素材
人々が黒い波の如く行きかう巨大な交差点、その人ごみを見下ろすようにしてビルの側面に展示される巨大な広告の数々、野木 麻人(のぎ あさと)は交差点を歩きながら無数の広告の中でも一際大きく、目立つ看板を見上げた。
それはとある個人の美術展の広告だった、そのアーティストの一枚の絵画を巨大なサイズに引き伸ばし、その隅に作者の名前と開催場所、日時、入場料などの詳細が記されている、広告としては極めてシンプルな作りだ。
その絵画……「木の日」はそのアーティストの数ある作品の中で最もメジャーな一枚だ、一本の木を根元から見上げるようなアングルで描いたその絵は、夜空を覆うように広がる深緑の木の葉と夜闇が溶けあう様が異様な迫力と躍動感でもって描かれている。
こうして巨大な広告になっている状態では分かりづらいが、近付いて見てみるとかなり独特な表現で描かれているのがわかるはずだ、木の葉もその隙間からのぞく夜空もまるで火花が弾けるようなタッチで描かれている、そんなに奇妙な描き方をしているのに遠目から見ると写実的にすら見えるほど違和感が無い。
そしてそのタッチこそがある種異様な躍動感を絵に与えているのだ。
「やっぱすげぇなぁ……」
麻人はしばらくその広告を見つめて周囲の誰にも聞こえないような小声でぽつりと漏らした。
それから約30分後、麻人はその都市の中心部から電車で二駅分移動したあたりの高級住宅街を歩いていた、目的地に向けて迷い無く足を進める彼の手には何やら箱状の包みがぶら下げられている、それをある人物に届けるのが麻人の目的だ。
やがて麻人は高級そうな家々が立ち並ぶ中でも一際大きな家の前に辿り着く。
家の周囲を囲うように庭園、と言っていいような庭が広がっており、緑豊かな家が多い中でも一際目立つ。
蔦の絡み付く大きな玄関・・・と言うより庭園の入り口のような扉の脇にあるインターホンのベルを麻人は押す。
暫くの沈黙の後、インターホンのマイク部分から「サァー・・・」とノイズが聞こえ、マイクが繋がった事がわかる。
(……)
しかし向こうは何も言わない。
麻人はインターホンのカメラ部分を覗き込み、はたはたと手を振って見せる。
(……ブツッ)
向こうの相手は結局一言も喋らないままマイクを切ってしまう。
しかし暫くの間を置いて扉の向こうから「カチッ」と解錠の音が聞こえた。
麻人は扉をくぐり、庭園部分の煉瓦造りの道を歩いて玄関に辿り着くと、ノブを回して家の中に足を入れた。
「おじゃましまーす」
小声で断ってからフローリングの床に上がり、廊下の奥に進む。
真っ昼間だと言うのに家の中は薄暗い、光を取り入れる窓は沢山あるのだがその殆どがシャッターで閉じられていたり分厚いカーテンで覆われていたりするからだ。
広々としたリビングやキッチンも埃をかぶっており、まるでお化け屋敷のような有様である、趣向を凝らして設計した匠が泣こうと言う物だ、そんな中を麻人は勝手知ったる他人の家と言った感じで迷わず奥に足を進め、一つの部屋のドアの前に辿り着く。
「先輩、入りますよ」
「…」
どうやら中に人のいる気配があるが、インターホンの時と同じく返事は無い、麻人はドアを開けて中に入った。
入ったとたん、絵の具やテレピン油等のアトリエ特有の匂いが鼻を突く、普通の人ならば少し眉を顰めてしまうようなその匂いも麻人にとっては馴染み深い物で、逆に落ち着きを感じる。
その部屋は中庭の庭園に面しており、大きな窓からその中庭を見渡せる構造になっているのだがやはりカーテンが掛けられており、遮られて弱々しくなった日光がうすぼんやりと乱雑に散らかったアトリエの様子を浮かび上がらせている。
その部屋の中央、フローリングの床に直に胡坐をかいて座り込んでいる人影が一つある。
人影の前の床には多数の紙が散らばっており、その人物は紙に向かって背を丸めて屈み込み、何かしきりに描いているようだった。
「せんぱーい…餌の時間ですよー」
「…」
声を掛けられてその人影はようやく顔を上げて麻人の方を振り返った。
