読切小説
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神父と踊り子
 夕暮れの海辺にて、ぱしゃりぱしゃりと海水を跳ねながら浅瀬に舞う踊り子が一人。
 健康的な褐色の肌をさらけ出し、豊満な胸や腰まである長い青髪を揺らす。周囲に纏った不思議な乳白色の液体は、彼女の舞に合わせて自在に膨らみ、揺れ、弾ける。
 それは、彼女が人ならざるものであるが故に可能な芸当であるのだが、もし人が見ても、そんな事を気にする余裕も無いだろう。
 多少の違和感など忘れて、何も考える事無く、ただ見惚れてしまう。それほどまでに、彼女の姿は美しかった。

 時に激しく、時に緩やかに、水を跳ねる音で拍子を刻み、変幻自在に舞い踊る。
 今この瞬間、この場所においては、夕焼けは彼女のために用意された照明であり、橙色に光る凪いだ海は、彼女のための舞台であった。

 そうして、どれほどの時間踊り続けていただろうか。
 おもむろに足を止めた踊り子は、玉の汗を浮かべた体で海風を受け止め、気持ち良さそうに大きく息を吸い込んだ。
 そして、くるりと振り返ると、どこか嬉しそうに微笑みながら、岩陰に向かって呼びかけた。

「何か、ご用ですか?」

 呼びかけられた、岩陰に隠れていた者――まだ年若い神父は、踊り子の姿を決して見ないように背を向けたまま、申し訳無さそうに答えた。

「すみません、邪魔をするつもりはなかったのですが……」
「そんな、いつでも声をかけてくださってよかったのですよ?私も、そろそろ休憩しようと思っていましたし」

 踊り子はそう言いながらも、疲れなど微塵も感じさせない足取りで、神父の隠れている方とは反対側の岩陰に背を預ける。
 満潮時には海に沈んでしまう位置にある岩は、長い時をかけて波に削られ続けたために、滑らかで冷たい。踊り続けて火照った体にはその冷たさが心地良く、思わず身を震わせた。

 開放的に振舞う踊り子とは対照的に、緊張した面持ちの神父は、自分の胸元を手で押さえながら一言一句を確かめるように紡ぐ。

「実は、『近々結婚式を上げようと思っている』と、町の恋人たちが教会に相談に来たんです。ああ、もちろんエロス様の信者の方で……」
「その式で祝福の踊りを、と言う事ですね?」
「……ええ。その通りです」

 予定していた回りくどい説明等があっさりと省かれてしまったために、一瞬会話の調子が狂い掛けたが、神父はすぐさま頷いて肯定した。

 この踊り子――アプサラスと呼ばれる魔物である彼女たちは、愛の女神エロスに生み出されたものであり、女神に仕える巫女と呼んでも差し支えない。そのため、結婚式を含む様々な祭祀において、神聖な舞を披露するためにこうして呼ばれるのである。

 神父は、海から少し離れた位置に建つ、愛の女神エロスを祀る教会を眺めながら続ける。

「まだ詳細は決まっていないのですが、とりあえず連絡をと思いまして」
「エロス様に生み出された私たちにとって、恋人達を祝福し、夫婦として結ぶ事は大事な役目です。たとえ今すぐ踊れと言われても、喜んで踊りましょう」
「ありがとうございます。では、予定が決まりましたら、また……」

 余所余所しく礼を言って、早々に立ち去ろうとした神父の腕を、いつの間にか岩を回り込んでいた踊り子の手が掴んでいた。
 抵抗もできないほどに完全に固まった神父を見るその目は、どこか不安げだった。

「あの……」
「神父様は、いつも私の方を見ずにお話をされますが……」
「……はい」
「私の事が、お嫌いなのですか?」
「そんな事はっ!」

 叫びながら慌てて振り向いた神父だったが、一糸纏わぬ姿の踊り子を見るなり顔を赤らめ、またもや目を逸らしてしまった。

「無い……です……」

 そのまま、消え入りそうな声で否定した。

「では、どうしていつも私から目を逸らされるのですか?」
「……それは、その」
「私は、神父様がエロス様を信仰する修道士となり、初めてここを訪れた時の事を今でもはっきりと覚えています。その澄んだ瞳で私を見つめてくださった時の事を。私は、あの時から神父様の事をずっと……」
「……とにかく、式の時にはお願いします!それじゃあ、また来ますので!」

