くらべこし振分髪も肩すぎぬ
「……ママ、誰? この子」
帰ってきたら、男の子がいた。
その子は、ごはんをたらふくママから振る舞われていた。
歳は、あたしよりも小さい子に見える。
男の子は、あたしとママを交互に見比べながら、なんだかおどおどしているみたいだった。
見知らぬ家で、子供一人。おまけに蛇の体に蛇の髪を生やした魔物に挟まれれば、緊張せざるを得ないのかしら。
「こ、こんにちは」
あたしを、というよりあたしの髪をちらちら見ながら、その子はあいさつをした。
「あら、エシェルちゃんお帰り。この子? ルネくんっていうの。
ママの命の恩人だから、せめてものお礼にご飯をごちそうしていたのよぅ」
命の恩人、だなんて大げさな言葉が、至ってのんびりとママの口から出てくるのが、なんだかおかしい。
それを聞いてあたしは、ママの恐るべき方向音痴のことを思い出した。
「……ママ、まさかまた迷子になってたんじゃあ……」
あたしが生まれる前からこの町に住んでるって言ってなかったかしら。十数年ものあいだ、どうやって生きてきたのよ。
「どうもそうみたいなのよぅ。
でもね、ママ的には、いつもの路地をいつもの方へ曲がっただけなのよ?
エシェルちゃんに教わったとおり、角を曲がってから5軒目ってちゃんと数えたもの。
お家に着いたーって、普通にドアを開けたら、なんだか間取りがいつもと違うのよぅ。
うーん、でもそういうこともたまにはあるのかしらって思いながら、買ってきたお野菜下ろそうとして、キッチンのつもりで入った部屋でね?
ベッドがあって、その上でジョゼさんと旦那さんが、赤ちゃんつくってる真っ最中だったの。
ママもうびーっくりして、
『キッチンでするときは、刃物なんかを片づけてした方がいいですよ?』
って教えてあげようとしたんだけど、それにしてはベッドが置いてあるの、おかしいじゃない? キッチンでしてる気分を味わいたいなら、わざわざベッドなんか持ちこまないんじゃないかって思うの。
だから、あ、ここはもしかしてママのお家じゃなかったのかなー、って推理したのね。
でも、ここで出会ったのも何かのご縁だから、とりあえずジョゼさん達には
『頑張って下さいね、赤ちゃんできたら後でお祝いお送りしますね〜』
って言って出てきたんだけど、そんなの見ちゃったらほら、妬けてきちゃうじゃない? うちだって負けてるわけにいかないじゃない? だからもう、しょうがない、今晩、パパと朝まで――」
「なっ、ちょっと、ママ何の話してんのよさっきから! 子どもの前で!」
見ず知らずの男の子の耳を、両手のひらでぐっと押さえながら、あたしは真赤になって叫んだ。
もうどこから突っ込んだらいいのか分からない。
とりあえず、当分ジョゼさんご夫婦とは顔を合わせないほうがいいかもしれない。
「つまり、この子が道案内してくれなかったら、あたしのママは今頃路上でのたれ死んでるか、他人の家に押し入ってプライベートの邪魔をするところだったと。ていうか既に邪魔をしてきたと」
「ひどーい、エシェルちゃん。ちゃんとママ、
『せっかくキッチンにいるんだから、いろいろ体の向きを変えたりとか、ジョゼさん大きなお胸をお持ちなんだから、あんなことやこんなことに使ってあげた方が楽しいですよぅ』
って教えてきてあげたんだから」
「だからそこキッチンじゃない! っていうかでっかいお世話過ぎるわよ! もういいからちょっとママ黙って!」
のんびりしているわりに、口ばかりぺらぺら回るけど、ちっとも要領を得ないママに代わって、あたしは目の前の男の子に尋ねてみた。
「ボク、えっと、ルネ、くん? あのひとをお家まで連れて来てくれたの?」
男の子は、あたしに顔をはさまれたまま、こくんと頷いた。
「こまってたから、助けてあげなきゃって、思った」
はー。
この子、たぶん、あたしより三つか四つくらいは下かもしれない。
ぱっと見、内気そうな子だけど、その口から出てくる言葉はなかなかどうして、大したナイトぶりじゃない。
随分しっかりしたもんだわ。少なくとも横でニコニコしてるうちのママよりは。
そうそう、そうなのよぅと、ママがポンと手を叩いて呑気に言った。
「そうだったの。えと……あ、ありがと。不甲斐ない母に代わってお礼を言うわ。でも知らないお家なのに、よくわかったわね」
「そこはほら、ママがエシェルちゃんから教わった道順を、ちゃんとルネくんに伝えられたからよぅ」
「威張る前に、最初っからまともに帰ってきてよ、その道順で!」
人に道順は教えられるくせに、よそのちっちゃい子に手を引かれないと帰ってこられないの、うちのママは?
