君がここにいる
月の綺麗な夜だった。
信夫は夜の山道を歩いている。
等間隔に配置された街灯はかなり古く、中にはチカチカと明滅を繰り返している物もある。
頼りない灯りと青白い月光が歩調に合わせて交互に信夫の姿を照らし出す。
片手にバッグを下げた信夫は足元を見つめながら黙々と歩む。
ふい、と信夫の目の前を小さな光がよぎる、そこで信夫は初めて顔を上げて前を見た。
廃墟があった。
元は工場だったらしいその建物は相当な年月が経過しているらしく、目張りされた窓やシャッターは剥がれたり崩れたりして外部の侵入を拒む役目を放棄している。
全体が森に侵食されており、壁には蔦が絡みつき、地面に草木が生えている。
その荒廃した黒々とした姿が夜闇の中で月明かりに照らされて佇んでいる。
それを見上げる信夫の目の前をまたすうっと光の点がよぎる。
蛍だ。
季節外れのそれを一瞬目で追うと信夫は廃工場を囲う柵を無造作にくぐり抜けた。
管理が放棄されたようなその柵もまた老朽化が進んでおり、容易に侵入することが出来る。
敷地内に足を踏み入れた信夫は続けて窓の目張りが剥がれている箇所を見付け、そこを乗り越えて工場内に入り込む。
工場の中は外よりもさらに濃い闇に支配されていた。
信夫はしばらく足を止め、じっと闇に目を凝らす。
そうすると外側と同じく荒れ果てた工場内の景観が窓からの月明かりに照らされる様子が徐々に目に入ってくる。
工場勤めをしている信夫の目には見慣れた機械が並んでいるが、暗い中で埃を被っているところを見るといつもとまるで違う印象を受ける。
信夫は近くにあったプレス機の作業台の上にバッグを置き、腰を下ろした。
「……」
信夫の立てる音が止むと廃工場内に静寂が戻る。
虫の鳴き声だけが外から微かに届く。
すうっと、また信夫の目の前を蛍が飛んだ。
よく見てみると工場内にも意外な程に沢山の光点が舞っている。
微かに明滅を繰り返しながら蛍達はもう動くことのない機械達の上を泳ぐ。
そんな中で信夫は携帯を取り出して開いた。
画面の灯りに照らされて信夫の石のような無表情が闇の中に浮かび上がる。
画面に表示された時刻は夜の10時50分。
信夫は続けてズボンのポケットから一枚の手紙を取り出し、携帯の灯りにかざして見る。
照らし出された紙面には綺麗な文字で今日の日付と11時という時刻、そして今信夫がいるこの廃工場の住所が記されている。
昨日、信夫のアパートの郵便受けにこれが投函されていたのだ。
信夫は何度も読み返したその文章を今一度確認するとまたポケットにしまい、携帯を閉じた。
灯りが消え、周囲はまた月光と蛍の光だけの世界に戻る。
手を組み、俯いて信夫は地面を見つめる。
馬鹿な話だった。
差出人もわからない、「ここに来い」とさえ表記されていない紙切れに馬鹿正直に従って信夫はこんな非常識な時間に非常識な場所を訪れているのだ。
普通ならただの悪戯か何かと断じるものだ。
しか、信夫はその紙切れをどうしても無視する事が出来なかった。
うまくは表現できない、表現できないがこの手紙にどうしようもなく「香苗らしさ」を感じてしまうのだ。
寄れる事もズレる事もないかっちりした筆跡、場所と日時だけの簡潔すぎる情報、そして「匂い」
それこそ馬鹿らしい話だがこの紙切れから香苗の残り香のような物を感じる気がするのだ。
―――来ると思っているのだろうか―――
信夫は自分に問う。
ここで待っていれば香苗に会えると自分は考えているのだろうか?
もう死んでこの世に居ない香苗が会いに来るとでも?
―――帰ろう―――
信夫は両手で顔を覆い、ごしごしと擦った。
―――時間の無駄だ―――
ずきずきと目の奥が痛む。
―――ここにいても香苗は来ない―――
腰を上げようとする。
しかしまた下ろす、まだ約束の時間になっていない。
まだあと五分ある。
五分待てば来るのか?
