連載小説
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君ならずして誰かあぐべき(三)
 食事時を過ぎ、もう明日を迎える準備にかかっているのか、表通りには人の気配も少ない。
 部屋の中を、さっきまで橙色に柔らかく照らしていたランプも消してしまった。
 あとはただ、窓から薄い月明かり。
 ランプの置かれたサイドボードには、ガウン二着と、なぜかタオルが何枚も積んである。
 ママのしまい忘れかと思いきや、一番下のタオルには、メモが挟んであった。

 ――エシェルちゃんへ。終わったら使ってね♥ ママより
 
 よく意味が分からない。なんなの、「終わったら」って。



 膝から下を、そっと一巻きすることに決めた。
 けっして、みっちり巻きつくのが恥ずかしいからじゃない、と言い添えてはみたのだけど。
「遠慮しないで、『ぎゅっ』てしていいよ?」
 この子は、いつもこうして真顔でそそのかしてくるから侮れない。
 ルネの言葉に顔が緩みそうになるのを、歯を食いしばり、こらえた。
「だ、だめよ、あたしって胴体太いんだから、あんまり巻いたらほら、寝苦しいでしょ? あんた」
 あたしの言いわけにも、ルネは無邪気な顔。
「ううん、全然大丈夫。エシェルの体、やわらかくてすごく気持ちいい」
 ルネはそう言って、「おやすみ」のあいさつとともに、ほわっと幸せそうに目をつむった。
「か、から、だ…きもちいい…って」
 と、切れ切れにつぶやいたきり、あたしは、またも口をぱくぱくするしかなかった。
 あたしの血圧は、今日一日で乱高下しすぎて大変なことになっている。
 ルネが早々と寝る体勢に入ったものだから、どなり返すタイミングを逃してしまった。
 メドゥーサの目をためらいなく覗きこんだり、簡単に石にしてのけたり。こんな状況でさっさとおねんねしようとしたり。
 末恐ろしいお子様だわ、こいつ。

 お互いの体を横向きに、あたし達は向かい合っている。
 …いや。ほとんどこれ、だ…抱き合うって言ったほうが…。
 あああ、近い近い! 顔が近い! 唇も近い!
 ダメだってば、思い出しちゃうから! キッチンのアレを思い出しちゃうから!
 ううう、体をずらしたらずらしたで、今度は胸の方に近い!
 ていうか、あったかい! この子の脚、すっごく温かい! すっごく癒されるっぽい!
 うわああなんか匂いが! ルネのいい匂いが!
 石鹸、あたしとおんなじ石鹸の匂いが!

 あたしがあわてふためいている間に、いつしかルネは寝入ったらしい。
 すうすうと可愛らしい息が、一定のリズムをとるようになっていた。

 ……寝た、のかしら。
 まったく、ひとの気も知らないで、寝付きいいんだから。
 それとも、あたしがけっこうな長時間、錯乱していたか。
「……ルネ?」
 雪が降る音よりも小さく、あたしはルネを呼んでみた。
「……むにゅ」
 とかなんとか声を発しながら、もぞもぞ動くルネの驚異的な可愛さに、あたしの目が釘付けにされていると。

 そのまま、吸い込まれるように、あたしの胸に、ルネは顔を埋めてきた。

 悲鳴が出そうになるのを、息を止めてこらえた。
 体中に血を運ぶ、あたしの胸の音だけが、ひどくやかましい。
 このドキドキの音、ルネに、ううん、それどころか家の外にまで聞こえてしまうんじゃないのかしら。 

 髪の毛達は、もう辛抱たまらないとばかり、大はしゃぎでルネに絡みついていく。
 彼女達みんな、実に愛おしそうに振る舞ってはいるけど、はた目にはルネが蛇の群れに襲われているように見えなくもない。
 すでに、頭のところで一匹だけ爆睡してるのがいる。
 それは、やはりというかなんというか、アンナマリーだった。
(ルネくーん♥ あたしも一緒に寝るー)
(ずるーい! そこあたしが最初に見つけた場所なのにぃ)
(あーあ、ほんとに埋められるくらいあったらよかったのにね、胸)
 うっさい! ていうか誰よ、今の!! 聞き捨てならないわ、出てきなさい!

 
 ちょっとした添い寝じゃない。どうってことないわよ、そのくらい。
 子守唄の一つも歌って見せようかしら、お姉さんとして。
 なんて、たかをくくっていたけど。
 …それが強がりにすぎなかったということを、あたしは思い知らされた。
 ルネの寝顔の威力を、甘く見過ぎていたようだった。


 天使って…いるんだ、ほんとに。
 あたしは月の下、胸の中、安らいだ顔で横たわったルネを、茫然と、はたまた爛々と見つめる。
 ルネを起こさないよう、慎重に呼吸をするけど、…明らかに、いつもよりあたし、呼吸が荒い。
 もし今この瞬間、ルネが起きたりなんかしたら、きっと物凄い顔をあたしは見られることになるだろう。


 あたしはさっきから、不安でたまらない。
 歯磨き、足りてたっけ。もう一回、汗とか流しておいた方がよかったんじゃないかしら。
 たぶん、パパとママももう、お風呂からは上がっているはず。
 でも、でも。
 自分の身体をルネからほどいて、ルネの寝顔が見られる世界でただ一つの場所を離れるなんて、あたしにはもう、できそうにない。
 蛇たちだって許さないだろう。思いっきりルネに巻きついて、離れたくないと抵抗するに違いない。

 
 眠らなきゃ、あたしも眠らなきゃと気ばかり急くけれど、目は逆にどんどん冴えてゆく。
 
 生まれて初めて聞く、男の子の寝息。
 ゆったりと、上がったり下がったりする肩から、髪の毛の先まで、間近に見える。
 布団の中は、一人の時よりあったかくて。
 息を吸うたびに、ルネの匂いであたしの中がいっぱいになる。

 そして。
 あたしの胸元を、ルネの寝息がそよそよとくすぐってくる。
 風がパジャマの襟元をくぐりぬける。
 素肌を、優しく撫でられているみたいだ。
 気を抜くと、変な声でも出てしまいそうだった。
 なのに、あたしの方は寝息がルネの顔にかかるのを恥ずかしがるあまり、か細い息遣いしかできない。


 ……恥を忍んで、言うなら。
 
 巻きつくときに触れた、その瞬間から、ずっとそうなんだけど。
 気持ちいい。いいや、気持ち良すぎる。
 わけわかんない。ただ、くるんってしてるだけなのに、こんなのって。
 変よ、絶対。おなかのあたりというか、おへその下の方が、なんかその、熱いというか…。
 気がつくとルネに力いっぱい巻きつこうとしていて。
 それが、尻尾だけじゃ物足りなくなりそうで。
 あたしの両腕とか、蛇たち、みんなで一緒に、ぎゅうっと巻いて。
 ルネのこと、今すぐ起こして、思いっきり見つめて、痺れさせてしまいたくなりそうで。
 あわてて体から力を抜く。
 そんなことを繰り返した。
 

 なんだろ、この気持ち。
 見たい。もっとルネのこと、…見たい。
 でも、それだけじゃ足りない感じ。
 見て、それからルネと、その後は。
 どうしたいの。どうなりたいの?