女性だった、肩のあたりまででぼさっと伸ばされた黒い髪は二つに分けて結えられ、いわゆるツインテールのような形になっており、窓からの弱い光に浮かび上がるその色白な顔は驚くほどに整っている、しかし長い睫毛の下から覗く黒々とした瞳に光は浮かんでおらず、なにか眼球に瞳孔が溶けてしまっているかのようにどろりとした印象を受ける。
そんな目に上目使いでじとおっと見られるのだ、普通の人間ならば思わず委縮する所だろうが、麻人は気圧される様子も無く手にぶら提げた包みを掲げて見せる。
「…ん」
女性は胡坐をかいた体勢のまま麻人の方に手を伸ばしてその包みを受け取ろうとするが、麻人はひょいとその手から包みを遠ざける。
「…何だ」
「先輩、僕が居ない間に食べた物を言って下さい」
「…」
女性は一瞬、目線を上に逸らして逡巡する。
「…コンソメ味、チーズ味、バーベキュー味…あと、塩味…」
「…やっぱポテトチップしか食って無いじゃないっすか!?」
「死にはしない」
「死にますって、いや、ホント」
そう、この女性があの「木の日」を始め、数多の名画を世に送り出し、今や押しも押されぬ新進気鋭のアーティストである「ウツロビ トオコ」こと西明寺 灯子(さいみょうじ とうこ)なのだ。
「…あァ、そうだ、栄養失調で今にも死にそうだとも、だから早く補給させてくれ」
灯子は胡坐から四つん這いになるとのたのたと麻人のほうに這い寄って包みを奪おうとする。
「先輩、その前に手ぇ洗って下さい」
「今朝洗った」
「作業した後に洗って下さい!指真っ黒じゃないっすか!?」
「相変わらず小姑のようにうるさい奴だ…手なんぞ洗わんでも死にはしないのに」
「マナーですマナー!洗わなきゃあげません!」
「ちっ」
灯子は渋々と言った感じで立ち上がると、ぺたぺたとアトリエの出口に向かって歩き始める。
灯子は女性にしては長身な方で、着痩せするため普段はわからないが非常にスタイルもいい、しかし歩く時に極端に猫背になるので折角のスタイルもまるでわからない。
ノブに手を掛けた所で灯子は振り返った。
「…今日は、何だ?」
「ハンバーグです」
それを聞いて灯子は口の端ににたぁ、と笑みを浮かべると部屋を出て行った。
麻人は溜息をついて思う、ちゃんとしてれば物凄い美人なのになぁ・・・。
麻人が初めて灯子の絵に出会ったのは高校生だった頃、休みの日に暇潰しに行った絵のコンクールでの事だった。
その頃の麻人は芸術や絵画の類に一切興味は無く、コンクールに行ったのも暇を持て余した所でたまたま入場券が無料で手に入ったからだ。
ぶらぶらと特に興味のそそられない絵を眺めながら美術館を歩いていた麻人だったが、一枚の絵の前でぴたりと足を止めた。
風景画だった、描かれている景色自体は特に珍しいものでは無く、何処かの家の窓から見えた風景が描かれているだけだ。
しかしだからこそ麻人は心底その絵に驚かされた、何の変哲もない景色をこれほど劇的に描く事ができるものなのか、と。
思わず作者の部分に目を走らせて驚いた、作者の年齢は自分と一つしか変わらない高校生なのだという。
所属する高校名を見て三度驚いた、同じ学校だ。
麻人が初めて灯子本人に出会ったのは学校の美術室でだった。
その絵を見た後、麻人はその絵の作者の先輩にどうしても一目会ってみたいと思うようになった、会ってどうしようという訳では無く、あんな絵を描く人はどんな人なんだろう、という好奇心からの思いだったのだが……。
同じ高校に通っているにしろ、上級生に声を掛けるのはちょっとだけ勇気がいる、麻人はちょっとだけ勇気を出してその生徒……灯子について聞いてみる事にした。
放課後、廊下で集まって雑談している先輩のグループに声を掛けてみると少し訝しげな顔をしながらも答えてくれた。
「あー……あの子、ね、放課後は大概美術室に居るけど、何で?」
「いやあ、コンクールで絵を見たんですけどその絵が凄かったんで、どんな人が描いたのかなあって……」
女の先輩達は顔を見合わせてなんだか微妙な表情をした。
「……何か問題あるんですか?」
「いや、別にないけど……多分、話しかけても相手してくれないよ」
「え?」
「そうそう、じとーって感じのやーな視線向けて来るんだよね」
「全然喋んないし、笑わないし……やっぱほら、才能ある分どっか変なんだよあの子」
「だよねー、いっつも一人だし何考えてるかわかんないしー……」
