虫と畑
虫によく食われる野菜は、それだけ美味いということだ。
顔なじみの商人の口癖を思い出し、男は頭を掻いた。
与えられた農地は人里から離れているものの、ひとり黙々と畑仕事をするのは性に合っており、さほど苦には感じない。こんな広い畑を一人で耕しているのか、と驚かれることはあるが、そうしなければ時間を持て余してしまうという事情もある。
採れる野菜は種類も量も多い。虫食いのある野菜を取り除いても、土地の持ち主に納め、自分で食い、それでもなお冬への備えを作れる程度には余る。
だから、問題はない。多少は虫にやってもいい。一寸の虫にも五分の魂。あいつらも生きているのだ。小さいものたちへの施しであると考えれば、気分もいいではないか。
そう思っていた。
施しと言うには随分多くの野菜を、一晩のうちに食われてしまうまでは。
「……虫?いや、獣の仕業か?これは」
呟いて、ぽとりぽとりと短く落ちているキュウリの食残しを見つめる。虫が食うというのは、もっと小さく穴が空くものだ。これはまるで、大きな獣が食らいついたか、人間が手づかみで齧りついていったようではないか。
暇つぶしに立てたかかしが役立ってくれていたのか、今まで獣が畑に来たことはなかった。畑を柵で囲っていなかったのも、そのためだ。しかし、これほどの被害を出すものが来るというのであれば話は別。
面倒だが、木材を買うか木を伐るかして、柵を立てねばならんだろうか。
木こりではない男は、立木に向かって握り慣れない斧を振らなければいけないことを考え、辟易する。
つぎに町に出たとき、獣除けについて尋ねてみようか。そうだ、まずはそれがいい。
眼前の面倒ごとから避ける手段にたどり着くと、今度はひとり頷いた。
とりあえず目を背けることに成功したものを除けば、今すべきことは、食い荒らされた野菜の片付けである。
「そんなに美味かったか。俺の野菜は」
独り言をこぼす男の表情は苦々しい。
今朝収穫するつもりだったキュウリとナスは半分ほどが食われてしまった。近くの村へ持っていけば糠に漬けてくれる。すっかり柔らかくなるまで深く漬けられたぬか漬けは、それだけでいくらでも飯が食えるほどだが、今年はそれもいくらか少なくなってしまうだろう。
幸か不幸か、食われたのは既に大きく生っていた野菜だけ。まだ小さなナスやキュウリ、葉の伸びていないダイコンなどは手を付けられていない。
食い残されたナスを拾って、まじまじと見つめる。ヘタの近くを残し豪快にかぶりついた痕がある。ナスなどそのまま食うものではないだろうに、そんなに腹が減っていたのか。
「……埋めるか」
散らかしておくわけにもいかない。食い残しでも拾い集めて埋めておけば、多少は土の栄養になるかもしれない。
落胆を単純な作業で塗りつぶすように、男は納屋へ向かう。戸もまともに閉まらないほど建付けの悪い粗末な小屋で、中もろくなものは入っていない。クワやスキなどを置いているだけで、がらんとしている。
その、がらんとした小屋に、それはいた。
「なんだ、こいつは」
緑色の柔らかそうな胴は鳥の目に似た模様があり、足のような突起もいくつか並んでいる。
知っている限りで最も近い生き物は、青虫。しかし、明らかに青虫ではない。
頭にあるのは人の髪に似た緑の毛と、橙色の突起。
すぴすぴと間の抜けた寝息を立てて眠っているその顔は、人間のそれと同じである。
人に近く、また、人でないものに近い。そういった生き物。虫でも獣でも人でもなければ、つまりは。
「……妖怪か」
見たことがないわけではない。
町に行けば人と暮らす妖怪の姿もそれなりに見られる。腰から下が蜘蛛の女や、体が布でできているような娘もいるのだ。青虫の妖怪がいてもおかしくはない。
幸い、こちらに敵意はないらしい。単に起きる気配がないと言うべきかもしれないが。
男は寝ている妖怪を跨いで通り、壁に立てかけていたクワと床に転がっていたカゴを担いで納屋を出た。
畑に落ちている野菜のクズをカゴに放り込み、片隅に穴を掘る。
野菜クズを穴に落としたら、土を被せる。
さて、クワを片付けたら、今度は水やりを――。
しかし、振り向いた男は、そこで固まった。
動いていた。青虫の妖怪が。
我が物顔でずるずると畑を這い、短い手で器用にダイコンの葉に触れ、吟味している。好みに合わないのか、隣の畝で青々と伸びたネギには目もくれてない。
「……いやいや、待て、待て」
我に返った男は、慌てて妖怪に駆け寄った。持っていたクワを取り落としてぱたんと畑に倒れたが、構ってはいられなかった。
「こら、何をしているんだ」
明らかに厳しく叱る声色だったが、その青虫は驚きもせず、のそのそと胴の半分ほどを持ち上げて男に顔を向ける。
「おいしいの、どれかなって」
そして、まったく悪びれずに言った。
あまりにも当然のことのように言われて、男も面食らう。
確かに、顔立ちはひどく幼く、善悪もわからない子どものようである。眠たげに見える目はのんびりとしており、叱られたということすらわかってないのかもしれない。
しかし、それでも。
「ここは俺の畑なんだ。勝手に食わんでくれ」
「でも、おいしかったから」
「……いや、そうであってもだな、あんまり食われると困るのだ」
無邪気な子どもに「おいしい」と言われると、悪い気はしない。
段々と毒気が抜かれてしまっていることを自覚しながらも、男はどうにかしようと頭を掻いて考える。
「……あんまり食われると、俺の分がなくなってしまうだろう」
「そうなの?」
「そうだ」
「そうかあ」
言いながら、妖怪はダイコンに伸ばしていた手を引っ込めて、頭上の触覚をうねうねとうごめかせた。
「じゃあ、ちょっとだけなら食べてもいい?」
そう言った妖怪の表情は、やはり悪びれていない。
たくさん食べられると困るなら、ちょっとだけ。とても単純な話をしている。
「……つまり、腹が減っているのか、お前は」
シワの寄った眉間を指で押さえ、男は尋ねる。
頷いて「うん」と答えた妖怪は、清々しいほどに平然としていた。
「よしわかった。では、少し待て……食うなよ、野菜は」
「ちょっとも?」
「ちょっともだ」
「ちょっともかあ」と言いながらも、妖怪の視線は眼の前のダイコンから離れない。
この様子では、我慢もそう長くは続かないだろう。草鞋で土を跳ねながら家に駆け込んだ男は、なにか食わせてもいいものは、と台所を見回す。
なにぶん、男一人の暮らしである。汁物も作らずに米と漬物で済ませることがほとんど。虫にやるものなど探したところで、自分で食うつもりだった形の悪い野菜程度しか見つからない。
仕方なく、男は桶で水にさらしていたキュウリを三本だけ持って畑に戻った。
「ほら、こっちにしろ」
男が差し出した、円を描かんばかりに曲がったキュウリを、妖怪はまじまじと眺める。生意気にもじっくり吟味をして、ようやく短い手で受け取ると、礼も言わずにぱきりと音を立てて食い折った。
もしゃもしゃと、手元のキュウリを見つめながら味わう。ごくりと、飲み込む。そしてまた、ぱきりと食う。
一本食い終われば、男はまた差し出し、妖怪が受け取り、また食う。そんな繰り返しが、無言のうちに三本分。
時間ばかりをかけてキュウリを食った妖怪は、「うん」とだけ言うと、視線をすぐそばにある青々と葉を伸ばすダイコンへと戻した。
「……いや待て。なぜそっちを向く」
「え……まだ、お腹へってるから」
「……なるほど」
ひどく低い声で言って、男は食い残しを埋めた跡を見る。
間違いない。一晩で畑の野菜を大量に食ったのは、この妖怪である。
たまったものではない。このままでは商売上がったり。いや下手をすれば本当に俺が食う分すら残らなくなる。
ため息をひとつ付いてから、男はしばし考えて、家の裏手にある林を指差した。鬱蒼としており、昼でも薄暗い。いくらか獣も住んでいるようだが、まさか妖怪が獣に追い出されるようなことはないだろう。
「……あちらに、林があるだろう。見えるな?」
「うん」
「あそこには、食える草や果実がある」
「知ってる」
「だから畑ではなくあちらの林に……何?」
「あっちの草よりも、こっちのほうがおいしい」
「……そうか」
また、男は考える。つまり、こいつは腹いっぱい食いたいし、美味いものが食いたいのだ。
なるほど気持ちはわかる。わかるが、それを叶えてやるわけにはいかない。こちらも命がかかっている。
「……ここの野菜は、俺が作っている」
「うん」
「つまり、俺がいなくなればここの野菜も無くなる」
「いなくなるの?」
「このまま、お前が好き放題野菜を食えばな」
「うーん……」
ようやく、妖怪は悩むような仕草を見せた。腕を組む……には短いため、胸の前で合わせるようにして、頭の上ではせわしなく触覚を動かしている。
その様子を見ながら、もう少しだ、と男は続ける。
「だから、妥協案と行かんか」
「だきょう?」
「……俺とお前のやりたいことを、半分ずつ我慢するということだ」
「ええー」
「ここの野菜が食えなくなるのは困るだろう」
「うん」
うなずいてくれてはいるが、わかっているのかいないのか。
頭を掻きながら、男は「つまりな」ともう一度林を指さした。
「普段は、あちらの草や木の実なんかを食ってくれ。そのかわり、日に一度は、俺が食わせてもいいと思った分だけの野菜を届けてやる」
「……うーん」
「腹いっぱい食える。そして、美味い野菜も多少は食える。悪くはないだろう?」
「うーん……そうかも……?」
「そうかも」と妖怪はもう一度繰り返す。今度は、何かしらに納得したような言い方だった。
「じゃあ、今日の分もらうね」
「いやいや、待て。さっきのキュウリだろう、今日の分は」
「ええー」
ダイコンの葉に手を伸ばそうとした妖怪を、男は慌てて止める。
これは、中々の面倒を背負い込んだかもしれんぞ。
ぐにょんとした感触の妖怪の手をひっつかんで林へと引っ張りながら、男はまた、眉間にシワを寄せていた。
…………
大陸には、ジパングのそれとは比べ物にならないほど多種多様な人ならざるものたちがいるらしい。
町の貸本屋で読んだ大陸の魔物図鑑――あちらでは妖怪を魔物と呼ぶそうだ――を思い返しながら、男は地面にかがみ込む。
眼の前では、朝も早くから野菜を要求しに来た芋虫のような「魔物」が、丸々としたチシャをもしゃもしゃ音を立てながら喰らっている。かたわらには、空っぽのザルがひとつ。男が町に行って家を空けるために、二日分、キュウリとナスを置いておいたザルだった。
あちらの字は読めないので名前はわからなかったが、図鑑に描かれていた姿はたしかに、こいつとよく似ていた。