 踊り子の悲痛さすら含んだ疑問の声に耐えかねたように、神父は手を振り払って逃げ出した。
 薄手の修道服を翻して走り去っていく姿を見ながら、踊り子は振り払われてしまった手を握り、もう一方の手でその手を包んだ。抜け出してしまった温もりを確かめるように。

 嫌いでは無いと言われても、あの振る舞いは好きな相手にするものではない。やはり、何か嫌われるような事をしてしまったのだろうか。
 一瞬だが、踊り子の脳裏に不安がよぎる。そして、それは情熱的な彼女らしからぬ、憂いを含んだため息となって流れ出た。

「いっそ、もっと強引に……?」

 しかし、そのため息も海風に浚われてしまうと、似合わない不安などどこにも無い前向きな思案が入れ替わりに始まっていた。




 大多数の人や魔物にとって、結婚式とは生涯で一度きりの重要な行事である。
 特に、あらゆる愛を尊いものとするエロス神の信者たちは、愛の象徴とも言える結婚式は非常に大切にしており、大々的に行われる事を好む。
 それは単に、夫婦となる二人が「私たちは今日結ばれて、今よりも幸せになります」という事を伝えるためだけではなく、「既に結ばれている人たちは、より幸せに。まだ恋や愛を知らない人は、この機会に」と、他者の愛を繋ぎ強める場としても、式が重要な役割を果たすためである。

 そして、女神様に見守ってもらい、その祝福を恋人たちにもたらすために、神に仕える司祭、修道士たちは結婚式に尽力しなければならない。
 当然、事前の準備や各方面への協力要請も大事な仕事の一部なのだが。

「……駄目だ」

 修道院の一室で、若い神父は机に突っ伏して呟いた。式について新郎新婦と話し合った時のメモを確認していたはずなのに、すっかり思考が逸れてしまっている。
 体中に熱が回ってしまっている。あの美しい踊り子の姿が脳裏に焼きついて離れない。
 無論、異性を恋い慕ってしまい仕方ないような状態も、エロス神の信者たちにとっては奨励されるような状態であるのだが、生真面目な神父は、今の自分がそうなっている事を素直には喜べなかった。

 嫌い?そんなはず無い。むしろ、手を握り返して「一目見たときからずっとあなたの虜です」と叫びたかったくらいだ。
 しかし、今はまだ駄目なのだ。修道士として、司祭として、教えを広める役目がある。
 修道院に入ったばかりの頃から、未熟な私を導いてくれた先生は、私が十分に司祭の仕事をこなせるようになり、神父と呼ばれるようになった事で、安心して妻との生活に専念できるようになったと言っていた。ならば、その期待に応えねばなるまい。

 責任感と情愛の間でしかめっ面になりながら、神父は頭を振って強引に意識を切り替える。

 今回契りを交わす二人は、人間の詩人とセイレーンの歌姫。多くのセイレーンがそうであるように、此度の花嫁も「静かな式より、皆で楽しく騒げる方がいい!」らしいので、それを踏まえて案を練る。
 酒や食事も十分に用意し、楽隊も招く。少々大変だが、結婚式だと言われて協力を拒むような人は、この街にはいない。
 半ば町ぐるみのお祭のようになる気もするが、それでもいいだろう。おめでたい場なのだ。粛々と進めるよりも、皆が楽しめる方がいい。
 自分の結婚式も、友人家族をたくさん招き、皆に楽しんでもらいたい。その中で祝福の言葉を投げかけてもらえたら、とても幸せだろう。
 その時に隣に立っている彼女が望むのならば、私も慣れぬ踊りを披露しようか。手を取り合って踊ると言うのは、きっと。

