五
ほっぺたに手をあてがわれ、おもむろに、おでことおでこをくっつけられた。
僕の体は、石のように強張った。
まさに目と鼻の先にある祐の顔に、自分の息がかかってしまってはいけないと、僕は小さく、細く胸を動かした。
僕が、風邪をひいている間、祐は、ずっと側にいてくれた。
その間に、少しだけ分かったことがある。
社の前で、両手を重ね合った時と同じなんだと。
祐は、それをおまじないと呼んでいたが。
僕のそばにいて、祐はできるだけ僕に、そのおまじないをかけ続けようとしているらしいのだった。
たとえば熱を測る時は、おでこに。咳が止まらない時は、胸に。
祐は、手を当ててくれる。
たぶん、肌と肌が触れ合って初めて、効き目が顕れるのだと思う。
汗をかいた寝巻を着換える時も。吐き気を催して、背中をさすってくれた時も。
思い返せば祐は、僕の着物越しに触れる手だけでなく、もう片方の手で、必ず、僕の肌のどこかに触れていた。
そうして、祐が触れたところからはいつも、甘い匂いを添えたような、温もりがゆっくりと僕の中にしみこんできた。
祐と一緒に住むことになった。降ってわいたような話。
それから三日が経っていた。
そういえば、今度の風邪は何だか治りが早い。
「あ、お熱下がってる。良かったぁ。」
祐はそう言って、ほっと安堵の息をついた。
僕の口元に、ふわりと祐の吐息がかかった。
血の流れる音さえ、聞こえてしまうのではないか。そう不安になるくらい、あっという間に僕の顔は、耳まで真っ赤になった。
かあっと、熱くなる。
ちょっと待って、もう少し待って、と、必死で自分の体に向けて、無駄な説得を繰り返した。
これでは祐に、熱がぶり返したと思われる。
ああ、もう。なぜこんな時に、生唾なんてわいてくるんだろう。
呑みこむ喉の音も、祐のあの大きな耳に捉えられる気がした。
そして、今、手を伸ばすよりも近くに、祐の瞳があった。
元来、僕は人と目を合わせるのが嫌いだった。
目を合わせるとは、顔を見ること。
僕を見たせいで人の表情が歪むところなど、好きこのんで見る必要はないと思うからだ。
話し相手と、目線が交わらず、かつそっぽを向いていると思われることのない、さしさわりのない角度をいつも求めていた。
祐には、それが通じなかった。
僕が目端を利かせようとするのを、簡単にあしらうように、すいっと真正面から僕を捕らえてくるのだった。
不思議なことだが、どうやっても、祐の瞳から逃げることができなかった。
人の目を見慣れていない僕が言っても、分かってもらえるかどうか自信はないけど。
祐の瞳は、何というか、どこかが違っていると思った。
まずもって、そこから逸らすことができない。
他人の瞳に映った自分の姿を見たのは、初めてだった。
吸い込まれてしまいそうだと、半ば本気で思った。
山深い湖の水面を覗き込んだら、僕の姿が映っていて。
ふと気がついたら、僕が、水面に映る側の僕になっていたような。
そんな感じがするのだった。
そうして、僕の胸はまた早鐘を打つ。
目線をずらすだけでは力不足と、少々むりやり首を真下に傾けて、目を伏せようとしたのだが。
白地に、すすき模様の浴衣に着替えた祐の、ふくらんだ胸元の合わせ目が少し緩んでいて。
すぐそこに見えてしまった祐の肌は、浴衣よりも白く映えて見えた。
着物の上からとはいえ、今まで何度か、そこに抱かれたことと、やんわり顔を包む感触まで、勝手に蘇ってくる。
つくづく、顔が熱い。
僕の頭の中が、自分で嫌になる。
どうしてこうも余計なことばかり思い出すんだろう。
いや、でも、なぜか余計ではない気もするけど。
それにしたって、何も今思い出さなくたって。
ああ、だからなんで、生唾なんてわいてくるのか。
また聞かれてしまう。
三日で、熱も喉の腫れも、早々と失せていった。
自分でも呆れるくらいの治りの早さだった。
だけど、やっぱり苦しい思いを長いことしなくて済んだのは嬉しいことだった。
どこか、悪いところはない? と、安堵しながらなおも祐は僕を気遣う。
僕はそんな祐を見ながら、思っていた。
早くに治ったのは、祐のおかげなのかな、と。
今までは、僕が寝ている間しか祐は来なかったという。それが起きている間もずっと一緒にいるようになった。
いつもならまず一週間、僕は布団から出てこられない。
祐が来てくれたとたんに三日、である。あの「手当て」のおかげと考えるのが、もっとも腑に落ちる。
お稲荷様のふしぎな、ちから。「ご利益」なんていうと、何だか俗っぽくなってしまうから嫌だけど。
嬉しかったことが、ふと心配になる。
祐は、僕に近すぎるのではないか。
触れすぎているのではないか。
遠ざかったり、手を洗ったり拭いたりしなくても、祐はほんとうに大丈夫なのか。
