加工
野木麻人は結局のところ自分は現状に甘えているのだという事は自覚していた。
灯子に対して自らの想いを打ち明ける事は分の悪い賭けのようなものだ。
それなりに付き合いが長いのだから他の人間に比べれば多少の情はあるだろうが、それが異性関係に発展できるレベルなのかと言うと疑わしいと言わざるを得ない。
そもそも基本的に他人に対しての興味が薄い灯子に対して「好きです」だなんて言っても「だから?」とか返されそうな気がしてならない、一世一代の告白をそんな風にスルーされてしまったら立ち直れる自信が無い。
そして自分がそんな状態になってもやっぱり灯子は気にしそうにない、そんな気がする。
しかしそんな杞憂も何もかも人を好きになった人間ならば当然のように抱えるものであって、麻人が特別な訳ではない。
そして麻人は大多数の人間がそうするのと同じように踏み出そう踏み出そうと思いながらも現状維持に甘んじてしまうのだった。
そんな麻人をどこぞの神様だかキューピッドだかは見るに見かねたらしく、一つの大きな転機を二人の間に降らせたのだ。
その日は珍しく二人で外に出かけた日だった、基本的に外に出たがらない灯子だが時折インスピレーションを得たい時には取材の名目で少し遠出する事もある。
麻人にとってはちょっとしたデート気分を味わえる貴重な一時だ、もっとも行った先での灯子はスケッチブックにペンを躍らせるのに忙しくてとてもデートという様子ではないが……。
「植物が見たい」というリクエストに応えて植物園に行った帰り、灯子と麻人は住宅街で車を走らせていた。
どうやらその日は満足のいく「デート」だったらしく、助手席の灯子は機嫌が良さそうだった、最も麻人以外の人間が見たら「どこが?」と言いたくなるような表情だが、麻人には分かるのだ。
その時だった、ドアに肘を付いて外の景色を眺めていた灯子が突然窓に手を付いて何かに注視したのは。
「止めろ、止めろ、止まれっ!」
今まで聞いたことがない声で叫ぶ灯子に驚いて車を路肩に止めると灯子はドアを乱暴に開けて凄い速さで走り出した。
何が何だかわからないが灯子をほおっておく訳にもいかず、麻人も車を飛び下りて灯子を追って走り始める。
速い、ものすごい速さだ、普段運動に縁が無いとは思えない速度で灯子は走る、麻人がまるで追い付けない。
一体何事なのかと思って見てみるとどうやら灯子はほぼ真上を見ながら走っている。
視線の先を辿ってマンションを見上げてみると……。
「……げっ!」
赤ん坊がいた、高層マンションの見上げる程高い階層のベランダ、洗濯物が揺れる下で柵を乗り越えそうになっている。
体が半ば外に出てしまっており、もはや自力では柵の内側に戻れない所まで来てしまっている、いや、今にも落ちそうだ。
どうにかしなければ、と思うが一体どうすればいいのか分からない、仮に赤ん坊の落下地点に間に合って受け止めたとしても衝撃が吸収しきれる訳はない、この高さだと確実に命にかかわる。
「くそったれっ……!!」
悪態をつくがどうにもならない、やがて二人の見ている前で赤ん坊の体がぶらん、と柵から垂れ下がり。
「あっ……!ああーっ!!」
落ちた。
麻人にはどうすることもできなかった、赤ん坊が残酷な万有引力に引かれて真っ逆さまに落ちていく様を見ているしかできなかった。
しかしその時、目の前を走っていた灯子に信じられない変化が起こった。
ばさっ!
その腰付近から漆黒の翼が現れ、灯子は音もなく宙に舞い上がる。
空中にある見えない階段を登るようにするすると上昇し、落下する赤ん坊に接近すると。
ばささっ
翼をはためかせて急降下し、赤ん坊と同じ位の落下速度になる。
そうしておいてからふわりと赤ん坊を腕の中に抱き、翼を激しく動かして減速する。
「……」
麻人は瞬く間に起った常識外れの事態に完全に頭の中が真っ白になり、ただぽかん、と口を開けてその救出劇を見ていた。
灯子は落下速度をエレベーター位の速度に保つと、そのままゆっくりと立ちすくむ麻人の所に下降して来た。
(あれ……俺はいつの間に絵の中に入ったんだろう?)