来ない、それはわかっている。
だが香苗は時間に几帳面だった、早すぎず遅すぎず時間ぴったりに必ず来た。
「早めに来る事前行動というのもあるがあれは私は好きではない、待ち合わせの時間指定の意味が無くなってしまう。トラブルを予測して早めに出るのはいいがそれを当然のように相手に対して要求するのも変な話だと思わないか」
声も言葉もそれを言った時の表情も脳裏に鮮明に蘇らせる事が出来る。
信夫は頭を膝の間に押し込むようにして身を縮める。
少し、少しだけ心を緩めてみようか。
少しだけ甘い幻想に身を委ねてしまおうか。
後五分で香苗が来る。
後五分で香苗に会える。
五分だけ、そんな風に想像してみようか。
縮こまった体の内側でそっと携帯を開く、表示されている時刻は10時58分。
後二分で香苗に会える、何を話そうか。
あの世はどうだった?元気にしてたか?閻魔はどんな顔をしていた?どうしてこんな場所を指定したんだ、来るのに苦労したじゃないか……。
時刻は10時59分。
もう一分しかない、困った、何も考えが纏まっていない、いや、あいつとの会話でそんなに気を遣う必要はないか、「お帰り」の一言だけで構わない。
お帰り、香苗。
その一言だけを伝えて……伝えて……伝えて……伝えて……伝えて……
時刻は11時00分。
どうした香苗、遅いじゃないか、遅刻なんてらしくない。
もう五秒は遅刻しているぞ、事前行動が嫌いだからといって遅刻はそれよりも嫌っていたじゃないか、ほら、もう10秒の遅刻だ。なあ、香苗。
ぼたっ
何だ、携帯に水滴が落ちたぞ、雨か、雨が降り出したのか。
それにしてはおかしいぞ、ここは工場内なのにどうして雨が届くんだ。
ぼたっ
そうか、雨漏りか、ぼろい工場だもんな。
ぼたぼたっ
いや、それもおかしい、こんな体勢なら雨漏りも俺の後頭部に落ちるはずだ、どうして携帯の画面に届くんだ。
ぼたっ……
おかしいじゃないか、なあ、香苗……。
ひび割れていた、ほんの少し緩めた心の隙間から零れだした激情は分厚く丈夫に作ったはずの信夫の仮面の隙間から次々と溢れ出て来た。
なあ、香苗
香苗
香苗
香苗
俺は……
俺は強くなんてないんだ
本当に、強くなんてないんだよ……
・
・
・
時間経過で携帯の灯りがふっ、と消える、周囲を包む静寂は変わらない。
信夫は迷子の子供のように膝を抱えてじっと動かない。
その信夫の髪をふわりと風が撫でた。
信夫は目元をこすって顔を上げた。
「……」
信夫は、その時目に映った光景が二つの意味でこの世のものだとは思えなかった。
理由の一つはその景色が余りに現実離れしていたからだ。
廃工場の壊れた機械の前に一人の白髪の女性が立っている。
その女性は白い病院着のようなものを着ており、そこから覗く首筋も手も胸元も髪や服と同じく真っ白。
周囲を浮遊する儚い光と灰色の寂れた背景の中にその白い姿が闇にぽっかりと浮かび上がっている。まるで大きな蛍のように。
美しく、どこか退廃的なその佇まいは幻のようだった。
「……」
信夫は大きく目を見開いてその女性に見入った。
その光景が信じられないもう一つの理由がその女性だった。
その人はこの世にいないはずの人なのだから。
「……」
「……」
長いような短いような沈黙が二人の間に流れた。
信夫は瞬きをしなかった、目を閉じてまた開いたらもうその人が消えてしまうと思ったからだ 、幻でも幻覚でも自分の正気が失われてしまったのだとしても、今、確かにそこに彼女はいるのだから。
真っ白な姿になった香苗はゆっくりと信夫の前に歩いて来た。裸足だ。
「香苗」
信夫は声をかける、香苗はそれには答えず歩き続け、信夫の目の前で立ち止まる。
近くで見ると髪が白くなった以外はやはりあの香苗だ。
「俺は駄目なんだ」
「知っているとも」
香苗が答えた、この世から失われたはずの香苗の声で。
そっと腰をかがめて信夫の頬を伝う涙をその白く、細い指で拭った。
冷たい指だった。