「……へび」
男の子の声に、そっちへ向き直る。
あたしの髪の、蛇の一匹が、いつのまにかルネの頭の上にのっかっていた。
ねぐらにでも決め込もうというのか、眠る体勢を作ろうとしている。
思わず、ルネと目が合う。
蛇のものとは違う、黒くて大きい、まんまるな瞳が、印象に残った。
瞳の縁を更に丸くかたどるのは、鳶色だった。
きれいだ、って言葉にはしなかったけど、心のどこかであたしは、そんなことを思ってた気がする。
目で人を石にも変える力を持っているはずなのに、その時あたしはこの子の大きな瞳に、確かに捕らえられていたのだろう。
……一瞬よ? あくまで、ほんの一瞬なんだから。
一瞬の後、はっ、と気がついた。
男の子の頬の温かみが、あたしの手のひらに伝わってきている。
あたし、さっきからずっと、ほっぺたを触りっぱなし。
慌てて、手を離す。寝ぼけまなこの蛇を引っ張り戻し、体をそむけて、胸の前できゅっと両手を握ると、まだそこにほんのりと、あの子の熱が残っていた。それはすぐに、あたし自身の体温にとって代わる。勝手にどんどんと、体中がほてってくる。
待ってよ。ちょっと、なんなの、これ。熱い。顔が熱い。
蛇たちが、急にそわそわ動き始めていた。こういう時こそおとなしくしててくれたらいいのに、この蛇ども。
「きっ……気をつけなさいよ。まったく、噛みつかれたらどうすんのよ」
ことさらに、とがめるような口ぶりになった。
こんな真っ赤な顔、絶対見せられない。
「あらぁ、大丈夫よ。噛みついたりなんかしないわ。
ルネくん、ほら見て? この蛇さんは、エシェルちゃんが好きになった子に甘えるのが大好きなのよぅ。ね、エシェルちゃん?」
「ばっ……」
急に何を言いだしてんのよこの母は! きっとママの方を睨んで、あたしが何か言おうとしたその時。
つ、とあたしの髪に、撫でられるような感じがした。
まだ顔のほてりは取れないけど、思わず目をそっちに向ける。
ルネが、おずおずと手を伸ばして、さっき自分の頭をねぐらにしようとした、あたしの蛇の一匹を、なでなでしているところだった。
まるで猫の子か何かのように、そいつは無邪気にルネにすり寄っている。
ああ、だめだ。だめだ、もういたたまれない!
恥ずかしいと顔から火が出るというのなら、あたしはいっそのこと、その火で、何もかも燃やしてしまいたいとさえ思った。
「ちょっ……あ、あんた、な、何、を」
あたしは、必死で何ごとか口走ろうとした。
だって、年上なのよ? お姉ちゃんなのよ!? あたしは。こんなことじゃ、年上としての、その、威厳というか……
あたしが何か言おうとするより早く、
「ルネくん、蛇は大丈夫? 恐くない?」ママは、ルネに尋ねていた。
ルネは、「ううん、恐くない」と首を横に振った。
なんかくやしいけど、……正直、そのときちょっとだけ、あたしの胸の中で、とくんと暖かい音がした。
「そう、良かった。ねぇルネくん、この蛇のおねえちゃんのこと、どう思う?」
は? え、何、なんなのママ、その質問。
髪を撫でるこの子の指と、瞳の間に、あたしの目が吸い寄せられて、いったりきたりしていたから、質問の意味が頭に届くまで、ちょっと時間がかかった。
だから、いつもなら、そんなぶしつけな質問をするママに、抗議の叫びを上げていたかもしれないけど、この時はそれが間に合わなかった。
そのおかげで……いや違うわよ、そのせいで。
こいつは、とんでもないことを、言ってのけた。
あたしの目をひょいと覗きこんで。
「んー、……かわいい」
……………………へ。
な……
なんて。
なんて、屈託のない顔で言うのよ、そんなこと。
体中の血が、ゆだって死んでしまうんじゃないのかしら。
あたしは、本気で心配していた。
そうなったら、ママのせいだ。いや、この男の子のせいなのかな。
ともかく、どっちかには絶対化けて出てやる。
「あらあら、素敵じゃない。なら二人はもう両想いね。
ルネくん、うちのエシェルちゃんと仲良くしてあげてね?」
「うん!」
「な……な……なんでそうなるのよ!! おかしいわよ!
ちょっと……もう、ママ出てって!! 家から出てって!!」
「えぇ? それは困るわぁ。
今度出ていったら、ママ二度とお家に戻ってこられなくなっちゃう。
今夜はママ、パパと朝まで濃密な――」
「戻ってくるな!!」
「……いいかしら、ルネ。あんまりあたしになれなれしくするなって、何年前から言ってると思ってるのよ」
「おーよしよし」
「ま、まあ、いちおう感謝はしてるわよ。ママを助けてくれたんだし。
あんたがいないと、ママなんか二度とうちに帰ってこれなかったんじゃないかと思うわよ。
で、でも、それとこれとは全然別よ!? いい?
