おにぎり
白い部屋だった。壁は不自然なほどに滑らかな材質で出来ており、一つだけある天井の蛍光灯の明かりを無機質に照らし反している。
その部屋の中央に人一人が横になれるくらいの台のような物がある。
材質は部屋の壁と同じで白く、お世辞にも寝心地がよさそうには見えない。
その台の上に一糸纏わぬ一人の女性が横たわっている。真っ白い肌に灰色の髪、薄く開かれている瞳も灰色。
香苗だった。
殆どの物が白で構成されているその部屋は非現実的な雰囲気を醸している。
と、その部屋の扉が開き、白衣で白髪の女性が入って来た。ジュカだ。
「こんな所にいたの?」
苦笑を浮かべてジュカは言う。香苗は横になったままジュカの方に首を向ける。
「……初心に帰っていたんだ」
「初心?」
「ここで私が生まれた時の事を思い出していてな……」
「生き返った」ではなく、「生まれた」と表現するのが香苗らしいとジュカは感じた。
香苗は視線をジュカから外し、また天井を見上げる。
「最初に何を考えたかと言うと……」
視線が彷徨う。
「気持ち悪かったな」
「吐いたもんね」
「体内に大量に防腐剤も残っていたもんだからな……酷い気分だった……」
少し、二人で笑い合う。
「その後すぐ死んだように眠って……いや、この表現はおかしいか、長い事死んでから……目を覚まして……」
「不安?」
いつの間にか近付いて来ていたジュカが香苗の顔を逆さに覗き込む。
「不安という訳では……」
言いかけて香苗は目を閉じた。
「不安だ」
「うん」
ジュカは優しい笑顔を見せる。
「次に目覚めた時すぐに信夫の事が頭に浮かんだんだ、会いたい、とな、しかし今の私を見て彼がどう思うか……?」
確かめるように自分の頬に触れる。死人の冷たさを感じる。
「それは、生き返った子達が皆思う事だよ」
ジュカは香苗の灰の髪をそっと撫でる。
「でも心配いらないよ」
香苗は下から強い眼差しをジュカに向けた。
「ずっと疑問に思っていた事だ、「退院」した死者達は本当に日常を取り戻す事が出来るのか?死んだ筈の人間が帰って来るというのは恐怖だ、それがどれだけ愛しい人であっても」
「それでも心配いらないんだよ」
香苗は気付く、いつも人懐こいジュカの瞳に魔性の光が宿っている事に。
「蘇りが怖い、とか、倫理的に間違ってる、とか、そんな事は些細な問題、体に訴えたならどんな理論も飛んじゃうの」
「穏やかじゃないな」
ジュカは笑みを崩さないまま香苗の髪に触れていた指先をすうっと頬に伝わせる。
「ええ、侵略ですもの」
「私もその先兵の一人という訳か」
「そ、」
指はゆるゆると首筋を伝って降りて行く。香苗はじっとジュカから目を離さない。
「真っ当な倫理を持った人間なら拒否感を覚えるだろうな」
「貴方は真っ当?」
香苗は不意に笑みを浮かべて視線を外した。
「真っ当ではないな、人としての矜持に興味は無い、あと、そっちの趣味は無いからやめてくれないか」
肩を経由して両胸の薄桃色にまで到達しようとしていた指を軽くつねる。ジュカはふふ、と笑うと素直に肌から指を離した。
「個人的にすごく期待してるんだ、戦力的な意味で」
「戦力?」
「貴方、ちょっとおかしいくらいに頭がいいんだもの、是非参謀に欲しいわ、……と言っても堅苦しい仕事を押し付けたりはしないわよ?こちらは環境を提供するから貴方はただ思うままに知的好奇心を満たしてくれればいいの」
「物は言いようだな、私の最大の関心事の「魔力」については魔物達自身にもわかっていない事が多い、研究するだけで君達にとっても益があるという訳だ」
「ふふ、その通り、異論は?」
「無い」
「よかった♪」
にっこり笑うジュカの表情を眩しそうに見た後、香苗はのそりと台から身を起こした。