働かない頭の中で麻人は思った。
赤ん坊を胸に抱き、黒い翼を揺らしながらゆっくりと天から舞い降りてくる灯子の姿は余りに幻想的で美しく、現実感に乏しい。
麻人は自分が一枚の絵画の中に迷い込んでしまったような錯覚を覚えた、跪いて祈りを捧げたいような気分だった。
やがて灯子は麻人の前にふうわりと音も無く降り立つと、抱えていた赤ん坊を麻人に差し出す、夢見心地のような気分のまま麻人は落とさないように赤ん坊を受け取る。
気が付けば既に灯子の腰の黒い翼は無くなっており、そこにはいつものように猫背な彼女が立っているばかりだった。
白昼夢でも見たような感覚だったが、夢でない証拠に麻人の腕の中にはきゃっきゃと喜びの声を上げる赤ん坊が鎮座しており、周囲には黒い羽がひらひらと舞っている。
いまだに唖然としている麻人の前で灯子は顔をしかめてとんとんと腰を叩き。
「……久々に飛ぶと……堪える」
等とのたまったのだった。
マンションの住人に赤ん坊を返すのは一苦労だった、真相を話しても頭がおかしいと思われるだけなので何故かはわからないが外にいたのを保護した、という事にした。
赤ん坊の母親は驚き、こちらを怪しみもしたが最終的にはお礼を言った、麻人はあまり赤ん坊から目を離さない方がいいとだけ注意して引き上げた。
幸いな事にマンションの住人には灯子のあの姿は目撃されなかったらしい、遠目から見た人はいるかもしれないが恐らく夢か錯覚だとでも思い込むだろう、何しろ目の前で見た麻人さえあの光景が現実だったのかどうか半信半疑なくらいだ。
その灯子は今、麻人の前で机に腰掛けて足をぶらぶらさせている、赤ん坊を返してアトリエに帰り着くまで互いに何も言葉は交わしていない。
「……」
「……」
「せんぱ」
「待て」
口を開こうとした麻人を手を上げて制止し、灯子は視線を地面に向けたまま言う。
「……今、考えている所だ、誤魔化そうかぶっちゃけようか」
「……はあ」
「……」
「……」
やがて灯子は顔を上げて言った。
「今日見た事は全て忘れてくれ、と言われたら忘れられるか?」
灯子は誤魔化す方を選んだらしい、当然と言えば当然かもしれない、今日見たものは彼女がこの世で生きていく上で知られてはいけない事なのかもしれない。
そしてこれで確定的に明らかになってしまった、灯子は麻人に対して絶対的な壁を作っている、そこから先に踏み入ってはならない。
「……わかり……ました……」
麻人はどうにかして平静を装って言おうとしたが、腹から搾り出すような声になってしまった。
間接的にだが振られてしまったような形だ、自分はあくまで有能な仕事仲間である事を求められているのであり、彼女の内に踏み入る事は今後も許されない。
しかし彼女が望むならそうあろうとも思った、例え実らない想いを胸に隠し続けなくてはいけないのだとしても彼女の傍にいられるなら……。
「待て」
灯子は二度目の「待て」を言った、先程の「待て」よりも若干慌てた感じがある。
「すまない、今のは私が悪かった、だからそんな顔をするな」
灯子は今まで見た事のない顔をしていた、眉が八の字に寄ってとても困ったような顔をしている、そんな顔の灯子が見ている自分は今どんな顔をしているのか。
「決して君の事を信用していないから誤魔化そうとした訳では無いんだ」
自分の胸の内を正確に読み取られた事で麻人は何だか恥ずかしくなる。
「私自身の度胸の足りなさから逃げを打とうとしてしまった、すまない、ちゃんと話すから顔を上げてくれ」
言われて自分が俯いていた事に気付いて顔を上げる、灯子と目が合った、いつものようにどろりと暗い瞳、しかし今までに無いくらいに自分の事を真っ直ぐに見ている。
「ただ、一つだけ聞かせて欲しい」
「……はい?」
「私が怖いか?」
「……」
確かに灯子に翼が生えた時にはびっくりした、しかしそれで彼女の事を恐れるとか怖がるとかそういう感情は麻人には一切無い、むしろ失礼な言い方をすると「やっぱり普通の人間じゃなかったか」なんて思ったくらいだ。
「いえ、びっくりはしましたけど、先輩は先輩で変わらないですし……」
「……うん、そうか、それはよかった……うん」
灯子はとても緩やかな表情になった、彼女も彼女なりに麻人の気持ちに対して不安を抱いていたらしい。
「……少し、失礼するぞ」
