読切小説
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星と梟
 そびえる木々が光をさえぎり、どこまで行っても香るのは土と草の匂いばかり。時折聞こえる獣の鳴き声は反響を繰り返し、すべての木陰から発せられているようにも聞こえてしまう。足元には木の根や蔦、ぬかるみが敷き詰められ、ただ歩くだけでも、体力を奪う。
 何故、森は人の住まう場所ではないのか。森に立ち入ることを人は避けるのか。
 少年は、身をもってその訳を理解していた。

「ここは、さっきも通った……かな?」

 枝葉を茂らせた大樹に手を付き、少年は頭上を見上げる。
 見覚えがあるようにも、初めて見たようにも思われる形に切り取られた空は、濃い青色をしている。
 日が落ちて森が暗闇に包まれるまで、時間はほとんど残されていない。しかし、森から出るためにはどちらへ向かえば良いのかも、未だに分かっていない。

 こんなはずではなかった、と少年は独りごちる。キノコを探しに森に入って、少し道を外れただけなのに、と。
 点々と傘を広げるキノコを拾っては歩き、拾っては歩き。ふと気付いた時には、森の奥深くまで迷い込んでしまっていた。迷子には十分気を付けるべきだとは分かっていたはずなのだが、親の手伝いで度々森に入るうちに感覚が慣れてきてしまい、自分が危険な場所に近づいているということを忘れてしまっていた。「キノコ取りくらい、一人で行ける」と言った数時間前の自分を、殴ってでも止めてやりたい気分だった。
 しかし、悔いている余裕も無い。
 疲労に乱れた息が、白く染まる。その事に気付き、少年は怯える。
 夜の森は、驚くほどに空気が冷える。このまま森で一夜を過ごすことになれば、凍えてしまうか、獣に食われるかのどちらかだとは、想像に容易かった。
 そうなる前に、早く家に帰らないと。それがだめでも、せめて森を出ないと。
 考えるほどに、気は急く。だが、森歩きの心得もない子どもにとって、迷い込んだ森から逃れ出す方法など、分かるはずもなかった。
 ただひたすらに歩きまわり、偶然、森の外に出られることを祈るしかない。
 こつん、と音がして、少年は思わず振り向く。それが、自分の腰につけた水筒が木にぶつかった音だと分かると、今度は無性にのどが渇いてくる。
 水筒の蓋を取り、口をつけて傾ける……が、水は既に、喉を潤せるほどの量は残っていなかった。わずかに口を湿らせた程度で役目を終えた水筒を腰に戻して、再び、少年は歩き始める。ほんの少しだけ立ち止まっただけだというのに、もう、自分がさっきまでどちらに向かって歩いていたのかも、分からない。
 それでも足を止めないのは、ただ、止まっているよりもましだから、というだけの理由。あるいは、立ち止まって考え込んでしまえば、悲観的な重さに心を潰されてしまうと分かっているため。
 いずれにせよ、少年は必死だった。今にも泣き出しそうな目を何度も擦り、はりぼての希望を纏って、どうにかこうにか森を歩いていた。
 そんな状態であるから、当然、音も無く見つめる「何か」の存在になど、気付いてはいなかった。

「……そこの」

 突然聞こえた声に、少年が驚きのあまり足をもつれさせて、転びかける。かろうじて樹に手を付き、その樹を背にして、声の主を探す。

「そこの、人間……」

 気のせいなどではない。静かだが、土に吸われないではっきりと聞こえる、不思議な声だった。しかし、この声もまた木々に反響して、出処がはっきりとしない。
 それでも、少年は声の主を探す。こんな森のなかで、と怯えつつも、他に縋るものは無い。

「……上よ。樹から離れて、振り返って、見上げなさい」

 離れて、振り返って、見上げる。
 言われるがままに動き、そして、少年はようやくそれを見つけた。
 木の枝に止まっている、薄暗い森に溶け込むような、大きな鳥。

「さっきから、がさがさと……道にでも、迷ったのかしら」

 人の言葉を扱う、人ではない何か。
 魔物だ、と少年は理解した。
 森の奥には魔物がいる。だから、気をつけなさい。
 お父さんの言っていたことは、うそじゃなかったんだ。
 魔物は、どういうものと言っていた?人を食べる、怖いものだと。
 じゃあ、あの魔物も?

