七
お正月の夢を、見たんだと思う。
普段食べられない、お餅を囲炉裏で焼いていたからだ。
夢の中にあってそれと気づかぬまま、僕は呑気に餅が焼けるのを見ていた。
少し焦げ始めた餅の香りが、食欲をそそった。
刺さるように冷たい冬の空気も、囲炉裏の周りにだけは近づけない。
炭火というものは、見ているだけで、僕を目の奥から温めてくれるようだった。
僕の隣には、やっぱりというかなんというか、祐がいて。
正月らしくいつもより色めいた着物をまとっていた。
「柿の葉一枚あれば、どんな着物もすぐできるの。きつねだから」
相変わらず、ちょっとはぐらかすような物言い。
夢の中だと、胸の底では知っているからだろうか。
僕は祐を、いつものように遠慮がちに見たりしない。
すごく綺麗、などと普段なら口にもしない、素直な言葉が出てくる。
そう言うと、祐の顔が八重桜のようにほころぶ。尻尾がくるんと回る仕草をして、僕はそんなことに喜びを覚える。
神さまなのに、僕のお姉ちゃん。
これで、少しでも日ごろの恩返しになっただろうか、などとうぬぼれたりする。
今だって、祐は自分の分なんかそっちのけで、僕の餅の焼き加減ばかり気にしている。
箸の先で、焦げた餅の表を払って。
ふうふうと吹いて。
冷まし過ぎない、それでいて焼きたての味わいを残そうと、ほんの少しだけ熱さを留める。僕の舌の好みにこの上なく合わせられるのが、いつもながら不思議でならない。
角っこにつけた醤油が落ちないように、残った片手に下から受けさせ、
「はい、あーん」。
僕の小さな恩返しを、さらに倍にして返されたような気がしつつも、それに甘えるばかり。
でも、結局は夢の中だから、僕は素直に口を開ける。
表はかりかりに焼けていたはずだが、含んだ餅は温かく柔らかかった。
……一口には、やや大きい。なかなか、餅が切れない。
「歯を立てたら駄目よ? 切れないから」祐が教えてくれる。
普通、逆じゃないのだろうかといぶかしむが、餅と戦うのに忙しい僕にはそれ以上考えが及ばない。
餅は切れるどころか、より口の中に入ってくる。
だんだん、息も苦しくなってくる。
ちょっと待って、と言おうにも、もう口はふさがってしまっている。
言われたとおり、唇だけで何とかしようとしても、うまくいかない。
「はじめは舌でようく濡らして。そしたら唇で、やさしく、挟むみたいにするの」
それができれば、こんな苦労はない。もう無理だよ、と言おうにも、口の中の餅はすでに喋る自由が利く大きさではなくなっていた。
やさしく教えてくれはするものの、祐は僕の口の中に餅をどんどん押しこんでくる。
「苦しかったら、吸ってみて? そしたらすぐ切れるわ」
いや、それじゃ喉に詰まってしまうよ。
このあたりで僕も、なんだかおかしいと思い始める。
……このままでは、餅で溺れて死んでしまう。
逃げようにも、体がうまく動かない。
必死で手足をばたばたさせようとしたところで、
僕は、夏の日の早朝へと、浮かび上がる。
死ぬ思いをしたというのに、目覚めはまどろみと分かたぬ、まるでぼんやりとしたものだった。
あの変な夢の中に、まだ体半分突っ込んでいるような、それすらも気付けぬような。
今だに、口に餅が入っているような気さえする。
……いや。
気のせい、じゃない。
本当に、僕の口の中に、何かが入っている。
やわらかいし、温かいので、餅に間違いないと、寝ぼけた頭で思った。
とりあえず、さっき教えられたとおり吸うやら舌を動かすやらして切ってみようとするが、やっぱりうまくいかない。
その時、頭の上の方で、
「……あぁ」という声がした。
ため息の末、鼻と口の両方から抜けてゆくような、聞いたこともない甘い声だった。
その声で、なにか心の奥の方が、そろりと撫でられたようにざわめき、僕はそれに引かれるように、醒めはじめる。
ぐいっと、餅が僕の顔じゅうに押しつけられた。
嫌な予感がした。のけぞるように、餅から顔をひきはがす。
僕の目の前に、「ゆさっ」と音にならないような音をさせ、僕の顔くらいあるような、まあるい餅がひとつ、いやふたつ、積み重なった。
……無理もない、こんな大きな餅ならそれは噛み切れない、と納得しかけた僕は、その時なぜか、桜の花びらを見た。それは、ふたつの餅にそれぞれ一枚ずつ付いていて、その色はとても淡い。
ああいけない、花びらごと食べようとしていたのか、……。
ん?