灯子の話題でお喋りをし始めた先輩達に軽く礼を言って麻人はそそくさとその場を後にした。
どうやらかなり癖の強い人物のようだ。
足早に美術室の前まで辿り着いた麻人は少しドキドキしながらドアに手を掛けた。
普通は授業の時以外は鍵が掛っているものだが、その灯子先輩だけは自由に使っていいと言う半ば暗黙の了解めいたものがあるらしい。
コンクールで数々の賞を獲得している彼女は学校からも大きく期待されていると言う事のようだ。
部屋の中は窓もカーテンも締め切られており、絵の具やら何やらの匂いが篭ってむっとしていた。
「失礼しまーす……」
麻人はおずおずと声をかけながら部屋に入った、どういう人なのかを一目見たら「絵、よかったです、頑張って下さい」とでも言って素早く退散しようと考えていた。
薄暗い室内には一見すると誰もおらず、物音一つない、運動場からの運動部の掛け声が遠巻きに響いてくるのが聞こえてくるくらいだ。
(今日はいないのか……)
思いながら部屋の中をきょろきょろと見回していると、イーゼルに立て掛けられた絵が置いてあるのが目に入った。
ひょっとしてと思いながらその絵を覗き込み、麻人はまたも動きを止めた。
校舎から見下ろした校庭の様子が描かれた絵だった、色が中途半端に入っている未完成の絵、そう、ただそれだけの絵だ。
(……なのに何でこんなに綺麗なんだろう)
麻人は美術館で見た時と同じく、またもしげしげと見入ってしまった。
ガララッ
「っ!」
背後から聞こえた扉の開く音に麻人はぎょっとして振り返った。
そこには一人の女生徒が水の入った小さなバケツを片手に立っていた。
やたらと猫背な人だった、前かがみになっているのでぼさっと伸びた前髪が目元にまで掛かっており。
その前髪の奥から奇妙に光の無いどろりと溶けたような瞳が上目遣いにこちらを見ている、というより睨んでいる。
(うわ、何だこの人)
と言うのが麻人の灯子に対する率直な第一印象だった。
「あー……す、すみません、西明寺灯子、さん……ですか?」
「……」
異様な視線に気圧されながらもたどたどしく問うたが返事は無く、その女生徒はずかずかとこちらに向けて歩いてきた。
「えっちょっあー、すみません、別に絵に何かしていた訳ではなくて……」
自分が絵に何かしたと疑って怒っているのではないかと思い、慌てて釈明しようとするがそんな麻人の声が耳に入っているのか入っていないのか、灯子は麻人に接近すると肩をぐいっと横へ押しやった。
「あっ……とっ……」
どうやらただ邪魔なだけだったらしく、麻人をどけると絵の前に立って続きを描き始めた。
「その…西明寺灯子さんですか?」
描いている絵を見れば一目瞭然なのだが、念のためにもう一度聞いてみる。
「……」
先ほどの先輩の言う通りだった、コミニケーションが全く取れない。
「…ええと、絵、美術館で見たんです、それでその、綺麗だなぁって…」
「……」
「えっと…」
灯子はまるで麻人などいないかのような振る舞いで絵を描き続けている、麻人はもう帰ってしまおうかと思った。
「……」
しかし視線は灯子の手元の色を入れられて完成に近づいていく絵に吸い寄せられていった。
「…見てて、いいですか」
「……」
返事が無いのをいいことに麻人は灯子の後ろで机に寄りかかって彼女が絵を描く様を後ろからじっと見つめ続けた。
麻人が口を閉ざすと美術室の中は静まり返った、灯子が筆で絵の表面を撫でる音と、外からかすかに聞こえる学校の喧騒以外の音は聞こえない。
静寂の中で麻人は一枚の絵が仕上がっていく過程を見ていた、灯子の手付きは外観や態度からは想像できないほど優しく、丹念だった。
その手の中で絵は色を得てますます躍動感を増していく、ただの風景画だというのに。
綺麗だ、と麻人は思った、その絵が、その絵を描く灯子の姿が。
いつしか麻人は自分が絵に見とれているのかその絵を描く灯子に見とれているのか判らなくなっていた。
「……ふぅ」
絵の色彩が粗方決まった所で、灯子は息をついた、思わず麻人も合わせて息をつく。
灯子は振り返ってまたあのじとおっとした視線を向けてきた、思わずたじろぐ麻人、しかしこうも思った。
(……あれ、美人じゃね?)