(いわゆる据え膳、というやつね。これは)

 蛇の一匹が、ふとあたしの方を向いて、そんなことを言った…ような気がした。
 これ、誰だっけ。額に白い星があるから、そうだ、コンスタンスだ。
「……なによ、それ」
 自分の髪に向かってうろたえる、あたし。
(つつましやかに足元に巻きついて、眠る。あなたがそれでいいなら、何も言うつもりはなかったけど)
 コンスタンスは続けた。
(はるか東のことわざに曰く。『据え膳喰わぬは女の恥』。
 今のルネくんは、まさに盛り付けを終え、食されるのを待つばかりのお料理のようなもの。
 供されたものならば、ありがたく、謹んで頂くのが当然。むしろそれがお料理に対する、女の務め。礼儀と言ってもいいでしょうね)
 …もったいつけた言い回しがコンスタンスの十八番だ。
 本当に、東の海の向こうにそんなことわざがあるのかは知らない。アマゾネスの村の、族長の教えと言われても違和感がない。
(お子様のアンナマリーは、ただただルネくんと一緒にいられて、頭の上でぐうぐう寝ていられれば幸せなのでしょうけど、あなたはそういうわけにもいかないのではなくて?
 …お風呂場では、なかなか切ない思いをしていたようだから)
 泡に滑る指の感触を思い出して、顔じゅうにかあっと血が上る。
(経験がないからなんて、心配することはないわ。いざ事に及ぼうとなったら、自分の体に聞けばおのずと答えは分かる。その体の火照りが、なによりの証拠)
 あたしの体が熱いのは、まるであの指の続きを、求めているみたいで。
 あたしの、その気持ちが、あたしは、少し恐い。
(恐い。…どうして? 楽園の真ん中に一本だけ生える、知恵の実のなる木はもう目の前。あとは手に取るだけ。ゆっくりと、時間をかけて、あなたの思うままに味わうだけ。誰も邪魔するものはいない)
 …あたし、きっとおかしくなってる。ルネの気持ちも何も考えないで、こんなこと、思うなんて。
(おかしいことなど、何一つないわ。
 ルネくんの気持ちなら、さっきキッチンで受け取ったように私は認識していたのだけど? そして、あなたはそれに答えたわ。
 物言わずとも、唇というものは使い方次第で、時として百の言葉を並べるにも勝ることがある。男と女の間柄であるなら、特にね)
 キッチンで。受け取った、気持ち。
(…あなた、まさか、後悔しているというの?) 
 
 
 …パパとママが、それをしてるところだったら、嫌というほど見てきたけど。
 そういうことに、憧れてなかった、といえば、やっぱり嘘になる。
 もし、あたしがするんだったら?
 一番ふさわしい季節は、時間はいつだろう。
 場所はどこになるんだろう。どこかの公園、それとも川沿いの遊歩道とか?
 相手は誰なのか……いや、これは、まあ、あんまり考えなかった、というか、考えるまでもないことだった…というか。


 その瞬間は、自分でも何が起こったのかよく分からなかった。
 夕食時に。
 煮込んだトマトの匂いがするキッチンで。
 二人でお鍋を混ぜながら。
 すぐそばの玄関口にはあたしの両親さえいた。
 結局、あたしの思い描いていたあれこれとは、ほとんど重なるところがなかった。
 合ってたのは、その相手が、ルネだったってことくらい。
  
 
 岩に像を彫ってゆくように、あたしの頭の中に、唇の記憶は刻まれ、時間がたてばたつほどに、その姿は鮮やかになっていった。
 他のことなんて、もう考えなくてもいいとでも言うように。
 
 歯磨きしている間も、まるで雲の上を歩いているような気持ちだった。
 案内してあげろって、パパに言われてたにもかかわらず、寝室までどうやって来たんだか、ほとんど覚えがない。
 …いいのよ、案内なんて。いつもルネが寝てる場所なんだから。
 
 
 幸せな気持ちで満たされるものだとばっかり思ってた。
 でも、それだけじゃなかった。

 初めての、キス。
 たぶん、あたしは今、それを、少し後悔している。
 
 

 後悔の種が植わったのは、たぶん二年ちょっと前くらい。

 ママが、うちに遊びに来ていたルネとあたしに、ケーキを買ってきてくれた時だと思う。

 箱の中には、ケーキが四つ。
 二つは細い三角の、ショートケーキ。
 そのひとつには苺がのっている。もうひとつはガトーショコラ。これが、あたしとルネの分だった。
 残りの二つは、パパとママとで同じもの。
 ご近所に住んでる、稲荷のミコトさんおすすめの新商品、抹茶のロールケーキだった。
 これにパパたちが、東洋の神秘だなんだと言って、すっかりはまってしまった。
 あたしたち子供二人には、そのびっくりするほどの緑色と、それまでのケーキの常識になかった渋甘さのせいで、受けは悪かったけど。

 それ以外なら、あたしは、とりあえず甘ければ来るものは拒まない。
 だから、そのときチョコレートを選んだのも、特に理由はない。
 箱の中で、あたしに近い方に置かれてあったとか、そんなとこだと思う。
 
 当たり前だけど、ルネのもとには、苺のショートケーキが行くことになる。
 それは自分の口には入らない。これも当然。充分理解していたわよ。
 ふんわり卵のスポンジも。ミルクいっぱいのクリームも。
 
 隣のものほどよく見える。欲しがる。…あたしの悪い癖だった。
 あたしのチョコレートが、茶色くて地味に見えたからといって。
 だからって、うらやみ、まして妬む理由になんか、なりっこない。

 分かってたのに。ついついあたしは、ルネのお皿を、見てしまった。
 知ってたのに。ルネは、苺が大好きだって。

 ちょっとだけ、盗み見するだけなら。そう思ったあたしが、うかつだった。
 その時のあたしが、どれだけ物欲しげな顔をしていたのか、想像するだけで、枕に顔をうずめて死んでしまいたくなる。

「ねえ、エシェル。…お願いしても、いい?」
 切り出したのは、ルネの方からだった。
「僕、やっぱりチョコレートのほうがいいな。…とりかえっこ、してくれない?」
 あたしが精いっぱいお姉さん風を吹かせられるように。
 わがままな弟でごめんなさい。ルネに、そんな顔をさせてまで。
 
 弟の、そんなわがままを、「しょうがないわね」と、きわめて寛大に受け入れたと装って。
 あたしはルネから、ケーキを奪ってしまった。
 せめて苺だけでも食べさせてあげた方がいいのかと思ったけど、口の周りにチョコをつけて、ニコニコしながら食べるルネの顔を見たら、これ以上あたしが何か言葉を重ねるのが、とっても罪深いことみたいに感じられた。
 
 あの時の苺の酸っぱさ、生クリームの水のような味を、あたしは忘れられない。
 ごめんなさいなんて、言ってないわよ。
 当然じゃない。あたしは、弟のわがままを聞いてあげただけ、なんだから…。
 
 
 
 そうして月日を重ねるうちに、奪っていったものは、ケーキ一つに留まらない。
 そして、今日。ルネから、あの子が三年間育み続けていた思いを受け取った。
 あたしは、それに何も言葉を返さないまま。
 あたしから顔を寄せた、初めてのキス。
 それはもしかして、今度もまたルネから、大事なキスを、奪ってしまったのに他ならないんじゃないのかしら。
 自分がしたいこと、無理やり押し付けて。
 そんな風に思えてしまうのだった。
 

 
 ケーキのことがあった、しばらく後。
 あたしは、学ばなくちゃだめだ、と感じていた。


「相談したいことって、なあに? エシェルちゃん」
「あー……大したことじゃないんだけど。
 その、ちょっと興味があっただけというか」
 ほんとに聞きたいことに限って、あたしは素直に聞けない。
 だからこう話し出すのも、半ばあたしの口癖みたいなものだ。

