中編
「ふっ……!ふっ……!ふっ……!」
朝の空気の中に風を切る音が鳴る、ノーケンが木剣での素振りを行なっているのだ。
既にかなりの回数をこなしているらしく、前髪から汗の珠が滴るほどだ。
それはいつもの訓練の素振りではなかった、ノーケンを動かしているのは不安だ、不安を紛らわせるために体を動かさずにはいられないのだ。
「ふう……ふう……」
いい加減腕力が限界を迎えたらしく、ノーケンは汗を拭いながら近くの切り株に腰を下ろした。
息を整えながら周囲の景色を見やる。
花壇で囲われた森の中の小さな一軒家。素振りをしていた場所は物置小屋や割られた薪が積まれているその家の小さな庭だ。
腰を下ろした切り株は薪を割るのに使われているものなのだろう。
「ふう……」
呼吸が整い、しばらく俯いてじっとしていたノーケンだがすぐに何かに耐えられなくなったように切り株から立ち上がってうろうろと庭の中を歩き回り始める。
「くそっ……」
唸るように呟いたその時だった。
「ノーケンさん、起きたよ!起きなすったよ!」
家の中から素朴な農夫姿の男が現れてノーケンに声をかけた。
「本当ですか!」
ノーケンは言うなり家に飛び込んだ。
・
・
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魔界銀の剣で斬られたスイは最初は平気そうにしていた。
袈裟斬りにされた傷跡はしばらくの間奇妙な紫の光を放っていたがすぐに痕も残さずに消えた。
しかし「平気だ」と言って歩き始めて十分と経たずに意識が朦朧とし始め、やがてそのまま気を失って倒れてしまったのだ。
ノーケンはそのスイを背負って森の中を彷徨い、このぽつんと森の中に建つ一軒家に辿り着いて助けを求めたのだった。
その家に住んでいた若い夫婦は突然訪れたその物騒な訪問者を暖かく迎え入れ、寝床と食事を提供してくれた。
しかしその間もスイの意識は戻らずそのまま夜が明けてしまい、一晩気を揉み続けたノーケンの不安が払拭される報せは翌朝にようやく訪れたのだった。
・
・
・
「し、しかしその、ちょっと様子がおかしくって……」
「おかしい?」
戸惑う農夫を横目にノーケンはスイの寝かされていた部屋のドアに手をかける。
しかしノブが回らない。
「開けるな!」
中からスイの声が聞こえた。ノーケンは顔を顰める。
「どうした?」
「いいから開けるな!」
農夫とノーケンは顔を見合わせる。
「立て篭もってどうするんだ、見られると不都合な事でもあるのか?」
「……」
返事が無い。
「……すいません、ノーフィーさん……」
小声でノーケンは農夫のノーフィーに謝った後、再びドアに向けて声をかける。
「スイ、無理に出て来いとは言わん、好きなだけ篭っていい、ただ助けてもらった人に迷惑をかけてるって事だけは考えてくれ」
そう言ってノーケンは改めてノーフィーに頭を下げた、ノーフィーは無言で「構わないよ」というジェスチャーで応えた。
そうして二人共がドアの前を去ろうとした瞬間にガチャ、とドアが開いた。振り返るとスイが扉から出てきた所だった。
ノーケンはぎょっとした、スイの目が泣き腫らしたように充血していたからだ。
「スイ……?」
「……」
スイはふらりと歩き出すとノーフィーにほんの小さく頭を下げた。
「だ、大丈夫かい?」
ノーフィーの言葉には応えずに開いていたドアからふらふらと表に歩いて行ってしまう。
「おい?」
ノーケンは後を追って外に出た。
外に出たスイは庭に立って周囲を見回している。
「どうした一体」
相変わらず言葉には応えずスイは庭に落ちていた適当な長さの木切れを見つけて拾い、構える。
「……」
タンッ
踏み込んで突きを繰り出した。
「……?」
ノーケンはすぐに異変に気付いた、槍の先が走っていない、いつもの目にも止まらぬキレがない。
シュッ……シュッ……シュッ……
何度かその突きを見て原因に気付く、フォームが崩れて体の軸がぶれている、まるで自分の体を制御しきれていないような動きだ。
「……くしょぅ……」
スイは何かを口の中で呟いている。
「ちくしょう……ちくしょう……」
泣いていた、目から大粒の涙を零しながら何度もフォームの崩れた突きを繰り返す。
「くそおっ……くそおおおお……!」
「スイ……っとぉ!?」
ノーケンが肩に手をかけようとした瞬間、突然スイは振り向きざまに木切れを振り回した、ノーケンは慌ててよける。
「俺に触るなあ!」
泣きながらスイは叫んだ、槍を握る手が震えている。
「ふざけやがって畜生!殺してやる……!畜生、殺してやる……!」
「……」
ノーケンは無言でスイに歩み寄った。
「寄るんじゃねぇ!!」
スイは木切れを振り下ろした。
ガツッ!
予想外の重い手応えにスイはぎょっとした。
見切れない速度ではなかったはずだが、ノーケンは全く避けるそぶりを見せずに棒立ちで木切れを頭に受けた。
こめかみから一筋の血が流れる。
「あ、あ、あ……」
「気が済むまで殴って構わん、構わんから気が済んだらそれを地面に置いてくれるか?」
「ち、ち、違……俺……俺……ごめ……」
「もういいか?オーケー?よし、そいつを地面に置いてくれ」
スイは慌てて木切れを地面に置く。
「俺……俺……」
ノーケンはぽんぽんとスイの肩を叩いた。
「喉乾かないか?茶でもご馳走になろうぜ」
そう言ってそっと肩を組んで家に歩き出した。
と、ノーケンのこめかみにスイの手が伸びた、泣きながらごしごしと服の袖で血を拭い始める。
「っかやろぉ……目ん玉潰すところだったろが……」
「どうしたしおらしいな、いつもそうだったら助かるんだが」
「うるせぇよ……」
・
・
・
お茶を貰った後、二人は庭の切り株に並んで座っていた、日は真上に昇り、晴天の空に鳥の囀りが響く。昼寝でもしたくなるような環境だ。
しかし座る二人の表情は天候とは違って晴れやかではない。
「……お前との付き合いはそこそこになるけどよ……」
スイは俯きながら言う。
「ここらが潮時だろ」
「どういう意味だ?」
「わかるだろ……」
手を見つめる。
「俺はもうお前にメリットを返せねえ」
「……原因はわからんのか」
スイは自嘲気味な笑みを浮かべた。
「豚だよ」
「……何?」
「俺は豚になっちまった」
ノーケンは考える、スイがいつも「豚」と呼ぶのは……。
「おい、まさか」
「笑えるぜ」
視線を快晴の空に向けた、乾いた目だった。
「おまけにこんなもんまで生えてきやがる」
「……!?」
ぞろ、とスイの髪を掻き分けて捩くれた角が生えてきた、これには流石にノーケンも目を丸くする。
それだけではない、背後に何かが動く気配を感じて振り返ると、スイのズボンから尻尾が生えて揺れているのだった。
「魔物娘……」
男性と女性では体のバランスの取り方が違う、男は主に肩で、女は腰で取っている、その上人間にはないパーツも付いているとなるとそもそも人間とは重心が違うだろう。
たゆまぬ鍛錬によって作られたフォームの矯正は容易な事ではない。
「まあ……そういうこった」
スイは切り株から腰を上げてぽんぽんと尻を払う。
「これからどうする気だ?」
「お前に関係ない」
「いいや、あるね」
ノーケンも立ち上がった。スイは妙な顔になってノーケンを見る。
「どうあるんだよ」
「お前が心配だ」
「ぷっ……ははっ!」
思わずスイは吹き出す。
「勘弁しろよ、俺はお前の弟でも子供でもないぜ」
「そんな関連性が必要か?」
「……おい」
スイは突然ノーケンのむなぐらを掴んでぐい、と引き寄せて睨んだ。
「俺はな、何の見返りもなしに協力しようって奴は信用しねえ」
「メリットはある」
ノーケンは正面からスイの目を見返す。
「どんなだよ」
「お前は俺の命を救った」
自分の眉の上の傷跡を指差しながらノーケンは言う。以前、二人で夜襲から生き延びた時についた傷だ。
「ここでお前と別れるとする、鏡を見て自分の顔を見るたびにおそらく俺はお前を思い出すだろう、あいつはどうしてる?野垂れ死んだか?教団に捕まって処刑されちまったか?……思い出す度に陰鬱な気持ちになるだろう、そんなのは俺は御免だ」
「……そんなドジ踏むかよ」
「身を守る術も無いのにか?」
スイは歯噛みする。
「スイ、俺はお前が好きだ」
「!?!?」
スイはびっくりしてノーケンを突き飛ばす。
「たかが三年されど三年だ、もう情が移っちまってる」
「……あ、ああ、好きってそっちの意味か……」
「?」
「何でもねーよ!」
赤くなった顔をごしごし擦りながらスイは誤魔化すように声を荒げる。
「そんなフワフワした理由信用できるか!」
「スイ、お前は死にたいのか」
「死なねえよ!俺は死なねえ!絶対に生き延びてあの……あのデュ……デュら……?」
「デュラハン?」
「そうだ!あのクソビッチだ!俺をこんなにしやがったあいつをぶっ殺してやる!」
「だったら俺を利用しろ、利用して生き延びろ」
スイはつい今朝にノーケンがそこでそうしたように庭を落ち着きなくうろうろと歩き回った。
そうしてひとしきりうろついた後に立ち止まるとあの眉を寄せた困り顔でノーケンを見た。
「馬鹿だよお前は」
「そうだな」
じっと二人は佇んで見つめ合った。
やがてスイは蚊の鳴くような小さな声で言った。
「……ありがとう」
「いいって」
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・
・
「……おや」
庭の二人の様子を見に来たノーフィーだったが、そこに二人の姿は既に無かった。ただ切り株の上に結構な枚数の銀貨と礼の言葉をしたためた書置きが置いてあった。
「行ってしまわれたのですか?」
「そのようですな」
ノーフィーが振り返ると妻が庭先に出てきていた、二人がいる時には人間の姿になっていたが今は本来の姿……新緑の髪に体の各所に植物が絡むドリアードの姿に戻っている。
「それにしても、お前さんに似た髪の色のあの方は……」
「そうですね、魔物となっておりました」
ノーフィーは取り乱したスイの様子を思い出す。
「うまく新しい生き方に馴染んでくれるといいんだが……」
「ふふ、きっと大丈夫ですよ」
妻は微笑を浮かべた。