あたしとあんたとは、別に、その、全然、こ、こ、恋人、とかそういう関係でも、何でもないんだから!」
「おはよう、アンナマリー。元気だった?」
「そもそも、出会いっていうのはもっとこう、ドラマチックであるべきなのよ。あんたの場合は何よ。ひとの親が迷子になったのを保護してきましたなんて、恥ずかしいったらありゃしないわよ。あんたはあんたでたらふくご飯食べてたし」
「あはは、ジュヌヴィエーヴ、くすぐったいよ」
「あ、で、でも、別にだからいやだとか、きらいだなんていってるわけじゃないわよ? あんたの方が歳は下だけど、うちのママなんかよりよっぽどしっかりしてるし、パパやママからもなんか知らないけどやたら気に入られてるし、いつのまにかあんたのご両親と家族ぐるみの付き合いがはじまっちゃってるし」
「フランソワーズ、お昼寝してたの? ごめんね、起こしちゃって」
「そ……それに、あたしがあんたを初めて見たときだって、……その、ちょっと可愛いとは思っ……あ、違う、ちょっとだけよ! ほんのちょっとしか思ってないんだから! そんなことで、調子に乗られても困るって話よ!」
「ほらほら、ソフィー、こっちだよー」
「物事には、すべからく順序っていうものがあるの。
だから、もっとほら、ちゃんと距離を置いて、その、きちんと、お、お、お友達から、とか――」
「ジョセフィーヌは巻きつくのが好きだね。一番甘えん坊さんだ」
「あんたひとの髪に何匹名前つけてんのよ!」
あたしは、頭がへこむくらいの勢いで、髪ばっかりかまっているルネの頭に手刀をお見舞いした、つもりだったけど。
「いたっ! もう、痛いよエシェル。つむじを叩くとお腹壊しちゃうんだよ?」
「知らないわよそんな豆知識! 聞いてたのあんた、ひとの話!」
こいつは全然動じない。なよっとした見かけに似合わず打たれ強いのかしら。
いや、わかってるわよ? あたしだってもう子供じゃない。いくらなんだって、本気でケガするくらい殴ったりなんかしないわ。
そんなことして、こいつったらまだまだ子供だから、泣いちゃったりとか、嫌われたりとか、もう遊びに来てくれなくなるんじゃないかとか……
ほ、ほら、せっかく家族ぐるみでお付き合いしているんだから、くだらないケンカでその関係にひびが入るなんて、気分が悪いじゃない? 子供じゃないんだから、そのくらいの社会性は持っているつもりよ。
「聞いてたよ。ちゃんと全部の子につけたもん。この子がコンスタンスでしょ? こっちがマルグリット、でこの子がブリジット――」
「いや名前の話じゃないわよ! ていうか、全部ってあんた何してくれてんのよ!」
最初の一匹。
初めてルネと出会ったあの日、こいつの頭にどっかり居座って眠ろうとした無礼者に、アンナマリーという名をこいつが与えているのを知っても、特に気にはしなかった。
それから三年。
まさか、あたしの髪の蛇たち全てに名前をつけるとは思わなかった。
今では、あたしもその名で蛇を扱わないと、彼女ら――つけられた名前がすべて女性名であることからそう呼ぶ――のご機嫌を損ねてしまう始末だ。
「大丈夫だよエシェル。みんなすごく喜んでるよ? ほら見て」
見るまでもないわよ。その蛇の持ち主が言うんだから間違いないわ。
くやしいけど、事実を認めなくちゃならない。
今やもう、あたしの髪の蛇たちは、みんなこいつに、――ルネにメロメロに懐いてしまっている。
近頃は、「もっとルネに近づきなさいよ、すりすりできないでしょ?」といわんばかりに、髪の方であたしのことを引っ張っていこうとするようになってしまった。主の面目まるつぶれだ。
……変な話だけど。
あたしは、蛇たちのことがちょっと、うらやましい。
あたしが、恥ずかしさに耐えられなくて、ルネを突き放すような口をきく間に、彼女らは何の迷いもなく、ルネにまとわりつき、身を擦り寄せる。
あいつに甘えてるのには変わりないのに、表に出る態度はあまりにも違う。
そのまま、三年が過ぎ、今日をむかえた。
こんな変な話って、あるのかしら。
自分で、自分の髪に嫉妬するメドゥーサなんて、あたしくらいじゃないだろうか。
これは、だから、負けたくないから。
別に、辛いとか、さみしいなんて、思ってないんだから。
「あの、さ、ルネ」
「なあに?」
「えと、……その……」
おちつけ。おちつけ、単純な事を聞いて、徐々に会話に慣れていくのよ。
「ル、ルネは、蛇、って、嫌いじゃないの?」
随分遠まわしに切り出したものだと思う。いまさら何わかりきったこと聞いてるのかしら。とりあえず、最初は簡単な、答えの予想できる質問をやり取りして、安心しておきたかった。
「最初は、ちょっと恐かったかな」
うーん、とルネが軽く唸ってから出てきた答えは、あたしが予想していたのと違う所に飛んできた。
だから、少しの間あたしは考えを見失う。
おびえたような目をしたかもしれない。
もしかして、あたしは聞いてはいけないことを聞いてしまったのか。
あたしのことが、恐い、のか。もしそうなら、あたし、どうしよう。
「初めてエシェルを見た時に、『なんだか恐そうなお姉ちゃんだなぁ』とは思ったよ」
う……うう。
あたしは、大した考えもなく進めた一手目が、とんでもない悪手だったことに気づいて、心から悔んだ。
やっぱり、聞くんじゃなかった。
「見た目でどうっていうわけじゃなかったんだけど、でもぼくと目があって、すぐぐらいに、エシェルの蛇さんたちが、何だかざわざわしだしたから」
そう……だったっけ。もしそうなら、それは……その理由は、ルネには言えない。恥ずかしすぎて。
「でも、その後アンナマリーがぼくの頭の上で寝たでしょ?」
あ、ああ、そうね、あったわね、そんなこと。
なんて、しらを切るまでもなく、覚えてるわよ。
あのときから、あんたの目は変わらない。大きくて、鳶色で、瞳は深く黒い。
「あれで、恐くなくなったのかもしれない。今はもう、みんなと仲良くなれたし」
