読切小説
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雌之一生
私が生まれた時、貴方はまだこの世にいませんでした。

母親の腕の中で、大きな産声を上げる私。
何が怖かったのでしょう。今はもう、思い出すことができません。

ただ、私を見つめる父と母の優しい笑顔は、鮮明に覚えています。
泣きじゃくる私の手を握り締める、大きくて温かな父の手。
ですが、すぐに父も私と同じように、わんわん泣き出してしまいました。
そして、母も。私達とは違い、静かに大粒の涙をこぼしました。


私が1歳の時、貴方の祖先は果て無き冒険に旅立ちました。

初めての誕生日と共に、初めての脱皮を迎えた私。
力いっぱい身をくねらせて、なんとか古い皮を脱ごうとします。
ですが、幼い皮質は潤いに溢れ、肌にくっついて中々脱げません。

苦戦する私を、両親は声枯れるほどに応援してくれました。
頑張れ。あとちょっとで脱げるぞ。ほら、もうひと踏ん張りだ。

1時間に及ぶ格闘の末、私はとうとう脱皮することができました。
瞬間、わっと声を上げる両親。感極まったのか、泣き出してしまう父。
汗だくになった私を、母はそっと拾い上げ、強く抱き締めてくれました。
私もそれが嬉しくて、両腕と、剥けたばかりの尾を絡め、抱き締め返しました。


私が3歳の時、貴方の祖先は強大な敵に立ち向かっていました。

大きな蛇の尾の中で、母の語る童話に耳を傾ける私。
母は非常に物知りで、世界中の様々な物語を私に話してくれました。

人間の王妃を攫った邪悪なる竜を打ち倒し、改心させ妻として迎える勇者のお話。
砂漠のピラミッドに眠るお宝を狙い、墓場の守護者達に襲われる冒険家のお話。
荒廃した街を救おうと、自らの身体を魔物へと捧げた精霊使いの少女のお話。

紡がれるお話の全ては、最後に人間と魔物が結ばれる、ハッピーエンドなものでした。
ひとつのお話が終わるたびに、私は手を叩いて、もっと、もっとと母にせがみました。
すると母は、決まって私の頭を撫でながら、また夢から覚めたらね…と返すのでした。


私が6歳の時、貴方の祖先は英雄となりました。

父がプレゼントしてくれたものを見て、首を傾げる私。
それはバナナのようにも見える、不思議な色の果実でした。

曰く、それは『ねぶりの果実』という名の果物とのことです。
大人になるためのおやつだと、父はこれを木箱いっぱいに贈ってくれました。

興味を抱いた私は、その中の一つを手に取り、ぱくりと咥えました。
瞬間、口の中に広がる、ほっぺたが溶け落ちそうなほどの芳醇な味わい。
たちまち私は『ねぶりの果実』の虜となり、夢中になって頬張りました。

その様子を、満足気に頷きながら見つめる父。
ふと、何かを思い立った顔と共に、彼はズボンを脱ぎ始めました。
すると同時に、母の鉄拳が父の頬にめり込み、壁まで吹き飛ばしました。
後にも先にも、あれほどまでに母が怒ったのは、この時だけでした。


私が10歳の時、貴方の祖先は素敵な人と出会いました。

誕生日を迎えたその日、母からあるものを受け取る私。
それはペンダントでした。母がいつも身に付けていたペンダント。
前々から私が、ほしい、ほしいと彼女へねだっていたものです。

私の首にペンダントを掛けながら、母は言いました。

『10歳の誕生日、おめでとう。これはその記念よ』

首元で光る輝きに、私は嬉しくなって大いにはしゃぎました。
それを見て、にっこりと微笑む母と、目を見開かせ驚く父。
喜びの余りに踊る私の後ろで、父は母に何かを言っているようでした。
しかし、母が何かを述べると、彼はしょうがないとばかりに頭をかくのでした。