つまり、こいつはもともと、大陸のいきものなのだ。
食っている姿をじっと見る男に、魔物はふと顔を上げる。そのまま、一口もしゃりとチシャを喰み、もぐもぐと咀嚼し、飲み込む。
「どうしたの?」
見られていたことへの照れもなく、ただ純粋な疑問だけで魔物は首をかしげた。
「……お前は、ジパングの妖怪ではないそうだが」
「じぱんぐ?」
葉を食いながら、今度は逆に首をかしげる。
その仕草に、おきあがりこぼしのようだと思いながら、男は続けた。
「海の向こうから来たのか」
「うみ?」
「……どこか、遠いところから来たのか」
「……うーん?」
話は遅々として進まない。
しかし、まあそんなものだろう。「まあ、いい」と男は苦笑する。
考えてみれば、俺も赤子の頃の話などできやしない。どこそこの村で三男坊として生まれた、というのも親兄弟のもとで暮らしていたからこそわかることだ。これがたとえば捨て子であれば、自分がどこで生まれたかなどわかりはしないだろう。
そう考えると、郷里というものを持たないこの魔物も哀れかもしれん。何も知らない阿呆のような顔をするせいで、なかなかそんなことは感じさせないが。
「……すこしくらいなら、いいか」
男がつぶやく。
ずいぶんと柔らかいその声に、魔物はチシャの芯を噛み砕くバリバリという音で返事をした。
「ダイコンがよく生ってな。ひとつくらいなら、食ってもいい」
そう言って、昼に食うつもりで採っておいたダイコンをひとつ、魔物に差し出す。
途端に、魔物の目がきらきらと輝く。いつもどことなくぼんやりしているだけに、その様子は珍しかった。
「……いいの?」
「ああ」
「やった」
憐れみから来る行動であることは自覚している。
それを踏まえても、むしゃむしゃとダイコンの葉を食いながら「おいしい」とこぼす子どものような笑顔を見るのは、悪くない。
お前に食われていなければもっとたくさん生っていたはずなのだが、というのは一旦忘れておく。
「これがいちばん、おいしい」
「そうか」
「あしたからも、これがいい」
「明日はニンジンだ」
「ニンジン」
「あの、橙色で細長い野菜だ」
「ええー」
ダイコンの根をボリボリとかじりながら、魔物は不満そうに言う。
しかし、明日実際に人参を差し出せば、文句を言わずに食うだろう。こいつはそういうやつである、と男は知っている。
野菜をやって礼を言われたことなどないが、美味そうに食ってはくれる。
単純なことだが、大事なことでもある。美味そうに食ってくれるやつがいれば、美味く作ろうという気にもなるというものだ。
「……さて」
魔物のいまだ物欲しそうな視線を受けながら、男は野菜の入ったカゴと空のザルを取り上げた。
畑の隅にそれらを置き、納屋から農具を持ち出し、ぐいと背伸びをひとつ。
日が頂点にのぼり、腹時計が昼飯の時間だと知らせるまで、畑仕事をする。
男にとって、それは孤独な時間だった。土と野菜、小さな虫たちとばかり向き合う、言葉のない時間だった。
だが、今は。
「ここで寝るな。寝るならせめて、畑から出ろ」
ザルのそばで丸まって寝ようとしていた魔物の背中を、クワの柄で押す。
ぐにょりとしたその手応えは明らかに人間を押したときのものではないが、男もこの生き物に慣れてきていた。
「ここがいい。やわらかい」
「俺の都合が良くないのだ」
二、三度とつつけば、やがて魔物も折れる。「んー」と不満げな声とともに、土にずるずる跡を残し、向かう先は農具の入った納屋の中。
邪魔であることには変わりないが、畑よりはましか。
口から出かけた文句を飲み込んで、男は来期に使う畝を起こし始める。
魔物は納屋の中からその様子をしばらく眺めていたが、やがてあくびをひとつすると、ささくれた床板もものともせず、長い身体を丸めて眠りについた。
…………
曇りの日が増えてきた。重く湿った風が吹いている。雨期が近い。
そろそろ、また町へ出て、買い物を済ませたほうがいいか。
濃い灰色の雲を見上げながら、男は考える。
とりあえずは味噌と醤油。干し魚もたまには食いたくなる。新しい種も欲しい。
「……また、すこしばかり家を空けることになる」
男は、空を見たままこぼして言った。
言葉が地面に落ちるまで間があったように、足元でキュウリを食っていた魔物は幾分遅れて、「ええ」と間の抜けた、しかし驚いているらしい声をあげた。
「あけるって、いないってこと?」
「そうだ」
「どれくらい?」
「町に行くだけだからな。前と変わらん。まあ、行って、泊まって、翌の昼には帰るだろう」
「わたしもいく」
「行かんでいい」
魔物の這うような歩きは、人間の歩きに比べるとはるかに遅い。手早く済ませたい旅路に伴うには、悠長に過ぎる。
ぴしゃりと言い捨てた男に、しかし魔物は食い下がった。
「いく」
「……もしや、飯の心配か」
確かに、俺がいなければ毎日の野菜ももらえなくなる。
もっともなことだろう、と男は頭を掻く。
「二日分……いや、三日分はあの納屋に置いておく。それも前と同じだ」
「三日分。みっつ?」
「まあそうだな。三つだ」
「いつつ」
「……欲張るな、ずいぶんと」
顔をしかめながらも、男は決して「それはだめだ」とは言わなかった。
魔物が成長していることは、わかっていた。体は若干大きくなり、食う量も増えた。林から畑まで来るまでの道のりにあった食えそうな葉は、みんな食べられてしまったほどに。
「足りない」などと感じられようものならば、また収穫前の野菜を食われるかもしれない。それならば、言われた通りすこし多めに飯を置いていったほうがいい。
ぐるりと畑を見渡して、いくつか形の悪い野菜に目星をつけてから、男は「わかった」とうなずいてみせた。
「五日分置いていこう」
「うん」
「……ちゃんと、五日に分けて食うんだぞ」
「うん」
とうにキュウリも食い終えて、触覚をうねらせながら魔物は繰り返し答える。
本当にわかっているだろうか、という男の心配にはまるで気付いていない。
「……はやく、かえってきてね」
ふと、魔物が言った。
驚き、男は見下ろす。いつも眠そうな魔物の目に不安の色が見えるのは、気のせいか。
「……帰っては来る。お前も、勝手に畑の野菜に手を出すなよ」
「うん」
食欲しか無いように思っていた魔物の意外な素振りに、男もやや戸惑う。
以前町へと行くと言ったときには、「んー」と興味無さそうにキュウリを喰んでいた。それが今日はどうして、こんなにもじっと見つめてくるのだろうか。
さみしい、のだろうか。
こいつもおそらくは子どもである。ひとりで留守番をするようなものだとすれば、さみしくもなるだろうか。
男はひとつ、深々と息をつく。そして、魔物の頭に手を置き、緑色の髪をくしゃりとさせた。香油など付けていないだろうに、その頭は不思議と甘い香りがした。
「俺がいない間は、畑で寝てもいい。野菜を踏まない場所に限るが」
「いいの?」
「だが、雨が降ったら納屋に入れよ。風邪を引くからな」
「かぜ?」
「……いや、お前たちも風邪を引くのかどうかは知らんが」
首を振って、男は「土産のひとつでも、買ってくる」と笑った。
そんな男を見上げる魔物の頭上では、触覚がただうねうねと揺れていた。
…………
町からの帰路にて。
男は足を休めようと、道端の岩に腰掛けた。背負っていた風呂敷を下ろせば、泥をはねながらどしゃりと重く鳴る。
荷が多い。馬を借りるまではいかなくとも、荷車を持つ行商にでも同行するべきだったか。
考えてから、しかし、と首を振る。
家を出てから、既に七日経っていた。
男が町に着いたその晩から降り出した雨は長々と続き、時には強い風も伴う嵐にもなった。荒天の中帰ることはできない。早く止んでくれないものかと願いながらもあれよあれよと出立は延び、今に至る。
考えるのは、あの魔物のこと。
置いてきた野菜は、とうに食い終えているはず。とはいえ飢えることはないだろう。林でも野原でも、食える草はまだまだある。畑の野菜も……飢えるくらいならば、食ってくれていい。
どうにでもなる飯の事情よりも、気にかかることは別にある。
わずかに見えた、あのさみしげな目の色。
あの奇妙な隣人にとっての俺が、ただの飯をよこしてくれる人間以上の何かであるならば。
そう思うと、どれだけ荷物が重かろうとも、これ以上帰りを先延ばしにはできなかった。
「……行くか」
草鞋の底で濡れた草を踏み、泥のついた風呂敷を背負い直す。
帰ったら、文句の一つも言われるだろうか。腹いっぱいになるまで食わせれば誤魔化せないか。買ってきた新しい種は、大きな野菜が生るらしい。大食らいのあいつも、気に入るだろうか。
そんなことを考えながら、歩くこと半刻。
ようやく、男は家に帰り着いた。
畑では、風雨に手ひどくやられたのだろう、手作りの粗末なかかしが転んでいる。七日のうちに、雑草たちもずいぶん伸びた。植えた覚えのない緑が増えている。
まずは草取りから始めなければ。だが、その前に。
荷を下ろして、男は家の周りを見回す。あの大きな青虫のような姿は見当たらない。
畑の野菜は、意外にも手を付けられていなかった。律儀に約束を守ってくれたらしい。その分、林で草や実を食っていたのだろうか。
ついでに畑の世話もしてくれていたらよかったのだが。まあ、そこまで望むのは酷だろう。
ひとりごちて、男は転んでいたかかしを立て直す。頭に乗せていた傘は、どこかに飛んでいってしまったのだろう。
仕方がない。かわりを編むまでは、ザルでも被っていてもらおう。確か、穴の空いたザルが納屋に放り込んであったはず。
そう思い、男は納屋の戸を開ける。
そして、あいも変わらず薄暗いボロの中に、それを見つけた。
「……なんだ、これは」
思わず、つぶやく。
巨大な緑色の、何かだった。
恐る恐る、触れてみる。硬い。まじまじと見てみれば、それは糸を壁面に伸ばして、倒れないように自らを固定している。
まったく馴染みがない、とは思わなかった。間違いなく似たような何かを見たことがある。
硬そうな殻に覆われた、何か。そうだ、これは。
「……蛹か?」
山野の枝葉に、あるいは家や納屋の壁に、いつの間にやらくっついているもの。
眼の前にあるそれは、確かにそういった蛹によく似ていた。
こんな巨大な蛹を作るとすれば、元になる青虫も相応に大きいだろう。そんないきものにも、覚えがある。
「なるほど。こんな大きな物を作るのであれば、あれほど食いもするか」
笑いながら、男は蛹に話しかける。
その頭の中では、納屋に転がって眠っていたあの魔物の姿を思い出していた。
…………
納屋に作られた蛹は、いつ見てもしんと黙ったままだった。