僕は、どこか汚いのだろうか。
汚いなら、僕に触れた個所は洗われるべきだ。
僕は、どこが汚いのだろうか。
嫌な思いをさせたなら、僕のその個所は改められるべきだ。
考えても、よくわからなかった。
自分の事は、思ったほど自分では分からないものだ。
そういうことだけは、かろうじて分かった。
他の子たちに聞こうとして、誰にも聞くことは出来なかった。
聞けばそれだけで、僕の心のどこかが潰れてしまうような予感がして、恐かった。
何となく察していたのは、みみずや蛭、蛙や蛇や、なめくじに、好んで触りたがる者はいない、ということだった。
僕は、たぶんそういうものなんだ。
そう理屈づけて、何とかこれまでやってきた。
僕にたくさん触っていたというのに、祐は、よく眉ひとつひそめないでいられるものだ。
優しくて、我慢強い子なんだろうな。
けっしてひねくれた気持ちじゃない。
きわめてまっとうに、素直に、僕は祐の事を、「偉いな」と思った。
僕の見ていないところで、いましがた僕に触れた手を洗う祐の姿。
想像するのはたやすかった。悲しい気持ちが膨らむ前に、無理もないことと納得できた。
だから。
祐の笑顔が、一番の薬、などという、自分でも恥ずかしくなるような考えは、とても口になど出せない。
そうだったら、どんなにいいだろうか、と、こっそり思うだけだ。
触ってくれて、話してくれて、笑ってくれているうちに、体が良くなるなんて、こんな幸せなことはない。
僕が知らないところで、僕に触れた手を洗う。それでいいじゃないか。
お寺の円了先生から分けてもらった、高麗だかどこだかで採れるとかいう、謎の人参を煎じて飲まされる苦行に比べたら。
鼻が詰まってるというのに、あの辛さ。本当にどういうことなのか、不思議でならない。
「よし、じゃあ、お布団たたんで、ご飯食べに行こうか。」
祐が離れる。立ちあがる祐に、何か声を掛けたいと思った。
ごめんなさい、が口を衝いて出そうになるのを、止めた。
治ったから、もう僕に近づいたりしなくても大丈夫だから。
僕に触ったりなんかして、ごめんなさい。
祐を思いやるつもりの言葉で、僕はどうしてこんなに沈んだ気持ちになるのか。
だったら、他に何と言えばいい。
なにか、本当に僕が言いたいことはないのか。
たぶん、それは「ごめんなさい」じゃないのではないか。
喉とか、肺や胃のあたりから絞り出すようにして。
「あり、がとう。
……治して、くれて。」
詰まりに詰まって、まるで言葉を覚えたばかりのようだった。
ぼそりと、これだけを言うのに、精いっぱいにならないといけない自分は、相変わらずだ。
祐を思いやるどころか、自分の気持ちを喋っただけじゃないか。
そうやって下を向いたままの僕に。
「いいえ、どういたしまして。」
祐は、屈託なくにっこりしてくれる。そればかりか。
「つらかったのに、よくがんばりました。」と、また頭を「えらいえらい」してくれる。
お稲荷様だと言ったって、お賽銭を投げたわけでもないのに。僕は小さな一言しか放っていないのに、どうしてこの子は、こんなにたくさん、あったかいものを返してくれるんだろう。
本当にいいんだろうか、と気が引けてしまう。
祐を手伝って、一緒に布団を押入れにしまった。元はといえば、僕の布団を僕がしまっているだけなんだけど。
「あとで、とと様たちにも、ありがとうって言ってあげて?」
一度絞り出して、楽になったのだろう。
僕は祐の言葉に珍しく素直な気持ちになって、囲炉裏の間で飯を囲む親たちのところへ、のこのこ出ていった。
その日の朝は、珍しく家族揃っての朝ごはんだった。
珍しいのは、僕ひとりのせいだけど。
今日からは、祐も囲炉裏を囲む面々に加わっている。
ごく普通に、僕の隣に腰を据える祐。
時折、教えた覚えもないのに、僕が割と好んで食べるおかずを、まるで見抜いたように箸で選び、「はい、さといも、あーん。」とやってくる祐。
僕と祐を囲む、思わず脂汗がにじむくらいに温かい、四人分の八つの目。
その中で、僕に向けられる目は十もある。なぜか五人分に増えている。
知らんふりをするのも、気が引けてしまい、しぶしぶ、小さく素早く口を開けて受け取る僕。
僕たちが着ている、白地にすすき模様の、見事におそろいの浴衣。
きちんと穴のあいた浴衣のお尻から出ている、ぱたぱた揺れる尻尾。
僕たちの様子を、終始、顔が破れるんじゃないだろうか、いやむしろ破れてしまえばいいのに、と願わずにはいられなくなるほどのにやにや顔で見つめる両親。
「しかし、いつもだったら、まず一週間は寝たきりで唸ってるもんだったが、今度ぁまた早かったな。」
「あんた、そりゃそうさぁ。
こんな可愛いお稲荷様がつきっきりだよ?