……あたしは、ちょっとだけ、あたしの髪に感謝してあげることにする。
三年も前から、あたしの悪手を回避する布石を打っててくれた、アンナマリーと、彼女らに。
「この子がそうするのは、エシェルの好きな子に対してなんだって、おばさまが教えてくれたりもしたしね。だから、恐いよりも、嬉しかったかな」
……なんか、ママにも感謝しなくちゃいけない流れになってしまった。
え。
待って。いま、こいつ、なんて。
蛇たちが、甘えるのは、あたしが好きな子に対してだと。
それを知ったルネは、……「嬉しかった」って。
そ、それって、……つまり。
あたしが、ルネを、…………好き、な、ことが……ルネは、嬉しいって、言ってるんじゃ……。
待ちなさいよ。あたし、単に蛇の話をしてただけなのに。
いつのまに、あたしの話になってるのよ。
お魚みたいに、口をパクパクさせた。
もう、戦果は充分よね。あたし、やったのよね。
ここで、引き返そうか。
……ううん、まだ。せっかく、決心したんだ。まだ、もうちょっとだけ。
「じゃ、じゃあ、あたしの髪があんたにまとわりついても、そんなに嫌じゃない、の、かしら」
「うん。いつも見てるから、髪の毛もエシェルも、みんなそれぞれ個性があって可愛く見える」
可愛い、のたった一言で、くらりとあたしの目の前が眩む。
……蛇たち、ごめん。あたし、もう、だめかもしれない。
しかも、「いつも見てる」って!
なんなのよ、この、もうどうなってもいいみたいな捨て鉢な幸福感は。
「なっ――」
なれなれしいって言ってんのよ!
生意気言うんじゃないわよ、子供のくせに、って。
幸せな気持ちを、いつもの癖で覆い隠そうと、むやみな反抗の言葉が喉からあふれ出そうになる。
違うわよ。それじゃ、それじゃダメなの。
歯を食いしばり、棘ある言葉をこぼさぬよう、幸せに気を失わぬよう、あたしは耐えた。
そして、切り出す時機は今だと見てとった。
「あ、あのね? 実は、あたしの体も、ほら、蛇なのね」
聞いたルネは少し吹き出す。
「うん、知ってるよ」メドゥーサから今更そんなことを言われたのがおかしかったのだろう。構わずあたしは続ける。
「そ、それでね。もし、もし、あんたさえ嫌じゃなければ、その、あの」
言え。言いなさい、早く。
「えっと、あ、あたしの、体の方で、その、あんたに、巻きついたり、とか、して、みるのも、一風変わってていいんじゃない、かしら」
間が開くのが、耐えられなくて、言葉を余計に連ねた。
ルネに伝え終わるのと、あたしが顔じゅうを襲う熱さで死んじゃうのと、どっちが先かしら……。
「ほ、ほら。いつもはその。細い蛇しか見てないでしょ? だから、たまにはさ、こういう太い体に巻かれてみるっていうのも、目先が変わって面白いかな、とか思うわけ」
そのうち、言えることもなくなって、後はうつむいてルネの言葉を待つ状況になった。一瞬が永遠にも長く感じた。
「うん。お願いしてもいい? エシェル」
答えは拍子抜けするくらいあっけなく、訪れた。
嬉しいとか、そんなこと感じる暇もないくらい、さっきよりも心臓が、ばくばく鳴りはじめていた。
「あ……ああ……、じゃ、じゃあ仕方ないわね。ちょっと待ちなさい、ま、巻いて、その、あげるから――」
「じゃあ、今日はルネくん、うちでお泊まりしていらっしゃいな。エシェルちゃんと今夜一晩、大きめのベッドがある部屋で一緒に寝ればいいのよぅ」
…………え。
キッチンの方から、いつの間に買い物から戻ってきたのか、ママの声。
「ママちょっと何言ってんのよ!! っていうかいつからそこに――」
「だって、もうすぐお夕飯だし、いつもはルネくん、もう帰る時間でしょう? お泊まりすれば、一晩中だってルネくんに巻きついていられるじゃない」
「う、や、ひと、一晩じゅう……っ、いやそうじゃなくて!」
もうすぐ夕飯って……、いつの間に、そんなに時間が経ってたのよ。
「いつもすみません、おばさま。それじゃ、ちょっと、うちの親に断ってきます」
「ああ、大丈夫よぅ? さっきルネくんのお母様と会ってきたから、お話しは付いてるわ」
「何でそういう時だけ手回しがいいのよ! ルネもなんでそんな落ち着いてんの!」
「そうと決まれば、ルネくん、お風呂もうすぐ沸くから、ごはんの前に入ってらっしゃい? エシェルちゃんはどうする? ルネくんと一緒に入る?」
「は……ば、馬鹿言わないでよ!! 入るわけないでしょ!!」
「じゃあ、すみません。お先に頂いてきます」
「お着替え新しいの、いつものところに入ってるからねぇ」
「はーい」
「え、ちょっ、ルネ、待っ――」
「ねえねえ、エシェルちゃん? あなたの勝負下着なんだけど、どっちの色にする?」
「き――きゃあああああ!!! なんでママがそれ持ってるのよ!!!」
「ふっふっふ、ママは何でもお見通しなのよぅ」
帰ってきたら、男の子がいた。
その子は、ごはんをたらふくママから振る舞われていた。
歳は、あたしよりも小さい子に見える。
男の子は、あたしとママを交互に見比べながら、なんだかおどおどしているみたいだった。
見知らぬ家で、子供一人。おまけに蛇の体に蛇の髪を生やした魔物に挟まれれば、緊張せざるを得ないのかしら。
「こ、こんにちは」
あたしを、というよりあたしの髪をちらちら見ながら、その子はあいさつをした。
「あら、エシェルちゃんお帰り。この子? ルネくんっていうの。
ママの命の恩人だから、せめてものお礼にご飯をごちそうしていたのよぅ」
命の恩人、だなんて大げさな言葉が、至ってのんびりとママの口から出てくるのが、なんだかおかしい。
それを聞いてあたしは、ママの恐るべき方向音痴のことを思い出した。
「……ママ、まさかまた迷子になってたんじゃあ……」
あたしが生まれる前からこの町に住んでるって言ってなかったかしら。十数年ものあいだ、どうやって生きてきたのよ。
「どうもそうみたいなのよぅ。
でもね、ママ的には、いつもの路地をいつもの方へ曲がっただけなのよ?