「君は私がいないと駄目な人だからな」
「そうだ」
その冷たい手を掴んで自分の頬に触れさせる。
「何も感じないようにしていたんだ」
香苗は限りなく優しい目で信夫の言葉に耳を傾ける。
「機械みたいになって、心を無くせば楽になれると思ったんだ」
「馬鹿だな」
「ああ、馬鹿だ、だけどそうしないと俺は息もできなくなりそうだったんだ、君の」
言葉の端が震え、拭った跡にまた涙が流れた。
「君のいない世界の空気は吸うのも苦しい、息をするのを止めてしまいたかった、だけどそれは絶対に駄目なんだ、君が必死に闘って欲しがっていた明日を俺が容易く投げ出す訳にはいかないじゃないか、う、ぐ」
決壊するように信夫の喉から嗚咽が漏れた。
それを隠すように信夫は顔を伏せる。
「君がいない明日に俺は進まくてはいけないんだ、これから先もずっと、死ぬまでずっと……」
「そうだな、本当はそれが自然な事だ」
「嫌だ」
信夫は香苗の冷たい手を両手で強く掴んで抱いた。
「そんなのは嫌だ、嫌なんだ……嫌なんだよ……香苗が居ないのは嫌なんだよ……行かないでくれよ、ここに居てくれよ、居てくれないなら俺を連れて行ってくれよ香苗」
「馬鹿」
「馬鹿だよ、馬鹿でも何でもいいから行かないでくれよ、香苗、香苗、頼むから、お願いだから、お願いです……お願いします……か……ら……」
「……」
・
・
・
ピシッ
「えっ」
香苗の病室にいたジュカは妙な音を聞いた、何かがひび割れるような音。
ミシ……ミシ……パキッ
音の発生源を探してきょろきょろしていたジュカはどうやらその音がベッドの下から聞こえる事に気付き、覗き込む。
「あっ」
経箱だった。
カタカタと震えるそれは内からの圧力に屈して壊れ始めているのだった。
「あ、わわ!」
ジュカは慌てて手を伸ばすがその手が届く前に経箱はぱかん、と音を立てて二つに割れてしまう。
箱の中からごう、と目に見えない何かが吹き出し、部屋の中に一陣の風が巻き起こった。
「……っっ!」
その風はジュカの髪を乱し、机の上の書類をばらばらと地面に払い落としてすぐに収まった。
「……」
静かになった部屋でジュカは改めて手を伸ばし、割れた箱を取り出した。
しげしげと観察すると、箱は内側からの強烈な圧力によって歪んでいるのが分かる。
「……あるんだ、こんなこと」
ジュカは呟いた。
・
・
・
こちん
信夫の額に固い感触とさらさらとした髪の感触が触れた。
香苗が信夫の額に自分の額を合わせたのだ。
「そんなに私の事が好きか?」
睫毛の長さまで確認できる近さに顔を寄せて香苗は言う。
「……ああ……」
信夫はそこで初めて正気にかえり始めた。
夢だと思っていた。もしくは本当に気が狂ってしまった自分が見ている幻覚なのだと思っていた。
しかしそれにしては目の前の女性の存在感はあまりに現実的で自分の意識は明瞭だ。
「そんなに私と一緒に居たいか?」
両頬に両手を添えながら香苗が言う。
改めて間近で見ると有り得ないくらいに綺麗だ、人の正気を失わせる美しさだ。
「君、は……」
「君、とは何だ他人行儀な」
きゅっと眉が寄せられて不機嫌そうになる。
やっぱり香苗だ。
「香苗なのか」
「それ以外の誰に見える」
「死んだんじゃないのか」
「生き返ったんだ」
信夫は唐突に香苗の肩を掴み、引き離した。
そうしてまじまじと香苗の顔を見つめる。
「照れるじゃないか」
信夫の視線がせわしなく動き、肩に置かれた手が震え始める。
「香苗なのか」
「さっきも聞いたし答えたぞ」
「死んだんじゃ……ないのか……」
香苗は少し笑った。
「生き返ったんだ」
「どうして?」
「君は私がいないと生きていけないだろう?」
「……ああ」
「だから生き返ったんだ」
「どうやって……?香苗、どうやって生き返ったんだ、どうしてここにいるんだ、香苗、本当に香苗なのか、香苗」
「落ち着け」
そう言って香苗はちゅ、と信夫にキスをした。
信夫はきょとんとした顔になる。