「想い人が傍にいる限り、魔物が道を踏み外す事はありません」
「想い人というのはやはり……」
「もう一人のお方ですね、どうやら魔物となる以前からお二方は……」
「はっはぁ……」
ノーフィーは腕組みをして空を見上げた。
「……愛というのは……色々あるもんなんだのう……」
・
・
・
「懐に潜り込む」
「懐?」
保存食での簡素な食事を終えた二人は森の中で焚き火を囲んでいる。
「親魔物領に入る」
「……正気かよ」
獣避けの香木を火に放りこみながらノーケンは続ける。
「どちらかと言うと魔物の身で反魔物領に身を置く事のほうが正気じゃない」
「そりゃあ……そうだけどよ……」
成り立てでも角や尻尾を隠して人間を装う事は出来る、しかしやはり慣れていないとふとした拍子にすぐ出てしまう。
反魔物領ではそれが誰の目に止まるかもわからないし、正体がバレたなら即刻身に危険が迫る事になる。
「それに、お前の捜すあのデュラハンの情報も親魔物領の方が明らかに調べやすい」
「……」
「双剣の使い手なんてのは魔物であってもそうは多くないはずだ、それが手掛かりになる」
「でも、よぅ……」
「でも、も何もない、お前がいくら魔物嫌いであってもそれ以外選択肢はない」
「……お前は?」
「うん?」
「俺はいいよ……もう魔物になってるから怪しまれねえし、でも、お前は人間だろう?」
「魔物ってのは人間の男を婿に取る」
「……まさか」
スイはノーケンをまじまじと見る、ノーケンは火を見つめる。
「俺が……って事でいいだろう」
「だ……だけど、よ」
「嫌か」
「嫌じゃねぇよ!」
スイの急な大声に周囲から鳥が飛び立つ。
「大声を出すな……獣が寄ってくるぞ」
「わ、悪い」
しばし、妙な沈黙が二人の間に流れた。
「……森を出て……南東だな、新魔物領の街がある、まだ成り立てだが」
「……ああ」
「スイ」
「何だ」
「無茶はするなよ」
「急に何だよ」
「お前は自分の腕に頼り過ぎていた所がある、今はその腕はない、忘れるなよ」
スイは舌打ちを打つ。
「言い辛い事はっきり言いやがって……」
「はっきり言っておかないと何するかわからないからなお前は」
「ハイハイ」
不貞腐れたようにスイは横になってしまう。
ノーケンはもう一言かけようとしたが、これ以上言っても機嫌を損ねるだけだと判断して黙って焚き火の番をした。
・
・
・
「……」
数時間後、番を交代したスイは揺れる火の灯りに照らされるノーケンの寝姿をじっと見ていた。
「……」
すっ、と四つん這いになると獣のように音を立てずに近付いた。寝ている間でも物音に敏感なノーケンも気付かない。
槍の腕は鈍っても基本的な身のこなしは衰えていない。
「……」
スイはノーケンの肩ごしに顔を覗き込む、しゃらら、と長い髪がノーケンを撫でる。
「んん……」
「!!」
と、ノーケンが寝返りを打った、スイは驚くほど素早い動きでサッと離れる。
ごそごそと動いてノーケンはまた動きを止める。
「……」
「すー……すー……」
しばらく離れて様子を見ていたスイはまたそろそろと近付く。警戒心の強い動物のようだ。
今度は背中ではなく正面をこちらに向けているので顔がよく見える。その顔をじっとスイは覗き込む。
焚き火の灯りを反射して大きく見開かれた目が光る、目が濡れているのがわかる。
その濡れた目でノーケンの顔を凝視しながらスイは膨らみ始めている自分の胸を服の上からゆっくりとさすり始める。
「……っ……ふっ……ふ……」
息を殺しながらひたすらにすりすりと胸をさする、徐々に顔の距離も近付いていく。
やがてスイの手は胸元に差し込まれ、直に胸を弄りはじめた。
「……っっ……」
ぎゅっと下唇を噛んで声を抑えながら下半身をもじつかせ、スイは自分の拙い愛撫に身悶える、視線だけはノーケンから離さない。
くり……くり……くり……
男の時にはしたこともなかった乳首への愛撫、未経験の刺激がスイを襲う。
些細な指の動きに反応してびく、びく、と体が震え、その度にサラサラと髪が揺れてノーケンを撫でる。
「……ンっ……ーーー……」
声にならない声が上がり、スイは目をきつく閉じて全身を揺さぶる初めての穏やかな波に耐えた。本当の絶頂には程遠い緩い波はすぐに引いていった。
「……はっ……」
目を明けて再び潤んだ目でノーケンの顔を見る、今までにないくらいに目尻が下がってこの上なく切なそうな表情になっている。
と、そこで無意識に下半身に向かいそうになっていた手がぎゅ、と握り締められて動きを止める。
はあはあと息を荒げながらそろそろとノーケンの元を離れ、自分の元のポジションに戻る。
「ちっくしょ……」
座り直したスイは顔を覆って呟き、早く夜が明ける事だけを祈った。
・
・
・
大きな街だった、いや、都市と言って差し支えない。
道は舗装され、整備されてゴミ一つ落ちていない。見上げるように大きな建築物というのも反魔物領では見かけないものだ。
そして何より違うのが人々の活気。物売りの店が数多くあり、道で遊ぶ子供達も沢山見かける。街中で見かける魔物達も人間と変わらずに過ごしている。
「いい所だな」
「けっ」
二人は目抜き通りの人の流れに混じって歩きながら話す。
スイは面白くなさそうな顔をしている。
今まで魔物との接点といえば戦場で出会う事厄介な敵としてが殆どだった、それでなくともただでさえ女である魔物はスイの嫌悪の対象だ。
だが目にする街並みは明らかに今まで見た教団領内のどんな場所よりも豊かで恵まれているように見える。その事実がどうにも認め難い。
「何してこんなに稼いでやがんだよこの街は……」
「確か農産物で有名な所だな」
「……農産物ぅ?」
「村で作られてるようなもんじゃなくて、高級な物を作ってるそうだ」
「……理解できねー」
「ひょっとしたらここに手掛かりがあるかもな」
「手掛かり?何の?」
ノーケンはスイを見る。
「俺達が遭遇した行軍……お前を斬ったデュラハンの所属していた軍隊は多分、このルートを通った」
「……ってことは」
「ここに補給に立ち寄った可能性もあるって事だ」
スイの表情が険しくなる。
「ま、かもしれない、ってぐらいの可能性だけどな……あそこら辺でいいか……」
ノーケンが目を付けたのは街の酒場だった。情報を得たいならとりあえずは酒のあるところにいけばいい。
「はい、いらっしゃーい♪」
扉を潜った二人を小柄な少女の給仕が迎えた。尖った耳と角を備えたゴブリンだ。
「ああ、」
「……」
自然に対応するノーケンと対照的にスイは微かに身を固くする。やはり魔物を相手にすると無意識に構えてしまう。
ノーケンがそんなスイの肩をぽん、と叩いて言外に「落ち着け」と伝えてから男性客の集まっているテーブルに向かう。
スイは一息ついてカウンターに向かった。ノーケンの情報収集の手腕は非常に優れている、スイが一緒にいるとむしろ邪魔になるのでその時にはこうして分かれるのだ。
「何にするね」
カウンターのマスターは男だったのでスイは少し安心する。
「……ワイン」
「赤かい?白かい?」
「どっちでもいい、適当に合うつまみも」
「はいよ」
酒を受け取りながら横目で見るとノーケンは既に男達の輪に加わってトランプを手にしていた。本当にああいったコミニュケーション能力というのは真似できない。
・
・
・
「見ない顔だね、旅の人かい」
「まあ、そんなところだ」
手札に目をやりながらノーケンは向かいの初老の男性と会話する。
「いい所だろう?」
横の若い男が言う。
「実にね、農産物が有名だって聞いてたからもっと畑ばかりかと思ってたよ」
へへへ、と男が低い声で笑う。
「そこらの農産物と違うからな、お偉方がわざわざ足を運んで来たりするんだ」
「そりゃすごい……あー、くそっ」
引いた札を見てノーケンは顔をしかめる。
「それにしても……立地が怖いねここは」
「立地?」
「ほら、距離は遠いけどお偉い教団サマの都市の真ん前じゃないか、ちょっかいとか出されたりしないのかい」
トランプを囲む男達は小さく笑った。
「名産品の話は聞いててもこの街の「精霊使い」の噂は知らないのかい」
「精霊使い?」
「そうとも、この街は精霊使い達が護る街って事でも有名なんだぜ」
「それは初耳だ、その精霊使いの部隊っていうのはそんなに強いのかい」
「部隊じゃないんだなこれが」
隣の男は何やら自慢げに語る。
「精霊使いは四人いるんだ、その四人だけで街を守ってるんだ」
「ほう……」
この男のみならずその事が街の人々の自慢なのだろう、男の様子を見ていてもわかる。
「水のイェンダ、土のコルホズ、火のイオ、風のヴィスケットだ、教団兵如きではどうにもならんよ」
「そんなに腕が立つのかい」
「立つなんてもんじゃねぇよ、本気を出しゃ天変地異が起こるんだぜ」
「なるほど……大魔法使いみたいなもんか」
「いやいやいや、違う、違うんだよ兄ちゃん」
もはや男はカードそっちのけでノーケンの肩をばしばしと叩いてくる。
「精霊に加えて戦士としても超一流なんだなこれが、あれだ、前見た親善試合なんかそりゃもう度肝抜かれたね」
「そうそう、ありゃ凄かった」
「親善試合?」
特に必要のない情報であっても切り捨てずに相手の話に乗るのがうまく会話を転がすコツだ、ノーケンは興味を引かれたふうに聞く。
「この街には今魔王軍が駐屯しててな、そこの腕利き達とちょいと座興で試合をやったんだ」
「へえ」
ノーケンは内心大きく反応するが、それは態度には出さない。
「どんな試合だったんだい」
「同じ獲物持ちってんで魔王軍の双剣使いと火の双剣使いのイオが一試合やったのさ」
どん、ぴしゃりだ
「見ていて鳥肌が立ったぜ、凄まじくってそれでうっとりするほど綺麗なんだ、ああいうのを剣の舞っていうのかねぇ……勿論、イオが圧倒したんだけどな」
「そんだけ強いっていうとやっぱり」
少し性急だが探りを入れる。
「強い種族なんだろうな、リザードマンとかデュラハンとかかい?」
「いや、サラマンダーさ、いかにも火の精霊使いだろう?」
「魔王軍の方はどんな奴だったんだい」
「デュラハンだったね、イオには敵わなかったけど選抜されるだけあってやっぱり並大抵じゃなかったぜ……食いつくねえ、ひょっとして腕に覚えがあるのかい」
