蒼海彩婚礼

 目を開けば見知らぬ部屋が視界に入ってきた。
 頭の中は寝起きだからか、真っ白で思考がうまく働かない。
 目だけを動かして辺りを見回す。白い壁と天井、石か何かで出来た床。奥の方にある床には段差があり、下の方は浸水されている。その水がどこか淡い光を帯びて輝いて見えるのは気のせいだろうか。
 自分の服装は燕尾服に似た黒い物を着ていて、白い手袋を着けていた。それらが水でも吸い込んだのかのように少し重く感じられた。
 景色に見覚えは一切無い。なぜここにいるのかさえ分からなかった。分かった事といえば自分がベッドの上に横たわっているということくらいのものだった。
「ここ、は……」
「ここは海都クタアトです」
「っ……!」
 すぐ後ろ――正確には頭の上――から声が聞こえ、起き上がり様に飛び退く。
 振り向いた所で目を疑った。
「に、人魚……?」
「あ……まだ動いてはいけません。だいぶ海水を飲まれていらっしゃったみたいですから、しばらく安静にしていた方がよろしいかと……」
 心配げな顔になって、翡翠色の尻尾を動かして静かに近づいてくる。
 敵意は感じられない。彼女は本気でこちらの身を案じてくれているようだった。
「……貴女は、誰?」
「わたくしはシー・ビショップ」
 穏やかに、優しく微笑みを向けられる。
 それは慈悲深い暖かさを心に感じられるほどだった。
「ソフィアリア、と申します。どうぞお見知りおきを」
 スッと白い服の両裾を指で摘まんで、膝(?)を落とす。
 気品ある振る舞いに思わず見惚れたのも束の間、すぐさまさきほどソフィアリアが口にした言葉を思い出す。
「海水……と言っていましたが、私は溺れていたのでしょうか?」
「はい。わたくしが見つけた時にはだいぶ時間が経っていたようでしたので、申し訳ありませんが……そ、その……断りも無しに、儀式を執り行ってしまいました」
 なぜか彼女は頬を染めて、俯く。
「ただ……わ、わたくしも見るのは日常茶飯事なのですが……じ、自分でするのは……は…………て、でしたので……。ちゃんと成功しているのかどうか不安で仕方がなくて……」
 もじもじしながら、上目遣いで見上げてくるソフィアリア。
 なぜ彼女がそのような態度になっているのかは謎だし、言っている事もよくわからなかった。理解出来たのは、彼女が命の恩人であるという事だけだった。
「……ソフィアリア様」
 自身の胸に右手を当てて、頭を垂れる。
「赤の他人である私に救いの手を差し伸べていただき、ありがとうございます」
「……頭をあげてください。わたくしは当然の事をしたまでですから」
 染めた頬のまま穏やかに微笑むソフィアリアの言葉に頭を持ち上げてから、自分がまだ名乗っていない事に気が付いた。
「申し遅れました。私は……」
 そこで頭が真っ白になった。
 どんなに思考を巡らせても、その項目に該当が無かったからだ。
「…………」
 驚く。そしてそれは静かに、恐怖へ彩られていく。
「思い……出せない……? そんな、馬鹿な……」
 あり得ない事だった。何よりも身近な単語、自分自身の名前。その一文字すら分からない。
 自分が何者なのか、今までどんな所に住んでいたのか、家族は、友人は……。
 何一つ思い出す事が出来なかった。
 代わりに過った言葉は、記憶喪失という陳腐な言葉だけだった。
 絶望感に蝕まれ気が狂いそうになった時……唇が柔らかい物に包まれた。
 視線を上げれば目を閉じたソフィアリアの顔が目の前にあり、自分の唇と彼女の唇が触れ合っている状態だった。
 時間が停まったような感覚。それに反して、自分の中にある負の感情がどんどん消えていき心が落ち着きを取り戻していった。
 やがて、ソフィアリアは静かに唇を離した後、優しく抱擁してくれた。
「大丈夫ですよ。自分の事が分からなくても、これから自分を見つけていけば……良いのですから」
 その身体に、その声に、その言葉に、自分自身の全てが救済された。
「時間はたくさんありますから……。貴方さえ望んでくれるのであれば……幾らでも」
 暖かな温もりに身を委ねながら、見上げると彼女はどこか物悲しげな憂いを帯びた表情をしていた。
 そんな顔は似合わないな、と思いながらも今は彼女の温もりを感じていたいと目を閉じた。


                           † 


 オレンジ色に染まる海を泳ぎ、中層から浅層へと昇っていく。
 水面が近づくにつれて、オレンジ色がどんどん深みを増していく。
 息をする。音を立てて口から小さな泡が幾つか、昇って行った。
 海の中だというのに、陸の上と同じように自然と呼吸が出来る。そんな有り得ない事でさえ、今では当然の事として身体に染み込んでいた。
「…………!」
 前方から大きなサメがこちらに向かってくるのに、動きを止めて身構える。
 しかしサメはこちらに襲い掛かってくる事はなく、速度を落としてゆっくりと横をすり抜けて泳いでいった。その姿が見えなくなるまで、その場に留まって見送る事にした。
 海神ポセイドンの加護によりもはや海に住まう人間の天敵にも襲われる事はなかったが、それでも人間としての本能的に苦手意識があるのはどうしようもなかった。こういう所は、慣れるのにまだまだ時間がかかりそうであった。
 気を取り直して再び泳ぎ始める。
 やがて――水面に到着する。
 顔を出すと、心地良いそよ風が吹きつけてくる。
 空には雲が浮かび、オレンジ色に染まる空の先には夕日が見えた。
 歌が聞こえてくる。とても柔らかくて澄んだ綺麗な歌――海神ポセイドンへの祈りの歌が聞こえてくる。
 岩礁に腰かける歌姫の後姿がすぐそこにある。白い帽子に衣、翡翠色のヒレと尻尾、長く美しい髪。
 波に揺られながら彼女の歌に聞き入っていると心が落ち着いた。
「――ポセイドン様、いつもわたくし達を見守りくださってありがとうございます」
 やがて、その一句で静かに歌は終わりを告げた。
「素敵な歌でした、ソフィアリア様」
「あっ……那由他(なゆた)様。御戻りになられていたのですね」
 声に少し驚きながら振り返り、目が合うと頬を緩める。
 ――那由他。記憶を失った自分に彼女が付けてくれた名前がそれだった。
 そう呼ばれるのに、ため息が漏れる。
「ソフィアリア様……私の事は呼び捨てにするようにと、何度も言っているではないですか」
「申し訳ありません。ですが、那由他様がわたくしの名前に様を付けずに、『アリア』と呼んでくれませんので……」
「お言葉ですが恐れ多くも私如きが貴女様に対して対等に名前を呼ぶなどおこがましい話かと」
「わたくしが望んでいるのですよ、那由他様。那由他様にアリアと呼ばれれば、わたくしは心から嬉しく思いますわ」
「ソフィアリア様がお望みとあらば妥協は禁じえませんね。……分かりました。では、まず私の事を那由他と呼び捨てになさってください」
「いいえ、那由他様がアリアと呼ぶのが先です」
「レディファーストです。ソフィアリア様」
「謹んでお断り致しますわ。那由他様」
