連載小説
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嗚呼
小菅はYシャツを黒く汚しながら黒い物体と格闘していた。
周囲は真っ白で何もない空間、足元には雲のような泥のような奇妙な黒い物体が溜まっている。
小菅はひたすらにその黒い物体を手で掘り起こし、引っ張り出し、掻き分けている。
これが夢だと小菅にはわかっている、近頃よく見る明晰夢だ、ただいつもは妻と共に過ごす幸福な夢を見るというのに今度の夢はどういった主旨だろうか。
そんな事を考えながらも小菅は手を止めない、遮二無二手を動かし続ける。
探している、自分は何かを探しているのだ、この黒い物の中に何かを探している。
何を探しているのだろう?分かっている、自分がこんなに必死になって探す物なんて一つだけだ。
重いのか軽いのかもよくわからないその物体に手を突っ込み、掻き分ける、果てしなく深く掘り下げて行く。
わかったぞ、小菅は思った、この夢がどういう夢かをその時小菅は理解した。この黒い物の正体も分かった。
この黒い物は「死」だ、いや、「現実」と言った方が正しいかもしれない。
それは妻の病であり、妻が死んだと言う事実であり、妻がもうこの世の何処にも存在しないという理不尽が形を成した物なのだ。
現実においてはどんなに憎んでも嘆いても変える事が出来ない妻の死という不条理、戦う事も出来ずに受け入れるしかない事実。
この黒い物は「それ」なのだ、現実で抗う事のできない「それ」に、小菅は挑んでいるのだ。
「房江」
小菅は死を掻き分けながら探している人の名を呟いた。
「房江……」
いるんだろう?この中に、出て来てくれ、迎えに来たんだ。
「房江っ……」
現実で俺は君を助けてやれなかった、ただただ病に侵される君を突っ立って見ているしか出来なかった。死と闘う君を見ているしか出来なかった、棺桶に入る君を見ているしか出来なかった、焼却炉に入る君を見ているしか出来なかった。
これは夢だ、だから俺はこうして君を助ける事が出来るんだ、このくそったれな「死」をこうしてこの手で引き裂く事が出来るんだ。
手が汚れようと爪が剥がれようと指が折れようとそんな苦痛はものの数ではないんだ、両手が使えなくなったら口で食らいついてこいつを掻き分けてやる。
「房江ぇっ……」
小菅は泣いていた、ぐしゃぐしゃに泣きながら黒い塊を掴んで、引っ張って、押し退けて、掻き分けた。
「ふさ……」
指先に何かが触れた、黒い物体の感触とは明らかに違う感触があった。
小菅は土を掘り起こす犬のように爪を立てて黒い地面を引っ掻いた。
真っ黒なそれの中に白いものが見えた、白い肌。
手を突っ込んでその白いものを掴む。腕、腕だ。
と、ずぶりとその腕が黒い物中に引き込まれ、小菅の手から離れそうになる。
死に物狂いでもう片方の手も突っ込んで白い腕を掴んで引っぱる。
出て来ない、それどころか白い腕はずるずると黒い物の中に引き込まれて行く。死に引き込まれて行く。
小菅は両足で踏ん張って引っ張った。あらん限りの力で引っ張った。
引っ張りながら天を仰いで叫んだ。泣き叫んだ。
「うがああああああああああああああああああああああ!!!!!」
駄目だ、連れて行くな。
「ぐぐぐぐ、ぎぎぎぎぎぎ」
歯を砕けんばかりに食い縛り、顔をくしゃくしゃに歪めながら心の中で叫ぶ。
返せ、その人を返せ、返しやがれくそったれめ。
ふい、と腕に掛る力が失せた。
小菅の執念に根負けしたかのように死がその力を緩めたのだ。
ずる、と腕が黒い沼の中から小菅に引っ張られて出て来る。
小菅は気付いた、ぐったりと力の無かった腕が弱々しく自分の腕を掴んでいる事に。
その手をしっかりと握った。
やった。
やったぞ。
俺は取り戻したんだ。
俺は







