キッチンには鮭の焼けるいい匂いが漂っている、その匂いの中で麻人はきゅうりの浅漬けを軽快なリズムで切る。
以前、誰にも使われずに埃を被っていたキッチンも今では手入れが行き届き、整頓されている。
豆腐の味噌汁、焼き鮭、浅漬け、卵焼き、海苔、納豆、伝統的でありながら忙しい現代にあっては中々ありつけない真っ当な日本式の朝食をテーブルに並べ終えると麻人はアトリエに向かう。
一応ノックをして返事が無い事を確認した後、ドアを開ける。
こちらは以前と変わらず乱雑に散らかった様子のアトリエ。最もその散らかり方には灯子なりの規則性があり、迂闊に片付けようとして配置を触ると怒られるのだが。
そのアトリエの一角に置いてある大きいソファーに灯子は横になっていた。
昨夜、絵を前にしてうつらうつらしているのをどうにかソファーにまで引っ張ってタオルケットを掛けたのだが。半眠り状態でも離さなかった筆はしっかりと握ったままだ。
「先輩、朝っすよ」
「んん……んむ、んぁ、色が……」」
麻人が声を掛けるとむにゃむにゃと何か言いながら目をごしごしと擦って起き上がる。
「ほら、飯出来てますよ、っていうかいい加減筆離して下さいったら」
麻人が指を押し開くようにしてようやく筆を手から引き剥がし、手を引いて食卓にまで歩かせる。
灯子は目を擦りながらよたよたとついていく。
「折角作ったんだから温かいうちに食って下さいよ」
どうにかして席に座らせると、自分も向かいに座る。
「いただきます」
「……」
麻人が手を合わせる前で、灯子は無言で箸を持ってきゅうりに伸ばし、ぽりぽりと齧り始める。
「あーもう、いただきますも無しに……、ってちょおっ！」
言ってる間に灯子の頭がかくん、とご飯茶碗にダイブしそうになり、慌てて麻人が額をはっしと支える。
「ええいもう」と言う顔をした麻人は灯子の手から箸を取り上げ、椅子から立たせると洗面所に引っ立てていく。
洗面台の前に到着すると麻人は蛇口の下に灯子の頭を押し込んで冷水を全開にし、頭からばしゃばしゃとぶっかける。
「ん、ぶ、む……？」
びくびくと反応する灯子をそのままにして麻人は食卓に戻って自分の食事を始める。
麻人が半ばまで食べ進んだあたりで灯子がのそのそとキッチンに戻ってきた。
濡れた髪をタオルでわしゃわしゃと拭くその顔はいつものむっつりとした表情に戻っている。
「……先に食べてる」
「起こしました」
「……記憶に無い」
「寝ぼけてましたから」
そう言われて首を傾げながら席に着く灯子だが、自分の分の漬物が無くなっているのに気付く。
「……誰か食べかけてる」
「食ったのは先輩です」
「……記憶に無い」
「寝ぼけてましたから」
納得のいかない顔をしながらいただきます、と手を合わせて味噌汁に口を付ける灯子。
灯子の寝起きが壊滅的であるのは毎朝の事なのでもはや麻人は気にしない。
こうして朝を二人で迎えるようになってからそこそこの期間が経った、二人が付き合い始めてから麻人がこの家に来る頻度はさらに多くなり、今では半同棲のような状態だ。何しろ年もここで越したくらいだ。
「またオファー来てました」
「テレビか？」
「っすね」
「何回断ればいいんだ全く……」
灯子は不機嫌そうに言う、ここの所頻繁にテレビ番組からの出演依頼が来るのだ。
「やはり出るべきじゃなかったな……」
「まあ、そのお陰で知名度上がりましたし」
「上がり過ぎるのも善し悪しだ」
そう、灯子は一度だけテレビ番組に出演したのだ。





麻人と付き合い始めた事は灯子の作風に大きな影響を与えた、今までは風景画が中心だったのだがその時期を境に人物画を描くことも多くなった。
そしてその絵は以前にも増して生命感を宿しており、ますます灯子の名声に拍車が掛った。
番組へのオファーが来たのはそんな中での事だった。
灯子の作品に興味を持った海外の著名な芸術家である「ギャレリー・イアン」から是非一度対談してみたいと打診があり、それを番組にしようという話が持ち上がったのだ。