「……そうではなく」

 今は自分の事を考えている場合ではない。それに、ちゃんと想いを確かめ合ったわけでもないのに結婚の情景まで妄想しているとは、失礼ではないか。

 手に持っていた羽ペンを机に放り、神父は頭を抱える。

 こんなにも心を乱す、あの踊り子と出会った時の事は今でもはっきりと思いだせる。

 修道院に入ったばかりの頃。「女神エロスの巫女」への挨拶をするために、一人であの浜辺へと向かわされた。
 そこで、その姿を初めて見た時、彼女はまだ子どもだった。体つきも発達途中で、髪も今ほど長くなかった。それでも、乳白色の液体を操りながら舞い踊るその姿はとても美しく、私はすっかり見惚れていた。
 そして、私に気付くと、子どもらしい無邪気さで駆け寄ってきて、年の頃も近いという事もあり、とても親しげに握手を求めてきた。
 私は、相手は巫女であり、自分のような者が本当に触れて良いのかという不安により手を出しあぐねていたが、彼女は極自然な動作で、しかし少々強引に私の手を取った。
 そうして、すっかり戸惑ってしまっていた私に、彼女は陽射しよりもずっと眩しい笑顔で、
「これから、一緒に頑張りましょうね」
 と言ったのだ。

 思い返せば、あの瞬間に、完全に心を奪われてしまったのだろう。
 それ以来、暇を見つけてはあの浜辺を訪れて、彼女に会っていた。自分の仕事を忘れて、日がな一日その姿を見つめている事すらあった。
 しかし、ある時、それでは自分の役割を果たせないと気付いた。

 禁欲など、愛の女神の教えには無い。それでも、自らにある種の禁欲を課した。
 祭祀における舞の奉納等の依頼以外では、極力彼女には会わないようにする。会ったとしても、目を逸らし、事務的な話だけで済ませる。
 あくまでも、自分は修道士であり、司祭としての仕事を優先すべきだと、自分を律した。

 それでも、会うたびに彼女は女性らしく、これ以上は無いだろうと思っていた以上に魅力的になり続ける。今日だって、以前見た時よりも綺麗に、艶かしくなっていた。
 その上、隠す気など欠片も無いと、こちらへの好意やその肢体をさらけ出してくる。
 自分の行いが馬鹿馬鹿しくなってくるほどに素直な感情をぶつけられ続け、こちらも、それにはっきりと答えたくなってしまっている。

「……よし」

 羽ペンを取り、何かを決意したように神父は頷いた。
 それぞれに個室の与えられる修道院であるため、その決意を誰かが見ているような事は無かったが、その表情には、懊悩は感じられなかった。




 その日、灼熱の陽射しに照らされた砂浜には、愛の女神エロスを象った像を置いた、簡素な祭壇が構えられていた。その前にはご馳走の乗ったテーブルや、よく冷えた果実酒が並び、数え切れないほどの人々が集まっていた。
 遠くに見える教会では、大きな鐘が打ち鳴らされ、海にも陸にも遠く祝福の音を響かせている。
 結局、町一つを巻き込んでのものとなった結婚式は、新郎新婦が町中を抜けて浜辺に作られた式場に来る所から始められることとなっていた。

 更衣室兼待機所として貸し出されていた、教会近くの宿屋の前には、これまたたくさんの人たちが集まり、主役が顔を出すのを今か今かと待っている。
 やがて、予定より少々遅れて、純白の花嫁衣裳に身を包んだセイレーンが、緊張で硬くなっている花婿に抱えられながら姿を現した。

「ごめんね、お待たせ!」

 翼を大きく振りながら、よく通る声で花嫁がそう言うと同時に、参列者たちはわっと沸いた。二人が式場へ向かう後を追いながら、口々に祝福の言葉を投げかける。
 凱旋パレードもかくやといった様子で花弁が舞い散らされる中を、浜辺の式場へと新郎新婦はゆっくりと歩いていく。

 暑苦しい儀礼服を早々に脱いで軽装になった若い神父も、砂浜に用意された急ごしらえの祭壇で、新たに夫婦となる二人を待つ。
 やがて、ぞろぞろとたくさんの人を引き連れて式場までやって来た二人が、そこで待っていた人々に拍手で迎えられ、祭壇の前で並んで立ち止まった。
 愛の女神への祈りを小さく捧げてから、神父は新郎新婦へと向き直り、教典を手に式を進める。