 穏やかな口論は永遠に続く。そんな会話のループに、お互いに一歩も引く事は無いのだった。
 そして。
「……ぷっ……ふふふっ」
「くすくす……」
 やがてその滑稽さに二人して笑みを漏らすのもいつも通りの光景だった。
「お隣、失礼致します」
「はい。どうぞ」
 海水から上がって岩礁へ足をかけて登り、ソフィアリアの横に腰掛けた。
「那由他様は、今日はどちらまで足を運ばれてきたのですか?」
「陸の街まで。クタアトよりも大きな街で、たくさんの人々が往来を行き来しておりました」
「そうですか。わたくしも行ってみたいものですね」
「ええ、その時は私がエスコート致しましょう」
「ありがとう」
 ソフィアリアも以前は時期が来ると今住んでいる街を出て次の街へと移り住む暮らしだったそうだが、それはあくまで海の中の話であり陸路の街へは足を踏み入れた事が無いのだそうだ。
 ただ街の大半が魔物禁制となっているため、そこにソフィアリアが現れればちょっとした騒動になる可能性がある。それに陸路続きのためソフィアリアには少々移動が辛いかもしれない。
(今度、『彼女』に港町でなおかつ人と魔物が共存出来る街が無いか聞いておくか……)
 そう思いながら、自分もソフィアリアと一緒に街へ繰り出してみたいという気持ちが高まっていった。
「ソフィアリア様の方はどうでしたか?」
「今日は三組もの新郎新婦がいらっしゃいましたので、大変素晴らしい一日になりました」
「それは良かったですね。お疲れ様でした」
 ソフィアリアは人間で言う所の、神父のような役割を務めているのだという。それがシー・ビショップである彼女の仕事なのだと聞いた。
 彼女自身、自分の仕事に誇りを持っていて新たな夫婦が生まれる事を心から嬉しく思っている。また、自分自身も人間の同性と会話出来るのも楽しみの一つであるため嬉しくないはずがなかった。
 そして、何よりもソフィアリアの喜ぶ顔を見れる事が――嬉しかった。
 ……しかし、そういう会話をしていていつも心に思うのは自分とソフィアリアの関係である。
 溺れていた自分は意識を完全に失っていたものの、ソフィアリアと儀式を行っているらしい。自分が海中で呼吸を出来るのがその証拠である。
 すなわち、自分とソフィアリアは夫婦なのだ。……が、実感があるかないかと問われれば――無い。
 自分が彼女の夫なのだと分かっていても、本当にそうなのかという疑問が時折巻き起こる。
 ソフィアリアに対して不満があるわけではない。むしろ、心から慕う事の出来る……自分には分不相応の器量良しであると声高にして断言する事が出来る。
 だがそれとは別に、何かが……不安でならない気持ちが拭えないのであった。
「…………」
 そんな複雑な心中を感じ取られないように柔らかくソフィアリアに笑みを向ける。
「あ……また、腫れが酷くなっていませんか?」
 言葉と共に心配げな顔になるソフィアリア。
 視線の先は、こちらの首元。鏡を見ないと確認出来ないが、そこには小さな痕が二つあり、変色しているのだった。
 痛みがあるわけではないが、ソフィアリアは傷が悪化していないかと心配になってしまっているようだった。
「少し待っていてください」
 衣の内側に手を入れて、掌サイズの貝殻を取りだす。
 それは海の薬草で作った塗り薬であり、手当てをする時に使用しているものだった。 
「大丈夫ですよ。別に痛みがあるわけではないので、気になさらないでください」
「……それは嘘です。那由他様は痛くないと思っているだけ、いえ気付いていないだけなんです」
 塗り薬を指ですくい、傷痕にそっと触れる。
「この傷を受けた時、きっと辛い思いをされたことでしょう。例え貴方が忘れているだけだとしても……わたくしは貴方を癒して差し上げたいのです」
「ソフィアリア様……」
 その優しさが身に染み、心地良かった。
「痛かったら……言ってくださいね」
「はい……わかりました」
 痛みなどあるわけがない。その慈しむ想いに、気持ちよさに身を委ねていた。
「……これで大丈夫です」
「ありがとうございます」
 お互いに微笑み合う、幸せな気分だった。
 恩を返したいという気持ちが湧き起こる。今、彼女へ例の物を渡したかった。
 街で買ってきた彼女への贈り物……そう、指輪を。
「ソフィアリア様。手を、こちらに向けてもらってもよろしいでしょうか?」
「え?……あ、はい」
 透き通るような白い腕が差し出される。
 ポケットに手を入れると小さくて固い感触が押し返してくる。
 それを指で掴む。
「そして……」
「良い男発見! ビバッ、突撃ぃ!!」
「失礼」
 上空から声が『降って来る』のにソフィアリアを抱きかかえて、地を足で蹴って後ろにバックステップ。
 目標を外れたソレは思いっきり海面に突っ込んで、音とともに盛大な水飛沫を上げた。
 ぶくぶくと泡が昇り、それが少しずつ減っていく。
 やがてシーンと何事も無かったかのように無音が訪れ――。
「ぷはぁああああああ!! っ……さ、酸素……酸素ぉ……すーはーすーはー、すーすーはー」
 鳥の翼を持つ魔物セイレーンのシェリーが海面で大急ぎで呼吸をしていた。
 次にバタバタと両翼を動かしてたどたどしく泳ぎ、息を切らせながら岩礁によろよろと這い上がってくる。
 全身が海水から出た所で動きを止めると見上げ、こちらに視線を止めると怒りの形相になる。
「くぉらぁあ! なゆたんっ、避けないでよ!? 優しく受け止めてよ!?」
「すみませんが私の腕はソフィアリア様しか抱く事が出来ない仕様になっております。それに受け止めていたら、そのまま襲われてしまいそうでしたので」
「そんな事しないわ、ちゃんと巣に持ち帰ってから襲うわよ。……っていうか、もうちょっとで岩に激突してたんだけど!?」
「素晴らしい反射神経でございますね。さすがはシェリー様です」
「うがーっ、なんかムーカーツークー!」
 立ち上がって子供のように地団駄を踏む。
 その姿に腕の中で、ソフィアリアが口許に指を当てて笑みを零す。
「ふふっ、今日も元気ですね。シェリーちゃん」
「ソフィーさん! ソフィーさんからもこのひど〜い男にガツンと言ってやってよ!」
「はい……那由他様の身体、温かくてとても心地良いです」
「ちがぁあああああああああう!!」
「私もですよ、ソフィアリア様」
「黙れこのバカップルどもがぁっ!? 二人だけの世界が眩し過ぎるのよぉおおおおおおっ!!」
 頭を掻き毟りながら叫ぶシェリーだった。
 名残惜しかったが、ソフィアリアを抱いたままだとシェリーがうるさくなりそうなので膝を折って岩礁にゆっくりと彼女の身体を降ろした。
「そうそう、シェリーちゃんのおかげでわたくしもちょっとは歌に自信が持てるようになりましたよ」
「そう言ってもらえると照れるね。あー、でもあたしの方は泳ぎ方を教えてもらったのになかなかうまくいかないんだよねぇ」
「じゃあ今から少し一緒に練習しましょうか?」
「うん、お願いー!」
 言いながら二人で海へと飛び降りる。