私が25歳の時、貴方の祖先は円満な家庭を築いていました。

梟が鳴く満月の夜、思わぬ光景に出くわしてしまった私。
父と母が、ひとつのベッドで身を寄せ合いながら、交わっていたのです。

私はごくりと息を呑み、その情事に見惚れました。
母の豊かな胸にキスをしながら、激しく腰を振るう父。
父の太い首に舌を這わせながら、愛の言葉を囁く母。
それは私の知らない両親の姿であり、私の知らない世界でした。

艶やかな嬌声が耳に届く度に、私の胸中にくすぶりが生まれました。
嫉妬の心です。父と母、両者に対する嫉妬です。そして、憧れも。
父にとっては母が、母にとっては父が、一番愛している存在なんだ。
私もあんな風になりたい。誰かを一番に愛したい、一番に愛されたい…。

二人の愛の影に隠れながら、私は自らを慰めました。
生まれて初めて、『性愛』というものを知った瞬間でした。


私が53歳の時、貴方の祖先は病により亡くなりました。

まんまるに膨らんだ母のお腹に耳を当て、目を瞑る私。
澄ました耳に届く、小さな心音。私の妹。生の鼓動。

お腹を撫でる母へ、私は問い掛けました。
どんな子が生まれてくるのかな? 名前は何にしようか?
可愛い子かな? 私のこと、お姉ちゃんって分かってくれるかな?

矢継ぎ早の質問に、母は困ったように笑いました。
すると、傍らの父が、彼女に代わって私の質問に答えてくれました。

そうだなぁ、きっとお前に似た、可愛い子が生まれてくるだろう。
名前はお姉ちゃんがつけてやるといい。きっと妹も喜ぶぞ。なあ、ママ。
なぁに、心配するな。お前がお姉ちゃんっていうのは、この子ももう分かっているさ。

答えの一つ一つに、私は頷き、笑顔を浮かべました。
ああ、私はお姉ちゃんになるんだ。この子のお姉ちゃんになるんだ。
もう一度、母のお腹に耳を当てながら、私はそのことを実感しました。


私が59歳の時、貴方の血は勇者の血統を約束されました。

妹と一緒になって、おにごっこをして遊ぶ私。
しかし、ドロドロと溶けた身体の妹は、動きが非常に遅いです。
私はそれを囃し立て、彼女に対していくつもの悪口を言いました。

すると彼女は、すぐに泣き出して、母の元へと逃げるのでした。
妹の話を聞いた母は、眉を吊り上げ、決まり文句で私を叱ります。

『お姉ちゃんなんだから、妹には優しくしなさい』

その言葉が、私はたまらなく嫌いでした。
妹が生まれてからというもの、両親は彼女ばかり気に掛けます。
私は家族に囲まれながらして、ひとりぼっちの気分でした。
どうして妹ばかり可愛がれるのだろうと、気に喰わない毎日でした。

叱られて気の沈んだ私は、近くの小川でとぐろを巻きながら。
手元に転がっていた石を川に投げては、行き場のない不満を積もらせていました。


私が62歳の時、貴方の祖先の冒険譚は世界中に広まりました。

妹の身体の中に手を突き入れ、宝物を取り返そうとする私。
彼女はこともあろうに、私の大切な物に手を出したのです。

痛い筈がないのに、痛いと泣き叫ぶ妹。
その声を聞きつけた母が、すぐに飛んできます。

母は妹から私を引き剥がし、鬼の形相で言い放ちました。

『お姉ちゃんなんだから、妹には優しくしなさい!』

いつもの言葉。私を突き放す一言。
普段はあんなに優しい母が、私に怒りを向けて…。

擦り切れていく心に私は耐え切れず、泣き出してしまいました。
私の物を盗ったのは妹なのに。悪いことをしたのは妹なのに。
しかし、その想いは言い出せず、私は涙を振り切って家を飛び出しました。