そう言って灯子は机の上で目を閉じた。
最初に変化が起こったのは頭部だった、もそ、と彼女の黒髪を掻き分けて山羊に似た角が音も無く生えてきた、合わせて耳の形状が鋭く長くなる。
「うぅん……」
次に灯子はちょっと艶かしい声を上げると猫背だった背をぐっと反らし、おとがいを上げる、いつもは目立たない胸が強調される。
そうすると艶やかで真っ黒な一対の翼が腰の付近からふさりと現れ、その下からジーンズを押しのけて艶々と光沢があり、どんな動物とも似ていない青紫色の尻尾が飛び出す。
最後にぽう、と首周りに薄紫色の不思議な紋様のような物が発光して浮かび上がった。
「ふぅ……これで、全部だ」
目を開き、猫背に戻って灯子は言う。
麻人はとりあえず体の変化よりも尻尾に押しのけられてジーンズが過激なローライズのようにずり下がり、意外に安産型の大きなおしりが半ば露出してしまっているのを見て赤面した。
「うん、服装の事を考慮に入れてなかったな……」
灯子はジーンズを引き上げる、ちょっと尻尾と羽が窮屈そうだ。
「これがフルバージョンだが、どう思う?」
「あの……はい、きれい、だと、思います」
麻人は何となく目のやり場に困りながら答える、角、羽、尻尾、人間には無いパーツが付属された姿は普通ならば異様に感じるはずだが灯子のそれは欠けていたものが補われたような印象を受ける。
「うん」
灯子はにやりと笑って満足気に頷く、合わせてその尻尾も嬉しげにゆらりと動く。
「その……質問していいすか」
「何でも聞け」
「先輩は……何者ですか」
「……ざっくりしてるな」
「いや、どう聞いていいのやら……」
「まあ、気持ちはわからんでもない」
灯子は足を組み、その膝の上に片肘を突いて顎を支える、体に生える異様なパーツも相まってそのポーズはやたらと様になる。
その姿を見て率直に浮かぶイメージは……。
「……先輩は、悪魔なんですか?」
「まあ、広い定義ではそうとも言う」
「広い定義?」
「悪魔にも色々ある、その中でも私はサキュバスというのに属する」
「サキュバスっていうと……その……」
「「こっち」ではスクヴスという呼び方もされている架空の存在だな、しかし「あっち」でのサキュバスというのは「こっち」とは少し違っていて……」
灯子は言葉を捜すように宙で指をくるくると回す。
「まあ、エロい悪魔だ」
途中で説明が面倒になったらしく、非常に分かり易くて大雑把な説明で終わらせた。
「エロいって……それにその、何なんですか「あっち」とか「こっち」とか」
「この世界と違う世界がこの世にはあるという事だ、まあ追い追い君にも分かる」
「?」
「今は深く考えなくていい」
灯子は謎のような微笑を浮かべた、麻人はちんぷんかんぷんだったがそれ以上質問してもはぐらかされそうな気配を感じたのでそれについては追求しない事にした。
「ええと、悪魔って言っても先輩は悪い人じゃないですよね?」
「何を根拠に言うんだ、それは」
「いや、さっきの先輩の行動を鑑みても……」
赤ん坊を救った先程の事件の事だ。
「サキュバスは人間を糧に生きているからな、数を減らされたら困る」
灯子は素っ気無く言った。
麻人は思う、だからといって身近な人間に正体を晒すというリスクを負ってたった一人の人間を救うというのは割に合わない行動だろう。
しかしこれもあまり突っ込むと灯子が恥ずかしがってへそを曲げるに違いないのでそれ以上は言わない事にする。
「……何だその顔は」
「いえ、別に」
不機嫌そうに言う灯子に麻人は釣り上がりそうになる口の端を隠しながら答える。
「……他に質問はあるか?」
正直肝心の灯子の正体についてははぐらかされただけなのだが、会話を通して灯子は変わらず灯子であると言う事を確認できただけで麻人は満足だった。
次に興味が沸いてくるのがサキュバスという存在についてだ。
「……空、飛べるんですね」
「疲れるけどな」
「こう、魔法的なものって使えるんですか?」
「疲れるけどな」
「ものぐさ過ぎません?」
「君はよく知ってるだろう、そんな事」
麻人は頭を掻いた、何故か質問の趣旨が逸れてしまう。
「その……首のとこの文字みたいなのって何です?」
羽や尻尾などには驚いたが、それと同時に首の周りに現れたうっすらと幻惑的な光を放つ不思議な紋様が目に留まったのだ、何か意味や効果があるのかファッション的な何かなのか。