男は農具を取るたびに「邪魔なところに作ってくれたな」と文句を言うものの、やがてその蛹から何かが羽化すること自体は、楽しみにしていた。
あるいは、来る日も来る日も野菜をねだってきていた隣人がすっかり黙り込んでしまい、退屈しているとも言えた。
頃合に実った野菜たちをカゴに入れながら、男は考える。
話し相手がいなくなったのは、元に戻っただけである。それまでは思うことのなかった、さみしい、などという気持ちを持ってしまうのは、あの魔物のせいである。
普通の蛹たちですら羽化するまでどれほどかかるのか知らない。気付けばそこにあり、気付けば中身が抜けている。あれほど大きな蛹ならば、抜け出てくるまで時間もかかるかもしれない。
とは言え、まさかひととせ廻るようなことはないだろう。
自らを励ますように想い、種を植えたばかりの畝に水を撒く。
町で買ってきた、大陸でうまれたらしい野菜の種。キャベツという名らしい。チシャに似て、丸まった葉が重なり大きく生るとか。
それが、あの魔物の産まれた地の野菜であるとまでは思わない。ただなんとなく、異国のものを植えてみるのも悪くないとは思っていた。
そうして、どこかぼんやりと気の抜けたまま、男は一日の仕事を終えた。
彼方の山に日が沈む前に、農具を納屋に片付ける。
町から帰りこの蛹を見つけてから、もう三日は経つ。長々と眠っていれば、腹も減るだろう。
「……早いところ起きて、飯でも食わないか」
話しかけても、返事はない。
途端に、男は自分がひどく女々しく感じられて、がたつく納屋の戸をやや乱暴に閉めきった。
草鞋のつま先で土を蹴り、「まあ」と誰も聞かない言い訳をつぶやく。
気長に待てばいい。畑と同じだ。急かしたところで、どうにもならないものはどうにもならない。
眠り、起きて、変わらぬ蛹の姿を見る。そのたびに、男はただ、同じ言葉で自分に言い聞かせる。
やがて、それすらも馬鹿馬鹿しくなってきた頃。
日の出とともに起き出した男は、外に出るなり違和感を抱いた。
納屋の戸が開いている。
昨日は閉め忘れたのだろうか。鍵もかけられない戸である。開いていようが閉まっていようが、普段はさほど気にかけない。
だが今は、あそこで眠っているやつがいる。獣があの蛹を襲わないという保証もない。
駆けて、男は納屋を覗く。「あ」と、あげたのは、間の抜けた声。
蛹が割れていた。
左右に大きく割れた中身は空っぽで、その殻は思っていた以上に薄かった。
これほど薄い殻ならば、外から話しかけていたのも聞こえていたのではなかろうか。
立ち尽くしたままそんなことを考える男の頭上で、とん、と軽い音が鳴る。納屋の屋根を叩く、スズメの足音ほどに軽い音。
数歩下がり、男は納屋の屋根上に目をやった。
そこにいたのは、少女だった。
身に着けた幾重にも折り重ねられた白い服は、時折大陸から輸入されるドレスという装束に近い。髪の色は薄緑で、頭からは黒い触覚のようなものが長く伸びている。背には、白地に水色と黒の模様が入った大きな翅。朝陽が透けるほど薄いそれは、ひらひらとやまず揺れている。
知っている姿とは違う。それでも、男は確信をもって話しかける。
「ようやく、起きたのか」
「うん。おはよう」
少女は、地を這う魔物だった頃から唯一変わっていない眠たげな目を細めて、答えた。か細い、澄んだ声だった。
「すまなかったな。予定よりも、ずいぶんと帰りが遅くなってしまった」
「うん」
「腹は、減っていないか」
「うん。もう、そんなに食べなくていいから」
「そうか」
落ち着いた様子で、魔物は微笑む。
顔を合わせるなりちょうだいちょうだいと言ってきた頃のことを思い出し、男は少しだけ寂しさを感じる。
だがそれ以上に、またこうして顔を合わせられたことが、自分が思っていた以上に嬉しくて仕方がなかった。
さて、何を話したものだろう。
緩んでしまう口元もそのままに考える男の頭上で、影が揺れた。
軽やかに音もなく、魔物は男のそばへと飛び降りる。その両手は抱えるようにしてカゴを持っており、中には、食べられる野草や山菜が入っていた。
「これ、採ってきたの。あげるね」
「……そうか。悪いな」
差し出されたカゴを受け取り、男は苦笑する。
今まで食った分、こいつなりの詫びなのかもしれない。そんなこと、気にしなくてもいいのだが。
「では、俺も朝飯にしよう。これは……そうだな、味噌汁にでも入れるか」
「ふふ。いっぱい、食べてね」
「ああ」
カゴを抱えて家に戻る男のかたわらを、魔物は寄り添うように歩く。ふと、男はその足元を見た。やけに踵の高い洋靴にもかかわらず、足音も立てず歩いている。当然ながら、土に這いずり跡を残すようなことも、無かった。
…………
「なにか、おてつだい、できることはない?」
「なんっ……何?」
魔物のその言葉に、男は朝飯を食う手も止めて、かつてないほどに驚きをあらわにした。
あのとき納屋で出会ってから今まで、こいつは乞うばかりだった。
それがどうしたことか。食い物を採ってきただけではなく、手伝いを申し出ている。あの蛹の中で、一体どんな心変わりがあったのか。
「何か……何か、か」
眉間に皺を寄せながら、男は味噌汁を啜る。中には、魔物が採ってきたヨモギが入っている。その辺で勝手に育った野草である。味はそこまで良くないが、賑やかし程度にはなる。
「逆に聞くが、何ができる」
「わかんない……けど、したいの。おてつだい」
「……そうか」
あらためて、男は膳の向こうに座る魔物の姿を観察する。
髪も肌も、色が薄い。広がった袖から覗く手首は細く、強く握れば折れてしまいそうだった。美しいことは間違いない。だがそれ以上に、儚い。
その体に野良仕事など、とてもさせられない。
お前がいない間は、退屈だった。何をしなくとも、いてくれるだけでも。
思い浮かんだ言葉に、男は首を振る。唐突なその仕草に、魔物は首をかしげた。
「どうしたの?」
「いや……」
男は、なんでもない、と答えようとして、考え直した。
「……その、翅」
そして、魔物の背にある薄翅を顎でしゃくってみせた。
「飛べるのか、お前は」
「うん」
「では……何も、ここに拘ることも無いのではないか。もう、飛んで、どこへなりと行けるのだろう」
飯がいるのであれば、別のところがあるだろう。食い物がいらないのであれば、こんな退屈な場所にいることもないだろう。
男の中で、この魔物が去る理由はいくらでも思い浮かぶ。
しかし、魔物は強くはっきりと「行かない」と言った。
「ここがいい。ここに、いたい。だから、おてつだいするの」
「……わかった。まあ、何かしら考えておく」
「うん」
そこまで言うのならば、と男はため息をついた。
こいつがどれほど賢いのかもわからないが、飯の炊き方くらいは覚えてくれるだろうか。
自分で炊いた、芯のある硬い米を食いながら、男は考える。
ふと顔を上げれば、じっと見ている魔物と目があった。
人が飯を食っているところを見ていて、何が楽しいのか。
視線をぶつけたまま訝しむ男に、魔物は嬉しそうに「ふふ」と笑った。柔らかく、慈しむような微笑みだった。
朝食を終えれば、男は再び畑に出る。何を言うこともなく、魔物もその後に続いた。
なかなか日々は変わらないものだと男は思う。青虫が蝶になっても、俺が畑の世話をするのは昨日と同じで、明日も同じだろう。
水をやるのも、虫を払うのも、収穫をするのも、今までと何ら変わりない。
とは言え、変わりないだけで、喜びがないわけではない。
土を掘り起こしてどうにか引き抜いたダイコンは、なかなかに立派なものだった。
それは必ずしも味の良さには直結しないが、大きなものが採れるとやはり嬉しいものである。
男はダイコンの身に付いている土を軽く払い、あたりを見回す。さて、あいつはどこに。
「おや」
思わず、そんな声がこぼれた。
魔物は、畑の外にいた。翅で飛ぶわけでもなく、地面にうずくまり、せっせと何かを摘んでいる。
ダイコン片手に男はそばに寄って、その肩越しに手元を覗き込む。
「……花?」
男のつぶやきに、魔物は驚いた様子もなく振り向き、「うん」と答えた。
華美とは言えない、くすんだ黄色や赤色の花。野で見かけることは多くとも、わざわざ名前を知ろうとはしない花たち。それが何本も、どこから持ってきたのか、ビードロの花瓶に挿されている。
「飾るのか」
「ううん。わたしの、ごはん」
「……花を食うのか?」
「食べないよ、お花は」
魔物のくすくすとした笑いを聞き、男の顔にあからさまなしかめっ面が張り付く。
「ではどうするのだ」
「蜜を、もらうの」
「蜜」
「うん。この中に入れると、いっぱい、出てくるから」
答えて、魔物はビードロの花瓶を持ち上げてみせた。
球に筒口を付けたようなその花瓶には、花のほかに水が入れられている。男が顔を寄せてじっと睨みつけてみれば、花茎の切り口からその水に、細く薄い黄金色の何かが溶け出しているようだった。
花の蜜とは、そのようなものだったか。男が思わず首をかしげている間にも、水は蜜色に染まっていく。
「飯は、それだけで足りるのか?」
「うん」
「そうか……」
以前であれば、野菜を手に話しかけようものならば一も二もなく「くれるの?」と言ってきたものだが。今では花の蜜だけで足りるという。
「ならば、これはいらんか」
落胆の滲んだ声で、男は持っていたダイコンに目を移した。
漬物にするか、汁物にするか。あるいは、売ってしまおうか。
無くなってしまった行き先を新たに考えていると、魔物は「え」とビードロ片手に目を丸くした。
「くれるの?」
「いるのか?」
「あ……でも、全部は、いい」
「……そうか」
「うん。だから、いっしょに食べよ」
魔物の言葉に、今度は男が目を丸くした。一人で畑を食い尽くしかねなかったようなやつの発言であるとは、到底思えなかった。
「一緒に、か」
「うん」
驚いた。驚いたが、同時に、嬉しくもある。
外で勝手に野菜を食っていたこいつと、同じ飯を食えるというのが。
「そうだな。では、晩飯に食おう。煮るのは面倒だから、おろしにでもするか」
「おろし?」
「ああ。おろし皿で細かく擦って……と言っても、わからんな」
「うん」
「では、あとで見せてやる」
そうして、料理の一つでも覚えてくれれば都合もいいのだが。
そんな事を考えて、男はふと笑った。魔物の一挙一動に浮かれ沈む自分に、気付いたせいだった。
…………
皿の上で山のようになっていたおろしをどうにか食い切って、男は深々とため息を付いた。
魔物によってまるまる一本を擦り下ろされたダイコンのうち、彼女が食ったのはほんのわずか。ほとんどは、男が醤油をかけながら米に乗せて食うことになった。
