四
「祐ちゃん、そろそろご飯よそってくれるかい?」
「はぁい、かか様。」
台所から、話し声が二つ、軽やかに廊下を弾んで、離れた部屋で横たわる僕の耳の中に転がり込んでくる。
母と、祐の、夕餉の支度。
「そうかい、あの子起きたかい。」
「はい。」
「じゃあ、もう今日からなのかい? 祐ちゃんは。」
「御迷惑でなければ。」
「なあにを水臭い。あんまり体のできは良くない子だけど、よろしくね、祐ちゃん。」
「はい、こちらこそ。」
話の中身はよくわからないけど、ぼんやり聞いているだけでも、安らぐような気がする。
鼻が通っていれば、米の炊ける匂いにさぞ空腹を煽られているところだろう。
「祐ねえちゃん、おいらもてつだう!」
「実! あんたは成の方見とかなきゃだめじゃないの。一人で汁物並べさせて、ひっくり返したらどうするんだい!?」
僕と二つ違いの弟、実(みのる)の声もそれに加わると、母の声が、弾むというより投げつけてくるような感じに変わった。
兄と違って、弟は普段からよく通る声の持ち主だ。
母に似たのだろう。
その実と二つ違いの妹、成(なる)は、どうやら茶の間で配膳中のようだ。
七つの子一人にやらせるには、確かに少々危なっかしい。
でも、兄の贔屓目を抜きにしても、きょうだい二人とも、年の割に随分しっかりしていると思う。やはり、不甲斐ない長兄を持ったせいだろうか。
「あ、かか様。それじゃ私が、なるちゃん見てきます。
みのる君、ねえちゃんの代わりにごはん、よそってもらえる?」
「うん、わかった!」
「ごめんよ、祐ちゃん。ほら実、しゃもじはこっち!」
母が、しゃもじを何かに叩きつける音が、かんかんと鳴った。
祐の履く足袋の足音は、そんな中でもすさすさとよく聞こえた。
茶の間へ向かったものらしい。
「おおい、妙。俺の着るもんはどこだ?」
「ちょ…っと、馬鹿、あんた! もう祐ちゃんもいるんだから、そんな格好でうろつくんじゃないよ!
実! 父ちゃんの着替え出しとけって言ったろ? まぁた忘れてこの子は、もう!」
母、妙(たえ)の大声を聞いて、僕は弟に対する先ほどの評価を、そっと保留することにした。
今ぐらいの時期になると、父、厳(いつく)の、風呂上がりそのままの格好で家の中をうろつく癖が出始める。
手拭すら巻かない。ある意味、男らしい。
父は熱い湯が好きだ。ゆで上がるくらい温まった体が風に冷まされるのが、心地よいという。おかげで後に入る僕らは、湯をうめるのに少々手間がかかる。
いずれ秋から冬になれば、圧倒的な寒さのためにかなわぬ楽しみとなってしまうので、ああやって母に文句を言われつつも、なかなかやめる気にはならないらしい。
なんとなく、気持ちは分かる。あまり分かりたくはないけど分かる。
疲れて帰ってくる父の楽しみに、けちをつけるようなことはしたくはないが、ああいうところは父親似でありたくないと思う。
「なるちゃん、お姉ちゃんも一緒にお味噌汁、並べてもいい?」
「うん、いいよー。」
元気良く返事したのが、妹の成だ。
どうやら、畳に味噌汁を飲ませずに済んだらしい。
おねえちゃん、こぼしちゃだめよ? と、祐に並べ方の指導を垂れている。
しっかりしてるな、と改めて思う。
はい、きをつけます。と、祐は、それが微笑ましくてならぬといった声で、成に返事をした。
この家が一番賑やかになる時間が、たぶん今だ。
夕ごはん間際の、この時。
父が一番風呂を使い、母が台所。弟と妹が風呂焚き、飯炊きのお手伝い。
それに、今日は祐も加わっている。
本当に、祐は驚くほど自然に、この家に解け込んでいる。
解け込むという言い方は、正しくないかもしれない。
僕の知っている以上に、祐とこの家とは長い付き合いだというのなら、むしろ当然のことだろう。家族が何も教えてくれなかったことが、今更ながら不可解だが。
それとはつゆ知らず、うんうん唸って寝ているしか能のなかった身には、やはり驚きの方が先に立ってしまう。
数はもう、足りている。
ただ我が身だけが、やり場なく余っている。
そこでそんなことが頭をよぎるのは、なんなのだろう。
楽しい場が繰り広げられているのは分かっているのに。
なぜ、皆と同じように微笑ましい気持ちだけに満たされて過ごせないのだろう。
とりあえず、いつものようにそいつをとっ捕まえて、自分の中深くに沈め、ふたをする努力を始める。
この胸の澱は、いつかなくなるものなんだろうか。
溜まりに溜まった挙句、あふれ出す、あるいは器が破れる、なんてことになったら嫌だ。
自分の体の中のことが、自分にはいかんともしがたい。
隔靴掻痒、と、お寺で読んだ本の中に書いてあった気がする。たしかこういう時に使う言葉だったか。