こうやって箸の上げ下ろしから、寝巻のお着替え、体拭きまでやってくれるんだもの。治んない方がおかしいだろうさ。」
僕が祐にしてもらった看病を、今まさに家族の目の前で再現され、三日分さかのぼって冷やかされるという仕打ちを受けながらの朝ごはんだった。
うん、そうだよ、祐にずっと看病していてもらったおかげなんだ。
父さん、母さん、心配してくれてありがとう。
ここでそういうことが言えるようなら、さぞかし苦労のない毎日が送れるのかもしれない。
やんぬるかな、そういう屈託のない言葉は、ひねくれた僕の口から出てくることはないのだった。
喉の奥の方。魚の骨が引っ掛かる辺りに、留まっているような気はするのだけれど。
僕は、それを里芋といっしょに飲み込んだ。
そして、ふてくされたような顔をしつつも、顔から耳たぶまで柘榴のように真っ赤っかにして下を向く。
これはいろりの火に火照っているせいだ、と心の中だけで言い訳をする。
その横で、祐は緩む頬を押さえ、呑気に「可愛いだなんて、かか様ったら」と照れていた。耳が垂れている。どういう感情の表れなのだろう。
僕は、ひたすらごはんとぬか漬けに逃げた。
「ぬか漬け、おいしいかい、豊?」
母は逃げた先にまで、追って来た。
うちにいつも置いてあるものじゃないか。なぜここでそんなことを聞くんだろう。
改めて言うこともないが、おいしいのはまあ、事実だった。食べなれた味というのもあるかもしれない。
祐が、不安そうな目で見ているのが気にはなったものの。
僕は無言で、ちょっと大きめにうなずいて、受け流そうとする。
「そうかい。ほら祐ちゃん、おいしいってさ。」
そう言って母は、祐の方へ生暖かい目を送る。
祐は、「はいっ。」と、嬉しそうに相槌を打っていた。
「それが漬かってたぬか床、祐ちゃんが混ぜたやつだよ。」
さらりと、驚くようなことを、この母は言う。
「おお、そうそう。豊は好き嫌い多いくせに、昔っから祐ちゃんが作ったのだけは何も言わずに食べるんだよな。」
父が母にかぶせてくる。
「今じゃお漬物はすっかり祐ちゃんの仕事になっちまったねぇ。
家には、祐ちゃんが漬けたり干したりした野菜や山菜が結構あるけど、どれもぱくぱく食べてるから、見てて面白いもんだよ。
祐ちゃん、覚えといて? この子はお野菜嫌いだけど、祐ちゃんが包丁入れれば、笑っちまうくらいなぁんでも食べるから。」
そして母が駄目を押した。
逃げたと思ったら、そこは泥沼だった。
そんな僕の横で祐は、「わかりました。」と、まるでひまわりみたいな笑顔で頷くのだった。
針のむしろのような朝餉も終わり、祐と母は洗い物にお勝手へ向かう。父や弟、妹は畑へ出る準備をしている。
背負いかごも出ていることから、母がそれを背負って、野菜を売りにお町へ出るのだとわかる。
「豊、今日はお空はどう?」
「たぶん、降らないと、思う。今日は。」
僕は空を見ながら、すうっと息を吸い込んで、そう答えた。
「あいよ。じゃあ、豊はお風呂入っといで。実、風呂の火はどう?」
「うん、さっき祐姉ちゃんにつけてもらったから、そろそろわいてる。」
火を起こすだけでも、容易なことではないと、いつもの手伝い仕事でわかっていたから。
朝から風呂を沸かしてくれた祐や両親に、ありがとうと一言、言うべきなのだろうと、理屈では納得しているのに。
さっきは言えたのに、今度はどうしてだろう。
言っても、言わなくても、たぶん、僕の周りのあれこれは、さほど変わることが無いだろう。
と、僕は楽な方をつい選びとってしまった。
「妙、そろそろ出られそうか?」
「ああ、もう行けるよ。
祐ちゃん、じゃあ私らは出かけるから、お風呂の方よろしくね。ごめんよ、洗い物からなにから任せちゃって。
大変だったら豊をこき使ってやってくれるかい。」
「いいえ、このくらいしかできませんから。
とと様、かか様も気をつけて。みのる君、なるちゃん、いってらっしゃい。」
「はーい。」「おねえちゃん、いってきます。」
「あとお風呂あがったらさ、豊。円了和尚さんところへ、行者にんにくのお漬物持ってっておくれ。いつも高麗人参ありがとうございます、おかげで風邪が治りましたって。」
お勝手に置いてある包みを指さして、母は僕に告げた。