 シェリーの手を取って向かい合いながら、ソフィアリアが海面をゆっくり泳いでいく。
 優しく指導するソフィアリアと一生懸命になって泳ぐシェリー。その二人の光景がとても微笑ましかった。
 二人は懇意にしていて、良く一緒になって話している姿を見かける。
 どうやって知り合ったのか経緯は知らないがとても仲が良い事は知っていた。
 見ての通りシェリーには変わった所がある。空を飛べる鳥類だというのに、海中の生活に憧れているのだとか。
 以前、なぜそんなに海が好きなのかと問うた所『マーメイドの尻尾が欲しい』からだそうだ。
 それが本当の事か嘘なのかは分からないが、泳ぎをマスターしようと躍起になっているのは本当のようだった。
 しばらくしてからシェリーは自分一人で海面を泳いでいく。まだ危なかっしいように見えるものの、さっきに比べればだいぶ安定して泳げているように見えた。
 それから二人して岩礁まで戻ってくる。
「だいぶ上達しましたね、シェリーちゃん」
「おっす! ありがとうございましたです師匠!」
 ビシッと背筋を伸ばして敬礼してみせるシェリー。
「ふっふっふっ、なゆたんー! どうっ、様になっていたでしょう?」
「ええ。とても御上手でしたよ」
「でしょでしょでしょっ!? あはは、これでなゆたんの心をガシッとゲットだね! そうそう、なゆたんと一緒にご両親にも近い内に挨拶しにいかないとねぇ……っていうか、クタアトに来る前はどこで暮らしてたの?」
「存じ上げません」
「はぁ? なんでさ?」
「…………。酸素欠乏症に陥った事がありましてね、その後遺症で私には自分の過去が無いのですよ」
 実際にそうなのかどうかは分からないが可能性として考えられる事を挙げた。
 そう答えるとシェリーは頭の上に?マークを浮かべているような表情になって、首を傾げるのだった。
「ふーん、よくわかんないけど魔法をかけられて忘れちゃったって事かな」
「……まぁ、そのようなものだと思っておいてください。ん?」
 ふと視線を移すと、ソフィアリアの様子がおかしかった。
 沈鬱な表情で何かに耐えるかのように目を伏せたままでいて、微かに震えているかのようにさえ見えた。
「……ソフィアリア様?」
「え?」
 声に、表情はそのままで顔を持ち上げるソフィアリア。
「いかがされましたか? 少々顔色が優れない様子でしたが」
「……少し疲れてしまったのかもしれませんね。申し訳ありませんが、先に戻っていますね」
「…………分かりました。お気をつけて」
「はい。シェリーちゃん、またね」
「え、あー、うん。ばいばいー」
 一礼だけした後、海の中へ飛び込んでソフィアリアの姿は見えなくなった。
 あのような様子になっていたのは心当たりがある。おそらくは記憶喪失の事だろう。
 記憶を失ってしまったのが自分のせいだとソフィアリアは思い込んでいるらしい。当然、そんな事があるはずないのだが。
 ただ今回はやけに、辛そうに見えた。本当に具合が悪かったのかもしれない。だとしたら、心配でならない。
「なゆたん。今のってあたしのせいかな?」
 さきほどとは打って変わってシェリーの声が沈んだものになっていた。その表情にも影が降りていた。
「なぜそのように思われるのですか?」
「ほら、二人って夫婦でしょ? なのにあたし……なんかなゆたんを奪い取ろうっていう感じの話しちゃったからさ。傷つけちゃったんじゃないかなって……」
 落ち込んでしょんぼりとした口調で喋るシェリー。
 ソフィアリアもシェリーも、悪くはないのだから。二人とも気を落として欲しくはなかった。
 そんな彼女の頭に、ポンと静かに手を乗せてやった。
「心配しなくても大丈夫ですよ。その程度の話なら彼女だって冗談だと分かってくれているはずですから」
「うん……。でもあたし、馬鹿だからソフィーさんの気持ちが分からなくて……嫌われちゃったんじゃないかって、不安で……」
「誰だって相手の事が全て分かる人などおりません。ですが、少なくともソフィアリア様はシェリー様の事が好きなのは間違いありませんから」
「そう、かな……」
 見上げてくる顔にはまだ元気は無い。
 だから、こちらから微笑みかけた。
「ええ。私の言葉を信じてください。ね?」
「…………うん。えへへ」
 それでようやくほんの少しだけシェリーも笑ってくれた。
「あ、そうだ。なゆたんにこれをプレゼントしてしんぜようー」
 サッと手にシェリーは何か固い物を握らせてくる。
 掌を開いてみると、紅い宝石のブローチが乗っていた。
「これは?」
「魔石の類だよ。確か、時間操作系統だったかな」
「時間操作って……お聞きしますが、これはかなり希少価値の高い物なのでは?」
「さあね。でも、使い方が分からないからただの装飾品にしかならなかったよ。まー、それなりに綺麗っていう点では評価は出来なくないけどねー」
 にこにこしているシェリーではあるが……少なくとも彼女の持ち物としてはそぐわない品に思える。
 ……問い質してみるか。
「では……もう一つ聞かせてください、なぜ貴女がこのようなものを御持ちになられているのですか?」
「えー、あー、あれだよ。落ちてたのを拾ったんだよ」
 胸の前で両翼をパンっと叩いて破顔した。
 そんなシェリーの顔をまじまじと見つめる。
「本当に?」
「うんうん。かっぱらおうとしたら、落としたんだから間違いないよ」
「……人それを盗品と言うのですが。まったく、このようなもの受け取れませんよ。持ち主に御返しなさい」
 思わず額に手を当てて、子供を諭すように言った。
「だからそうしたじゃん」
「は……?」
「持ち主」
 ピシッとこちらに翼を向けてくるシェリー。
 何を持ってして、持ち主と断言しているのか訳が分からなかった。
「ちゃんと返したからね、ありがたく思いなさいよー。んじゃね!」
 翼で一度手を振ってから、バサッとはばたいて空に舞い上がって消えていった。
 視線を掌の中に落とし、ブローチを見てため息をつく。
 これをどうしろというのか。明らかに女物の装飾品でなおかつ高価な物だ。記憶を失っているとはいえ、自分に縁のある品とは思い難かった。
 彼女なりに感謝の意を示しているのだろうが……なぜか押し付けられた感が否めなかった。


                           † 


 夜の帳が降りた海を降りていく。
 海の中はあちこちに淡い光が漂っていて昼の明るさとさほど変わらなく視える。本来なら暗く視界が利かないのだろうがこれもまたポセイドンの加護によるもので、加護を受けていない陸の人間や魔物には夜よりも深い暗闇に視える事だろう。 
 海都クタアトへの道は少々入り組んでいて、幾つかの岩礁の隙間を抜けてその先にあるトンネルを越えた所にそれはある。
 クタアトの住民でなければ、そう簡単には辿り着けないだろう。道具や魔法によって方角が分かるのであれば話は変わってくるが、勘だけを頼りに進んでもおそらくマーメイドであっても到達にはかなりの時間を要する事だろう。
 道中の半ば付近まで来た所で、異変を感じて頭上を仰ぎ見る。