何と読むんだっけ。
度忘れした。
ああ、もう。なにもかも、もどかしい。
何もない昼日中。
風邪の熱になぶられて、ただ横になり、唸るだけの僕。
たとえば、寝たまま縁側の方にごろりと体を向ける。
そこには、縦に傾いた庭が見える。
庭に、大きめの石ころが転がっている。
日中であれば、お日様の光が、その石に当たって、影を作る。
影は、お日様から逃げ隠れするように、石ころの周りをじんわりと、伸び縮みしながら回る。
それを、ひたすら、ぼけっと眺める。
影が、確かに動いていることを、自分の目で認められたら、僕の勝ち。
誰と勝負しているのか、また負けるにはどうすればいいのか。
それは、まだよくわかっていない。
というのが、僕が編み出した遊びの一つだった。
雨の日にはできないのが、玉にきず。
何が楽しいのか、と聞かれると、正直答えに困る。
いったいいつこんなことを覚えたのか、定かではないけれど、たぶん楽しいから始めたわけではないと思う。
楽しいどころか、あまり長く続けると急速に頭が悪くなっていく気さえする。
一心不乱に遊ぶその様は、はた目には、完全に心をどこかに置き忘れた可哀想な子にしか見えないだろう。
しかも、ふと正気にかえった後からやって来る、無駄な時を過ごしてしまったという喪失感や、後悔の気持ちには耐えがたいものがある。
だから僕は、この遊びのことを誰にも話していない。
自分というものを一言で表すとしたら、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ということわざを引いてくるのが、もっとも手っ取り早いと思う。
熱がやや下がってきはじめると、今度は退屈に襲われるのである。
家族にも、口に出して訴えたことは無い。
さすがに、毎日表で汗を流して帰ってくるところに向かって、
「寝てばかりでは退屈だ」などと言えたものではない。
はた目には、日がな一日寝そべっている僕の方がどう見ても楽をしている。
他の子らから、寝太郎だのなんだの、つまらないあだ名をつけられるのも、無理のないことだった。
少しでも、日の入りを早めたいのかもしれない。恐い夜が訪れる犠牲を払ってでも、手持ちぶさたな時間を、さっさと追いやってしまいたい。
要は、暇つぶしだ。
暇だからといって、他の子のように、誰かと連れだってどこかへ遊びに出ていけるようなら苦労はしない。
あいにく、自分の体は、縁側に降りて遊ぼうとしても、早々と息を上げてしまう。
熱が下がったところでさほど動けるようになるわけでもないし、他の子の前に姿を見せても、僕には百害あって一利もない。
あの影よりも、僕は動けない。どちらかというと石ころのほうに近い。
僕はこうして横になって、寒気にふるえながら、ただ咳と鼻水とを吐き出すだけの生き物として一生を終えるんだろうなと思ったこともある。
気ッ持ち悪いな、こいつ。
それは僕自身の、僕への思いであったはずだが、頭の中に不意に響いたその声に、反射的に首をすくめた。
もう聞かされ慣れた言葉のはずだったのに。
嫌なのに思い出す。まだ胸の辺りに痛みがはしる。
さっき押し込めたばっかりなのに。
わかってる。とっくに、もう。
そんなこと、改めて言われるまでもない。ほかでもない僕自身、ちゃんとそう思ってるから。
だから、わざわざ面と向かって、そんなことを言わなくても。
わざわざ僕がいる前で、おおげさに手を拭ったりしなくてもいいのではないか。
触りたくもないなら、どうしていつも、あんな、
僕は右手でげんこつを握り、自分の額にぶつけた。
どん、と骨の内側に音が伝わって、頭の下に敷かれた枕に抜ける。
げんこつの節くれだったところが当たってしまい、思いのほか痛かった。
字の読み方一つ思い出せないくせに。
僕の頭は、忘れてしまいたいことに限って、繰り返す。
熱さを忘れたいのに。
喉元どころか、飲み込むこともままならず。
延々と口の中に残り続けて、そこらじゅうを火傷する。
僕は顔中を絞るようにして目をつぶった。
顔の力を緩めながら、深めに息をし、落ち着こうとする。
咳は出ない。
祐の手当てが、まだ効いているみたいだ。
祐に言わせれば、こんな僕でも頑張っているらしいけど、やっぱりそれは買いかぶりというか、お愛想のひとつなんじゃないだろうかと思えてならなかった。
ふうふうと口をすぼめる顔は、きつねに似るのかと思ったら、そうでもなくて、だけどつい見入ってしまう。
「あーん。」
言いながら、祐は吹いていた木の匙を、左手を添えながら僕の方へ差し出した。
僕はあわてて縁側の方へ目を逸らして、それをどうにか口で受け取る。