「…………ゆたか?」
思考が止まりかけたところへ、今度は絹糸で頬をなぶられるような、小さな声が届いた。
名を呼ばれ、ふとそちらを見やれば、祐の顔。両の目は、まだ眠りの川から上がってこられないことを訴えるように、とろんとして、閉じているやら開いているやら判然としない。
比して、僕は一気に此岸の人となる。周りのものが見えてくる。
まず、ここは囲炉裏端じゃなくて布団の上だということ。
雀の鳴き声から、今は朝の早い頃合いだということ。
目の前に、僕と向かい合って、祐が眠っている。僕たちの位置は、目と鼻よりも近い。
そして、祐は、浴衣の上が大きくはだけていた。
見まいと思って、つい下を向く。
……何日か前のお風呂で、失敗したばかりだったのに。
もうそれは、「はだけている」なんて言葉では済まない寝乱れよう。
腰の帯一本でかろうじて、浴衣が体に残って着物の務めを果たそうとしているだけだ。
眠りに身を任せきった名残の、しどけなさを醸した足腰の稜線に、寝覚めの僕の両目が、無遠慮に吸いつけられてしまう。見ちゃ駄目なのは分かっていても、おそらくはこれも、夢の名残。
それでは、つまり。僕がさっきまで、お餅と間違えて食べようと、もぐもぐやっていたのは。
「……おい、しい」
誰が聞いても寝言を疑わない、聞いただけで眠くなるような声が、祐から漏れたかと思うと、僕の頭の後ろに回っていた手が、するするその輪を縮める。
僕の口は、またその花びらごと、お餅……いいや、祐の、胸を含ませられた。
おいしいって、祐は食べてないのに、何の夢だよなんて、思ってももはや言葉にはできず。
急いで考えなければならないのは、祐を起こしたほうがいいのか、それとも状況をのみこむが早いか、あっという間に持ち主よりも早く起き上がった、僕の足の間のやつの扱い、どちらを先にするべきかということだった。
また、さっきの声が、聞いてみたいなんて、思ってしまったらいけない気がした。
普段食べられない、お餅を囲炉裏で焼いていたからだ。
夢の中にあってそれと気づかぬまま、僕は呑気に餅が焼けるのを見ていた。
少し焦げ始めた餅の香りが、食欲をそそった。
刺さるように冷たい冬の空気も、囲炉裏の周りにだけは近づけない。
炭火というものは、見ているだけで、僕を目の奥から温めてくれるようだった。
僕の隣には、やっぱりというかなんというか、祐がいて。
正月らしくいつもより色めいた着物をまとっていた。
「柿の葉一枚あれば、どんな着物もすぐできるの。きつねだから」
相変わらず、ちょっとはぐらかすような物言い。
夢の中だと、胸の底では知っているからだろうか。
僕は祐を、いつものように遠慮がちに見たりしない。
すごく綺麗、などと普段なら口にもしない、素直な言葉が出てくる。
そう言うと、祐の顔が八重桜のようにほころぶ。尻尾がくるんと回る仕草をして、僕はそんなことに喜びを覚える。
神さまなのに、僕のお姉ちゃん。
これで、少しでも日ごろの恩返しになっただろうか、などとうぬぼれたりする。
今だって、祐は自分の分なんかそっちのけで、僕の餅の焼き加減ばかり気にしている。
箸の先で、焦げた餅の表を払って。
ふうふうと吹いて。
冷まし過ぎない、それでいて焼きたての味わいを残そうと、ほんの少しだけ熱さを留める。僕の舌の好みにこの上なく合わせられるのが、いつもながら不思議でならない。
角っこにつけた醤油が落ちないように、残った片手に下から受けさせ、
「はい、あーん」。
僕の小さな恩返しを、さらに倍にして返されたような気がしつつも、それに甘えるばかり。
でも、結局は夢の中だから、僕は素直に口を開ける。
表はかりかりに焼けていたはずだが、含んだ餅は温かく柔らかかった。
……一口には、やや大きい。なかなか、餅が切れない。
「歯を立てたら駄目よ? 切れないから」祐が教えてくれる。
普通、逆じゃないのだろうかといぶかしむが、餅と戦うのに忙しい僕にはそれ以上考えが及ばない。
餅は切れるどころか、より口の中に入ってくる。
だんだん、息も苦しくなってくる。
ちょっと待って、と言おうにも、もう口はふさがってしまっている。
言われたとおり、唇だけで何とかしようとしても、うまくいかない。