逃げ場所である小川の傍らで、尾を身体に巻きつけて泣く私。
嗚咽が星空に響き、涙はいくつもせせらぎの中に消えていきました。

…どれほどの時間、泣いたのでしょうか。
ふと気が付くと、私の隣には、いつの間にか父がいました。
視線に気付いた父は、微笑みと共に、私の長い髪を撫でました。

そして、穏やかな声で私に問い掛けました。

『…ペンダントか? 取られたのって』

父の言葉に、私は口を開かぬまま頷きました。
手元の草をむしり、それを弄りながら、呟くように告げる父。

『あれなぁ…、パパがママにプレゼントしたやつなんだ。結婚した時に』

その言葉に、私は驚き父の顔を見ました。

月のような静けさを纏い、父は語ります。
あのペンダントは、父が結婚指輪代わりに母へとプレゼントしたものでした。
それを私にプレゼントした時、どうしてだと彼は母へと尋ねたそうです。
すると、彼女はこう言ったのです。この子にも、自分と同じ喜びを与えたいと。
愛する人から、想いのこもった贈り物を受け取ることの喜びを…。

父の話に、私は眉を顰めました。
しかし、疑問を投げ掛ける前に、父は答えを告げました。

『思い出はあげられないから…って、ママは言ってたよ』

作り上げた笹舟を、小川に浮かべながら。
父は船の行く先を…、ずっと遠くを見つめているようでした。
その表情は、まるで昔を思い出しているようでもありました。

…のっそりと立ち上がり、私を抱き上げる父。
お腹減ったろう、帰ろうか…と、満面の笑顔を添えて。

その一言に、とうとう私の口から、ある言葉が漏れました。
それに対し、父はおおらかに笑いながら言いました。

『お姉ちゃんも大変だなぁ。ご苦労様』


私が389歳の時、貴方はこの世に生を受けました。

8人姉妹の長女として、今日も妹達の面倒見に追われる私。
特に末女は泣き虫で、いつも傍にいてあげる必要がありました。

末女の首に掛けられたペンダントを揺らし、あやしていると。
妹達を引き連れた母が、ちょうどその場面に出くわしました。
彼女は私の隣に腰を下ろし、にこやかに話し掛けてきます。

『お姉ちゃんが板に付いてきたわね』

その言葉に、私は照れ笑いを返しました。
穏やかに微笑む母。私の肩を抱き、優しく引き寄せます。

『ありがとう…』

ふと告げられる、感謝の言葉。
見ると、母は目尻に涙を浮かべていました。

驚きましたが、私は何も言わず、母の肩に頭を乗せました。
温かな母の身体。何年振りでしょう、こうして母に甘えたのは。
彼女は私の頭を撫でながら、赤ん坊の頃に聞いた子守唄を紡ぎました。

とろとろと眠りに落ちていく意識。末女も、他の妹達も、私も。
私達は母の優しさに抱かれながら、夢の世界へ旅立っていきました。
微かに旋律に混じる、隣の部屋から響いてくる、父の泣き声を聞きながら…。


私が404歳の時、貴方は勇者の肩書きを授けられました。

住居近くの丘陵から、人間の住む街を望む私。
最近、妙に気になる匂いが、あの街から届いてきます。

食べ物の匂いかと思いましたが、どうも違います。
嗅いでいるとお腹が空くのは確かなのですが、少し妙です。
焼けるパンの匂いでもなければ、具沢山のスープの匂いでもありません。
それに、なぜかこの空腹は、母の料理をお腹いっぱい食べても満たされないのです。

私は不思議に思い、母へとそのことを相談しました。
すると母は、両手を頬に添えて、顔を真っ赤にしました。
そしてすぐさま父を呼んで、私の症状を説明しました。
父もまた、母と同じようなリアクションをとり、驚いていました。
二人ともニヤニヤと微笑んで、とても奇妙であったことを覚えています。

その日の夜は、誰の誕生日でもないのに豪華な夕食でした。
上機嫌な父と母。私達は互いに顔を見合わせ、首を捻りました。
いったい両親はどうしてしまったのでしょう。あんなに浮かれて…。
私はお赤飯を頬張りながら、ただただ頭を悩ませるばかりでした。