「その提案を呑むためにはまず、課題をクリアしないといけない」
「課題?」
「私の想いの成就だ、これが成されなくては何も始まらないしやる気が出ない」
香苗は片膝を抱えるような姿勢になって顔を伏せる。
「最初は熱心に研究してたじゃない?」
「最近になって気付いた、生き返った後は熱に浮かされたように魔力の研究に打ち込んでいたんだが……その情熱が結局は「逃避」だ」
「……やりたくない課題がある時に限って部屋の掃除がはかどるみたいな?」
「……まあ、そんなもんだ」
首を傾げながら香苗は同意する。
「とは言え私は色恋沙汰には滅法疎くてな……どうアピールしていいものやら、そもそも自分の魅力にも自信が持てない現状だ」
「美人だと思うけど?」
「君に言われても嫌味なだけだな」
男を狂わせる美貌を生まれながらに携えている魔王の娘に香苗は苦笑で答える。
「そんなに問題じゃないと思うけどなあ、魔物なんだから男の人を虜にするのは難しい事じゃないよ?」
「魅力的になろうとする努力は怠らないに越した事はないと思う」
「あー、うん、それはそうだね」
香苗は台から降りるとひらひらっ、と手を宙で泳がせるような動きをする。
すると香苗の目の前にきらきらと雪の粉のような光が発生し、その光の中に一人の人影が現れた。
一糸纏わぬ白い肌の女性、香苗の姿だ。
宙に香苗の姿を写す姿見のような物が出現したのだ。
ジュカは舌を巻いた、空気中の水分を利用した魔力の鏡だ、この短期間でここまで自在に魔法を使いこなすようになったこの時代の人間はちょっと記憶にない。
香苗はとん、とん、と人差し指でこめかみをつつきながら鏡に写した自分の姿を見つめる。
「わかっていた事だが、私に必要なのはダイエットではないな」
肉付きの薄い腹回りを撫でながら言う。
「好みは人によって色々だけどねー、ノブオ君の好みってどんなの?」
「わからん」
ジュカはその香苗の背後に立って一緒に姿見を見る。
「特に痩せた人が好きだとか太った人が好きだとか聞いた事は無いな……いや、私に対して言わなかっただけで極端な趣味がないとは言い切れないが」
ジュカは香苗の細い肩に両手を置く。
「……お手伝いしよっか?」
「それはありがたいが、どうやってだ」
「ジュカさんオリジナルスペシャルエステ♪この方法なら彼が振り向く事間違いなしのエロエロボディが手に入るの!」
「ほう?」
興味をそそられて振り返った香苗にジュカはにっこり笑って見せ、背後に向けてぱちん、と指を鳴らした。
ごぼり、と白い部屋の床が歪み、そこから一本一本が人の腕の程はあろうかという緑色の植物の蔦が大量にぞろぞろと這い上がって来た。それらがぎゅるぎゅると互いに絡み合い、一つの巨大な花のような形状を作りだす。
「フェアリー・ハグを特別に改造したヒューマン・ハグの「メアリー」ちゃん♪この子の中で一晩過ごせば超絶敏感脳内ピンク間違いなしよ!」
言葉に合わせて巨大な植物……メアリーちゃんがくぱぁ、と誇らしげに花弁を開くとその中に無数に生えている粘液濡れの触手じみた蔦がわさわさと蠢き、気が遠くなりそうな媚薬の匂いを撒き散らす。
「遠慮する」
香苗は氷のような無表情ではたはたと手を振った。
・
・
・
ひなびた居酒屋のカウンターだった。
信夫と小菅は古い演歌の流れる中で隣り合って座り、片手に杯を握っている。信夫の持つコップには烏龍茶、小菅の握るグラスにはウィスキー。
二人は仕事の合間を縫ってこうして度々杯を交わすようになっていた。会っても何か特別な事を話す訳でもない、互いの近況を伝え合った後はただ二人共押し黙って杯を傾ける。
小菅はやつれていた、頬の肉は削げ落ち、目の回りは赤くなって落ちくぼんでいる、グラスを握る手も以前に比べて骨ばって見える。