「まずは、この良き日に夫婦となる二人に、私から祝いの言葉を……おめでとうございます」

 軽く頭を下げた神父に、花嫁と花婿も神妙に頭を下げる。
 続けざまに短い挨拶の口上を述べてから教典を開くと、参列者を含め全員と共に、女神エロスへの祈りを捧げる。
 そして、一度間を置いてから、新郎新婦の目をしっかりと見て、続けた。

「それでは、両名は誓いの言葉を。愛の女神エロス様へ、そして夫婦となる互いへ」

 並び、正面を向いていた新郎新婦が、一歩離れ、互いに向き直る。
 見慣れない正装をしたお互いの姿に特別な胸の高鳴りを感じながら、二人は申し合わせたように目を閉じ、深呼吸をした。
 そして、先に花嫁の方が胸に手を当てて、真剣な面持ちで口を開いた。

「私は、愛の女神エロス様の名の下に、我が夫となる者への……えっと……」

 誓いの言葉の内容は、あらかじめ決められている。何度も暗誦できるように練習もした。
 したのだが、どう見ても雲行きが怪しかった。何てことは無い所で詰まり、翼で口元を隠して何事かを考える仕草を見せている。

「……大好きな旦那様と一緒に、一生幸せに暮らして、旦那様のために一生愛の歌を歌い続ける事を誓います!」

 しかし、そこは思い切りの良いセイレーンという種族だけあって、事前に決めてあった格式ばった誓いの言葉など忘れてしまったと投げ捨てる事にも躊躇いは無かった。
 厳格さなどどこにも無い、自分に正直すぎる誓いを晴れ空の下で高らかに叫んだ花嫁に、参列者からは割れんばかりの拍手が飛ぶ。
 神父もまた満足げに頷き、明らかに戸惑っている花婿へ「さあ、誓いの言葉を」と微笑む。

「えっ……で、では……」

 こちらもまた口元を手で隠し、しばし考える仕草を見せた花婿に、静まり返った参列者達の視線が集まる。事前に考えていた言葉をそのまま言えるような空気では無い。
 やがて、花婿は緊張に唇を震わせながらも、覚悟を決めたように大きく息を吸い込んだ。

「……私は、愛の女神エロス様の名の下に……愛する伴侶と永久の幸福を分かち合い、彼女のために愛の詩を紡ぎ続ける事を誓います!」

 不安など欠片も感じさせない言葉に、これまた参列者達から賞賛の言葉が飛んだ。
 言い切ってから恥ずかしさが押し寄せてしまい思わず顔を覆った花婿に対し、花嫁が抱きついて大喜びするという光景に、拍手の音は一層高まった。
 やがて、二人がある程度落ち着きを取り戻した所で、式の進行が再開された。
 神父が咳払いを一つすると同時に、その顔からは穏やかな笑みが消え、真剣な表情へと切り替わる。

 喧騒が止み、一転して波の音と海鳥の声だけが聞こえるようになった浜辺に、神父の落ち着いた低い声が響く。

「では、誓いの口付けを……」

 神父がそう言い終えるよりも早く、花嫁は再度花婿へ飛びつき、首に手を回して情熱的なキスをしていた。
 目を白黒させながらも、花婿はそれに応え、唇を重ねたまま花嫁を抱き上げる。
 途端に「おめでとう!」「見せ付けてくれるな!」という言葉が、拍手喝采に混ざってあちこちから発された。
 祝福の言葉の中、これでもかと言わんばかりに長く熱いキスを終えた二人は、心底嬉しそうな笑顔で、参列者に向かって手を振りながら、お礼を、そして、喜びを叫び伝える。
 早々に、式場の盛り上がりは最高潮に達しようとしていた。それこそ、半端な声などかき消されてしまうほどに。

 まだいくらか予定は残っていたが、無理に進めようとして水を差すのも好ましくない。
 そう判断した神父は、どこか満足そうにため息を付いて、新郎新婦へと目配せし、頷いた。
 それを受け、新婦は新郎に抱きかかえられたまま、足をばたつかせて翼を振る。