「どうだった、おろしは」
「たのしかった」
「そうか」
「あと、食べやすかった。おいしかった」
「それはよかった」
簡潔な感想に、これまた簡潔な相槌を返して、男はあらためて魔物を眺める。
男が晩飯を食っている間、今朝と同じように向かいに座った魔物は、瓶に入った花の蜜を細い筒のようなものを使って飲んでいた。一食分に足りるとはとても思えない少なさだった。
「……美味いのか、それは」
花瓶でも水筒でもあるらしいビードロの容れ物を見ながら、尋ねる。
「おいしい」
「美味いのか」
「うん。飲む?」
魔物は答えを聞く前に、膳越しに身を乗り出して男へと容れ物を差し出す。
一瞬、男はためらった。生まれた村を出る前、まだ親兄弟と暮らしていた頃。摘んだ花の蜜を吸っている兄の真似をしたら、小さな羽虫が口に入ったことがあった。それ以来、蜜にいい印象はない。
とはいえ、あの時とは違い、花に口をつけるわけではない。器に入れていたときを見ても、虫が入ることもないはずである。
「……もらおう」
細い瓶を受け取った男は、ささっている細筒を横にどけ、瓶の口から中身を直接呷った。粘度は高くない。水とさほど変わらないなめらかさで口の中に滑り込んできたそれは、驚くほどに、
「……甘い」
「おいしい?」
「まあ……美味い」
そこらに生えている野花の蜜が、こんなに甘いものだろうか。
首を傾げてから、魔物へと瓶を返す。自分の湯呑みに入れていた、瓶から汲んだただの水を飲んでみれば、口の中に残った味わいがそれすらも甘く感じさせる。すべてが、今飲んだものの味になる。まるで、初めて酒を飲んだときのような感覚だった。
「よかった」
魔物がほほえむ。明確に、男に向けて。
途端に、男の心臓も跳ね、せわしなく鳴る。
この魔物が、幼虫だった頃。こいつは間違いなく、子どもだった。
だが、今はどうだ。
異邦の衣を纏った身は細くはあれども、幼さは無い。肌は白く、唇は紅も差していないはずなのに艷やかに赤い。淑やかに笑う顔立ちなど、随分大人びている。
こいつは、女だ。
突如現れてから今までずっと、意識したことはなかった。しかし、ひとたび気付いてしまえば……感じてしまえば、眼の前の魔物の姿は、途端に強い肉感をもって映り始める。
「……どうしたの?」
魔物がほほえむ。
男の中に芽生えた欲求がその目にぎらぎらと宿っていても、怯えることなく。それどころか、受け入れるように。
男は、ふと町の貸本屋が言っていたことを思い出した。
魔物とは、妖怪とは、そういうものである。どうしてか深い情愛を持ち、見初めた相手には、地獄の果までついていくようなものたちである、と。
では、こいつがここから離れようとしないのは。そういうことでいいのだろうか。
瓶をかたわらに置いて、膝立ちになった魔物はあくまでも優しく、愛おしむような笑みで、男の頬に手を伸ばした。
男はその白く細い手首を掴み、寄せられた魔物の唇に、自らの口を押し付けた。
魔物は拒まない。小さく、「ん」と口の端からこぼしたのは、笑い声にも似ていた。
合わせた唇を、二人、どちらからともなく開き、舌を絡める。ぴち、ぴち、と濡れた音は、虫の音もない夜にはよく響いた。
唐突な口づけはしばらく続き、やがて、息継ぎのために男の方から顔を放す。
一瞬、魔物は名残惜しむように「あ」と呟いたが、おもむろに白い指先で自分の濡れた唇をなぞると、囁くように言った。
「……おいしかった?」
尋ねるというよりも、確かめるような言い方だった。
男は言葉では答えず、口の中に残ったものを確かめる。魔物の味は瓶に入っていた蜜に似ていたが、それよりも更に甘く、熱かった。
どんな酒よりも深酔いしてしまうような。あるいは、何かしらの、毒、のような。
そこで、男の思案は打ち切られた。
魔物が、服を脱ぎ始めたためだった。
白い洋装の下に、肌着は付けていない。乳も尻も、大きく膨らんでいるわけではないものの、柔らかく丸みを帯びている。僅かな衣擦れの音だけを立てて板張りの床に落とした服の上で、女は笑顔のまま、薄く頬を染めた。
男が立ち上がった拍子に、まだ片付けていなかった晩飯の椀が転がって音を立てた。
男は魔物の肩を掴み、床に落ちている洋服と座布団を敷物に使わんと押し倒そうとして――手を止めた。
「……どうしたの?」
「いや……翅が」
男の目は、魔物の背にある薄い羽に向いていた。向こう側が透けて見えるような翅は、床に擦り付けようものならば簡単に千切れてしまいそうにも思えた。
「……ふふ」
魔物は男の気遣いに気付くと、温かく笑った。
「じゃあ、こうする?」
そして、男の肩に手を添えて、そっと押し倒した。
思ったよりは冷たくないが、やはり固い。男は背中で床板を感じながら、緩慢な動きで自身にまたがる魔物を見上げる。
細身の体が赤らんでいるのは、点けっぱなしの灯りのせいだけではないだろう。首も腰も腕も、どこも透き通るように澄んでいながら、手でなぞってみればほんのりと熱い。
体を男の手に撫でられながら、魔物は男の着物に手を入れ、腰の前だけをはだけさせる。擦れた襦袢の奥から引っ張り出した男のモノは、魔物の体よりもよほど熱かった。
華奢で美しい女の中へ突き込むには、あまりに大きい。そのはずだが、魔物は、一度大きく息を吸うと、ためらうことなく、自分の中へとそれを受け入れた。
「は、あ……」
どろどろと、十二分に濡れていたそこは、痛みなど微塵も感じさせず、快楽だけを二人にもたらす。
白い肌を一層紅潮させて、魔物はゆっくりと腰を振る。太い杭のような肉棒を、溶けかけているようにぬめる襞が舐め回す。
いつも眠そうだった目は、潤んで揺れ、甘えるように男を見つめる。
魔物の手が、形の良いへそのあたりに触れる。細身に無理やりねじ込まれた男のモノは、薄い腹を押し上げてぽこりと膨らませていた。
たまらなくなった男が、白い背に手を回して抱き寄せれば、べたりと男の上に倒れ込んだ魔物の口からは「んふっ」と聞いたことのない、緩みきった喜びの声が漏れ出た。
激しい行為ではなかった。声もほとんど上げないような交尾は、それでも、徐々に短くなっていく呼吸とともに終わりに近付いていく。
腰を上下させて抜き差しを繰り返していた魔物の動きも、腰を揺すって一番深い場所に男のモノを擦り付けるような動きに変わっていた。そこで精を受けるのが一番いいと、本能的に理解していた。
「はっ……はっ、ふ……うん……っ!」
浅い吐息と、うめき声。絶頂を迎えた魔物の中が、別の生き物のように男の肉棒に絡みついた。
男もまた限界が近かったところに、ひときわ強い刺激を与えられ、思わず腰を突き出す。どぷどぷと注ぎ込んだ大量の精は濃く、つがいの雌を孕まそうという本能が、そのまま形になったようだった。
「ふっ……ふぅー……はぁー……」
満足そうに深い息を繰り返す魔物の顎に、男が手を添える。その顔を無理やり上向かせれば、魔物は何も言わずとも、ぐいと身を伸ばし、男の唇に口づけをした。
口移しでどろりと流れ込むものは、やはり甘く熱い、蜜の味がした。
…………
大きな緑色の葉を、桶に張った水で軽くゆすぐ。
「ほら」と男が差し出したその葉を受け取った魔物は、迷うことなくそれを口に入れた。
ぱりぱりと、やや厚手の葉は小さな口の中で小気味いい音を立てる。
「どうだ」
なにせ、初めて育てた野菜である。美味く作れただろうか、というささやかな緊張を押し隠して、男は尋ねた。
薄翅を揺らしながら、魔物はごくりと葉を飲み込み、答えた。
「おいしい」
「そうか」
「でも」
「でも?」
「ダイコンのほうが、おいしい」
「……そうか」
育て方を聞き、種を買い、苦心しながら育てたのだが。
男は苦笑とともに、緑の葉を幾重にも丸めた野菜、キャベツを見て笑った。
こいつは妖怪ではなく、大陸から来た魔物らしい。ならば、大陸から来た野菜のほうが舌に合うのではないか。
そんなことも思ったのだが、まあ、そんなことも無かったらしい。
「ね」
「うん?」
「今日、ダイコン、にていい?」
「またか」
「うん。おいしいから」
キャベツへの興味もそこそこに、魔物は随分前に収穫したダイコンへと目を向ける。
醤油で適当に味をつけただけの、ダイコンの煮物。料理とも呼び難いそれは、男が一度作ってやって以来、すっかり魔物の好物になってしまっていた。
好きになれば、覚えもいい。適当に野菜を煮るくらいならば、男が見てやらなくても魔物ひとりでもできるようになるまで、さほど日はかからなかった。そして煮られたダイコンの大半は、やはり男の胃袋に入っていく。魔物はその様子を、蜜を飲みながら嬉しそうに眺める。
「まあ、そうだな。飯は、温かいものが良い」
男が空を見上げる。
灰色の、低い雲。それは雨雲よりも明るいが、冷たい風を落としている。
雪が降る。そんな気がした。
「……町に行って、冬支度がいるな」
雪が降っても、そこまで食うに困ることはない。魔物がまだ幼虫だった頃には備えなどできないのではないか、と思ったが、いざ冬を迎えようという段になれば、倉に入れた野菜の量は、例年とさほど変わらなかった。
しかし、食い物以外は町で買わなければならない。雪で街道が塞がる前に、買い物は済ませておかなければ。
「わたしもいっていい?」
地面に転がされていた丸いキャベツを抱え上げて、魔物は首を傾げる。
「ああ。お前も、色々いるものはあるだろう」
「……ある?」
何がいるのかも分からんのに行くのか。
笑いながら、男は言った。
「いつまでも、その一張羅だけというのもな」
一張羅という言葉の意味こそ分かってはいなかったが、魔物は自分が着ているものを見られたことは理解した。
どうやって作られたのかも分からない白いドレスは、不思議なことに汚れもしなければほつれもしない。
それでも、畑の中を歩き回り時に泥を跳ねることすらあるのに、綺麗な召し物しかないというのは、男も気が気ではない。
「それに」
「それに?」
「いや……」
眠たげな目を向けられたまま、男は口ごもる。顔を合わせているのもためらわれると、桶に張った水に手を浸して逃れた。
「……その服は脱がせ方が分からなくて、困る」
男は桶の前にしゃがみ込み、魔物には背を向けている。
しかし、「ふふ」という鈴のなるような笑い声がやけに楽しそうだったのは、見なくても分かった。
「笑うな」
「うん」
「うん、じゃないだろう」
もう一度、魔物は「うん」と繰り返した。その声はやはり嬉しそうな笑み混じりで、気づけば、男も釣られるように肩を揺らしてくくっと笑っていた。