 魚の群れが緩やかに泳いでいたはずだが、それらが一斉に散開していくのだった。――まるで何かに怯えて逃げ出したかのように。
 立ち止まる。岩礁の先に――誰かの気配がしたからだ。
「おまえは……?」
 微かに声が聞こえてきた。
 そして、ゆっくりと声の主が姿を見せる。
 魔物。だが、見慣れぬ種族だ。マーメイドでもネレイスでもサハギンでもない。
 黒いマントを纏った金髪の少女が、そこにいた。
「…………!」
 目があった。
 一瞬、驚いたように彼女は目を大きくさせてから、すぐに鋭い瞳になる。
 気のせいかもしれないが、小さく舌打ちをしたような音が聞こえた気がした。
「そこの人間」
「…………。お呼びでしょうか?」
「余はヴァンパイアのクレイシスだ。海都クタアトまで案内しろ」
 威厳ある口調で命令される。
 ヴァンパイアといえば、水が弱点のはずだ。このような所をうろつけるような身ではないはず。
 しかし、魔法の力は強大だと聞き及ぶ。力の強いヴァンパイアならば魔法で弱点を打ち消す事くらいは可能なのかもしれないが、推測の域は出ない。何にせよ涼しい顔をしている時点で水が無害という事は分かった。
 殆ど夜にしか行動しないという話だが、素性の知れぬ怪しい人物なのは確かである。
 クタアトで何をするつもりなのか……少し、探りを入れてみるか。
「失礼ですが、観光か何かでございましょうか」
「そんな事は人間如きには関係の無い事だ。違うか?」
「左様でございますね。出過ぎた真似を致しました、どうかご容赦を」
「良い。クタアトに向かうのはそこの領主との会談があるからだ。おまえは領主の館まで先導すればいいだけだ」
「……かしこまりました」
 嘘をついているようには思えないし、こちらに害を成す気もなさそうだ。
 ならば、本当に会談だけが目的なのかもしれないが……。
「ところで、人間。名は?」
「那由他と申します」
 そう名乗るとクレイシスは端正な顔に眉根を寄せ、僅かに俯いた。
「……………………う」
「……? 何と仰いましたか」
「おまえ如き人間の名前など記憶に留める価値など無いと言ったのだ」
 不機嫌そうに言い放つ。
 自分から名を訪ねておいて随分な態度ではあるが……聞き間違えでなければ、『違う』と聞こえた気がした。
 もしそうであったのなら、いったい何が違うと言いたかったのだろうか。
「それよりも貴族の案内役を務めさせてやるのだ、光栄に思うが良い」
「はっ。ありがたき幸せ」
 胸に手を当て、軽く頭を垂れる。
 ふと、何か奇妙な感覚がした。一瞬だが、豪奢な一室に自分とクレイシスがいるような……そんな錯覚を覚えた。
 それにこれまでのやり取り、『普通』であるとは少々考え難い。まるで主人と従者そのものの会話。
 ……今まで何十何百と繰り返してきたようにさえ思えた。
 クレイシスの発言は傲慢極まりないものでありながら、あまりにも自分自身が慣れていたのはどういうわけなのか。
 自分自身とこの魔物に対する疑念が渦巻いてならなかった。


                           † 


 海都クタアトは元々人間達が住んでいた都市で、地盤が崩れ海に沈んだもの。都市を魔物達の手で修繕した町である。
 民家及び大半の建造物には魔石がはめ込まれていて大気の密閉空間が出来ている。室内は陸と同じようになっているのだった。
「出迎えが無い割にはここの領主はなかなかに心意気の良い人物だったな。わざわざ赴いた甲斐があったというものだ」
「……それは良かったですね」
 一二畳程度の室内。中央にあるソファーに、優雅に腰かけくつろぐクレイシス。
 向かいのソファーに座りながら、心の中でため息をついた。
 しかし、まさか自分とソフィアリアの住まいにまでやってくるとは思わなかった。
 領主の館で会談を終えた後、疲れたから自宅まで連れて行けと言われ現在に至るわけだが……もう少しこちらの身になっていただけないものだろうか。
「うむ。おまえも大義であった。助かったぞ」
 上機嫌に話すクレイシス。出会った時に比べて雰囲気も穏やかな物になっていた。
「御褒めに預かり光栄に存じます」
 せめてもの反撃とばかりに、憮然とした口調で言葉を返す。
 気取られていないのか、言葉にクレイシスは表情一つ変えないのであった。
「え、と……あの……那由他様?」
 隣に座るソフィアリアが、不安そうに眉をひそめてこちらを見上げてくる。
 言いたい事は分かる。急にクレイシスを連れてきて、その理由も何も話していなかったのだから。
 ソフィアリアの声に、ふと今気がついたと言わんばかりの表情になってクレイシスは彼女に顔を向ける。
「そういえばシー・ビショップ。おまえの名はまだ聞いてなかったな」
「あ……ソフィアリアと申します」
「余はヴァンパイアのクレイシスだ。見知りおくが良い」
「ヴァンパイア……ですか? 確か水が駄目だったような……?」
 指を唇に当てる仕草と共に僅かに視線を持ち上げるソフィアリア。
「余の屋敷にウンディーネと契約した召使いがいてな。その者に耐水魔法をかけてもらっている。……夜明け前には解けるだろうがな」
「そうでしたか。ではわたくしも時間には気を配っておきますね」
 笑みを浮かべるソフィアリア、それにクレイシスも小さく頷くのだった。
 ソフィアリアが色々と尋ねるのではないかと踏んでいたのだが、予想に反して彼女はそれ以上何も聞かなかった。
 なぜここにいるのか、なぜ自分がクレイシスを連れて来たのか、聞きたい事は山ほどあるのだろうが客に対して失礼に当たると考えて聞かなかったのかもしれない。
 後でソフィアリアには話をしよう。そう心に決めておいた。
「しかし、空腹だな。そろそろ食事を採りたい所だが……」
 悩むような表情で頬杖を突いて、足を組み直すクレイシス。
「よろしければわたくしがお料理を作りますので御待ちになっていてください。本日は『特別な料理』をご用意致しますから」
「……っ!?」
 そのおぞましい言葉に顔が真っ青になった。
 事態の深刻さに気づかず、クレイシスの方はのんびりとした動作でソフィアリアに顔を向けるだけだった。
「ソフィアリア様。御待ちください、料理は……普段の物と同じ料理で宜しいのではないかと」
「いえ、せっかく遠路はるばる海の中まで来訪された事ですし、おもてなしをさせていただきたいのです。那由他様とクレイシスさんは、ごゆっくりと御話なさっていてください」
 ソファーから腰を上げ、綺麗な笑顔で微笑むソフィアリア。
 良妻賢母のような発言でも……これだけは、許してはならない。絶対に。主に、自身の生命のために。
 ソフィアリアは決して凄まじいまでの料理下手というわけではないし、普通に作った料理の味は美味であると称賛できる。
 だが……『特別な料理』だけは、危険だ。あれを口にしたが最後……あの世を垣間見る事は避けられない。今度はあの御花畑に彩られた世界から帰って来れなくなるかもしれないのだ。
(なんとか、なんとかしなければ……! だが、どうすれば!?)