エシェルちゃんに教わったとおり、角を曲がってから5軒目ってちゃんと数えたもの。
お家に着いたーって、普通にドアを開けたら、なんだか間取りがいつもと違うのよぅ。
うーん、でもそういうこともたまにはあるのかしらって思いながら、買ってきたお野菜下ろそうとして、キッチンのつもりで入った部屋でね?
ベッドがあって、その上でジョゼさんと旦那さんが、赤ちゃんつくってる真っ最中だったの。
ママもうびーっくりして、
『キッチンでするときは、刃物なんかを片づけてした方がいいですよ?』
って教えてあげようとしたんだけど、それにしてはベッドが置いてあるの、おかしいじゃない? キッチンでしてる気分を味わいたいなら、わざわざベッドなんか持ちこまないんじゃないかって思うの。
だから、あ、ここはもしかしてママのお家じゃなかったのかなー、って推理したのね。
でも、ここで出会ったのも何かのご縁だから、とりあえずジョゼさん達には
『頑張って下さいね、赤ちゃんできたら後でお祝いお送りしますね〜』
って言って出てきたんだけど、そんなの見ちゃったらほら、妬けてきちゃうじゃない? うちだって負けてるわけにいかないじゃない? だからもう、しょうがない、今晩、パパと朝まで――」
「なっ、ちょっと、ママ何の話してんのよさっきから! 子どもの前で!」
見ず知らずの男の子の耳を、両手のひらでぐっと押さえながら、あたしは真赤になって叫んだ。
もうどこから突っ込んだらいいのか分からない。
とりあえず、当分ジョゼさんご夫婦とは顔を合わせないほうがいいかもしれない。
「つまり、この子が道案内してくれなかったら、あたしのママは今頃路上でのたれ死んでるか、他人の家に押し入ってプライベートの邪魔をするところだったと。ていうか既に邪魔をしてきたと」
「ひどーい、エシェルちゃん。ちゃんとママ、
『せっかくキッチンにいるんだから、いろいろ体の向きを変えたりとか、ジョゼさん大きなお胸をお持ちなんだから、あんなことやこんなことに使ってあげた方が楽しいですよぅ』
って教えてきてあげたんだから」
「だからそこキッチンじゃない! っていうかでっかいお世話過ぎるわよ! もういいからちょっとママ黙って!」
のんびりしているわりに、口ばかりぺらぺら回るけど、ちっとも要領を得ないママに代わって、あたしは目の前の男の子に尋ねてみた。
「ボク、えっと、ルネ、くん? あのひとをお家まで連れて来てくれたの?」
男の子は、あたしに顔をはさまれたまま、こくんと頷いた。
「こまってたから、助けてあげなきゃって、思った」
はー。
この子、たぶん、あたしより三つか四つくらいは下かもしれない。
ぱっと見、内気そうな子だけど、その口から出てくる言葉はなかなかどうして、大したナイトぶりじゃない。
随分しっかりしたもんだわ。少なくとも横でニコニコしてるうちのママよりは。
そうそう、そうなのよぅと、ママがポンと手を叩いて呑気に言った。
「そうだったの。えと……あ、ありがと。不甲斐ない母に代わってお礼を言うわ。でも知らないお家なのに、よくわかったわね」
「そこはほら、ママがエシェルちゃんから教わった道順を、ちゃんとルネくんに伝えられたからよぅ」
「威張る前に、最初っからまともに帰ってきてよ、その道順で!」
人に道順は教えられるくせに、よそのちっちゃい子に手を引かれないと帰ってこられないの、うちのママは?