「ちょいとな、強い奴には興味が沸く性分でね、今も街にいるのかい」
「いるんじゃねえかな、どこかは詳しく知らねえけど……おいおい、変な考え起こすんじゃねえぞ?」
「ははっ、俺は勇者様じゃないから変な気を起こした所でどうにもならんよ」
と、ノーケンは後ろを振り返ってカウンターのスイに目をやった。
「いかん、嫁が拗ねる」
そう言うと自分の負け分を支払って席を立った。
「ひゅー」
「大事にしなよー」
後ろからはやされながらカウンターのスイの元に戻る。
スイはワイングラスをゆらゆら揺らしながら頬杖を付いている。
(……様になるな……)
妙な事を思いながら隣に腰を下ろした。
「いい情報だ」
「何だ?」
「どうやらこの街にいるぞ、お前を斬った奴」
ピキッ
不吉な音に目をやるとスイの手の中のグラスにヒビが入っていた。
「……ああ、悪い」
そう言って中を飲み干すとそのグラスと多めの銅貨をカウンターに返す。
「おい、スイ」
「わかってるよ、無理はしねえよ」
「そういう時のお前は信用できん」
「……」
スイは皿のジャーキーを拾い上げてがじがじと噛む。
「実力差を測れねえほど馬鹿じゃねえよ、普通の時に二人がかりで負けてんだ」
くちゃくちゃと肉を咀嚼する。
「落ち着いてる、俺は落ち着いてるよ……」
と、ノーケンの腕がスイの肩に回されて強く引き寄せた。
「わかった落ち着かなくていい、ただ行く時は必ず声をかけてくれ、一人で先走るな」
「……」
「手を考えるんだ、やり方を考えて……」
「なあ、何で?」
気づくとスイがこっちを見ていた、とても大きく目を見開いている。
「本当に何でだよ、何でそこまでするんだよ、俺に」
「それは前に説明しただろ……借りがある」
「それだけかよ本当に」
「性分だ」
「……」
二人は席を立った。
・
・
・
おいで
老婆に手を引かれてスイは夜の廊下を歩いている。
見上げるように大きな窓からはカーテンの模様を透かして月明かりが差し込んでいる。
その明かりに照らされるスイは薄いケープのような服を纏っている、体を覆い隠す役割を放棄したそれはスイの幼い裸体を月明かりの中に浮かび上がらせている。
スイはその服を着るのは嫌だった、だけど逆らう事は許されない。
じっと羞恥に耐えるスイをその老婆は心底嬉しそうに見る、スイは悪魔がいるならきっとこんな顔で笑うだろうといつも思う。
やがてスイは小さな舞台の上に立たされている事に気付く、背後にステンドグラスが貼られていて、それを透かした月光が壇上のスイの姿を後ろから照らしている。
スイの目の前には闇が広がっている、その闇の中に光る沢山の二対の光、席に座った着飾った女達。
皆が悪魔の笑顔をしている。
その中に先程スイの手を引いていた老婆もいる、その老婆は悪魔の顔で言う。
さあ、スイ、踊っておくれ
スイは言葉に従って教え込まされた舞を舞い始める、誘うような扇情的な踊りだ。
女達の視線が全身に絡み付く、女達の悪魔の笑みが深まっていく。
踊り終えるとスイは壇上から降りてその視線の前に跪く。
女達は立ち上がってスイを取り囲んでいく。悪魔の笑顔に取り囲まれる。
スイの体に手が伸びる。
枯枝のように細くてしわくちゃな手、パンパンに膨れ上がった肥えた手、異様に爪の長い手。
どの手にも大きな宝石の付いた指輪やブレスレットがはめられている。
その手を見て幼いスイはいつも思う。
この人達はこんなに恵まれているのにどうしてまだ欲しがるのだろう。
やがてその手がスイの体のあらゆる箇所に触れる、その時にはスイは既に心を放棄して何も感じないようにしている。
老婆が笑う、あの老婆がスイの目の前で頬に手を添えて笑う。
スイ、お前の肌は本当に白くてすべすべしているわ
「……」
スイは目を覚ました。
顔は紙のように白く、全身が震えている。見回してここが宿の一室である事を思い出す。
横のベッドにはノーケンが横たわって寝息を立てている。
このノーケンが昼のうちに駆け回って情報を集めてくれたお陰でスイを斬ったデュラハンの居場所は割れた。
どうするかはまた次の日に決めるという事で二人共今日の所は宿を借りて寝たのだった。
ふらり、とスイはベッドから身を起こし、暗い目で壁に立て掛けてある自分の新しい槍を見た。
・
・
・
夜の闇の中、スイは建物を見上げていた。
駐屯する魔王軍のために建てられた仮の兵舎だ、情報によるとあのデュラハンもこの兵舎に寝泊りしているらしい。割り振られた部屋もわかっている。
スイの背には槍が背負われている、人目につかないよう黒い袋に収まっている。
「……」
スイは兵舎を見上げたまま動かない。
(何でだ……?)
自問自答していた。
長いこと見ていなかった忌まわしい夢を再び見た時の衝動に任せてここまで来た、それなのに憎い敵の元にやってきても復讐心が沸いてこないのだ。
月を見上げた。
あの思い出したくない記憶を彩っていた月。
だけどノーケンとの不思議と心安らぐ日々もその月は照らしていたのだ。
「……下らねえ」
唐突にわかった。
歯車が噛み合うように自分の心理を客観的に理解した。
復讐とは非合理的な行為だ、達成した所で何も返ってはこない。
それをわかった上で行うのは理屈を超越した怒りがあるからだ、納得できないという思いがあるからだ。
自分にそれは無い。
結局、あの時斬られたのはあのデュラハンが強かったからであり、自分が弱かったからだ。戦場では当たり前の事だ。
斬られた結果どうなろうと悪いのは弱い自分なのだ。
では何故自分はありもしない復讐心を持とうとしたのか?
それもわかった。
自分は怖かったのだ、変わり果ててしまった自分の現状と向き合うのが怖くて目を逸らしたかったのだ。
だから斬られた相手への怒りで誤魔化そうとした。
そんな誤魔化しの復讐心に振り回されるノーケンの事を思うと自分がひどくみっともなく思えた。
(……帰るか)
帰って寝て、次の日にはノーケンにこの茶番は終わりだと伝えよう、そう思った。
「……!」
スイは踵を返してすぐに立ち止まった。前方の夜道を誰かが歩いてくる。
もしや自分が居なくなった事に気付いたノーケンが追って来たかと思ったが、どうもその人影は長い髪を有している。
「……っち」
スイは舌打ちを打った、あのデュラハンだ。見間違えようもない。
遅くまで訓練をした帰りなのか、長い髪を後ろに纏めて軽い服装をしている。
復讐するとしたら絶好の機会だったが、スイにもうその気はない。
俯いて歩いてすれ違おうとする。
「……」
「……」
「……」
「……」
「おや?君は……」
「……話しかけるんじゃねぇよ」
声をかけてきたデュラハンにスイは剣呑に返す。
復讐心が無いとは言え自分を斬った相手だ、いい気はしない。
「戦場でやられた事を今更どうこう言わねえ、お前も俺に用は無いだろう」
「……うむ」
そう言ってスイは歩いて行く。
「……ちょっと、待ちたまえ」
その背にデュラハンがまた声をかけた。スイは振り返る。
「何だよ」
「お茶でもいかがかな」
「はぁ?」
・
・
・
兵舎の中は意外と小奇麗だった、清潔なベッドに私物入れに簡易の台所まである、こんな所まで教団領とは雲泥の差だ。
(……俺は何をやってるんだ……)
その兵舎の中で来客用の椅子に座ったスイは頭を抱える。
結局あの後デュラハンに説き伏せられて自分はここに招き入れられたのだ、そのデュラハンは今台所でお茶を入れている。
「どうぞ」
「……どーも」
ぱっと見、ミルクにコーヒーを混ぜたような色の飲み物が出てきた、甘い湯気が立っている。
「煮出し茶だ、口に合うといいが……」
一口啜ってみると甘くてうまい、思わず和む。
「ふぅ……」
(いやいや、和んでどうする)
表情を引き締めてデュラハンを見ると相手もこっちをじっと見ていた。
「君のプライドを傷付けるかもしれないが……少し、君が心配になったんだ」
「あーあー、そうだな傷付くよ、斬られた相手に怪我の心配までしてもらっちゃな」
「いや、怪我はしていないはずだが……怪我をしたのか?」
スイはじろ、と上目遣いに相手を見る。
「強いて言うなら俺の大事な大事なものが削げ落ちちまったな」
「う、うむ」
言った後にスイはがしがしと頭を掻いた。
「勘弁してくれよ、負け犬の遠吠えを聞きたくて連れ込んだのか?」
「いや、すまない、その……」
どうも口下手らしいデュラハンは何度か咳払いをした。
「ええと……私の名はディム・ディンという、君の名は?」
「……スイだ」
「そうか……スイ君、君がそうなった道理はわかっているかい?」
「お前に斬られたからだろ、その……魔界銀?とかいうので出来た剣で……」
スイは部屋の壁に掛けてある剣を忌々しそうに見る。
「いや、確かにその体の異変は私が斬ったからだ、しかし本来は男が斬られても魔物娘に変化する事はない」
「……俺は何でこうなったんだよ」
「いいかい、落ち着いて聞いて欲しい」
ディムは一呼吸置く。
「もったいぶんじゃねぇよ」
スイは身を乗り出す。
「あの時、一人の相方がいたね?」
ノーケンの事だ。
「だから何だよ」
「君はその男の事が好きかい?」
スイの目が泳いだ。
「好き……って……」
「もっと直接的に言おう、性的な意味で好きかい?」
ディムの予想した反応は二通りだ。
そんなわけあるか!と怒り出す。
実は……と認める。
「そそそそそそそんなわけあるか俺は、いや、嫌いじゃねぇけどそういうんじゃ、あの、違うんだよ、違わねえけど、その、別にそういうのんじゃ……」
スイの反応は表面上は前者だったが、内容は後者のようなものだった。
「わかったわかった、大いにわかった、わかったから落ち着け」
「わかるなよ!」
スイはテーブルに突っ伏して頭を抱える。
そんなスイにディムは諭すように言う。
「……男性が魔物化する条件は二つ、その男に女性化願望がある場合、そして同性に好意を抱いている場合だ……」
スイは伏せていた顔を上げてじろりとディムをに睨む。
もっとも殺気走った目ではなくどちらかと言うと拗ねた子供のような表情だが。
「余計なお世話だよ馬鹿!……いや、結局斬られた俺が悪いんだけどさあ!」
「お節介は承知だが、やはり気になってな、君は一見して素直でなさそうだから……」