最初はその姿勢の悪さと目付きの悪さばかりが目についたが、落ち着いて見てみるとその俯き気味の顔は陰鬱そうではあるがはびっくりするほど整っている。
……やっぱり暗い瞳は怖いけれども。
「……鍵」
「え?」
初めて聞く灯子の声は女性にしてはやたらと低い印象だった、唐突に話しかけられたので何を言われたのかわからなかったが、灯子が顎で指した方を見て自分の手元の机に美術室の鍵があることに気付いた。
「締めて、返しといて」
そう言うと手早く道具の後片付けをし、麻人を置いたままさっさと美術室を出て行ってしまった。
二人の出会いはこのような感じだった。
「むぐむぐ」
「ほら先輩、口の周りべたべたじゃないっすか」
そんな風だった灯子と高校を卒業した今でもこうして一緒に食事ができると言うのはひとえに麻人のたゆまぬ努力、もとい、餌付けのお陰と言えるだろう。
取り付く島も無い灯子の態度にもめげずに唯一の得意分野である料理を生かして毎日弁当を作り、少しでも一緒に居られる時間を多くしようと努力した結果、灯子が唯一まともに口を利く相手というポジションに収まる事に成功したのだ。
「ごちそうさま」
「おそまつさま」
灯子はぽん、と手を合わせると立ち上がり、また散らばった紙を相手に奮闘を始める。
大量の紙に大量のモチーフを描くその作業は本人いわく準備運動のようなものらしい、そしてその様子を麻人は飽きることなく眺め始めるのだ。
(……結局、初めて会った頃から進展してないよな、これ……)
麻人はそっと溜息をついた、そう、麻人は灯子のことが好きなのだ、初めて会ったあの日からずっとだ。
毎日のように弁当を作ったり、無視されても付きまとい続けたのはそんな単純な理由だ。
自分でもまさかこんなに奇妙で厄介な人を好きになってしまうとは思わなかった、お陰で卒業してから大学に入った後も浮いた話の一つも無い。
灯子の方はというと学生時代から見せてきた才能を遺憾なく発揮し、独立して絵の収入のみで生計を立てている。
芸術家というと何かと貧乏で副業なしには食っていけないという印象があるが、彼女はそこいらの男を遥かに上回る年収を稼いでいるのだ。
ただし、重度の人見知りの上コミュ障である灯子はまともに絵を売る事も出来ないのでそのあたりのマネジメントは人の手を借りざるを得ない。
そこで灯子が頼ったのが麻人である、給料出すからそのあたりの「面倒くさい色々」は全部処理してもらえるとありがたい、大学に通いながらで構わないから、と、卒業間際に声を掛けられたのだ。
卒業後にどうやって彼女との繋がりを保とうかと悩んでいた麻人には渡りに船だったので喜んで引き受けた。
しかし今になってそれは失敗だったのではないかと麻人は思いはじめている。
給料がもらえるのは有難いのだが、それはつまり灯子との関係がビジネス上の付き合いになってしまう事も意味する。
だから、こうして高校の時みたいに弁当を作って持っていっても体調管理という「仕事」という感覚になってしまう。
かといって今のこの状態を止めてしまうと彼女との接点は無くなるし、何より彼女が困る。
彼女に密接に関わることは出来たが、「男女の関係」という意味では高校の頃から距離を変える事が出来ずにいるのが現状だ。
(……アレなんかいい証拠だよなあ)
麻人はちら、とアトリエの奥にある扉を見た。
「プライベート」と看板が掛けられているその部屋は部外者は勿論、麻人も入れてもらえない。
曰く、「人に見せられるような物じゃない」作品の数々が眠っているらしい。
無論、そこに入れないから心を開いていないと言うことではないだろう、誰にでも秘しておきたい事はある。
しかし麻人は知りたいのだ、彼女の隠しておきたいものでさえ、何もかもが。
そして現時点の自分は入りたい、見たい、などと言える身分ではないのは明らかだ、自分は彼女の才能をサポートする人、ただそれだけなのだ。
あまり溜息ばかりついていても妙に思われるので実際にはしなかったが、麻人は心の中で長い溜息をついた。
住宅街が夕暮れに染まる頃に麻人は灯子邸の玄関を出た、本当はもっと居たいのだがあまり長居していても迷惑になるので帰る事にしたのだ。
視線を一瞬だけ後ろに送ったが無論、絵に集中している灯子は見送りになど来ない。
今日もまた何の進展も無く帰ってしまう、苦い物が胸にこみ上げる、そもそも彼女は自分の事などよく働く便利な奴という認識でしか無いのだろう。