顔なじみの商人の口癖を思い出し、男は頭を掻いた。
与えられた農地は人里から離れているものの、ひとり黙々と畑仕事をするのは性に合っており、さほど苦には感じない。こんな広い畑を一人で耕しているのか、と驚かれることはあるが、そうしなければ時間を持て余してしまうという事情もある。
採れる野菜は種類も量も多い。虫食いのある野菜を取り除いても、土地の持ち主に納め、自分で食い、それでもなお冬への備えを作れる程度には余る。
だから、問題はない。多少は虫にやってもいい。一寸の虫にも五分の魂。あいつらも生きているのだ。小さいものたちへの施しであると考えれば、気分もいいではないか。
そう思っていた。
施しと言うには随分多くの野菜を、一晩のうちに食われてしまうまでは。
「……虫?いや、獣の仕業か?これは」
呟いて、ぽとりぽとりと短く落ちているキュウリの食残しを見つめる。虫が食うというのは、もっと小さく穴が空くものだ。これはまるで、大きな獣が食らいついたか、人間が手づかみで齧りついていったようではないか。
暇つぶしに立てたかかしが役立ってくれていたのか、今まで獣が畑に来たことはなかった。畑を柵で囲っていなかったのも、そのためだ。しかし、これほどの被害を出すものが来るというのであれば話は別。
面倒だが、木材を買うか木を伐るかして、柵を立てねばならんだろうか。
木こりではない男は、立木に向かって握り慣れない斧を振らなければいけないことを考え、辟易する。
つぎに町に出たとき、獣除けについて尋ねてみようか。そうだ、まずはそれがいい。
眼前の面倒ごとから避ける手段にたどり着くと、今度はひとり頷いた。
とりあえず目を背けることに成功したものを除けば、今すべきことは、食い荒らされた野菜の片付けである。
「そんなに美味かったか。俺の野菜は」
独り言をこぼす男の表情は苦々しい。
今朝収穫するつもりだったキュウリとナスは半分ほどが食われてしまった。近くの村へ持っていけば糠に漬けてくれる。すっかり柔らかくなるまで深く漬けられたぬか漬けは、それだけでいくらでも飯が食えるほどだが、今年はそれもいくらか少なくなってしまうだろう。
幸か不幸か、食われたのは既に大きく生っていた野菜だけ。まだ小さなナスやキュウリ、葉の伸びていないダイコンなどは手を付けられていない。
食い残されたナスを拾って、まじまじと見つめる。ヘタの近くを残し豪快にかぶりついた痕がある。ナスなどそのまま食うものではないだろうに、そんなに腹が減っていたのか。
「……埋めるか」
散らかしておくわけにもいかない。食い残しでも拾い集めて埋めておけば、多少は土の栄養になるかもしれない。
落胆を単純な作業で塗りつぶすように、男は納屋へ向かう。戸もまともに閉まらないほど建付けの悪い粗末な小屋で、中もろくなものは入っていない。クワやスキなどを置いているだけで、がらんとしている。
その、がらんとした小屋に、それはいた。
「なんだ、こいつは」
緑色の柔らかそうな胴は鳥の目に似た模様があり、足のような突起もいくつか並んでいる。
知っている限りで最も近い生き物は、青虫。しかし、明らかに青虫ではない。
頭にあるのは人の髪に似た緑の毛と、橙色の突起。
すぴすぴと間の抜けた寝息を立てて眠っているその顔は、人間のそれと同じである。
人に近く、また、人でないものに近い。そういった生き物。虫でも獣でも人でもなければ、つまりは。
「……妖怪か」
見たことがないわけではない。
町に行けば人と暮らす妖怪の姿もそれなりに見られる。腰から下が蜘蛛の女や、体が布でできているような娘もいるのだ。青虫の妖怪がいてもおかしくはない。
幸い、こちらに敵意はないらしい。単に起きる気配がないと言うべきかもしれないが。
男は寝ている妖怪を跨いで通り、壁に立てかけていたクワと床に転がっていたカゴを担いで納屋を出た。
畑に落ちている野菜のクズをカゴに放り込み、片隅に穴を掘る。
野菜クズを穴に落としたら、土を被せる。
さて、クワを片付けたら、今度は水やりを――。
しかし、振り向いた男は、そこで固まった。
動いていた。青虫の妖怪が。
我が物顔でずるずると畑を這い、短い手で器用にダイコンの葉に触れ、吟味している。好みに合わないのか、隣の畝で青々と伸びたネギには目もくれてない。
「……いやいや、待て、待て」
我に返った男は、慌てて妖怪に駆け寄った。持っていたクワを取り落としてぱたんと畑に倒れたが、構ってはいられなかった。
「こら、何をしているんだ」
明らかに厳しく叱る声色だったが、その青虫は驚きもせず、のそのそと胴の半分ほどを持ち上げて男に顔を向ける。
「おいしいの、どれかなって」
そして、まったく悪びれずに言った。
あまりにも当然のことのように言われて、男も面食らう。
確かに、顔立ちはひどく幼く、善悪もわからない子どものようである。眠たげに見える目はのんびりとしており、叱られたということすらわかってないのかもしれない。
しかし、それでも。
「ここは俺の畑なんだ。勝手に食わんでくれ」
「でも、おいしかったから」
「……いや、そうであってもだな、あんまり食われると困るのだ」
無邪気な子どもに「おいしい」と言われると、悪い気はしない。
段々と毒気が抜かれてしまっていることを自覚しながらも、男はどうにかしようと頭を掻いて考える。
「……あんまり食われると、俺の分がなくなってしまうだろう」
「そうなの?」
「そうだ」
「そうかあ」
言いながら、妖怪はダイコンに伸ばしていた手を引っ込めて、頭上の触覚をうねうねとうごめかせた。
「じゃあ、ちょっとだけなら食べてもいい?」
そう言った妖怪の表情は、やはり悪びれていない。
たくさん食べられると困るなら、ちょっとだけ。とても単純な話をしている。
「……つまり、腹が減っているのか、お前は」
シワの寄った眉間を指で押さえ、男は尋ねる。
頷いて「うん」と答えた妖怪は、清々しいほどに平然としていた。
「よしわかった。では、少し待て……食うなよ、野菜は」
「ちょっとも?」
「ちょっともだ」
「ちょっともかあ」と言いながらも、妖怪の視線は眼の前のダイコンから離れない。
この様子では、我慢もそう長くは続かないだろう。草鞋で土を跳ねながら家に駆け込んだ男は、なにか食わせてもいいものは、と台所を見回す。
なにぶん、男一人の暮らしである。汁物も作らずに米と漬物で済ませることがほとんど。虫にやるものなど探したところで、自分で食うつもりだった形の悪い野菜程度しか見つからない。
仕方なく、男は桶で水にさらしていたキュウリを三本だけ持って畑に戻った。
「ほら、こっちにしろ」
男が差し出した、円を描かんばかりに曲がったキュウリを、妖怪はまじまじと眺める。生意気にもじっくり吟味をして、ようやく短い手で受け取ると、礼も言わずにぱきりと音を立てて食い折った。
もしゃもしゃと、手元のキュウリを見つめながら味わう。ごくりと、飲み込む。そしてまた、ぱきりと食う。
一本食い終われば、男はまた差し出し、妖怪が受け取り、また食う。そんな繰り返しが、無言のうちに三本分。
時間ばかりをかけてキュウリを食った妖怪は、「うん」とだけ言うと、視線をすぐそばにある青々と葉を伸ばすダイコンへと戻した。
「……いや待て。なぜそっちを向く」
「え……まだ、お腹へってるから」
「……なるほど」
ひどく低い声で言って、男は食い残しを埋めた跡を見る。
間違いない。一晩で畑の野菜を大量に食ったのは、この妖怪である。
たまったものではない。このままでは商売上がったり。いや下手をすれば本当に俺が食う分すら残らなくなる。
ため息をひとつ付いてから、男はしばし考えて、家の裏手にある林を指差した。鬱蒼としており、昼でも薄暗い。いくらか獣も住んでいるようだが、まさか妖怪が獣に追い出されるようなことはないだろう。
「……あちらに、林があるだろう。見えるな?」
「うん」
「あそこには、食える草や果実がある」
「知ってる」
「だから畑ではなくあちらの林に……何?」
「あっちの草よりも、こっちのほうがおいしい」
「……そうか」
また、男は考える。つまり、こいつは腹いっぱい食いたいし、美味いものが食いたいのだ。
なるほど気持ちはわかる。わかるが、それを叶えてやるわけにはいかない。こちらも命がかかっている。
「……ここの野菜は、俺が作っている」
「うん」
「つまり、俺がいなくなればここの野菜も無くなる」
「いなくなるの?」
「このまま、お前が好き放題野菜を食えばな」
「うーん……」
ようやく、妖怪は悩むような仕草を見せた。腕を組む……には短いため、胸の前で合わせるようにして、頭の上ではせわしなく触覚を動かしている。
その様子を見ながら、もう少しだ、と男は続ける。
「だから、妥協案と行かんか」
「だきょう?」
「……俺とお前のやりたいことを、半分ずつ我慢するということだ」
「ええー」
「ここの野菜が食えなくなるのは困るだろう」
「うん」
うなずいてくれてはいるが、わかっているのかいないのか。
頭を掻きながら、男は「つまりな」ともう一度林を指さした。
「普段は、あちらの草や木の実なんかを食ってくれ。そのかわり、日に一度は、俺が食わせてもいいと思った分だけの野菜を届けてやる」
「……うーん」
「腹いっぱい食える。そして、美味い野菜も多少は食える。悪くはないだろう?」
「うーん……そうかも……?」
「そうかも」と妖怪はもう一度繰り返す。今度は、何かしらに納得したような言い方だった。
「じゃあ、今日の分もらうね」
「いやいや、待て。さっきのキュウリだろう、今日の分は」
「ええー」
ダイコンの葉に手を伸ばそうとした妖怪を、男は慌てて止める。
これは、中々の面倒を背負い込んだかもしれんぞ。
ぐにょんとした感触の妖怪の手をひっつかんで林へと引っ張りながら、男はまた、眉間にシワを寄せていた。
…………
大陸には、ジパングのそれとは比べ物にならないほど多種多様な人ならざるものたちがいるらしい。
町の貸本屋で読んだ大陸の魔物図鑑――あちらでは妖怪を魔物と呼ぶそうだ――を思い返しながら、男は地面にかがみ込む。
眼の前では、朝も早くから野菜を要求しに来た芋虫のような「魔物」が、丸々としたチシャをもしゃもしゃ音を立てながら喰らっている。かたわらには、空っぽのザルがひとつ。男が町に行って家を空けるために、二日分、キュウリとナスを置いておいたザルだった。
あちらの字は読めないので名前はわからなかったが、図鑑に描かれていた姿はたしかに、こいつとよく似ていた。
つまり、こいつはもともと、大陸のいきものなのだ。