外は日が暮れて、もう石ころに影はできない。ふと、今日は例の影遊びをやっていないことを思い出した。そういえば、縁側との間にはほとんど祐がいたのだった。
おかゆの味はわからないけど、わずかに混じった塩が、舌を刺激するのが嬉しい。正直、まだあまりお腹が空いている気はしないが、ご飯抜きで二日過ごすのは、さすがに心配されてしまうだろう。余計な気を遣わせてはいけない。
おかゆの熱さ加減は本当に申しぶんない。祐と僕とで同じ舌を使っているのではないかと疑うほどだった。
それに、ちょうどいい熱さで食べているはずなのに、顔じゅうがさっきから火を噴きそうなぐらい火照っているのは、どういうわけだろう。
体の熱も少しおとなしくなって、体を起こすくらいなら平気な具合になったところだったのに。
ちらりと、祐の方を見る。
目が合う。
「ん、待ってね。」
そう言って祐は、おかゆをもうひと掬い。
ふう、ふう。
「はい、どうぞ。」
口を開ける。そっと、匙が僕の口の中へ。
確か、さっきまで僕は、ものすごく暗いことを考えていたはず。
喉元過ぎたと思ったら、もうこのありさまだ。
僕が一口食べるたびに、祐の尻尾がぴょんと動く。
僕が飲み込むまで、祐は満足そうな顔で、尻尾をはためかせながらじいっとこちらを見ている。
きつねの尻尾も、嬉しいと、犬のようにぱたぱたするものなんだろうか。
でも、まあ、目の前の祐が嬉しそうなのは、確かなことみたいだ。
それでいいのかもしれない。
何故か素直に認めたくはないけど、たぶん、僕に尻尾があったら、祐とおんなじくらいぱたぱたさせているだろう。
喉もそんなに痛みが気にならないのが、恥ずかしい。節操がない。
おかゆが胃に落ち着く頃に、祐は次のふうふうを始める。
祐が匙に少し口をつけて、おかゆの熱さを測っているのを、僕は殊更に見ないようにと、下を向いた。
「はい、あーん。」
食べるのを急かさない、これまた本当に良い頃合いに匙が出てくる。
なぜか、食べるわけではない祐も僕といっしょになって口を開けている。
僕が知っていることわざと、何だか、何かが違う。
おかゆが喉元を過ぎれば過ぎるほど、熱さがいや増してくる。
これも、おまじないのひとつだったりするのだろうか。
なにか言葉を発しないと、顔が破裂してしまうかもしれないと、僕は思った。だから、
「祐は、もうごはん、食べたの。」
と、とりあえず尋ねた。
「ううん、これから。」
茶の間からは、食事に興じる家族の声が聞こえる。
平然と答える祐に、なにか、申し訳ない気がした。
「僕、ひとりでも、だいじょうぶだよ。食べて、きて。」
使わないものは、鈍るのが道理だ。
だから、僕の語る言葉は、思う言葉と勝手が違う。
舌がうまく回らないばかりか、気遣ったつもりで、本当は心にもないことを言う。
んー、と小首を傾げた後、祐は、お椀と匙を傍らに置くと、僕の方へいざり寄り、僕の頭を撫で始めた。
「おいしい? おかゆ。」
僕を撫でながら、そう聞いた。
「ん。」
一言だけ、ようやく鼻から押し出して、頷く僕。
味、わかんないけど。とは、心の中だけで言わずにおく。
祐の着物が近づいてくる。
なんだろう、と、思う間もなく、祐の両手が僕の頭にまわされた。
そのまま、近づいてくる着物に、僕の顔がきゅっと押しつけられる。
女の子が僕に近づくときは、大概いじめられるものと決まっていたため、その時のことを思い出し、つい体を竦めていたのだが。
抱き寄せられているのだと、しばしの間があってわかった。
僕に、触れても大丈夫なんだろうか。
思い出すのは、お昼の床の中。
水にふやけた祐の手を握ったこと。
もしかしたら、あの時、祐は。
そんな不安と裏腹に、僕の体の緊張はみるみる解け、力が抜けてくる。
僕はいつしか、すっかり祐の胸に顔をうずめていた。
「ゆたかがやっと、起きてごはん食べてくれたから、嬉しいの。いまは、そっちの方が先。」
お腹がすくのは、その後でもいいかなと思って。と言いながら、祐は僕を抱っこしたまま頭をぽんぽんと撫でている。
顔が、あつくて、とけそう。
「もうちょっと良くなったら、お風呂入らなきゃね。」
などと呟きながら、祐は僕の頭の方で、鼻をすんすん言わせている。
ちょっと強めに抱かれているのに、着物のむこうが、やわらかい。
おまじないの時とおんなじ。
「おかゆ、もうちょっとだけど、全部食べられそう?」
僕が食べれば、祐もご飯が食べられる、そんなふうに思うと、ささやかな頑張りどころを見つけられたような気がした。
尋ねた祐の腕の中で、僕は溶けかかった頭を縦に振る。