 焦る。心臓が恐怖で凄まじい音を立てている。
 彼女らしい親切さで言っているのは分かる。だが、中身は……地獄。
 内心では心臓に刃物を当てられているようなおぞましい感覚しか感じられなかった。
「いや、良い。料理など不要だ」
 スッとソファーから腰を上げてクレイシスが言葉を投げかけた。
「え? ですが……」
「聞こえなかったのか? 必要ない、と言った」
 有無を言わせぬ言葉を、ほんの僅かに険しくさせた相貌で言い放つ。
 それにソフィアリアは視線を下げてしょんぼりとした顔になってしまった。
 少し可哀相ではあったが、内心ではホッとして胸を撫で下ろしていた。
 もしかしたらこちらの動揺を悟って言ってくれたのかもしれないと思い、クレイシスに感謝した。
「なぜなら、ここに食料があるではないか」
「……っ!?」
 一瞬で距離を詰められ、クレイシスに押し倒された。
 暖かな肢体に組み敷かれ、左手で肩を掴まれ、右手の指を顎に這わせて僅かに首を持ち上げられる。
 さっきの感謝の念が一気に吹き飛ぶ。空腹を訴えている時点で自分を狙ってくる可能性を考慮しなかった自分の油断に歯噛みした。
 息が首元に吹きかけられるのに、ゾクッとした。
 艶美さを湛えた顔で唇を吊り上げるクレイシス。その唇の端から牙が覗いて見えた。
 唇が開かれ、牙が肌に押し当てられた。……ちょうど首元の傷痕がある所へ。
「……っ、駄目です!」
 肌を突き破られる寸前。クレイシスを突き飛ばしソフィアリアが割り込んでくる。そして自分を背に、仁王立ちする。
 石床に尻もちを着きながら、きょとんとした顔でクレイシスはソフィアリアを見上げていた。
「あ、も、申し訳ありません……! 反射的に身体が動いてしまいまして……お怪我はありませんでしたか?」
 大慌てで頭を下げ心配そうな顔になるソフィアリア。
 ゆらりと腰をあげてからクレイシスは首を傾げて、訳が分からないといった表情を浮かべていた。
「……問題無い。だが、人間は食料だろう? ソフィアリア、と言ったな。魔物であるおまえにとってもそれは同じではないのか?」
「違います。那由他様はわたくしの夫です……」
「なんだと……!?」
 ソフィアリアの言葉に目を驚愕に見開き、息を呑む。
 それから視線を下ろして、黙り込んでしまった。
「……あの?」
 不安げな表情になってソフィアリアが声をかけるが、反応は無かった。
 やがて、クレイシスは静かに顔を持ち上げる。その顔には表情というものがなかった。
「ソフィアリアよ。すまないが余の問いに答えてもらえまいか?」
「え……?」
「夫と言ったな。それは、そなたらに伝え聞く儀式を行ったという事か? それと、経緯はどうなっている?」
 真剣な声で尋ねるクレイシスにソフィアリアは戸惑いながら、口を開いた。
「クレイシスさんが仰る通りです。那由他様が溺れていまして、偶然わたくしが見つけたのです。その時に……儀式を行いました」
「その時、この人間は……死にかけていたのか?」
「はい。手遅れになる所でしたが……なんとか、救う事が出来ました」
「そうだったのか……。すまなかった、礼を言わせてもらおう」
 そして、クレイシスが頭を下げた。
 目を疑った。傲岸不遜な彼女が、頭を下げる姿など想像だにしない事態だったからだ。
「ソフィアリア。事の次第を知らなかったとはいえ……一瞬でさえ、おまえを恨んだ余を許せ」
「え、えと……あの、理由が分かりかねますが……」
 クレイシスの言葉に狼狽しているのはソフィアリアも同じようで驚いた顔のまま、あたふたしながら尋ねていた。
「…………。この人間はな、元々余の所にいた召使いの一人だ」
「え……?」
「訳ありでこの人間を連れて船を出していたのだ。だがセイレーンに襲われてな。先代から受け継いだ秘宝を奪われてしまった。それを取り返そうと彼奴がセイレーンに飛びかかったのだが、振り落とされて海に落下した。……そのまま待っていても、浮かび上がってくる様子が無く、高所からの落下により気絶していると判断し、急ぎ屋敷に戻り、召使いや魔物達に捜索をさせたのだがとうとう見つからなかったのだ」
 僅かに顔を上に向けて、虚空を見つめながらクレイシスは語り続ける。
「やがて、この近辺の海底に街があるという情報を手に入れた。そこにこの人間がいるという確証は無かったが……可能性はあったからな、ここの領主と会談を設けた」
「なぜそのような回りくどいことを?」
 今の話しだと自分を探すために、領主と会う事にしたという風に聞こえた。
 場所さえ分かっていたのなら、何もわざわざそこまでしなくても街中で探し回れば良かったのではないだろうか。
「良く考えてみるがいい。余は海の魔物ではない、僕達も同様にな。そのような不審人物、見咎められずにいるとは思えぬ。特に、この隠れ里のような街ではな」
 馬鹿な問いをするなと言わんばかりに、やや侮蔑を込められた視線を向けられる。
 言われてみればそうかもしれない。自分もまた、最初にクレイシスを見た時に怪しいと思わずにはいられなかったのだから。その考えは正しいと言える。
「良からぬ噂を生み出さないために地域交流と、名目を持ったというわけだ。そうすれば探し物をしても何ら問題は無くなると踏んだのだが……随分あっさりと見つかったものだ」
 肩を竦めて見せると、その探し物……すなわち、那由他と名乗る人間に向き直る。
「おまえは、余の物だ。……いや、余の物だったという方が正しいか」
 言いながら瞳を伏せる。
「ここに来る前は、この人間の『記憶を封じて』強奪した者に説教しなければ気が済まなかったのだが……事情を聞いて納得が言ったというものだ」
 腕を組んでクレイシスは頷いた。
 ……今、何かとんでもない事をこのヴァンパイアは口にしていなかっただろうか。
 もう一度今の言葉を思い返してみるが、やはりどうしても聞き間違えなどではなかったと脳は言っていた。
 息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
「……記憶を封じて、というのはどういう事でしょうか?」
 その問いにハッとなったのはクレイシスではなく、なぜかソフィアリアの方だった。
 クレイシスに視線を向けて、答えを待つ。だが、一向に答えは返ってこなかった。まるで自分には答える理由が無いと言わんばかりに、押し黙ったままでいた。
「……どうして、分かったのですか?」
 問うたのはソフィアリアだった。
「余の魔眼は誤魔化せぬ。蝕む魔法でも、な」
「そうですか。凄い御方なのですね、クレイシスさんは……」
 穏やかにそう呟いてソフィアリアもそれ以上何も口にしなかった。
 二人には分かっていても、こちらにはまるで何の事なのか分からなかった。