「いい所に気付いたな、これは「従属のルーン」という魔術的効果のある紋様だ」
「……従属?」
何やら不穏な単語だ。
「全部で五箇所にある」
そう言ってジーンズの裾を少し引き上げて見せる。
晒された白い足首とジーンズを摘んでいる手の手首の部分に確かに首と同じような紋様が浮かび上がっている、見ようによっては鎖が巻きついているのようにも見えるその紋様はつまり両手首、両足首、そして首の五箇所に入っていると言う事だろう。
いやがおうにも「手枷」「足枷」「首輪」をイメージさせられる、そして「従属」という単語。
麻人の胸に何かもやもやしたものが湧き上がる。
灯子はそっと自分のうなじの部分に触れながら言う。
「ここの部分に「支配者」の名が入ってこの紋様は完成する、これを入れられた者はその「支配者」に従属する事になり、「支配者」の命令には一切逆らう事が出来なくなる」
心なしか愛しげにうなじをさすりながら灯子は言う。
説明を聞いた麻人の胸中は先程湧き出したもやもやに覆われていく。
つまり彼女は誰かに「従属」していると言う事だ、決して逆らえない境遇に置かれているという事だ。
そして今うなじに触れている灯子の表情、説明をする時の陶酔したような様子から彼女は強制された訳ではなく甘んじてその支配を受け入れているように見える。
それだけその「支配者」の事を信頼していると言う事だろうか。
麻人の腹の中、鳩尾の付近にずっしりと重い物がわだかまっていく。
交友関係の極端に狭い彼女の知り合いと言えば自分以外には殆ど居ないと思っていた、しかし彼女が人間ではないと言う事を知った今はそれも不確かだ。
自分の知らない……人間では無い知り合いがいてもおかしくは無いのだ、そう、例えば……。
馬鹿らしいと思いながらも麻人の脳内で勝手に「支配者」のイメージが組み上げられていく。
灯子と同じように角、羽、尻尾を備えた絶世の美男、その男が跪く灯子のうなじに自らの名を刻む、灯子は今のような恍惚とした表情でそれを受け……。
「……っっ!」
耐え難い想像で頭を掻き毟りたくなる、自分のただの妄想なのだが、それがいかにも有り得そうなことに感じる。
そんな麻人の胸の内を知ってか知らずか、灯子は微笑を浮かべながら言う。
「見たいか?」
見たくない、そのうなじに刻まれた灯子の「所有者」の名前なんて知りたくもない、今までの話も何もかもを忘れてしまいたい。
しかし灯子がそっと机から降り、後ろを向いて見せると吸い寄せられるように近付き、そのうなじに手を伸ばしてしまう。
嫌だ、見たくない、やめてくれ。
思いながらも自分の意思を無視するように手は動き、灯子の後ろ髪を掻き分ける。
見た目以上に艶やかでいつまでも触っていたくなるような髪の質を手に感じ、それを掻き上げる。
ふわ、と甘いような切ないような灯子の匂いを感じながら灯子の細いうなじに視線が吸い寄せられる。
見たくない!見たくない!見たくない!
そんな意思に反して視線はうなじに刻まれている文字の上をなぞり……。
「はぁ?」
麻人は口をぽかんと開けて間抜けな声を上げた。
そして灯子の髪を下ろして中空を見つめ、今しがた自分が目にした物について頭の中で整理しようとする。
出来ない。
見間違いの可能性を考慮して今一度髪を掻き上げ、文字に目を通す。
「はぁぁ?」
しかしやはり文字は変わらない。
俯いてしばし考え込んだ後、口を開く。
「どうs「同姓同名の別人では無いぞ」
思いついた可能性はあらかじめ予測されていたらしく、被せるように否定される。
「いや、だってこれ……」
麻人は困惑した面持ちで灯子のうなじを見つめる。
そこには奇妙にデフォルメされてはいるがこう読み取れる文字が書いてある。
野 木 麻 人
麻人はとりあえず髪を下ろして灯子から離れた、灯子は後頭部をくしゃくしゃと撫で付ける。
その灯子の前で麻人は顎に手を添えて俯いたまま落ち着き無く右へ行ったり左へ行ったりし始めた。
そうして顔を上げて口を開いた。
「誰が書いたんですかその……「従属のルーン」は」
「私だ」
「自分で書いて効果あるんすか!?」
「うん、「支配者」自身が書く必要は無い、最も自分で自分に刻む奴なんて滅多に居ないが」
そりゃあそうだろう。