食っている姿をじっと見る男に、魔物はふと顔を上げる。そのまま、一口もしゃりとチシャを喰み、もぐもぐと咀嚼し、飲み込む。
「どうしたの?」
見られていたことへの照れもなく、ただ純粋な疑問だけで魔物は首をかしげた。
「……お前は、ジパングの妖怪ではないそうだが」
「じぱんぐ?」
葉を食いながら、今度は逆に首をかしげる。
その仕草に、おきあがりこぼしのようだと思いながら、男は続けた。
「海の向こうから来たのか」
「うみ?」
「……どこか、遠いところから来たのか」
「……うーん?」
話は遅々として進まない。
しかし、まあそんなものだろう。「まあ、いい」と男は苦笑する。
考えてみれば、俺も赤子の頃の話などできやしない。どこそこの村で三男坊として生まれた、というのも親兄弟のもとで暮らしていたからこそわかることだ。これがたとえば捨て子であれば、自分がどこで生まれたかなどわかりはしないだろう。
そう考えると、郷里というものを持たないこの魔物も哀れかもしれん。何も知らない阿呆のような顔をするせいで、なかなかそんなことは感じさせないが。
「……すこしくらいなら、いいか」
男がつぶやく。
ずいぶんと柔らかいその声に、魔物はチシャの芯を噛み砕くバリバリという音で返事をした。
「ダイコンがよく生ってな。ひとつくらいなら、食ってもいい」
そう言って、昼に食うつもりで採っておいたダイコンをひとつ、魔物に差し出す。
途端に、魔物の目がきらきらと輝く。いつもどことなくぼんやりしているだけに、その様子は珍しかった。
「……いいの?」
「ああ」
「やった」
憐れみから来る行動であることは自覚している。
それを踏まえても、むしゃむしゃとダイコンの葉を食いながら「おいしい」とこぼす子どものような笑顔を見るのは、悪くない。
お前に食われていなければもっとたくさん生っていたはずなのだが、というのは一旦忘れておく。
「これがいちばん、おいしい」
「そうか」
「あしたからも、これがいい」
「明日はニンジンだ」
「ニンジン」
「あの、橙色で細長い野菜だ」
「ええー」
ダイコンの根をボリボリとかじりながら、魔物は不満そうに言う。
しかし、明日実際に人参を差し出せば、文句を言わずに食うだろう。こいつはそういうやつである、と男は知っている。
野菜をやって礼を言われたことなどないが、美味そうに食ってはくれる。
単純なことだが、大事なことでもある。美味そうに食ってくれるやつがいれば、美味く作ろうという気にもなるというものだ。
「……さて」
魔物のいまだ物欲しそうな視線を受けながら、男は野菜の入ったカゴと空のザルを取り上げた。
畑の隅にそれらを置き、納屋から農具を持ち出し、ぐいと背伸びをひとつ。
日が頂点にのぼり、腹時計が昼飯の時間だと知らせるまで、畑仕事をする。
男にとって、それは孤独な時間だった。土と野菜、小さな虫たちとばかり向き合う、言葉のない時間だった。
だが、今は。
「ここで寝るな。寝るならせめて、畑から出ろ」
ザルのそばで丸まって寝ようとしていた魔物の背中を、クワの柄で押す。
ぐにょりとしたその手応えは明らかに人間を押したときのものではないが、男もこの生き物に慣れてきていた。
「ここがいい。やわらかい」
「俺の都合が良くないのだ」
二、三度とつつけば、やがて魔物も折れる。「んー」と不満げな声とともに、土にずるずる跡を残し、向かう先は農具の入った納屋の中。
邪魔であることには変わりないが、畑よりはましか。
口から出かけた文句を飲み込んで、男は来期に使う畝を起こし始める。
魔物は納屋の中からその様子をしばらく眺めていたが、やがてあくびをひとつすると、ささくれた床板もものともせず、長い身体を丸めて眠りについた。
…………
曇りの日が増えてきた。重く湿った風が吹いている。雨期が近い。
そろそろ、また町へ出て、買い物を済ませたほうがいいか。
濃い灰色の雲を見上げながら、男は考える。
とりあえずは味噌と醤油。干し魚もたまには食いたくなる。新しい種も欲しい。
「……また、すこしばかり家を空けることになる」
男は、空を見たままこぼして言った。
言葉が地面に落ちるまで間があったように、足元でキュウリを食っていた魔物は幾分遅れて、「ええ」と間の抜けた、しかし驚いているらしい声をあげた。
「あけるって、いないってこと?」
「そうだ」
「どれくらい?」
「町に行くだけだからな。前と変わらん。まあ、行って、泊まって、翌の昼には帰るだろう」
「わたしもいく」
「行かんでいい」
魔物の這うような歩きは、人間の歩きに比べるとはるかに遅い。手早く済ませたい旅路に伴うには、悠長に過ぎる。
ぴしゃりと言い捨てた男に、しかし魔物は食い下がった。
「いく」
「……もしや、飯の心配か」
確かに、俺がいなければ毎日の野菜ももらえなくなる。
もっともなことだろう、と男は頭を掻く。
「二日分……いや、三日分はあの納屋に置いておく。それも前と同じだ」
「三日分。みっつ?」
「まあそうだな。三つだ」
「いつつ」
「……欲張るな、ずいぶんと」
顔をしかめながらも、男は決して「それはだめだ」とは言わなかった。
魔物が成長していることは、わかっていた。体は若干大きくなり、食う量も増えた。林から畑まで来るまでの道のりにあった食えそうな葉は、みんな食べられてしまったほどに。
「足りない」などと感じられようものならば、また収穫前の野菜を食われるかもしれない。それならば、言われた通りすこし多めに飯を置いていったほうがいい。
ぐるりと畑を見渡して、いくつか形の悪い野菜に目星をつけてから、男は「わかった」とうなずいてみせた。
「五日分置いていこう」
「うん」
「……ちゃんと、五日に分けて食うんだぞ」
「うん」
とうにキュウリも食い終えて、触覚をうねらせながら魔物は繰り返し答える。
本当にわかっているだろうか、という男の心配にはまるで気付いていない。
「……はやく、かえってきてね」
ふと、魔物が言った。
驚き、男は見下ろす。いつも眠そうな魔物の目に不安の色が見えるのは、気のせいか。
「……帰っては来る。お前も、勝手に畑の野菜に手を出すなよ」
「うん」
食欲しか無いように思っていた魔物の意外な素振りに、男もやや戸惑う。
以前町へと行くと言ったときには、「んー」と興味無さそうにキュウリを喰んでいた。それが今日はどうして、こんなにもじっと見つめてくるのだろうか。
さみしい、のだろうか。
こいつもおそらくは子どもである。ひとりで留守番をするようなものだとすれば、さみしくもなるだろうか。
男はひとつ、深々と息をつく。そして、魔物の頭に手を置き、緑色の髪をくしゃりとさせた。香油など付けていないだろうに、その頭は不思議と甘い香りがした。
「俺がいない間は、畑で寝てもいい。野菜を踏まない場所に限るが」
「いいの?」
「だが、雨が降ったら納屋に入れよ。風邪を引くからな」
「かぜ?」
「……いや、お前たちも風邪を引くのかどうかは知らんが」
首を振って、男は「土産のひとつでも、買ってくる」と笑った。
そんな男を見上げる魔物の頭上では、触覚がただうねうねと揺れていた。
…………
町からの帰路にて。
男は足を休めようと、道端の岩に腰掛けた。背負っていた風呂敷を下ろせば、泥をはねながらどしゃりと重く鳴る。
荷が多い。馬を借りるまではいかなくとも、荷車を持つ行商にでも同行するべきだったか。
考えてから、しかし、と首を振る。
家を出てから、既に七日経っていた。
男が町に着いたその晩から降り出した雨は長々と続き、時には強い風も伴う嵐にもなった。荒天の中帰ることはできない。早く止んでくれないものかと願いながらもあれよあれよと出立は延び、今に至る。
考えるのは、あの魔物のこと。
置いてきた野菜は、とうに食い終えているはず。とはいえ飢えることはないだろう。林でも野原でも、食える草はまだまだある。畑の野菜も……飢えるくらいならば、食ってくれていい。
どうにでもなる飯の事情よりも、気にかかることは別にある。
わずかに見えた、あのさみしげな目の色。
あの奇妙な隣人にとっての俺が、ただの飯をよこしてくれる人間以上の何かであるならば。
そう思うと、どれだけ荷物が重かろうとも、これ以上帰りを先延ばしにはできなかった。
「……行くか」
草鞋の底で濡れた草を踏み、泥のついた風呂敷を背負い直す。
帰ったら、文句の一つも言われるだろうか。腹いっぱいになるまで食わせれば誤魔化せないか。買ってきた新しい種は、大きな野菜が生るらしい。大食らいのあいつも、気に入るだろうか。
そんなことを考えながら、歩くこと半刻。
ようやく、男は家に帰り着いた。
畑では、風雨に手ひどくやられたのだろう、手作りの粗末なかかしが転んでいる。七日のうちに、雑草たちもずいぶん伸びた。植えた覚えのない緑が増えている。
まずは草取りから始めなければ。だが、その前に。
荷を下ろして、男は家の周りを見回す。あの大きな青虫のような姿は見当たらない。
畑の野菜は、意外にも手を付けられていなかった。律儀に約束を守ってくれたらしい。その分、林で草や実を食っていたのだろうか。
ついでに畑の世話もしてくれていたらよかったのだが。まあ、そこまで望むのは酷だろう。
ひとりごちて、男は転んでいたかかしを立て直す。頭に乗せていた傘は、どこかに飛んでいってしまったのだろう。
仕方がない。かわりを編むまでは、ザルでも被っていてもらおう。確か、穴の空いたザルが納屋に放り込んであったはず。
そう思い、男は納屋の戸を開ける。
そして、あいも変わらず薄暗いボロの中に、それを見つけた。
「……なんだ、これは」
思わず、つぶやく。
巨大な緑色の、何かだった。
恐る恐る、触れてみる。硬い。まじまじと見てみれば、それは糸を壁面に伸ばして、倒れないように自らを固定している。
まったく馴染みがない、とは思わなかった。間違いなく似たような何かを見たことがある。
硬そうな殻に覆われた、何か。そうだ、これは。
「……蛹か?」
山野の枝葉に、あるいは家や納屋の壁に、いつの間にやらくっついているもの。
眼の前にあるそれは、確かにそういった蛹によく似ていた。
こんな巨大な蛹を作るとすれば、元になる青虫も相応に大きいだろう。そんないきものにも、覚えがある。
「なるほど。こんな大きな物を作るのであれば、あれほど食いもするか」
笑いながら、男は蛹に話しかける。
その頭の中では、納屋に転がって眠っていたあの魔物の姿を思い出していた。
…………
納屋に作られた蛹は、いつ見てもしんと黙ったままだった。