普通ならば公衆の面前に姿を現すなど灯子にとっては論外なのだが、その芸術家の作品には灯子も興味を持っており、この機会を逃せば対談できる機会など今後無いであろうと言う事を考え、悩んだ末に出演を決めたのだ。
麻人は灯子の人嫌いを知っているので本当に大丈夫だろうかと心配になったが、本人が考えた末に出した結論ならば全力でサポートしようと考えた。
出演は麻人にとって強烈に思い出に残る経験になった、何しろきちんとした服装にメイクをした灯子を見る事など初めてだったからだ。
前々からちゃんとすれば美人だろうとは思っていたが実際にその姿を見た時には腰が抜けそうになった。
いつもぼさっとしていた髪は綺麗に整えられ、前髪に隠されていた色白な美貌がはっきりと見えるようにされている。
黒い色調でシックに整えられた服装は長身も相まって怖い位に似合っている（猫背はこの時だけ何とか矯正した）
ただ美しいというだけでは無い、何か、全身からこの世の者ならざる魔性の魅力を発散しているような、向かい合っただけで全身に鳥肌が立つような美貌だった。
それは恋人である麻人の贔屓目では無い、番組のスタッフもカメラマンもメイクを担当した人までも一様にその姿を目にした瞬間魂を抜かれたような表情になった事からも伺える。
対談相手である芸術家……ギャレリーも例外では無く、テーブルを挟んで前の椅子に座った灯子を見た瞬間唖然とした表情を見せた。
因みにギャレリーは灯子のような偏屈なタイプでは無く、顎鬚と青い瞳が印象的な二枚目俳優風な容姿をした男だった。
そしていよいよ対談が始まってのギャレリーの第一声を聞いて、見守っていた麻人の胆が冷えた。
「驚いた、ミストウコ、貴方は本当に人間なのでしょうか？」
失礼とも取れる言葉だったが、その場の誰もが抱いていた印象だった、そしてずばり真相を突いた言葉だった。
対して灯子は微かに首を傾げてこう答えた。
「さあ、どうでしょう」
このやり取りの後ギャレリーの朗らかな笑い声が響き、麻人のハラハラを余所に対談は滞りなく進み、終了にまで漕ぎつける事が出来た。
コミュニケーション能力は壊滅的な灯子だが、やはり同じ職業の者ならば共感する部分も多いらしく、口数は少ないながらもどうにか対談の体を成す事に成功していた。
無事に出演を終えてやれやれと胸を撫で下ろした麻人だったが、この出演を機に事態は思わぬ方向へ転がり始める。
灯子は確かに有名だったが、それはあくまで芸術というジャンルの中での話だった。
しかしこのテレビ出演によってその灯子が並外れた容姿の持ち主である事が判明した事で、世間での灯子の知名度が一気に上昇したのだ。
誰でもそうだ、芸術家、とだけ聞いたら興味をそそられない人が大半だが、「美人」芸術家、と枕詞がついただけで一気に注目度が上がる。
そうして絵に興味のない人々の間にも名が知れた灯子にはテレビ局や雑誌などからの出演依頼が数多く入るようになったのだ。
しかしそれは灯子にとっては迷惑極まりない事態だった、出演に応じたのはあくまでギャレリーとの対談をしたかったらからであって、知名度を上げたかった訳ではない。
そもそも本来は人目に晒されるのも嫌いなのだ、だのにパパラッチまで現れてこの家の周辺を嗅ぎ回り始める始末だ。
最も、そういった輩は家に掛けられている人避けの術式によって家に辿り着けないようにされているので被害には会っていない、この便利な魔法がなければ麻人との関係をスキャンダラスに取り上げられている所だったろう。
「不快な奴らめ、私の売りは容姿ではなく絵だというのに」
「まあ、先輩のあの姿見たらそりゃあ……」
「君以外に容姿を褒められても嬉しくない」
卵焼きを頬張りながら不機嫌に言う灯子、それを聞いて緩みそうになる頬をぴしゃぴしゃ叩く麻人。
「ま、もう暫くの辛抱っすよ、そのうちパパラッチの連中も追っかけてこれないような所に引っ越す事になるんすから」
ごちそうさま、と手を合わせて麻人は言う。その麻人の顔を灯子はじっと見る。