「よく自分のうなじに人名とか書けますね?」
「私は画家だぞ、そのくらいの器用さが無くてどうする」
「へええ、凄いっすね、いや、いやいやいや、そうじゃなくて、その……」
麻人はくしゃくしゃと頭を掻き毟った。
「なんっ、何でそんな事したんすか」
「なんとなく」
灯子に対して自らの想いを打ち明ける事は分の悪い賭けのようなものだ。
それなりに付き合いが長いのだから他の人間に比べれば多少の情はあるだろうが、それが異性関係に発展できるレベルなのかと言うと疑わしいと言わざるを得ない。
そもそも基本的に他人に対しての興味が薄い灯子に対して「好きです」だなんて言っても「だから?」とか返されそうな気がしてならない、一世一代の告白をそんな風にスルーされてしまったら立ち直れる自信が無い。
そして自分がそんな状態になってもやっぱり灯子は気にしそうにない、そんな気がする。
しかしそんな杞憂も何もかも人を好きになった人間ならば当然のように抱えるものであって、麻人が特別な訳ではない。
そして麻人は大多数の人間がそうするのと同じように踏み出そう踏み出そうと思いながらも現状維持に甘んじてしまうのだった。
そんな麻人をどこぞの神様だかキューピッドだかは見るに見かねたらしく、一つの大きな転機を二人の間に降らせたのだ。
その日は珍しく二人で外に出かけた日だった、基本的に外に出たがらない灯子だが時折インスピレーションを得たい時には取材の名目で少し遠出する事もある。
麻人にとってはちょっとしたデート気分を味わえる貴重な一時だ、もっとも行った先での灯子はスケッチブックにペンを躍らせるのに忙しくてとてもデートという様子ではないが……。
「植物が見たい」というリクエストに応えて植物園に行った帰り、灯子と麻人は住宅街で車を走らせていた。
どうやらその日は満足のいく「デート」だったらしく、助手席の灯子は機嫌が良さそうだった、最も麻人以外の人間が見たら「どこが?」と言いたくなるような表情だが、麻人には分かるのだ。
その時だった、ドアに肘を付いて外の景色を眺めていた灯子が突然窓に手を付いて何かに注視したのは。
「止めろ、止めろ、止まれっ!」
今まで聞いたことがない声で叫ぶ灯子に驚いて車を路肩に止めると灯子はドアを乱暴に開けて凄い速さで走り出した。
何が何だかわからないが灯子をほおっておく訳にもいかず、麻人も車を飛び下りて灯子を追って走り始める。
速い、ものすごい速さだ、普段運動に縁が無いとは思えない速度で灯子は走る、麻人がまるで追い付けない。
一体何事なのかと思って見てみるとどうやら灯子はほぼ真上を見ながら走っている。
視線の先を辿ってマンションを見上げてみると……。
「……げっ!」
赤ん坊がいた、高層マンションの見上げる程高い階層のベランダ、洗濯物が揺れる下で柵を乗り越えそうになっている。
体が半ば外に出てしまっており、もはや自力では柵の内側に戻れない所まで来てしまっている、いや、今にも落ちそうだ。
どうにかしなければ、と思うが一体どうすればいいのか分からない、仮に赤ん坊の落下地点に間に合って受け止めたとしても衝撃が吸収しきれる訳はない、この高さだと確実に命にかかわる。
「くそったれっ……!!」
悪態をつくがどうにもならない、やがて二人の見ている前で赤ん坊の体がぶらん、と柵から垂れ下がり。
「あっ……!ああーっ!!」
落ちた。
麻人にはどうすることもできなかった、赤ん坊が残酷な万有引力に引かれて真っ逆さまに落ちていく様を見ているしかできなかった。
しかしその時、目の前を走っていた灯子に信じられない変化が起こった。
ばさっ!
その腰付近から漆黒の翼が現れ、灯子は音もなく宙に舞い上がる。
空中にある見えない階段を登るようにするすると上昇し、落下する赤ん坊に接近すると。
ばささっ
翼をはためかせて急降下し、赤ん坊と同じ位の落下速度になる。
そうしておいてからふわりと赤ん坊を腕の中に抱き、翼を激しく動かして減速する。
「……」
麻人は瞬く間に起った常識外れの事態に完全に頭の中が真っ白になり、ただぽかん、と口を開けてその救出劇を見ていた。
灯子は落下速度をエレベーター位の速度に保つと、そのままゆっくりと立ちすくむ麻人の所に下降して来た。
(あれ……俺はいつの間に絵の中に入ったんだろう?)