「……へび」
男の子の声に、そっちへ向き直る。
あたしの髪の、蛇の一匹が、いつのまにかルネの頭の上にのっかっていた。
ねぐらにでも決め込もうというのか、眠る体勢を作ろうとしている。
思わず、ルネと目が合う。
蛇のものとは違う、黒くて大きい、まんまるな瞳が、印象に残った。
瞳の縁を更に丸くかたどるのは、鳶色だった。
きれいだ、って言葉にはしなかったけど、心のどこかであたしは、そんなことを思ってた気がする。
目で人を石にも変える力を持っているはずなのに、その時あたしはこの子の大きな瞳に、確かに捕らえられていたのだろう。
……一瞬よ? あくまで、ほんの一瞬なんだから。
一瞬の後、はっ、と気がついた。
男の子の頬の温かみが、あたしの手のひらに伝わってきている。
あたし、さっきからずっと、ほっぺたを触りっぱなし。
慌てて、手を離す。寝ぼけまなこの蛇を引っ張り戻し、体をそむけて、胸の前できゅっと両手を握ると、まだそこにほんのりと、あの子の熱が残っていた。それはすぐに、あたし自身の体温にとって代わる。勝手にどんどんと、体中がほてってくる。
待ってよ。ちょっと、なんなの、これ。熱い。顔が熱い。
蛇たちが、急にそわそわ動き始めていた。こういう時こそおとなしくしててくれたらいいのに、この蛇ども。
「きっ……気をつけなさいよ。まったく、噛みつかれたらどうすんのよ」
ことさらに、とがめるような口ぶりになった。
こんな真っ赤な顔、絶対見せられない。
「あらぁ、大丈夫よ。噛みついたりなんかしないわ。
ルネくん、ほら見て? この蛇さんは、エシェルちゃんが好きになった子に甘えるのが大好きなのよぅ。ね、エシェルちゃん?」
「ばっ……」
急に何を言いだしてんのよこの母は! きっとママの方を睨んで、あたしが何か言おうとしたその時。
つ、とあたしの髪に、撫でられるような感じがした。
まだ顔のほてりは取れないけど、思わず目をそっちに向ける。
ルネが、おずおずと手を伸ばして、さっき自分の頭をねぐらにしようとした、あたしの蛇の一匹を、なでなでしているところだった。
まるで猫の子か何かのように、そいつは無邪気にルネにすり寄っている。
ああ、だめだ。だめだ、もういたたまれない!
恥ずかしいと顔から火が出るというのなら、あたしはいっそのこと、その火で、何もかも燃やしてしまいたいとさえ思った。
「ちょっ……あ、あんた、な、何、を」
あたしは、必死で何ごとか口走ろうとした。
だって、年上なのよ? お姉ちゃんなのよ!? あたしは。こんなことじゃ、年上としての、その、威厳というか……
あたしが何か言おうとするより早く、
「ルネくん、蛇は大丈夫? 恐くない?」ママは、ルネに尋ねていた。
ルネは、「ううん、恐くない」と首を横に振った。
なんかくやしいけど、……正直、そのときちょっとだけ、あたしの胸の中で、とくんと暖かい音がした。
「そう、良かった。ねぇルネくん、この蛇のおねえちゃんのこと、どう思う?」
は? え、何、なんなのママ、その質問。
髪を撫でるこの子の指と、瞳の間に、あたしの目が吸い寄せられて、いったりきたりしていたから、質問の意味が頭に届くまで、ちょっと時間がかかった。
だから、いつもなら、そんなぶしつけな質問をするママに、抗議の叫びを上げていたかもしれないけど、この時はそれが間に合わなかった。
そのおかげで……いや違うわよ、そのせいで。
こいつは、とんでもないことを、言ってのけた。
あたしの目をひょいと覗きこんで。
「んー、……かわいい」
……………………へ。
な……
なんて。
なんて、屈託のない顔で言うのよ、そんなこと。
体中の血が、ゆだって死んでしまうんじゃないのかしら。
あたしは、本気で心配していた。
そうなったら、ママのせいだ。いや、この男の子のせいなのかな。
ともかく、どっちかには絶対化けて出てやる。
「あらあら、素敵じゃない。なら二人はもう両想いね。
ルネくん、うちのエシェルちゃんと仲良くしてあげてね?」
「うん!」
「な……な……なんでそうなるのよ!! おかしいわよ!
ちょっと……もう、ママ出てって!! 家から出てって!!」
「えぇ? それは困るわぁ。
今度出ていったら、ママ二度とお家に戻ってこられなくなっちゃう。
今夜はママ、パパと朝まで濃密な――」
「戻ってくるな!!」
「……いいかしら、ルネ。あんまりあたしになれなれしくするなって、何年前から言ってると思ってるのよ」
「おーよしよし」
「ま、まあ、いちおう感謝はしてるわよ。ママを助けてくれたんだし。
あんたがいないと、ママなんか二度とうちに帰ってこれなかったんじゃないかと思うわよ。
で、でも、それとこれとは全然別よ!? いい?
