前編
死ぬ時は天使様が迎えに来るんだと聞いた事があった。
ミヴァンは信じていなかった。
貧民街の路地で日々を盗みで食い繋ぐ子供である彼は、そんな御伽話を信じれるほど純真になれなかった。
だけど今、彼は信じた。
実際目の前にしたなら、信じる他なかった。
・
・
・
いくつかの不運が重なった結果だった。
事の他寒い日が続いた事、寝床の確保に失敗した事、食べ物が尽きた事……。
最低限の保護を得られない子供達にとって、不運は容易く死に繋がる。
ミヴァンはその不運に捉えられた結果、雪の降り積もる薄暗い路地の片隅でぼろきれにくるまりながらその短い生涯を終えようとしていた。
そこで、天使を見たのだ。
確かに、霞む視界に薄っすらと輝く天使を。
(……天使様……?)
紛れもなく天使だ。
背には大きく広がる純白の翼。
その翼を照らす神々しい後光。
天上の者にしか有り得ない人間離れした美貌。
このうらびれた場所にあり得ない儀式的で豪奢な鎧。
だが、それはミヴァンの想像とは違った。
彼の想像する天使は慈悲と慈愛を司る神の御使い。
この今際に自分の前に現れたという事は、生まれてから何も与えられなかった哀れな自分を優しく天に導いてくれる存在であるはずだった。
だが、今ミヴァンの目の前に降臨した天使の印象は、一言で表すならば「氷」
血の気が通っているとは思えない、純白を通り越して青白い肌。
蒼を基調とした兜から溢れる豊かな髪は、曇天を思わせる薄い灰色。
薄く開かれた切れ長な目は、文字通りに氷のようなアイスブルー。
その瞳から発される鈍い眼光は、今もミヴァンを死に追いやろうとしている冬の外気と同様かそれ以上に冷たい。
(もしかして……)
既に朦朧とした意識の中で思う。
天使は天使でも、自分を地獄へしょっ引くために遣わされたのでは?
考えてみれば天使に迎えて貰えるほど自分は善行を積んだ覚えはない。
いや、悪行に染まり切っていたと言える。
だがそれで地獄行きはあんまりではないだろうか。
自分は確かに盗みを働いたが、それ以外に生きる道などなかった。
神は黙って境遇を受け入れて飢え死にする事を選べというのだろうか。
(だとしたら……いや……もう……いいや……疲れた……)
天使様が地獄への案内人でも何でもいい。
自分は幕を下ろしたかった、目を閉じたかった。
カチャ
と、金属的な靴音が鳴った。
今まで氷の彫像のように立っていた天使がミヴァンの傍に歩み寄ったのだ。
そうして、虫の息のミヴァンの傍に跪いた。
(何……?何だ……?もうほっといて……)
と、その天使は信じられない言葉を発した。
「立ちなさい」
今のミヴァンにとって、どんな言葉よりも厳しい言葉だった。
この体で立ち上がるというのは地獄に放り込まれるよりも辛い、そう断言できる。
耳を疑うミヴァンの傍で、また天使が言う。
「立ちなさい」
天から降るように美しく、荘厳で、透明で、人間らしい情を微塵も感じさせない冷たい声。
不意に怒りを感じた。
立ちなさい、って何だ。
寒空の下で凍えて死のうとしている子供相手にかける言葉がそれが。
手ぐらい差し伸べたらどうなんだ、情ってものは無いのか。
「立ちなさい」
ふざけやがって、畜生、立ってやる、見てやがれ。
ミヴァンの手足が震えながら冷たい地面を引っ掻く。
ふうふうと真っ白な息を吐きながら身悶える。
天使は手を貸そうとはしない、ただ、その様子を冷たい目で見ている。
「貴方は」
初めて「立ちなさい」以外の言葉を紡いだ。
その天使の顔を睨み付けながら、ミヴァンは小鹿のようにぶるぶる震えながら身を起こす。
ぼろきれが肩から滑り落ち、僅かな体温が更に逃げて行く。
それでも起き上がる。
「ここで倒れていい者ではない」
ミヴァンは立った。
這いつくばっていた地面から体を引き剥がすようにして、雪の降り止まない暗い空に向かって立ち上がった。
ずたぼろの姿で、天使を睨みながら立っていた。
それが限界だった。
ふつり、と糸が切れたようにミヴァンの身体が崩れ落ちる。
その体が倒れる寸前、羽毛のように柔らかなものがミヴァンを受け止めた。
温かくて、いい匂いがした。
こんなにいい匂いを嗅いだのは生まれて初めてだった。
しかし、それが何かを認識する前にミヴァンの意識は遠ざかって行った。
「それが、貴方の最初の一歩だ」
遥か遠くで、冷たく透き通る声を聞いた。
・
・
・
その天使の声がこの世で最後に聞いた声だとしても不思議ではなかったが、ミヴァンは目を覚ました。
そしてそれは生まれて初めての目覚めだった。
これまでのミヴァンにとっての目覚め、とは幸福な夢の終わりを告げる悲しい瞬間、もしくは悪夢と大差無い現実への帰還だった。
だが、この気分はどうだろう。
使った事はないが、最高級の寝具による睡眠から覚めたらこんな感じだろうか。
いつものぼんやりと頭に霞の掛かった目覚めとは違う、身体の隅々が目を覚ましたような爽快さ。
そして、この全身を包む温かさ……これは……。
と、その温かさの原因に気付いた所で急激に頭が現実に引き戻される。
何故なら毛布のようにミヴァンを包み込んでいるのは純白の翼。
そう、天使の羽。
「……????」
視線に映るのは意識を失う直前と変わらない薄暗い路地。
あの天使の姿は無い。
それはそうだ、だってその天使の翼は今、自分を背後から包み込んでいる。
と言う事は、今自分が身を預けているこの羽毛以上に温かく、柔らかな感触は……。
くるり、と背後を振り返ると、アイスブルーの瞳と至近距離で視線がぶつかった。
「起きましたか」
息が掛かるほどの距離で天使が言う。
そう、ミヴァンが背中を預けて眠っていたのは壁に寄りかかって座り込んだ天使の膝の上。
そうして背後から抱きかかえた上で、その翼で外気から守るように包み込んでいたのだ。
「……あ!わ!うわっ!わわわ!」
認識した瞬間、つんのめるように体を前方に投げ出して天使の抱擁から逃れた。
翼から離れた瞬間刺すように冷たい外気に晒されるが、それに構わず尻もちをついた体勢でずりずりと天使から距離を取った。
混乱も驚きもあったが、何より「恐れ多い」という感情が勝った。
薄汚れた自分が新雪のような天使の翼を汚す事を恐れたのだ。
そんなミヴァンを変わらず冷たい目で見ながら、天使はファサ、と翼を揺らして立ち上がった。
「……」
その姿にミヴァンは今度は別の意味で言葉を失った。
最初に見た時、天使は重厚な鎧を纏っていたが、それはミヴァンを温めるのに不向きと判断したのだろう。
天使は鎧を取り外した真っ白なインナー姿になっていた。
その薄手の衣服から浮き上がる体のラインは、正しく神が授けた女性として完璧な造形。
なだらかな肩のラインから続く華奢な鎖骨、たわわに胸元を押し上げる女性の象徴に、縊れた腰回り、女性的に豊かな下半身……。
鎧を纏っている時には分からなかった女としての完璧さが、薄手のインナー越しに惜しげもなく晒されている。
生まれてこの方、女と言えば安宿の娼婦かケチな老婆しか見た事のなかったミヴァンは恐れ多さも忘れ、ただぼんやりと見惚れるしか出来なかった。
そのある種不躾な視線を気にした様子もなく、天使は何かを小さく口の中で呟いた。
と、青白い光がその姿を包むと同時にいつの間にか天使は鎧姿に戻っていた。
いったいどういう魔法なのか、いや、それこそ神力というものか、その鎧は瞬時に自在に出現させる事が出来るようだった。
完璧な女性らしさを鎧の内に隠すとその姿はやはり氷の彫像ようだった。
「ミヴァン」
「あぇ、あひゃぃ」
感情の籠らない透き通る声で名を呼ばれ、ミヴァンは間の抜けた声で返事をした。
「主は貴方に勇者の才を見出し、私を遣わした」
「……へ、え、……」
「私はウルスイ、貴女を導く「ヴァルキリー」だ」
「……勇者……ヴァルキリー……」
「私は貴方の勇者としての才覚を育成する使命を持ってここに居る」
「……」
「よって貴方は」
「……ぷ、ふふ、ふふふふ……」
「……」
「あは、あはははは!あっはっはっはっはっは!」
ミヴァンは腹を抱えて笑い始めた。
笑うしかなかった。
「ぜっっっったい人違いだって!ミヴァンじゃなくてレヴァンとか、コヴァンとか……とにかく間違いだって!よりによって俺が……その……」
勢いのままに口走っていたが、その言葉も尻すぼみに小さくなっていった。
ウルスイが微動だにせず、眉一つ動かさずにこちらを見ていたからだ。
その氷の視線に射貫かれるともう、何も言えなくなる。
「今現在の貴方は確かに勇者ではない、あくまで勇者の卵に過ぎない」
カチャ、カチャ、とウルスイが近付く、ミヴァンはそれだけで平服したくなるような威圧感を感じる。
「そして、勇者となる意思も持ち合わせてはいない」
すっ、と手を背後に持っていく。
「それでも私は使命を果たします、そのため貴方に勇者となる理由を与えましょう」
その手をミヴァンの前に差し出した。
手の上に乗っているのは真っ赤な林檎。
「目先の利益を」
「……」
きょと、きょと、とミヴァンはその林檎とウルスイの顔を交互に見比べた。
そっと手を伸ばしてもウルスイが動かないのを確認すると、ぱっとひったくるように林檎を奪った。
がつがつがつがつ!
無我夢中に、獣のようにミヴァンは林檎を貪った。
瑞々しく、熟れた果実。
残飯でもない、腐りかけでもない、どれくらいぶりかのまともな食べ物。
芯も種も残さず胃に納め、名残惜し気にぺろぺろと手を舐める。
食べ終えて一息ついた所で、思わず怯えたような視線を上げた。
本当に食べて良かったのか、卑しさを咎められるのではないか。
それでもあの林檎を差し出された瞬間、食べる前に相手に許可を求めるという行為は挟まなかった。
それは今まで生きて来て身に付いた習性のようなもの。
取れる時に取る、取ったらすぐ食べる。
とにもかくにも、食べてしまえば奪われない、後から返せと言われても返さずに済む。
腹を殴って吐き出させられようとも、いくらかは腹に残る。
今までずっと、そういうものだったのだ。
ウルスイはおどおどと自分を見つめるミヴァンに対して何も言わなかった。
叱る事も殴る事もしなかった。
直前のウルスイの言葉を思い出す。
(目先の利益)
食べさせて貰える、という事だろうか。
飢えずに済むという事だろうか……?