「説明、していただけますか? 記憶を封じたというのは、どういう事なのですか」
「なぜ余に聞く」
「……なぜと申されましても」
「那由他様。わたくしがお話させていただきます」
 真剣な表情でソフィアリアは真っ直ぐに見つめてくる。
「さきほどの……クレイシスさんのお話で、那由他様が海に落ちた後の話をさせていただきます」
 瞳を閉じ、一度ゆっくりと呼吸をしてから彼女は話し始めた。
「海に沈んでいく那由他様を見つけ、私は儀式を行いました。それが終わった後、那由他様を家までお運びしました。貴方が目を覚ますまで、わたくしはずっと傍で待ち侘びてました。……わたくしを受け入れてくれるだろうかと、不安と期待で胸がとてもドキドキしていた事を覚えています。……そして不安の方がどんどん大きくなっていって、陸で暮らしてきたのだから帰ってしまうに違いないと、今は大丈夫でもいつかわたくしを置いてきぼりにしていってしまうのではないかと……」
 そこで言葉に間を置き、静かに彼女は瞳を開く。
 自身の身体を抱きしめる彼女の瞳は、何かに怯えているように見えてならなかった。
「そして思ってしまったのです……帰る場所さえ分からなくなってしまえば、いつまでも一緒にいられると。だからわたくしは忘却の呪法を用い、貴方の記憶を封印しました。そして目を覚ました那由他様の辛そうな顔を見て、わたくしは……自分がとんでもない過ちを犯してしまった事に気づいてしまったのです。……その事実を貴方に伝えるのが怖くて、嫌われるのが怖くて……! わたくしは、わたくしは……最低な――」
 その身体を抱き寄せ、言葉を止める。
「それ以上言う必要はありません。ソフィアリア様が苦しんでいた事は、痛いほど……分かりましたから。これ以上、貴女が傷ついていく姿を見るのは……私が辛いです」
「…………」
 そのままソフィアリアは何も言わずただ力無く胸に顔をうずめてくる。
 押し殺していても、確かに嗚咽がここまで聞こえてきていた。
 ソフィアリアに対して怒りや憎しみなど露ほども感じない。ただ彼女が可哀相でならなかった。
 自分がソフィアリアを許す事は簡単に出来る。だが、おそらくソフィアリアはそれでも己を許す事が出来ないだろう。ずっと己を責め続け、苦しみ続けるに違いなかった。
 ……それは、絶対に嫌だった。
「ソフィアリア様、この魔法を解く事は出来ないのでしょうか」
「可能です。……わたくしが死ねば、その魔法は解けます」
「…………。では、クレイシス様は?」
「解呪は出来なくはないが、行使と同時に術者にフィードバックがかかる。その場合、ソフィアリアの脳が焼き切れる事になるだろうな」
 どちらも同じく、ソフィアリアの死を意味するという事しか判明しなかった。
 また、最初に海でクレイシスと会った時に忘却の呪を解かなかったのは、そのせいだとも今さらながら推測出来た。
 しかし、そうなれば後は……いったいどうすればいい。記憶を取り戻す方法はソフィアリアの死しか無い。それでは本末転倒だ。
 魔法を無力化させ、ソフィアリアを死なさず、自分の記憶を取り戻す。
 そんな方法があるというのか……?
「…………!」
 いや、ある。
 一つだけ、可能性が残されている。まだ予測の域を出ないが……アレを使えば、もしかしたら。
「クレイシス様。『私の記憶を維持したまま』、『魔法の時間だけを戻す』事は可能でしょうか?」
「今の記憶をそのままに、魔法のみを巻き戻し魔法がかかる前に戻す……か。あまりにも無茶苦茶ではあるが、理論的には不可能ではない」
「では……これを用いた場合、それを実行する事は出来ますか?」
 ポケットの中でそれを掴み、前に腕を伸ばして指を開く。
 シェリーからもらった紅い魔石のブローチがそこにあった。
 それを見てクレイシスは驚いたのか、目を大きくさせる。
「……ほぅ、まさか取り返していたとはな。だが、魔法の時間を巻き戻すにしても……それ以外も巻き戻してしまう恐れがある。場合によっては記憶ごと巻き戻してしまうかもしれんな」
 険しい顔になるクレイシス。
 言葉にソフィアリアが面を上げ、クレイシスに向き直る。
「それは……わたくしと那由他様が出会う前の状態に、那由他様が戻ってしまうという事でしょうか?」
「それならまだ良い方だ。身も心も子供にまで巻き戻るかもしれんし……最悪、『存在する前』にまで巻き戻る可能性さえある。一言で言えば、この世界から消滅するかもしれん、ということだ」
「そんな……」
 ソフィアリアが悲愴な面持ちになる。
 消滅するという事は、文字通り自分の存在が消えてしまうということだと理解した。失敗すればもう二度とソフィアリアに会う事は出来なくなるのだろう。
「それでも、おまえはその危険が分かっていてもそれを選ぶというのか?」
「もちろんでございます」
「那由他様……!?」
 即答すると、ソフィアリアが驚愕に目を見開く。
 クレイシスもまた、ため息をついて額に手を当てる仕草をしていた。
「無鉄砲な奴め……。それに、だ。もう一つ問題が残っている」
「問題?」
「ああ、そうだ」
 クレイシスは、スッと腕を伸ばし掌に乗せていたブローチを掴むと、それを軽く持ち上げて見せる。
「これは余の一族に伝わる秘宝だ。それを人間如きが使用する事を、余が許すとでも思っているのか?」
「では……どうすれば、それを使う事をお許しいただけるのでしょうか? どんな命令であろうと遂行してみせます」
 当然食い下がる。今はそれしか方法が思いつかないのだから。
 もしかしたらもっとリスクが低く、効率的な方法があるかもしれない。だが、それを見つけるのにいったいどれだけの時間がかかるのか。その間に、いったいどれだけソフィアリアが胸を痛め続けるというのか。
「どんな命令でも、か。その言葉に偽りはないな?」
「はい」
 鋭い眼光を向けてくるクレイシス。その瞳から目を背けずただ見つめ続けた。
「いいだろう。ならば、余の命令はただ一つ」
 クレイシスの、手の中でブローチが淡い光を灯す。
 それを、そっと掌に乗せられた。
「必ず戻ってこい。……それだけだ」
「クレイシス様……」
「後は自分の意志でいつでも力を解放出来るだろう。健闘を祈る」
 その言葉に、想いに、鼓舞された。
 方膝を着き、胸に手を当て頭を垂れる。
「御意。必ずや……戻ってまいります」
 その命令を胸に刻み、絶対に成功させる事を誓った。
 立ち上がって振り返れば、真剣な表情になってこちらを見つめてくるソフィアリアの顔があった。
 言葉は無い。だが、その瞳にはどこか迷いがあるようにも感じられた。
 止めるべきだと思っているのか、それともまた別の何かを思っているのかは分からなかった。