男は農具を取るたびに「邪魔なところに作ってくれたな」と文句を言うものの、やがてその蛹から何かが羽化すること自体は、楽しみにしていた。
あるいは、来る日も来る日も野菜をねだってきていた隣人がすっかり黙り込んでしまい、退屈しているとも言えた。
頃合に実った野菜たちをカゴに入れながら、男は考える。
話し相手がいなくなったのは、元に戻っただけである。それまでは思うことのなかった、さみしい、などという気持ちを持ってしまうのは、あの魔物のせいである。
普通の蛹たちですら羽化するまでどれほどかかるのか知らない。気付けばそこにあり、気付けば中身が抜けている。あれほど大きな蛹ならば、抜け出てくるまで時間もかかるかもしれない。
とは言え、まさかひととせ廻るようなことはないだろう。
自らを励ますように想い、種を植えたばかりの畝に水を撒く。
町で買ってきた、大陸でうまれたらしい野菜の種。キャベツという名らしい。チシャに似て、丸まった葉が重なり大きく生るとか。
それが、あの魔物の産まれた地の野菜であるとまでは思わない。ただなんとなく、異国のものを植えてみるのも悪くないとは思っていた。
そうして、どこかぼんやりと気の抜けたまま、男は一日の仕事を終えた。
彼方の山に日が沈む前に、農具を納屋に片付ける。
町から帰りこの蛹を見つけてから、もう三日は経つ。長々と眠っていれば、腹も減るだろう。
「……早いところ起きて、飯でも食わないか」
話しかけても、返事はない。
途端に、男は自分がひどく女々しく感じられて、がたつく納屋の戸をやや乱暴に閉めきった。
草鞋のつま先で土を蹴り、「まあ」と誰も聞かない言い訳をつぶやく。
気長に待てばいい。畑と同じだ。急かしたところで、どうにもならないものはどうにもならない。
眠り、起きて、変わらぬ蛹の姿を見る。そのたびに、男はただ、同じ言葉で自分に言い聞かせる。
やがて、それすらも馬鹿馬鹿しくなってきた頃。
日の出とともに起き出した男は、外に出るなり違和感を抱いた。
納屋の戸が開いている。
昨日は閉め忘れたのだろうか。鍵もかけられない戸である。開いていようが閉まっていようが、普段はさほど気にかけない。
だが今は、あそこで眠っているやつがいる。獣があの蛹を襲わないという保証もない。
駆けて、男は納屋を覗く。「あ」と、あげたのは、間の抜けた声。
蛹が割れていた。
左右に大きく割れた中身は空っぽで、その殻は思っていた以上に薄かった。
これほど薄い殻ならば、外から話しかけていたのも聞こえていたのではなかろうか。
立ち尽くしたままそんなことを考える男の頭上で、とん、と軽い音が鳴る。納屋の屋根を叩く、スズメの足音ほどに軽い音。
数歩下がり、男は納屋の屋根上に目をやった。
そこにいたのは、少女だった。
身に着けた幾重にも折り重ねられた白い服は、時折大陸から輸入されるドレスという装束に近い。髪の色は薄緑で、頭からは黒い触覚のようなものが長く伸びている。背には、白地に水色と黒の模様が入った大きな翅。朝陽が透けるほど薄いそれは、ひらひらとやまず揺れている。
知っている姿とは違う。それでも、男は確信をもって話しかける。
「ようやく、起きたのか」
「うん。おはよう」
少女は、地を這う魔物だった頃から唯一変わっていない眠たげな目を細めて、答えた。か細い、澄んだ声だった。
「すまなかったな。予定よりも、ずいぶんと帰りが遅くなってしまった」
「うん」
「腹は、減っていないか」
「うん。もう、そんなに食べなくていいから」
「そうか」
落ち着いた様子で、魔物は微笑む。
顔を合わせるなりちょうだいちょうだいと言ってきた頃のことを思い出し、男は少しだけ寂しさを感じる。
だがそれ以上に、またこうして顔を合わせられたことが、自分が思っていた以上に嬉しくて仕方がなかった。
さて、何を話したものだろう。
緩んでしまう口元もそのままに考える男の頭上で、影が揺れた。
軽やかに音もなく、魔物は男のそばへと飛び降りる。その両手は抱えるようにしてカゴを持っており、中には、食べられる野草や山菜が入っていた。
「これ、採ってきたの。あげるね」
「……そうか。悪いな」
差し出されたカゴを受け取り、男は苦笑する。
今まで食った分、こいつなりの詫びなのかもしれない。そんなこと、気にしなくてもいいのだが。
「では、俺も朝飯にしよう。これは……そうだな、味噌汁にでも入れるか」
「ふふ。いっぱい、食べてね」
「ああ」
カゴを抱えて家に戻る男のかたわらを、魔物は寄り添うように歩く。ふと、男はその足元を見た。やけに踵の高い洋靴にもかかわらず、足音も立てず歩いている。当然ながら、土に這いずり跡を残すようなことも、無かった。
…………
「なにか、おてつだい、できることはない?」
「なんっ……何?」
魔物のその言葉に、男は朝飯を食う手も止めて、かつてないほどに驚きをあらわにした。
あのとき納屋で出会ってから今まで、こいつは乞うばかりだった。
それがどうしたことか。食い物を採ってきただけではなく、手伝いを申し出ている。あの蛹の中で、一体どんな心変わりがあったのか。
「何か……何か、か」
眉間に皺を寄せながら、男は味噌汁を啜る。中には、魔物が採ってきたヨモギが入っている。その辺で勝手に育った野草である。味はそこまで良くないが、賑やかし程度にはなる。
「逆に聞くが、何ができる」
「わかんない……けど、したいの。おてつだい」
「……そうか」
あらためて、男は膳の向こうに座る魔物の姿を観察する。
髪も肌も、色が薄い。広がった袖から覗く手首は細く、強く握れば折れてしまいそうだった。美しいことは間違いない。だがそれ以上に、儚い。
その体に野良仕事など、とてもさせられない。
お前がいない間は、退屈だった。何をしなくとも、いてくれるだけでも。
思い浮かんだ言葉に、男は首を振る。唐突なその仕草に、魔物は首をかしげた。
「どうしたの?」
「いや……」
男は、なんでもない、と答えようとして、考え直した。
「……その、翅」
そして、魔物の背にある薄翅を顎でしゃくってみせた。
「飛べるのか、お前は」
「うん」
「では……何も、ここに拘ることも無いのではないか。もう、飛んで、どこへなりと行けるのだろう」
飯がいるのであれば、別のところがあるだろう。食い物がいらないのであれば、こんな退屈な場所にいることもないだろう。
男の中で、この魔物が去る理由はいくらでも思い浮かぶ。
しかし、魔物は強くはっきりと「行かない」と言った。
「ここがいい。ここに、いたい。だから、おてつだいするの」
「……わかった。まあ、何かしら考えておく」
「うん」
そこまで言うのならば、と男はため息をついた。
こいつがどれほど賢いのかもわからないが、飯の炊き方くらいは覚えてくれるだろうか。
自分で炊いた、芯のある硬い米を食いながら、男は考える。
ふと顔を上げれば、じっと見ている魔物と目があった。
人が飯を食っているところを見ていて、何が楽しいのか。
視線をぶつけたまま訝しむ男に、魔物は嬉しそうに「ふふ」と笑った。柔らかく、慈しむような微笑みだった。
朝食を終えれば、男は再び畑に出る。何を言うこともなく、魔物もその後に続いた。
なかなか日々は変わらないものだと男は思う。青虫が蝶になっても、俺が畑の世話をするのは昨日と同じで、明日も同じだろう。
水をやるのも、虫を払うのも、収穫をするのも、今までと何ら変わりない。
とは言え、変わりないだけで、喜びがないわけではない。
土を掘り起こしてどうにか引き抜いたダイコンは、なかなかに立派なものだった。
それは必ずしも味の良さには直結しないが、大きなものが採れるとやはり嬉しいものである。
男はダイコンの身に付いている土を軽く払い、あたりを見回す。さて、あいつはどこに。
「おや」
思わず、そんな声がこぼれた。
魔物は、畑の外にいた。翅で飛ぶわけでもなく、地面にうずくまり、せっせと何かを摘んでいる。
ダイコン片手に男はそばに寄って、その肩越しに手元を覗き込む。
「……花?」
男のつぶやきに、魔物は驚いた様子もなく振り向き、「うん」と答えた。
華美とは言えない、くすんだ黄色や赤色の花。野で見かけることは多くとも、わざわざ名前を知ろうとはしない花たち。それが何本も、どこから持ってきたのか、ビードロの花瓶に挿されている。
「飾るのか」
「ううん。わたしの、ごはん」
「……花を食うのか?」
「食べないよ、お花は」
魔物のくすくすとした笑いを聞き、男の顔にあからさまなしかめっ面が張り付く。
「ではどうするのだ」
「蜜を、もらうの」
「蜜」
「うん。この中に入れると、いっぱい、出てくるから」
答えて、魔物はビードロの花瓶を持ち上げてみせた。
球に筒口を付けたようなその花瓶には、花のほかに水が入れられている。男が顔を寄せてじっと睨みつけてみれば、花茎の切り口からその水に、細く薄い黄金色の何かが溶け出しているようだった。
花の蜜とは、そのようなものだったか。男が思わず首をかしげている間にも、水は蜜色に染まっていく。
「飯は、それだけで足りるのか?」
「うん」
「そうか……」
以前であれば、野菜を手に話しかけようものならば一も二もなく「くれるの?」と言ってきたものだが。今では花の蜜だけで足りるという。
「ならば、これはいらんか」
落胆の滲んだ声で、男は持っていたダイコンに目を移した。
漬物にするか、汁物にするか。あるいは、売ってしまおうか。
無くなってしまった行き先を新たに考えていると、魔物は「え」とビードロ片手に目を丸くした。
「くれるの?」
「いるのか?」
「あ……でも、全部は、いい」
「……そうか」
「うん。だから、いっしょに食べよ」
魔物の言葉に、今度は男が目を丸くした。一人で畑を食い尽くしかねなかったようなやつの発言であるとは、到底思えなかった。
「一緒に、か」
「うん」
驚いた。驚いたが、同時に、嬉しくもある。
外で勝手に野菜を食っていたこいつと、同じ飯を食えるというのが。
「そうだな。では、晩飯に食おう。煮るのは面倒だから、おろしにでもするか」
「おろし?」
「ああ。おろし皿で細かく擦って……と言っても、わからんな」
「うん」
「では、あとで見せてやる」
そうして、料理の一つでも覚えてくれれば都合もいいのだが。
そんな事を考えて、男はふと笑った。魔物の一挙一動に浮かれ沈む自分に、気付いたせいだった。
…………
皿の上で山のようになっていたおろしをどうにか食い切って、男は深々とため息を付いた。
魔物によってまるまる一本を擦り下ろされたダイコンのうち、彼女が食ったのはほんのわずか。ほとんどは、男が醤油をかけながら米に乗せて食うことになった。