「な、なる、なります、勇者になります、なりますから……だから……」
ミヴァンは精一杯の媚びを浮かべた笑みでウルスイを見上げた。
だから、もう一個……できればもう一個……勇者でも何でもやるから、もう一個……
そのミヴァンの顔を見たウルスイは、少しの間じっと目を閉じた。
ミヴァンはその一挙一動にびくびくと反応する。
「……まず、「施し」の形で利益を渡すのは今ので最後です、ですがこれ以降は私が貴方に付き、食事には困らないようにしましょう」
「……は……はい……」
ミヴァンは複雑な心境を胸にしまって答えた。
欲しいのは今、今すぐなのだ。
だが、これ以降食事に困らなくしてくれる、という文言でミヴァンはとにかくこの天使に付いていく事を決めた。
と、ウルスイは不意にミヴァンに目線を合わせるように膝を付いた。
冷たく、厳しい氷の視線を至近距離に浴びたミヴァンはたちまち体を固くする。
「まず、最初の教えです」
視線を真っ直ぐに合わせながら言う。
「誰かから施しを受けたなら、言うべき言葉があります」
「……」
ミヴァンは緊張でぐるぐると頭を回しながら、どうにかこうにか言葉を探して紡いだ。
「……あ……ありがとう、ございます……」
「よくできました」
ほんの少し、ウルスイの目に籠る冷気が和らいだ……ような気がした。
ミヴァンはまた、ぼんやりと見惚れる。
「それでは」
ウルスイは立ち上がると、バサ、と翼をはためかせた。
と、見る間にその翼は彼女の背を覆うマントに姿を変え、鎧も旅に向いた軽装へと形を変えていた。
その天使から旅人への転身にミヴァンは目を瞬かせた。
「す、すごい……」
「目立たないよう服装を変えます、貴方の服装も考えなくては」
(……目立たない……?)
ミヴァンは密かに心の中で疑問を感じた。
服装が変わっても彼女の容姿が、そして纏う空気が変わった訳ではない。
簡素な服装であろうとも、その氷の美貌は所かまわず人目を引くと思われる。
「行きますよ、ミヴァン」
「ど、どこへ……?」
「ここではない場所、貴方は沢山の物を見て、知らなくてはいけない」
よくわからない。
だけど、ここではない何処かへ。
見た事のない場所へ。
その言葉にミヴァンの胸がとくん、と脈打った。
「は、はい……はい……!」
ウルスイの背を追って駆け出すミヴァンを見下ろす空は、門出を祝う晴天ではない。
昨晩と変わらず今にも雪がちらつきそうな、灰色の曇天。
寒く、厳しく、それでも見守っている。
ウルスイの髪と、同じ色。
・
・
・
ミヴァンは赤い夕陽を見ていた。
一日の終わりを告げる西日を水平線に溶かしながら海に沈んでいく太陽を。
潮風を受けながらミヴァンとウルスイの二人は港町の海岸線を歩いていた。
この町で今夜の宿を探している所だった。
「知らなかったんだよな……」
顔を西日で赤く染めながら、ミヴァンはぽつりと呟いた。
その顔は生まれた町を出た当時から比べると大きく変わっていた。
まだまだ幼さを残しているが、常に飢えと寒さに震え、おどおどしていた少年はそこにはいない。
細枝のようだった手足は太くなり、重い荷物を背負っても歩調は乱れない。
伸び放題だったぼさぼさの髪は短く切られ、旅によって乱れてはいるがそこそこに整えられている。
ぼんやりと濁っていた瞳は夕日を反射して光を放っている。
二人が旅に出て、季節が一巡りするくらいの期間が過ぎた。
少なくとも、彼の当時を知っている者が見ても彼とは気付かないだろう。
「何をですか?」
前を歩くウルスイが振り返らないまま問う。
こちらはミヴァンが出会った当初と何も変わっていない。
当初にミヴァンが危惧した通り、地味な服装でも隠し切れない美貌が周囲の目をそこそこに引いているが、本人はどこ吹く風だ。
「海がこんなにでっかいって……」
波の音に耳を傾けながら、ミヴァンの方も独り言のように言う。
「そうですか」
ウルスイも短く答える。
だが、彼女にはわかっていた。
その一言が海だけを指しているのではない事を。
ミヴァンの幼い頃の記憶には……正確にはウルスイと出会う前の記憶は思い出せる場所が数えられる程だった。
それは意地悪な神父がいる教会だったり、漁りやすいゴミ箱のある食堂だったり、飲んだくれの集う酒場だったり。
色々と思い返してみても、それは半径数キロの中に凝縮されていたように思う。
それがミヴァンの全てで、世界の全部だった。
いつでもミヴァンは今日を生き抜く事で精一杯だった。
自分の知る世界の外に何があるかなんて、興味を抱く余裕すら無かった。
今は違う。
海がこれだけ大きい事を知っている。
その海水のしょっぱさを知っている。
その上で揺られる船の乗り心地を知っている。
どんな魚がいて、どう捕獲されるかを知っている。
山も知っている。
足を滑らせれば容易く命を失う場所を知っている。
そこに流れる肺が痛くなるほど澄んだ空気を知っている。
木々のせせらぎや、そこに歌う鳥たちの声を知っている。
そこに住む危険な獣の獣臭さを知っている。
その獣から頂く命の味を知っている。
街も知っている。
自分が育った場所と似たような貧しい人々が奪い合う場所を知っている。
裕福な人々が贅を競うような街を知っている。
とりたてて特徴のない平和な町を知っている。
どの町の人々にも事情があり、それぞれに懸命に生きている事を知っている。
(知らなかったんだよな……)
心の中で繰り返した。
・
・
・
「何故、旅をするのですか?」
そう問うた事がある。
森の中で夜を過ごす事になり、二人で焚火を囲っていた時だ。
「勇者は、強くなることが本懐なのでは……?」
おずおずとした問いかけ。
まだウルスイに質問する事も慣れておらず、話しかけるのにも勇気が必要だった頃だ。
ミヴァンが想像する勇者、とは魔物や悪人を打ち倒す英雄だ。
つまり、何よりも強さが求められるはずなのだ。
だとしたこのように旅をするのではなく、拠点を構えてそこで鍛錬を行ったほうがよいのでは?
町を出た後も常に抱いていた疑問だった。
焚火の温かな光に照らされて尚冷たい輝きを放つ瞳でウルスイはミヴァンの顔をじっと見た。
「貴方はあの町の人々の事が好きですか?」
何か良くない質問だったろうかとハラハラしていると、おもむろにそう問いかけられた。
あの町、というのは自分の生まれた町の事だろう。
「気を遣う事はありません」
正直に答えていいものかどうか悩んでいるとそう言われたので正直に答える事にした。
「……嫌い、です……」
「そうでしょう」
その感想を事も無げに彼女は肯定した。
「勇者とは何を成す者だと思いますか?」
唐突な質問にごく、と喉が鳴った。
正直改めて言われると自信が無い。
「その……悪いものを倒すというか……世界の為にというか……戦う……存在……みたいな……?」
「その通りとも言えます」
しどろもどろに答えるミヴァンを見ながらウルスイは曖昧な答え方をした。
「ただ、戦うのみが方法ではありません、人々を救うために出来る事は戦いだけではありません」
よくわからない、勇者は戦う者という印象しかない。
「あらゆる行動を通じて、世界を少しでも良い方向へ導く者が勇者です」
「……」
話が大きすぎてピンとこない。
「あるいは「そうせずにいられない」者が勇者です」
「そうせずにいられない……?」
「自らが努力し、犠牲を払ってでもそうせずにいられない者……何故、そうせずにいられないのだと思いますか」
「わかりません……」
「愛しているからです」
「……?」
話が理解できず視線を泳がせるミヴァンを、ウルスイは蒼く輝く瞳で見つめながら言う。
「どこかの誰か、或いは何か、動物、営み、景色、音、匂い、思い出……この世界を構築する一部、あるいは全てを」
ウルスイは視線を外し、焚火の炎を見つめた。
「失いたくない、守りたい、そういう想いを強く持つ者が勇者です」
「……」
ミヴァンは焚火を見つめた。
「じゃあ、やっぱり俺は勇者じゃないや」
唇を噛み締めている。
「さっき言ったので全部なんだ……何もかも全部……嫌いだ……大っ嫌いだ……」
小さく吐き捨てた後、怒られるだろうかと視線を向けると、ウルスイは意外な程穏やかな眼差しを向けていた。
「それを見つける為に、旅をするのです」
「見つける……?」
「貴方は何も愛せていない、愛する事が出来ない、それは何も知らないからです」
「……」
「きっと愛せます、これから沢山見て、聞いて、感じて、知って、きっと貴方は愛するものを沢山見つける」
ミヴァンは膝を抱えてうずくまるように地面を見つめる。
「そんな事……俺には……」
「出来ます、主に選ばれると言う事はそういう事です、私もそう考えています」
ミヴァンは顔を上げた。
その時にはもう、ウルスイは焚火に視線を移していた。
「明日も早い、もう休みましょう」
「……はい」
マントにくるまりながら、ミヴァンは心の中で一つの言葉を噛み締めた。
(私もそう考えています)
ウルスイは頻繁に「主」という言葉を使う。
それは教会の神父が自分を折檻する口実に使っていた言葉より遥かに真に近い意味なのだろう。
だがそれでも尚、ミヴァンにとって「主」という存在は現実感の伴わない存在だった。
ミヴァンにとってそんな「主」の言葉なんかよりも、このウルスイのその言葉が何より響いたのだった。
・
・
・
「ふっ……!ふっ……!ふっ……!」
港の朝もやの中、ミヴァンは素振りを行っていた。
(回数をこなす事を目的にしてはいけません、最初より次、次よりもその次、修正し、精度を増してこそ意味があります)
疲労から頭が空になりそうになる度に、耳にタコが出来る程言われた言葉が蘇る。
体幹を意識し、ぶれを修正する。
ウルスイの施す「修行」は、想像よりもずっと地に足のついたものだった。
食事にしてもそうだ。
最初の言葉通り、施しとして無償で渡してもらえたのはあの林檎一個が最後だった。
それ以降は二人での狩りや山での収穫、もしくは依頼や仕事を引き受けての賃金によって日々の食糧を得ている。
基礎的な体力は旅の中で自然に付いて行った。
合わせて道の歩き方から狩猟方法まで、基本的な生き延びる術を学んだ。
その上で戦闘の訓練を施してもらえるようになったのは、実は最近だ。
それまでは主に「座学」が主だった。
道徳、教養、読み書き、初歩的な数学から地理学まで……。
それら全ては決して優しいものではなく、ウルスイは常に手抜きなく、真剣に取り組ませた。
実はそれらに辟易して、旅が始まって何度か逃亡を試みようとした事もあった。
が、街を離れた場所でウルスイから離れて生きる術があるはずもなく、またウルスイも決して逃がしはしなかった。
そうしてあらかたの教養を叩きこまれた後、ようやく戦闘の訓練に入った時も最初に行ったのは「呼吸」と「姿勢」の改善だった。
これには驚いた、ようやく剣を渡して貰えるかと思ったら息の仕方と立ち方から入るとは。
だが、いざ始まって見るとこれが困難極まりなかった。
呼吸も姿勢も、つまり日常そのものだ。
無意識に行う事を改善するというのは見た目の地味さに反して生半可な苦労ではなかった。
しかし今にして考えると、自分がこれだけ剣を振ってもほぼ息を乱さないのも、フォームが崩れないのも、全てその土台があるからだと気付く。
ウルスイは常に合理的に先を見て物を教える、そして一つをマスターするまで決して次の段階に進まない。
ミヴァンもその成果を身をもって体感してきたからこそ、ウルスイに全幅の信頼を寄せるようになっていったのだ。
「ふぅ……」
朝の訓練を終え、一息を入れる。
ウルスイの姿は傍にはない。
彼女の朝は主への祈りの時間から始まり、それはどこであっても一時も欠かされた事はない。
祈りの時間は自主的な練習になるので最初はサボりがちだったが、一目見られただけですぐにばれるので一人でも真面目にやるようになった。
「……」
すぐに呼吸は整った、体の充実を感じる。
着実に、自分は強くなる土台を作っているという実感を得ている。
まだまだ未熟な卵でしかないとも実感しているが……ウルスイの教えに従っていれば間違いないと確信を持てる。
だが、心はどうだろう。
ミヴァンが汗を流していたのは、海沿いの宿から程近い砂浜。
そこで潮風に吹かれながら朝もやに包まれる水平線を見つめた。
色々と見て来た、感じて来た、知って来た。
多分ウルスイの言う世界の何百分の一にも満たないだろうが、盗人だった時と比べるべくもない程に知見は広がった。
(……好きなもの……)
ウルスイは言った、きっと世界を愛せる、好きな物が沢山見つかる、と。
守りたいくらいに愛せるもの、というのは今だによくわからない。
確かに美しい景色を沢山見たし、沢山の人々を見て来た。
だが、それら全てを超えてミヴァンが最も愛するものはただ一つしか見つかっていない。
そして、これからもそれを超えて愛せるものがあるとは思えなかった。
それは……。
「……」
ミヴァンは首を振ると、港町に散歩にでも出ようと砂を踏んで歩き始めた。
港の朝は早い、まだ夜が明けきっていない時間帯にも関わらず、市場には朝に水揚げされた魚達が次々と並べられる。
漁師達が声を張り上げて売りに精を出している。
周囲に漂う魚と海の臭い、人々の活気。
(……うん……好きだな……)
守りたいほど愛する、とは違うかもしれないがミヴァンは活気のある場所は好きだった。
これらの営みがずっと続いて欲しい、と考えたりする。
こうしたものが積み重なっていけば、ウルスイの言う勇者というものに近付けるのだろうか。
「おいっガキっ、邪魔だよ!」
「あ、すいません」
魚の詰まった籠を運ぶ男に言われ、道を開ける。
どうもまだ幼いミヴァンはすこしばかりこの場で浮いているようだ。
考えてみると師であると同時に自分の保護者であるウルスイから離れて、こうした場所を歩くのは随分久しぶりな気がする。
(心配するかな……そろそろ戻ろうか)
そう考えて踵を返した時だった。
(へえ、こんなのも売ってるんだ……)
魚ばかりかと思ったら、それ以外の雑貨や日用品などを並べている露店もあるようだった。
魚の臭いが移りそうなのにも構わず並べられている衣類や雑多な物達……。
ふと、その隣の店に並べられている物に目を引かれた。
装飾品を扱っているらしいその店先に並んでいる指輪やネックレス、その中で一際目を引く輝きがあった。
他に比べて高級な物かというとそうではない、その色に覚えがあったから目を引いたのだ。
アイスブルーの輝きを放つネックレス。
無論、彼女の瞳に比べれば深さも透明度も比べ物にならない、だがそれは彼女によく似合いそうに見えた。
「……」
店先に歩み寄って見てみると、店の主人は後ろを向いて荷物の整理をしているようだった。
「……」
ミヴァンは視線を正面に向けたまま興味を引かれた様子も見せずに店の前を横切る、店主はまだ後ろを向いている。
いける
それは心のどこからか聞こえた声。
自分でも意識していないような深くから聞こえた声。
ミヴァンの手は素早く動き、そのネックレスを音もなく掴んで懐に握り込んだ。
店主は気付いていない。
よし
(……え?)