働かない頭の中で麻人は思った。
赤ん坊を胸に抱き、黒い翼を揺らしながらゆっくりと天から舞い降りてくる灯子の姿は余りに幻想的で美しく、現実感に乏しい。
麻人は自分が一枚の絵画の中に迷い込んでしまったような錯覚を覚えた、跪いて祈りを捧げたいような気分だった。
やがて灯子は麻人の前にふうわりと音も無く降り立つと、抱えていた赤ん坊を麻人に差し出す、夢見心地のような気分のまま麻人は落とさないように赤ん坊を受け取る。
気が付けば既に灯子の腰の黒い翼は無くなっており、そこにはいつものように猫背な彼女が立っているばかりだった。
白昼夢でも見たような感覚だったが、夢でない証拠に麻人の腕の中にはきゃっきゃと喜びの声を上げる赤ん坊が鎮座しており、周囲には黒い羽がひらひらと舞っている。
いまだに唖然としている麻人の前で灯子は顔をしかめてとんとんと腰を叩き。
「……久々に飛ぶと……堪える」
等とのたまったのだった。
マンションの住人に赤ん坊を返すのは一苦労だった、真相を話しても頭がおかしいと思われるだけなので何故かはわからないが外にいたのを保護した、という事にした。
赤ん坊の母親は驚き、こちらを怪しみもしたが最終的にはお礼を言った、麻人はあまり赤ん坊から目を離さない方がいいとだけ注意して引き上げた。
幸いな事にマンションの住人には灯子のあの姿は目撃されなかったらしい、遠目から見た人はいるかもしれないが恐らく夢か錯覚だとでも思い込むだろう、何しろ目の前で見た麻人さえあの光景が現実だったのかどうか半信半疑なくらいだ。
その灯子は今、麻人の前で机に腰掛けて足をぶらぶらさせている、赤ん坊を返してアトリエに帰り着くまで互いに何も言葉は交わしていない。
「……」
「……」
「せんぱ」
「待て」
口を開こうとした麻人を手を上げて制止し、灯子は視線を地面に向けたまま言う。
「……今、考えている所だ、誤魔化そうかぶっちゃけようか」
「……はあ」
「……」
「……」
やがて灯子は顔を上げて言った。
「今日見た事は全て忘れてくれ、と言われたら忘れられるか?」
灯子は誤魔化す方を選んだらしい、当然と言えば当然かもしれない、今日見たものは彼女がこの世で生きていく上で知られてはいけない事なのかもしれない。
そしてこれで確定的に明らかになってしまった、灯子は麻人に対して絶対的な壁を作っている、そこから先に踏み入ってはならない。
「……わかり……ました……」
麻人はどうにかして平静を装って言おうとしたが、腹から搾り出すような声になってしまった。
間接的にだが振られてしまったような形だ、自分はあくまで有能な仕事仲間である事を求められているのであり、彼女の内に踏み入る事は今後も許されない。
しかし彼女が望むならそうあろうとも思った、例え実らない想いを胸に隠し続けなくてはいけないのだとしても彼女の傍にいられるなら……。
「待て」
灯子は二度目の「待て」を言った、先程の「待て」よりも若干慌てた感じがある。
「すまない、今のは私が悪かった、だからそんな顔をするな」
灯子は今まで見た事のない顔をしていた、眉が八の字に寄ってとても困ったような顔をしている、そんな顔の灯子が見ている自分は今どんな顔をしているのか。
「決して君の事を信用していないから誤魔化そうとした訳では無いんだ」
自分の胸の内を正確に読み取られた事で麻人は何だか恥ずかしくなる。
「私自身の度胸の足りなさから逃げを打とうとしてしまった、すまない、ちゃんと話すから顔を上げてくれ」
言われて自分が俯いていた事に気付いて顔を上げる、灯子と目が合った、いつものようにどろりと暗い瞳、しかし今までに無いくらいに自分の事を真っ直ぐに見ている。
「ただ、一つだけ聞かせて欲しい」
「……はい?」
「私が怖いか?」
「……」
確かに灯子に翼が生えた時にはびっくりした、しかしそれで彼女の事を恐れるとか怖がるとかそういう感情は麻人には一切無い、むしろ失礼な言い方をすると「やっぱり普通の人間じゃなかったか」なんて思ったくらいだ。
「いえ、びっくりはしましたけど、先輩は先輩で変わらないですし……」
「……うん、そうか、それはよかった……うん」
灯子はとても緩やかな表情になった、彼女も彼女なりに麻人の気持ちに対して不安を抱いていたらしい。
「……少し、失礼するぞ」
そう言って灯子は机の上で目を閉じた。
最初に変化が起こったのは頭部だった、もそ、と彼女の黒髪を掻き分けて山羊に似た角が音も無く生えてきた、合わせて耳の形状が鋭く長くなる。