 魔物の眼光は鋭く、少年を見つめたまま僅かにも動かない。
 それがかえって少年の動きを束縛していた。いや、正しくは、下手に動けばその瞬間に襲いかかられるかもしれないと思い込んだ少年が、勝手に動けなくなっていた。

「……答えなさい。言葉は、通じているでしょう」
「えっ、あの」

 少年の答えを待たずして、魔物は続ける。

「迷ったのか……目的があって、こんな所まで来たのか……ここは……あなたのような子どもが来る場所では……無い、でしょう」

 その静かな声の中に、少年が何らかの感情を捉えることはできなかった。
 分かりづらいだけで、怒っているのだろうか。もしかしたら、ここはあの魔物の巣で、勝手に入った人間に、威嚇しているのかもしれない。
 想像は不穏な方向にばかり広がり、勝手な思い込みによる不安が膨らむ。
 しかし、同時に、小さな希望も少年の内に生まれていた。
 言葉は通じている。少なくとも、木々や獣とは違って、会話ができる。

「えっと……道に迷って……」
「……そう。少し、待ちなさい」

 縋るような少年の言葉に、魔物はどこまでも平坦な声色で言って、おもむろに翼を広げた。
 大きな翼だった。森の色を溶かし込んだような翼は音も立てずに、半円を描く。
 そして、その翼からひとつ、光がこぼれ落ちる。
 星の瞬きに似たその光は、ゆっくりと地に引かれ、少年の前まで降りたところで、留まった。
 得体は知れないが危険にも見えない光に、少年は首をかしげる。

「これは?」
「ちょっとした、玩具よ……人の住む方へと、進むようになっているわ……」
「つまり、これについていけば町へと行けるんですね」
「ええ……見失わないように、気をつけなさい……」
「わかりました。ありがとうございます!」

 ふわふわと漂い、木々の間を抜けながら進み始めた光の玉を、少年は慌てて追いかける。
 見失わないように、見失わないように。
 口の中で繰り返しながら光を追う中、ふと気になって一度だけ振り向いてみたものの、木々に遮られた中に、あの魔物の姿を見つけることは、できなかった。


…………


 あれだけ怖い思いをしたというのに、少年は懲りなかった。
 母親には「遊びに行ってくる」とだけ言って向かうのは、追いかけっこやかくれんぼをして遊ぶ友だちの集まる広場ではなく、面倒見の良い大人たちが端材でおもちゃを作ってくれる作業場でもなく、薄暗く湿った、あの森だった。
 数日の間を置いたところで、森が態度を変えて人を歓迎することなど無い。人間たちが苦労して切り拓いた道にも、森はたくましい生命力で枝を伸ばし、草を茂らせる。数年と言わず、数ヶ月人が歩かないだけでも、道は消えるだろう。
 しかし、少年は懲りてこそいなくても、学習はしていた。
 長い長いロープの端を道端の木に巻き付けて、もう一方の端は自分の体に巻きつける。こうすれば、道を見失うことはないだろう。拙い工夫に全幅の信頼を寄せて、少年は木々の隙間に身を滑り込ませた。
 ロープは木に引っかかり、土に引きずられ、蛇のように這いながら、少年の足跡となって森に浮かぶ。やがて、その長さが足りなくなりピンと張ってしまうと、少年も足を止めて、ロープを巻き取りながら引き返す。
 そうまでして森を歩く少年に、足元のキノコや、手の届くところに生った木の実を取る様子は無い。
 ただ、顎を上げて、自分より高いところにある、鳥が止まるのにちょうど良さそうな枝を探している。