ミヴァンは立ち止まった。
え? え? え? え? え? え?
あれ? 俺は何を? 何をやってるんだ? 一体……。
「泥棒!」
背後から声が響いた。
振り返るまでもなく、あの店主の声だとわかった。
「何だぁ!?」
「どこだ!」
「そいつ!そいつだ!」
ここではそういった事態は頻繁に起こるらしく、すぐさま周囲の店の人間達が反応して店から飛び出してくる。
ミヴァンは弾かれたように走り出した。
違う、違う、違うんだ、
こんな事するつもりじゃ、
俺は、俺は勇者に……。
普段のミヴァンならば軽々と振り切れただろう。
本人は自覚していないが歳に似合わぬ身体能力を既に身に着けている。
だが、今のミヴァンは混乱している。
呼吸は乱れ、足元もおぼつかない。
混乱しながらも人込みをかき分け、抜け出し、路地裏へ飛び込んだ。
「待てこら!ガキ!」
「逃がさねえぞ!」
路地裏は行き止まりだった、途方に暮れるミヴァンを複数の男達が囲む。
「ち、違う、ちが……」
「ああ?その手に持ってるのは何だ」
「こ、これ、これは……」
震えながら自分の手の中を見る。
蒼い輝き。
盗んだ、自分が盗んだもの……。
ウルスイの顔が脳裏をよぎる。
ずかずかと男の一人がミヴァンに近寄り、拳を振るおうとする。
ミヴァンはその拳を避けて懐に潜り込み、肩をぶつける。
「んなっ……!」
男は容易くバランスを崩し、尻もちをついた。
「大人しくしろこの!」
「ガキが!」
次々飛び掛かる男達をミヴァンはするすると捌く。
いつも練習相手にしているウルスイと比べたら、男達はまるで木偶の坊のようだった。
訓練の成果だった。
ミヴァンの頭の中は滅茶苦茶だった。
(違う、こんな、こんな事の為に鍛えてきたんじゃない)
(悪い奴と戦うために、世界を少しでも良くするために……)
だが、現実はどうだろう。
盗みを働いた自分を追って来た町の住人達に対して、訓練の成果を見せている。
ウルスイの教えを使っている。
ウルスイの教えを汚している。
「たっ……」
男達をひらひらと捌きながら、ミヴァンは泣きそうな顔になる。
(助けて……!)
「何をしているのですか」
底冷えのする声が路地に響いた。
路地の入口に氷の彫像のように立っている女性の影が見えた。
心から安心できる声。
同時に今、一番聞きたくなかった声。
「ああ?何だあん……た……」
「関係ねえだ……ろ……」
ミヴァンを捕まえようと躍起になっていた男達は、ウルスイの姿を見て尻すぼみに語気を弱めた。
ウルスイの纏うその空気、絶対零度の冷ややかな眼差し、氷のような美貌。
何か、その視線の前ではあらゆる罪が暴かれるような威圧感。
正当な理由があろうと、大の男達が一人の子供を追い回すという事実を罪として自覚させられるような……。
「ミヴァン」
感情が無いかのような無色透明な声が路地に響き、ミヴァンの心臓がぎゅぅ、と縮まる。
「何がありましたか」
「……」
嘘を、つきたかった。
そう、例えば商品をポケットにねじ込まれ、濡れ衣を着せられた。
ちゃんと代金を払ったのに誤解が生じた。
そもそもこの男達はごろつきで自分は絡まれただけ……。
「俺……」
水分の全てを失ったようなカラカラに乾いた喉から声を搾り出す。
「俺……」
冷たい視線が自分を射る、アイスブルーの瞳が。
「俺……」
手を開き、ちゃらりとネックレスを見せる。
「とっ……盗っちゃっ……たんだ……」
告白した。
「……」
ウルスイの氷のような表情は変わらない。
眉一つ動かない。
耳の奥まで自分の心臓の鼓動が届く、破裂しそうに脈打っている。
カツ、カツ、カツ、と、ウルスイが路地に歩み入る。
男達はその雰囲気に押されて道を開ける。
ウルスイはミヴァンの前にまで歩み寄った。
相変わらず表情は無い。
「あの……」
ゴ パ ン ッ
鼻先から脳天まで、稲妻が落ちたかのような衝撃が走った。
視界に火花が炸裂する。
同時にびゅう、と後頭部から風を感じた。
上下の感覚が消失し、手足が人形のように宙に投げ出される。
ターン!
と、路地に地面を打つ音が響く。
気付けばミヴァンは地面に仰向けに倒れていた。
天罰
天罰だ。
そう感じた。
「しっ……」
「死ん……」
一方男達は唖然としていた。
突然現れた人間離れした美貌の女は盗人の少年に近寄ると、その顔面に強烈な鉄拳を食らわせた。
あまりの威力に少年の身体はその場でびゅびゅん、と一回転半し、背中から落ちた。
全員が死んだ、と思った。
が、女は倒れた少年を掴んで立ち上がらせた。
少年は膝をかくかく揺らしながら大量の鼻血を滴らせている、同じくらい涙も溢れている。
その少年の頭を掴んで強引に下げさせると、女自らも深々と頭を下げた。
少年の鼻からはぼたぼたと血が滴り続けている。
その体勢のまま、女はもう片方の手を差し出した。
いつの間に取ったのか、少年が盗んだネックレスがその手に乗っていた。
「どうか、許して欲しい、全ては私の責任だ」
無機質な声で、女は言った。
「……ご……ぐず、ぐじ……ごへんらはぃ……」
少年も言った、鼻血でうまく喋れないらしい。
「……いや……まあ……」
「……気を付けな……」
もう、それ以上責め立てる雰囲気ではなくなっていた。
男達はネックレスを受け取ると、路地から立ち去って行った。
「……」
「……ぐず……ぐふっ……」
二人は頭を上げた、路地にはただ、ミヴァンが鼻血を啜る音だけが響く。
ウルスイは黙ってミヴァンの顔に手をかざした。
ぽう、と手のひらが光り、ミヴァンの真っ赤に腫れた鼻柱が元の色に戻り、鼻血も止まった。
「……」
「……」
しん、と路地は静まり返る、遠い世界の音のように市場の喧噪が表から聞こえて来る。
カツ カツ カツ
と、ウルスイが表に向けて歩き始める。
ミヴァンは立ったままだ。
「あ……」
歩いて行くウルスイの後ろ姿をミヴァンは見ていた。
路地裏から見ていた。
そう、まるで出会った時のような、あの薄汚れた路地に、自分を置き去りに去っていくウルスイの背中を……。
そうだ、結局そうだったんだ。
最初からわかっていたんだ。
勇者になんて、自分がなれるはずが無かったんだ。
やっぱり手違いだったんだ。
そう言われて、なれるような気になって。
生まれついての盗人が、舞い上がって。
でも得だったじゃないか、色々教えて貰ったし。
これからは一人でも飢える事もなく生きていける。
ウルスイに悪い事しちゃったな。
無駄な時間使わせちゃったな。
さよなら。
さよなら。
さよなら。
カツ、と足音が止まり、ウルスイが振り返った。
「ミヴァン」
そう、声を掛けられた瞬間、ミヴァンはウルスイに飛びついた。
「ああああああああああ!うわああああああああ!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさいぃ!」
跪き、服を力一杯握り締めながら泣き叫んだ。
「ごめんなさい!ごめっ、ごめんなさい!ごっ、ヒュッ、ごめんなさっ、ヒュウッ」
言葉の合間に鋭い音が混じる、呼吸が出来ていない。
「けほっ!けほっ!けほっ!ごめんさい、ヒューッ、ヒューッごめっ……」
ミヴァンの背中にそっと、手が置かれた。
「落ち着きなさい」
「ひゅぅ、ヒューッ」
「呼吸を整えて……教えたでしょう」
「ふぅー、すぅ、フゥー、フゥー」
息をする、教えられた通りに。
「立ちなさい」
膝を付いた自分に、ウルスイはそう言う。
「立ちなさい」
出会ったあの時と同じように。
「立ちなさい」
「っく……ヒクッ……っく……」
まだしゃくり上げながら、ミヴァンは立ち上がる。
「貴方はここで挫ける者ではない」
やはり、感情の籠らないような声でウルスイは言う。
少しの間を置いて、一つ付け加えた。
「私は、そう思っています」
「うっ……う、うう、う……」
その言葉に再び涙が溢れそうになる。
「呼吸の方法を一から学び直しです、集中して付いてくるように」
「は、う、ぐす、はい゛、ぐず、ぐす」
再び歩み出すウルスイの後に付いて、ミヴァンは歩き出す。
傍に寄り添ったりはしない。
しかし、距離が開きすぎないよう歩調を調整するウルスイの足元を見ながら、ミヴァンは思った。
(なりたい)
(勇者になりたい)
・
・
・
その一件以来、ウルスイの修行は少し変わった。
訓練の合間に対話の時間を設けるようになったのだ。
「心根の問題ではなく、罪を犯してしまう事がある」
ウルスイはそう言った。
そうして、ミヴァンに感じる事、考える事、楽しい事、辛い事を話すよう促した。
付き合いが長くなると分かるのだが、彼女は確かに印象通りに厳しい。
しかしそれは真剣さの表れであり、それと同じくらいの優しさも秘めているのだ。
ただ、その優しさが目に見え辛いのだ。
ミヴァンがたどたどしく自分の思いを語る時、ウルスイは一見すると変わらず冷たい目をしている。
だが返す内容を聞くと彼女がいかに自分の話を真剣に聞き、考えているかが伺えた。
話を聞く時も食事中や休憩中など、極力こちらが落ち着けるよう気を使っているのがわかった。
そうした彼女の努力の末、ミヴァンは自分でも気付けていない点に多く気付く事ができた。
修行を経て変わったつもりだったが、本当はウルスイと出会う前の「無意味な自分」がずっと影を落としていた事。
幼い頃の寒さ、飢え、寂しさが時折蘇り、今が夢なのではないかと不安になる事。
ウルスイの努力に報いる事が出来るか、不安を抱えている事。
大変だけれども、実は旅が好きな事……。
「一つ、考えがあります」
そうして対話を重ねた末、ウルスイが提案したのはとある町の食堂でだった。
「考え、ですか……?」
食後のお茶を挟んでの対話の時間。
いつもと違う切り出しにミヴァンは戸惑った。
「貴方には安息日が必要だと思われます」
「安息……?」
「貴方は強い」
「そっ……いや……ウルスイに比べたら全然……」
ミヴァンはもじもじする。
「戦いの強さとは違った面、精神的なストレスに対する耐性が高いのです」
「む、難しいけど、要は我慢強いって事?」
「そうとも言います」
(これ、褒めてくれてるのかな……)
どうも言い回しが回りくどくてわかりづらいが、そうな気がする。
「しかし、私はそれに甘えていた面がありました、それは私の落ち度です」
「そ、そんな、ウルスイに落ち度なんて……」