そして実際にその通りなのだ、モーションらしいモーションなんてかけた事が無いのだから。
(意気地無しめ……)
麻人はくしゃくしゃと頭を掻きながら空の弁当箱をぶら下げて帰り道を歩いた。
その時、背後の灯子邸の窓が麻人が前を向いたタイミングで静かに開き、白い顔が覗いた、灯子だ。
「……」
灯子は窓枠に手を置き、去っていく麻人の後姿をそのどろりと暗い目を大きく見開いてじいっと見つめる。
やがてその姿が見えなくなると自分の手首をすりすりと手の平でこすった。
その手首には目を凝らさなくては見えないくらいうっすらとした文様のような物が浮かび上がっているのが見える。
擦られるとその文様は薄紫にぼんやりと発光し始めた。
「……ふうぅっ」
何か、熱いものを吐き出すような溜息を一つつくと背中を丸めて部屋に戻る。
いつもよりも緩慢な動作でアトリエ内を横切ると、「プライベートルーム」の扉を開けてその中に入り、ぱたんと閉めた。
それはとある個人の美術展の広告だった、そのアーティストの一枚の絵画を巨大なサイズに引き伸ばし、その隅に作者の名前と開催場所、日時、入場料などの詳細が記されている、広告としては極めてシンプルな作りだ。
その絵画……「木の日」はそのアーティストの数ある作品の中で最もメジャーな一枚だ、一本の木を根元から見上げるようなアングルで描いたその絵は、夜空を覆うように広がる深緑の木の葉と夜闇が溶けあう様が異様な迫力と躍動感でもって描かれている。
こうして巨大な広告になっている状態では分かりづらいが、近付いて見てみるとかなり独特な表現で描かれているのがわかるはずだ、木の葉もその隙間からのぞく夜空もまるで火花が弾けるようなタッチで描かれている、そんなに奇妙な描き方をしているのに遠目から見ると写実的にすら見えるほど違和感が無い。
そしてそのタッチこそがある種異様な躍動感を絵に与えているのだ。
「やっぱすげぇなぁ……」
麻人はしばらくその広告を見つめて周囲の誰にも聞こえないような小声でぽつりと漏らした。
それから約30分後、麻人はその都市の中心部から電車で二駅分移動したあたりの高級住宅街を歩いていた、目的地に向けて迷い無く足を進める彼の手には何やら箱状の包みがぶら下げられている、それをある人物に届けるのが麻人の目的だ。
やがて麻人は高級そうな家々が立ち並ぶ中でも一際大きな家の前に辿り着く。
家の周囲を囲うように庭園、と言っていいような庭が広がっており、緑豊かな家が多い中でも一際目立つ。
蔦の絡み付く大きな玄関・・・と言うより庭園の入り口のような扉の脇にあるインターホンのベルを麻人は押す。
暫くの沈黙の後、インターホンのマイク部分から「サァー・・・」とノイズが聞こえ、マイクが繋がった事がわかる。
(……)
しかし向こうは何も言わない。
麻人はインターホンのカメラ部分を覗き込み、はたはたと手を振って見せる。
(……ブツッ)
向こうの相手は結局一言も喋らないままマイクを切ってしまう。
しかし暫くの間を置いて扉の向こうから「カチッ」と解錠の音が聞こえた。
麻人は扉をくぐり、庭園部分の煉瓦造りの道を歩いて玄関に辿り着くと、ノブを回して家の中に足を入れた。
「おじゃましまーす」
小声で断ってからフローリングの床に上がり、廊下の奥に進む。
真っ昼間だと言うのに家の中は薄暗い、光を取り入れる窓は沢山あるのだがその殆どがシャッターで閉じられていたり分厚いカーテンで覆われていたりするからだ。
広々としたリビングやキッチンも埃をかぶっており、まるでお化け屋敷のような有様である、趣向を凝らして設計した匠が泣こうと言う物だ、そんな中を麻人は勝手知ったる他人の家と言った感じで迷わず奥に足を進め、一つの部屋のドアの前に辿り着く。
「先輩、入りますよ」
「…」
どうやら中に人のいる気配があるが、インターホンの時と同じく返事は無い、麻人はドアを開けて中に入った。
入ったとたん、絵の具やテレピン油等のアトリエ特有の匂いが鼻を突く、普通の人ならば少し眉を顰めてしまうようなその匂いも麻人にとっては馴染み深い物で、逆に落ち着きを感じる。
その部屋は中庭の庭園に面しており、大きな窓からその中庭を見渡せる構造になっているのだがやはりカーテンが掛けられており、遮られて弱々しくなった日光がうすぼんやりと乱雑に散らかったアトリエの様子を浮かび上がらせている。
その部屋の中央、フローリングの床に直に胡坐をかいて座り込んでいる人影が一つある。