私が405歳の時、貴方は冒険に旅立ちました。

『ねぶりの果実』を食べながら、今日も街を眺める私。
すると、街の出入り口から一人の人間が出てきました。

瞬間、私の鼻が濃い匂いを捕らえ、強くヒクつきます。
私は驚きました。だって、まったくの予想外だったのですから。

そうです、匂いの正体というのは、あの人間だったのです。

空腹の意味を理解し、私の胸は高鳴りました。
なるほど、道理で母の料理では満たされないはずです。
私の身体が求めていたのは、『食欲』ではなく『性欲』だったのです。

感情に押され、私は一目散に丘を駆け下りました。
近付くたびに濃くなる匂い。脈打つ胸。強くなる想い。
それは魔物の本能でもあり、一目惚れでもありました。

獲物を狙う蛇の疾駆は、大地に波状の跡を残し。
旅立ったばかりの若い勇者の目前に、魔物は突然と現れました。
すると彼は驚きの声を上げ、思いっ切り尻餅をつきました。

彼の反応に、同じく驚いてしまう私。
まさか私も、そこまで驚かれるとは思いませんでした。
私はすぐさま彼に謝り、その柔らかな手を取って起こしました。

しかし、彼は私の手を払ってしまいます。
更に、聖気を帯びた剣を抜き、それを私に突き付けてきました。

その対応に、私はひどく混乱しました。
どうして彼は、私に剣を向けているのでしょう。
驚かされたことに対し、それほどまでに怒っているのでしょうか。

困惑したものの、私は自らに非があったと思い、必死に謝りました。
何度も、何度も。彼が剣を下ろしてくれるまで謝り続けました。

それに対し、彼は最初こそ、怒声や罵声を私に浴びせ掛けてきました。
しかし、次第にその声は弱くなり、最後には彼も剣を納めてくれました。

誤解が解けたのです。私はほっと一安心し、彼に歩み寄りました。
ですが、私が近付くと、彼は再び柄を握り締め身構えました。
訳が分かりません。彼は私の何を、そんなに警戒しているのでしょう。

謎ではありましたが、私は諦めませんでした。
近付くことができなくとも、言葉は届きます。

ならばと思い、私は胸の中で強く拳を握り締めました。
いつかそこにあった、母から貰ったペンダントに勇気を貰って。
両親のようになりたいという、ありったけの想いを込めて…。

私は…彼に告白しました。

彼の匂いが気になること、胸がドキドキすること、
抱いてほしいと身体が求めていること…。全て、正直に。
語り切れないほどの感情を、想うがままの言葉に変えて吐き出しました。

すると、彼の顔は見る見るうちに真っ赤になっていきました。
私は想いに背を押され、彼に歩み寄ります。すぐさま身構える彼。
ですが、斬られてもいいという覚悟の元、私は彼を抱き締めました。
そして、耳元で。いくつもの愛の言葉を、彼の中に注ぎ込みました。
触れ合う胸と胸は、私の鼓動を鮮明に彼へと伝えていることでしょう。
恥ずかしいことではありますが、しかし、それは私の正直な想いです。
これほどまでに貴方を愛していると、私は心を震わせて、彼に伝えました。

…幾千の言葉が語られたでしょう。
不意に、彼の細い両腕が、私の身体を包みました。

止まる呼吸。見開かれる瞳。ぞわりと逆立つ神経。
彼は、先程までの怒りに満ちた声とは対照的な。
とても優しげな…愛おしむような声で、呟きました。

『僕も…』

刹那、私の中で何かが弾けました。

私は彼を抱え、来た道を突風の如く駆け戻ります。
丘陵を越え、洞窟に入り、ただいまの一言もなく我が家へ。
出迎える妹達をも気に留めず、一直線に自分の部屋へと飛び込みました。

荒く息吐き、私は彼をベッドに押し倒します。
震える彼。怖かったのでしょう。年端もいかない子供です。

ですが、その時の私に、彼を気遣う余裕などありません。
欲望の赴くままに、身を覆う鎧を剥ぎ取り、服を破り捨てました。
子猫のように怯えた声を上げる彼の姿は、ただ私の興奮を誘うだけ。
私は汗に蒸れた彼の脇に舌を這わせながら、雄を貪る悦びに打ち震えました。