あの苦辛い木の根っこみたいなものを呑まされるお礼を言わないといけないのだろうか。
本を見せてくれるお礼ならわかるような気もするんだけど。
少しく納得のいかない思いはしたものの、一応うんと答え、僕は風呂場へ足を向けた。背中を母の声が追ってきた。
「お風呂入るの三日ぶりなんだから、ようっく洗ってもらうんだよ。」
もう一回うん、と答えた後で、「洗ってもらう」ってなんだろう、と引っかかりはしたものの、久々の風呂を前に、特に気にすることはなかった。
足が伸ばせる大きさの、湯船につかる。
湯気の匂いは好きだが、吸いこむとちょっとむせかえった。
お湯は、ほんのちょっと少なめだった。
肩を湯につけるまでに、心なしか深めに体を沈めた。
いいお湯だと思う。父が入っていないから、それほど熱くもなくいい湯加減だ。
ここも、一人になれる、好きな場所だった。
決まった時間しか過ごせないのが難だったから、こう言う機会は嬉しい。
腹が膨れているせいか、湯舟の壁にもたれ、うとうとしそうになる。
脱衣場の床板が、きしきし鳴るので、ちょっとだけ舟が此岸に寄った。
「お湯加減、どう?」脱衣場の方から声がする。祐だった。
「だいじょうぶ。」僕がぼんやり答えると、「はーい。」と言いながら、祐がいる方から何かしゅるしゅる、ぱさっと音がしている。
洗濯物を集めているんだろうか。あとで、少しはお手伝いしないと。
思っているうちに、「よいしょ、よいしょ。」という祐の声といっしょになって、湿気を吸って少し開けづらくなった風呂場の引き戸が開いていく。
祐が入ってきた。あれ、ここで洗濯をするのか。
でも、祐が持っているのは体の前に垂らした手拭一枚だけだ。
風呂場には湯気が立ち込めていて、なんだか祐が何も着てないように見えてしまった気がして、恥ずかしかった。
何を考えているんだ、僕は。
…いや、違う。
湯船の脇で祐が片膝をつこうとしている。僕の目は、祐の体を正面からまともにとらえてしまい、瞬時に首を反対側に回した。
今見たものを、慌てて頭の中から吹き飛ばし、何も見なかったことにした。
着てないように見えるんじゃない。
ほんとに何も、着ていなかった。真っ白い、肌だった。
…全然、吹き飛んでいない。
どうしよう、と思った。
ごめんなさい、見てませんから、と大嘘をつきつつ、出て行った方がいいのか。
「ゆ、う、お風、呂?」
お風呂には今、僕が入っています。祐は、もう少し後で入った方がいいのではないでしょうか。
そういう、念を押す意味を込めて聞いてみたのだったが。片言過ぎて、自分でも何を言っているのかわからない。
「うん。祐も、いっしょにお風呂。」
桶ですくったお湯を、さあっとかぶりながら、祐の答え。僕に負けず劣らず短い答えだったが。
豊が入っているのは承知しています。私も豊といっしょにお風呂に入ろうと思います。
という意思を明瞭に感じることができる答えだった。
反論の言葉を探している間にも。
「ゆたか、ごめんね。背中の方、ちょっと空けてくれる?」
祐が湯船をまたいでこちらへ入ってくる。
言葉が間に合わず、反射的に膝を縮め、祐の場所を開けた。出来るだけ広く。
ちゃぷ、ちゃぷと音がして、湯舟の水かさが、祐が入った分だけ増す。
僕の胸が、水に波を立てるほど大きく鳴り続けていた。
考えないようにしたいのに。
今、祐が、裸で、僕の後ろにいるということを。
吹き飛ばすどころの騒ぎじゃない。
しつこいくらいに、僕の目はさっき見た祐の姿を留め続けていた。
僕の体は、石のように強張った。
まさに目と鼻の先にある祐の顔に、自分の息がかかってしまってはいけないと、僕は小さく、細く胸を動かした。
僕が、風邪をひいている間、祐は、ずっと側にいてくれた。
その間に、少しだけ分かったことがある。
社の前で、両手を重ね合った時と同じなんだと。
祐は、それをおまじないと呼んでいたが。
僕のそばにいて、祐はできるだけ僕に、そのおまじないをかけ続けようとしているらしいのだった。
たとえば熱を測る時は、おでこに。咳が止まらない時は、胸に。
祐は、手を当ててくれる。
たぶん、肌と肌が触れ合って初めて、効き目が顕れるのだと思う。
汗をかいた寝巻を着換える時も。吐き気を催して、背中をさすってくれた時も。
