連載小説
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憂慮編

 (生き甲斐って、こういう事か)
雅史は夜の帰り道を歩きながら思った。
高校卒業と同時に籍を入れた二人の歩んできた道は無論、平坦ではなかった。
必死の就職活動が実を結んだのは、卒業から一年後。
その一年に何社の面接を受けて何社に落とされたのか、もはや記憶しきれない程だった。
普通ならば心が折れそうな所だったが、雅史には寄り添って支えてくれる人がいた。
「ただいまー」
「お帰りー」
ドアを開けると出迎えてくれる依江の声と、夕食の匂い。
飲みで帰りを遅くする同僚の気持ちがつくづくわからない。
「最初の頃だけだよ」なんて言われたりもしたが、結婚してから家に帰る時の幸福感は一向に色褪せない。
そして今、出迎える声はもう一つ増えた。
廊下の奥から聞こえる泣き声だ。
ネクタイを外しながら部屋に入ると、依江の腕の中で元気よく泣いている桃の姿があった。
「はーいよーしよしお父さんですよー、お父さん来ましたよー」
背中を叩いていた依江が雅史の腕に桃を渡すと、桃は雅史の胸にしがみついて嘘のように泣き止んだ。
「不思議な子だねえお前は、お母さんの方が抱かれ心地いいだろー?」
「安定感があるからじゃない?」
腕で揺り籠をしながら雅史が苦笑混じりに言うと、依江が笑って言いながら夕食の支度に戻る。
準備の間あやしてやると、桃はぱっちり目を見開いて雅史の顔をじっと見る。
そう、生まれたあの日のように……。
「……よーしよし」
ふいと浮かんだ記憶を、雅史は打ち消す。
その時に感じた漠然とした不安と共に。







 「どうだった?依頼の件は」
食事をしながらリビングで桃におっぱいをあげている依江に声を掛ける。
「ん、終わったよ、そんな大したもんじゃなかった」
「……無理すんじゃないぞ、本当に」
「全然無理してないって、朝飯前だよ」
二人が話しているのは、依江の「副業」についてだ。
無論、家計を支えているのは雅史だが、依江のこの副業も馬鹿にならない収入になっているのが現実だ。
「念送っただけで逃げちゃったし」
そう、それは彼女の元々の家柄が生業としていた仕事。
「悪いもの」に関わってしまった人々を助ける仕事。
結婚して苗字が変わっても元の家の名は付いて回るもので、依江には噂をつてに相談がよく舞い込んだ。
妻を「そういったもの」との関わりから解放してやりたい、という雅史の思いとは裏腹に依江は依頼を受け、人を救い続けている。
「宿命からは逃げられないものだし、あとお金になるしね?」
報酬はきっちり貰う、というポリシーの元、その副業を続ける依江。
彼女の身に危険が一度でも及んだら無理やりにでも止めさせよう、と密かに考えている雅史の思いとは裏腹に依江はまるで平気そうである。
そもそも一時も手を離せない育児の片手間にこなせるようなものではないはずだが、そんなに手間を取られないのだという。
今回のように依頼主の情報を子細に聞いて、瞑想をするようにして念を飛ばす。
すると大抵は恐れを成して逃げ出してしまうのだという。
恐れを成す程のものが、依江には憑いているのだ。
彼女が。







 「手間が掛からないねえお前は」
子供用ベッドで寝付いた桃のお腹をぽん、ぽん、と叩きながら雅史は呟く。
普通、この時期は夜泣きで母親は相当に消耗させられるはずなのだが、記憶にある限り桃は夜泣きをした事がない。
時計を見るともうそろそろ親も寝なくてはいけない時間帯だ。
(明日も早いしな……)
そう思って、雅史は子供部屋から夫婦の寝室に移動する。
依江は風呂に入っている。
「……」
ベッドに横になり、雅史はスマホを立ち上げる。
検索履歴はもっぱら育児に関する事で埋め尽くされている。
雅史はその中から「出産後の性生活」の項目を見る。
一般的に、出産後の女性は一定期間性欲が減退するのが自然であるという。
母乳を分泌する際、性欲を抑える作用を持つホルモンも同時に分泌されるらしい。
それと同時に子供を守るために排他本能が高まるので、夫に限らず男性に対して不潔感を感じる事もある、と言う事だ。
雅史はそれらの情報を踏まえて、出産後は控えようと考えていた。
何より依江が嫌がるような事はしたくない、だから自分の性欲との付き合い方も色々と考えていたのだが……。
ガチャ、と、扉が開き、依江が寝室に入って来る。
妻の湯上りのパジャマ姿を見て、雅史はスマホを消す。
高校の頃から小柄だった依江は、卒業まであまり身長も伸びず、今でも小さい。
それとはアンバランスに胸や下半身の肉付きは豊かで、なおかつ華奢なので「アニメみたいな体型」などと言われたりした。
その過剰に異性を引き付ける身体は、出産を経てもまるで体型が崩れない。
むしろ早々に二人目を仕込んで欲しいとでも言うかのように、ぴっちりと張り詰めたパジャマの胸元が、腰回りが、訴えて来るようだ。
その、濡れた瞳も。
シャンプーの匂いをさせながら、依江はもそもそとベッドに潜り込んで来る。
雅史の心臓が、どくどくと早鐘を打つ。
どれだけ肌を合わせても、どれだけ味わい尽くしても、慣れない。
いつでもどこでも、まるで高校生の頃のようなはち切れんばかりの欲望が尽きない。
不思議だ、こんな事ってあるだろうか。
ぎし、と隣に感じる重みを意識して、どうしようもなく下半身に血が流れ込むのを感じる。
「……」
「……」
おはよう、おかえり、ただいま
二人の間で何度も交わされてきた挨拶。
その中で「お休み」だけ極端に使われる頻度が少ない。
夫婦の寝室で、その挨拶が交わされた事は殆ど無い。
「ん、ちゅ」
「はむ、ん」
大抵、水音にとって代わられる。

 ぎし、ぎし、ぎし、ぎし、ぎし、ぎし

 結局、出産後に行為を控えよう、という雅史の気遣いが成された事は一度もない。
むしろ、結婚する前の付き合い始めた頃から依江の身体を我慢できた事など一度もない。
雅史は今夜もまた瑞々しい妻の身体に溺れ、出産を経ても緩むどころかますます淫らに夫を搾り取ってくる妻の中で果てるばかりだった。

 あぁぁぁっっぁぁぁ〜〜〜〜 んぁ はぅぅ ぅんん ぁんっ ぁぁぁぁ〜

 抑えていても、寝室から漏れる営みの声。
その声は子供部屋にも届いている。
桃は、ベッドの上で起きていた。
かといって夜泣きをする訳でもない。
ただ、その目をぱっちりと開けて、母親の雌の声を聴いている。

 ぃぃぃぃぁぁぁ まさふみっ まさふ、みぃ ぁぁっぁぁぁぁっ

暗い子供部屋で、桃はじっと声の聞こえる寝室の方を見ていた。
20/08/17 18:23更新 / 雑兵
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