいあうように席に着く。
「お客様方も、昨晩はお楽しみだったようですね」
明るい口調の開口一番は、とんでもないセクハラ発言だった。
「も」と言うことはつまり、そう言うことなのだろう。
「かっ、館主さまっ!」
男も稲荷も顔を真っ赤にしている。
館主は悪びれる様子もなく、小さく笑った。
一呼吸おいて、真面目な雰囲気に戻す。
「さて、お客様には入居手続きをしていただきます」
そう言って、館主が取り出したのはある種の誓約書だった。
色々書いてあるが、要約すれば他の客の迷惑になること以外は基本的に何をしてもいいらしい。
どの程度までなら許容範囲なのかも明記してある。
そして最後に、「この館で添い遂げる」と。
それは、入居手続きが事実上の婚姻届けであると示すには十分だった。
「ではここに、サインをお願いします」
夫婦となった二人は、筆を走らせ、誓約書に署名する。
阿部 清一
呉葉
と。
「「あ」」
そこで夫婦は初めてお互いの名前を知った。
「――では呉葉様、当初の契約通り、今ここで代金を払っていただきますが、宜しいですね?」
手には剃刀。
呉葉は覚悟を決めた様子で目を閉じる。
「では頂きましょう。貴女の、命を」
鈍く光る刃を彼女の首筋に当て、
「やめ――!」
刃が振られた。
が、何時までたっても血が吹き出ない。
「ふふふ。髪一房、確かに頂きましたよ」
剃刀の刃が切ったのは彼女の首ではなく、肩にかかった髪のほんの一部だった。
館主はしたり顔で剃刀をしまい、切り取った髪をハンカチで丁寧に包んでいる。
どこを切られたのか分からない程度であるところを見る限り、相当な技術であることが伺われる。
それはさておき。
「はぁ?!」
予想と全く違う展開に驚きを隠せずにいる夫。
その隣でクスクス笑う妻。
そして「ドッキリ大成功!」とでも言いたげにニヤニヤと笑う館主。
「ほら、よく言うでしょう?
『髪は女の命』と。
だから、ワタクシはお客様の髪を代金として頂いたのですよ」
「えぇ〜……」
気が抜け、一気に脱力する清一。
呉葉は俯いてしまった夫の肩をそっと抱いた。
「では、ワタクシはここで失礼いたします。どうぞごゆっくり」
そう言い残して館主(邪魔者)は立ち上がり礼をした後部屋を出た。
「あの人、意外とお茶目なんです」
「そんなのありかよ……」
呉葉は清明を抱きしめ、清一もそれに応じる。
「もう、離しません」
「あぁ、俺もだよ。呉葉」
二人の唇が重なった。
「どうぞお幸せに」
館主はドアから夫婦に向かって呟いた。
が、きっと二人には聞こえていないだろう。
真っ昼間だというのに嬌声が聞こえる。
館主は何も言わずにドアを閉めて立ち去った。
*注*
ハッピーエンドで終わらせたい方は直ちに回れ右をして下さい。
心の準備はよろしいですか?
ではお見せ致しましょう。この物語の真実を。
ようやく、清一様を手込めに出来ました。
私は清一様の物で、清一様も私のもの。
清一様をお顔を見て良いのも清一様の匂いを嗅いで良いのも清一様を感じて良いのも清一様のお側にいて良いのも私だけ。
私の体に触れて良いのも私の耳に愛を囁いて良いのも私の尻尾を撫でて良いのも私の瞳に映って良いのも清一様ただ一人。
清一様が私の全てになるように私はどんな犠牲も払ってきました。
私が清一様の全てになれるのなら私は何だってします。
そう、何だって。
ふふふ。
――はて……?
――何を、してきたのでしょうか……?
「――そう。お幸せに」
館主は誰もいない部屋で一人呟いた。
「その為には後ろめたい記憶など、必要ないでしょう?」
先ほど手に入れた金の髪を指に絡ませ遊びながら。
「故意であっても、無自覚にせよ」
愛おしい物を見つめるように目を細め。
「意中の彼をモノにするために、徐々に追いつめていった記憶など」
顔にわずかながらの酷薄な笑みを浮かべて。
「ふふ。代金は確かに、頂きましたよ」
そういって仄かに光る髪を机の引き出しにしまった。
12/11/14 16:34更新 / 宗 靈
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