 ロープを結び、張り詰め、解き。
 四度ほどそんなことを繰り返して、腰につけた水筒も中身が半分ほど無くなった頃。
 ようやく、少年は目当てのものを見つけた。

「……あの!」

 手を伸ばしても、跳ねても届きそうにない、高い枝に止まっている、一羽の鳥……の姿をした、魔物。少年が危険を冒してまで探したその姿は、数日前に森で出くわした時と、何も変わっていなかった。
 身を覆う豊かな羽毛は森に溶ける色をしているが、小さな顔にはめ込まれた大きな宝石のような目は、草木では到底隠せそうに無い美しい赤色をしている。
 だが、少年に呼びかけられても、その目はどうにも開ききっていない。言ってしまえば、魔物は眠そうな顔をしていた。

「……あなた、また来たの?」

 少年へと落とした言葉にも、相変わらず感情が籠もっていない。呆れているようにも、笑っているようにも、怒っているようにも、聞く者次第でどのようにも聞こえる声だった。
 そして、少年には、少なくとも怒っているようには聞こえなかった。
 堂々と、魔物を見上げて答える。

「はい。その、お礼をしたくて。こないだは、ありがとうございました。おかげで、ちゃんと帰れました」
「あんまり長いこと迷われていても……騒がしくて困るから……帰しただけよ。それよりも……こんな所まで来たら、また迷子になるでしょう……」
「大丈夫です。今日は、ロープを結んできたので」
「…………そう」

 弛んだロープを誇らしげに掲げた少年に、魔物は何かを言いたかったようだが、結局、落としたのは適当な相槌だけだった。

「それで、あの、これ……お礼です」

 喋る順番が自分に回ってきているのかおそるおそる確かめるように言いながら、少年は肩にかけていたカバンから、いくつかの卵を取り出した。
 ころころと、こぶりな白い球が、湿った草の上に転がる。

「……それは?」
「卵です。うちで育ててるニワトリが産んだんです。美味しいですよ」
「…………ニワトリ」

 少年の言葉を復唱して、魔物は目を細める。

「私も……一応、鳥なのだけれど」
「……あっ」
「仲間の卵を食えというのは……どういう、冗談かしら」
「それは……その……」

 そこまで考えていませんでした、と口ごもる少年を、魔物はじっと見下ろす。
 それから、不意に、ふっと小さく息をついた。

「……冗談、よ。そんなに……困らなくてもいいわ。その卵に命が宿っていないことくらいは……私も、知っているから……ありがとう。後で貰うから……そこに、置いておいて。気をつけて、帰りなさい……」

 途切れ途切れに言ってから、魔物は深々とため息をつき、大きな目をゆっくりと閉じる。
 が、いつまで経っても聞こえてこない草を踏む音に、再び目を開けた。
 薄いまぶたに隠されていた目が、少年の無垢な視線とぶつかる。そこからは、我慢比べだった。ぶつかったままの視線をどちらが逸らすか、続く沈黙をどちらが破るか。

「……まだ、何か用があるの?」

 仕方なく折れて尋ねた魔物に、少年が頷く。

「はい。あの、森のことを教えてください」
「……森のこと?」
「この森には何度も来てるのに、知らないことばっかりなんです。どういう動物が住んでるのか、とか。どれが食べられるキノコなのか、とか……森で迷ったら、どうやって出られるのか、とか。だから、森に住んでいるひとに教えてほしくって」
「図々し……いえ、よく分からないわね……あなたは」

 再び、魔物はため息をついた。

「悪いけど、キノコについては……毒を持っているものがどれか、くらいしか教えられないわ。でも……そう、ね。獣については、教えられる」
「じゃあ、教えてください!」
「…………まあ、いいわ。暇つぶしとして、付き合ってあげる」