「…あのさ、パパとママって、結婚する前、ど、どうやってつきあってたのかな、なんて」
「あらあら、どうしたのかしらぁ。急にそんなこと聞いてくるなんて」
 いぶかしがるのは当たり前。藪から棒だなんて、自分でもそう思うもの。
 奇襲戦法ってやつよ、たぶん。パパとのチェスで、あたしがたまにやってたやつ。
 ……パパに勝ったことは一度もなかったけどね。
 自分を納得させるためだけに、あたしは心の中で妙な言い訳をひねり出していた。

「だ、だから、ほんとに何でもないの!
 …あの、ほら。あのルネって男の子、よくうちに遊びに来てるじゃない? 何だか知らないけど。
 それで、――」
「あぁ、あの子? そうね、ママなら大賛成よぅ。パパもきっと、同じだと思うわ。
 パパにはもう聞いてみたの? まだなら、今日のお夕飯の時にでもママと一緒に――」
「え、ちょ、待ってママ、何のこと、それ?」
「え? 何って、お婿さん候補なんでしょ? ルネくんは。エシェルちゃんの」
「な、…いや、そんなんじゃ、そんなわけないでしょ!」
 とは言いながら、一瞬であたしの顔色は燃え上がるほどの赤に変わる。
 気配を消して、後ろから慎重に近づいたつもりなのに、急に振り向いて飛びかかってこられた気がした。

「うーん、おかしいわねぇ。
 ルネくん、おとなしくてかわいらしいし、色白で童顔な男の子だから、絶対エシェルちゃんの好みのタイプだと思ってたんだけど」
 …そんなこと、おくびにも出したことないのに、どうして。
 このママは、確実に後ろにも目がついてる。見透かされたあたしは確信した。
「それに、ルネくんが遊びに来ると、エシェルちゃんの蛇さんたち、とっても嬉しそうにはしゃいでるんだもの。
 その子、アンナマリーちゃんっていうんだったかしら? よかったじゃない、名前までつけてもらって」
 ……あんたたちのせいか、見透かされたのは。
 あたしは、横目で自分の髪を睨む。一匹だけ眠そうにしてるのが、アンナマリーだ。
「ルネくん、きっと蛇さんたちみんなに名前つけてくれるわよぅ。楽しみねぇ」
 いやいや、そりゃないでしょうよ。何匹いると思ってんのよ。
「だからママてっきり、二人の赤ちゃんの名前を、パパやママにも一緒に考えてほしいっていう相談なのかと思ったんだけど」
「は……はぁ!!? な、なに言って…そんな、そんなわけ!
 そんなの、まだ早…、じゃなくて!
 違うわよ、もう!!」
「えぇ、それも違うのぉ? うーん。赤ちゃんの名前じゃないとすると…」
 ママは、しばらく頭をひねっていたが、やがて、ポンと胸の前で両手を合わせると、
「そうね、そうよぉ。
 エシェルちゃん、ごめんね? ママ、ちょっとだけ早とちりをしていたみたいだわ」
 …「ちょっと」なんだ…このひとにとっては。
「ママ、分かったわ。赤ちゃんの作り方を聞きたいのね?」
「………………は…?」
「もぅ、それならそうと早く言ってくれればいいのに。
 そうよね、もうエシェルちゃんもお年頃ですもの。何も分からないまんま、ルネくんと初めてを迎えるより、あらかじめそういった知識を身につけておいたほうが、きっと二人のためになるわよぅ」
 ママは、合わせたままの両手を、ちょっと傾げた頬の横に持ってきて、なんだか一人でほくほくしている。
 …なんだろう、この、思ってもみなかった所から、急にチェックをかけられた時と、同じような心境は。
 …いや、そもそも、このひとに相談をしようと考えた時点で、すでにチェックメイトを指されていたのかもしれないわね…。
 あっけにとられるあたしの手を、ママは取って言った。
「それじゃ、お布団の準備しましょう?
 百聞は一見に如かず、といいたいところだけど、パパはまだお仕事だから、見学はパパが帰って来てからでいいとして。
 それまではママと二人で、とりあえず女の子の体のお勉強から、先にしましょうねぇ」

 寝室に引きずり込まれる寸前、あたしの必死の抵抗がようやく実を結んだ。
「もう、ほんの冗談よぅ。エシェルちゃんったら」
 …全然冗談に聞こえなかったわよ。
 ほほほ、などと口に手をあててわざとらしく笑うママを見ながら、あたしはそう思った。
「そうよね、やっぱりお相手がいないとその気になれないかしらぁ。
 エシェルちゃん、待ってて? ママ、今からルネくん呼んできてあげるから、三人でお勉強しましょう」
 …あたしの顔から、血の気が引く音が聞こえた。

 ママを追って、ちょっとした大捕り物の末。
 実の娘、それからよその家の息子さんに対する実践的な性教育をしぶしぶあきらめ、ようやく話を聞いてくれる気になったママに、あたしはぽつりぽつりと言葉を並べ始めた。

「んー…と、あのさ。
 あたし、…どうしたらいいんだろう」
「? どうしたら、って?」
「……んー。
 ほら、その。ルネの、前でさ。
 な、何着たらいいんだろう、とか。
 どんなこと、お話したらいいんだろ、って」
 渦巻く思いを、とりあえずそのまま口にしたけど、渦の中心からは、なかなか言葉をすくってこられない。
「あ、いや、その。い、いくら何でも、家まで遊びに来てもらって、黙りこくってるわけにはいかないじゃない?
 それに、あたしって今まで、着るものとか、髪の毛とか、そんなに考えたことって、なかったから」

 あの子が、あたしの髪に名前をつけた。
 あたしの髪を、あたしのことを見てくれてるんだ。
 そう思ったら、どんどん、今までのあたしが恥ずかしくて、いたたまれなくなってきて。
 でも、どうしたらいいかわかんなくて。
 つい、きつい言葉で自分の身を覆い隠そうとしてしまうのだった。
 どう考えても、悪循環。
 なのにどういうわけか、ルネはこりずにあたしのそばにいてくれる。
 それだけが、細い頼みの綱なのだった。
 ……だんだん、ルネと目を合わせるのが恐いと思うようになっている自分が嫌だった。
 ルネの瞳が、好きだったから。
 そこに、あたしへの嫌悪や咎めの色が浮かぶのが、恐かった。

「それで、なんかこう、あたしが変なこと口走ったりして、けんかになっちゃったりしたら、大人げないっていうか…。
 その…向こうに、嫌われ…じゃない、嫌な思いさせちゃうといけないし」
 いつまでも、そんなとげとげしい態度でいることが、いいとはさすがに思えない。
 だから、昔のパパとママのことを聞いて、何かの参考にしたかった。
 ママみたいになりたい、というと、なんとなく意地を張って否定したい気持ちになる。
 けど、ママから学べるところは学んで、実践して、自信がつけば、今のあたしなんかよりもっと、ルネに優しくできるようになれるんじゃないかって、思った。
  
「そうねぇ。パパとママのことかぁ」
 昔を懐かしむような眼をして、ママはしばらく何事か思い出すようにしていた。
 今現在のいちゃいちゃぶりが凄すぎて、興味がわくこともなかったんだけど、ママの言うとおり、考えてみたらこういう話を聞くのは確かに初めてだった。

「知り合ったきっかけは、パパに助けてもらったことだったのよねぇ」
「助けて…って、何があったの?」
「ママ、その時迷子になって、お家に帰れなかったの」
「……まさかとは思ってたけどさ」
 やっぱりそのパターンだったのね。

 
 出会ういきさつをかいつまむと、こういう会話になるらしかった。

 ――ああ、どうしよう。お家へ帰る道がわからなくなってしまったわ。

 ――お嬢さん、どうかしましたか?