 最初に感じたのは頬を伝う熱い感触。
戻って来る現実の感覚、それと同時に胸に広がるどうしようもない寂寥感。
妻を死から救うというシチュエーション、実に分かりやすい夢だ。
小菅は目を閉じたまま溜息を付いた。
匂いを感じた。
「……?」
そこで自分が腕の中に何かを抱いている事に小菅は気付いた。
温かくて、重みがあって、いい匂いがする。
覚えのある匂いだ。
小菅は目を開けた。
耳が見えた、それにかかる長い髪も見えた。
何だろう、自分は何を見ているのだろう、自分が腕の中に抱いている人は誰だろう。
(……泥棒?)
頓珍漢な答えが頭の中に浮かぶ、物を盗りに家に侵入して寝ている家主の腕の中に滑り込む泥棒がいるだろうか。
「ん……」
その腕の中の人物が微かに声を上げて身じろぎをした。
聞き覚えのある声だ。
もそ、とその人は少し体を離して小菅の顔を見た。
見た事のある―――――。
「……ただいま」
「……」
物書きである小菅の頭はいついかなる時も言葉を紡ぐ事を止めない。
身の回りに起こる事象の全てを文章に変える事が習慣になっている。
その小菅の頭が今、文章を紡ぐ事を放棄していた。いや、文章は紡がれているが意味を成さない。

嗚呼

それだけが流れていた。
本来ならばこの腕の中の女性が妻であるはずがないと疑うべき場面だ。
似た別人か、実は双子の姉妹だとか。
しかし小菅の心はその可能性を否定していた、願望でも思い込みでもなく、確信していた。