お正月に振る舞われた、お神酒を思い出す。あれを呑んだ後も、なんだか今と同じような感じになって、気がついたら布団の中だった。
祐が離れると、頭の中は寝起きみたいにとろんとしているのに、自分の胸の打つ音がどきどきとよく聞こえた。
ついつい、祐の様子を、ぽけっとしつつも窺う。
拭かない。
いつまで見ていても。
僕に触れていた手は、拭われることなく、そのままだった。
些細なことかもしれないけど。
僕はそれに幸せを感じてもいいはずだ、と思う。
差し出されるおかゆ。
今度は祐の方を向いて、木の匙をぱくり。
「どうだい、豊は。食べられてる?」
口に入れるのとほぼ同時に、母が顔を見せた。
僕は喉から、ぐふ、と変な音をさせ、少しむせかえった。
さっきは足袋を履いた祐の足音が聞こえたのに、母が近付いていることに全く気がつかなかった。
「はい、かか様。いっぱい食べてます。じきにすっかり元気になると思います。」
祐は母にそう答えると、「ね?」と、僕の方を向く。
僕は鼻から返事をしながら、あらぬ方を向いた。
「そうかい、そりゃよかった。」
女の子が食べさせると違うねぇ、と、何やらにやにやしながら母は言った。
変に腹が立つ。
「いつもは、風邪引くとあんまり食べない子だから心配したけど、祐ちゃんのおかげで助かるよ。ありがとうね。」
「ゆたか、かか様のおかゆを、おいしいって。みんな食べちゃいました。」
ほら、と祐が母に見せるお椀の中には、なるほどおかゆはもう残っていない。ぼおっとしながら、いつのまにか平らげてしまったのか。
「あら、そうかい。どうする豊、まだなんか食べる?」
僕は首を横に振り、ごちそうさまを言った。
「大丈夫かい? お前二日くらい食べてないんだから、お腹空いたらちゃんと祐ちゃんか、おっ母に言うんだよ。」
「だいじょうぶ。」
家族相手に口を利く時、なぜか腹の中で身構えた感じになるのは、いつからなんだろう。
「じゃあ、そろそろ祐ちゃんもご飯食べといで。厚揚げ、いっぱいおかわりしていいわよ。」
「すみません、かか様。」
すました返事をしていても、厚揚げ、と聞いてお稲荷様の尻尾がぴょんと動いた。さもありなん、と僕は思った。
「お布団も敷いといてあげるから、お風呂も済ましちゃいなさい。洗い物はやっておくから、食べたものは置きっぱなしでいいからね。」
祐は「すみません」を繰り返し、僕の方を見て「何かあったら、呼んでね。」と言いおくと、僕の使った器を持って立ち上がった。
そして、
「じゃ、私もご飯、いただいてきます。」と母に告げ、そそくさと茶の間の方へ歩いていった。
あいよ、と立ち去る祐の背中に母は声をかけた。
「あの子、油揚げだの厚揚げだの、ほんとに揚げ物が好きなんだよ。やっぱりお稲荷様なのかねえ。」
僕に話しているのかどうか、くすくす笑いながら、母は押入れをすらりと開けた。
布団を一組引っ張り出すと、僕の右隣にくっつけて敷き始める。
これ、と僕が片言で問うと、
「ん? 祐ちゃんの布団、これじゃなかったっけ?」
いいや、これでいいはずだよ、枕の色もそうだ、と母は一人で問答した。
聞きたかったことと、答えが、微妙にずれている。
聞き返すのもなんだか気がひけたので、とりあえず考えてみた。
押入れから、僕の使わない布団が出てきた。それは祐の布団だという。祐はこの家に泊まっていくこともあると聞いたので、それなら布団くらいあるだろう。
祐の布団が、僕の寝ている部屋の押し入れにあるということは。
その布団は、もっぱらこの部屋で上げ下ろしされていると考えるべきで。
母が今、当然のように敷いた祐の布団の場所が、僕の隣ということは。
そこが、当然祐の寝る場所ということになる。
では、これまで祐は、うちに泊まる時、僕の隣で寝ていたのか。
「たまにはあんたも、祐ちゃんの布団畳むの手伝ってあげるんだよ。これから一緒に住むんだから。」
考えごとの途中でさらりと、あまりに分かり切ったことのように母が言うので、生返事をしたまま僕はしばらく、母の言葉を宙ぶらりんのままにしていた。
最後の一言が、僕の耳の入り口からようやっと頭に届き、「え。」というすっとんきょうな声で振り返った時には、そこにもう母の姿は無かった。
じいいい。じりじりじり。
僕と布団たちの他、部屋に残ったのは、きりぎりすや、やぶきりの声ばかり。
「あの、かか様。」
「あらら、もう食べちゃったかい。待っといで、すぐおかわり持ってくるから。」
茶の間からは、祐と母の声。それと父のいびき。
食後のうたたねだ。牛になると何度母に言われても、止めようとしないのだ。
考えは、そんなどうでもいい事の方へばかり滑っていった。
「はぁい、かか様。」