あたしとあんたとは、別に、その、全然、こ、こ、恋人、とかそういう関係でも、何でもないんだから!」
「おはよう、アンナマリー。元気だった?」
「そもそも、出会いっていうのはもっとこう、ドラマチックであるべきなのよ。あんたの場合は何よ。ひとの親が迷子になったのを保護してきましたなんて、恥ずかしいったらありゃしないわよ。あんたはあんたでたらふくご飯食べてたし」
「あはは、ジュヌヴィエーヴ、くすぐったいよ」
「あ、で、でも、別にだからいやだとか、きらいだなんていってるわけじゃないわよ? あんたの方が歳は下だけど、うちのママなんかよりよっぽどしっかりしてるし、パパやママからもなんか知らないけどやたら気に入られてるし、いつのまにかあんたのご両親と家族ぐるみの付き合いがはじまっちゃってるし」
「フランソワーズ、お昼寝してたの? ごめんね、起こしちゃって」
「そ……それに、あたしがあんたを初めて見たときだって、……その、ちょっと可愛いとは思っ……あ、違う、ちょっとだけよ! ほんのちょっとしか思ってないんだから! そんなことで、調子に乗られても困るって話よ!」
「ほらほら、ソフィー、こっちだよー」
「物事には、すべからく順序っていうものがあるの。
だから、もっとほら、ちゃんと距離を置いて、その、きちんと、お、お、お友達から、とか――」
「ジョセフィーヌは巻きつくのが好きだね。一番甘えん坊さんだ」
「あんたひとの髪に何匹名前つけてんのよ!」
あたしは、頭がへこむくらいの勢いで、髪ばっかりかまっているルネの頭に手刀をお見舞いした、つもりだったけど。
「いたっ! もう、痛いよエシェル。つむじを叩くとお腹壊しちゃうんだよ?」
「知らないわよそんな豆知識! 聞いてたのあんた、ひとの話!」
こいつは全然動じない。なよっとした見かけに似合わず打たれ強いのかしら。
いや、わかってるわよ? あたしだってもう子供じゃない。いくらなんだって、本気でケガするくらい殴ったりなんかしないわ。
そんなことして、こいつったらまだまだ子供だから、泣いちゃったりとか、嫌われたりとか、もう遊びに来てくれなくなるんじゃないかとか……
ほ、ほら、せっかく家族ぐるみでお付き合いしているんだから、くだらないケンカでその関係にひびが入るなんて、気分が悪いじゃない? 子供じゃないんだから、そのくらいの社会性は持っているつもりよ。
「聞いてたよ。ちゃんと全部の子につけたもん。この子がコンスタンスでしょ? こっちがマルグリット、でこの子がブリジット――」
「いや名前の話じゃないわよ! ていうか、全部ってあんた何してくれてんのよ!」
最初の一匹。
初めてルネと出会ったあの日、こいつの頭にどっかり居座って眠ろうとした無礼者に、アンナマリーという名をこいつが与えているのを知っても、特に気にはしなかった。
それから三年。
まさか、あたしの髪の蛇たち全てに名前をつけるとは思わなかった。
今では、あたしもその名で蛇を扱わないと、彼女ら――つけられた名前がすべて女性名であることからそう呼ぶ――のご機嫌を損ねてしまう始末だ。
「大丈夫だよエシェル。みんなすごく喜んでるよ? ほら見て」
見るまでもないわよ。その蛇の持ち主が言うんだから間違いないわ。
くやしいけど、事実を認めなくちゃならない。
今やもう、あたしの髪の蛇たちは、みんなこいつに、――ルネにメロメロに懐いてしまっている。
近頃は、「もっとルネに近づきなさいよ、すりすりできないでしょ?」といわんばかりに、髪の方であたしのことを引っ張っていこうとするようになってしまった。主の面目まるつぶれだ。
……変な話だけど。
あたしは、蛇たちのことがちょっと、うらやましい。
あたしが、恥ずかしさに耐えられなくて、ルネを突き放すような口をきく間に、彼女らは何の迷いもなく、ルネにまとわりつき、身を擦り寄せる。
あいつに甘えてるのには変わりないのに、表に出る態度はあまりにも違う。
そのまま、三年が過ぎ、今日をむかえた。
こんな変な話って、あるのかしら。
自分で、自分の髪に嫉妬するメドゥーサなんて、あたしくらいじゃないだろうか。
これは、だから、負けたくないから。
別に、辛いとか、さみしいなんて、思ってないんだから。
「あの、さ、ルネ」
「なあに?」
「えと、……その……」
おちつけ。おちつけ、単純な事を聞いて、徐々に会話に慣れていくのよ。
「ル、ルネは、蛇、って、嫌いじゃないの?」
随分遠まわしに切り出したものだと思う。いまさら何わかりきったこと聞いてるのかしら。とりあえず、最初は簡単な、答えの予想できる質問をやり取りして、安心しておきたかった。
「最初は、ちょっと恐かったかな」
うーん、とルネが軽く唸ってから出てきた答えは、あたしが予想していたのと違う所に飛んできた。
だから、少しの間あたしは考えを見失う。
おびえたような目をしたかもしれない。
もしかして、あたしは聞いてはいけないことを聞いてしまったのか。
あたしのことが、恐い、のか。もしそうなら、あたし、どうしよう。
「初めてエシェルを見た時に、『なんだか恐そうなお姉ちゃんだなぁ』とは思ったよ」
う……うう。
あたしは、大した考えもなく進めた一手目が、とんでもない悪手だったことに気づいて、心から悔んだ。
やっぱり、聞くんじゃなかった。
「見た目でどうっていうわけじゃなかったんだけど、でもぼくと目があって、すぐぐらいに、エシェルの蛇さんたちが、何だかざわざわしだしたから」
そう……だったっけ。もしそうなら、それは……その理由は、ルネには言えない。恥ずかしすぎて。
「でも、その後アンナマリーがぼくの頭の上で寝たでしょ?」
あ、ああ、そうね、あったわね、そんなこと。
なんて、しらを切るまでもなく、覚えてるわよ。
あのときから、あんたの目は変わらない。大きくて、鳶色で、瞳は深く黒い。
「あれで、恐くなくなったのかもしれない。今はもう、みんなと仲良くなれたし」
……あたしは、ちょっとだけ、あたしの髪に感謝してあげることにする。
三年も前から、あたしの悪手を回避する布石を打っててくれた、アンナマリーと、彼女らに。
「この子がそうするのは、エシェルの好きな子に対してなんだって、おばさまが教えてくれたりもしたしね。だから、恐いよりも、嬉しかったかな」
……なんか、ママにも感謝しなくちゃいけない流れになってしまった。
え。
待って。いま、こいつ、なんて。
蛇たちが、甘えるのは、あたしが好きな子に対してだと。
それを知ったルネは、……「嬉しかった」って。
そ、それって、……つまり。
あたしが、ルネを、…………好き、な、ことが……ルネは、嬉しいって、言ってるんじゃ……。
待ちなさいよ。あたし、単に蛇の話をしてただけなのに。
いつのまに、あたしの話になってるのよ。
お魚みたいに、口をパクパクさせた。
もう、戦果は充分よね。あたし、やったのよね。
ここで、引き返そうか。
……ううん、まだ。せっかく、決心したんだ。まだ、もうちょっとだけ。
「じゃ、じゃあ、あたしの髪があんたにまとわりついても、そんなに嫌じゃない、の、かしら」
「うん。いつも見てるから、髪の毛もエシェルも、みんなそれぞれ個性があって可愛く見える」
可愛い、のたった一言で、くらりとあたしの目の前が眩む。
……蛇たち、ごめん。あたし、もう、だめかもしれない。
しかも、「いつも見てる」って!