「堅苦しいのはおしまい!みんな、飲め、歌え、踊れぇい!」

 その言葉が、大宴会の始まりの合図となった。
 特に親しい者も、そうでない者も、酒や食い物を手に大声で祝いの言葉を繰り返し、素人だろうと気にする事無く、歌い、奏で、踊る。
 式の主役は、あちらこちらから引っ張られると、あっという間に人波に飲まれ、もみくちゃにされてしまった。

 こうなってしまえば、教会側がやる事は無い。無秩序にも見えるが、彼らにも節度を守って楽しむ理性はある。後は、彼らが楽しむままに任せて見守っていればいい。
 あの中に混ざるのも楽しそうだが、酒が回って足元がおぼつかなくなっては困る。
 一先ずの役目が終わって岩場に腰掛けた神父は、穏やかな表情でお祭り騒ぎを眺めはじめた。

「お疲れですか?」

 そんな神父の隣に腰掛けた踊り子は、果実酒の入ったコップを神父に手渡して、首を傾げた。
 以前浜辺で踊っていた時とは違い、白い薄手のローブを纏っているため、ほとんど露出は無い。いっそ地味な格好ですらあるが、それでも、彼女の美しさを損なうような事は無かった。

「結婚式は特に大事なものですから。どうしても緊張しますし、疲れますよ」

 緊張と暑さで乾いた喉を果実酒で潤してから、神父は答えた。
 冷たさと酸味が渇いた体に染み込むようで、その刺激に思わずため息をつく。
 そして、いくらか冷えた頭で、自分の発言があまり褒められた物ではなかったと気付くと、首を横に振った。

「……いえ、弱音を吐いてはいけませんね。失礼しました」
「いいんですよ、弱音を吐くくらい。一人で頑張るなんて、誰にも出来ることでは無いのですから」
「……そうかもしれませんね」

 だけど、という言葉は飲み込み、同意を示す。「あなたにこそ、弱音を見せずに格好付けていたいのだ」とは、言ってしまっては意味が無い。

 二人の間に僅かな沈黙が流れたのに呼応するように、思い思いに奏でられていた少々拍子の外れた歌が止まった。
 この日のために、遠く山間の町から来てくれた魔物の楽隊が弦楽器を掻き鳴らし、その音に皆の視線が集まる。
 高らかに、女神への感謝と結ばれる二人への祝福の言葉を述べてから、それぞれが手にした楽器による合奏が始まった。黄金色の翼を持つ彼女達の奏でる曲は、否応無しに人の心を揺さぶり、秘めた熱意を露わにさせるようだった。
 ある者は笛を吹き、ある者は弦を弾く。そして、奏でられる曲の中で、誰も彼もが手を取り合い楽しげに踊る。
 当然、その中には新郎新婦の姿もあった。
 人々の中心で、楽器の音を捉えたセイレーンが、踊りながら即興で歌い出す。求められるままに、詩人もその歌へと語りで返す。それは、まるで一つの演劇が始まったかのようだった。

「幸せそうですね」
「ええ。とても」

 神父と踊り子は並んで座ったまま、即興の演劇に時に笑い、時に感嘆の声を漏らした。

 そして、魔物の歌い奏でる歌曲は、ゆっくりと、しかし確実にその場の空気を変えていった。
 賑やかに祝うばかりのお祭りではなく、恋人達を引き合わせる、情愛に満ちる世界へと。

「……以前、巫女様は『私の事が嫌いですか』と聞かれましたね」
「……はい」
「改めて言いますが、私はあなたの事が嫌いなのではありません。むしろ……一目見たときから、ずっと好意を抱いています」

 器楽の音が調子を変え、緩やかなものへと徐々に変化していく。
 煽り立てられ燃え上がった熱情を留めるための曲が、浜辺に響き渡る。

「では、私と同じなんですね?」
「ええ。同じです」

 誤魔化すような言葉は何一つ入れずに、神父は踊り子の質問に答える。
 たった一杯の果実酒で酔うはずも無いが、二人はまるであどけない子どものように頬を紅潮させていた。

「では、どうしてこちらを見てくださらなかったのですか?」
「……下らぬ意地だと笑われるかもしれません。ただ、巫女様を見てしまうと、私は冷静ではいられなくなってしまうのです。その美しさを間近で感じると、獣のような欲望に狂ってしまいそうになるのです」
「まあ……」