台所から、話し声が二つ、軽やかに廊下を弾んで、離れた部屋で横たわる僕の耳の中に転がり込んでくる。
母と、祐の、夕餉の支度。
「そうかい、あの子起きたかい。」
「はい。」
「じゃあ、もう今日からなのかい? 祐ちゃんは。」
「御迷惑でなければ。」
「なあにを水臭い。あんまり体のできは良くない子だけど、よろしくね、祐ちゃん。」
「はい、こちらこそ。」
話の中身はよくわからないけど、ぼんやり聞いているだけでも、安らぐような気がする。
鼻が通っていれば、米の炊ける匂いにさぞ空腹を煽られているところだろう。
「祐ねえちゃん、おいらもてつだう!」
「実! あんたは成の方見とかなきゃだめじゃないの。一人で汁物並べさせて、ひっくり返したらどうするんだい!?」
僕と二つ違いの弟、実(みのる)の声もそれに加わると、母の声が、弾むというより投げつけてくるような感じに変わった。
兄と違って、弟は普段からよく通る声の持ち主だ。
母に似たのだろう。
その実と二つ違いの妹、成(なる)は、どうやら茶の間で配膳中のようだ。
七つの子一人にやらせるには、確かに少々危なっかしい。
でも、兄の贔屓目を抜きにしても、きょうだい二人とも、年の割に随分しっかりしていると思う。やはり、不甲斐ない長兄を持ったせいだろうか。
「あ、かか様。それじゃ私が、なるちゃん見てきます。
みのる君、ねえちゃんの代わりにごはん、よそってもらえる?」
「うん、わかった!」
「ごめんよ、祐ちゃん。ほら実、しゃもじはこっち!」
母が、しゃもじを何かに叩きつける音が、かんかんと鳴った。
祐の履く足袋の足音は、そんな中でもすさすさとよく聞こえた。
茶の間へ向かったものらしい。
「おおい、妙。俺の着るもんはどこだ?」
「ちょ…っと、馬鹿、あんた! もう祐ちゃんもいるんだから、そんな格好でうろつくんじゃないよ!
実! 父ちゃんの着替え出しとけって言ったろ? まぁた忘れてこの子は、もう!」
母、妙(たえ)の大声を聞いて、僕は弟に対する先ほどの評価を、そっと保留することにした。
今ぐらいの時期になると、父、厳(いつく)の、風呂上がりそのままの格好で家の中をうろつく癖が出始める。
手拭すら巻かない。ある意味、男らしい。
父は熱い湯が好きだ。ゆで上がるくらい温まった体が風に冷まされるのが、心地よいという。おかげで後に入る僕らは、湯をうめるのに少々手間がかかる。
いずれ秋から冬になれば、圧倒的な寒さのためにかなわぬ楽しみとなってしまうので、ああやって母に文句を言われつつも、なかなかやめる気にはならないらしい。
なんとなく、気持ちは分かる。あまり分かりたくはないけど分かる。
疲れて帰ってくる父の楽しみに、けちをつけるようなことはしたくはないが、ああいうところは父親似でありたくないと思う。
「なるちゃん、お姉ちゃんも一緒にお味噌汁、並べてもいい?」
「うん、いいよー。」
元気良く返事したのが、妹の成だ。
どうやら、畳に味噌汁を飲ませずに済んだらしい。
おねえちゃん、こぼしちゃだめよ? と、祐に並べ方の指導を垂れている。
しっかりしてるな、と改めて思う。
はい、きをつけます。と、祐は、それが微笑ましくてならぬといった声で、成に返事をした。
この家が一番賑やかになる時間が、たぶん今だ。
夕ごはん間際の、この時。
父が一番風呂を使い、母が台所。弟と妹が風呂焚き、飯炊きのお手伝い。
それに、今日は祐も加わっている。
本当に、祐は驚くほど自然に、この家に解け込んでいる。
解け込むという言い方は、正しくないかもしれない。
僕の知っている以上に、祐とこの家とは長い付き合いだというのなら、むしろ当然のことだろう。家族が何も教えてくれなかったことが、今更ながら不可解だが。
それとはつゆ知らず、うんうん唸って寝ているしか能のなかった身には、やはり驚きの方が先に立ってしまう。
数はもう、足りている。
ただ我が身だけが、やり場なく余っている。
そこでそんなことが頭をよぎるのは、なんなのだろう。
楽しい場が繰り広げられているのは分かっているのに。
なぜ、皆と同じように微笑ましい気持ちだけに満たされて過ごせないのだろう。
とりあえず、いつものようにそいつをとっ捕まえて、自分の中深くに沈め、ふたをする努力を始める。
この胸の澱は、いつかなくなるものなんだろうか。
溜まりに溜まった挙句、あふれ出す、あるいは器が破れる、なんてことになったら嫌だ。
自分の体の中のことが、自分にはいかんともしがたい。
隔靴掻痒、と、お寺で読んだ本の中に書いてあった気がする。たしかこういう時に使う言葉だったか。
何と読むんだっけ。
度忘れした。
ああ、もう。なにもかも、もどかしい。