嗚呼

「ふふっ……酷い顔ですよ」

嗚呼

「お酒ばかり飲んでいたんでしょう?」

嗚呼

「ねえ、あなた」

嗚呼

「あなた……」

嗚呼 嗚呼 嗚呼 嗚呼 嗚呼。

「ああ……」







「……!」
香苗は不意に書物から視線を上げ、病室の天井を見上げた。
「……母さん」








 「物語の展開としては上等とは言い難い」
「そうですか?」
「全くもってだ」
小菅はお茶をすすりながら不満顔だ。
そんな小菅の対面に座って同じく茶を手ににこやかに対応しているのが房江だ。
「「死」というテーマは軽く扱われるべきではない、それは悲劇であって、必然であって、試練でもある」
「そうですね」
小菅の言う「死」をあっさりと反故にしてこの世に舞い戻った房江はしれっと答える。
「その上香苗までこの世に留まっているとは、死の威厳もへったくれもない」
「うふふ」
「何を笑う?」
「ようやくいつもの調子が戻って来たようで何よりです、先程までは……」
「……言うな」
「可愛かったですけどね♪」
「やめろ」
人生の中から消去したいくらいの醜態を思い出し、小菅は頭をばりばり掻いた。
「……我ながら現金なものだとは思う、悩みの大元が解消されたもんだからあれ程疲弊していた精神がもう平常運行に戻っちまった」
小菅は顔を上げて言う。
その目に先日まで宿っていた果てしない哀しみは無く、生来の知的な好奇心と房江にしかわからない深い愛情が戻っていた。
「だがな……しかし……問題だぞ君の……君らの存在は、いや、俺は嬉しいんだが」
「不死の者達の事ですか?」
「その……そうだ」
「時代の転換期ですよ、死の価値観が変わる、それだけの事です」
あくまで落ち着いた態度で房江は語る。
小菅何かを言おうとしていた口を閉ざし、苦笑を浮かべた。
「あと桜が何度見れるかって歳になってとんでもない転換期に遭遇したもんだ」
「それよりあなた」
「何だ?」
「死のうと、なさっていましたね?」
「……」
小菅は痛い所を突かれたような顔になる。
房江は穏やかでいながら真っ直ぐな目で小菅を見ている。
「……弱ったな」
「気持ちは理解できます、例えば逆の立場で私があなたに先立たれたら私も同じ事を考えたかもしれません」
「……」
「けれども、そこで私の立場になって考えて見て下さい、自分が先立った後に私が自ら命を断とうとしたならあなたはどう思いますか?」
「……」
「怒るでしょう」
「……うむ……」
「私、怒ってます」
「……」
「怒ってるんです」
房江は二人の間にあるテーブルに身を乗り出して小菅に顔を近付ける。
そして小菅の目をじいっと見る。
決して怖い顔ではないのだが小菅はそれが彼女が本当に怒った時の顔だと言う事を知っている。
「……う、む……」
目を逸らすがつい、と追従して目線を合わせて来る。
ふいと俯いても覗き込んで来る、妻がこうなっては小菅に打つ手はない。
小菅はテーブルに両手を付いて頭を下げた。
「すまなかった……」
「何に対してですか?」
「死のうとしてすまなかった」
「もう命を粗末にしようとしないって約束できますか?」
「約束する、二度と考えない」
「……」
「……」
「はい、約束しましたね、これでこの件はお終いです」
にっこりと笑って房江が言うと小菅は溜息をついて頭を上げる。
「うふふふふ……」
「……何だ」
「私は幸せ者ですね、貴方のこんなに可愛い所を知ってるのは私だけですもの」
「勘弁してくれ……」
小菅は頭を掻く。
「ふふふ……ね、あなた」
「うん?」
「お腹がすいているでしょう?」
「いや、別に……あ、いや、空いているぞ、腹ペコだとも」
むう、と房江の頬が膨らむのを見て慌てて言い直す。
「そうでしょう?それでは私が久々に腕を振るいましょう」
「うん、頼む……食材が何も無いなしかし」
と、房江は冷蔵庫の前にふよふよふよ、と移動する。
ふよふよふよ、というのは実際そういう音が出ている訳ではなく、空中に尾を引きながら滑るように移動する姿を見て何となくそういう音がしそうだと小菅の頭の中で再生された効果音である。
そう、房江の下半身は人間の物ではない、ちょうど絵本か何かに出て来る「おばけ」のように白く、半透明の人魂のような形状をしているのだ。
「本当に何もありませんね……んもぅ……お買い物行かなきゃ」
「……その足じゃ外には行けないんじゃないか?」
小菅が指摘すると、房江は悪戯気に笑ってバスタオルを持って来て腰に巻いた。
「いや、それでも不自然……」
言い終わる前にソフトクリームのようだった足の先端が二股に分かれ、見る間に人間の足に変形した。
小菅は目を丸くする。
「便利なもんだ」
「お財布ありますか?ちょっとお買い物に……」
「俺も一緒に行こう」
今度は房江が目を丸くした。
「珍しい事もあるものですね、ものぐさなあなたが……」
「離れたくない」
照れるでもなくはっきりと小菅は言った。房江ははにかむように笑った。
「それでは、一緒に……」
「うん」







 小菅は皿の上に並ぶ料理を感慨深げに見回した。
里芋の煮ころがしにほうれん草のお浸し、豆腐とわかめの味噌汁に焼き鮭、そして白いご飯。
「どうなさったんですか?」
「いや……君の料理をまたこうして食べられる日が来るとはな……」
「ふふっ、いつまでも眺めていないで冷める前に召し上がって下さいな」
「君は食べないのか?」
「私はいいんです、後でいただきますから……」
房江はテーブルの向かいに座って微笑みながら小菅の事を見ている。
「そうか……それでは、いただきます」
「はい、どうぞ」
まず味噌汁を一口啜る。
「うん、うまい」
ご飯、鮭、里芋、ほうれん草、と次々に箸をつけていく。
「久しぶりだったので不安だったんですけど……勘は忘れないものですね」
「うん……うん……」
味付けも焼き加減も茹で加減も、何もかもが小菅の好みぴったりだ。
と、順調に進んでいた箸が不意に止まった。
「どうかなさいましたか?」
「いや……何でも、ない」
小菅は一旦箸を置いてティッシュを取って涙を拭き、鼻をかんだ。
今一度箸を取ろうとしたがまた涙が溢れて来てまたティッシュで拭った。
「いかんな、折角のメシがしょっぱくなっちまう」
「ゆっくり食べて下さいな」
房江の垂れ気味の目の端にも雫が光っている。
「今日だけじゃないんですから、これから毎日作ってあげますから……ずっと作ってあげますから」
「ん……」
小菅は涙を拭う事を諦めて泣きながら味噌汁を啜った。