「どうだった、おろしは」
「たのしかった」
「そうか」
「あと、食べやすかった。おいしかった」
「それはよかった」
簡潔な感想に、これまた簡潔な相槌を返して、男はあらためて魔物を眺める。
男が晩飯を食っている間、今朝と同じように向かいに座った魔物は、瓶に入った花の蜜を細い筒のようなものを使って飲んでいた。一食分に足りるとはとても思えない少なさだった。
「……美味いのか、それは」
花瓶でも水筒でもあるらしいビードロの容れ物を見ながら、尋ねる。
「おいしい」
「美味いのか」
「うん。飲む?」
魔物は答えを聞く前に、膳越しに身を乗り出して男へと容れ物を差し出す。
一瞬、男はためらった。生まれた村を出る前、まだ親兄弟と暮らしていた頃。摘んだ花の蜜を吸っている兄の真似をしたら、小さな羽虫が口に入ったことがあった。それ以来、蜜にいい印象はない。
とはいえ、あの時とは違い、花に口をつけるわけではない。器に入れていたときを見ても、虫が入ることもないはずである。
「……もらおう」
細い瓶を受け取った男は、ささっている細筒を横にどけ、瓶の口から中身を直接呷った。粘度は高くない。水とさほど変わらないなめらかさで口の中に滑り込んできたそれは、驚くほどに、
「……甘い」
「おいしい?」
「まあ……美味い」
そこらに生えている野花の蜜が、こんなに甘いものだろうか。
首を傾げてから、魔物へと瓶を返す。自分の湯呑みに入れていた、瓶から汲んだただの水を飲んでみれば、口の中に残った味わいがそれすらも甘く感じさせる。すべてが、今飲んだものの味になる。まるで、初めて酒を飲んだときのような感覚だった。
「よかった」
魔物がほほえむ。明確に、男に向けて。
途端に、男の心臓も跳ね、せわしなく鳴る。
この魔物が、幼虫だった頃。こいつは間違いなく、子どもだった。
だが、今はどうだ。
異邦の衣を纏った身は細くはあれども、幼さは無い。肌は白く、唇は紅も差していないはずなのに艷やかに赤い。淑やかに笑う顔立ちなど、随分大人びている。
こいつは、女だ。
突如現れてから今までずっと、意識したことはなかった。しかし、ひとたび気付いてしまえば……感じてしまえば、眼の前の魔物の姿は、途端に強い肉感をもって映り始める。
「……どうしたの?」
魔物がほほえむ。
男の中に芽生えた欲求がその目にぎらぎらと宿っていても、怯えることなく。それどころか、受け入れるように。
男は、ふと町の貸本屋が言っていたことを思い出した。
魔物とは、妖怪とは、そういうものである。どうしてか深い情愛を持ち、見初めた相手には、地獄の果までついていくようなものたちである、と。
では、こいつがここから離れようとしないのは。そういうことでいいのだろうか。
瓶をかたわらに置いて、膝立ちになった魔物はあくまでも優しく、愛おしむような笑みで、男の頬に手を伸ばした。
男はその白く細い手首を掴み、寄せられた魔物の唇に、自らの口を押し付けた。
魔物は拒まない。小さく、「ん」と口の端からこぼしたのは、笑い声にも似ていた。
合わせた唇を、二人、どちらからともなく開き、舌を絡める。ぴち、ぴち、と濡れた音は、虫の音もない夜にはよく響いた。
唐突な口づけはしばらく続き、やがて、息継ぎのために男の方から顔を放す。
一瞬、魔物は名残惜しむように「あ」と呟いたが、おもむろに白い指先で自分の濡れた唇をなぞると、囁くように言った。
「……おいしかった?」
尋ねるというよりも、確かめるような言い方だった。
男は言葉では答えず、口の中に残ったものを確かめる。魔物の味は瓶に入っていた蜜に似ていたが、それよりも更に甘く、熱かった。
どんな酒よりも深酔いしてしまうような。あるいは、何かしらの、毒、のような。
そこで、男の思案は打ち切られた。
魔物が、服を脱ぎ始めたためだった。
白い洋装の下に、肌着は付けていない。乳も尻も、大きく膨らんでいるわけではないものの、柔らかく丸みを帯びている。僅かな衣擦れの音だけを立てて板張りの床に落とした服の上で、女は笑顔のまま、薄く頬を染めた。
男が立ち上がった拍子に、まだ片付けていなかった晩飯の椀が転がって音を立てた。
男は魔物の肩を掴み、床に落ちている洋服と座布団を敷物に使わんと押し倒そうとして――手を止めた。
「……どうしたの?」
「いや……翅が」
男の目は、魔物の背にある薄い羽に向いていた。向こう側が透けて見えるような翅は、床に擦り付けようものならば簡単に千切れてしまいそうにも思えた。
「……ふふ」
魔物は男の気遣いに気付くと、温かく笑った。
「じゃあ、こうする?」
そして、男の肩に手を添えて、そっと押し倒した。
思ったよりは冷たくないが、やはり固い。男は背中で床板を感じながら、緩慢な動きで自身にまたがる魔物を見上げる。
細身の体が赤らんでいるのは、点けっぱなしの灯りのせいだけではないだろう。首も腰も腕も、どこも透き通るように澄んでいながら、手でなぞってみればほんのりと熱い。
体を男の手に撫でられながら、魔物は男の着物に手を入れ、腰の前だけをはだけさせる。擦れた襦袢の奥から引っ張り出した男のモノは、魔物の体よりもよほど熱かった。
華奢で美しい女の中へ突き込むには、あまりに大きい。そのはずだが、魔物は、一度大きく息を吸うと、ためらうことなく、自分の中へとそれを受け入れた。
「は、あ……」
どろどろと、十二分に濡れていたそこは、痛みなど微塵も感じさせず、快楽だけを二人にもたらす。
白い肌を一層紅潮させて、魔物はゆっくりと腰を振る。太い杭のような肉棒を、溶けかけているようにぬめる襞が舐め回す。
いつも眠そうだった目は、潤んで揺れ、甘えるように男を見つめる。
魔物の手が、形の良いへそのあたりに触れる。細身に無理やりねじ込まれた男のモノは、薄い腹を押し上げてぽこりと膨らませていた。
たまらなくなった男が、白い背に手を回して抱き寄せれば、べたりと男の上に倒れ込んだ魔物の口からは「んふっ」と聞いたことのない、緩みきった喜びの声が漏れ出た。
激しい行為ではなかった。声もほとんど上げないような交尾は、それでも、徐々に短くなっていく呼吸とともに終わりに近付いていく。
腰を上下させて抜き差しを繰り返していた魔物の動きも、腰を揺すって一番深い場所に男のモノを擦り付けるような動きに変わっていた。そこで精を受けるのが一番いいと、本能的に理解していた。
「はっ……はっ、ふ……うん……っ!」
浅い吐息と、うめき声。絶頂を迎えた魔物の中が、別の生き物のように男の肉棒に絡みついた。
男もまた限界が近かったところに、ひときわ強い刺激を与えられ、思わず腰を突き出す。どぷどぷと注ぎ込んだ大量の精は濃く、つがいの雌を孕まそうという本能が、そのまま形になったようだった。
「ふっ……ふぅー……はぁー……」
満足そうに深い息を繰り返す魔物の顎に、男が手を添える。その顔を無理やり上向かせれば、魔物は何も言わずとも、ぐいと身を伸ばし、男の唇に口づけをした。
口移しでどろりと流れ込むものは、やはり甘く熱い、蜜の味がした。
…………
大きな緑色の葉を、桶に張った水で軽くゆすぐ。
「ほら」と男が差し出したその葉を受け取った魔物は、迷うことなくそれを口に入れた。
ぱりぱりと、やや厚手の葉は小さな口の中で小気味いい音を立てる。
「どうだ」
なにせ、初めて育てた野菜である。美味く作れただろうか、というささやかな緊張を押し隠して、男は尋ねた。
薄翅を揺らしながら、魔物はごくりと葉を飲み込み、答えた。
「おいしい」
「そうか」
「でも」
「でも?」
「ダイコンのほうが、おいしい」
「……そうか」
育て方を聞き、種を買い、苦心しながら育てたのだが。
男は苦笑とともに、緑の葉を幾重にも丸めた野菜、キャベツを見て笑った。
こいつは妖怪ではなく、大陸から来た魔物らしい。ならば、大陸から来た野菜のほうが舌に合うのではないか。
そんなことも思ったのだが、まあ、そんなことも無かったらしい。
「ね」
「うん?」
「今日、ダイコン、にていい?」
「またか」
「うん。おいしいから」
キャベツへの興味もそこそこに、魔物は随分前に収穫したダイコンへと目を向ける。
醤油で適当に味をつけただけの、ダイコンの煮物。料理とも呼び難いそれは、男が一度作ってやって以来、すっかり魔物の好物になってしまっていた。
好きになれば、覚えもいい。適当に野菜を煮るくらいならば、男が見てやらなくても魔物ひとりでもできるようになるまで、さほど日はかからなかった。そして煮られたダイコンの大半は、やはり男の胃袋に入っていく。魔物はその様子を、蜜を飲みながら嬉しそうに眺める。
「まあ、そうだな。飯は、温かいものが良い」
男が空を見上げる。
灰色の、低い雲。それは雨雲よりも明るいが、冷たい風を落としている。
雪が降る。そんな気がした。
「……町に行って、冬支度がいるな」
雪が降っても、そこまで食うに困ることはない。魔物がまだ幼虫だった頃には備えなどできないのではないか、と思ったが、いざ冬を迎えようという段になれば、倉に入れた野菜の量は、例年とさほど変わらなかった。
しかし、食い物以外は町で買わなければならない。雪で街道が塞がる前に、買い物は済ませておかなければ。
「わたしもいっていい?」
地面に転がされていた丸いキャベツを抱え上げて、魔物は首を傾げる。
「ああ。お前も、色々いるものはあるだろう」
「……ある?」
何がいるのかも分からんのに行くのか。
笑いながら、男は言った。
「いつまでも、その一張羅だけというのもな」
一張羅という言葉の意味こそ分かってはいなかったが、魔物は自分が着ているものを見られたことは理解した。
どうやって作られたのかも分からない白いドレスは、不思議なことに汚れもしなければほつれもしない。
それでも、畑の中を歩き回り時に泥を跳ねることすらあるのに、綺麗な召し物しかないというのは、男も気が気ではない。
「それに」
「それに?」
「いや……」
眠たげな目を向けられたまま、男は口ごもる。顔を合わせているのもためらわれると、桶に張った水に手を浸して逃れた。
「……その服は脱がせ方が分からなくて、困る」
男は桶の前にしゃがみ込み、魔物には背を向けている。
しかし、「ふふ」という鈴のなるような笑い声がやけに楽しそうだったのは、見なくても分かった。
「笑うな」
「うん」
「うん、じゃないだろう」
もう一度、魔物は「うん」と繰り返した。その声はやはり嬉しそうな笑み混じりで、気づけば、男も釣られるように肩を揺らしてくくっと笑っていた。
24/12/22 17:31更新 / みなと