何もない昼日中。
風邪の熱になぶられて、ただ横になり、唸るだけの僕。
たとえば、寝たまま縁側の方にごろりと体を向ける。
そこには、縦に傾いた庭が見える。
庭に、大きめの石ころが転がっている。
日中であれば、お日様の光が、その石に当たって、影を作る。
影は、お日様から逃げ隠れするように、石ころの周りをじんわりと、伸び縮みしながら回る。
それを、ひたすら、ぼけっと眺める。
影が、確かに動いていることを、自分の目で認められたら、僕の勝ち。
誰と勝負しているのか、また負けるにはどうすればいいのか。
それは、まだよくわかっていない。
というのが、僕が編み出した遊びの一つだった。
雨の日にはできないのが、玉にきず。
何が楽しいのか、と聞かれると、正直答えに困る。
いったいいつこんなことを覚えたのか、定かではないけれど、たぶん楽しいから始めたわけではないと思う。
楽しいどころか、あまり長く続けると急速に頭が悪くなっていく気さえする。
一心不乱に遊ぶその様は、はた目には、完全に心をどこかに置き忘れた可哀想な子にしか見えないだろう。
しかも、ふと正気にかえった後からやって来る、無駄な時を過ごしてしまったという喪失感や、後悔の気持ちには耐えがたいものがある。
だから僕は、この遊びのことを誰にも話していない。
自分というものを一言で表すとしたら、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ということわざを引いてくるのが、もっとも手っ取り早いと思う。
熱がやや下がってきはじめると、今度は退屈に襲われるのである。
家族にも、口に出して訴えたことは無い。
さすがに、毎日表で汗を流して帰ってくるところに向かって、
「寝てばかりでは退屈だ」などと言えたものではない。
はた目には、日がな一日寝そべっている僕の方がどう見ても楽をしている。
他の子らから、寝太郎だのなんだの、つまらないあだ名をつけられるのも、無理のないことだった。
少しでも、日の入りを早めたいのかもしれない。恐い夜が訪れる犠牲を払ってでも、手持ちぶさたな時間を、さっさと追いやってしまいたい。
要は、暇つぶしだ。
暇だからといって、他の子のように、誰かと連れだってどこかへ遊びに出ていけるようなら苦労はしない。
あいにく、自分の体は、縁側に降りて遊ぼうとしても、早々と息を上げてしまう。
熱が下がったところでさほど動けるようになるわけでもないし、他の子の前に姿を見せても、僕には百害あって一利もない。
あの影よりも、僕は動けない。どちらかというと石ころのほうに近い。
僕はこうして横になって、寒気にふるえながら、ただ咳と鼻水とを吐き出すだけの生き物として一生を終えるんだろうなと思ったこともある。
気ッ持ち悪いな、こいつ。
それは僕自身の、僕への思いであったはずだが、頭の中に不意に響いたその声に、反射的に首をすくめた。
もう聞かされ慣れた言葉のはずだったのに。
嫌なのに思い出す。まだ胸の辺りに痛みがはしる。
さっき押し込めたばっかりなのに。
わかってる。とっくに、もう。
そんなこと、改めて言われるまでもない。ほかでもない僕自身、ちゃんとそう思ってるから。
だから、わざわざ面と向かって、そんなことを言わなくても。
わざわざ僕がいる前で、おおげさに手を拭ったりしなくてもいいのではないか。
触りたくもないなら、どうしていつも、あんな、
僕は右手でげんこつを握り、自分の額にぶつけた。
どん、と骨の内側に音が伝わって、頭の下に敷かれた枕に抜ける。
げんこつの節くれだったところが当たってしまい、思いのほか痛かった。
字の読み方一つ思い出せないくせに。
僕の頭は、忘れてしまいたいことに限って、繰り返す。
熱さを忘れたいのに。
喉元どころか、飲み込むこともままならず。
延々と口の中に残り続けて、そこらじゅうを火傷する。
僕は顔中を絞るようにして目をつぶった。
顔の力を緩めながら、深めに息をし、落ち着こうとする。
咳は出ない。
祐の手当てが、まだ効いているみたいだ。
祐に言わせれば、こんな僕でも頑張っているらしいけど、やっぱりそれは買いかぶりというか、お愛想のひとつなんじゃないだろうかと思えてならなかった。
ふうふうと口をすぼめる顔は、きつねに似るのかと思ったら、そうでもなくて、だけどつい見入ってしまう。
「あーん。」
言いながら、祐は吹いていた木の匙を、左手を添えながら僕の方へ差し出した。
僕はあわてて縁側の方へ目を逸らして、それをどうにか口で受け取る。
外は日が暮れて、もう石ころに影はできない。ふと、今日は例の影遊びをやっていないことを思い出した。そういえば、縁側との間にはほとんど祐がいたのだった。