「順に説明するから落ち着いて聞くんだ」
香苗は信夫の髪を撫で付けながら諭すように言った。
信夫は夜の山道を歩いている。
等間隔に配置された街灯はかなり古く、中にはチカチカと明滅を繰り返している物もある。
頼りない灯りと青白い月光が歩調に合わせて交互に信夫の姿を照らし出す。
片手にバッグを下げた信夫は足元を見つめながら黙々と歩む。
ふい、と信夫の目の前を小さな光がよぎる、そこで信夫は初めて顔を上げて前を見た。
廃墟があった。
元は工場だったらしいその建物は相当な年月が経過しているらしく、目張りされた窓やシャッターは剥がれたり崩れたりして外部の侵入を拒む役目を放棄している。
全体が森に侵食されており、壁には蔦が絡みつき、地面に草木が生えている。
その荒廃した黒々とした姿が夜闇の中で月明かりに照らされて佇んでいる。
それを見上げる信夫の目の前をまたすうっと光の点がよぎる。
蛍だ。
季節外れのそれを一瞬目で追うと信夫は廃工場を囲う柵を無造作にくぐり抜けた。
管理が放棄されたようなその柵もまた老朽化が進んでおり、容易に侵入することが出来る。
敷地内に足を踏み入れた信夫は続けて窓の目張りが剥がれている箇所を見付け、そこを乗り越えて工場内に入り込む。
工場の中は外よりもさらに濃い闇に支配されていた。
信夫はしばらく足を止め、じっと闇に目を凝らす。
そうすると外側と同じく荒れ果てた工場内の景観が窓からの月明かりに照らされる様子が徐々に目に入ってくる。
工場勤めをしている信夫の目には見慣れた機械が並んでいるが、暗い中で埃を被っているところを見るといつもとまるで違う印象を受ける。
信夫は近くにあったプレス機の作業台の上にバッグを置き、腰を下ろした。
「……」
信夫の立てる音が止むと廃工場内に静寂が戻る。
虫の鳴き声だけが外から微かに届く。
すうっと、また信夫の目の前を蛍が飛んだ。
よく見てみると工場内にも意外な程に沢山の光点が舞っている。
微かに明滅を繰り返しながら蛍達はもう動くことのない機械達の上を泳ぐ。
そんな中で信夫は携帯を取り出して開いた。
画面の灯りに照らされて信夫の石のような無表情が闇の中に浮かび上がる。
画面に表示された時刻は夜の10時50分。
信夫は続けてズボンのポケットから一枚の手紙を取り出し、携帯の灯りにかざして見る。
照らし出された紙面には綺麗な文字で今日の日付と11時という時刻、そして今信夫がいるこの廃工場の住所が記されている。
昨日、信夫のアパートの郵便受けにこれが投函されていたのだ。
信夫は何度も読み返したその文章を今一度確認するとまたポケットにしまい、携帯を閉じた。
灯りが消え、周囲はまた月光と蛍の光だけの世界に戻る。
手を組み、俯いて信夫は地面を見つめる。
馬鹿な話だった。
差出人もわからない、「ここに来い」とさえ表記されていない紙切れに馬鹿正直に従って信夫はこんな非常識な時間に非常識な場所を訪れているのだ。
普通ならただの悪戯か何かと断じるものだ。
しか、信夫はその紙切れをどうしても無視する事が出来なかった。
うまくは表現できない、表現できないがこの手紙にどうしようもなく「香苗らしさ」を感じてしまうのだ。
寄れる事もズレる事もないかっちりした筆跡、場所と日時だけの簡潔すぎる情報、そして「匂い」
それこそ馬鹿らしい話だがこの紙切れから香苗の残り香のような物を感じる気がするのだ。
―――来ると思っているのだろうか―――
信夫は自分に問う。
ここで待っていれば香苗に会えると自分は考えているのだろうか?
もう死んでこの世に居ない香苗が会いに来るとでも?
―――帰ろう―――
信夫は両手で顔を覆い、ごしごしと擦った。
―――時間の無駄だ―――
ずきずきと目の奥が痛む。
―――ここにいても香苗は来ない―――
腰を上げようとする。
しかしまた下ろす、まだ約束の時間になっていない。
まだあと五分ある。
五分待てば来るのか?