 ――な、なによあなた、いきなりなれなれしいわね。用もないのに話しかけないでくださる?


「ちょ、ちょっと待って! 誰? そのつんけんしたお嬢さんとかって」
「ママよぅ、もちろん」
「えぇぇ…!? だって、人当たりが今と全然違うじゃない」
「あら、そうかしらぁ?」

 ――お気に障りましたらすみません。ただお困りのようでしたので、何か力になれればと。

 ――……じつは、かくかくしかじかで。

 ――なんと、道に迷われたのですか。それはいけない、さぞ心細いことでしょう。どうです、よければ僕がご一緒に、お家を探してさしあげましょうか。

 ――ふん。ま、まあ、どうしてもっていうなら頼まなくもないわ。


「…ママ、なんで困ってる側が上から目線なわけ?」
「だって、一目ぼれだったんですもの。パパがかっこよすぎて、照れ隠しに必死だったのよぅ。あの優しい声、今思い出しても胸とかお腹の下のあたりがきゅんと切なくなるわぁ」
「……なんでお腹なのよ」
「エシェルちゃんもそのうち大人になったら、分かると思うわ」
 意味深に微笑むママに、あたしは先をうながした。


 ――ああ、無事にたどりつくことができたわ。い、いちおうお礼を言っておくわよ。

 ――なあに、礼には及びません。それでは僕はこのへんで。

 ――あの、ちょっと待って。もう夕方じゃないの。お礼が嫌だっていうなら、せめて、夕食くらい、振る舞わせてもらえないかしら。ど、どうせあたしの作るものなんて、あなたの口にあうかどうかわからないけど。


 ――やあ、じつに見事なお手前。ごちそうさまでした。あなたはきっと、いいお嫁さんにおなりです。

 ――ふ、ふん。……それはよかったわね。どうせお世辞だろうけど、まあ悪い気はしないわ。…あの、ところで。私、まだこのあたりの道に不案内で。…だからその、また今日のように迷ってしまうんじゃないかと思うと、少し不安で……

「それで、待ち合わせて帰るようになって、そのままお互いの家を行き来しだしたと」
「そうなの。どっちかというと、ママのお家に連れてくる方が多かった気がするわぁ。そのへんの習性はさすがメドゥーサよねぇ」
「それはいいから。で、どうなったの」

「その後は、とくに変わったこともないわねぇ。
 どうなった、といわれれば、なんだかそのままエシェルちゃんが生まれてた、っていうことぐらいかしら」
「……ちょっと」
 一番肝心なところを、思いっきりはしょられた。
「男性と女性が同じ屋根の下にいれば、やがて授かるものを授かる。当たり前のように思うかもしれないけど、それは奇跡と言ってもいい、とっても素敵なことなのよぅ」
「…じゃなくって、そうなるまでの、その、つきあい方というか…」
 ママの言うことが本当なら、昔のママと、今のあたしは多分似ている。
 ママを変え、そしてパパと結ばれるような、何事が起こったのか、知りたかった。

「うーん、いつものとおりだったわねぇ」
「いつもの、って…」
「何か特別なことをした覚えも、ぜんぜんないのよねぇ」
 なんにもしないで、ここまで角が取れるものなの?
 何かあるでしょう。服なの、髪型なの? それともお化粧のしかた?

「しいて言えば、髪を大事にしてあげること、かしら」
 髪、か。やっぱり髪型、それとも高い石鹸とか…?
「それも、いつもどおり、でいいと思うわよぅ」
 期待する答えをなかなか引き出せず、あたしは少しじれ始めた。
「あの、ママ、だからそうじゃなくて…――」
「聞いたことある? エシェルちゃん。『髪は女の命』って」
 それって、確か、なんかの劇の台詞で聞いたような気がする。
 女優さん、綺麗だったなぁ。
 でもあのひと、けっこう長い髪じゃなかったっけ…。
 だったら、あたしも伸ばせばいいっていうの?
 でも、今のあたしの髪はそこまで長くはないし、蛇とかいるしなぁ…。

 髪が女の命なら。
 と、ママは続けた。
「メドゥーサの髪は女そのもの、なのよ」
 この、蛇たちが。あたし、そのもの…?
「ママは、パパに心から恋をしたの。
 エシェルちゃんはどう? ルネくんに、恋をしているのかしら?」
 唐突ともいえるママの言葉を聞いた瞬間、あの子の瞳があたしの胸のうちに鮮やかによみがえってきた。
 心臓が、叩かれたようにどきんと跳ねる。
 そしてすぐに、いつもの意地っ張りで、反抗が口をついて出ようとしたけど、それより早くママは、さらに続けた。
「違っていたら、ごめんなさいね。
 でも、もしも、違わないのなら、もうそれで充分。
 なにも心配することないわ。ただただ、その恋心をずうっと大切にしていれば。
 目は口ほどにものを言うけれど、髪は心ほどにものを言ってくれるから。
 ママの場合は、ひとが変わったというより、その蛇さんたちに、自分を重ねてみただけよぅ」
 だいじょうぶよ。エシェルちゃんの髪にも、ママと同じ、心強い味方がいっぱいいるんですもの。
 ママはそう言って、あたしの頭をそっと撫でた。
 蛇が、あたしの心。
 ルネの頭の上で寝こけているばかりか、最近調子に乗って露骨に身を擦り寄せる者まで現れはじめた、あの子たちが…?

 結局、大して具体的な事は聞けなかった。
 大丈夫、大丈夫っていうばかりで、根拠には乏しいと思う。なのに、ふしぎな説得力。
 あたしはそれで、とりあえず引き下がらざるを得なかった。

 初めて出会ったときから、寝ても覚めても、あたしの頭の中に去りがたく残るあの子の瞳。
 そこに、あたしの髪も映るなら、…そうね。ちょっとは、気を遣ってあげないと、かわいそう、かな。

 それは、秋草を思わせる鳶色の真ん中に、深い、夜の泉のようで。

 この世にある、どんなものよりも、
 


「…………好き、よ」
 思い出を振り返るうち、不意に、そう漏らしていた。
 
 その泉が、まぶたの向こうに閉ざされているのをよいことに。
 あふれ出そうな思いに耐えかねて、ひとしずく。
 本当は、その雫を泉に落としたかったけれど。
 それはきっと、水面をざわめかす波の輪を、ルネの中に生む。
 それが恐くて、空気に触れれば融けてしまうくらいの小さな雫を、今しかこぼすことができなかった。
 しかし。
 なみなみと満たされた器から、一度でもあふれてしまえば、それはもはや一滴に収まることはない。
「…好き。大好き。ルネ…大好き」
 あたしの口は、言葉を紡ぎ続けた。
 言えば言うほど、胸の中にとめどなく湧きだしてくる気持ちを、どうしようもなかった。
 
 あたしは、枕から頭を起こす。
 そして、あたしの胸で眠る、ルネの顔をそっとこちらへ向けて。
 好きなの、と繰り返しながら。
 少しずつ、少しずつ、あたしは唇を寄せてゆく。
 
 いけない。
 だめ、だってば。
 このままだと、あたしはまた。
 また一つ、楽園の実をもぎ取って、後悔することになる。

 目の端に、光るものが映り、あたしはふとそちらを見る。
 そこには、ルネの瞳。
 ああ、間近で見るとやっぱり大きくて、綺麗だ。
 あたしの大好きな瞳。
 ……瞳?
 思わずあたしは、動きを止める。
 