「はじめは舌でようく濡らして。そしたら唇で、やさしく、挟むみたいにするの」
それができれば、こんな苦労はない。もう無理だよ、と言おうにも、口の中の餅はすでに喋る自由が利く大きさではなくなっていた。
やさしく教えてくれはするものの、祐は僕の口の中に餅をどんどん押しこんでくる。
「苦しかったら、吸ってみて? そしたらすぐ切れるわ」
いや、それじゃ喉に詰まってしまうよ。
このあたりで僕も、なんだかおかしいと思い始める。
……このままでは、餅で溺れて死んでしまう。
逃げようにも、体がうまく動かない。
必死で手足をばたばたさせようとしたところで、
僕は、夏の日の早朝へと、浮かび上がる。
死ぬ思いをしたというのに、目覚めはまどろみと分かたぬ、まるでぼんやりとしたものだった。
あの変な夢の中に、まだ体半分突っ込んでいるような、それすらも気付けぬような。
今だに、口に餅が入っているような気さえする。
……いや。
気のせい、じゃない。
本当に、僕の口の中に、何かが入っている。
やわらかいし、温かいので、餅に間違いないと、寝ぼけた頭で思った。
とりあえず、さっき教えられたとおり吸うやら舌を動かすやらして切ってみようとするが、やっぱりうまくいかない。
その時、頭の上の方で、
「……あぁ」という声がした。
ため息の末、鼻と口の両方から抜けてゆくような、聞いたこともない甘い声だった。
その声で、なにか心の奥の方が、そろりと撫でられたようにざわめき、僕はそれに引かれるように、醒めはじめる。
ぐいっと、餅が僕の顔じゅうに押しつけられた。
嫌な予感がした。のけぞるように、餅から顔をひきはがす。
僕の目の前に、「ゆさっ」と音にならないような音をさせ、僕の顔くらいあるような、まあるい餅がひとつ、いやふたつ、積み重なった。
……無理もない、こんな大きな餅ならそれは噛み切れない、と納得しかけた僕は、その時なぜか、桜の花びらを見た。それは、ふたつの餅にそれぞれ一枚ずつ付いていて、その色はとても淡い。
ああいけない、花びらごと食べようとしていたのか、……。
ん?
「…………ゆたか?」
思考が止まりかけたところへ、今度は絹糸で頬をなぶられるような、小さな声が届いた。
名を呼ばれ、ふとそちらを見やれば、祐の顔。両の目は、まだ眠りの川から上がってこられないことを訴えるように、とろんとして、閉じているやら開いているやら判然としない。
比して、僕は一気に此岸の人となる。周りのものが見えてくる。
まず、ここは囲炉裏端じゃなくて布団の上だということ。
雀の鳴き声から、今は朝の早い頃合いだということ。
目の前に、僕と向かい合って、祐が眠っている。僕たちの位置は、目と鼻よりも近い。
そして、祐は、浴衣の上が大きくはだけていた。
見まいと思って、つい下を向く。
……何日か前のお風呂で、失敗したばかりだったのに。
もうそれは、「はだけている」なんて言葉では済まない寝乱れよう。
腰の帯一本でかろうじて、浴衣が体に残って着物の務めを果たそうとしているだけだ。
眠りに身を任せきった名残の、しどけなさを醸した足腰の稜線に、寝覚めの僕の両目が、無遠慮に吸いつけられてしまう。見ちゃ駄目なのは分かっていても、おそらくはこれも、夢の名残。
それでは、つまり。僕がさっきまで、お餅と間違えて食べようと、もぐもぐやっていたのは。
「……おい、しい」
誰が聞いても寝言を疑わない、聞いただけで眠くなるような声が、祐から漏れたかと思うと、僕の頭の後ろに回っていた手が、するするその輪を縮める。
僕の口は、またその花びらごと、お餅……いいや、祐の、胸を含ませられた。
おいしいって、祐は食べてないのに、何の夢だよなんて、思ってももはや言葉にはできず。
急いで考えなければならないのは、祐を起こしたほうがいいのか、それとも状況をのみこむが早いか、あっという間に持ち主よりも早く起き上がった、僕の足の間のやつの扱い、どちらを先にするべきかということだった。
また、さっきの声が、聞いてみたいなんて、思ってしまったらいけない気がした。
13/07/05 01:19更新 / さきたま
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