 恥ずかしそうに、かつ嬉しそうに、両頬を押さえて踊り子は微笑んだ。

「たとえ神父様が獣のように私を求められたとしても……いえ、むしろ本能のままに私を求めてくださるなら、喜んでこの体を捧げましたのに」
「……そう言われましても、せめて、最初の一回だけでも、人としてあなたを愛し、恋人として振舞いたかったのです」
「それならそうと、もっと早く言ってくだされば……」
「そうですね。私も、今となってはそう思います」

 ふと、楽器の音が、いくつか減っている事に気が付いた。それだけでなく、式に訪れていた人々も減っている。
 どうやら、音楽につられて気分が高まったままに、二人だけの世界へと行ってしまったらしい。今日は、町中の宿屋が繁盛することだろう。
 そんな事を思いながら、神父は深呼吸をして、意を決したように言った。

「今日、式の全てを……祝福の踊りも終えた後、あなたにお話があります」
「それは、良いお話ですか?」
「きっと、良いお話です」
「私が、ずっと待っていたお話ですか?」
「私が、ずっとしたかったお話です」

 おかしな掛け合いに、神父と踊り子はどちらからともなく笑っていた。
 それだけでも、十分だった。ぎこちないすれ違いがようやく終わった事に、二人とも安堵し、互いの目を見つめあい、手を繋ぐ。

 人や魔物であふれていたはずの浜辺は、いつの間にか少々寂しげなほどに閑散としてしまっていた。
 残っているのも、互いに見つめあい、口付けを交わし、今にも交わりそうな恋人達だけ。
 楽器を奏していた魔物たちも、お相手を見つけたのだろう。いまや、浜辺に響くのは波の音ばかりだった。

「……そろそろ、始めましょうか」

 遠く、水平線に沈んでいく太陽を見ながら神父が呟いた。
 人は減ったが、結婚式はまだ終わりではない。これから夫婦として暮らしていく二人のための、最後の儀式が残っている。

「やはり、緊張しますか?」

 何も言わずに海の向こうを見つめている踊り子に、神父は尋ねた。
 その問いかけに、踊り子は振り向き、翡翠色の目で神父を見つめながら答える。

「大事な式ですから、何度やっても緊張します……ですよ」
「なるほど」

 意図せぬ答えに、神父は笑った。

「でも……」

 そう呟くと、ふわりと甘い香りを漂わせながら踊り子は立ち上がった。
 くるりと回り、神父の正面に立つ。薄いローブの下に隠れた体の影が、夕暮れの陽光に透けてうっすらと浮かび上がる。
 その光景に見惚れ、神父は言葉も無く、ただ見上げる事しかできなかった。
 そして、踊り子は腰を曲げて屈むと、そんな神父の両頬に手を添えて、そっと唇を重ねた。

 それは、ほんの一瞬。寄せた波が引くまでの間も無い、短い口付けだった。

「これで、大丈夫です」

 離れ際に神父の耳元でそう囁いて、妖艶な笑みを浮かべた踊り子は自分の唇に指先で触れた。
 呆然として目を丸めたままの神父に、ローブの裾を翻して背を向けて、軽やかな足取りで、いつの間にかやってきていた仲間達のもとへ向かう。
 途中、踊り子の着ていたローブの表面が波打ったかと思うと、それはぱしゃりと音を立てて崩れ、いつも彼女の周囲を漂っている乳白色の液体へと戻った。
 最低限の部位だけを隠す薄布に、手や足に輝く金属製の飾りを付けた、儀礼用の衣装へと早変わりした踊り子は、一度だけ神父の方をちらりと振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。

「……あぁ」

 完全に、やられてしまった。
 約束をして、主導権を握ったつもりだったのに。熱に浮かされた頭で、ちゃんと司祭としての仕事が出来るだろうか。たとえ自分の仕事をできても、少なくとも彼女が踊り終えるまでは、こんな気持ちを我慢していなければならない。
 本当に、最高の瞬間に、最高の誘惑をしてくれたものだ。