 どちらにせよ、こちらが告げるべき言葉は決まっている。
「ソフィアリア様。私を信じていただけませんでしょうか?」
「…………」
「海の中の暮らしで、私は幸せな時を過ごす事が出来ました。その幸せは全て、貴女と一緒にいられたから得られたものなのです。……貴女が、私の全てを癒してくれました」
 自分の中にあった深い絶望は、今や根こそぎ無くなっている。
 その絶望はソフィアリアに与えられたものだったかもしれないが、それを遥かに上回る至福を彼女は与えてくれたのだから。
「ですから今度は、私がソフィアリア様を癒して差し上げたいのです」
 その言葉に想いの全てを乗せて……手に力を込める。
 もういつでも魔法を解く準備は出来ている。後は、ソフィアリアの声を待つだけだった。
 瞳を伏せた彼女は胸の前で手を組んだ。
 そのまま少しだけ時間が過ぎていく。
 やがて、ゆっくりと彼女はその瞳を開く。
「…………はい。わたくしを、癒してください」
 静かに微笑みながらソフィアリアが頷いてくれた。
 それに頷き返し……掌の魔石から光が迸ったと思った時には、身体中に熱が迸っていた。



 閉ざされた時間の中に自分はいた。
 海の映像。船の映像。空の映像。陸の映像……視界の中で映像は目まぐるしく次々と変わっていく。
 それに従って自分の内側から、少しずつ黒い何かが消えていくのを手に取るように感じる事が出来た。
 おそらくそれが記憶を封印している魔法なのだろう。
 それはまるで走馬灯のように、早送りでかつての自分の映像が映し出されていく。
 暗い海に沈んでいく自分。白い衣が遠くの方で薄らと揺れているのが見えた気がした。
 ヴァンパイアが煌びやかな椅子に腰かけている。その足下にかしづく自分。
 剣を振るう。目の前にいる青年と刃を交わし、自分も相手も笑みを浮かべていた。
 生まれた村。幼き自分が友達と走り回る。
 父と母の顔。本当の自分の名前を投げかけられる。
 ……巡るめく螺旋の記憶。まだ映像は続いているが、この時点で黒いモノが完全に消滅したのが分かった。それはすなわち記憶を全て取り戻したという事に他ならない。
 映像が続いているのは以前の自分でさえ忘れていた部分を見せられているという事だろう。だが、必要な部分だけでいい。おそらくこの身は辛い記憶も背負っているはずなのだから、そういうものは眠りに着かせたままでいいのだから。
 後は、そう……時間を動かせばいいだけだ。
 そうすれば、彼女が待つ場所へともど……。
 バキッ。
 音と共に、掌の魔石に大きな亀裂が走った。
 何が起こるのかと身構えるが、特に何かが起こるわけでもないようだった。
 だが、何かがさっきと違う。まるで、本当に自分が『映像の中』にいるかのような錯覚を覚えずにいられなかった。
 映像は徐々に過去へと戻っていく。
 ……それと同時に自分の身体がどんどん小さく、幼い物へと戻っていく。
(まずい……!?)
 本能的に悟った。現在、自分の存在全てが巻き戻されている状態にあるのだという事に。
 記憶もまた、新しい記憶から順に少しずつ消滅していく。
 心の中で強く、彼女を思い浮かべる。だが、その顔は、その声は、その姿は、その名前は、その微笑みは……どんな物だっただろうか? 霞がかかっているかのように不鮮明だった。
 だがそれでもなお強く彼女を思い浮かべる。元の自分へ戻れ、と強く念じる。
 しかし記憶の逆流は止まらない。むしろそのスピードがどんどん速くなっていく。それに従って魔石の亀裂はどんどん広がっていき、今にも粉々になってしまいそうな勢いだった。
 身体が赤ん坊になり、母胎の中へ……そして身体がさらに小さく、縮まっていく。
 そして……。
 パリン、と魔石が砕け散った。
 瞬間。全てが、真っ白になった……。
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 那由他様……!
 …………。
 声が、した。
 真っ白な世界の中で、目を覚ます。
 今の自分は存在しない状態にある。ただ意識だけが残留しているだけの状態。
 意識を取り戻せたとはいえもはや魔石は砕け、成す術も無い。
 それが無くなれば何も出来なくなるのだから、どうしようもない。諦めるしか他に無い。
 口元が釣り上がるイメージ。今の自分に身体は無いのであくまでイメージの自分が口元に笑みを浮かべている。
 そう、そんな事を決め付けている自分の馬鹿さ加減に呆れてしまったからだ。
 ここは自分の世界。すなわち世界全てが、自分自身なのだ。心に思い浮かべ、イメージする事で全ての願いは叶うのだから。
 自分の身体をイメージ。必要な記憶の全てを内包、構築していく度に記憶の奔流が駆け巡る。
 少年の自分の記憶。クレイシスと出会う前、出会い従った頃の記憶。ソフィアリアと海で暮らした記憶。
 自分の中にある大切な物全てが、世界に広がっていく。
 そしてそれらの映像を……抱き締めた。



「…………!」
 ハッと我に返る。
 同時に、身体のバランスが崩れる。すぐに体勢を戻して……深く呼吸をした。
 自分の手を、身体を見渡す。今までと変わらない姿のままだった。辺りの景色は見慣れた海の中にある自分とソフィアリアの家。数十時間は経過しているような感覚だったが、実際にはほとんど経っていないらしく記憶を遡る前のソフィアリアとクレイシスの立ち位置も同じままだった。
「思い出したか?」
「はい。……クレイシスお嬢様」
 その言葉にクレイシスはさも満足げに頷く。
「ですが、魔石が……この失態、どう償えば良いものか……」
 掌に視線を落とす。そこには魔石が砕け、光を失ったブローチがあった。
 その言葉に対し、クレイシスは……。
「何を言っている? 元より余の許から無くなった物に興味など無い。そんなガラクタが砕けようが知った事ではない」
 眉一つ動かさず、微かに口許に笑みを浮かべて秘宝をガラクタだと言ったのであった。
 きっとそれは強がりだろう。だが、それでも自分の無事を喜んでくれている方が大きいのだと分かった。
「……寛大な御心遣い痛み入ります。心より感謝致します」
「ふっ……そんなくだらない事よりもおまえには成すべき事があるだろう?」
「はい」
 クレイシスの言葉に、背を向けて……彼女と向かい合った。
「ただいま戻りました、ソフィアリア様」
「おかえりなさい。……良かった。魔石が砕けてしまった時はどうなってしまうのかと……心配したんですよ?」
「すみませんでした。貴女が呼びかけてくれなければ、きっと帰って来れませんでした。ありがとうございます」
 穏やかに笑みを浮かべるソフィアリアに微笑み返す。
「昔の事は、全て思い出されたのですね」
「はい、思い出しました」