 あ。
 ルネ、が、起きて、

 「――、」

 ……。
 ちょっと、待って。
 あたし…、あたしは動いてない。
 むしろ、起きてるのに気づいたから、顔を引っ込めようと思ったくらいなのに。
 なんで、今、キス……してるの。
 
 ルネが、唇を離して、あたしを呼ぶまで、雲を泳ぐ夢でも見てるみたいだった。
 いつ、再び枕に頭をあずけたかも、よく覚えてない。
「……ごめんね」
 ルネは、小さな声で謝っていた。
「……な、なによ。いきなり、こんなこと、しといて」
 人のことなんか言えないけど。
 あたしの声も、連れて小さくなる。
「エシェルの夢、見てたの」
「…さっき横になったばかりじゃない。寝付き、いいのね。随分」
「僕がエシェルに、頑張って『好き』って言ったら、エシェルも『好き』って言ってくれて。僕にキスしてくれたよ」
 それは、またリアルな…というか。ほとんど、今日あったことの繰り返しじゃない。子犬が寝てるんじゃないんだから。
 …いや、違うな。あたしは、ルネに好きって言えなかったもの。
 今の、あたしのささやきが、寝耳に入っちゃってたんだろう。
「…ついさっきのことじゃない。
 ばかじゃないの。夢にまで、見なくていいわよ。…そんなこと」
「だって、嬉しかった」
「………そ、そう…。
 それで? ねぼけて、夢と間違えて、キスしちゃったってわけ」
 棚に上げるとは、まさにこのこと。
「ううん」
 ルネは小声だったけど、その返事だけは妙にはっきり聞こえた。
「夢から覚めて、目の前にエシェルがいるって、わかってたよ。ちゃんと」
 そして、ルネは恥ずかしそうな顔をしただろうか。月明かりの下だから、顔色までははっきりしないけれど。
 しばし、ルネは言い淀んだ。
「…どうしても、エシェルに、キスしたかったの。
 夢だけど、エシェルの『好き』が、すごく嬉しくて。
 僕も応えたかったけど、僕の『好き』だと、なんだか足りないような気がして。
 嬉しすぎて、胸の中、いっぱいになって。
 …夢の中だから、エシェルは関係ないのに。だから、ごめんねって」
 
 …………。
 似た者同士、っていうのかしら、こういうの。
 さっきまで奪うだのなんだの、悩んでいたのに。
 楽園の実は、自ら枝を離れ、あたしに頬を寄せた。
 ルネからのキスひとつで、呆れるくらい、あたしの中はきれいさっぱりしてしまった。
 きれいになったところを、新たに、とどめようもなく占めてゆくのは、ルネへの強い思いだった。

「……夢じゃ、ないわよ、ばか」
 ルネのほっぺに、あたしは手をあてる。
 そしてまっすぐ、ルネと目を合わせた。
「――好きよ。…大好き」
 今度は、ちゃんと聞こえたかしら。
 それを尋ねることはかなわない。
 だって、もう、唇を重ねてしまったから。

 
 あたしは、少し唇を離す。それでもまだ、息がかかるほどの距離。
「目、閉じないで」
「……エシェル」
 少し、熱にうるんだような目を、ルネがあたしに向けた。
「あたしのこと、見て……くれる?
 たぶん、ちょっとだけ、体、痺れちゃう…かもしれないけど。
 でも、ルネが恐いなら、いいから。…つぶってて」
 ルネが、ゆっくりとうなずく。あたしを、その瞳に映したまま。
「…………うん。ありがとう。僕は、大丈夫。
 ちゃんと見てる。
 僕も、エシェルのこと、大好き」
 見つめた者を石へと変える邪視の魔眼だなんて、物の本にはあるけれど。
 大好きな人に、あげたい。欲しい。痺れるほど甘い、気持ち。
 ルネを見ながらあたしが考えてるのは、そんなことくらいだった。 

 

「ごめんね。お姉ちゃんなのに、意地悪ばっかりして」
「……意地悪? …あんまり、覚えてないかも」
「苺のショート。あんた好きだったのに、あたしそれを横取りして、チョコレートにさせて」
「…僕、どっちも好きだよ? だから、エシェルが食べたいのを食べてほしい、かな」
「…あたしの気も知らないで」
「?」
「あたしだって、ルネが、おいしそうに食べるとこ、見たかった」
「…うん。じゃあ、今度は半分こ、だね」



 いつしか、あたしは強く、ルネに巻きついていた。
 恥ずかしくないわけ、ないけど。
 くっつきたい気持ちの方がずっと強いから。

 
 唇を離しては、お互いの瞳に相手をじっと映し、何度も「好き」を伝えた。
 ひとつ「好き」を交わすたびに、キスの時間が長くなる。
 唇さえじれったくなって、いつからか舌まであたしたちのキスに加わる。
 パパとママがしてたことの、まねごとだったのかもしれない。
 好きあうものどうしのキスって、そういうものなんだって、心のどこかに置いてあったんだろう。
 
 お酒の味は知らないけど。あたしはきっと、酔っていた。
 指の間を伝う髪の毛や、自分のものじゃない舌の感触や、口の中で聞こえる湿った音に。
 抑えきれず時折漏れる声も、お互い聞かせあうようにして、酔いを一層深めていった。
 まるで覚えたての楽器を、嬉しそうに奏でてみせるのに似ていた。
 
 後悔どころか、幸せを感じているひまもない。
 今やもう、あたしにはっきりと分かるのは、この子と触れて、重なって、ひとつになってしまいたい気持ちだけだった。

 
 月に窓から覗かれているというのに。
 あたしたちふたりは、体に力ももはや入らず、抱き合い枕に顔を並べたまま、なんともしどけなく、大きな息をついていた。
 それでも、思い出したように、唇を求めた。
 息が続かなくなっては離れ、落ち着く間もなくまた顔を寄せた。
 求めてくれるから、応えたい。応えてくれるから、また求める。
 たぶん、奪うとか、そういうことじゃないんだ。
 あたしと、ルネの思いが重なってるのが、うれしくて、気持ちいい。
 二人してそれを確かめあうように、同じ手を握り、同じように頭を撫でながら、一つになった口の中で舌が遊んだ。
 もう、少しでも離れるのが、切なく耐えられなかった。

 自分の中に、こんな自分がいたなんて。
 これじゃ、まるであたしが、髪の毛達の一匹になってしまったみたい。
 でも、今はもう、それでいいんだ。この時間が続くんだったら。
 
 もう何度目になるだろう。あたしが、ルネに巻いた体に、もっと強く触れようと力を込めなおしたとき。
 向かい合うふたりの間に、何か、固い物が挟まっているような異物感を覚えた。
 ちょうど、あたしのお腹の下あたり。
 なんだろ、これ。さっきまでこんなの、挟まってたかしら。
 感触を確かめようとしてお腹をそこに何度か押しつけていると、ルネも体に力を入れて、押し返してくるようになった。
 なんだか、ルネの呼吸がすこし荒くなったような気もする。
 
 ルネ、どうしたのかしら、とは思ったけど、唇を離すのがもどかしいものだから、キスしたままでそこに手を伸ばした。
 そんなに、力を込めたつもりじゃなかったのに、包むように握っただけで、ルネの体が跳ねるように動いた。
 唇を離し、あたしの顔を見つめている。
「…………エシェル…その…そこ、」すごくすごく小さな声で、ルネはあたしの名前を口にして、何か言いたそうにしていた。
 けど。
 走った後みたいに、ルネの息が乱れてて。
 長いキスで蕩けたその瞳と、顔から目が離せなくて。
 ルネに負けないぐらい蕩けきっていたあたしは、急にキスをおあずけにされたのが切なくて。
 どうしたの、と聞くよりも先に、さも当然のように、蛇の体を巻き直して、再びルネに唇を重ねた。
 キス。嬉しい。気持ちいい。どうして離れちゃうの。もっとして。
 頭の中は、その言葉だけがぐるぐるとめぐっていた。
 あたしは、手の中に包んでいた何かを、もう離れないで、とでも言いたげにゆるゆると撫でた。
 撫でるたび、小刻みに、ルネの体が揺れる。
 すると、あたしに抱きついていたルネの片方の手が、あたしのお腹のあたりまで下がってきた。
 ルネも、この固いの気になったのかな、なんて思っていると。
 