ただ、穏やかで寂しげな目の光だけは変わらない。
信夫はずっと変わっていない、石のように寡黙に小菅の横に鎮座している。
今日も何も言葉を交わさない二人だが、一ついつもと違う事があった。
「……」
小菅がグラスに口を付けないのだ、いつもならばもう二杯目に入っている頃だが、最初に注文したウィスキーはその量を減らしておらず、氷が溶けて薄まり始めている。
「小菅さん」
信夫が声を掛けた、とても珍しい事だ。
「死ぬ事は諦めたんですか」
小菅は少し笑った。
「ばれてたか」
「見てればわかります」
小菅はグラスに揺れる黄金の光をじっと見つめる、口には運ぼうとしない。
「飲んで……飲んで……飲んで……そうして死のうと思っていた」
小菅は長い事何も食べていなかった、ただ酒で腹を満たし、正気と狂気の狭間を漂う頭から文章を捻り出し続ける毎日を送っていた。
グラスを持つ手が持ち上がり、口元に近付く、だがまたその手は下ろされた。
「信夫君は死後の世界を信じるかい」
「死んだ事がないからわかりません」
小菅はむっつりとした信夫の横顔を愉快そうに見た。
「俺にもわからん」
「……」
「だが、少なくともくたばってしまえば香苗と房江が向かった先に行けると思っていた」
「……」
「最近になって……違うような気がしてきてな……房江は……香苗も、だ、まだこちらにいるような気がしている」
信夫は小菅の方に顔を向けた。
「こちらに?」
「うん……夢を、な、最近よく夢を見る、その夢は……はは、やめておこう、人に話すような内容でもない」
小菅はグラスをカウンターに置いてそれに視線を落とす。
「ただもしその予感が当たっていて……馬鹿な話だと聞き流してくれ、まだ二人がこちらにいたとしたら、自分だけ勇み足であっちに行っちまうのは随分間の抜けた話だと思ってな」
「行くのはいつでも行けます、簡単です」
「……」
「放っておいてもいつかは行きます」
「……」
「梅おにぎり下さい」
「うん?」
「あいよ」
会話の流れを急に切られて小菅が思わず顔を上げると、信夫はカウンターの向こうの大将に注文をしていた。
きょとん、とする小菅を置いて信夫は烏龍茶を飲んでいる。
ほどなくして二つのおにぎりと二切れのたくあんの乗った小皿が運ばれて来た。
二人の間に置かれたそれから信夫は無遠慮に一つ掴むと大きく齧った。むしゃむしゃ咀嚼しながら小皿からたくあんも一切れ取り、それも口に放りこむ。
ぽりぽり ぽりぽり
小菅は小皿に残った一つのおにぎりと一切れのたくあんをじっと見た後、信夫の方を見た。
信夫はもう一つは手に取ろうとしない。
小菅は手を伸ばしておにぎりを取り、信夫を見習って大きく口を開けてその三角形の頂点にかぶりついた。
ぱりぱり、と米を覆っていた海苔が裂け、口に溢れる米の味、梅の酸っぱさ。
「うまいな」
ごくり、と飲み込んで小菅は自分の齧ったおにぎりを見つめて呟いた。
「…………うまいな…………」
もう一度言って、またかぶりつく。たくあんにも手を伸ばす。
三口程でおにぎりは無くなった。
「ああ……」
小菅は息をついた、大きな溜息だった。
「…………物足りんな、もうちょっと腹に溜まる物を食える所に行こうか」
そう言ってカウンターに勘定を置くと席を立った。信夫も立った。
「この近くに……安くて旨い中華屋を知ってます、奢りますよ」
「いいや、俺が奢るよ」
「俺が……」
「奢らせてくれ」
小菅は振り返らないまま言った。
「な?」
「……ご馳走になります」
信夫は頭を下げた。
二人が去った後のカウンターには結局一口も飲まれなかったウィスキーのグラスが静かに光を揺らしていた。