「ひょっとして喧嘩売ってるのか」
「い、いやいやいや」
ディムは慌てて手をぱたぱたさせる。
どうにも調子が狂う、戦場で相対した時とイメージが違いすぎる。
こっちが怒ると萎縮するので逆に言いづらい。
「その……す、好きな相手には逆に言えない悩みとかもあるだろう?君は友達もいなさそうだし……あ、や、わ、悪い意味ではなくてその」
おまけに余計な一言が多い。
スイはぐったりとなった、いちいち怒っていてはキリがない。
「余計なんだよ……くそっ、女に……女なんかに……」
「君は女性が嫌いなのかい」
「嫌いだ」
「どうして?」
スイはカップのお茶をぐいっと飲み干すと冷たい表情になる。
「言いたくない、お前に関係ない」
「……そうか」
部屋を沈黙が包む、スイは空になったカップをじっと見下ろしている、ディムはそのスイをじっと見ている。
「……お前ら魔物はさ、男を攫って婿にするんだろ?」
「まあ、そうだ」
「どんな扱いをするんだ?」
「大事にする」
「へっ」
スイは鼻で笑った。
「大事な愛玩動物って訳か」
「そういう意味ではない」
初めてディムが強い口調になった。スイが見るとディムはまっすぐな目でこっちを見ていた。
「私はまだ一人身だから、身の回りの友人達の様子からしか知らないが……彼女達は夫を本当に……本当に……」
ディムは言葉を探すように一度黙って視線を彷徨わせる。
「……本当に……死んでしまいそうに大切に思っているんだ……いや……ああ、うまく言えない」
自分の言葉の不自由さを嘆くようにディムは首を振り、スイを見た。
「でも、君もきっとわかる、君も魔物になったんだから」
「……」
スイはテーブルに肘を着いて手を組み、額に当ててじっと考え込んでいた。
「……俺の知ってる「女」って生き物は化け物だ」
ぎり、とスイの歯が鳴る。
「豚の化け物だよ、食っても食っても飽き足らず、ぶくぶくに太ってもまだ食いたがる」
「……」
「俺は」
スイは手を組み替える。
「俺は心まで化け物になりたくない」
「……」
「怖いんだ、俺は、俺は、あいつの事好きだよ、でも、心が豚の化け物になったらあいつの事もただの食い物にしか見えなくなるんじゃないかって」
「……」
「わかってるよ、全部の女があんなのじゃないって、でも俺はあいつらが忘れられない、あいつらのした事も……」
「なあ、スイ」
「……何だ」
「魔物に……女になるという事は、自分が自分で無くなるという事ではない」
「?」
「いや、ええと、これは私の持論なんだが……どう説明しようかな……」
ディムはまた視線を彷徨わせて言葉を探す。
「ええと……「私は魔王軍に所属する騎士、デュラハンのディムだ」」
「……?お、おう」
「この……この私を表している文章だが、「ディムだ」の部分以外は別のものに変わるかもしれない、いや、これからも変わっていくだろう」
「……う……ん……?」
「例えば軍を退役してパン屋になったら「私はパン屋を営むデュラハンのディム」になる」
「うん」
「一度死んで蘇って「パン屋のゾンビのディム」になるかもしれない」
ディムは手元のカップを持ち上げる。
「今は紅茶党だが、この先コーヒーの方が好きになって「紅茶党のディム」から「コーヒー党のディム」になるかもしれない」
「……」
「「右利きのディム」から「左利きのディム」になるかもしれないし、「猫好きのディム」から「犬好きのディム」になるかもしれない、でも、だけどこの、私を表す文章からはこの……」
カップを置く。
「最後の「ディム」は無くならないんだ、前につく飾りの言葉はどんなに変化しても「何とかのディム」にしかなりようがないんだ、何がどうなっても私は「ディム」なんだ」
たどたどしい身振り手振りを加えてディムは懸命に言葉を紡ぐ。スイはそのディムを見て少し笑う。
「だから……」
「だから、俺はどうなっても「スイ」ってか……」
「うん!そう!そうなんだ、自分は変化はしても結局は自分以外にはならなくてその……わかってくれるか?」
「理論、強引すぎ」
「うぐっ」
「でもまあ……いい、かな……」
「えっ?」
「アンタみたいな変なのも魔物にいるってんなら……悪くない、と思えない事もないかな」
「そ、そうか?いやあ、照れるな」
(……褒めてはいないんだけどな……)
「君、酒はいけるクチかい?」
「うん?まあ、そこそこ……」
ディムは席を立つと傍の棚から一本のボトルと二つのグラスを持ち出してテーブルに置いた。
「おいおい……」
「いいじゃないか、付き合ってくれたまえ、ちょうど飲む相手を探していた所なんだ」
(……まあ……ちょっとくらいならいいか)
スイは断ろうと思ったが頑張って相談相手になってくれたこの魔物になら少しは付き合ってもいいか、という気になった。
ディムがボトルの栓を抜いた時に漂った豊潤な香りにも惹かれたのもある。
「何だ、随分いいのを持ってるんじゃん」
「鼻が利くじゃないか、これは「堕落の虜」というここらではちょっと手に入らない一品なんだ」
「ネーミングどうにかならねぇのかよ……」
言いながらも目の前の杯にとくとくと注がれる深紅の液体にスイは興味深げに見入る。
二人の杯を満たすとディムはグラスを持った、自然にスイも持った。
「よし、私に斬られて始まった君の新たな人生に乾杯」
「うるせえよ」
やっぱり一言多いディムの音頭で二人はチン、とグラスを合わせた。
・
・
・
(馬鹿野郎……あの馬鹿野郎……!)
うっすらと夜が明け始め、少しずつ空が朝焼けに染まり始める街道をノーケンは走っていた。
(あれだけ言ったのに……!くそっ!俺ももっと気を付けるべきだった……!)
目を覚ましたノーケンはスイがいない事に気付いた、ついでに槍もなくなっているのを見て瞬時に事情を察したノーケンは前日に調べたデュラハンの住所へと向かっているのだった。
(無事でいろよ……!)
スイが想定したように二人がかりでも敵わなかったあのデュラハンの腕は尋常ではない、まだ慣れていない体で挑むのは自殺行為以外の何者でもない。
(ここだ……!)
魔王軍駐屯地兵舎の前にノーケンはたどり着いた。
ひとまず人だかりなどは見当たらず、スイが騒動を起こした様子は無い。
(途中で思い止まったならいいんだが……)
姿を見ないうちはまだ安心できない。
ノーケンはあのデュラハンの住む部屋のドアの前に立った。
「……」
人のいる気配はする……どうやら寝ている様子でもない。何か聞こえる。
「……ぅっ……ぅぅ……ぅ……」
聞こえる、ドアを介してくぐもっているが、何か、泣き声のような……
(……スイ!)
不安に駆られたノーケンはノブに手をかける、意外な事に鍵はかかっておらず、抵抗なく回転した。
ノーケンは飛び込んだ。
「スイ!……えっ」
部屋の中の光景を見たノーケンは硬直する。
「う……うぅっ……うぇぇ……えっく、ひっく、だ、だからな……だから私はぁ……しょく、職務に、忠実にぃ……」
「ああ……うん……そうだな……うん……」
テーブルで向かい合って座っているスイとデュラハン。
それだけでも理解を超えているのだがさらにそのテーブルの上に空の酒瓶が複数転がり、デュラハンがぐでんぐでんになっているというのは一体どういう状況だろうか。
「……おう……ノーケン……」
スイがノーケンに気付いて振り返った、こちらは何というかげっそりとしている。心持ち頬がこけているようにさえ見える。
「スイ……ええと、お前……さ、先走るなって……言っただろ……」
何と言っていいかわからなかったノーケンはとりあえず顔を見たら言わなくてはいけないと思っていた事を言った。
「ああ……すまん……」
スイの方はもう何かを言い返す気力も無いといった様子だ。
「聞いてるのかぁ!スイ!」
「あー、聞いてる、聞いてるって……」
すぐに前のデュラハンに呼び戻された。
「あと、あなた!ドアの前のあなた!」
「えっ」
「あなたです!あーなーた!こっちきなしゃい!」
デュラハンはテーブルをバンバン叩きながら言う、ノーケンはどうしようもなかったので従った。
「座りなしゃい!」
「アッハイ」
椅子に座るとドンッと目の前にジョッキが置かれ、それにボトルの透明な液体がどくどく注がれる。
「飲みなしゃい!」
「……いただきます」
ノーケンはどうしようもなかったので従った。
「うわ、キツ……」
飲んで顔をしかめた、えらく度数の高い酒だ。
「じゃ、俺はこれで……」
「待て、待ちやがれ」
そそくさと席を立とうとするスイをノーケンは引っ張り戻す。
「俺をこの状況に置き去りにする気か、どうしてこんな状況になってんだ」
「いや、説明すると長くなるんだけどよ……」
「何を二人でぶつぶつとぉ……あー!わかった!愛を囁き合ってるんだな!?私に見せ付けようってんだなこんちくしょう!」
「イヤイヤイヤイヤ」
「イヤイヤイヤイヤ」
「わかってるんだ!部下が退役する前兆なんだ!そして引き継ぎもろくにしないうちにホイホイ辞めていくんだ……こっちの苦労も知らずにぃ……!」
ドンッとジョッキをテーブルに置くと同時にぽろっと首が落ちた。
「うおぉっ!?」
「……」
流石にノーケンは驚く。スイは無反応だ、何度も見ているらしい。
「うぐぐぐ……そして「先輩にもいつかきっと素敵な人が……」とか何とか気休めみたいな事を言うんだ!」
二人の目の前に転がってきた首は嘆く、声が近くてうるさい。
スイは小声で言う。
「これ、窓から投げ捨てたら駄目か……?」
「やめろ、後が怖い……あぁ、もう戻してやれよ酷いことに……」
「うぅぅぅ酒はぁ……酒はどこなんだぁ……」
首のない本体が顔のあったところに酒を注ごうとするものだから服にばちゃばちゃと溢れている。見るに見かねたノーケンが恐る恐る首を掴んで戻してやるとやっと口元に酒が届く。
「ごくごくごく……けふぅ、ぐす、だからぁ!一番努力しているはずの私がぁ!報われないのはぁ!労働と対価の法則にぃ……!」
「ああ……うん……」
「そうですね……はい……」
そろそろ日が登りきって窓の外から朝日が差し込む頃だ、二人はひたすらにこの時間が早く終わる事を祈った。
・
・
・