「あります、私は完璧ではありません、そもそもこれまで貴方の話を聞くに、重要な事を見落としていました」
「重要な事……?」
何だろう、思うままにこちらが話すのを聞いてもらっているばかりだが、そんなに重要な事を言っただろうか。
「常に付きまとっている自己否定の感情、不意に発露する盗難癖……」
「そ、それは俺が弱いから……」
「いいえ、貴方には愛情が足りていない」
頭に浮かぶのは、以前に聞いた「世界を愛する」という話。
「まだ、俺は愛せていないって話……?」
「違います、愛情を与える前にまず、受け取らなくてはいけなかった」
「受け取る……」
「本来は生まれた時に受けていなくてはいけない親からの愛情……いえ、肉親でなくとも育ての保護者から受ける愛情」
「……」
そうして言葉にされると、ミヴァンの表情に影が落ちる。
物心付いた時から今までそういった意味での「愛情」というものなら、確かに自分は知らない。
「私が与えます」
「……ウルスイからはもう、十分に受け取ってるよ……」
恥ずかしそうに、ただ、同時に少し寂し気にミヴァンは言った。
「伝わっていたなら僥倖です、ですが、私はもっと分かりやすい形で貴方に示したい」
「示すって……」
「それが安息日、です」
話を要約するとこうだ。
二週に一度、修行を行わない日を設ける。
食事から何から身の回りの事は全てウルスイが引き受け、ミヴァンはただそれを享受する。
それが安息日。
「そ、そんな事したらウルスイの負担が……」
「ヴァルキリーである私を侮らないでいただきたい、負担という程の事もありません」
「……」
正直、魅力的に感じる。
強くなる事を実感できる修行は嫌いではないが、それはそれとして大変ではある。
それも何もせず、ただウルスイにお世話をしてもらえる日……?
「い、いいのかな……」
「まずは試してみましょう……一週間後に」
「一週間……」
思わぬ予定に、ミヴァンは内心どきどきした。
(やっぱり……)
そして……ほんの僅かな痛みも覚えていた。
(やっぱり、ウルスイの愛情って……「親子」みたいな愛情なんだな……)
それが、ミヴァンにとって少し悔しかった。
・
・
・
「……はっ?」
目を覚ました瞬間に違和感を感じた。
今日の宿は宿場町に借りた宿。
その宿の窓から朝日が差し込んでいる。
(寝過ごした?どうして?いつもなら起こされるはず……?)
慌てて飛び起きながら服を整えようとする。
朝の稽古は日が昇る前に始まる。
日が差しているという事はもう、かなり遅れているという事だ。
「ミヴァン?」
ばたばた着替えているとカチャ、とドアが開き、ウルスイが顔を出して声を掛けた。
「す、すいません!すぐに準備……?」
と、ウルスイの姿に違和感を覚えた。
彼女の服装は大抵はマントを羽織った旅人の服、もしくは有事の際には鎧を纏う。
今日のウルスイはどちらでもない、ゆったりとした麻の服にエプロンをかけた姿だ。
そして、やはりそんな簡素な身なりになってもその美貌は隠せる物ではない。
むしろ普段の近寄りがたい雰囲気がその村娘のような服装で和らげられ、いつもと違う雰囲気にどきどきしてしまう。
「落ち着いて下さい、今日は「安息日」ですよ」
そう言って後ろ手にドアを閉める。
「安息日に「寝坊」という言葉はありません……もう起きますか?」
「えっ……と……」
起きるかどうか、なんて質問は初めてなのでどう答えていいか悩んでしまう。
「では、朝食に?」
「あ……うん……」
「下に用意しています、いつでも降りてきて下さい」
「はい……」
降りて行くウルスイの後ろ姿をぼんやり眺めながらミヴァンは呟く。
「安息日……かぁ……」
二階から降りると朝食の匂いが漂っていた。
この宿は食事は出していないので、どうやらウルスイが宿の厨房を借りて作ったらしい。
「わぁ」
思わず声が出る。
いつもの朝食はしっかりとした栄養補給を目的に作られたものが多い。
だが、この朝食は果物を中心にミヴァンの好きなもので構成されている、しかも盛り付けがとても綺麗だ。
「一緒に、食べますか?」
「あ、はい!」
エプロンを外しながらウルスイが言うと、ミヴァンは嬉しそうに言う。
どれだけ豪華でも一人で食べるのは侘しいものだ。
向かい合って席に着くウルスイを見てふと、思い当る。
(いつももっと早くに食べてるのに……)
そう、いつものペースならとっくに済ませている時間帯。
自分と食事を共にするために食べずに待っていたのだ。
「できれば感想を聞きたいですね、次の参考にしたいので」
「うん……うん……!」
食材がいつもより高級という訳ではない、だけどいつもよりひと手間かかった品々にミヴァンは舌鼓を打った。
「あの……」
「はい」
「その……」
「何でしょう」
食器が片付けられた後に出されたコーヒーを楽しみながら、ミヴァンは気まずそうに目の前に座るウルスイに問う。
「この後……どうすれば……?」
いつもであれば決まっている。
町の調査に旅の順路の決定、そこからどれだけ訓練の時間を取れるかの割り出し。
山ほどある。
だが、今日は安息日。
何も予定は入っていない。
つまりは自由な時間を与えられてもどう過ごしていいのかわからないのだ。
「そうですね……」
それに関してはウルスイも同様な様子だった。
とりあえず朝の過ごし方は決めていたが、そこからはミヴァンの好きにしてもらうつもりだった。
が、そのミヴァン自身自由時間の過ごし方に困っている。
とすれば……。
「……本を、読みましょうか?」
「本……?本はいつも読んでるけど……」
読書は教養の一環として取り入れられている。
ただ、そこで読む本は勉強や知識のための本だ。
「娯楽としての本も存在します、私が読みましょうか」
「読んでくれる、って……その……」
「そうですね、適当に選んで来ますので二階で待っていて下さい」
・
・
・
ミヴァンは言われた通りに二階で待った。
もう日は高く昇り、街の人々は活動を始めている。
そんな街を見下ろしながらこうしてベッドに腰掛けてぼう、としていると不思議な気分になる。
考えてみるとこんな時間は生まれて初めてかもしれない。
どうすることもできずに途方に暮れて一日うずくまっていた事はある。
だがこれは違う。
今は腹も満たされ、体調も悪くない、やるべき事もあるはずだけど、あえて何もせずにいる。
不思議だ。
カチャ、と扉が開き、ウルスイが入って来た。
「本を持って来ましたよ」
「どんな本?」
「さて……どんな本でしょう」
そう言いながらミヴァンの隣に腰掛けた。
「……どのように読みましょうか」
そう言われて一つ思いついた、だけどこんな事を頼んでいいものか……。
「あの……う、ん、やっぱりいいよ」
「ミヴァン」
ウルスイは目線を合わせるように姿勢を低くした。
「遠慮はいけません、今日の貴方の使命は我儘を言う事です」
「し、使命……」
「そう、使命です」
少し可笑しみを感じた。
ウルスイは安息日でもやっぱり真剣だ。
「それじゃあ……その……あの……あの時みたいにして欲しい」
「あの時、とは?」
「その……俺とウルスイが、初めて会った時……」
ウルスイは得心のいった顔をすると本をベッドの脇に置いてひょい、とミヴァンを抱え上げた。
「あ、と……」
そうして膝の上に抱きかかえるとふわりと背後から翼が現れ、ミヴァンを包み込んだ。
得も言われぬ温かさと、匂いに包まれる。
そうしておいてから本を引き寄せ、器用に羽に乗せてミヴァンの前で開いて見せる。
「こうですか?」
「はい……こうです……」
ちょっと赤面しながらミヴァンが言うと、ウルスイは「んん、ん」と小さく咳払いをした。
「昔あるところに大きな国がありました……」
と、本を読み上げ始めた。
正直、ちょっぴり恥ずかしかった。
ミヴァンは子供と言えば子供だが、本を読んで寝かしつけてもらうような年齢は少し過ぎている。
だが、実はずっと昔から憧れていた行為でもあった。
「その国の王様には美しい妃がいました……」
それに何より、ウルスイの声は本当に綺麗だ。
透明で澄んだその声は抑揚が無く、平坦だ。
だが、それがなんとも心地いい。
「あふ……」
思わず欠伸をしてしまっていけない、と思った。
「妃はある日……眠ってしまっても良いのですよ、今日は安息の日なのですから……」
そう言って、むしろ眠りに誘うようにゆらゆらとミヴァンを揺らし始める。
「ああ……こんな……怠惰です……こんなに日も高いのに……」
「良いのです……今日は安息の日……」
そう言って、ウルスイは澄んだ声で朗読を続ける。
ミヴァンはその物語に耳を傾けながらうとうととし始める。
世界中の全ての悲しみ、苦しみからこの羽で守られているような、そんな心地を味わっていた。
・
・
・
「すう……すう……」
「……」
いつしか朗読の声も止んだ部屋のベッドの上、ウルスイは羽に包まれて穏やかな寝息を立てるミヴァンを見つめていた。
「……」
そっとその髪をかき分け、その寝顔にアイスブルーの瞳で見入る。
「……主よ……」
と、ウルスイが小さく呟いた。
「……主よ……」
また呟くと、目を閉じて顔を伏せた。
ゆっくりと本をベッドの脇に置き、ミヴァンを起こさない程度の強さで後ろから抱き締める。
後頭部に額を当て、羽をより大きく広げる。
そうして、ミヴァンの外気に触れる部分を無くすかのようにすっぽりとその体を包み込んでしまう。
「ああ……」
そうして、息を吐いた。
それはミヴァンの聞いた事の無い、熱の籠った吐息。
恐らくはウルスイ自身も聞いた事のない声。
「主よ……主よ……主よ……」
ウルスイは小さく、何度も呟いた、その羽の中に小さな勇者を閉じ込めて。
ミヴァンは信じていなかった。
貧民街の路地で日々を盗みで食い繋ぐ子供である彼は、そんな御伽話を信じれるほど純真になれなかった。
だけど今、彼は信じた。
実際目の前にしたなら、信じる他なかった。
・
・
・
いくつかの不運が重なった結果だった。
事の他寒い日が続いた事、寝床の確保に失敗した事、食べ物が尽きた事……。
最低限の保護を得られない子供達にとって、不運は容易く死に繋がる。
ミヴァンはその不運に捉えられた結果、雪の降り積もる薄暗い路地の片隅でぼろきれにくるまりながらその短い生涯を終えようとしていた。
そこで、天使を見たのだ。
確かに、霞む視界に薄っすらと輝く天使を。
(……天使様……?)