「私は少し不安だ」
「先輩、意外と心配症っすね、付き合い始めもそんな事言ってた」
「心配にもなる、海外に引っ越すのとは訳が違うんだ、価値観から生活様式まで何もかも違う場所だ」
「大差ないっすよ、海外だって価値観も生活様式も違うんですし」
食器を片付ける麻人の後姿を見ながら灯子は味噌汁を飲み干し、ごちそうさま、と手を合わせる。
「危険もあるんだ、説明したように向こうは魔物に対して敵対的な考えを持つ人々もいる」
「それも海外みたいなもんでしょ、強盗、テロ、置き引き、お外には危険が一杯ってね」
軽い口調で答えながら灯子の食器を下げる麻人。俯く灯子。
「何より、私の夢のために君の生活を……」
「先輩」
「な、んむっ」
麻人はテーブルに手を付いて身を乗り出し、ちゅ、と灯子の唇を奪った。灯子はきょとんとした顔になる。
「先輩のサポートが俺の仕事っすから、後、仕事とか抜きにして先輩の一番のファンは俺っすから」
にこにこ笑いながら麻人は続ける。
「だから、先輩の夢……「その」美術館に絵を展示するって夢は俺の夢でもあるんです、手伝わせて下さいよ」
灯子はむす、と不機嫌そうになるとふいと目を逸らした。一見機嫌を損ねたように見えるがこれは灯子の照れ隠しの仕草だという事を麻人は知っている。
「全く酔狂な男だ」
「悪魔と付き合う男ですからねえ」
食器を流しに持って行きながら麻人は言う。
そうして食器を洗い始めた所でふわりと柔らかいものが背中に当たり、続いてしなやかな両手が腰の前に回された。
「……ええと、普通男女逆のシチュエーションっすよね」
「……ちゅ」
「ちょっ……」
灯子は答えずに麻人の首筋にキスマークを付ける、麻人は嬉しい反面複雑だ、背後から包み込まれるように抱きしめられるのは心地いいがその分体格差を思い知らされる。
「……え？ちょっ待っ」
そこまではよかったのだが、腰の前に回された手が服の上から陰茎を刺激し始めたのは予想外だった。
「いやいやいや先輩ストップ、ストップ、日が高いどころか昇ったばっかっすよ？」
「今日は仕事は無いだろう、大体魔物娘にキスをしておいてただで済むと思うな」
「いや、朝からとか幾ら何でも爛れ過ぎというか」
「結構な事だ、堕落の使徒として正しい姿だ」
抗議しようと振り返った麻人は灯子の頭部に角が現われているのを見て諦めた、こうなってはもう抵抗するだけ無駄だ。
結局そのまま抱きかかえられるようにしてアトリエに引きずり込まれて行った。




アトリエに入ると、灯子はそっと麻人から離れて目の前に立つ。
「それに……もうそろそろ、仕上げだろう？」
眩惑的な笑みを浮かべるとゆっくりと服をはだけさせ始める。
「そ、そうっすね」
それを見て麻人はごくりと喉を鳴らし、戸棚から奇妙な形状の容器と一本の筆を取り出した。
硝子のような半透明のその容器の蓋を開けると、中にはうっすらと紫色に発光する粘度の高い液体が満ちている。そしてそれとセットになっているらしい筆も流線型の奇妙な形状をしていた。
麻人がそれらを準備する間に灯子は一糸纏わぬ姿になった。
麻人とまぐわうようになってからより一層の色香と妖しさを宿すようになった裸体が露わになる。
「しかし君も酷い男だ、一体女の体を何だと思ってるのやら」
それは最初は目に映らなかった、しかし裸体を晒してから少し経つとその肌の上に薄紫色にじんわりと浮かび上がってきた。
以前、灯子が自ら入れた従属のルーンだった、だが浮かび上がったのはその五ヶ所だけでは無い。
灯子の魔性の肉体を妖しく彩るかのように全身に文様のようなルーンが入れられているのだった。まさしくこの世のものと思えない異様な艶姿だった。
「最早隅から隅まで君の物であるという一生消えない烙印を押されてしまったようなものだ」
自分の体を抱きしめるようにして陶酔した表情で灯子は言う、その言葉は決して誇張されたものでは無い。
その全身に刻まれたルーンはあらゆる効果を組み合わせたオリジナルと言えるものだった、その効果を簡単に言うならば麻人以外からは性的な快楽を受け取る事が出来なくなってしまうというものだった。