 神父はふらふらと立ち上がり、祭壇へ向かう途中、果実酒を冷やすために用意されていた氷水で顔を洗った。
 体は少しだけ冷えたが、心に燻り始めた熱は、どうしようもなかった。

 せめて、定型句だけでも問題無く並べなければ。
 そう思いながらも、神父は踊り子の姿を無意識に目で追っていた。
 そして、踊り子はと言うと、そんな神父の姿に「してやったり」とでも言わんばかりに、嬉しそうに笑っていた。


…………


「どうでしょう、おかしくないですか?」
「いや、良く似合っているよ。いつも黒い修道服姿だから、白い服を着ているのは中々新鮮だがね」

 教会近くの宿屋の一室にて、神父は真っ白な正装を着た自分の姿を鏡で確かめていた。
 そわそわと落ち着かず、何度も襟を正している神父に、椅子に深く腰掛けていた壮年の男性が苦笑する。

「少しは落ち着いたらどうだね。そんな調子では、教会へ向かう途中で転んでしまうよ?」
「そうは言われましても……」

 神父ほどではないが、簡易な正装をしている壮年の男性――若い神父を導いてきた先生は、いよいよ堪えられなくなったとばかりに声を上げて笑った。

「まったく、緊張に弱いのはいつまで経っても変わらないな」
「お恥ずかしい限りです……」

 とりあえず椅子に座ったものの、やはり落ち着かずに指先でテーブルを叩き続ける神父に、先生は一転して真剣な表情になり、神父の目を見た。

「……私たちは、エロス様を信仰し、その教えを広める者です」
「……はい」

 口調も変わり、神に仕える者として語り始めた事を察し、神父は背筋を伸ばして頷いた。

「文字や声だけでなく、時には自らの姿をもって愛の素晴らしさを教えるのも、必要になります。だから、私たち神父こそ、誰よりも深く愛を知り、幸福で無くてはなりません」
「…………はい」
「伴侶を持ち、幸福に暮らすこと……それこそが、我々のすべき事なのですよ」
「……肝に銘じます」

 神妙に頷いた神父に、先生は満足そうに笑い、立ち上がった。
 ちょうど、部屋の扉が叩かれ、花嫁側の準備が終わった事が告げられる。

「さあ、行ってきなさい」
「はい」
「ああ、それと……」

 咳払いをしてから、先生は優しげな笑みを浮かべ、言った。

「……結婚、おめでとう」
「……はい。ありがとうございます」

 神父は深々と頭を下げ、様々な感情を込めた感謝の言葉を口にした。
 そして、もう一度だけ鏡を見てから、扉を開けて部屋を出る。

 一足先に宿の出入り口前で待っていた、花嫁衣裳に身を包んだ踊り子の姿に、神父は思わず息を呑んだ。
 そして、頭を振って、いくつもの言葉を考えた末に、

「……綺麗です、本当に」
「ありがとうございます。神父様……いえ、あなたも、かっこいいですよ」

 飾らない、単純な褒め言葉だけを交わした。

 清楚で、しかしどこか妖艶で美しい褐色の花嫁は、可憐に微笑むと、神父に向かってそっと掌を上にして手を差し出した。
 何も言わず、神父はその手を取る。
 そして、花嫁はぐいと神父を引き寄せると、腕を絡めて、肩に頭を乗せた。
 突き放す事など当然出来るはずも無く、神父はやんわりと、とても嬉しそうな表情の花嫁に尋ねた。

「……少し、歩きづらくは無いですか?」
「じゃあ、ゆっくり、時間をかけて歩きましょう」
「……そうしましょうか」

 すぐには歩き出さず、二人はその状態で、しばらく互いの熱だけを感じていた。
 やがて、教会の鐘の音が聞こえ始めた所で、見つめあい、頷いた。

「行きましょうか」
「ええ。行きましょう」

 宿屋の扉が開かれ、熱い陽射しが二人を照らす。教会へ至るまでの道に集まった人々が、一斉に歓声を上げる。
 この日、新たに夫婦となる二人。その二人は、祝福の言葉をいっぱいに浴びながら、晴れ空の下へと、共に一歩踏み出した。
16/06/07 19:39更新 / みなと

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