こうしてスイの復讐劇は始まらずしてグダグダのうちに幕を閉じたのだった。
朝の空気の中に風を切る音が鳴る、ノーケンが木剣での素振りを行なっているのだ。
既にかなりの回数をこなしているらしく、前髪から汗の珠が滴るほどだ。
それはいつもの訓練の素振りではなかった、ノーケンを動かしているのは不安だ、不安を紛らわせるために体を動かさずにはいられないのだ。
「ふう……ふう……」
いい加減腕力が限界を迎えたらしく、ノーケンは汗を拭いながら近くの切り株に腰を下ろした。
息を整えながら周囲の景色を見やる。
花壇で囲われた森の中の小さな一軒家。素振りをしていた場所は物置小屋や割られた薪が積まれているその家の小さな庭だ。
腰を下ろした切り株は薪を割るのに使われているものなのだろう。
「ふう……」
呼吸が整い、しばらく俯いてじっとしていたノーケンだがすぐに何かに耐えられなくなったように切り株から立ち上がってうろうろと庭の中を歩き回り始める。
「くそっ……」
唸るように呟いたその時だった。
「ノーケンさん、起きたよ!起きなすったよ!」
家の中から素朴な農夫姿の男が現れてノーケンに声をかけた。
「本当ですか!」
ノーケンは言うなり家に飛び込んだ。
・
・
・
魔界銀の剣で斬られたスイは最初は平気そうにしていた。
袈裟斬りにされた傷跡はしばらくの間奇妙な紫の光を放っていたがすぐに痕も残さずに消えた。
しかし「平気だ」と言って歩き始めて十分と経たずに意識が朦朧とし始め、やがてそのまま気を失って倒れてしまったのだ。
ノーケンはそのスイを背負って森の中を彷徨い、このぽつんと森の中に建つ一軒家に辿り着いて助けを求めたのだった。
その家に住んでいた若い夫婦は突然訪れたその物騒な訪問者を暖かく迎え入れ、寝床と食事を提供してくれた。
しかしその間もスイの意識は戻らずそのまま夜が明けてしまい、一晩気を揉み続けたノーケンの不安が払拭される報せは翌朝にようやく訪れたのだった。
・
・
・
「し、しかしその、ちょっと様子がおかしくって……」
「おかしい?」
戸惑う農夫を横目にノーケンはスイの寝かされていた部屋のドアに手をかける。
しかしノブが回らない。
「開けるな!」
中からスイの声が聞こえた。ノーケンは顔を顰める。
「どうした?」
「いいから開けるな!」
農夫とノーケンは顔を見合わせる。
「立て篭もってどうするんだ、見られると不都合な事でもあるのか?」
「……」
返事が無い。
「……すいません、ノーフィーさん……」
小声でノーケンは農夫のノーフィーに謝った後、再びドアに向けて声をかける。
「スイ、無理に出て来いとは言わん、好きなだけ篭っていい、ただ助けてもらった人に迷惑をかけてるって事だけは考えてくれ」
そう言ってノーケンは改めてノーフィーに頭を下げた、ノーフィーは無言で「構わないよ」というジェスチャーで応えた。
そうして二人共がドアの前を去ろうとした瞬間にガチャ、とドアが開いた。振り返るとスイが扉から出てきた所だった。
ノーケンはぎょっとした、スイの目が泣き腫らしたように充血していたからだ。
「スイ……?」
「……」
スイはふらりと歩き出すとノーフィーにほんの小さく頭を下げた。
「だ、大丈夫かい?」
ノーフィーの言葉には応えずに開いていたドアからふらふらと表に歩いて行ってしまう。
「おい?」
ノーケンは後を追って外に出た。
外に出たスイは庭に立って周囲を見回している。
「どうした一体」
相変わらず言葉には応えずスイは庭に落ちていた適当な長さの木切れを見つけて拾い、構える。
「……」
タンッ
踏み込んで突きを繰り出した。
「……?」
ノーケンはすぐに異変に気付いた、槍の先が走っていない、いつもの目にも止まらぬキレがない。
シュッ……シュッ……シュッ……
何度かその突きを見て原因に気付く、フォームが崩れて体の軸がぶれている、まるで自分の体を制御しきれていないような動きだ。
「……くしょぅ……」
スイは何かを口の中で呟いている。
「ちくしょう……ちくしょう……」
泣いていた、目から大粒の涙を零しながら何度もフォームの崩れた突きを繰り返す。
「くそおっ……くそおおおお……!」
「スイ……っとぉ!?」
ノーケンが肩に手をかけようとした瞬間、突然スイは振り向きざまに木切れを振り回した、ノーケンは慌ててよける。
「俺に触るなあ!」
泣きながらスイは叫んだ、槍を握る手が震えている。
「ふざけやがって畜生!殺してやる……!畜生、殺してやる……!」
「……」
ノーケンは無言でスイに歩み寄った。
「寄るんじゃねぇ!!」
スイは木切れを振り下ろした。
ガツッ!
予想外の重い手応えにスイはぎょっとした。
見切れない速度ではなかったはずだが、ノーケンは全く避けるそぶりを見せずに棒立ちで木切れを頭に受けた。
こめかみから一筋の血が流れる。
「あ、あ、あ……」
「気が済むまで殴って構わん、構わんから気が済んだらそれを地面に置いてくれるか?」
「ち、ち、違……俺……俺……ごめ……」
「もういいか?オーケー?よし、そいつを地面に置いてくれ」
スイは慌てて木切れを地面に置く。
「俺……俺……」
ノーケンはぽんぽんとスイの肩を叩いた。
「喉乾かないか?茶でもご馳走になろうぜ」
そう言ってそっと肩を組んで家に歩き出した。
と、ノーケンのこめかみにスイの手が伸びた、泣きながらごしごしと服の袖で血を拭い始める。
「っかやろぉ……目ん玉潰すところだったろが……」
「どうしたしおらしいな、いつもそうだったら助かるんだが」
「うるせぇよ……」
・
・
・
お茶を貰った後、二人は庭の切り株に並んで座っていた、日は真上に昇り、晴天の空に鳥の囀りが響く。昼寝でもしたくなるような環境だ。
しかし座る二人の表情は天候とは違って晴れやかではない。
「……お前との付き合いはそこそこになるけどよ……」
スイは俯きながら言う。
「ここらが潮時だろ」
「どういう意味だ?」
「わかるだろ……」
手を見つめる。
「俺はもうお前にメリットを返せねえ」
「……原因はわからんのか」
スイは自嘲気味な笑みを浮かべた。
「豚だよ」
「……何?」
「俺は豚になっちまった」
ノーケンは考える、スイがいつも「豚」と呼ぶのは……。
「おい、まさか」
「笑えるぜ」
視線を快晴の空に向けた、乾いた目だった。
「おまけにこんなもんまで生えてきやがる」
「……!?」
ぞろ、とスイの髪を掻き分けて捩くれた角が生えてきた、これには流石にノーケンも目を丸くする。
それだけではない、背後に何かが動く気配を感じて振り返ると、スイのズボンから尻尾が生えて揺れているのだった。
「魔物娘……」
男性と女性では体のバランスの取り方が違う、男は主に肩で、女は腰で取っている、その上人間にはないパーツも付いているとなるとそもそも人間とは重心が違うだろう。
たゆまぬ鍛錬によって作られたフォームの矯正は容易な事ではない。
「まあ……そういうこった」
スイは切り株から腰を上げてぽんぽんと尻を払う。
「これからどうする気だ?」
「お前に関係ない」
「いいや、あるね」
ノーケンも立ち上がった。スイは妙な顔になってノーケンを見る。
「どうあるんだよ」
「お前が心配だ」
「ぷっ……ははっ!」
思わずスイは吹き出す。
「勘弁しろよ、俺はお前の弟でも子供でもないぜ」
「そんな関連性が必要か?」
「……おい」
スイは突然ノーケンのむなぐらを掴んでぐい、と引き寄せて睨んだ。
「俺はな、何の見返りもなしに協力しようって奴は信用しねえ」
「メリットはある」
ノーケンは正面からスイの目を見返す。
「どんなだよ」
「お前は俺の命を救った」
自分の眉の上の傷跡を指差しながらノーケンは言う。以前、二人で夜襲から生き延びた時についた傷だ。
「ここでお前と別れるとする、鏡を見て自分の顔を見るたびにおそらく俺はお前を思い出すだろう、あいつはどうしてる?野垂れ死んだか?教団に捕まって処刑されちまったか?……思い出す度に陰鬱な気持ちになるだろう、そんなのは俺は御免だ」
「……そんなドジ踏むかよ」
「身を守る術も無いのにか?」
スイは歯噛みする。
「スイ、俺はお前が好きだ」
「!?!?」
スイはびっくりしてノーケンを突き飛ばす。
「たかが三年されど三年だ、もう情が移っちまってる」
「……あ、ああ、好きってそっちの意味か……」
「?」
「何でもねーよ!」
赤くなった顔をごしごし擦りながらスイは誤魔化すように声を荒げる。
「そんなフワフワした理由信用できるか!」
「スイ、お前は死にたいのか」
「死なねえよ!俺は死なねえ!絶対に生き延びてあの……あのデュ……デュら……?」
「デュラハン?」
「そうだ!あのクソビッチだ!俺をこんなにしやがったあいつをぶっ殺してやる!」
「だったら俺を利用しろ、利用して生き延びろ」
スイはつい今朝にノーケンがそこでそうしたように庭を落ち着きなくうろうろと歩き回った。
そうしてひとしきりうろついた後に立ち止まるとあの眉を寄せた困り顔でノーケンを見た。
「馬鹿だよお前は」
「そうだな」
じっと二人は佇んで見つめ合った。
やがてスイは蚊の鳴くような小さな声で言った。
「……ありがとう」
「いいって」
・
・
・
「……おや」
庭の二人の様子を見に来たノーフィーだったが、そこに二人の姿は既に無かった。ただ切り株の上に結構な枚数の銀貨と礼の言葉をしたためた書置きが置いてあった。
「行ってしまわれたのですか?」
「そのようですな」
ノーフィーが振り返ると妻が庭先に出てきていた、二人がいる時には人間の姿になっていたが今は本来の姿……新緑の髪に体の各所に植物が絡むドリアードの姿に戻っている。
「それにしても、お前さんに似た髪の色のあの方は……」
「そうですね、魔物となっておりました」
ノーフィーは取り乱したスイの様子を思い出す。
「うまく新しい生き方に馴染んでくれるといいんだが……」
「ふふ、きっと大丈夫ですよ」
妻は微笑を浮かべた。
「想い人が傍にいる限り、魔物が道を踏み外す事はありません」
「想い人というのはやはり……」
「もう一人のお方ですね、どうやら魔物となる以前からお二方は……」
「はっはぁ……」
ノーフィーは腕組みをして空を見上げた。