「うぅん……」
次に灯子はちょっと艶かしい声を上げると猫背だった背をぐっと反らし、おとがいを上げる、いつもは目立たない胸が強調される。
そうすると艶やかで真っ黒な一対の翼が腰の付近からふさりと現れ、その下からジーンズを押しのけて艶々と光沢があり、どんな動物とも似ていない青紫色の尻尾が飛び出す。
最後にぽう、と首周りに薄紫色の不思議な紋様のような物が発光して浮かび上がった。
「ふぅ……これで、全部だ」
目を開き、猫背に戻って灯子は言う。
麻人はとりあえず体の変化よりも尻尾に押しのけられてジーンズが過激なローライズのようにずり下がり、意外に安産型の大きなおしりが半ば露出してしまっているのを見て赤面した。
「うん、服装の事を考慮に入れてなかったな……」
灯子はジーンズを引き上げる、ちょっと尻尾と羽が窮屈そうだ。
「これがフルバージョンだが、どう思う?」
「あの……はい、きれい、だと、思います」
麻人は何となく目のやり場に困りながら答える、角、羽、尻尾、人間には無いパーツが付属された姿は普通ならば異様に感じるはずだが灯子のそれは欠けていたものが補われたような印象を受ける。
「うん」
灯子はにやりと笑って満足気に頷く、合わせてその尻尾も嬉しげにゆらりと動く。
「その……質問していいすか」
「何でも聞け」
「先輩は……何者ですか」
「……ざっくりしてるな」
「いや、どう聞いていいのやら……」
「まあ、気持ちはわからんでもない」
灯子は足を組み、その膝の上に片肘を突いて顎を支える、体に生える異様なパーツも相まってそのポーズはやたらと様になる。
その姿を見て率直に浮かぶイメージは……。
「……先輩は、悪魔なんですか?」
「まあ、広い定義ではそうとも言う」
「広い定義?」
「悪魔にも色々ある、その中でも私はサキュバスというのに属する」
「サキュバスっていうと……その……」
「「こっち」ではスクヴスという呼び方もされている架空の存在だな、しかし「あっち」でのサキュバスというのは「こっち」とは少し違っていて……」
灯子は言葉を捜すように宙で指をくるくると回す。
「まあ、エロい悪魔だ」
途中で説明が面倒になったらしく、非常に分かり易くて大雑把な説明で終わらせた。
「エロいって……それにその、何なんですか「あっち」とか「こっち」とか」
「この世界と違う世界がこの世にはあるという事だ、まあ追い追い君にも分かる」
「?」
「今は深く考えなくていい」
灯子は謎のような微笑を浮かべた、麻人はちんぷんかんぷんだったがそれ以上質問してもはぐらかされそうな気配を感じたのでそれについては追求しない事にした。
「ええと、悪魔って言っても先輩は悪い人じゃないですよね?」
「何を根拠に言うんだ、それは」
「いや、さっきの先輩の行動を鑑みても……」
赤ん坊を救った先程の事件の事だ。
「サキュバスは人間を糧に生きているからな、数を減らされたら困る」
灯子は素っ気無く言った。
麻人は思う、だからといって身近な人間に正体を晒すというリスクを負ってたった一人の人間を救うというのは割に合わない行動だろう。
しかしこれもあまり突っ込むと灯子が恥ずかしがってへそを曲げるに違いないのでそれ以上は言わない事にする。
「……何だその顔は」
「いえ、別に」
不機嫌そうに言う灯子に麻人は釣り上がりそうになる口の端を隠しながら答える。
「……他に質問はあるか?」
正直肝心の灯子の正体についてははぐらかされただけなのだが、会話を通して灯子は変わらず灯子であると言う事を確認できただけで麻人は満足だった。
次に興味が沸いてくるのがサキュバスという存在についてだ。
「……空、飛べるんですね」
「疲れるけどな」
「こう、魔法的なものって使えるんですか?」
「疲れるけどな」
「ものぐさ過ぎません?」
「君はよく知ってるだろう、そんな事」
麻人は頭を掻いた、何故か質問の趣旨が逸れてしまう。
「その……首のとこの文字みたいなのって何です?」
羽や尻尾などには驚いたが、それと同時に首の周りに現れたうっすらと幻惑的な光を放つ不思議な紋様が目に留まったのだ、何か意味や効果があるのかファッション的な何かなのか。
「いい所に気付いたな、これは「従属のルーン」という魔術的効果のある紋様だ」
「……従属?」
何やら不穏な単語だ。
「全部で五箇所にある」
そう言ってジーンズの裾を少し引き上げて見せる。