どれだけ熟練した性技を受けようとも、どれ程強力な媚薬を使われようとも、相手が麻人で無い限り感じる事は無いのだ。
「極め付けはここだ」
そう言ってそっと下腹部……子宮の上を撫でる。
そこに刻まれたルーンの効果は「麻人のものでなければ感じない」という効果は勿論の事、「麻人以外の精では受精しない」という効果まで付属されているのだ。
改めて言われて麻人は気まずそうな顔になる。
そもそもこのような暴挙に踏み切ったのはあのテレビ出演が切っ掛けだった。
自分しか知らないと思っていた灯子の魅力が世間一般に知れ渡った事で麻人の中に奇妙な焦りが生まれた事が原因だ。
特に対談相手のギャレリーに対してはかなり深い嫉妬心を覚えたのも事実だ。
麻人は感受性はあれど芸術に対する深い造詣は無い、そこを言うとあのギャレリーは灯子と同じ世界、同じ目線で会話することが出来る。なおかつあの社交的な性格に女性受けの良さそうな容姿。
それらを目の当たりにして、対談をしている間ももやもやとした感情に捕らわれてしまったのだ。このルーンはその不安の結果と言える。
「実際のところ魔物の性質を考えるならば蛇足だな、夫以外では感じないのはデフォルトだからな」
「うぐぐ……」
「しかしまあ、嫌いじゃない、こうして独占欲を露わにされるというのはな」
くっくっ、と笑って灯子は麻人に近付き、ぺたりと膝立ちになる。
「さ、ぼんやりするな、仕上げだ」
「わ、わかってます！」
ぐっと気合を入れると麻人は筆をその紫色の液体に付け、灯子の口元に伸ばす。
灯子は大きく口を開けると、あかんべえをするように舌を伸ばした。
ちょん
「んぇぅっ……」
筆が舌先に触れた瞬間びくりと体が跳ね上がりそうになるが、堪える。
「動かないで下さいね……」
歯医者が歯を治療する時のような恰好で慎重に灯子の舌の表面に筆を走らせていく麻人。
赤い舌の上うっすら輝く文様が刻まれていく。
「ん……んぁ……んぇ……ぇぇぅ……」
舌を這い回るくすぐったさと奇妙な快感に何度も震えそうになる体を、灯子はどうにか押さえつける。
こぼれて溢れそうになる唾液を麻人がティッシュで拭う。
「……よっし！出来上がり！」
そう言って麻人は筆を舌から離す、同時に灯子はぱくん、と口を閉じてむにゃむにゃと馴染ませる。
「で、出来ましたかね……？」
「んふ……試してみるかい」
にやりと笑うと不意打ち気味に手を伸ばして麻人のズボンのベルトを素早く抜き取ってしまう。
「うわっちょっ」
「ぱくんっ」
そうして素早くパンツを下ろし、陰茎を咥えてしまう。
「そ、そんな急に……！せ、先輩、先輩？」
「……っっ！〜〜〜っっ！」
たちまちのうちに灯子の目が潤み、全身のルーンがぽう、と光る。
「がっあっ……！？何だこれ……凄……！」
灯子のフェラチオは今までも強烈に快感だった、しかしルーンを刻んだ状態でしてもらうとさらに別次元の快楽だった。
口腔がまるで性器のようにぴったりと自分の陰茎にフィットするのだ。尚且つその様子を見るに灯子自身が受ける快感もまた強烈なものらしい。
（これじゃ本当に……口が性器みたいだ……！）
そう考えると恐ろしい背徳感で背筋にぞくぞくと震えが走った。
愛する人を取り返しがつかない程に自分専用に作り替えてしまったという事実、その行いの非道さ、その非道な行為を嬉々として受け入れてしまう灯子。
初めての快楽に翻弄されながらもゆっくりと舌を使って奉仕を始める灯子を見下ろして麻人は思った。
作品を作り出す芸術家である灯子、しかしその実彼女自身が最高の芸術品なのだ、麻人だけが鑑賞し、味わうことを許された唯一無二の芸術品なのだ。
「んっ……んっ……ぢゅるっ……ちゅぷぅ……ぐちゅぅ……」
外には明るい朝日が溢れ、ちゅんちゅんと鳥の鳴く声が聞こえて来る。
そんな爽やかな朝の空気の中、背徳的な快楽に身を委ねた麻人は今日一発目の濃い精を灯子の口内に放った。