その部屋の中央に人一人が横になれるくらいの台のような物がある。
材質は部屋の壁と同じで白く、お世辞にも寝心地がよさそうには見えない。
その台の上に一糸纏わぬ一人の女性が横たわっている。真っ白い肌に灰色の髪、薄く開かれている瞳も灰色。
香苗だった。
殆どの物が白で構成されているその部屋は非現実的な雰囲気を醸している。
と、その部屋の扉が開き、白衣で白髪の女性が入って来た。ジュカだ。
「こんな所にいたの?」
苦笑を浮かべてジュカは言う。香苗は横になったままジュカの方に首を向ける。
「……初心に帰っていたんだ」
「初心?」
「ここで私が生まれた時の事を思い出していてな……」
「生き返った」ではなく、「生まれた」と表現するのが香苗らしいとジュカは感じた。
香苗は視線をジュカから外し、また天井を見上げる。
「最初に何を考えたかと言うと……」
視線が彷徨う。
「気持ち悪かったな」
「吐いたもんね」
「体内に大量に防腐剤も残っていたもんだからな……酷い気分だった……」
少し、二人で笑い合う。
「その後すぐ死んだように眠って……いや、この表現はおかしいか、長い事死んでから……目を覚まして……」
「不安?」
いつの間にか近付いて来ていたジュカが香苗の顔を逆さに覗き込む。
「不安という訳では……」
言いかけて香苗は目を閉じた。
「不安だ」
「うん」
ジュカは優しい笑顔を見せる。
「次に目覚めた時すぐに信夫の事が頭に浮かんだんだ、会いたい、とな、しかし今の私を見て彼がどう思うか……?」
確かめるように自分の頬に触れる。死人の冷たさを感じる。
「それは、生き返った子達が皆思う事だよ」
ジュカは香苗の灰の髪をそっと撫でる。
「でも心配いらないよ」
香苗は下から強い眼差しをジュカに向けた。
「ずっと疑問に思っていた事だ、「退院」した死者達は本当に日常を取り戻す事が出来るのか?死んだ筈の人間が帰って来るというのは恐怖だ、それがどれだけ愛しい人であっても」
「それでも心配いらないんだよ」
香苗は気付く、いつも人懐こいジュカの瞳に魔性の光が宿っている事に。
「蘇りが怖い、とか、倫理的に間違ってる、とか、そんな事は些細な問題、体に訴えたならどんな理論も飛んじゃうの」
「穏やかじゃないな」
ジュカは笑みを崩さないまま香苗の髪に触れていた指先をすうっと頬に伝わせる。
「ええ、侵略ですもの」
「私もその先兵の一人という訳か」
「そ、」
指はゆるゆると首筋を伝って降りて行く。香苗はじっとジュカから目を離さない。
「真っ当な倫理を持った人間なら拒否感を覚えるだろうな」
「貴方は真っ当?」
香苗は不意に笑みを浮かべて視線を外した。
「真っ当ではないな、人としての矜持に興味は無い、あと、そっちの趣味は無いからやめてくれないか」
肩を経由して両胸の薄桃色にまで到達しようとしていた指を軽くつねる。ジュカはふふ、と笑うと素直に肌から指を離した。
「個人的にすごく期待してるんだ、戦力的な意味で」
「戦力?」
「貴方、ちょっとおかしいくらいに頭がいいんだもの、是非参謀に欲しいわ、……と言っても堅苦しい仕事を押し付けたりはしないわよ?こちらは環境を提供するから貴方はただ思うままに知的好奇心を満たしてくれればいいの」
「物は言いようだな、私の最大の関心事の「魔力」については魔物達自身にもわかっていない事が多い、研究するだけで君達にとっても益があるという訳だ」
「ふふ、その通り、異論は?」
「無い」
「よかった♪」
にっこり笑うジュカの表情を眩しそうに見た後、香苗はのそりと台から身を起こした。
「その提案を呑むためにはまず、課題をクリアしないといけない」
「課題?」
「私の想いの成就だ、これが成されなくては何も始まらないしやる気が出ない」