その日、私と彼は、果てない愛の契りを交わしました…。


私が406歳の時、貴方は甘えん坊でした。

両親や妹の目も気にせず、彼との情事に耽る私。
いえ、むしろ見せ付けていました。自慢するかのように。

対して、彼は非常に恥ずかしがりやでした。
妹達が鼻息荒く彼のモノを間近で見ようとすると、
彼は耳まで真っ赤になって、必死に両手で隠すのです。
私はそれが愛しくて、つい、彼をいじめてしまうのでした。
皆の前で排尿させたり、淫らな言葉を叫ばせたりと…。

私は彼を毎日愛しました。ひとときも絶やさずに。
食事に、お風呂に、就寝にと、全てを共に過ごしました。

そして彼も、私をどこまでも求めてくれました。
いじめられると知っていながら、いつもセックスを求めてきました。
想いが通じ合っていることの証でしょう。求めて、求められて。

それはまるで、かの日に見た…。
幼い頃に見た、父と母の姿そのものでした。


私が409歳の時、貴方は女性を泣かせました。

彼の帰りが遅く、家の出入り口前でとぐろを巻く私。
街に行くと言い残して、早10時間、一向に帰ってきません。

私は痺れを切らし、何度も彼を迎えに行こうとしました。
しかし、その度に母が私を止め、大人しく待つように言いました。
情けないことに、私は母のように人化の術が得意ではありません。
その姿のままで行けば、人間達を驚かせてしまうと、母は私を窘めました。

ですが、母が私を心配するように、私も彼が心配なのです。
私は次女の頬を弄りながら、どうにか気を静めようと努めました。
あまりに弄りすぎて、彼女は頬だけレッドスライムになりかけていました。

その時です。我が家の玄関が、音を立てて開きました。
振り向き見ると…彼です。ローブとフードで身を隠した彼。

私はすぐさま彼に駆け寄り、その身を抱きました。
尾を絡め、力の限り締め上げます。痛いと言おうが離しません。
心配させた彼が悪いのですから。これは罰です。私に寂しい思いをさせた罰…。

ふと、彼は苦笑いを浮かべながら、私の肩を叩きました。
顔を上げると、目の前に掲げられた、小さな箱がひとつ。
私が不思議そうな顔を彼に向けると、元勇者は微笑みました。

『遅くなってごめんね』

言葉と共に、口開かれる小さな箱。

その中には…指輪が入っていました。
蛇の形したリングに、真っ赤なルビーがはめ込まれています。

『プレゼント。今日、誕生日でしょ?』

彼の台詞に、私は目を白黒させました。
ですが、すぐにその意味を理解し…。

小さな部屋の中に響く、温かな涙のこぼれる音。
涙もろい父は、私よりも大きな声でおんおんと泣きました…。


私が487歳の時、貴方は父親になりました。

大きくなったお腹を撫で、そこにある命を感じる私。
同じく耳を当てる、甘えん坊の夫と、お人好しの父。

母は笑いながら、二人のほうが赤ちゃんみたいだと言いました。
恥ずかしそうに笑う彼に対し、父は耳を澄ませたままです。

と思えば、急に目を見開き、声を張り上げました。

『おい、動いた! 動いたぞ! ほらっ、お前達も来い!』

母と妹達を必死に手招きし、聞いてみろと父が促します。
誘われるまま、尻尾を丸め、お腹に猫耳を当てる三女。
そのむず痒さに、私は笑うことを抑え切れませんでした。

『こら、お前は動くんじゃない! 赤ちゃんが動いたか分からんだろう!』

怒る父に、私も、母も、皆が笑ってしまいました。
一人ぷりぷりと怒り、お前たちなぁ…と頭を掻く父の姿。
その頭には、ほんの少しだけ、白髪が混じっていました。


私が722歳の時、貴方は育児に追われていました。

生まれたばかりの七女に、母乳を与える私。
馬のような下半身を持った娘は、美味しそうにお乳を飲んでいます。

彼女の頭を撫でていると、彼が息を切らせて部屋に入ってきました。
聞くに、三女のパンツと五女の靴下、六女のぬいぐるみが見つからないとのことです。
私は返事を一つ、衣裳部屋から三女のパンツと五女の靴下を、
オモチャ箱から六女のぬいぐるみを取り出し、彼に手渡しました。
彼は苦笑しつつ、ママがいないと駄目だなぁ…と頬を掻きました。