 あたしの、パジャマの下、腰に巻いた下着の中に、ルネの手がするりと入ってきた。
 ルネの指が触れたところが、まったく無防備だったのにくわえて、……なんというのか。
 予想外に滑って、思った以上に、その…深く、届いてしまった…というか。
 これ、下着履き替えなきゃいけないんじゃないのってくらい、ものすごいことになっていたのに、そのとき初めて気がついて。
 ああ、ママのタオル、そういうことだったのか。
 一瞬、それが頭をよぎった途端。
 まるで、高波を頭からかぶったような衝撃で、最初それが「気持ちいい」だと分からないくらいだった。

 
 それで、なんだけど。
 それから、ずっと、あたし……
 大きな声……出てた、らしいの。
 後でルネから聞いたんだけど。
「気にしないで、エシェル。大丈夫だよ、すごく可愛かったもの」
 そんなことを、こともあろうにあたしの頭を撫でながら、あっけらかんと言うルネに、チョップを連続でお見舞いすることになるのはまた別の話。

 
 ともあれ、何が起こったのか把握し、それがルネの指で、どうやらあたしの真似ごとをするように動かしているらしいと理解するまでに、あたしは高波に尻尾をすくわれ、腰をさらわれ、さんざん弄ばれた。
 
 ちょっと、ルネ、ちょっと待って!? そこは、その、女の子の…大事なとこで!
 やだやだ、いきなりそんな、もうちょっと順序ってものが…じゃなくて!
 ああ…、でもなんかすごく、すっごく気持ちいいから、順序とかもうどうでもいいや……いや、そうでもなくて!
 (それにしても、ここって、指こんなとこまで入るんだ…。すごーい)
 …あああもう、ちょっと蛇黙って!!
 そもそも何でルネったら、いきなりこんなこと…
 いや、でも…あたしがキスしたら、キスで応えてくれて。
 その、我慢できなくて、し…舌とかで、しても、やっぱり同じようにしてくれたんだから。
 今度のこれも、たぶんその流れで来てる…のよね。

 
 ………えっ。

 ここで、ようやくあたしは、それに思い至る。

 あ……あたしが、さっきから触ってたのって、ルネの、男の子の…?
 え、えええ!? いやいやいや、ウソでしょ!?
 だって、その、じかに見たことなんかないけどさ。
 まあ、服の上からだったら、気になって少し…いやでも、その時より大きさ全っ然違うし、あり得ないくらい固くなってるじゃない! これ、ちょっと人の体と思えないわよ!

 はっ。
 ま…まさか、あたしの眼のせい?
 見つめたものを、石のように…って。
 だからって、よりによってそこだけ、こんなになるものなの…?

 その時、あたしの中の、ルネの指が遊びまわってる所から、背中を伝って頭の方まで、何か予感のようなものが、ぞくぞくと駆けのぼった。
 思わず、背中が大きく反り返る。
 今までと、比べ物にならないくらい、大きな波に、あたしが飲まれてしまうという、確信と言ってもよかったかもしれない。

(だめ。待って)
(だめ。やめないで)
 正反対のことを、同時に強くあたしは願った。
 
 負けず嫌い…だかなんだか、よくわからないけど。
 ルネのズボンの中に、夢中でいつのまにかあたしは手をもぐらせていて、ルネをじかに触れて、撫でる手の動きを一層大きく、強く、優しくする。
 ルネの体も、あたしと同じように震えているのが分かって、満足を覚えた。
 
 
 先に、ルネが大きく身をよじり、痙攣したみたいに何度もわなないた。
 直後、あたしの手のひらは、握ったままのルネのそこから、何かとても熱いものがあふれ出るのを感じ、


 その途端、あたしにもそれはやってきた。


 なり振りもかまわず、大好きなルネに、思い切りしがみついた。

 恐かったから。

 だって、たった今まで、波に高く高くあおられていたかと思ったら、白く白く、まっさかさまに落ちていくんだもの。

 …本当は、恐いのと、もう一つ。
 落ちる喜び、とでもいうものを、あたしはあの時初めて知った。
 
 だから…あんなに叫んだのかしら。
 ……ここだけの話、だからね。


 このあたりから、実は、自分の記憶がけっこうおぼろげだったりする。
 思い出が入るゆとりもなくなるくらい、「気持ちいい」を優先させる女だったのかと思うと、恥ずかしくていられない。

 次に我を取り戻したとき、あたしはルネの腰から、パジャマを引き下ろそうとしているところだった。
 ふたりを襲った大波が遠ざかったころ、くたりと横たわったまま、あたしの手とパジャマを汚してしまった、と泣きそうになって謝るルネの頭を、あたしはゆっくり撫でてなだめた。
 パジャマから抜いた手のひらいっぱいに、ひどくぬるぬるとした、見たことのないものがまとわりついていた。
 なんなのかはよく分からないけれど、ルネが言うように、汚れただなんて全く思わなかった。
 むしろ、欲しかったものはこれなんだ、という本能の声を聞いた気がした。
 
 でも、さっきの感じからすると、あたしの手からあふれたのが、ルネのパジャマや体も濡らしてしまっているはずだった。
 ここはお姉ちゃんとして、ルネのこと、そのままにはしておけない。
 
 サイドテーブルのタオルを、蛇にくわえてこさせるあいだに、あたしは、身に付けたもの全部、当然のように脱ぎすててしまっていた。
 それはそうだわ、ルネを裸にしてしまうんだもの。
 ルネだけに恥ずかしい思いをさせるわけにはいかないでしょ?

 ……後から思えば、この時のあたしの思考回路は完全に、頭からお腹の方へ移っていたようだった。


 ルネを拭いてあげながら、月影に浸した体を、あたし達は見せ合った。
 言葉もない。ただお互い、まじまじと見つめた。
 力が抜けたように横たわるルネと対照的に、天井に向かって自己主張を続けているルネの男の子が、可愛らしくもあり、何だかたくましくもある。
 自分が出したものに濡れた、そこを拭いてあげる時も、少しタオルで触っただけで、ばねのように、押し返してくる。
 思わず、目的を忘れてしまいそう。
 初めて見るものに対する興味を、もはやあたしは隠さなかった。

 あたしは、この状態しか見たことないけど、それにしてもこれ、どうしたら元に戻るのかしら。
 やっぱりあたしの眼のせい? でも、こういうことって初めてだから、見当がつかない。
 ルネに聞くと、恥ずかしそうに、しばらく放っておけば大丈夫だと思う、と言った。
 今度みたいに、何かが出てきてしまったことは初めてだけど、大きくなること自体は初めてじゃなかったらしい。
 あたしのことを考えたときに、こういうふうになってしまうことがあるのだ、という。
 それを聞いて、あたしはなぜか、むしょうに頬が熱くなる。
 体をかけめぐる嬉しさを、否定しない。
「で、…でも、あたしの家に来ても、そんなことにはなってなかった…わよね」
「昼間は大丈夫なの。でも、寝る前とか、一人でお布団の中にいると、エシェルのこと考えちゃって、それで…」
 一旦始まってしまうと、気持ちが落ち着かなくなって。
 無理やり眠るか忘れるかして、おさめてきたのだという。
 今回、抑えるのとは逆の方向に走った結果、こういうことになったわけだけど、出すだけ出してしまったら、その時は気持ちが随分楽になったと教えてくれた。
 まあ、今はまた、ごらんのとおり立派にぶりかえしてはいるけども。