思い返せば祐は、僕の着物越しに触れる手だけでなく、もう片方の手で、必ず、僕の肌のどこかに触れていた。
そうして、祐が触れたところからはいつも、甘い匂いを添えたような、温もりがゆっくりと僕の中にしみこんできた。
祐と一緒に住むことになった。降ってわいたような話。
それから三日が経っていた。
そういえば、今度の風邪は何だか治りが早い。
「あ、お熱下がってる。良かったぁ。」
祐はそう言って、ほっと安堵の息をついた。
僕の口元に、ふわりと祐の吐息がかかった。
血の流れる音さえ、聞こえてしまうのではないか。そう不安になるくらい、あっという間に僕の顔は、耳まで真っ赤になった。
かあっと、熱くなる。
ちょっと待って、もう少し待って、と、必死で自分の体に向けて、無駄な説得を繰り返した。
これでは祐に、熱がぶり返したと思われる。
ああ、もう。なぜこんな時に、生唾なんてわいてくるんだろう。
呑みこむ喉の音も、祐のあの大きな耳に捉えられる気がした。
そして、今、手を伸ばすよりも近くに、祐の瞳があった。
元来、僕は人と目を合わせるのが嫌いだった。
目を合わせるとは、顔を見ること。
僕を見たせいで人の表情が歪むところなど、好きこのんで見る必要はないと思うからだ。
話し相手と、目線が交わらず、かつそっぽを向いていると思われることのない、さしさわりのない角度をいつも求めていた。
祐には、それが通じなかった。
僕が目端を利かせようとするのを、簡単にあしらうように、すいっと真正面から僕を捕らえてくるのだった。
不思議なことだが、どうやっても、祐の瞳から逃げることができなかった。
人の目を見慣れていない僕が言っても、分かってもらえるかどうか自信はないけど。
祐の瞳は、何というか、どこかが違っていると思った。
まずもって、そこから逸らすことができない。
他人の瞳に映った自分の姿を見たのは、初めてだった。
吸い込まれてしまいそうだと、半ば本気で思った。
山深い湖の水面を覗き込んだら、僕の姿が映っていて。
ふと気がついたら、僕が、水面に映る側の僕になっていたような。
そんな感じがするのだった。
そうして、僕の胸はまた早鐘を打つ。
目線をずらすだけでは力不足と、少々むりやり首を真下に傾けて、目を伏せようとしたのだが。
白地に、すすき模様の浴衣に着替えた祐の、ふくらんだ胸元の合わせ目が少し緩んでいて。
すぐそこに見えてしまった祐の肌は、浴衣よりも白く映えて見えた。
着物の上からとはいえ、今まで何度か、そこに抱かれたことと、やんわり顔を包む感触まで、勝手に蘇ってくる。
つくづく、顔が熱い。
僕の頭の中が、自分で嫌になる。
どうしてこうも余計なことばかり思い出すんだろう。
いや、でも、なぜか余計ではない気もするけど。
それにしたって、何も今思い出さなくたって。
ああ、だからなんで、生唾なんてわいてくるのか。
また聞かれてしまう。
三日で、熱も喉の腫れも、早々と失せていった。
自分でも呆れるくらいの治りの早さだった。
だけど、やっぱり苦しい思いを長いことしなくて済んだのは嬉しいことだった。
どこか、悪いところはない? と、安堵しながらなおも祐は僕を気遣う。
僕はそんな祐を見ながら、思っていた。
早くに治ったのは、祐のおかげなのかな、と。
今までは、僕が寝ている間しか祐は来なかったという。それが起きている間もずっと一緒にいるようになった。
いつもならまず一週間、僕は布団から出てこられない。
祐が来てくれたとたんに三日、である。あの「手当て」のおかげと考えるのが、もっとも腑に落ちる。
お稲荷様のふしぎな、ちから。「ご利益」なんていうと、何だか俗っぽくなってしまうから嫌だけど。
嬉しかったことが、ふと心配になる。
祐は、僕に近すぎるのではないか。
触れすぎているのではないか。
遠ざかったり、手を洗ったり拭いたりしなくても、祐はほんとうに大丈夫なのか。
僕は、どこか汚いのだろうか。
汚いなら、僕に触れた個所は洗われるべきだ。
僕は、どこが汚いのだろうか。
嫌な思いをさせたなら、僕のその個所は改められるべきだ。
考えても、よくわからなかった。
自分の事は、思ったほど自分では分からないものだ。
そういうことだけは、かろうじて分かった。
他の子たちに聞こうとして、誰にも聞くことは出来なかった。