「……愛というのは……色々あるもんなんだのう……」
・
・
・
「懐に潜り込む」
「懐?」
保存食での簡素な食事を終えた二人は森の中で焚き火を囲んでいる。
「親魔物領に入る」
「……正気かよ」
獣避けの香木を火に放りこみながらノーケンは続ける。
「どちらかと言うと魔物の身で反魔物領に身を置く事のほうが正気じゃない」
「そりゃあ……そうだけどよ……」
成り立てでも角や尻尾を隠して人間を装う事は出来る、しかしやはり慣れていないとふとした拍子にすぐ出てしまう。
反魔物領ではそれが誰の目に止まるかもわからないし、正体がバレたなら即刻身に危険が迫る事になる。
「それに、お前の捜すあのデュラハンの情報も親魔物領の方が明らかに調べやすい」
「……」
「双剣の使い手なんてのは魔物であってもそうは多くないはずだ、それが手掛かりになる」
「でも、よぅ……」
「でも、も何もない、お前がいくら魔物嫌いであってもそれ以外選択肢はない」
「……お前は?」
「うん?」
「俺はいいよ……もう魔物になってるから怪しまれねえし、でも、お前は人間だろう?」
「魔物ってのは人間の男を婿に取る」
「……まさか」
スイはノーケンをまじまじと見る、ノーケンは火を見つめる。
「俺が……って事でいいだろう」
「だ……だけど、よ」
「嫌か」
「嫌じゃねぇよ!」
スイの急な大声に周囲から鳥が飛び立つ。
「大声を出すな……獣が寄ってくるぞ」
「わ、悪い」
しばし、妙な沈黙が二人の間に流れた。
「……森を出て……南東だな、新魔物領の街がある、まだ成り立てだが」
「……ああ」
「スイ」
「何だ」
「無茶はするなよ」
「急に何だよ」
「お前は自分の腕に頼り過ぎていた所がある、今はその腕はない、忘れるなよ」
スイは舌打ちを打つ。
「言い辛い事はっきり言いやがって……」
「はっきり言っておかないと何するかわからないからなお前は」
「ハイハイ」
不貞腐れたようにスイは横になってしまう。
ノーケンはもう一言かけようとしたが、これ以上言っても機嫌を損ねるだけだと判断して黙って焚き火の番をした。
・
・
・
「……」
数時間後、番を交代したスイは揺れる火の灯りに照らされるノーケンの寝姿をじっと見ていた。
「……」
すっ、と四つん這いになると獣のように音を立てずに近付いた。寝ている間でも物音に敏感なノーケンも気付かない。
槍の腕は鈍っても基本的な身のこなしは衰えていない。
「……」
スイはノーケンの肩ごしに顔を覗き込む、しゃらら、と長い髪がノーケンを撫でる。
「んん……」
「!!」
と、ノーケンが寝返りを打った、スイは驚くほど素早い動きでサッと離れる。
ごそごそと動いてノーケンはまた動きを止める。
「……」
「すー……すー……」
しばらく離れて様子を見ていたスイはまたそろそろと近付く。警戒心の強い動物のようだ。
今度は背中ではなく正面をこちらに向けているので顔がよく見える。その顔をじっとスイは覗き込む。
焚き火の灯りを反射して大きく見開かれた目が光る、目が濡れているのがわかる。
その濡れた目でノーケンの顔を凝視しながらスイは膨らみ始めている自分の胸を服の上からゆっくりとさすり始める。
「……っ……ふっ……ふ……」
息を殺しながらひたすらにすりすりと胸をさする、徐々に顔の距離も近付いていく。
やがてスイの手は胸元に差し込まれ、直に胸を弄りはじめた。
「……っっ……」
ぎゅっと下唇を噛んで声を抑えながら下半身をもじつかせ、スイは自分の拙い愛撫に身悶える、視線だけはノーケンから離さない。
くり……くり……くり……
男の時にはしたこともなかった乳首への愛撫、未経験の刺激がスイを襲う。
些細な指の動きに反応してびく、びく、と体が震え、その度にサラサラと髪が揺れてノーケンを撫でる。
「……ンっ……ーーー……」
声にならない声が上がり、スイは目をきつく閉じて全身を揺さぶる初めての穏やかな波に耐えた。本当の絶頂には程遠い緩い波はすぐに引いていった。
「……はっ……」
目を明けて再び潤んだ目でノーケンの顔を見る、今までにないくらいに目尻が下がってこの上なく切なそうな表情になっている。
と、そこで無意識に下半身に向かいそうになっていた手がぎゅ、と握り締められて動きを止める。
はあはあと息を荒げながらそろそろとノーケンの元を離れ、自分の元のポジションに戻る。
「ちっくしょ……」
座り直したスイは顔を覆って呟き、早く夜が明ける事だけを祈った。
・
・
・
大きな街だった、いや、都市と言って差し支えない。
道は舗装され、整備されてゴミ一つ落ちていない。見上げるように大きな建築物というのも反魔物領では見かけないものだ。
そして何より違うのが人々の活気。物売りの店が数多くあり、道で遊ぶ子供達も沢山見かける。街中で見かける魔物達も人間と変わらずに過ごしている。
「いい所だな」
「けっ」
二人は目抜き通りの人の流れに混じって歩きながら話す。
スイは面白くなさそうな顔をしている。
今まで魔物との接点といえば戦場で出会う事厄介な敵としてが殆どだった、それでなくともただでさえ女である魔物はスイの嫌悪の対象だ。
だが目にする街並みは明らかに今まで見た教団領内のどんな場所よりも豊かで恵まれているように見える。その事実がどうにも認め難い。
「何してこんなに稼いでやがんだよこの街は……」
「確か農産物で有名な所だな」
「……農産物ぅ?」
「村で作られてるようなもんじゃなくて、高級な物を作ってるそうだ」
「……理解できねー」
「ひょっとしたらここに手掛かりがあるかもな」
「手掛かり?何の?」
ノーケンはスイを見る。
「俺達が遭遇した行軍……お前を斬ったデュラハンの所属していた軍隊は多分、このルートを通った」
「……ってことは」
「ここに補給に立ち寄った可能性もあるって事だ」
スイの表情が険しくなる。
「ま、かもしれない、ってぐらいの可能性だけどな……あそこら辺でいいか……」
ノーケンが目を付けたのは街の酒場だった。情報を得たいならとりあえずは酒のあるところにいけばいい。
「はい、いらっしゃーい♪」
扉を潜った二人を小柄な少女の給仕が迎えた。尖った耳と角を備えたゴブリンだ。
「ああ、」
「……」
自然に対応するノーケンと対照的にスイは微かに身を固くする。やはり魔物を相手にすると無意識に構えてしまう。
ノーケンがそんなスイの肩をぽん、と叩いて言外に「落ち着け」と伝えてから男性客の集まっているテーブルに向かう。
スイは一息ついてカウンターに向かった。ノーケンの情報収集の手腕は非常に優れている、スイが一緒にいるとむしろ邪魔になるのでその時にはこうして分かれるのだ。
「何にするね」
カウンターのマスターは男だったのでスイは少し安心する。
「……ワイン」
「赤かい?白かい?」
「どっちでもいい、適当に合うつまみも」
「はいよ」
酒を受け取りながら横目で見るとノーケンは既に男達の輪に加わってトランプを手にしていた。本当にああいったコミニュケーション能力というのは真似できない。
・
・
・
「見ない顔だね、旅の人かい」
「まあ、そんなところだ」
手札に目をやりながらノーケンは向かいの初老の男性と会話する。
「いい所だろう?」
横の若い男が言う。
「実にね、農産物が有名だって聞いてたからもっと畑ばかりかと思ってたよ」
へへへ、と男が低い声で笑う。
「そこらの農産物と違うからな、お偉方がわざわざ足を運んで来たりするんだ」
「そりゃすごい……あー、くそっ」
引いた札を見てノーケンは顔をしかめる。
「それにしても……立地が怖いねここは」
「立地?」
「ほら、距離は遠いけどお偉い教団サマの都市の真ん前じゃないか、ちょっかいとか出されたりしないのかい」
トランプを囲む男達は小さく笑った。
「名産品の話は聞いててもこの街の「精霊使い」の噂は知らないのかい」
「精霊使い?」
「そうとも、この街は精霊使い達が護る街って事でも有名なんだぜ」
「それは初耳だ、その精霊使いの部隊っていうのはそんなに強いのかい」
「部隊じゃないんだなこれが」
隣の男は何やら自慢げに語る。
「精霊使いは四人いるんだ、その四人だけで街を守ってるんだ」
「ほう……」
この男のみならずその事が街の人々の自慢なのだろう、男の様子を見ていてもわかる。
「水のイェンダ、土のコルホズ、火のイオ、風のヴィスケットだ、教団兵如きではどうにもならんよ」
「そんなに腕が立つのかい」
「立つなんてもんじゃねぇよ、本気を出しゃ天変地異が起こるんだぜ」
「なるほど……大魔法使いみたいなもんか」
「いやいやいや、違う、違うんだよ兄ちゃん」
もはや男はカードそっちのけでノーケンの肩をばしばしと叩いてくる。
「精霊に加えて戦士としても超一流なんだなこれが、あれだ、前見た親善試合なんかそりゃもう度肝抜かれたね」
「そうそう、ありゃ凄かった」
「親善試合?」
特に必要のない情報であっても切り捨てずに相手の話に乗るのがうまく会話を転がすコツだ、ノーケンは興味を引かれたふうに聞く。
「この街には今魔王軍が駐屯しててな、そこの腕利き達とちょいと座興で試合をやったんだ」
「へえ」
ノーケンは内心大きく反応するが、それは態度には出さない。
「どんな試合だったんだい」
「同じ獲物持ちってんで魔王軍の双剣使いと火の双剣使いのイオが一試合やったのさ」
どん、ぴしゃりだ
「見ていて鳥肌が立ったぜ、凄まじくってそれでうっとりするほど綺麗なんだ、ああいうのを剣の舞っていうのかねぇ……勿論、イオが圧倒したんだけどな」
「そんだけ強いっていうとやっぱり」
少し性急だが探りを入れる。
「強い種族なんだろうな、リザードマンとかデュラハンとかかい?」
「いや、サラマンダーさ、いかにも火の精霊使いだろう?」
「魔王軍の方はどんな奴だったんだい」
「デュラハンだったね、イオには敵わなかったけど選抜されるだけあってやっぱり並大抵じゃなかったぜ……食いつくねえ、ひょっとして腕に覚えがあるのかい」
「ちょいとな、強い奴には興味が沸く性分でね、今も街にいるのかい」
「いるんじゃねえかな、どこかは詳しく知らねえけど……おいおい、変な考え起こすんじゃねえぞ?」