紛れもなく天使だ。
背には大きく広がる純白の翼。
その翼を照らす神々しい後光。
天上の者にしか有り得ない人間離れした美貌。
このうらびれた場所にあり得ない儀式的で豪奢な鎧。
だが、それはミヴァンの想像とは違った。
彼の想像する天使は慈悲と慈愛を司る神の御使い。
この今際に自分の前に現れたという事は、生まれてから何も与えられなかった哀れな自分を優しく天に導いてくれる存在であるはずだった。
だが、今ミヴァンの目の前に降臨した天使の印象は、一言で表すならば「氷」
血の気が通っているとは思えない、純白を通り越して青白い肌。
蒼を基調とした兜から溢れる豊かな髪は、曇天を思わせる薄い灰色。
薄く開かれた切れ長な目は、文字通りに氷のようなアイスブルー。
その瞳から発される鈍い眼光は、今もミヴァンを死に追いやろうとしている冬の外気と同様かそれ以上に冷たい。
(もしかして……)
既に朦朧とした意識の中で思う。
天使は天使でも、自分を地獄へしょっ引くために遣わされたのでは?
考えてみれば天使に迎えて貰えるほど自分は善行を積んだ覚えはない。
いや、悪行に染まり切っていたと言える。
だがそれで地獄行きはあんまりではないだろうか。
自分は確かに盗みを働いたが、それ以外に生きる道などなかった。
神は黙って境遇を受け入れて飢え死にする事を選べというのだろうか。
(だとしたら……いや……もう……いいや……疲れた……)
天使様が地獄への案内人でも何でもいい。
自分は幕を下ろしたかった、目を閉じたかった。
カチャ
と、金属的な靴音が鳴った。
今まで氷の彫像のように立っていた天使がミヴァンの傍に歩み寄ったのだ。
そうして、虫の息のミヴァンの傍に跪いた。
(何……?何だ……?もうほっといて……)
と、その天使は信じられない言葉を発した。
「立ちなさい」
今のミヴァンにとって、どんな言葉よりも厳しい言葉だった。
この体で立ち上がるというのは地獄に放り込まれるよりも辛い、そう断言できる。
耳を疑うミヴァンの傍で、また天使が言う。
「立ちなさい」
天から降るように美しく、荘厳で、透明で、人間らしい情を微塵も感じさせない冷たい声。
不意に怒りを感じた。
立ちなさい、って何だ。
寒空の下で凍えて死のうとしている子供相手にかける言葉がそれが。
手ぐらい差し伸べたらどうなんだ、情ってものは無いのか。
「立ちなさい」
ふざけやがって、畜生、立ってやる、見てやがれ。
ミヴァンの手足が震えながら冷たい地面を引っ掻く。
ふうふうと真っ白な息を吐きながら身悶える。
天使は手を貸そうとはしない、ただ、その様子を冷たい目で見ている。
「貴方は」
初めて「立ちなさい」以外の言葉を紡いだ。
その天使の顔を睨み付けながら、ミヴァンは小鹿のようにぶるぶる震えながら身を起こす。
ぼろきれが肩から滑り落ち、僅かな体温が更に逃げて行く。
それでも起き上がる。
「ここで倒れていい者ではない」
ミヴァンは立った。
這いつくばっていた地面から体を引き剥がすようにして、雪の降り止まない暗い空に向かって立ち上がった。
ずたぼろの姿で、天使を睨みながら立っていた。
それが限界だった。
ふつり、と糸が切れたようにミヴァンの身体が崩れ落ちる。
その体が倒れる寸前、羽毛のように柔らかなものがミヴァンを受け止めた。
温かくて、いい匂いがした。
こんなにいい匂いを嗅いだのは生まれて初めてだった。
しかし、それが何かを認識する前にミヴァンの意識は遠ざかって行った。
「それが、貴方の最初の一歩だ」
遥か遠くで、冷たく透き通る声を聞いた。
・
・
・
その天使の声がこの世で最後に聞いた声だとしても不思議ではなかったが、ミヴァンは目を覚ました。
そしてそれは生まれて初めての目覚めだった。
これまでのミヴァンにとっての目覚め、とは幸福な夢の終わりを告げる悲しい瞬間、もしくは悪夢と大差無い現実への帰還だった。
だが、この気分はどうだろう。
使った事はないが、最高級の寝具による睡眠から覚めたらこんな感じだろうか。
いつものぼんやりと頭に霞の掛かった目覚めとは違う、身体の隅々が目を覚ましたような爽快さ。
そして、この全身を包む温かさ……これは……。
と、その温かさの原因に気付いた所で急激に頭が現実に引き戻される。
何故なら毛布のようにミヴァンを包み込んでいるのは純白の翼。
そう、天使の羽。
「……????」
視線に映るのは意識を失う直前と変わらない薄暗い路地。
あの天使の姿は無い。
それはそうだ、だってその天使の翼は今、自分を背後から包み込んでいる。
と言う事は、今自分が身を預けているこの羽毛以上に温かく、柔らかな感触は……。
くるり、と背後を振り返ると、アイスブルーの瞳と至近距離で視線がぶつかった。
「起きましたか」
息が掛かるほどの距離で天使が言う。
そう、ミヴァンが背中を預けて眠っていたのは壁に寄りかかって座り込んだ天使の膝の上。
そうして背後から抱きかかえた上で、その翼で外気から守るように包み込んでいたのだ。
「……あ!わ!うわっ!わわわ!」
認識した瞬間、つんのめるように体を前方に投げ出して天使の抱擁から逃れた。
翼から離れた瞬間刺すように冷たい外気に晒されるが、それに構わず尻もちをついた体勢でずりずりと天使から距離を取った。
混乱も驚きもあったが、何より「恐れ多い」という感情が勝った。
薄汚れた自分が新雪のような天使の翼を汚す事を恐れたのだ。
そんなミヴァンを変わらず冷たい目で見ながら、天使はファサ、と翼を揺らして立ち上がった。
「……」
その姿にミヴァンは今度は別の意味で言葉を失った。
最初に見た時、天使は重厚な鎧を纏っていたが、それはミヴァンを温めるのに不向きと判断したのだろう。
天使は鎧を取り外した真っ白なインナー姿になっていた。
その薄手の衣服から浮き上がる体のラインは、正しく神が授けた女性として完璧な造形。
なだらかな肩のラインから続く華奢な鎖骨、たわわに胸元を押し上げる女性の象徴に、縊れた腰回り、女性的に豊かな下半身……。
鎧を纏っている時には分からなかった女としての完璧さが、薄手のインナー越しに惜しげもなく晒されている。
生まれてこの方、女と言えば安宿の娼婦かケチな老婆しか見た事のなかったミヴァンは恐れ多さも忘れ、ただぼんやりと見惚れるしか出来なかった。
そのある種不躾な視線を気にした様子もなく、天使は何かを小さく口の中で呟いた。
と、青白い光がその姿を包むと同時にいつの間にか天使は鎧姿に戻っていた。
いったいどういう魔法なのか、いや、それこそ神力というものか、その鎧は瞬時に自在に出現させる事が出来るようだった。
完璧な女性らしさを鎧の内に隠すとその姿はやはり氷の彫像ようだった。
「ミヴァン」
「あぇ、あひゃぃ」
感情の籠らない透き通る声で名を呼ばれ、ミヴァンは間の抜けた声で返事をした。
「主は貴方に勇者の才を見出し、私を遣わした」
「……へ、え、……」
「私はウルスイ、貴女を導く「ヴァルキリー」だ」
「……勇者……ヴァルキリー……」
「私は貴方の勇者としての才覚を育成する使命を持ってここに居る」
「……」
「よって貴方は」
「……ぷ、ふふ、ふふふふ……」
「……」
「あは、あはははは!あっはっはっはっはっは!」
ミヴァンは腹を抱えて笑い始めた。
笑うしかなかった。
「ぜっっっったい人違いだって!ミヴァンじゃなくてレヴァンとか、コヴァンとか……とにかく間違いだって!よりによって俺が……その……」
勢いのままに口走っていたが、その言葉も尻すぼみに小さくなっていった。
ウルスイが微動だにせず、眉一つ動かさずにこちらを見ていたからだ。
その氷の視線に射貫かれるともう、何も言えなくなる。
「今現在の貴方は確かに勇者ではない、あくまで勇者の卵に過ぎない」
カチャ、カチャ、とウルスイが近付く、ミヴァンはそれだけで平服したくなるような威圧感を感じる。
「そして、勇者となる意思も持ち合わせてはいない」
すっ、と手を背後に持っていく。
「それでも私は使命を果たします、そのため貴方に勇者となる理由を与えましょう」
その手をミヴァンの前に差し出した。
手の上に乗っているのは真っ赤な林檎。
「目先の利益を」
「……」
きょと、きょと、とミヴァンはその林檎とウルスイの顔を交互に見比べた。
そっと手を伸ばしてもウルスイが動かないのを確認すると、ぱっとひったくるように林檎を奪った。
がつがつがつがつ!
無我夢中に、獣のようにミヴァンは林檎を貪った。
瑞々しく、熟れた果実。
残飯でもない、腐りかけでもない、どれくらいぶりかのまともな食べ物。
芯も種も残さず胃に納め、名残惜し気にぺろぺろと手を舐める。
食べ終えて一息ついた所で、思わず怯えたような視線を上げた。
本当に食べて良かったのか、卑しさを咎められるのではないか。
それでもあの林檎を差し出された瞬間、食べる前に相手に許可を求めるという行為は挟まなかった。
それは今まで生きて来て身に付いた習性のようなもの。
取れる時に取る、取ったらすぐ食べる。
とにもかくにも、食べてしまえば奪われない、後から返せと言われても返さずに済む。
腹を殴って吐き出させられようとも、いくらかは腹に残る。
今までずっと、そういうものだったのだ。
ウルスイはおどおどと自分を見つめるミヴァンに対して何も言わなかった。
叱る事も殴る事もしなかった。
直前のウルスイの言葉を思い出す。
(目先の利益)
食べさせて貰える、という事だろうか。
飢えずに済むという事だろうか……?
「な、なる、なります、勇者になります、なりますから……だから……」
ミヴァンは精一杯の媚びを浮かべた笑みでウルスイを見上げた。
だから、もう一個……できればもう一個……勇者でも何でもやるから、もう一個……
そのミヴァンの顔を見たウルスイは、少しの間じっと目を閉じた。
ミヴァンはその一挙一動にびくびくと反応する。
「……まず、「施し」の形で利益を渡すのは今ので最後です、ですがこれ以降は私が貴方に付き、食事には困らないようにしましょう」
「……は……はい……」
ミヴァンは複雑な心境を胸にしまって答えた。
欲しいのは今、今すぐなのだ。
だが、これ以降食事に困らなくしてくれる、という文言でミヴァンはとにかくこの天使に付いていく事を決めた。
と、ウルスイは不意にミヴァンに目線を合わせるように膝を付いた。
冷たく、厳しい氷の視線を至近距離に浴びたミヴァンはたちまち体を固くする。
「まず、最初の教えです」
視線を真っ直ぐに合わせながら言う。
「誰かから施しを受けたなら、言うべき言葉があります」
「……」
ミヴァンは緊張でぐるぐると頭を回しながら、どうにかこうにか言葉を探して紡いだ。
「……あ……ありがとう、ございます……」
「よくできました」
ほんの少し、ウルスイの目に籠る冷気が和らいだ……ような気がした。
ミヴァンはまた、ぼんやりと見惚れる。
「それでは」
ウルスイは立ち上がると、バサ、と翼をはためかせた。
と、見る間にその翼は彼女の背を覆うマントに姿を変え、鎧も旅に向いた軽装へと形を変えていた。
その天使から旅人への転身にミヴァンは目を瞬かせた。
「す、すごい……」
「目立たないよう服装を変えます、貴方の服装も考えなくては」
(……目立たない……?)