聞けばそれだけで、僕の心のどこかが潰れてしまうような予感がして、恐かった。
何となく察していたのは、みみずや蛭、蛙や蛇や、なめくじに、好んで触りたがる者はいない、ということだった。
僕は、たぶんそういうものなんだ。
そう理屈づけて、何とかこれまでやってきた。
僕にたくさん触っていたというのに、祐は、よく眉ひとつひそめないでいられるものだ。
優しくて、我慢強い子なんだろうな。
けっしてひねくれた気持ちじゃない。
きわめてまっとうに、素直に、僕は祐の事を、「偉いな」と思った。
僕の見ていないところで、いましがた僕に触れた手を洗う祐の姿。
想像するのはたやすかった。悲しい気持ちが膨らむ前に、無理もないことと納得できた。
だから。
祐の笑顔が、一番の薬、などという、自分でも恥ずかしくなるような考えは、とても口になど出せない。
そうだったら、どんなにいいだろうか、と、こっそり思うだけだ。
触ってくれて、話してくれて、笑ってくれているうちに、体が良くなるなんて、こんな幸せなことはない。
僕が知らないところで、僕に触れた手を洗う。それでいいじゃないか。
お寺の円了先生から分けてもらった、高麗だかどこだかで採れるとかいう、謎の人参を煎じて飲まされる苦行に比べたら。
鼻が詰まってるというのに、あの辛さ。本当にどういうことなのか、不思議でならない。
「よし、じゃあ、お布団たたんで、ご飯食べに行こうか。」
祐が離れる。立ちあがる祐に、何か声を掛けたいと思った。
ごめんなさい、が口を衝いて出そうになるのを、止めた。
治ったから、もう僕に近づいたりしなくても大丈夫だから。
僕に触ったりなんかして、ごめんなさい。
祐を思いやるつもりの言葉で、僕はどうしてこんなに沈んだ気持ちになるのか。
だったら、他に何と言えばいい。
なにか、本当に僕が言いたいことはないのか。
たぶん、それは「ごめんなさい」じゃないのではないか。
喉とか、肺や胃のあたりから絞り出すようにして。
「あり、がとう。
……治して、くれて。」
詰まりに詰まって、まるで言葉を覚えたばかりのようだった。
ぼそりと、これだけを言うのに、精いっぱいにならないといけない自分は、相変わらずだ。
祐を思いやるどころか、自分の気持ちを喋っただけじゃないか。
そうやって下を向いたままの僕に。
「いいえ、どういたしまして。」
祐は、屈託なくにっこりしてくれる。そればかりか。
「つらかったのに、よくがんばりました。」と、また頭を「えらいえらい」してくれる。
お稲荷様だと言ったって、お賽銭を投げたわけでもないのに。僕は小さな一言しか放っていないのに、どうしてこの子は、こんなにたくさん、あったかいものを返してくれるんだろう。
本当にいいんだろうか、と気が引けてしまう。
祐を手伝って、一緒に布団を押入れにしまった。元はといえば、僕の布団を僕がしまっているだけなんだけど。
「あとで、とと様たちにも、ありがとうって言ってあげて?」
一度絞り出して、楽になったのだろう。
僕は祐の言葉に珍しく素直な気持ちになって、囲炉裏の間で飯を囲む親たちのところへ、のこのこ出ていった。
その日の朝は、珍しく家族揃っての朝ごはんだった。
珍しいのは、僕ひとりのせいだけど。
今日からは、祐も囲炉裏を囲む面々に加わっている。
ごく普通に、僕の隣に腰を据える祐。
時折、教えた覚えもないのに、僕が割と好んで食べるおかずを、まるで見抜いたように箸で選び、「はい、さといも、あーん。」とやってくる祐。
僕と祐を囲む、思わず脂汗がにじむくらいに温かい、四人分の八つの目。
その中で、僕に向けられる目は十もある。なぜか五人分に増えている。
知らんふりをするのも、気が引けてしまい、しぶしぶ、小さく素早く口を開けて受け取る僕。
僕たちが着ている、白地にすすき模様の、見事におそろいの浴衣。
きちんと穴のあいた浴衣のお尻から出ている、ぱたぱた揺れる尻尾。
僕たちの様子を、終始、顔が破れるんじゃないだろうか、いやむしろ破れてしまえばいいのに、と願わずにはいられなくなるほどのにやにや顔で見つめる両親。
「しかし、いつもだったら、まず一週間は寝たきりで唸ってるもんだったが、今度ぁまた早かったな。」
「あんた、そりゃそうさぁ。
こんな可愛いお稲荷様がつきっきりだよ?