「ははっ、俺は勇者様じゃないから変な気を起こした所でどうにもならんよ」
と、ノーケンは後ろを振り返ってカウンターのスイに目をやった。
「いかん、嫁が拗ねる」
そう言うと自分の負け分を支払って席を立った。
「ひゅー」
「大事にしなよー」
後ろからはやされながらカウンターのスイの元に戻る。
スイはワイングラスをゆらゆら揺らしながら頬杖を付いている。
(……様になるな……)
妙な事を思いながら隣に腰を下ろした。
「いい情報だ」
「何だ?」
「どうやらこの街にいるぞ、お前を斬った奴」
ピキッ
不吉な音に目をやるとスイの手の中のグラスにヒビが入っていた。
「……ああ、悪い」
そう言って中を飲み干すとそのグラスと多めの銅貨をカウンターに返す。
「おい、スイ」
「わかってるよ、無理はしねえよ」
「そういう時のお前は信用できん」
「……」
スイは皿のジャーキーを拾い上げてがじがじと噛む。
「実力差を測れねえほど馬鹿じゃねえよ、普通の時に二人がかりで負けてんだ」
くちゃくちゃと肉を咀嚼する。
「落ち着いてる、俺は落ち着いてるよ……」
と、ノーケンの腕がスイの肩に回されて強く引き寄せた。
「わかった落ち着かなくていい、ただ行く時は必ず声をかけてくれ、一人で先走るな」
「……」
「手を考えるんだ、やり方を考えて……」
「なあ、何で?」
気づくとスイがこっちを見ていた、とても大きく目を見開いている。
「本当に何でだよ、何でそこまでするんだよ、俺に」
「それは前に説明しただろ……借りがある」
「それだけかよ本当に」
「性分だ」
「……」
二人は席を立った。
・
・
・
おいで
老婆に手を引かれてスイは夜の廊下を歩いている。
見上げるように大きな窓からはカーテンの模様を透かして月明かりが差し込んでいる。
その明かりに照らされるスイは薄いケープのような服を纏っている、体を覆い隠す役割を放棄したそれはスイの幼い裸体を月明かりの中に浮かび上がらせている。
スイはその服を着るのは嫌だった、だけど逆らう事は許されない。
じっと羞恥に耐えるスイをその老婆は心底嬉しそうに見る、スイは悪魔がいるならきっとこんな顔で笑うだろうといつも思う。
やがてスイは小さな舞台の上に立たされている事に気付く、背後にステンドグラスが貼られていて、それを透かした月光が壇上のスイの姿を後ろから照らしている。
スイの目の前には闇が広がっている、その闇の中に光る沢山の二対の光、席に座った着飾った女達。
皆が悪魔の笑顔をしている。
その中に先程スイの手を引いていた老婆もいる、その老婆は悪魔の顔で言う。
さあ、スイ、踊っておくれ
スイは言葉に従って教え込まされた舞を舞い始める、誘うような扇情的な踊りだ。
女達の視線が全身に絡み付く、女達の悪魔の笑みが深まっていく。
踊り終えるとスイは壇上から降りてその視線の前に跪く。
女達は立ち上がってスイを取り囲んでいく。悪魔の笑顔に取り囲まれる。
スイの体に手が伸びる。
枯枝のように細くてしわくちゃな手、パンパンに膨れ上がった肥えた手、異様に爪の長い手。
どの手にも大きな宝石の付いた指輪やブレスレットがはめられている。
その手を見て幼いスイはいつも思う。
この人達はこんなに恵まれているのにどうしてまだ欲しがるのだろう。
やがてその手がスイの体のあらゆる箇所に触れる、その時にはスイは既に心を放棄して何も感じないようにしている。
老婆が笑う、あの老婆がスイの目の前で頬に手を添えて笑う。
スイ、お前の肌は本当に白くてすべすべしているわ
「……」
スイは目を覚ました。
顔は紙のように白く、全身が震えている。見回してここが宿の一室である事を思い出す。
横のベッドにはノーケンが横たわって寝息を立てている。
このノーケンが昼のうちに駆け回って情報を集めてくれたお陰でスイを斬ったデュラハンの居場所は割れた。
どうするかはまた次の日に決めるという事で二人共今日の所は宿を借りて寝たのだった。
ふらり、とスイはベッドから身を起こし、暗い目で壁に立て掛けてある自分の新しい槍を見た。
・
・
・
夜の闇の中、スイは建物を見上げていた。
駐屯する魔王軍のために建てられた仮の兵舎だ、情報によるとあのデュラハンもこの兵舎に寝泊りしているらしい。割り振られた部屋もわかっている。
スイの背には槍が背負われている、人目につかないよう黒い袋に収まっている。
「……」
スイは兵舎を見上げたまま動かない。
(何でだ……?)
自問自答していた。
長いこと見ていなかった忌まわしい夢を再び見た時の衝動に任せてここまで来た、それなのに憎い敵の元にやってきても復讐心が沸いてこないのだ。
月を見上げた。
あの思い出したくない記憶を彩っていた月。
だけどノーケンとの不思議と心安らぐ日々もその月は照らしていたのだ。
「……下らねえ」
唐突にわかった。
歯車が噛み合うように自分の心理を客観的に理解した。
復讐とは非合理的な行為だ、達成した所で何も返ってはこない。
それをわかった上で行うのは理屈を超越した怒りがあるからだ、納得できないという思いがあるからだ。
自分にそれは無い。
結局、あの時斬られたのはあのデュラハンが強かったからであり、自分が弱かったからだ。戦場では当たり前の事だ。
斬られた結果どうなろうと悪いのは弱い自分なのだ。
では何故自分はありもしない復讐心を持とうとしたのか?
それもわかった。
自分は怖かったのだ、変わり果ててしまった自分の現状と向き合うのが怖くて目を逸らしたかったのだ。
だから斬られた相手への怒りで誤魔化そうとした。
そんな誤魔化しの復讐心に振り回されるノーケンの事を思うと自分がひどくみっともなく思えた。
(……帰るか)
帰って寝て、次の日にはノーケンにこの茶番は終わりだと伝えよう、そう思った。
「……!」
スイは踵を返してすぐに立ち止まった。前方の夜道を誰かが歩いてくる。
もしや自分が居なくなった事に気付いたノーケンが追って来たかと思ったが、どうもその人影は長い髪を有している。
「……っち」
スイは舌打ちを打った、あのデュラハンだ。見間違えようもない。
遅くまで訓練をした帰りなのか、長い髪を後ろに纏めて軽い服装をしている。
復讐するとしたら絶好の機会だったが、スイにもうその気はない。
俯いて歩いてすれ違おうとする。
「……」
「……」
「……」
「……」
「おや?君は……」
「……話しかけるんじゃねぇよ」
声をかけてきたデュラハンにスイは剣呑に返す。
復讐心が無いとは言え自分を斬った相手だ、いい気はしない。
「戦場でやられた事を今更どうこう言わねえ、お前も俺に用は無いだろう」
「……うむ」
そう言ってスイは歩いて行く。
「……ちょっと、待ちたまえ」
その背にデュラハンがまた声をかけた。スイは振り返る。
「何だよ」
「お茶でもいかがかな」
「はぁ?」
・
・
・
兵舎の中は意外と小奇麗だった、清潔なベッドに私物入れに簡易の台所まである、こんな所まで教団領とは雲泥の差だ。
(……俺は何をやってるんだ……)
その兵舎の中で来客用の椅子に座ったスイは頭を抱える。
結局あの後デュラハンに説き伏せられて自分はここに招き入れられたのだ、そのデュラハンは今台所でお茶を入れている。
「どうぞ」
「……どーも」
ぱっと見、ミルクにコーヒーを混ぜたような色の飲み物が出てきた、甘い湯気が立っている。
「煮出し茶だ、口に合うといいが……」
一口啜ってみると甘くてうまい、思わず和む。
「ふぅ……」
(いやいや、和んでどうする)
表情を引き締めてデュラハンを見ると相手もこっちをじっと見ていた。
「君のプライドを傷付けるかもしれないが……少し、君が心配になったんだ」
「あーあー、そうだな傷付くよ、斬られた相手に怪我の心配までしてもらっちゃな」
「いや、怪我はしていないはずだが……怪我をしたのか?」
スイはじろ、と上目遣いに相手を見る。
「強いて言うなら俺の大事な大事なものが削げ落ちちまったな」
「う、うむ」
言った後にスイはがしがしと頭を掻いた。
「勘弁してくれよ、負け犬の遠吠えを聞きたくて連れ込んだのか?」
「いや、すまない、その……」
どうも口下手らしいデュラハンは何度か咳払いをした。
「ええと……私の名はディム・ディンという、君の名は?」
「……スイだ」
「そうか……スイ君、君がそうなった道理はわかっているかい?」
「お前に斬られたからだろ、その……魔界銀?とかいうので出来た剣で……」
スイは部屋の壁に掛けてある剣を忌々しそうに見る。
「いや、確かにその体の異変は私が斬ったからだ、しかし本来は男が斬られても魔物娘に変化する事はない」
「……俺は何でこうなったんだよ」
「いいかい、落ち着いて聞いて欲しい」
ディムは一呼吸置く。
「もったいぶんじゃねぇよ」
スイは身を乗り出す。
「あの時、一人の相方がいたね?」
ノーケンの事だ。
「だから何だよ」
「君はその男の事が好きかい?」
スイの目が泳いだ。
「好き……って……」
「もっと直接的に言おう、性的な意味で好きかい?」
ディムの予想した反応は二通りだ。
そんなわけあるか!と怒り出す。
実は……と認める。
「そそそそそそそんなわけあるか俺は、いや、嫌いじゃねぇけどそういうんじゃ、あの、違うんだよ、違わねえけど、その、別にそういうのんじゃ……」
スイの反応は表面上は前者だったが、内容は後者のようなものだった。
「わかったわかった、大いにわかった、わかったから落ち着け」
「わかるなよ!」
スイはテーブルに突っ伏して頭を抱える。
そんなスイにディムは諭すように言う。
「……男性が魔物化する条件は二つ、その男に女性化願望がある場合、そして同性に好意を抱いている場合だ……」
スイは伏せていた顔を上げてじろりとディムをに睨む。
もっとも殺気走った目ではなくどちらかと言うと拗ねた子供のような表情だが。
「余計なお世話だよ馬鹿!……いや、結局斬られた俺が悪いんだけどさあ!」
「お節介は承知だが、やはり気になってな、君は一見して素直でなさそうだから……」
「ひょっとして喧嘩売ってるのか」
「い、いやいやいや」
ディムは慌てて手をぱたぱたさせる。
どうにも調子が狂う、戦場で相対した時とイメージが違いすぎる。