来ない、それはわかっている。
だが香苗は時間に几帳面だった、早すぎず遅すぎず時間ぴったりに必ず来た。
「早めに来る事前行動というのもあるがあれは私は好きではない、待ち合わせの時間指定の意味が無くなってしまう。トラブルを予測して早めに出るのはいいがそれを当然のように相手に対して要求するのも変な話だと思わないか」
声も言葉もそれを言った時の表情も脳裏に鮮明に蘇らせる事が出来る。
信夫は頭を膝の間に押し込むようにして身を縮める。
少し、少しだけ心を緩めてみようか。
少しだけ甘い幻想に身を委ねてしまおうか。
後五分で香苗が来る。
後五分で香苗に会える。
五分だけ、そんな風に想像してみようか。
縮こまった体の内側でそっと携帯を開く、表示されている時刻は10時58分。
後二分で香苗に会える、何を話そうか。
あの世はどうだった?元気にしてたか?閻魔はどんな顔をしていた?どうしてこんな場所を指定したんだ、来るのに苦労したじゃないか……。
時刻は10時59分。
もう一分しかない、困った、何も考えが纏まっていない、いや、あいつとの会話でそんなに気を遣う必要はないか、「お帰り」の一言だけで構わない。
お帰り、香苗。
その一言だけを伝えて……伝えて……伝えて……伝えて……伝えて……
時刻は11時00分。
どうした香苗、遅いじゃないか、遅刻なんてらしくない。
もう五秒は遅刻しているぞ、事前行動が嫌いだからといって遅刻はそれよりも嫌っていたじゃないか、ほら、もう10秒の遅刻だ。なあ、香苗。
ぼたっ
何だ、携帯に水滴が落ちたぞ、雨か、雨が降り出したのか。
それにしてはおかしいぞ、ここは工場内なのにどうして雨が届くんだ。
ぼたっ
そうか、雨漏りか、ぼろい工場だもんな。
ぼたぼたっ
いや、それもおかしい、こんな体勢なら雨漏りも俺の後頭部に落ちるはずだ、どうして携帯の画面に届くんだ。
ぼたっ……
おかしいじゃないか、なあ、香苗……。
ひび割れていた、ほんの少し緩めた心の隙間から零れだした激情は分厚く丈夫に作ったはずの信夫の仮面の隙間から次々と溢れ出て来た。
なあ、香苗
香苗
香苗
香苗
俺は……
俺は強くなんてないんだ
本当に、強くなんてないんだよ……
・
・
・
時間経過で携帯の灯りがふっ、と消える、周囲を包む静寂は変わらない。
信夫は迷子の子供のように膝を抱えてじっと動かない。
その信夫の髪をふわりと風が撫でた。
信夫は目元をこすって顔を上げた。
「……」
信夫は、その時目に映った光景が二つの意味でこの世のものだとは思えなかった。
理由の一つはその景色が余りに現実離れしていたからだ。
廃工場の壊れた機械の前に一人の白髪の女性が立っている。
その女性は白い病院着のようなものを着ており、そこから覗く首筋も手も胸元も髪や服と同じく真っ白。
周囲を浮遊する儚い光と灰色の寂れた背景の中にその白い姿が闇にぽっかりと浮かび上がっている。まるで大きな蛍のように。
美しく、どこか退廃的なその佇まいは幻のようだった。
「……」
信夫は大きく目を見開いてその女性に見入った。
その光景が信じられないもう一つの理由がその女性だった。
その人はこの世にいないはずの人なのだから。
「……」
「……」
長いような短いような沈黙が二人の間に流れた。
信夫は瞬きをしなかった、目を閉じてまた開いたらもうその人が消えてしまうと思ったからだ 、幻でも幻覚でも自分の正気が失われてしまったのだとしても、今、確かにそこに彼女はいるのだから。
真っ白な姿になった香苗はゆっくりと信夫の前に歩いて来た。裸足だ。
「香苗」
信夫は声をかける、香苗はそれには答えず歩き続け、信夫の目の前で立ち止まる。
近くで見ると髪が白くなった以外はやはりあの香苗だ。
「俺は駄目なんだ」
「知っているとも」
香苗が答えた、この世から失われたはずの香苗の声で。
そっと腰をかがめて信夫の頬を伝う涙をその白く、細い指で拭った。
冷たい指だった。
「君は私がいないと駄目な人だからな」
「そうだ」
その冷たい手を掴んで自分の頬に触れさせる。
「何も感じないようにしていたんだ」