こうやって箸の上げ下ろしから、寝巻のお着替え、体拭きまでやってくれるんだもの。治んない方がおかしいだろうさ。」
僕が祐にしてもらった看病を、今まさに家族の目の前で再現され、三日分さかのぼって冷やかされるという仕打ちを受けながらの朝ごはんだった。
うん、そうだよ、祐にずっと看病していてもらったおかげなんだ。
父さん、母さん、心配してくれてありがとう。
ここでそういうことが言えるようなら、さぞかし苦労のない毎日が送れるのかもしれない。
やんぬるかな、そういう屈託のない言葉は、ひねくれた僕の口から出てくることはないのだった。
喉の奥の方。魚の骨が引っ掛かる辺りに、留まっているような気はするのだけれど。
僕は、それを里芋といっしょに飲み込んだ。
そして、ふてくされたような顔をしつつも、顔から耳たぶまで柘榴のように真っ赤っかにして下を向く。
これはいろりの火に火照っているせいだ、と心の中だけで言い訳をする。
その横で、祐は緩む頬を押さえ、呑気に「可愛いだなんて、かか様ったら」と照れていた。耳が垂れている。どういう感情の表れなのだろう。
僕は、ひたすらごはんとぬか漬けに逃げた。
「ぬか漬け、おいしいかい、豊?」
母は逃げた先にまで、追って来た。
うちにいつも置いてあるものじゃないか。なぜここでそんなことを聞くんだろう。
改めて言うこともないが、おいしいのはまあ、事実だった。食べなれた味というのもあるかもしれない。
祐が、不安そうな目で見ているのが気にはなったものの。
僕は無言で、ちょっと大きめにうなずいて、受け流そうとする。
「そうかい。ほら祐ちゃん、おいしいってさ。」
そう言って母は、祐の方へ生暖かい目を送る。
祐は、「はいっ。」と、嬉しそうに相槌を打っていた。
「それが漬かってたぬか床、祐ちゃんが混ぜたやつだよ。」
さらりと、驚くようなことを、この母は言う。
「おお、そうそう。豊は好き嫌い多いくせに、昔っから祐ちゃんが作ったのだけは何も言わずに食べるんだよな。」
父が母にかぶせてくる。
「今じゃお漬物はすっかり祐ちゃんの仕事になっちまったねぇ。
家には、祐ちゃんが漬けたり干したりした野菜や山菜が結構あるけど、どれもぱくぱく食べてるから、見てて面白いもんだよ。
祐ちゃん、覚えといて? この子はお野菜嫌いだけど、祐ちゃんが包丁入れれば、笑っちまうくらいなぁんでも食べるから。」
そして母が駄目を押した。
逃げたと思ったら、そこは泥沼だった。
そんな僕の横で祐は、「わかりました。」と、まるでひまわりみたいな笑顔で頷くのだった。
針のむしろのような朝餉も終わり、祐と母は洗い物にお勝手へ向かう。父や弟、妹は畑へ出る準備をしている。
背負いかごも出ていることから、母がそれを背負って、野菜を売りにお町へ出るのだとわかる。
「豊、今日はお空はどう?」
「たぶん、降らないと、思う。今日は。」
僕は空を見ながら、すうっと息を吸い込んで、そう答えた。
「あいよ。じゃあ、豊はお風呂入っといで。実、風呂の火はどう?」
「うん、さっき祐姉ちゃんにつけてもらったから、そろそろわいてる。」
火を起こすだけでも、容易なことではないと、いつもの手伝い仕事でわかっていたから。
朝から風呂を沸かしてくれた祐や両親に、ありがとうと一言、言うべきなのだろうと、理屈では納得しているのに。
さっきは言えたのに、今度はどうしてだろう。
言っても、言わなくても、たぶん、僕の周りのあれこれは、さほど変わることが無いだろう。
と、僕は楽な方をつい選びとってしまった。
「妙、そろそろ出られそうか?」
「ああ、もう行けるよ。
祐ちゃん、じゃあ私らは出かけるから、お風呂の方よろしくね。ごめんよ、洗い物からなにから任せちゃって。
大変だったら豊をこき使ってやってくれるかい。」
「いいえ、このくらいしかできませんから。
とと様、かか様も気をつけて。みのる君、なるちゃん、いってらっしゃい。」
「はーい。」「おねえちゃん、いってきます。」