 ということは。
 ルネの、ここがこういうふうになる理由。
 あたしの眼のせいもあるかもしれないけど、何よりさっきのあれを、その。
 いっぱい出したい、と言っているのではなかろうか、と。
 ふたりして実物を目の前にしながら考えているわりに、ずいぶん漠然とした物言いになるのが不思議だけれど、とりあえずあたし達の考えは、そこにまとまった。
 
 
 で、そうと決まれば。
「じゃあさ、ほら…今度は、タオル、手元に置いとくから。
 その、…え、遠慮、しないで、出しちゃいなさい?
 あたしは、あんたが治まるまで、…付き合ってあげるから」
 そう言ってあたしはもう一度、ルネに寄り添って、さっきと同じ所に手をあてがった。
 はちきれそうな固さが、愛おしかった。

 
 どうやらルネは、自分が出したあれが、汚いものに違いないと思っているようだった。
 拭かれてる時からそうだったけど、あたしの手が動く間も、しきりにごめんなさいを繰り返している。
 なだめるようにキスをしてあげても、気が引けているせいか、さっきほどルネの気持ちが高じてくれないみたいだった。

 あたしは、というかお腹の方のあたしはまたひとつ、ルネを慰めるいいことを考え付いた。

 キス、に変わりはないんだけど。

 大丈夫よ、ルネ。ほら。汚くなんかないでしょう?
 そのことを教えたくて、あたしはルネの男の子を握る手と一緒になって、さっきしたのと同じくらい、甘くて深いキスを、そこにしてあげた。
 慌ててあたしの頭をそこから押しのけようとするルネの手を、優しく握って抑え込む。
 しばらく、濡れた音と、何かをこらえるようなルネの吐息が部屋に響いた。
 やがてルネが背中を反らせて、さっきと同じ予兆を示しはじめると、あたしは嬉しさの余り、口の中も舌も全部、ルネの男の子のために使ってあげた。
 我慢できない、ということをルネは必死で訴える。
 このままだと、あたしの口の中でそれが来てしまう、と。
 あたしはちょっとだけ口を離し、もう一度、「大丈夫。任せて」とささやく。
 わかってるわ、そんなこと。
 そんなこと言われたって、あたしがそうして欲しいんだから、しょうがないじゃない。
 だから我慢しないで? ほら、早く。
 
 
 この子の体の、どこにそんなにと不思議に思うくらいいっぱい出てきた、というのもそうだけど、疑いなくそれを口で受ける自分にも驚いていた。
 受け止めきれなくなると、こぼしてしまうよりはと何のためらいもなくそれを飲みこんでゆく自分の姿に。
 最後まで吸い出すように口を動かすたびに、ルネの体が跳ねるのを、とてもいじらしいと感じていた。
 勢いがおさまったのを見計らって、あたしはルネの男の子との長いキスを終える。
 

 ルネは、ベッドから一歩も動いていないのに、疲れ切ったような大きな息をついて、ぐったりしていた。
 そんなご主人様のことなどお構いなしに、こっちのルネは物足りなさを訴えるかのように、まだ上を向いたままだった。
 …顔に似合わず、欲張りだったりするのかしら。
 でもなんとなく、気持ちは分かる。あたしと蛇たちの関係に似てる気がするから。

(そうよねぇ、なんか見た目も似てない? 私達に)
(じゃあ、せっかくだからあたし達もお近づきになりましょうよ)
 
 似た者同士、仲良くしましょうとばかり近づいていく彼女らをあたしは押しとどめた。
 悪いけど、もう少しあたしの番でいさせて。
 あたしは、仰向けのルネの上に、重さをかけないようそっと覆いかぶさる。
「……ルネ、どう? 治まった?」
 もう分かりきってる事なのに、あえて尋ねる。
 あたしのお腹を、強く押し返してくる感触が、何よりの証。
 首を振って謝ろうとするルネの言葉を、あたしは抱っことキスで止めた。
「今夜は、ごめんなさい、なしにしない?」
「……」
「ルネが謝るんだったら、あたしだって、ルネにしたこと、謝らなきゃ。
 …ごめんね、ルネ。辛かった?」
 ルネは、ふるふると首を横に振る。
 そして、あたしをぎゅうっと抱き返すと、とても小さな声で、きもちよかった、と打ち明けた。
「…ありがと。言ったわよ? あたしは最後まで付き合うって。
 ………それでね。次、…なんだけど。さっき、思いついたんだけどさ」
 
 ルネの体を、唇の中に収めた時から、もしかしたらとは思っていた。
 詰めの一手は、おそらく、いや、きっとこれしかない。
 
 ルネのため。これはルネのため。
 あたしの、個人的な欲求を満たすためなんかじゃなくて。
 …そうとでも思わないと。 
 歯止めが、きかなくなっちゃう。


「さっきまで、ルネの指が、…その、は、入ってた、ところ……あるでしょ。
 今度は、その…そこで、してみたら、…どうかしら。
 手みたいには、上手く出来ないとは思うけどさ。
 たぶん、それなりに、気持ちよく、して、あげられるんじゃないかって、思うんだけど…」

 まだ恥ずかしさが邪魔をして、上手く言えなかったけど、おねだりするようにお腹を押しつけているうちに、ルネにも言いたいことは充分に伝わったようで。
「でも、…エシェル、大丈夫? そんなこと、しても」
 それでもやっぱり、ルネは不安そうだ。
 しきりに、そんなことしたらあたしが辛いんじゃないのか、さっき触ったのだって痛かったんじゃないのか、と、あたしの心配ばっかりしてる。
「…まあ、初めてだし、してみなくちゃわかんないけどさ」
 不安じゃないわけでは、ない。
「さっきの指だって、その、痛くなんかなかったし、……よ、良かったもの。とても。だから、心配してくれて、嬉しいけど、あたしは大丈夫だからさ」
 なのに、なんでだろう。
 ルネの気遣いの言葉を聞けば聞くほど、不安が取り払われて、疼くほどに欲しい気持ちが占めていってしまうのは。
 あたしって、こんな、いやらしい子だったっけ。


 ねえ、蛇たち。
 あたし、間違ってないよね。
 もう、ほどくのを諦めたくなるくらい、さっきからルネに絡んでるみたいだけどさ。
 おかげで、ルネからもう、体を離すことができなくなっちゃった。


「……したいの」
 ああ、結局、言っちゃうんじゃない。
「ルネが良くなることなら、何でもしてあげたい。
 あたしは、ルネと、それを、したいの。だから、もしあんたが、嫌じゃな――」
 あたしの口が、ルネのと重なってふさがれる。
「僕も、したいよ。気持ちいいこと、エシェルにもしてあげたい。
 一緒に、して…ほしい」


 ……。
 で、このあたりから、頭の中をどうひっくり返しても、山のようになった「きもちいい」「すき」「しあわせ」という言葉以外、記憶の引き出しから出てこない。
 いつのまにか寝ていて目が覚めた、という記憶しか、そこにつながらない。
 