おかゆの味はわからないけど、わずかに混じった塩が、舌を刺激するのが嬉しい。正直、まだあまりお腹が空いている気はしないが、ご飯抜きで二日過ごすのは、さすがに心配されてしまうだろう。余計な気を遣わせてはいけない。
おかゆの熱さ加減は本当に申しぶんない。祐と僕とで同じ舌を使っているのではないかと疑うほどだった。
それに、ちょうどいい熱さで食べているはずなのに、顔じゅうがさっきから火を噴きそうなぐらい火照っているのは、どういうわけだろう。
体の熱も少しおとなしくなって、体を起こすくらいなら平気な具合になったところだったのに。
ちらりと、祐の方を見る。
目が合う。
「ん、待ってね。」
そう言って祐は、おかゆをもうひと掬い。
ふう、ふう。
「はい、どうぞ。」
口を開ける。そっと、匙が僕の口の中へ。
確か、さっきまで僕は、ものすごく暗いことを考えていたはず。
喉元過ぎたと思ったら、もうこのありさまだ。
僕が一口食べるたびに、祐の尻尾がぴょんと動く。
僕が飲み込むまで、祐は満足そうな顔で、尻尾をはためかせながらじいっとこちらを見ている。
きつねの尻尾も、嬉しいと、犬のようにぱたぱたするものなんだろうか。
でも、まあ、目の前の祐が嬉しそうなのは、確かなことみたいだ。
それでいいのかもしれない。
何故か素直に認めたくはないけど、たぶん、僕に尻尾があったら、祐とおんなじくらいぱたぱたさせているだろう。
喉もそんなに痛みが気にならないのが、恥ずかしい。節操がない。
おかゆが胃に落ち着く頃に、祐は次のふうふうを始める。
祐が匙に少し口をつけて、おかゆの熱さを測っているのを、僕は殊更に見ないようにと、下を向いた。
「はい、あーん。」
食べるのを急かさない、これまた本当に良い頃合いに匙が出てくる。
なぜか、食べるわけではない祐も僕といっしょになって口を開けている。
僕が知っていることわざと、何だか、何かが違う。
おかゆが喉元を過ぎれば過ぎるほど、熱さがいや増してくる。
これも、おまじないのひとつだったりするのだろうか。
なにか言葉を発しないと、顔が破裂してしまうかもしれないと、僕は思った。だから、
「祐は、もうごはん、食べたの。」
と、とりあえず尋ねた。
「ううん、これから。」
茶の間からは、食事に興じる家族の声が聞こえる。
平然と答える祐に、なにか、申し訳ない気がした。
「僕、ひとりでも、だいじょうぶだよ。食べて、きて。」
使わないものは、鈍るのが道理だ。
だから、僕の語る言葉は、思う言葉と勝手が違う。
舌がうまく回らないばかりか、気遣ったつもりで、本当は心にもないことを言う。
んー、と小首を傾げた後、祐は、お椀と匙を傍らに置くと、僕の方へいざり寄り、僕の頭を撫で始めた。
「おいしい? おかゆ。」
僕を撫でながら、そう聞いた。
「ん。」
一言だけ、ようやく鼻から押し出して、頷く僕。
味、わかんないけど。とは、心の中だけで言わずにおく。
祐の着物が近づいてくる。
なんだろう、と、思う間もなく、祐の両手が僕の頭にまわされた。
そのまま、近づいてくる着物に、僕の顔がきゅっと押しつけられる。
女の子が僕に近づくときは、大概いじめられるものと決まっていたため、その時のことを思い出し、つい体を竦めていたのだが。
抱き寄せられているのだと、しばしの間があってわかった。
僕に、触れても大丈夫なんだろうか。
思い出すのは、お昼の床の中。
水にふやけた祐の手を握ったこと。
もしかしたら、あの時、祐は。
そんな不安と裏腹に、僕の体の緊張はみるみる解け、力が抜けてくる。
僕はいつしか、すっかり祐の胸に顔をうずめていた。
「ゆたかがやっと、起きてごはん食べてくれたから、嬉しいの。いまは、そっちの方が先。」
お腹がすくのは、その後でもいいかなと思って。と言いながら、祐は僕を抱っこしたまま頭をぽんぽんと撫でている。
顔が、あつくて、とけそう。
「もうちょっと良くなったら、お風呂入らなきゃね。」
などと呟きながら、祐は僕の頭の方で、鼻をすんすん言わせている。
ちょっと強めに抱かれているのに、着物のむこうが、やわらかい。
おまじないの時とおんなじ。
「おかゆ、もうちょっとだけど、全部食べられそう?」
僕が食べれば、祐もご飯が食べられる、そんなふうに思うと、ささやかな頑張りどころを見つけられたような気がした。
尋ねた祐の腕の中で、僕は溶けかかった頭を縦に振る。
お正月に振る舞われた、お神酒を思い出す。あれを呑んだ後も、なんだか今と同じような感じになって、気がついたら布団の中だった。