 「……そうだ、忘れていたな」
夕食を終え、リビングで二人くつろいでいる所で小菅が思い出したように言った。
「何をですか?」
「信夫君にも知らせないといかん、香苗が生きているって事を」
「正確には生きている訳ではないんですけどね」
「香苗が香苗であるならあいつはそんな事は気にしないだろう……鉄の面を被ったような奴だが、あいつも苦しみに耐えているんだ」
そう言って電話を取ろうとした所で小菅は手を止めた。
「……事実をそのまま言ってもとうとう気が狂ったかと思われるのがオチだな……」
房江はくすくす笑う。
「香苗に任せておきましょう?あの子の性格からして私が帰って来たのを見ていい加減我慢も効かなくなる頃でしょうし」
「香苗はどういう状況なんだ?」
「ちょっと自由に身動き出来る状況ではないみたいですけど……どうとでもしてしまうでしょう、あの子なら」
「そういうものか……」
「あちらは若い二人に任せましょう?それよりあなた」
ひた、と房江は小菅に身を寄せた。
「お風呂にしませんか?」
何と言う事のない台詞だったが、小菅の胸が跳ねた。
そんな自分の反応に自分で戸惑いを覚える、確かに相当にご無沙汰だったが中学生であるまいに……。
「お背中流しますよ」
「流すだけで済むのかな」
「済む訳がないじゃないですか」
房江はあくまで朗らかな笑みを絶やさないが、その目の奥に深い女の情念が揺らぐのを小菅は見た。
「生前は体が弱くてあまり「営む」事もできませんでしたね……これからその分も取り返していきましょう」
小菅は苦笑を浮かべる。
「努力はするが、この老体でどこまで応えられるかな……」
「ご心配なく、不死の者と交わればその者も不死に近付くんです」
言いながらも房江はそっと小菅の手を取ってソファーから立ち上がらせる。
何と言う眩惑的な表情をするのだろう。
「さ、お風呂にしましょう」







 「あっ」
院長室でカルテに目を通していたジュカは顔を上げる、と同時に空間にさっと転移魔法を描いてそれに飛び込んだ。
移動した先は香苗の病室。
部屋には誰もいなかったが、彼女の魔力の残滓が微かに残っている事から直前までここに居た事が分かる。
そしてその残滓は香苗がここで何らかの魔法を行使したことも匂わせていた、恐らくは転移魔法。
一応、この病院は患者が勝手に出て行ったり外部から一般人が侵入するのを防ぐために結界で覆われているのだが、香苗レベルになると無いも同然だろう。
机の上には一枚の書き置きが残されおり、それには達筆な文字でこう書かれている。
「信夫に会いに行く」
書き置きを見てジュカは苦笑を浮かべた。
退院の日を待たずにこういう日が来るだろうとは予測できた、彼女ほど魔術に精通してしまった者を引き留める事はほぼ不可能に近い。
そして愛しい人への渇望は同じ魔物として痛い位にわかる。
「かなちゃん……ファイト」
立場上咎めなくてはいけないのだが、ジュカはそう呟いた。
14/04/26 08:33更新 / 雑兵
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