人影の前の床には多数の紙が散らばっており、その人物は紙に向かって背を丸めて屈み込み、何かしきりに描いているようだった。
「せんぱーい…餌の時間ですよー」
「…」
声を掛けられてその人影はようやく顔を上げて麻人の方を振り返った。
女性だった、肩のあたりまででぼさっと伸ばされた黒い髪は二つに分けて結えられ、いわゆるツインテールのような形になっており、窓からの弱い光に浮かび上がるその色白な顔は驚くほどに整っている、しかし長い睫毛の下から覗く黒々とした瞳に光は浮かんでおらず、なにか眼球に瞳孔が溶けてしまっているかのようにどろりとした印象を受ける。
そんな目に上目使いでじとおっと見られるのだ、普通の人間ならば思わず委縮する所だろうが、麻人は気圧される様子も無く手にぶら提げた包みを掲げて見せる。
「…ん」
女性は胡坐をかいた体勢のまま麻人の方に手を伸ばしてその包みを受け取ろうとするが、麻人はひょいとその手から包みを遠ざける。
「…何だ」
「先輩、僕が居ない間に食べた物を言って下さい」
「…」
女性は一瞬、目線を上に逸らして逡巡する。
「…コンソメ味、チーズ味、バーベキュー味…あと、塩味…」
「…やっぱポテトチップしか食って無いじゃないっすか!?」
「死にはしない」
「死にますって、いや、ホント」
そう、この女性があの「木の日」を始め、数多の名画を世に送り出し、今や押しも押されぬ新進気鋭のアーティストである「ウツロビ トオコ」こと西明寺 灯子(さいみょうじ とうこ)なのだ。
「…あァ、そうだ、栄養失調で今にも死にそうだとも、だから早く補給させてくれ」
灯子は胡坐から四つん這いになるとのたのたと麻人のほうに這い寄って包みを奪おうとする。
「先輩、その前に手ぇ洗って下さい」
「今朝洗った」
「作業した後に洗って下さい!指真っ黒じゃないっすか!?」
「相変わらず小姑のようにうるさい奴だ…手なんぞ洗わんでも死にはしないのに」
「マナーですマナー!洗わなきゃあげません!」
「ちっ」
灯子は渋々と言った感じで立ち上がると、ぺたぺたとアトリエの出口に向かって歩き始める。
灯子は女性にしては長身な方で、着痩せするため普段はわからないが非常にスタイルもいい、しかし歩く時に極端に猫背になるので折角のスタイルもまるでわからない。
ノブに手を掛けた所で灯子は振り返った。
「…今日は、何だ?」
「ハンバーグです」
それを聞いて灯子は口の端ににたぁ、と笑みを浮かべると部屋を出て行った。
麻人は溜息をついて思う、ちゃんとしてれば物凄い美人なのになぁ・・・。
麻人が初めて灯子の絵に出会ったのは高校生だった頃、休みの日に暇潰しに行った絵のコンクールでの事だった。
その頃の麻人は芸術や絵画の類に一切興味は無く、コンクールに行ったのも暇を持て余した所でたまたま入場券が無料で手に入ったからだ。
ぶらぶらと特に興味のそそられない絵を眺めながら美術館を歩いていた麻人だったが、一枚の絵の前でぴたりと足を止めた。
風景画だった、描かれている景色自体は特に珍しいものでは無く、何処かの家の窓から見えた風景が描かれているだけだ。
しかしだからこそ麻人は心底その絵に驚かされた、何の変哲もない景色をこれほど劇的に描く事ができるものなのか、と。
思わず作者の部分に目を走らせて驚いた、作者の年齢は自分と一つしか変わらない高校生なのだという。
所属する高校名を見て三度驚いた、同じ学校だ。
麻人が初めて灯子本人に出会ったのは学校の美術室でだった。
その絵を見た後、麻人はその絵の作者の先輩にどうしても一目会ってみたいと思うようになった、会ってどうしようという訳では無く、あんな絵を描く人はどんな人なんだろう、という好奇心からの思いだったのだが……。
同じ高校に通っているにしろ、上級生に声を掛けるのはちょっとだけ勇気がいる、麻人はちょっとだけ勇気を出してその生徒……灯子について聞いてみる事にした。
放課後、廊下で集まって雑談している先輩のグループに声を掛けてみると少し訝しげな顔をしながらも答えてくれた。
「あー……あの子、ね、放課後は大概美術室に居るけど、何で?」
「いやあ、コンクールで絵を見たんですけどその絵が凄かったんで、どんな人が描いたのかなあって……」
女の先輩達は顔を見合わせてなんだか微妙な表情をした。
「……何か問題あるんですか?」
「いや、別にないけど……多分、話しかけても相手してくれないよ」
「え?」