私は彼に笑顔を返しながら、再び七女を見つめました。
彼女の首には、細糸に結わえられた蛇のリング。真っ赤なルビーの付いた…。

この子にも、どうか私達のような出会いが訪れますように。


私が814歳の時、貴方は空を見ていました。

手を握り合う父と母を前に、涙を堪えきれない私。
両親の身体は冷たく、しかし、表情は穏やかなものでした。

8人の娘と8人の息子、89人の孫とひ孫に囲まれながら、父と母は永遠の眠りにつきました。

二人を棺に納めようとした時、八女が母に近付き、その首に何かを掛けました。
それは、いつか母が私にプレゼントしてくれたペンダントでした。
二人の愛の証。それが今、母の元へと返された瞬間でした。

それを見て、ふらふらと動き出す我が身。
私達8人は、父と母の棺にすがって、わんわんと泣きました。
その肩を、そっと抱いてくれる8人の息子達。誰もが空を見ています。

私達が見つめる大地が濡れていたように。
彼らの見つめる空は、きっと滲んでいたのでしょう…。


私が945歳の時、貴方はお爺ちゃんでした。

長女の夫からお土産を貰い、お礼を返す私。
小さな部屋には、溢れ返らんばかりの子供達でいっぱいでした。

子供達は皆口を揃えて、お婆ちゃん、お婆ちゃんと私を呼びます。
その度に私は、はいはいと返事を返し、彼女達を尾で包むのでした。
きゃっきゃと上がる、嬉しそうな声。いつか私が上げていた声。
私は目を細め、子供達の笑顔の向こうに、かの日の自分を見るのでした。

彼はといえば、ニコニコと笑顔を浮かべ、子供達にお小遣いを配っています。
彼女達はそれを受け取ると、お礼と共に、年老いた彼を勇者と称えました。
すると彼は胸を張って、武勇伝という名の馴れ初めを、子供達に聞かせるのでした。
子供達も、彼女達の親も、そして私も、彼の遠い昔話に耳を傾けました。

それは甘く、眩しく、温かく、誰にもあげられない思い出です。


私が978歳の時、貴方は隣にいました。

小川に佇む彼、その隣で身を預ける私。
私達は何を語るわけでもなく、互いを感じ合っていました。

流れる小川に、私はかの日の父の姿を思い出しました。

川の流れは止まりません。とてもゆっくりではありますが…。
笹舟を浮かべれば、果てしないところまで流れ、いつか沈んでしまうでしょう。
ですが、流れがなければ笹舟は進みません。流れは逆にもなりえません。
笹舟は小川を流れるために、その果てで沈むために生まれてきます。

しかし、船は忘れないでしょう。流れる中で見た、数々の輝かしい景色を。
一面の花畑を。真っ赤な夕日を。飛びゆく木の葉を。静かな月を。

顔を上げると、彼と視線が交わりました。
私は目を瞑り、そっと唇を差し出します。

…触れ合う熱と熱。あの頃と何も変わりません。
彼は今もこうして、私を愛してくれています。

私はこの一瞬を、永遠に胸の中で生かしましょう。


私が999歳の時、貴方は一緒でした。

握り合う手は、お互い冷えきったものでした。
ですが、その奥にある想いは、今もなお熱く燃え盛っています。

私も。彼も。どちらも想い合ったままに。
怖いことなんてありません。悲しいことだって。
こうして私達は、ずっと一緒にいるのですから。
例えその時を迎えようとも、離れるはずがありません。

ですが、一言だけ。
これだけは、今しか言えませんから。
母がいつか、私に言ってくれたように。

『あなた…』

私が一番愛した貴方に。
私を一番愛してくれた貴方に。

この言葉を。

『ありがとう…』

私は、そっと瞳を閉じました…。








































貴方が幸せだった時、私は幸せでした。
12/12/10 20:13更新 / コジコジ

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