香苗は片膝を抱えるような姿勢になって顔を伏せる。
「最初は熱心に研究してたじゃない?」
「最近になって気付いた、生き返った後は熱に浮かされたように魔力の研究に打ち込んでいたんだが……その情熱が結局は「逃避」だ」
「……やりたくない課題がある時に限って部屋の掃除がはかどるみたいな?」
「……まあ、そんなもんだ」
首を傾げながら香苗は同意する。
「とは言え私は色恋沙汰には滅法疎くてな……どうアピールしていいものやら、そもそも自分の魅力にも自信が持てない現状だ」
「美人だと思うけど?」
「君に言われても嫌味なだけだな」
男を狂わせる美貌を生まれながらに携えている魔王の娘に香苗は苦笑で答える。
「そんなに問題じゃないと思うけどなあ、魔物なんだから男の人を虜にするのは難しい事じゃないよ?」
「魅力的になろうとする努力は怠らないに越した事はないと思う」
「あー、うん、それはそうだね」
香苗は台から降りるとひらひらっ、と手を宙で泳がせるような動きをする。
すると香苗の目の前にきらきらと雪の粉のような光が発生し、その光の中に一人の人影が現れた。
一糸纏わぬ白い肌の女性、香苗の姿だ。
宙に香苗の姿を写す姿見のような物が出現したのだ。
ジュカは舌を巻いた、空気中の水分を利用した魔力の鏡だ、この短期間でここまで自在に魔法を使いこなすようになったこの時代の人間はちょっと記憶にない。
香苗はとん、とん、と人差し指でこめかみをつつきながら鏡に写した自分の姿を見つめる。
「わかっていた事だが、私に必要なのはダイエットではないな」
肉付きの薄い腹回りを撫でながら言う。
「好みは人によって色々だけどねー、ノブオ君の好みってどんなの?」
「わからん」
ジュカはその香苗の背後に立って一緒に姿見を見る。
「特に痩せた人が好きだとか太った人が好きだとか聞いた事は無いな……いや、私に対して言わなかっただけで極端な趣味がないとは言い切れないが」
ジュカは香苗の細い肩に両手を置く。
「……お手伝いしよっか?」
「それはありがたいが、どうやってだ」
「ジュカさんオリジナルスペシャルエステ♪この方法なら彼が振り向く事間違いなしのエロエロボディが手に入るの!」
「ほう?」
興味をそそられて振り返った香苗にジュカはにっこり笑って見せ、背後に向けてぱちん、と指を鳴らした。
ごぼり、と白い部屋の床が歪み、そこから一本一本が人の腕の程はあろうかという緑色の植物の蔦が大量にぞろぞろと這い上がって来た。それらがぎゅるぎゅると互いに絡み合い、一つの巨大な花のような形状を作りだす。
「フェアリー・ハグを特別に改造したヒューマン・ハグの「メアリー」ちゃん♪この子の中で一晩過ごせば超絶敏感脳内ピンク間違いなしよ!」
言葉に合わせて巨大な植物……メアリーちゃんがくぱぁ、と誇らしげに花弁を開くとその中に無数に生えている粘液濡れの触手じみた蔦がわさわさと蠢き、気が遠くなりそうな媚薬の匂いを撒き散らす。
「遠慮する」
香苗は氷のような無表情ではたはたと手を振った。
・
・
・
ひなびた居酒屋のカウンターだった。
信夫と小菅は古い演歌の流れる中で隣り合って座り、片手に杯を握っている。信夫の持つコップには烏龍茶、小菅の握るグラスにはウィスキー。
二人は仕事の合間を縫ってこうして度々杯を交わすようになっていた。会っても何か特別な事を話す訳でもない、互いの近況を伝え合った後はただ二人共押し黙って杯を傾ける。
小菅はやつれていた、頬の肉は削げ落ち、目の回りは赤くなって落ちくぼんでいる、グラスを握る手も以前に比べて骨ばって見える。
ただ、穏やかで寂しげな目の光だけは変わらない。
信夫はずっと変わっていない、石のように寡黙に小菅の横に鎮座している。