こっちが怒ると萎縮するので逆に言いづらい。
「その……す、好きな相手には逆に言えない悩みとかもあるだろう?君は友達もいなさそうだし……あ、や、わ、悪い意味ではなくてその」
おまけに余計な一言が多い。
スイはぐったりとなった、いちいち怒っていてはキリがない。
「余計なんだよ……くそっ、女に……女なんかに……」
「君は女性が嫌いなのかい」
「嫌いだ」
「どうして?」
スイはカップのお茶をぐいっと飲み干すと冷たい表情になる。
「言いたくない、お前に関係ない」
「……そうか」
部屋を沈黙が包む、スイは空になったカップをじっと見下ろしている、ディムはそのスイをじっと見ている。
「……お前ら魔物はさ、男を攫って婿にするんだろ?」
「まあ、そうだ」
「どんな扱いをするんだ?」
「大事にする」
「へっ」
スイは鼻で笑った。
「大事な愛玩動物って訳か」
「そういう意味ではない」
初めてディムが強い口調になった。スイが見るとディムはまっすぐな目でこっちを見ていた。
「私はまだ一人身だから、身の回りの友人達の様子からしか知らないが……彼女達は夫を本当に……本当に……」
ディムは言葉を探すように一度黙って視線を彷徨わせる。
「……本当に……死んでしまいそうに大切に思っているんだ……いや……ああ、うまく言えない」
自分の言葉の不自由さを嘆くようにディムは首を振り、スイを見た。
「でも、君もきっとわかる、君も魔物になったんだから」
「……」
スイはテーブルに肘を着いて手を組み、額に当ててじっと考え込んでいた。
「……俺の知ってる「女」って生き物は化け物だ」
ぎり、とスイの歯が鳴る。
「豚の化け物だよ、食っても食っても飽き足らず、ぶくぶくに太ってもまだ食いたがる」
「……」
「俺は」
スイは手を組み替える。
「俺は心まで化け物になりたくない」
「……」
「怖いんだ、俺は、俺は、あいつの事好きだよ、でも、心が豚の化け物になったらあいつの事もただの食い物にしか見えなくなるんじゃないかって」
「……」
「わかってるよ、全部の女があんなのじゃないって、でも俺はあいつらが忘れられない、あいつらのした事も……」
「なあ、スイ」
「……何だ」
「魔物に……女になるという事は、自分が自分で無くなるという事ではない」
「?」
「いや、ええと、これは私の持論なんだが……どう説明しようかな……」
ディムはまた視線を彷徨わせて言葉を探す。
「ええと……「私は魔王軍に所属する騎士、デュラハンのディムだ」」
「……?お、おう」
「この……この私を表している文章だが、「ディムだ」の部分以外は別のものに変わるかもしれない、いや、これからも変わっていくだろう」
「……う……ん……?」
「例えば軍を退役してパン屋になったら「私はパン屋を営むデュラハンのディム」になる」
「うん」
「一度死んで蘇って「パン屋のゾンビのディム」になるかもしれない」
ディムは手元のカップを持ち上げる。
「今は紅茶党だが、この先コーヒーの方が好きになって「紅茶党のディム」から「コーヒー党のディム」になるかもしれない」
「……」
「「右利きのディム」から「左利きのディム」になるかもしれないし、「猫好きのディム」から「犬好きのディム」になるかもしれない、でも、だけどこの、私を表す文章からはこの……」
カップを置く。
「最後の「ディム」は無くならないんだ、前につく飾りの言葉はどんなに変化しても「何とかのディム」にしかなりようがないんだ、何がどうなっても私は「ディム」なんだ」
たどたどしい身振り手振りを加えてディムは懸命に言葉を紡ぐ。スイはそのディムを見て少し笑う。
「だから……」
「だから、俺はどうなっても「スイ」ってか……」
「うん!そう!そうなんだ、自分は変化はしても結局は自分以外にはならなくてその……わかってくれるか?」
「理論、強引すぎ」
「うぐっ」
「でもまあ……いい、かな……」
「えっ?」
「アンタみたいな変なのも魔物にいるってんなら……悪くない、と思えない事もないかな」
「そ、そうか?いやあ、照れるな」
(……褒めてはいないんだけどな……)
「君、酒はいけるクチかい?」
「うん?まあ、そこそこ……」
ディムは席を立つと傍の棚から一本のボトルと二つのグラスを持ち出してテーブルに置いた。
「おいおい……」
「いいじゃないか、付き合ってくれたまえ、ちょうど飲む相手を探していた所なんだ」
(……まあ……ちょっとくらいならいいか)
スイは断ろうと思ったが頑張って相談相手になってくれたこの魔物になら少しは付き合ってもいいか、という気になった。
ディムがボトルの栓を抜いた時に漂った豊潤な香りにも惹かれたのもある。
「何だ、随分いいのを持ってるんじゃん」
「鼻が利くじゃないか、これは「堕落の虜」というここらではちょっと手に入らない一品なんだ」
「ネーミングどうにかならねぇのかよ……」
言いながらも目の前の杯にとくとくと注がれる深紅の液体にスイは興味深げに見入る。
二人の杯を満たすとディムはグラスを持った、自然にスイも持った。
「よし、私に斬られて始まった君の新たな人生に乾杯」
「うるせえよ」
やっぱり一言多いディムの音頭で二人はチン、とグラスを合わせた。
・
・
・
(馬鹿野郎……あの馬鹿野郎……!)
うっすらと夜が明け始め、少しずつ空が朝焼けに染まり始める街道をノーケンは走っていた。
(あれだけ言ったのに……!くそっ!俺ももっと気を付けるべきだった……!)
目を覚ましたノーケンはスイがいない事に気付いた、ついでに槍もなくなっているのを見て瞬時に事情を察したノーケンは前日に調べたデュラハンの住所へと向かっているのだった。
(無事でいろよ……!)
スイが想定したように二人がかりでも敵わなかったあのデュラハンの腕は尋常ではない、まだ慣れていない体で挑むのは自殺行為以外の何者でもない。
(ここだ……!)
魔王軍駐屯地兵舎の前にノーケンはたどり着いた。
ひとまず人だかりなどは見当たらず、スイが騒動を起こした様子は無い。
(途中で思い止まったならいいんだが……)
姿を見ないうちはまだ安心できない。
ノーケンはあのデュラハンの住む部屋のドアの前に立った。
「……」
人のいる気配はする……どうやら寝ている様子でもない。何か聞こえる。
「……ぅっ……ぅぅ……ぅ……」
聞こえる、ドアを介してくぐもっているが、何か、泣き声のような……
(……スイ!)
不安に駆られたノーケンはノブに手をかける、意外な事に鍵はかかっておらず、抵抗なく回転した。
ノーケンは飛び込んだ。
「スイ!……えっ」
部屋の中の光景を見たノーケンは硬直する。
「う……うぅっ……うぇぇ……えっく、ひっく、だ、だからな……だから私はぁ……しょく、職務に、忠実にぃ……」
「ああ……うん……そうだな……うん……」
テーブルで向かい合って座っているスイとデュラハン。
それだけでも理解を超えているのだがさらにそのテーブルの上に空の酒瓶が複数転がり、デュラハンがぐでんぐでんになっているというのは一体どういう状況だろうか。
「……おう……ノーケン……」
スイがノーケンに気付いて振り返った、こちらは何というかげっそりとしている。心持ち頬がこけているようにさえ見える。
「スイ……ええと、お前……さ、先走るなって……言っただろ……」
何と言っていいかわからなかったノーケンはとりあえず顔を見たら言わなくてはいけないと思っていた事を言った。
「ああ……すまん……」
スイの方はもう何かを言い返す気力も無いといった様子だ。
「聞いてるのかぁ!スイ!」
「あー、聞いてる、聞いてるって……」
すぐに前のデュラハンに呼び戻された。
「あと、あなた!ドアの前のあなた!」
「えっ」
「あなたです!あーなーた!こっちきなしゃい!」
デュラハンはテーブルをバンバン叩きながら言う、ノーケンはどうしようもなかったので従った。
「座りなしゃい!」
「アッハイ」
椅子に座るとドンッと目の前にジョッキが置かれ、それにボトルの透明な液体がどくどく注がれる。
「飲みなしゃい!」
「……いただきます」
ノーケンはどうしようもなかったので従った。
「うわ、キツ……」
飲んで顔をしかめた、えらく度数の高い酒だ。
「じゃ、俺はこれで……」
「待て、待ちやがれ」
そそくさと席を立とうとするスイをノーケンは引っ張り戻す。
「俺をこの状況に置き去りにする気か、どうしてこんな状況になってんだ」
「いや、説明すると長くなるんだけどよ……」
「何を二人でぶつぶつとぉ……あー!わかった!愛を囁き合ってるんだな!?私に見せ付けようってんだなこんちくしょう!」
「イヤイヤイヤイヤ」
「イヤイヤイヤイヤ」
「わかってるんだ!部下が退役する前兆なんだ!そして引き継ぎもろくにしないうちにホイホイ辞めていくんだ……こっちの苦労も知らずにぃ……!」
ドンッとジョッキをテーブルに置くと同時にぽろっと首が落ちた。
「うおぉっ!?」
「……」
流石にノーケンは驚く。スイは無反応だ、何度も見ているらしい。
「うぐぐぐ……そして「先輩にもいつかきっと素敵な人が……」とか何とか気休めみたいな事を言うんだ!」
二人の目の前に転がってきた首は嘆く、声が近くてうるさい。
スイは小声で言う。
「これ、窓から投げ捨てたら駄目か……?」
「やめろ、後が怖い……あぁ、もう戻してやれよ酷いことに……」
「うぅぅぅ酒はぁ……酒はどこなんだぁ……」
首のない本体が顔のあったところに酒を注ごうとするものだから服にばちゃばちゃと溢れている。見るに見かねたノーケンが恐る恐る首を掴んで戻してやるとやっと口元に酒が届く。
「ごくごくごく……けふぅ、ぐす、だからぁ!一番努力しているはずの私がぁ!報われないのはぁ!労働と対価の法則にぃ……!」
「ああ……うん……」
「そうですね……はい……」
そろそろ日が登りきって窓の外から朝日が差し込む頃だ、二人はひたすらにこの時間が早く終わる事を祈った。
・
・
・
こうしてスイの復讐劇は始まらずしてグダグダのうちに幕を閉じたのだった。
14/09/21 00:23更新 / 雑兵
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