ミヴァンは密かに心の中で疑問を感じた。
服装が変わっても彼女の容姿が、そして纏う空気が変わった訳ではない。
簡素な服装であろうとも、その氷の美貌は所かまわず人目を引くと思われる。
「行きますよ、ミヴァン」
「ど、どこへ……?」
「ここではない場所、貴方は沢山の物を見て、知らなくてはいけない」
よくわからない。
だけど、ここではない何処かへ。
見た事のない場所へ。
その言葉にミヴァンの胸がとくん、と脈打った。
「は、はい……はい……!」
ウルスイの背を追って駆け出すミヴァンを見下ろす空は、門出を祝う晴天ではない。
昨晩と変わらず今にも雪がちらつきそうな、灰色の曇天。
寒く、厳しく、それでも見守っている。
ウルスイの髪と、同じ色。
・
・
・
ミヴァンは赤い夕陽を見ていた。
一日の終わりを告げる西日を水平線に溶かしながら海に沈んでいく太陽を。
潮風を受けながらミヴァンとウルスイの二人は港町の海岸線を歩いていた。
この町で今夜の宿を探している所だった。
「知らなかったんだよな……」
顔を西日で赤く染めながら、ミヴァンはぽつりと呟いた。
その顔は生まれた町を出た当時から比べると大きく変わっていた。
まだまだ幼さを残しているが、常に飢えと寒さに震え、おどおどしていた少年はそこにはいない。
細枝のようだった手足は太くなり、重い荷物を背負っても歩調は乱れない。
伸び放題だったぼさぼさの髪は短く切られ、旅によって乱れてはいるがそこそこに整えられている。
ぼんやりと濁っていた瞳は夕日を反射して光を放っている。
二人が旅に出て、季節が一巡りするくらいの期間が過ぎた。
少なくとも、彼の当時を知っている者が見ても彼とは気付かないだろう。
「何をですか?」
前を歩くウルスイが振り返らないまま問う。
こちらはミヴァンが出会った当初と何も変わっていない。
当初にミヴァンが危惧した通り、地味な服装でも隠し切れない美貌が周囲の目をそこそこに引いているが、本人はどこ吹く風だ。
「海がこんなにでっかいって……」
波の音に耳を傾けながら、ミヴァンの方も独り言のように言う。
「そうですか」
ウルスイも短く答える。
だが、彼女にはわかっていた。
その一言が海だけを指しているのではない事を。
ミヴァンの幼い頃の記憶には……正確にはウルスイと出会う前の記憶は思い出せる場所が数えられる程だった。
それは意地悪な神父がいる教会だったり、漁りやすいゴミ箱のある食堂だったり、飲んだくれの集う酒場だったり。
色々と思い返してみても、それは半径数キロの中に凝縮されていたように思う。
それがミヴァンの全てで、世界の全部だった。
いつでもミヴァンは今日を生き抜く事で精一杯だった。
自分の知る世界の外に何があるかなんて、興味を抱く余裕すら無かった。
今は違う。
海がこれだけ大きい事を知っている。
その海水のしょっぱさを知っている。
その上で揺られる船の乗り心地を知っている。
どんな魚がいて、どう捕獲されるかを知っている。
山も知っている。
足を滑らせれば容易く命を失う場所を知っている。
そこに流れる肺が痛くなるほど澄んだ空気を知っている。
木々のせせらぎや、そこに歌う鳥たちの声を知っている。
そこに住む危険な獣の獣臭さを知っている。
その獣から頂く命の味を知っている。
街も知っている。
自分が育った場所と似たような貧しい人々が奪い合う場所を知っている。
裕福な人々が贅を競うような街を知っている。
とりたてて特徴のない平和な町を知っている。
どの町の人々にも事情があり、それぞれに懸命に生きている事を知っている。
(知らなかったんだよな……)
心の中で繰り返した。
・
・
・
「何故、旅をするのですか?」
そう問うた事がある。
森の中で夜を過ごす事になり、二人で焚火を囲っていた時だ。
「勇者は、強くなることが本懐なのでは……?」
おずおずとした問いかけ。
まだウルスイに質問する事も慣れておらず、話しかけるのにも勇気が必要だった頃だ。
ミヴァンが想像する勇者、とは魔物や悪人を打ち倒す英雄だ。
つまり、何よりも強さが求められるはずなのだ。
だとしたこのように旅をするのではなく、拠点を構えてそこで鍛錬を行ったほうがよいのでは?
町を出た後も常に抱いていた疑問だった。
焚火の温かな光に照らされて尚冷たい輝きを放つ瞳でウルスイはミヴァンの顔をじっと見た。
「貴方はあの町の人々の事が好きですか?」
何か良くない質問だったろうかとハラハラしていると、おもむろにそう問いかけられた。
あの町、というのは自分の生まれた町の事だろう。
「気を遣う事はありません」
正直に答えていいものかどうか悩んでいるとそう言われたので正直に答える事にした。
「……嫌い、です……」
「そうでしょう」
その感想を事も無げに彼女は肯定した。
「勇者とは何を成す者だと思いますか?」
唐突な質問にごく、と喉が鳴った。
正直改めて言われると自信が無い。
「その……悪いものを倒すというか……世界の為にというか……戦う……存在……みたいな……?」
「その通りとも言えます」
しどろもどろに答えるミヴァンを見ながらウルスイは曖昧な答え方をした。
「ただ、戦うのみが方法ではありません、人々を救うために出来る事は戦いだけではありません」
よくわからない、勇者は戦う者という印象しかない。
「あらゆる行動を通じて、世界を少しでも良い方向へ導く者が勇者です」
「……」
話が大きすぎてピンとこない。
「あるいは「そうせずにいられない」者が勇者です」
「そうせずにいられない……?」
「自らが努力し、犠牲を払ってでもそうせずにいられない者……何故、そうせずにいられないのだと思いますか」
「わかりません……」
「愛しているからです」
「……?」
話が理解できず視線を泳がせるミヴァンを、ウルスイは蒼く輝く瞳で見つめながら言う。
「どこかの誰か、或いは何か、動物、営み、景色、音、匂い、思い出……この世界を構築する一部、あるいは全てを」
ウルスイは視線を外し、焚火の炎を見つめた。
「失いたくない、守りたい、そういう想いを強く持つ者が勇者です」
「……」
ミヴァンは焚火を見つめた。
「じゃあ、やっぱり俺は勇者じゃないや」
唇を噛み締めている。
「さっき言ったので全部なんだ……何もかも全部……嫌いだ……大っ嫌いだ……」
小さく吐き捨てた後、怒られるだろうかと視線を向けると、ウルスイは意外な程穏やかな眼差しを向けていた。
「それを見つける為に、旅をするのです」
「見つける……?」
「貴方は何も愛せていない、愛する事が出来ない、それは何も知らないからです」
「……」
「きっと愛せます、これから沢山見て、聞いて、感じて、知って、きっと貴方は愛するものを沢山見つける」
ミヴァンは膝を抱えてうずくまるように地面を見つめる。
「そんな事……俺には……」
「出来ます、主に選ばれると言う事はそういう事です、私もそう考えています」
ミヴァンは顔を上げた。
その時にはもう、ウルスイは焚火に視線を移していた。
「明日も早い、もう休みましょう」
「……はい」
マントにくるまりながら、ミヴァンは心の中で一つの言葉を噛み締めた。
(私もそう考えています)
ウルスイは頻繁に「主」という言葉を使う。
それは教会の神父が自分を折檻する口実に使っていた言葉より遥かに真に近い意味なのだろう。
だがそれでも尚、ミヴァンにとって「主」という存在は現実感の伴わない存在だった。
ミヴァンにとってそんな「主」の言葉なんかよりも、このウルスイのその言葉が何より響いたのだった。
・
・
・
「ふっ……!ふっ……!ふっ……!」
港の朝もやの中、ミヴァンは素振りを行っていた。
(回数をこなす事を目的にしてはいけません、最初より次、次よりもその次、修正し、精度を増してこそ意味があります)
疲労から頭が空になりそうになる度に、耳にタコが出来る程言われた言葉が蘇る。
体幹を意識し、ぶれを修正する。
ウルスイの施す「修行」は、想像よりもずっと地に足のついたものだった。
食事にしてもそうだ。
最初の言葉通り、施しとして無償で渡してもらえたのはあの林檎一個が最後だった。
それ以降は二人での狩りや山での収穫、もしくは依頼や仕事を引き受けての賃金によって日々の食糧を得ている。
基礎的な体力は旅の中で自然に付いて行った。
合わせて道の歩き方から狩猟方法まで、基本的な生き延びる術を学んだ。
その上で戦闘の訓練を施してもらえるようになったのは、実は最近だ。
それまでは主に「座学」が主だった。
道徳、教養、読み書き、初歩的な数学から地理学まで……。
それら全ては決して優しいものではなく、ウルスイは常に手抜きなく、真剣に取り組ませた。
実はそれらに辟易して、旅が始まって何度か逃亡を試みようとした事もあった。
が、街を離れた場所でウルスイから離れて生きる術があるはずもなく、またウルスイも決して逃がしはしなかった。
そうしてあらかたの教養を叩きこまれた後、ようやく戦闘の訓練に入った時も最初に行ったのは「呼吸」と「姿勢」の改善だった。
これには驚いた、ようやく剣を渡して貰えるかと思ったら息の仕方と立ち方から入るとは。
だが、いざ始まって見るとこれが困難極まりなかった。
呼吸も姿勢も、つまり日常そのものだ。
無意識に行う事を改善するというのは見た目の地味さに反して生半可な苦労ではなかった。
しかし今にして考えると、自分がこれだけ剣を振ってもほぼ息を乱さないのも、フォームが崩れないのも、全てその土台があるからだと気付く。
ウルスイは常に合理的に先を見て物を教える、そして一つをマスターするまで決して次の段階に進まない。
ミヴァンもその成果を身をもって体感してきたからこそ、ウルスイに全幅の信頼を寄せるようになっていったのだ。
「ふぅ……」
朝の訓練を終え、一息を入れる。
ウルスイの姿は傍にはない。
彼女の朝は主への祈りの時間から始まり、それはどこであっても一時も欠かされた事はない。
祈りの時間は自主的な練習になるので最初はサボりがちだったが、一目見られただけですぐにばれるので一人でも真面目にやるようになった。
「……」
すぐに呼吸は整った、体の充実を感じる。
着実に、自分は強くなる土台を作っているという実感を得ている。
まだまだ未熟な卵でしかないとも実感しているが……ウルスイの教えに従っていれば間違いないと確信を持てる。
だが、心はどうだろう。
ミヴァンが汗を流していたのは、海沿いの宿から程近い砂浜。
そこで潮風に吹かれながら朝もやに包まれる水平線を見つめた。
色々と見て来た、感じて来た、知って来た。
多分ウルスイの言う世界の何百分の一にも満たないだろうが、盗人だった時と比べるべくもない程に知見は広がった。
(……好きなもの……)
ウルスイは言った、きっと世界を愛せる、好きな物が沢山見つかる、と。
守りたいくらいに愛せるもの、というのは今だによくわからない。
確かに美しい景色を沢山見たし、沢山の人々を見て来た。
だが、それら全てを超えてミヴァンが最も愛するものはただ一つしか見つかっていない。
そして、これからもそれを超えて愛せるものがあるとは思えなかった。
それは……。
「……」
ミヴァンは首を振ると、港町に散歩にでも出ようと砂を踏んで歩き始めた。
港の朝は早い、まだ夜が明けきっていない時間帯にも関わらず、市場には朝に水揚げされた魚達が次々と並べられる。
漁師達が声を張り上げて売りに精を出している。
周囲に漂う魚と海の臭い、人々の活気。
(……うん……好きだな……)
守りたいほど愛する、とは違うかもしれないがミヴァンは活気のある場所は好きだった。
これらの営みがずっと続いて欲しい、と考えたりする。
こうしたものが積み重なっていけば、ウルスイの言う勇者というものに近付けるのだろうか。
「おいっガキっ、邪魔だよ!」
「あ、すいません」
魚の詰まった籠を運ぶ男に言われ、道を開ける。
どうもまだ幼いミヴァンはすこしばかりこの場で浮いているようだ。
考えてみると師であると同時に自分の保護者であるウルスイから離れて、こうした場所を歩くのは随分久しぶりな気がする。
(心配するかな……そろそろ戻ろうか)
そう考えて踵を返した時だった。
(へえ、こんなのも売ってるんだ……)
魚ばかりかと思ったら、それ以外の雑貨や日用品などを並べている露店もあるようだった。
魚の臭いが移りそうなのにも構わず並べられている衣類や雑多な物達……。
ふと、その隣の店に並べられている物に目を引かれた。
装飾品を扱っているらしいその店先に並んでいる指輪やネックレス、その中で一際目を引く輝きがあった。
他に比べて高級な物かというとそうではない、その色に覚えがあったから目を引いたのだ。
アイスブルーの輝きを放つネックレス。
無論、彼女の瞳に比べれば深さも透明度も比べ物にならない、だがそれは彼女によく似合いそうに見えた。
「……」
店先に歩み寄って見てみると、店の主人は後ろを向いて荷物の整理をしているようだった。
「……」
ミヴァンは視線を正面に向けたまま興味を引かれた様子も見せずに店の前を横切る、店主はまだ後ろを向いている。
いける
それは心のどこからか聞こえた声。
自分でも意識していないような深くから聞こえた声。
ミヴァンの手は素早く動き、そのネックレスを音もなく掴んで懐に握り込んだ。
店主は気付いていない。
よし
(……え?)
