連載小説
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回生編
 「ああ、くそっ」
フロントガラスの上を激しく叩く雨粒と、それをひっきりなしに掻き分けるワイパーに遮られる視界に苛立ち、雅史(まさふみ)は思わず悪態をつく。
落ち着かなくては。
この土砂降りの上時刻は深夜だ、道路はライトでも碌に先が見通せない、下手に急げば事故を起こしてしまう。
そう思って減速させるが、気が付けばアクセルを踏み込んでしまう。
早く、早く、と気が焦る。
信号無視すれすれのタイミングで交差点を曲がり、駐車場に車が斜めになるのも構わず停車すると雅史は車外の雨に飛び出した。
飛沫を蹴り散らしながら駆け込んで行ったのは大きな白い建物。
産気づいた妻が運び込まれた病院だ。
カッ、と空が白く光り、雅史が入ったその白い建物を暗闇の中に浮かび上がらせた。







 重い。
こんなに重いものなのか。
病室の中で、雅史は自分の腕の中に収まっている小さな命の重みをひしひしと両腕に感じていた。
「ごめんね……お仕事……忙しい所……」
「馬鹿、謝る奴があるか……よく……頑張ってくれて……体、大丈夫か……?」
傍のベッドに横たわる妻、依江(よりえ)はこっくり頷いて見せる。
疲れた様子だったが、看護師によると初めての出産にしてはスムーズで、母体にも負担は少なかったと言う事だ。
すう、すう、と、腕の上でおくるみに包まれ、親指を咥えて眠る我が子の赤い顔を改めて見つめる。
「ふ……ははは……」
知らずに笑みが零れ、目頭も熱くなる。
子供。
自分達の子供……。
こんな気持ちになるものなのか。
「勝手に、ごめん……」
掠れた声で依江が言う。
「何?何だよ?何を謝る事があるんだよ……」
感動で少し震えてしまう声を何とか誤魔化しながら雅史は妻に問う。
謝られるどころか、今は妻と子供への感謝の気持ちで一杯なのだ。
「名前……私に、決めさせて、欲しいんだ……」
そう言えば名前をどうするかは悩み抜いた末結局決まっておらず、まだ保留されていたのだった。
「ああ、いいよ……決まってたのか?言ってくれたらいいのに……」
「もしかしたら……反対、されるかも、って……」
「おいおい……キラキラネームはやめようっていってたじゃんか」
雅史が笑って言うと、依江は微笑み返した。
「……トウ」
「え?」
「名前は、トウ……ももの、漢字で、桃(とう)……」
「……」

 ミーン ミーン ミーン

 一瞬、脳内に蝉の声が鳴り響いた。
溢れ出すように思い出される記憶。
高校の夏休み。
あの暑さ、あの涼しさ、あの時の依江、白い影、白いお隠し、長い黒髪、桃の、匂い

 「駄目、かな……」
依江の声で我に返る。
「……」
すぐに返事は出来なかった、トウ、その名前は……。
「ああ……いい、名前だ……」
それでも、考えた末そう言った。
依江がどう考えてその名前にしようと思ったのかは分からない。
この娘はあの事件とは関係ない、だけど。
その名に想いを込めても……娘の人生の足枷にはならないはずだ。
「桃(トウ)お前は桃だ……」
ゆっくりと揺すりながら、腕の中で眠る娘にそう呼びかける。
娘は変わらずスヤスヤと眠り続けている。
「……」
依江を見ると、こちらを見て微笑んでいた。
雅史の腕の中で眠る我が子を慈しむように……。
(ああ……母親の顔って……こんななんだな……綺麗だ……)
愛する人の新たな表情を発見して密かに感動していると、依江も雅史の方を見た、そして。

 微笑んだ。

 雅史は困惑した。
その笑顔は我が子に向けた笑みとは違う。
いや、夫に向ける笑顔と子供に向ける笑顔が違うのは当然だ。
だが、その時依江が雅史に向けて浮かべた表情はこの場に似つかわしくないような気がした。
とろりと濡れた瞳に、微かに持ち上がった口の端……。
母ではない、「女」の顔。
まるで、抱かれる時のような、妖艶な……。
「えっ」
視線を感じた。
下からだ。
思わず腕の中に視線を落とすと、目が合った。
娘はこちらを見ていた、その黒い瞳を見開いて。
それはあり得ない事だった。
生まれたばかりの赤ちゃんは、目が焦点を定める能力をまだ持っていない。
だから目が合う、という事は起こらないはずなのだ。
それでも、雅史と娘……桃の視線はしっかりとぶつかっている。
そうとしか思えない。

 ぱち

 「あれ、この子……」
「うん……?」
目が、と言おうとした所で、桃は元通り目を閉じた。
そして、変わらずスヤスヤと寝息を立て始めた。
「あ、れ……」
「どうしたの?」
「い、いやあ、可愛いな、って……」
「ふふ、当然だよ、私達の、娘だもの」
疲れている状態の妻に心配させるのも憚られたので、適当に誤魔化した。
多分、見間違いだろう……。
「そろそろ、よろしいでしょうか……?」
「あ、はい」
看護師が雅史に声を掛けた。
まだまだ母親の体力の消耗も激しい、一旦退室しなくてはいけない。
名残惜しい気持ちを引きずりながら、桃を依江の手に戻してやる。
「ふふ……桃……とーお……♪」
嬉し気に我が子の名前を呼ぶ妻を少し眺めた後、雅史は病室を後にしようとした。
ふわり、と、鼻を擽る匂い。
消毒液の匂いに紛れて、その匂いは滑り込んで来た。
(……気のせい……気のせいだ……)
思い出したからだ、と思った。
名前の件で昔を思い出したから、その記憶と密接に結び付いた香りの記憶が蘇ったのだ。
そう、自分に言い聞かせながら病室を去る雅史の耳に、看護師の呟きが響いた。

 「あら、桃の匂い……?」
20/08/16 16:59更新 / 雑兵
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■作者メッセージ
コミケ無いと寂しいですね。
連休の成果を四日くらいに分けて…。

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