なんなのよ、この、もうどうなってもいいみたいな捨て鉢な幸福感は。
「なっ――」
なれなれしいって言ってんのよ!
生意気言うんじゃないわよ、子供のくせに、って。
幸せな気持ちを、いつもの癖で覆い隠そうと、むやみな反抗の言葉が喉からあふれ出そうになる。
違うわよ。それじゃ、それじゃダメなの。
歯を食いしばり、棘ある言葉をこぼさぬよう、幸せに気を失わぬよう、あたしは耐えた。
そして、切り出す時機は今だと見てとった。
「あ、あのね? 実は、あたしの体も、ほら、蛇なのね」
聞いたルネは少し吹き出す。
「うん、知ってるよ」メドゥーサから今更そんなことを言われたのがおかしかったのだろう。構わずあたしは続ける。
「そ、それでね。もし、もし、あんたさえ嫌じゃなければ、その、あの」
言え。言いなさい、早く。
「えっと、あ、あたしの、体の方で、その、あんたに、巻きついたり、とか、して、みるのも、一風変わってていいんじゃない、かしら」
間が開くのが、耐えられなくて、言葉を余計に連ねた。
ルネに伝え終わるのと、あたしが顔じゅうを襲う熱さで死んじゃうのと、どっちが先かしら……。
「ほ、ほら。いつもはその。細い蛇しか見てないでしょ? だから、たまにはさ、こういう太い体に巻かれてみるっていうのも、目先が変わって面白いかな、とか思うわけ」
そのうち、言えることもなくなって、後はうつむいてルネの言葉を待つ状況になった。一瞬が永遠にも長く感じた。
「うん。お願いしてもいい? エシェル」
答えは拍子抜けするくらいあっけなく、訪れた。
嬉しいとか、そんなこと感じる暇もないくらい、さっきよりも心臓が、ばくばく鳴りはじめていた。
「あ……ああ……、じゃ、じゃあ仕方ないわね。ちょっと待ちなさい、ま、巻いて、その、あげるから――」
「じゃあ、今日はルネくん、うちでお泊まりしていらっしゃいな。エシェルちゃんと今夜一晩、大きめのベッドがある部屋で一緒に寝ればいいのよぅ」
…………え。
キッチンの方から、いつの間に買い物から戻ってきたのか、ママの声。
「ママちょっと何言ってんのよ!! っていうかいつからそこに――」
「だって、もうすぐお夕飯だし、いつもはルネくん、もう帰る時間でしょう? お泊まりすれば、一晩中だってルネくんに巻きついていられるじゃない」
「う、や、ひと、一晩じゅう……っ、いやそうじゃなくて!」
もうすぐ夕飯って……、いつの間に、そんなに時間が経ってたのよ。
「いつもすみません、おばさま。それじゃ、ちょっと、うちの親に断ってきます」
「ああ、大丈夫よぅ? さっきルネくんのお母様と会ってきたから、お話しは付いてるわ」
「何でそういう時だけ手回しがいいのよ! ルネもなんでそんな落ち着いてんの!」
「そうと決まれば、ルネくん、お風呂もうすぐ沸くから、ごはんの前に入ってらっしゃい? エシェルちゃんはどうする? ルネくんと一緒に入る?」
「は……ば、馬鹿言わないでよ!! 入るわけないでしょ!!」
「じゃあ、すみません。お先に頂いてきます」
「お着替え新しいの、いつものところに入ってるからねぇ」
「はーい」
「え、ちょっ、ルネ、待っ――」
「ねえねえ、エシェルちゃん? あなたの勝負下着なんだけど、どっちの色にする?」
「き――きゃあああああ!!! なんでママがそれ持ってるのよ!!!」
「ふっふっふ、ママは何でもお見通しなのよぅ」
13/01/24 21:54更新 / さきたま
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