ミヴァンは立ち止まった。
え? え? え? え? え? え?
あれ? 俺は何を? 何をやってるんだ? 一体……。
「泥棒!」
背後から声が響いた。
振り返るまでもなく、あの店主の声だとわかった。
「何だぁ!?」
「どこだ!」
「そいつ!そいつだ!」
ここではそういった事態は頻繁に起こるらしく、すぐさま周囲の店の人間達が反応して店から飛び出してくる。
ミヴァンは弾かれたように走り出した。
違う、違う、違うんだ、
こんな事するつもりじゃ、
俺は、俺は勇者に……。
普段のミヴァンならば軽々と振り切れただろう。
本人は自覚していないが歳に似合わぬ身体能力を既に身に着けている。
だが、今のミヴァンは混乱している。
呼吸は乱れ、足元もおぼつかない。
混乱しながらも人込みをかき分け、抜け出し、路地裏へ飛び込んだ。
「待てこら!ガキ!」
「逃がさねえぞ!」
路地裏は行き止まりだった、途方に暮れるミヴァンを複数の男達が囲む。
「ち、違う、ちが……」
「ああ?その手に持ってるのは何だ」
「こ、これ、これは……」
震えながら自分の手の中を見る。
蒼い輝き。
盗んだ、自分が盗んだもの……。
ウルスイの顔が脳裏をよぎる。
ずかずかと男の一人がミヴァンに近寄り、拳を振るおうとする。
ミヴァンはその拳を避けて懐に潜り込み、肩をぶつける。
「んなっ……!」
男は容易くバランスを崩し、尻もちをついた。
「大人しくしろこの!」
「ガキが!」
次々飛び掛かる男達をミヴァンはするすると捌く。
いつも練習相手にしているウルスイと比べたら、男達はまるで木偶の坊のようだった。
訓練の成果だった。
ミヴァンの頭の中は滅茶苦茶だった。
(違う、こんな、こんな事の為に鍛えてきたんじゃない)
(悪い奴と戦うために、世界を少しでも良くするために……)
だが、現実はどうだろう。
盗みを働いた自分を追って来た町の住人達に対して、訓練の成果を見せている。
ウルスイの教えを使っている。
ウルスイの教えを汚している。
「たっ……」
男達をひらひらと捌きながら、ミヴァンは泣きそうな顔になる。
(助けて……!)
「何をしているのですか」
底冷えのする声が路地に響いた。
路地の入口に氷の彫像のように立っている女性の影が見えた。
心から安心できる声。
同時に今、一番聞きたくなかった声。
「ああ?何だあん……た……」
「関係ねえだ……ろ……」
ミヴァンを捕まえようと躍起になっていた男達は、ウルスイの姿を見て尻すぼみに語気を弱めた。
ウルスイの纏うその空気、絶対零度の冷ややかな眼差し、氷のような美貌。
何か、その視線の前ではあらゆる罪が暴かれるような威圧感。
正当な理由があろうと、大の男達が一人の子供を追い回すという事実を罪として自覚させられるような……。
「ミヴァン」
感情が無いかのような無色透明な声が路地に響き、ミヴァンの心臓がぎゅぅ、と縮まる。
「何がありましたか」
「……」
嘘を、つきたかった。
そう、例えば商品をポケットにねじ込まれ、濡れ衣を着せられた。
ちゃんと代金を払ったのに誤解が生じた。
そもそもこの男達はごろつきで自分は絡まれただけ……。
「俺……」
水分の全てを失ったようなカラカラに乾いた喉から声を搾り出す。
「俺……」
冷たい視線が自分を射る、アイスブルーの瞳が。
「俺……」
手を開き、ちゃらりとネックレスを見せる。
「とっ……盗っちゃっ……たんだ……」
告白した。
「……」
ウルスイの氷のような表情は変わらない。
眉一つ動かない。
耳の奥まで自分の心臓の鼓動が届く、破裂しそうに脈打っている。
カツ、カツ、カツ、と、ウルスイが路地に歩み入る。
男達はその雰囲気に押されて道を開ける。
ウルスイはミヴァンの前にまで歩み寄った。
相変わらず表情は無い。
「あの……」
ゴ パ ン ッ
鼻先から脳天まで、稲妻が落ちたかのような衝撃が走った。
視界に火花が炸裂する。
同時にびゅう、と後頭部から風を感じた。
上下の感覚が消失し、手足が人形のように宙に投げ出される。
ターン!
と、路地に地面を打つ音が響く。
気付けばミヴァンは地面に仰向けに倒れていた。
天罰
天罰だ。
そう感じた。
「しっ……」
「死ん……」
一方男達は唖然としていた。
突然現れた人間離れした美貌の女は盗人の少年に近寄ると、その顔面に強烈な鉄拳を食らわせた。
あまりの威力に少年の身体はその場でびゅびゅん、と一回転半し、背中から落ちた。
全員が死んだ、と思った。
が、女は倒れた少年を掴んで立ち上がらせた。
少年は膝をかくかく揺らしながら大量の鼻血を滴らせている、同じくらい涙も溢れている。
その少年の頭を掴んで強引に下げさせると、女自らも深々と頭を下げた。
少年の鼻からはぼたぼたと血が滴り続けている。
その体勢のまま、女はもう片方の手を差し出した。
いつの間に取ったのか、少年が盗んだネックレスがその手に乗っていた。
「どうか、許して欲しい、全ては私の責任だ」
無機質な声で、女は言った。
「……ご……ぐず、ぐじ……ごへんらはぃ……」
少年も言った、鼻血でうまく喋れないらしい。
「……いや……まあ……」
「……気を付けな……」
もう、それ以上責め立てる雰囲気ではなくなっていた。
男達はネックレスを受け取ると、路地から立ち去って行った。
「……」
「……ぐず……ぐふっ……」
二人は頭を上げた、路地にはただ、ミヴァンが鼻血を啜る音だけが響く。
ウルスイは黙ってミヴァンの顔に手をかざした。
ぽう、と手のひらが光り、ミヴァンの真っ赤に腫れた鼻柱が元の色に戻り、鼻血も止まった。
「……」
「……」
しん、と路地は静まり返る、遠い世界の音のように市場の喧噪が表から聞こえて来る。
カツ カツ カツ
と、ウルスイが表に向けて歩き始める。
ミヴァンは立ったままだ。
「あ……」
歩いて行くウルスイの後ろ姿をミヴァンは見ていた。
路地裏から見ていた。
そう、まるで出会った時のような、あの薄汚れた路地に、自分を置き去りに去っていくウルスイの背中を……。
そうだ、結局そうだったんだ。
最初からわかっていたんだ。
勇者になんて、自分がなれるはずが無かったんだ。
やっぱり手違いだったんだ。
そう言われて、なれるような気になって。
生まれついての盗人が、舞い上がって。
でも得だったじゃないか、色々教えて貰ったし。
これからは一人でも飢える事もなく生きていける。
ウルスイに悪い事しちゃったな。
無駄な時間使わせちゃったな。
さよなら。
さよなら。
さよなら。
カツ、と足音が止まり、ウルスイが振り返った。
「ミヴァン」
そう、声を掛けられた瞬間、ミヴァンはウルスイに飛びついた。
「ああああああああああ!うわああああああああ!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさいぃ!」
跪き、服を力一杯握り締めながら泣き叫んだ。
「ごめんなさい!ごめっ、ごめんなさい!ごっ、ヒュッ、ごめんなさっ、ヒュウッ」
言葉の合間に鋭い音が混じる、呼吸が出来ていない。
「けほっ!けほっ!けほっ!ごめんさい、ヒューッ、ヒューッごめっ……」
ミヴァンの背中にそっと、手が置かれた。
「落ち着きなさい」
「ひゅぅ、ヒューッ」
「呼吸を整えて……教えたでしょう」
「ふぅー、すぅ、フゥー、フゥー」
息をする、教えられた通りに。
「立ちなさい」
膝を付いた自分に、ウルスイはそう言う。
「立ちなさい」
出会ったあの時と同じように。
「立ちなさい」
「っく……ヒクッ……っく……」
まだしゃくり上げながら、ミヴァンは立ち上がる。
「貴方はここで挫ける者ではない」
やはり、感情の籠らないような声でウルスイは言う。
少しの間を置いて、一つ付け加えた。
「私は、そう思っています」
「うっ……う、うう、う……」
その言葉に再び涙が溢れそうになる。
「呼吸の方法を一から学び直しです、集中して付いてくるように」
「は、う、ぐす、はい゛、ぐず、ぐす」
再び歩み出すウルスイの後に付いて、ミヴァンは歩き出す。
傍に寄り添ったりはしない。
しかし、距離が開きすぎないよう歩調を調整するウルスイの足元を見ながら、ミヴァンは思った。
(なりたい)
(勇者になりたい)
・
・
・
その一件以来、ウルスイの修行は少し変わった。
訓練の合間に対話の時間を設けるようになったのだ。
「心根の問題ではなく、罪を犯してしまう事がある」
ウルスイはそう言った。
そうして、ミヴァンに感じる事、考える事、楽しい事、辛い事を話すよう促した。
付き合いが長くなると分かるのだが、彼女は確かに印象通りに厳しい。
しかしそれは真剣さの表れであり、それと同じくらいの優しさも秘めているのだ。
ただ、その優しさが目に見え辛いのだ。
ミヴァンがたどたどしく自分の思いを語る時、ウルスイは一見すると変わらず冷たい目をしている。
だが返す内容を聞くと彼女がいかに自分の話を真剣に聞き、考えているかが伺えた。
話を聞く時も食事中や休憩中など、極力こちらが落ち着けるよう気を使っているのがわかった。
そうした彼女の努力の末、ミヴァンは自分でも気付けていない点に多く気付く事ができた。
修行を経て変わったつもりだったが、本当はウルスイと出会う前の「無意味な自分」がずっと影を落としていた事。
幼い頃の寒さ、飢え、寂しさが時折蘇り、今が夢なのではないかと不安になる事。
ウルスイの努力に報いる事が出来るか、不安を抱えている事。
大変だけれども、実は旅が好きな事……。
「一つ、考えがあります」
そうして対話を重ねた末、ウルスイが提案したのはとある町の食堂でだった。
「考え、ですか……?」
食後のお茶を挟んでの対話の時間。
いつもと違う切り出しにミヴァンは戸惑った。
「貴方には安息日が必要だと思われます」
「安息……?」
「貴方は強い」
「そっ……いや……ウルスイに比べたら全然……」
ミヴァンはもじもじする。
「戦いの強さとは違った面、精神的なストレスに対する耐性が高いのです」
「む、難しいけど、要は我慢強いって事?」
「そうとも言います」
(これ、褒めてくれてるのかな……)
どうも言い回しが回りくどくてわかりづらいが、そうな気がする。