 
 寝ぼけまなこがだんだん開くにつれ、分かってきた状況としては。
 朝と呼べる時間をとっくに回っていて、日差しで目が覚める。
 裸どうしで重なるように寝ていたあたし達。
 その間で、大樹に絡みつくヤドリギもかくや、もつれ合うようにしてあたしとルネを結びつけ、一匹残らず幸せな顔をしたまま眠る、髪の毛達。
 なんかお互い、すっごい腰が重い。何これ、筋肉痛…?
 あとなぜか喉も枯れてる。
 全部使用済みになった、ママのタオル。
 寝汗では到底説明がつかないくらい、ぐっちゃぐちゃのお布団。シーツ。そしてふたりの全身。

 ぶしつけな日の光から身を隠すためガウンをはおると、しばし、ルネとふたり、顔を真っ赤にしながら呆然としていた。
 眠って起きたはずなのに、気だるいなんてものじゃなかった。
 魔法か何かで、無理やり眠らされたあとみたい。

「……ねえ、ルネ」
「…うん?」
「……ゆうべ、あたし、……なにか、変な事、した?」
「……んー」
 しばらく顔を斜め上に向け、何ごとか思い出しているらしいルネ。
 やがて、この世の幸せを全部かき集めてきたかのような笑顔であたしに言った。
「すごく、やさしくて、あったかくて、気持ちいいこと、いっぱいしてくれたよ」
 …あたしは、耐えきれず両手で顔を覆ってしまう。
 
 これ、パパやママになんて申し開きすれば…。
 いや、そもそも説明しても大丈夫なのかしら…。
「と、…とりあえず、体、…きれいにしようか。
 あたし、ちょっと新しいタオル、濡らして持ってくるから。ルネは、待ってて」

 こっそりと、部屋のドアを開く。
 パパは多分お仕事のはず。ママは残っているだろうか。
 リビングから、小さな話し声が聞こえる。お客さんが来ているみたいだった。
 いそいでお風呂場からタオルを持ってくれば、気づかれずやり過ごせるはず。
 はらりと、廊下に何ごとか書かれたメモが落ちた。ドアに挟まっていたものみたい。


 ――エシェルちゃん&ルネくんへ
   おはよう。おつかれさまでした♥ 
   楽しそうでなにより。ママも嬉しいわ♥
   お風呂がわいているので入ってね。
   キッチンにはごはんも届いています  ママより


 あたしの顔が、またしても耳まで赤く染まる。そのまま静かにドアを閉め、不思議そうな顔をするルネのところへ戻ってくる。
「……? エシェル、どうし――」
「お風呂。わいてるって」
 羞恥に打ち勝つには、事実を淡々と告げるしかない。
 この文面から分かるのは、ママに確実に昨夜のことを知られているということ。
 これは推測だけど、もしこのタイミングに合わせてお風呂をわかしたんだとしたら。あたし達が眠りに就いたのは、実はついさっきなんじゃないか。
 そして、眠る直前まで、あたし達は、…その、「しっぱなし」だったんじゃないか。
 むしろ、眠ったというよりは、ぶっ続けでしすぎたせいで、気を失ったというほうが正確なんじゃないか、ということだった。
「そうなの? じゃあ、エシェルが先に入って。僕、シーツとか片づけて待ってる」
 しばらく考えて、あたしはルネの手をとる。
「……行くわよ」
「え? でも」
「いいの。ふたりで入った方が、早く済むでしょ。
 別に、入りたいとかじゃなくて、その、あくまで能率的に…」
 とかなんとか、言いわけをこねているうちに、ルネも顔を赤くしてうなずいてくれた。

 まるで、どこかに忍び込んだみたいに慎重に、浴室へ向かうふたり。


 ……。
 で。
 もう一度、ここであたしの記憶は、無くなることになる。


 ……やってしまった。
 ねえ、どこへ行ってしまったというの? あたしの理性………
 石鹸が、あの石鹸がいけないのよ。ぬるぬるするし……
 体、洗ってあげるなんて、言わなきゃよかった。
 そりゃ当然、洗いっこからの巻きつきっことか、いろいろと発展するわよ……


 入る前よりも真赤な顔をして、あたし達はお風呂場を出た。
 そしてとりあえず、お客さんが帰るまで、お部屋でじっとしていることにした。
 ふたりの体力の回復とか、あとはその、腰がなんかもう…抜けそうで…。


 その帰り道。
「あら、おはようさんどす、おふたりさん」
 東方訛りの、やんわりとしたあいさつに、あたし達は振り返った。
 ママのご近所友達、稲荷のミコトさんだった。
 知らない人ではないけれど、予想外の姿だったので、反射的に挨拶を返すことしかできなかった。
「お腹すいてへん? 赤飯(おこわ)炊いてきたさかい、一緒におあがり?」
 それを聞いて、今の今まで隅に追いやられていた食欲が、ようやく目を覚ましたのだった。


「それで、ゆうべがエシェルちゃんとルネくんの初夜やった、いうもんやさかい、急いでおこわ作って持ってきたんどす」
 おめでとうさんどした、と。
 それを聞いて、あたしはミコトさんが淹れてくれたお茶を盛大に吹き出した。
「しょ、しょ…や、って」
 なぜそれを。いや、なぜこの人が、それを。
「ソシエはんから、昨日」
 ママか……。やっぱりママか……。

「そうよぅ。おめでたいといったらお赤飯でしょ?
 ミコトさんのお赤飯は町で一番おいしいんだからぁ」
 両腕いっぱいに、あたし達の部屋の汚れものを抱えてママが廊下を通りがかった。
「……なんなのよ、その根回し」
 タオルとシーツの山から顔をそむけ、あたしはつぶやいた。
 ミコトさんは、ママの抱えた洗濯物を一目見るなり、
「あらあら、随分頑張らはったんどすなぁ。道理で、うちがさっき来た時も、お部屋から楽しそうな声がしてはったしなぁ」
 ……え。

 ちょっと、待って。
「あ、あの、ミコトさん、楽しそうな…声、って」
「恥ずかしがることおまへんえ? これからがふたりの、一番楽しい時やさかい。寝室でも、お風呂場でも、気持ちよかったら好きなだけ、声出したらよろし。
 ルネくんも、エシェルちゃんが声出してくれた方が、嬉しいんと違う?」
「………は、…はい…」
 リンゴみたいに頬を染めながらも、律儀に答えることは答えるルネ。
「そうやん、なぁ? せっかく男の子が頑張ってくれはるんやから、女は遠慮せんと、思いっきり乱れてもうた方がええよ、エシェルちゃん」
 新しいお茶を、こぽこぽと注ぎながらあたしにそんなことを言う、ミコトさん。
「う………」
 叫びながら、往来に飛び出していきたくなるのを必死で抑える、あたし。
 やめなさい、エシェル、むしろ恥ずかしいのはそっちの方よ。

「ふー、重かったわぁ。ねえねえルネくん、ゆうべはどうだった? うちのエシェルちゃん、なにかご迷惑でもかけたりしなかったかしらぁ」
「あ、……いえ、あの、すごくきもちよかったです」
 ………最悪の駒が揃った、と思う間もなく。
「ほな、何が一番気持ちよかったん? うちに聞かせとくれやす」
「……え、と、その、お口で――」
「教えるなあああああ!!!」
12/11/18 22:04更新 / さきたま
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■作者メッセージ
大変お待たせをいたしました。
夜を描くのは難しい。
そして、あれだけ小分けにしておいて最後に20000文字超えなのも申し訳なく思います。
最後なので削るのが忍びなく、全部詰め込もうとしたらこんなことに。もうすこし上手くできればよかったのですが。
読み辛いところありましたらお教えください。
長いということもあり、例によってお直しもあると思われます。
ご覧頂いた方へ、大きな感謝を。

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