「あとお風呂あがったらさ、豊。円了和尚さんところへ、行者にんにくのお漬物持ってっておくれ。いつも高麗人参ありがとうございます、おかげで風邪が治りましたって。」
お勝手に置いてある包みを指さして、母は僕に告げた。
あの苦辛い木の根っこみたいなものを呑まされるお礼を言わないといけないのだろうか。
本を見せてくれるお礼ならわかるような気もするんだけど。
少しく納得のいかない思いはしたものの、一応うんと答え、僕は風呂場へ足を向けた。背中を母の声が追ってきた。
「お風呂入るの三日ぶりなんだから、ようっく洗ってもらうんだよ。」
もう一回うん、と答えた後で、「洗ってもらう」ってなんだろう、と引っかかりはしたものの、久々の風呂を前に、特に気にすることはなかった。
足が伸ばせる大きさの、湯船につかる。
湯気の匂いは好きだが、吸いこむとちょっとむせかえった。
お湯は、ほんのちょっと少なめだった。
肩を湯につけるまでに、心なしか深めに体を沈めた。
いいお湯だと思う。父が入っていないから、それほど熱くもなくいい湯加減だ。
ここも、一人になれる、好きな場所だった。
決まった時間しか過ごせないのが難だったから、こう言う機会は嬉しい。
腹が膨れているせいか、湯舟の壁にもたれ、うとうとしそうになる。
脱衣場の床板が、きしきし鳴るので、ちょっとだけ舟が此岸に寄った。
「お湯加減、どう?」脱衣場の方から声がする。祐だった。
「だいじょうぶ。」僕がぼんやり答えると、「はーい。」と言いながら、祐がいる方から何かしゅるしゅる、ぱさっと音がしている。
洗濯物を集めているんだろうか。あとで、少しはお手伝いしないと。
思っているうちに、「よいしょ、よいしょ。」という祐の声といっしょになって、湿気を吸って少し開けづらくなった風呂場の引き戸が開いていく。
祐が入ってきた。あれ、ここで洗濯をするのか。
でも、祐が持っているのは体の前に垂らした手拭一枚だけだ。
風呂場には湯気が立ち込めていて、なんだか祐が何も着てないように見えてしまった気がして、恥ずかしかった。
何を考えているんだ、僕は。
…いや、違う。
湯船の脇で祐が片膝をつこうとしている。僕の目は、祐の体を正面からまともにとらえてしまい、瞬時に首を反対側に回した。
今見たものを、慌てて頭の中から吹き飛ばし、何も見なかったことにした。
着てないように見えるんじゃない。
ほんとに何も、着ていなかった。真っ白い、肌だった。
…全然、吹き飛んでいない。
どうしよう、と思った。
ごめんなさい、見てませんから、と大嘘をつきつつ、出て行った方がいいのか。
「ゆ、う、お風、呂?」
お風呂には今、僕が入っています。祐は、もう少し後で入った方がいいのではないでしょうか。
そういう、念を押す意味を込めて聞いてみたのだったが。片言過ぎて、自分でも何を言っているのかわからない。
「うん。祐も、いっしょにお風呂。」
桶ですくったお湯を、さあっとかぶりながら、祐の答え。僕に負けず劣らず短い答えだったが。
豊が入っているのは承知しています。私も豊といっしょにお風呂に入ろうと思います。
という意思を明瞭に感じることができる答えだった。
反論の言葉を探している間にも。
「ゆたか、ごめんね。背中の方、ちょっと空けてくれる?」
祐が湯船をまたいでこちらへ入ってくる。
言葉が間に合わず、反射的に膝を縮め、祐の場所を開けた。出来るだけ広く。
ちゃぷ、ちゃぷと音がして、湯舟の水かさが、祐が入った分だけ増す。
僕の胸が、水に波を立てるほど大きく鳴り続けていた。
考えないようにしたいのに。
今、祐が、裸で、僕の後ろにいるということを。
吹き飛ばすどころの騒ぎじゃない。
しつこいくらいに、僕の目はさっき見た祐の姿を留め続けていた。
11/10/17 23:17更新 / さきたま
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