「しかし、私はそれに甘えていた面がありました、それは私の落ち度です」
「そ、そんな、ウルスイに落ち度なんて……」
「あります、私は完璧ではありません、そもそもこれまで貴方の話を聞くに、重要な事を見落としていました」
「重要な事……?」
何だろう、思うままにこちらが話すのを聞いてもらっているばかりだが、そんなに重要な事を言っただろうか。
「常に付きまとっている自己否定の感情、不意に発露する盗難癖……」
「そ、それは俺が弱いから……」
「いいえ、貴方には愛情が足りていない」
頭に浮かぶのは、以前に聞いた「世界を愛する」という話。
「まだ、俺は愛せていないって話……?」
「違います、愛情を与える前にまず、受け取らなくてはいけなかった」
「受け取る……」
「本来は生まれた時に受けていなくてはいけない親からの愛情……いえ、肉親でなくとも育ての保護者から受ける愛情」
「……」
そうして言葉にされると、ミヴァンの表情に影が落ちる。
物心付いた時から今までそういった意味での「愛情」というものなら、確かに自分は知らない。
「私が与えます」
「……ウルスイからはもう、十分に受け取ってるよ……」
恥ずかしそうに、ただ、同時に少し寂し気にミヴァンは言った。
「伝わっていたなら僥倖です、ですが、私はもっと分かりやすい形で貴方に示したい」
「示すって……」
「それが安息日、です」
話を要約するとこうだ。
二週に一度、修行を行わない日を設ける。
食事から何から身の回りの事は全てウルスイが引き受け、ミヴァンはただそれを享受する。
それが安息日。
「そ、そんな事したらウルスイの負担が……」
「ヴァルキリーである私を侮らないでいただきたい、負担という程の事もありません」
「……」
正直、魅力的に感じる。
強くなる事を実感できる修行は嫌いではないが、それはそれとして大変ではある。
それも何もせず、ただウルスイにお世話をしてもらえる日……?
「い、いいのかな……」
「まずは試してみましょう……一週間後に」
「一週間……」
思わぬ予定に、ミヴァンは内心どきどきした。
(やっぱり……)
そして……ほんの僅かな痛みも覚えていた。
(やっぱり、ウルスイの愛情って……「親子」みたいな愛情なんだな……)
それが、ミヴァンにとって少し悔しかった。
・
・
・
「……はっ?」
目を覚ました瞬間に違和感を感じた。
今日の宿は宿場町に借りた宿。
その宿の窓から朝日が差し込んでいる。
(寝過ごした?どうして?いつもなら起こされるはず……?)
慌てて飛び起きながら服を整えようとする。
朝の稽古は日が昇る前に始まる。
日が差しているという事はもう、かなり遅れているという事だ。
「ミヴァン?」
ばたばた着替えているとカチャ、とドアが開き、ウルスイが顔を出して声を掛けた。
「す、すいません!すぐに準備……?」
と、ウルスイの姿に違和感を覚えた。
彼女の服装は大抵はマントを羽織った旅人の服、もしくは有事の際には鎧を纏う。
今日のウルスイはどちらでもない、ゆったりとした麻の服にエプロンをかけた姿だ。
そして、やはりそんな簡素な身なりになってもその美貌は隠せる物ではない。
むしろ普段の近寄りがたい雰囲気がその村娘のような服装で和らげられ、いつもと違う雰囲気にどきどきしてしまう。
「落ち着いて下さい、今日は「安息日」ですよ」
そう言って後ろ手にドアを閉める。
「安息日に「寝坊」という言葉はありません……もう起きますか?」
「えっ……と……」
起きるかどうか、なんて質問は初めてなのでどう答えていいか悩んでしまう。
「では、朝食に?」
「あ……うん……」
「下に用意しています、いつでも降りてきて下さい」
「はい……」
降りて行くウルスイの後ろ姿をぼんやり眺めながらミヴァンは呟く。
「安息日……かぁ……」
二階から降りると朝食の匂いが漂っていた。
この宿は食事は出していないので、どうやらウルスイが宿の厨房を借りて作ったらしい。
「わぁ」
思わず声が出る。
いつもの朝食はしっかりとした栄養補給を目的に作られたものが多い。
だが、この朝食は果物を中心にミヴァンの好きなもので構成されている、しかも盛り付けがとても綺麗だ。
「一緒に、食べますか?」
「あ、はい!」
エプロンを外しながらウルスイが言うと、ミヴァンは嬉しそうに言う。
どれだけ豪華でも一人で食べるのは侘しいものだ。
向かい合って席に着くウルスイを見てふと、思い当る。
(いつももっと早くに食べてるのに……)
そう、いつものペースならとっくに済ませている時間帯。
自分と食事を共にするために食べずに待っていたのだ。
「できれば感想を聞きたいですね、次の参考にしたいので」
「うん……うん……!」
食材がいつもより高級という訳ではない、だけどいつもよりひと手間かかった品々にミヴァンは舌鼓を打った。
「あの……」
「はい」
「その……」
「何でしょう」
食器が片付けられた後に出されたコーヒーを楽しみながら、ミヴァンは気まずそうに目の前に座るウルスイに問う。
「この後……どうすれば……?」
いつもであれば決まっている。
町の調査に旅の順路の決定、そこからどれだけ訓練の時間を取れるかの割り出し。
山ほどある。
だが、今日は安息日。
何も予定は入っていない。
つまりは自由な時間を与えられてもどう過ごしていいのかわからないのだ。
「そうですね……」
それに関してはウルスイも同様な様子だった。
とりあえず朝の過ごし方は決めていたが、そこからはミヴァンの好きにしてもらうつもりだった。
が、そのミヴァン自身自由時間の過ごし方に困っている。
とすれば……。
「……本を、読みましょうか?」
「本……?本はいつも読んでるけど……」
読書は教養の一環として取り入れられている。
ただ、そこで読む本は勉強や知識のための本だ。
「娯楽としての本も存在します、私が読みましょうか」
「読んでくれる、って……その……」
「そうですね、適当に選んで来ますので二階で待っていて下さい」
・
・
・
ミヴァンは言われた通りに二階で待った。
もう日は高く昇り、街の人々は活動を始めている。
そんな街を見下ろしながらこうしてベッドに腰掛けてぼう、としていると不思議な気分になる。
考えてみるとこんな時間は生まれて初めてかもしれない。
どうすることもできずに途方に暮れて一日うずくまっていた事はある。
だがこれは違う。
今は腹も満たされ、体調も悪くない、やるべき事もあるはずだけど、あえて何もせずにいる。
不思議だ。
カチャ、と扉が開き、ウルスイが入って来た。
「本を持って来ましたよ」
「どんな本?」
「さて……どんな本でしょう」
そう言いながらミヴァンの隣に腰掛けた。
「……どのように読みましょうか」
そう言われて一つ思いついた、だけどこんな事を頼んでいいものか……。
「あの……う、ん、やっぱりいいよ」
「ミヴァン」
ウルスイは目線を合わせるように姿勢を低くした。
「遠慮はいけません、今日の貴方の使命は我儘を言う事です」
「し、使命……」
「そう、使命です」
少し可笑しみを感じた。
ウルスイは安息日でもやっぱり真剣だ。
「それじゃあ……その……あの……あの時みたいにして欲しい」
「あの時、とは?」
「その……俺とウルスイが、初めて会った時……」
ウルスイは得心のいった顔をすると本をベッドの脇に置いてひょい、とミヴァンを抱え上げた。
「あ、と……」
そうして膝の上に抱きかかえるとふわりと背後から翼が現れ、ミヴァンを包み込んだ。
得も言われぬ温かさと、匂いに包まれる。
そうしておいてから本を引き寄せ、器用に羽に乗せてミヴァンの前で開いて見せる。
「こうですか?」
「はい……こうです……」
ちょっと赤面しながらミヴァンが言うと、ウルスイは「んん、ん」と小さく咳払いをした。
「昔あるところに大きな国がありました……」
と、本を読み上げ始めた。
正直、ちょっぴり恥ずかしかった。
ミヴァンは子供と言えば子供だが、本を読んで寝かしつけてもらうような年齢は少し過ぎている。
だが、実はずっと昔から憧れていた行為でもあった。
「その国の王様には美しい妃がいました……」
それに何より、ウルスイの声は本当に綺麗だ。
透明で澄んだその声は抑揚が無く、平坦だ。
だが、それがなんとも心地いい。
「あふ……」
思わず欠伸をしてしまっていけない、と思った。
「妃はある日……眠ってしまっても良いのですよ、今日は安息の日なのですから……」
そう言って、むしろ眠りに誘うようにゆらゆらとミヴァンを揺らし始める。
「ああ……こんな……怠惰です……こんなに日も高いのに……」
「良いのです……今日は安息の日……」
そう言って、ウルスイは澄んだ声で朗読を続ける。
ミヴァンはその物語に耳を傾けながらうとうととし始める。
世界中の全ての悲しみ、苦しみからこの羽で守られているような、そんな心地を味わっていた。
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「すう……すう……」
「……」
いつしか朗読の声も止んだ部屋のベッドの上、ウルスイは羽に包まれて穏やかな寝息を立てるミヴァンを見つめていた。
「……」
そっとその髪をかき分け、その寝顔にアイスブルーの瞳で見入る。
「……主よ……」
と、ウルスイが小さく呟いた。
「……主よ……」
また呟くと、目を閉じて顔を伏せた。
ゆっくりと本をベッドの脇に置き、ミヴァンを起こさない程度の強さで後ろから抱き締める。
後頭部に額を当て、羽をより大きく広げる。
そうして、ミヴァンの外気に触れる部分を無くすかのようにすっぽりとその体を包み込んでしまう。
「ああ……」
そうして、息を吐いた。
それはミヴァンの聞いた事の無い、熱の籠った吐息。
恐らくはウルスイ自身も聞いた事のない声。
「主よ……主よ……主よ……」
ウルスイは小さく、何度も呟いた、その羽の中に小さな勇者を閉じ込めて。
21/04/09 21:35更新 / 雑兵
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