「ではクレイシスさんの所へお帰りになるのですね?」
「……なぜ?」
 突拍子も無い台詞に思わず、きょとんとしてしまった。
「ここに来るまではクレイシスさんの所で暮らしていたのでしょう? でしたら彼女のためにも帰るべきです。それにわたくしは、那由他様を騙してきました……また過ちを繰り返すかもしれませんから……」
「……はぁ。何でそのような事を気にするのですか、貴女は」
 大真面目な表情でそんな事を言うものだから、呆れて大きな溜め息をついてしまう。この人は……自分が危険を冒してまで記憶を取り戻した理由がまったく分かっていない。……いや、違うか。分かっている上でそう言っているのだからその分もっと質が悪い。
 背後でクレイシスが笑いを噛み殺している声が薄っすらと聞こえた気がして、さらにもう一度溜め息が出てしまった。
「……よろしいですか、ソフィアリア様。私が記憶を取り戻したのは貴女の苦しみを取り除くため。ここでクレイシスお嬢様の許へ帰ると言った場合、即座にお嬢様に怒られてしまいますよ」
「で、ですが……わたくしは」
「もう無かった事になったのです。そんな、あったかもしれない……もしもの話で気に病む必要など無いのです。……それに、何でしたらまた記憶を封印しても構いませんよ? その時は、また記憶を取り戻せばいいだけの話なのですから」
「…………」
 呆然としたような顔になっているソフィアリア。
 その肩に優しく手を乗せて、微笑する。
「やり直しは、何度でも出来るのです。間違ったのなら、何度でも正せばいいのですから」
「本当ですか……? また、この海で一緒に暮らしてくれるのですか? まだわたくしの事を好きでいてくれているのですか? わたくしなんかで良いのですか?」
「貴女でなければ駄目なんですよ。……ですが」
 顎に手を当てて、少しだけ思考を巡らせる。
「そうですね……一つだけソフィアリア様にお願い事がございます」
「なんでしょうか? わたくしが出来る事であれば……いえ、出来ない事であってもやり遂げてみせます、仰って下さい」
 必死になっている眼差しが可愛らしくて、つい笑いを零してしまった。
「……では、儀式をもう一度お願いしたいのです」
「儀式……ですか?」
「略式の物で結構です。既に私は海で暮らすのに適した身体を持っていますので」
「それは構いませんが、えっと……どうしてでしょうか」
 きょとんとしながら、小首を傾げて問いを投げかけてくる。
「私には儀式の記憶がありません。私は……貴女に誓いの言葉を立てていないのです。……それがずっと、心の中で気にしていた事でした」
 瞳を閉じて想いを告げる。
 海の中で出会った時の記憶は今でもない。そのため、儀式の記憶も脳裏には存在していなかった。例え彼女が儀式を行ったとしても、自分には実感というものが無かったのだ。
 静かに目を開く。
「そう。何度考えても、私の中の……いや、『俺』の中にある想いは一つの形にしかならなかった」
「え……?」
 聞き慣れない一人称に、ソフィアリアが耳を疑ったのか目を大きくさせていた。
 それも仕方が無い。何せ自分でも使い慣れていない、夢を追いかけていた頃の、かつての自分の話し方なのだから。
 ポケットの中に手を入れ、目的の物を握る。
 相手に自分の気持ちを伝えるには、言葉というものはちっぽけ過ぎる。それを補うために、それを手にした。
「俺は……君と『本当の夫婦』になりたい」
 その手を取り……。
「アリア……君を愛している」
 持っていた指輪をはめた。
「那由他様……那由他……!」
 胸の中に勢い良くソフィアリアが飛び込んで来る。
「わたくしも那由他を愛しています。誰よりも深く、愛しています……」
 涙を浮かべる瞳に悲しみは存在しない。ただ喜びに満ちた顔でソフィアリアは泣いていた。
 その背を、身体を優しく抱き締めた。
 一度だけ辺りを見回す。いつのまにか、此処には自分とソフィアリアしかおらず、クレイシスの姿はどこにも無かった。
 気を遣わせてしまったらしい。本当に彼女には頭が上がらない、と心から今一度感謝した。
 目の前の世界で一番愛おしい人に向き直り……彼女だけを見つめて、そして瞳を閉じて口づけを交わした。



 了


 水蒼(すいそう)。

 今回が初投稿となります。
 飛ばし飛ばし読んでくれた方、最後まで読んでくれた方、本当にありがとうございました。蒼海彩婚礼、いかがだったでしょうか。何分、若輩者で恋愛話を書いた事が無いもので、他の方から見た場合どのように感じるのかが気になる所です。もしお暇であれば、ご感想やアドバイスをいただければと思いますのでよろしくお願い致します。
 以下反省点とか独り言とか色々。
 一番動かしやすかったのがシェリーでした。彼女のシーンはかなり早い段階で出来上がっていて、執筆三日目くらいには完成していたかと……空気が読めない子なのにね。本当は後日談も考えていて、その時に再登場させようと思ってました。
 また、クレイシスは海の中にヴァンパイアが……!? というインパクト的な所を狙って登場させましたが…………別に誰でも良かったんじゃないだろうか、と考えてももはや手遅れ。しかし、最初はどうにもうまく動かす事が出来なかったのですが、途中から描写が割りとしやすくなってきて書いていて楽なキャラでした。ヴァンパイアの従者とか憧れますね。
 那由他は……執事をイメージして作成してますが、もっと馬鹿っぽいキャラにしても良かったかな? と思っている所もあります。いや、真面目過ぎても面白味に欠けるので、それだけが心残りかもしれません。
 そしてソフィアリア。書くのはメンバー中もっとも難しかった。でも愛の力でがんばりました。愛が無ければ、きっと途中で挫折していた。個人的にはもっと可愛らしくかつ清楚な感じにしたかった。だが今の技量ではこれが精一杯でした。そして魔物娘図鑑のシー・ビショップさんが素敵過ぎる……ああ、どうか俺を夫に、迎えにきてください……。
 物語全体としては、それなりにサクサク行けたような気がします。…………たぶん、きっと、おそらく。でも肝心の物語ですが……なんかいま一つパッとしないような気がしてなりません。うーん……自分の力不足を感じられた事は確かです。
 とりあえず自己満足に浸って終わりたいと思います。
 後。次、執筆する場合はサハギンさんかおおなめくじさん辺りにしようかと企んでます。……書けるだろうか、本当に? 不安だ……。
 最後に、素敵な魔物娘さん達に出会わせてくれたクロスさんに感謝致します。
 では、失礼致します。

11/06/30 16:00 水蒼

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