香苗は限りなく優しい目で信夫の言葉に耳を傾ける。
「機械みたいになって、心を無くせば楽になれると思ったんだ」
「馬鹿だな」
「ああ、馬鹿だ、だけどそうしないと俺は息もできなくなりそうだったんだ、君の」
言葉の端が震え、拭った跡にまた涙が流れた。
「君のいない世界の空気は吸うのも苦しい、息をするのを止めてしまいたかった、だけどそれは絶対に駄目なんだ、君が必死に闘って欲しがっていた明日を俺が容易く投げ出す訳にはいかないじゃないか、う、ぐ」
決壊するように信夫の喉から嗚咽が漏れた。
それを隠すように信夫は顔を伏せる。
「君がいない明日に俺は進まくてはいけないんだ、これから先もずっと、死ぬまでずっと……」
「そうだな、本当はそれが自然な事だ」
「嫌だ」
信夫は香苗の冷たい手を両手で強く掴んで抱いた。
「そんなのは嫌だ、嫌なんだ……嫌なんだよ……香苗が居ないのは嫌なんだよ……行かないでくれよ、ここに居てくれよ、居てくれないなら俺を連れて行ってくれよ香苗」
「馬鹿」
「馬鹿だよ、馬鹿でも何でもいいから行かないでくれよ、香苗、香苗、頼むから、お願いだから、お願いです……お願いします……か……ら……」
「……」
・
・
・
ピシッ
「えっ」
香苗の病室にいたジュカは妙な音を聞いた、何かがひび割れるような音。
ミシ……ミシ……パキッ
音の発生源を探してきょろきょろしていたジュカはどうやらその音がベッドの下から聞こえる事に気付き、覗き込む。
「あっ」
経箱だった。
カタカタと震えるそれは内からの圧力に屈して壊れ始めているのだった。
「あ、わわ!」
ジュカは慌てて手を伸ばすがその手が届く前に経箱はぱかん、と音を立てて二つに割れてしまう。
箱の中からごう、と目に見えない何かが吹き出し、部屋の中に一陣の風が巻き起こった。
「……っっ!」
その風はジュカの髪を乱し、机の上の書類をばらばらと地面に払い落としてすぐに収まった。
「……」
静かになった部屋でジュカは改めて手を伸ばし、割れた箱を取り出した。
しげしげと観察すると、箱は内側からの強烈な圧力によって歪んでいるのが分かる。
「……あるんだ、こんなこと」
ジュカは呟いた。
・
・
・
こちん
信夫の額に固い感触とさらさらとした髪の感触が触れた。
香苗が信夫の額に自分の額を合わせたのだ。
「そんなに私の事が好きか?」
睫毛の長さまで確認できる近さに顔を寄せて香苗は言う。
「……ああ……」
信夫はそこで初めて正気にかえり始めた。
夢だと思っていた。もしくは本当に気が狂ってしまった自分が見ている幻覚なのだと思っていた。
しかしそれにしては目の前の女性の存在感はあまりに現実的で自分の意識は明瞭だ。
「そんなに私と一緒に居たいか?」
両頬に両手を添えながら香苗が言う。
改めて間近で見ると有り得ないくらいに綺麗だ、人の正気を失わせる美しさだ。
「君、は……」
「君、とは何だ他人行儀な」
きゅっと眉が寄せられて不機嫌そうになる。
やっぱり香苗だ。
「香苗なのか」
「それ以外の誰に見える」
「死んだんじゃないのか」
「生き返ったんだ」
信夫は唐突に香苗の肩を掴み、引き離した。
そうしてまじまじと香苗の顔を見つめる。
「照れるじゃないか」
信夫の視線がせわしなく動き、肩に置かれた手が震え始める。
「香苗なのか」
「さっきも聞いたし答えたぞ」
「死んだんじゃ……ないのか……」
香苗は少し笑った。
「生き返ったんだ」
「どうして?」
「君は私がいないと生きていけないだろう?」
「……ああ」
「だから生き返ったんだ」
「どうやって……?香苗、どうやって生き返ったんだ、どうしてここにいるんだ、香苗、本当に香苗なのか、香苗」
「落ち着け」
そう言って香苗はちゅ、と信夫にキスをした。
信夫はきょとんとした顔になる。
「順に説明するから落ち着いて聞くんだ」
香苗は信夫の髪を撫で付けながら諭すように言った。
14/06/29 17:33更新 / 雑兵
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