「そうそう、じとーって感じのやーな視線向けて来るんだよね」
「全然喋んないし、笑わないし……やっぱほら、才能ある分どっか変なんだよあの子」
「だよねー、いっつも一人だし何考えてるかわかんないしー……」
灯子の話題でお喋りをし始めた先輩達に軽く礼を言って麻人はそそくさとその場を後にした。
どうやらかなり癖の強い人物のようだ。
足早に美術室の前まで辿り着いた麻人は少しドキドキしながらドアに手を掛けた。
普通は授業の時以外は鍵が掛っているものだが、その灯子先輩だけは自由に使っていいと言う半ば暗黙の了解めいたものがあるらしい。
コンクールで数々の賞を獲得している彼女は学校からも大きく期待されていると言う事のようだ。
部屋の中は窓もカーテンも締め切られており、絵の具やら何やらの匂いが篭ってむっとしていた。
「失礼しまーす……」
麻人はおずおずと声をかけながら部屋に入った、どういう人なのかを一目見たら「絵、よかったです、頑張って下さい」とでも言って素早く退散しようと考えていた。
薄暗い室内には一見すると誰もおらず、物音一つない、運動場からの運動部の掛け声が遠巻きに響いてくるのが聞こえてくるくらいだ。
(今日はいないのか……)
思いながら部屋の中をきょろきょろと見回していると、イーゼルに立て掛けられた絵が置いてあるのが目に入った。
ひょっとしてと思いながらその絵を覗き込み、麻人はまたも動きを止めた。
校舎から見下ろした校庭の様子が描かれた絵だった、色が中途半端に入っている未完成の絵、そう、ただそれだけの絵だ。
(……なのに何でこんなに綺麗なんだろう)
麻人は美術館で見た時と同じく、またもしげしげと見入ってしまった。
ガララッ
「っ!」
背後から聞こえた扉の開く音に麻人はぎょっとして振り返った。
そこには一人の女生徒が水の入った小さなバケツを片手に立っていた。
やたらと猫背な人だった、前かがみになっているのでぼさっと伸びた前髪が目元にまで掛かっており。
その前髪の奥から奇妙に光の無いどろりと溶けたような瞳が上目遣いにこちらを見ている、というより睨んでいる。
(うわ、何だこの人)
と言うのが麻人の灯子に対する率直な第一印象だった。
「あー……す、すみません、西明寺灯子、さん……ですか?」
「……」
異様な視線に気圧されながらもたどたどしく問うたが返事は無く、その女生徒はずかずかとこちらに向けて歩いてきた。
「えっちょっあー、すみません、別に絵に何かしていた訳ではなくて……」
自分が絵に何かしたと疑って怒っているのではないかと思い、慌てて釈明しようとするがそんな麻人の声が耳に入っているのか入っていないのか、灯子は麻人に接近すると肩をぐいっと横へ押しやった。
「あっ……とっ……」
どうやらただ邪魔なだけだったらしく、麻人をどけると絵の前に立って続きを描き始めた。
「その…西明寺灯子さんですか?」
描いている絵を見れば一目瞭然なのだが、念のためにもう一度聞いてみる。
「……」
先ほどの先輩の言う通りだった、コミニケーションが全く取れない。
「…ええと、絵、美術館で見たんです、それでその、綺麗だなぁって…」
「……」
「えっと…」
灯子はまるで麻人などいないかのような振る舞いで絵を描き続けている、麻人はもう帰ってしまおうかと思った。
「……」
しかし視線は灯子の手元の色を入れられて完成に近づいていく絵に吸い寄せられていった。
「…見てて、いいですか」
「……」
返事が無いのをいいことに麻人は灯子の後ろで机に寄りかかって彼女が絵を描く様を後ろからじっと見つめ続けた。
麻人が口を閉ざすと美術室の中は静まり返った、灯子が筆で絵の表面を撫でる音と、外からかすかに聞こえる学校の喧騒以外の音は聞こえない。
静寂の中で麻人は一枚の絵が仕上がっていく過程を見ていた、灯子の手付きは外観や態度からは想像できないほど優しく、丹念だった。
その手の中で絵は色を得てますます躍動感を増していく、ただの風景画だというのに。
綺麗だ、と麻人は思った、その絵が、その絵を描く灯子の姿が。
いつしか麻人は自分が絵に見とれているのかその絵を描く灯子に見とれているのか判らなくなっていた。
「……ふぅ」
絵の色彩が粗方決まった所で、灯子は息をついた、思わず麻人も合わせて息をつく。
灯子は振り返ってまたあのじとおっとした視線を向けてきた、思わずたじろぐ麻人、しかしこうも思った。
(……あれ、美人じゃね?)