晒された白い足首とジーンズを摘んでいる手の手首の部分に確かに首と同じような紋様が浮かび上がっている、見ようによっては鎖が巻きついているのようにも見えるその紋様はつまり両手首、両足首、そして首の五箇所に入っていると言う事だろう。
いやがおうにも「手枷」「足枷」「首輪」をイメージさせられる、そして「従属」という単語。
麻人の胸に何かもやもやしたものが湧き上がる。
灯子はそっと自分のうなじの部分に触れながら言う。
「ここの部分に「支配者」の名が入ってこの紋様は完成する、これを入れられた者はその「支配者」に従属する事になり、「支配者」の命令には一切逆らう事が出来なくなる」
心なしか愛しげにうなじをさすりながら灯子は言う。
説明を聞いた麻人の胸中は先程湧き出したもやもやに覆われていく。
つまり彼女は誰かに「従属」していると言う事だ、決して逆らえない境遇に置かれているという事だ。
そして今うなじに触れている灯子の表情、説明をする時の陶酔したような様子から彼女は強制された訳ではなく甘んじてその支配を受け入れているように見える。
それだけその「支配者」の事を信頼していると言う事だろうか。
麻人の腹の中、鳩尾の付近にずっしりと重い物がわだかまっていく。
交友関係の極端に狭い彼女の知り合いと言えば自分以外には殆ど居ないと思っていた、しかし彼女が人間ではないと言う事を知った今はそれも不確かだ。
自分の知らない……人間では無い知り合いがいてもおかしくは無いのだ、そう、例えば……。
馬鹿らしいと思いながらも麻人の脳内で勝手に「支配者」のイメージが組み上げられていく。
灯子と同じように角、羽、尻尾を備えた絶世の美男、その男が跪く灯子のうなじに自らの名を刻む、灯子は今のような恍惚とした表情でそれを受け……。
「……っっ!」
耐え難い想像で頭を掻き毟りたくなる、自分のただの妄想なのだが、それがいかにも有り得そうなことに感じる。
そんな麻人の胸の内を知ってか知らずか、灯子は微笑を浮かべながら言う。
「見たいか?」
見たくない、そのうなじに刻まれた灯子の「所有者」の名前なんて知りたくもない、今までの話も何もかもを忘れてしまいたい。
しかし灯子がそっと机から降り、後ろを向いて見せると吸い寄せられるように近付き、そのうなじに手を伸ばしてしまう。
嫌だ、見たくない、やめてくれ。
思いながらも自分の意思を無視するように手は動き、灯子の後ろ髪を掻き分ける。
見た目以上に艶やかでいつまでも触っていたくなるような髪の質を手に感じ、それを掻き上げる。
ふわ、と甘いような切ないような灯子の匂いを感じながら灯子の細いうなじに視線が吸い寄せられる。
見たくない!見たくない!見たくない!
そんな意思に反して視線はうなじに刻まれている文字の上をなぞり……。
「はぁ?」
麻人は口をぽかんと開けて間抜けな声を上げた。
そして灯子の髪を下ろして中空を見つめ、今しがた自分が目にした物について頭の中で整理しようとする。
出来ない。
見間違いの可能性を考慮して今一度髪を掻き上げ、文字に目を通す。
「はぁぁ?」
しかしやはり文字は変わらない。
俯いてしばし考え込んだ後、口を開く。
「どうs「同姓同名の別人では無いぞ」
思いついた可能性はあらかじめ予測されていたらしく、被せるように否定される。
「いや、だってこれ……」
麻人は困惑した面持ちで灯子のうなじを見つめる。
そこには奇妙にデフォルメされてはいるがこう読み取れる文字が書いてある。
野 木 麻 人
麻人はとりあえず髪を下ろして灯子から離れた、灯子は後頭部をくしゃくしゃと撫で付ける。
その灯子の前で麻人は顎に手を添えて俯いたまま落ち着き無く右へ行ったり左へ行ったりし始めた。
そうして顔を上げて口を開いた。
「誰が書いたんですかその……「従属のルーン」は」
「私だ」
「自分で書いて効果あるんすか!?」
「うん、「支配者」自身が書く必要は無い、最も自分で自分に刻む奴なんて滅多に居ないが」
そりゃあそうだろう。
「よく自分のうなじに人名とか書けますね?」
「私は画家だぞ、そのくらいの器用さが無くてどうする」
「へええ、凄いっすね、いや、いやいやいや、そうじゃなくて、その……」
麻人はくしゃくしゃと頭を掻き毟った。
「なんっ、何でそんな事したんすか」
「なんとなく」
13/06/02 12:28更新 / 雑兵
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