今日も何も言葉を交わさない二人だが、一ついつもと違う事があった。
「……」
小菅がグラスに口を付けないのだ、いつもならばもう二杯目に入っている頃だが、最初に注文したウィスキーはその量を減らしておらず、氷が溶けて薄まり始めている。
「小菅さん」
信夫が声を掛けた、とても珍しい事だ。
「死ぬ事は諦めたんですか」
小菅は少し笑った。
「ばれてたか」
「見てればわかります」
小菅はグラスに揺れる黄金の光をじっと見つめる、口には運ぼうとしない。
「飲んで……飲んで……飲んで……そうして死のうと思っていた」
小菅は長い事何も食べていなかった、ただ酒で腹を満たし、正気と狂気の狭間を漂う頭から文章を捻り出し続ける毎日を送っていた。
グラスを持つ手が持ち上がり、口元に近付く、だがまたその手は下ろされた。
「信夫君は死後の世界を信じるかい」
「死んだ事がないからわかりません」
小菅はむっつりとした信夫の横顔を愉快そうに見た。
「俺にもわからん」
「……」
「だが、少なくともくたばってしまえば香苗と房江が向かった先に行けると思っていた」
「……」
「最近になって……違うような気がしてきてな……房江は……香苗も、だ、まだこちらにいるような気がしている」
信夫は小菅の方に顔を向けた。
「こちらに?」
「うん……夢を、な、最近よく夢を見る、その夢は……はは、やめておこう、人に話すような内容でもない」
小菅はグラスをカウンターに置いてそれに視線を落とす。
「ただもしその予感が当たっていて……馬鹿な話だと聞き流してくれ、まだ二人がこちらにいたとしたら、自分だけ勇み足であっちに行っちまうのは随分間の抜けた話だと思ってな」
「行くのはいつでも行けます、簡単です」
「……」
「放っておいてもいつかは行きます」
「……」
「梅おにぎり下さい」
「うん?」
「あいよ」
会話の流れを急に切られて小菅が思わず顔を上げると、信夫はカウンターの向こうの大将に注文をしていた。
きょとん、とする小菅を置いて信夫は烏龍茶を飲んでいる。
ほどなくして二つのおにぎりと二切れのたくあんの乗った小皿が運ばれて来た。
二人の間に置かれたそれから信夫は無遠慮に一つ掴むと大きく齧った。むしゃむしゃ咀嚼しながら小皿からたくあんも一切れ取り、それも口に放りこむ。
ぽりぽり ぽりぽり
小菅は小皿に残った一つのおにぎりと一切れのたくあんをじっと見た後、信夫の方を見た。
信夫はもう一つは手に取ろうとしない。
小菅は手を伸ばしておにぎりを取り、信夫を見習って大きく口を開けてその三角形の頂点にかぶりついた。
ぱりぱり、と米を覆っていた海苔が裂け、口に溢れる米の味、梅の酸っぱさ。
「うまいな」
ごくり、と飲み込んで小菅は自分の齧ったおにぎりを見つめて呟いた。
「…………うまいな…………」
もう一度言って、またかぶりつく。たくあんにも手を伸ばす。
三口程でおにぎりは無くなった。
「ああ……」
小菅は息をついた、大きな溜息だった。
「…………物足りんな、もうちょっと腹に溜まる物を食える所に行こうか」
そう言ってカウンターに勘定を置くと席を立った。信夫も立った。
「この近くに……安くて旨い中華屋を知ってます、奢りますよ」
「いいや、俺が奢るよ」
「俺が……」
「奢らせてくれ」
小菅は振り返らないまま言った。
「な?」
「……ご馳走になります」
信夫は頭を下げた。
二人が去った後のカウンターには結局一口も飲まれなかったウィスキーのグラスが静かに光を揺らしていた。
14/02/09 16:35更新 / 雑兵
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