最初はその姿勢の悪さと目付きの悪さばかりが目についたが、落ち着いて見てみるとその俯き気味の顔は陰鬱そうではあるがはびっくりするほど整っている。
……やっぱり暗い瞳は怖いけれども。
「……鍵」
「え?」
初めて聞く灯子の声は女性にしてはやたらと低い印象だった、唐突に話しかけられたので何を言われたのかわからなかったが、灯子が顎で指した方を見て自分の手元の机に美術室の鍵があることに気付いた。
「締めて、返しといて」
そう言うと手早く道具の後片付けをし、麻人を置いたままさっさと美術室を出て行ってしまった。
二人の出会いはこのような感じだった。
「むぐむぐ」
「ほら先輩、口の周りべたべたじゃないっすか」
そんな風だった灯子と高校を卒業した今でもこうして一緒に食事ができると言うのはひとえに麻人のたゆまぬ努力、もとい、餌付けのお陰と言えるだろう。
取り付く島も無い灯子の態度にもめげずに唯一の得意分野である料理を生かして毎日弁当を作り、少しでも一緒に居られる時間を多くしようと努力した結果、灯子が唯一まともに口を利く相手というポジションに収まる事に成功したのだ。
「ごちそうさま」
「おそまつさま」
灯子はぽん、と手を合わせると立ち上がり、また散らばった紙を相手に奮闘を始める。
大量の紙に大量のモチーフを描くその作業は本人いわく準備運動のようなものらしい、そしてその様子を麻人は飽きることなく眺め始めるのだ。
(……結局、初めて会った頃から進展してないよな、これ……)
麻人はそっと溜息をついた、そう、麻人は灯子のことが好きなのだ、初めて会ったあの日からずっとだ。
毎日のように弁当を作ったり、無視されても付きまとい続けたのはそんな単純な理由だ。
自分でもまさかこんなに奇妙で厄介な人を好きになってしまうとは思わなかった、お陰で卒業してから大学に入った後も浮いた話の一つも無い。
灯子の方はというと学生時代から見せてきた才能を遺憾なく発揮し、独立して絵の収入のみで生計を立てている。
芸術家というと何かと貧乏で副業なしには食っていけないという印象があるが、彼女はそこいらの男を遥かに上回る年収を稼いでいるのだ。
ただし、重度の人見知りの上コミュ障である灯子はまともに絵を売る事も出来ないのでそのあたりのマネジメントは人の手を借りざるを得ない。
そこで灯子が頼ったのが麻人である、給料出すからそのあたりの「面倒くさい色々」は全部処理してもらえるとありがたい、大学に通いながらで構わないから、と、卒業間際に声を掛けられたのだ。
卒業後にどうやって彼女との繋がりを保とうかと悩んでいた麻人には渡りに船だったので喜んで引き受けた。
しかし今になってそれは失敗だったのではないかと麻人は思いはじめている。
給料がもらえるのは有難いのだが、それはつまり灯子との関係がビジネス上の付き合いになってしまう事も意味する。
だから、こうして高校の時みたいに弁当を作って持っていっても体調管理という「仕事」という感覚になってしまう。
かといって今のこの状態を止めてしまうと彼女との接点は無くなるし、何より彼女が困る。
彼女に密接に関わることは出来たが、「男女の関係」という意味では高校の頃から距離を変える事が出来ずにいるのが現状だ。
(……アレなんかいい証拠だよなあ)
麻人はちら、とアトリエの奥にある扉を見た。
「プライベート」と看板が掛けられているその部屋は部外者は勿論、麻人も入れてもらえない。
曰く、「人に見せられるような物じゃない」作品の数々が眠っているらしい。
無論、そこに入れないから心を開いていないと言うことではないだろう、誰にでも秘しておきたい事はある。
しかし麻人は知りたいのだ、彼女の隠しておきたいものでさえ、何もかもが。
そして現時点の自分は入りたい、見たい、などと言える身分ではないのは明らかだ、自分は彼女の才能をサポートする人、ただそれだけなのだ。
あまり溜息ばかりついていても妙に思われるので実際にはしなかったが、麻人は心の中で長い溜息をついた。
住宅街が夕暮れに染まる頃に麻人は灯子邸の玄関を出た、本当はもっと居たいのだがあまり長居していても迷惑になるので帰る事にしたのだ。
視線を一瞬だけ後ろに送ったが無論、絵に集中している灯子は見送りになど来ない。
今日もまた何の進展も無く帰ってしまう、苦い物が胸にこみ上げる、そもそも彼女は自分の事などよく働く便利な奴という認識でしか無いのだろう。
そして実際にその通りなのだ、モーションらしいモーションなんてかけた事が無いのだから。
(意気地無しめ……)
麻人はくしゃくしゃと頭を掻きながら空の弁当箱をぶら下げて帰り道を歩いた。
その時、背後の灯子邸の窓が麻人が前を向いたタイミングで静かに開き、白い顔が覗いた、灯子だ。
「……」
灯子は窓枠に手を置き、去っていく麻人の後姿をそのどろりと暗い目を大きく見開いてじいっと見つめる。
やがてその姿が見えなくなると自分の手首をすりすりと手の平でこすった。
その手首には目を凝らさなくては見えないくらいうっすらとした文様のような物が浮かび上がっているのが見える。
擦られるとその文様は薄紫にぼんやりと発光し始めた。
「……ふうぅっ」
何か、熱いものを吐き出すような溜息を一つつくと背中を丸めて部屋に戻る。
いつもよりも緩慢な動作でアトリエ内を横切ると、「プライベートルーム」の扉を開けてその中に入り、ぱたんと閉めた。
12/05/05 06:17更新 / 雑兵
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