祐が離れると、頭の中は寝起きみたいにとろんとしているのに、自分の胸の打つ音がどきどきとよく聞こえた。
ついつい、祐の様子を、ぽけっとしつつも窺う。
拭かない。
いつまで見ていても。
僕に触れていた手は、拭われることなく、そのままだった。
些細なことかもしれないけど。
僕はそれに幸せを感じてもいいはずだ、と思う。
差し出されるおかゆ。
今度は祐の方を向いて、木の匙をぱくり。
「どうだい、豊は。食べられてる?」
口に入れるのとほぼ同時に、母が顔を見せた。
僕は喉から、ぐふ、と変な音をさせ、少しむせかえった。
さっきは足袋を履いた祐の足音が聞こえたのに、母が近付いていることに全く気がつかなかった。
「はい、かか様。いっぱい食べてます。じきにすっかり元気になると思います。」
祐は母にそう答えると、「ね?」と、僕の方を向く。
僕は鼻から返事をしながら、あらぬ方を向いた。
「そうかい、そりゃよかった。」
女の子が食べさせると違うねぇ、と、何やらにやにやしながら母は言った。
変に腹が立つ。
「いつもは、風邪引くとあんまり食べない子だから心配したけど、祐ちゃんのおかげで助かるよ。ありがとうね。」
「ゆたか、かか様のおかゆを、おいしいって。みんな食べちゃいました。」
ほら、と祐が母に見せるお椀の中には、なるほどおかゆはもう残っていない。ぼおっとしながら、いつのまにか平らげてしまったのか。
「あら、そうかい。どうする豊、まだなんか食べる?」
僕は首を横に振り、ごちそうさまを言った。
「大丈夫かい? お前二日くらい食べてないんだから、お腹空いたらちゃんと祐ちゃんか、おっ母に言うんだよ。」
「だいじょうぶ。」
家族相手に口を利く時、なぜか腹の中で身構えた感じになるのは、いつからなんだろう。
「じゃあ、そろそろ祐ちゃんもご飯食べといで。厚揚げ、いっぱいおかわりしていいわよ。」
「すみません、かか様。」
すました返事をしていても、厚揚げ、と聞いてお稲荷様の尻尾がぴょんと動いた。さもありなん、と僕は思った。
「お布団も敷いといてあげるから、お風呂も済ましちゃいなさい。洗い物はやっておくから、食べたものは置きっぱなしでいいからね。」
祐は「すみません」を繰り返し、僕の方を見て「何かあったら、呼んでね。」と言いおくと、僕の使った器を持って立ち上がった。
そして、
「じゃ、私もご飯、いただいてきます。」と母に告げ、そそくさと茶の間の方へ歩いていった。
あいよ、と立ち去る祐の背中に母は声をかけた。
「あの子、油揚げだの厚揚げだの、ほんとに揚げ物が好きなんだよ。やっぱりお稲荷様なのかねえ。」
僕に話しているのかどうか、くすくす笑いながら、母は押入れをすらりと開けた。
布団を一組引っ張り出すと、僕の右隣にくっつけて敷き始める。
これ、と僕が片言で問うと、
「ん? 祐ちゃんの布団、これじゃなかったっけ?」
いいや、これでいいはずだよ、枕の色もそうだ、と母は一人で問答した。
聞きたかったことと、答えが、微妙にずれている。
聞き返すのもなんだか気がひけたので、とりあえず考えてみた。
押入れから、僕の使わない布団が出てきた。それは祐の布団だという。祐はこの家に泊まっていくこともあると聞いたので、それなら布団くらいあるだろう。
祐の布団が、僕の寝ている部屋の押し入れにあるということは。
その布団は、もっぱらこの部屋で上げ下ろしされていると考えるべきで。
母が今、当然のように敷いた祐の布団の場所が、僕の隣ということは。
そこが、当然祐の寝る場所ということになる。
では、これまで祐は、うちに泊まる時、僕の隣で寝ていたのか。
「たまにはあんたも、祐ちゃんの布団畳むの手伝ってあげるんだよ。これから一緒に住むんだから。」
考えごとの途中でさらりと、あまりに分かり切ったことのように母が言うので、生返事をしたまま僕はしばらく、母の言葉を宙ぶらりんのままにしていた。
最後の一言が、僕の耳の入り口からようやっと頭に届き、「え。」というすっとんきょうな声で振り返った時には、そこにもう母の姿は無かった。
じいいい。じりじりじり。
僕と布団たちの他、部屋に残ったのは、きりぎりすや、やぶきりの声ばかり。
「あの、かか様。」
「あらら、もう食べちゃったかい。待っといで、すぐおかわり持ってくるから。」
茶の間からは、祐と母の声。それと父のいびき。
食後のうたたねだ。牛になると何度母に言われても、止めようとしないのだ。
考えは、そんなどうでもいい事の方へばかり滑っていった。
11/05/26 23:45更新 / さきたま
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