 三度目のため息は、何かを諦めたように、言葉とともに吐き出された。
 ばさり、と、魔物が翼を翻す。
 軽く羽ばたきながら目の前に降り立った魔物を見て、少年はその大きさに、少しだけ驚いた。自分とさほど変わらない背丈だと思っていたのは、離れた枝の上に止まっていたせいだった。並んでみると、頭一つ以上は、魔物の方が大きい。しっかりと枝を掴むための硬い足は、地面につま先を食い込ませている。言動とは対照的に、その姿は、人よりも大型の鳥に近い。
 しかし、少年が今更怯んでも、魔物は一切気にする様子を見せなかった。

「まず、この森は……」

 大きな足で器用に挟んだ木の枝をペンのように用いて、土の上に線を描く。
 魔物の語り口は、どこまでも静かだった。
 森がどのような形をしているのか。どのような動物が住んでいるのか。どのようにして、縄張りが決まっているのか。
 何も知らない少年のために噛み砕きながらの説明は、魔物の喋り方と少年の理解を待つための合間もあって短く纏まるものではなかったが、語る方も聞く方も、飽きるような素振りは見せなかった。
 それどころか、少年の好奇心にあてられたのか、魔物の語り口も、心なしか熱を帯び始めているようにも感じられた。あるいは、長くしまいこんでいた言葉たちを解き放つ楽しみを、思い出しているようでもあった。
 そうして熱中していたために、日が落ち始めていると二人が気付いたのは、土に描いた森の姿が見づらくなってからだった。

 足に挟んでいた木の枝をぱたりと落として、魔物は首を縮める。

「……今日は、帰り道は分かるのよね」
「はい。ロープも……切れてないと思いますし」
「そう……それなら、いいわ」

 少年の視点からではただでさえ見上げる形になる魔物の顔が、今では首元のたっぷりとした羽に隠れてしまい、ほとんど見えなくなっている。だが、目と眉の形だけを見ても、その顔はどことなくバツが悪そうな表情をしているように見えた。

「もし、道標を見失ってしまったら、空を見上げなさい……」
「空を?」
「今の季節なら……木々の隙間から見える、三角に並んだ星。その頂点が指し示す方に、人の住処がある……はずよ」
「はず、なんですか」
「……私が、まだ森の外を見ていた頃は、あった。今は……知らないわ。そもそも……星が見えるような時間まで森に居るな、と言うべき……なのかもしれないけど……」

 それで話は終わり。そう言うかのように、魔物は数度羽ばたき、枝の上へと腰を落ち着けた。羽根を畳んだ姿は、斜めに差し込む日を受けて、地面の上に卵のような形の影を作る。影の中には、先程まで魔物が描いていたさまざまな絵が、そのままに残っていた。
 その影をしばらく眺めてから、少年は静かに上を向く。

「あの」
「……なにかしら」
「また、来てもいいですか?」
「…………好きに、しなさい」

 目を閉じたまま答えた魔物に、少年が嬉しそうに笑った。

「じゃあ、また、卵持ってきますね!」

 そう言い残し、意気揚々とロープを手繰ってゆく少年の足音が十分に遠ざかってから、そっと、魔物は目を開いた。

「……退屈は、しないで済みそうね」

 羽の下での呟きは、揺れた枝葉の音にすらかき消されるほどに小さなものだった。それでも、落ち着いた口調のどこかには、少年を見つけたときには含まれていなかったある種の感情が滲んでいる。
 何よりも、首を縮めて隠した口元がずっと笑みを浮かべていたことには、最後まで少年は気付かないままだった。



…………


 森で静かに眠るばかりに見える魔物が、どのようにして知識を蓄えたのか。少年には、見当もつかない。
 ただ、確かなのは、魔物が教えてくれることには、間違いなど無いということである。
 森の形も、生えている草木の種類も、獣の縄張りも、およそこの森に関することすべて、魔物は知り尽くしていた。

「……そこ。足元に生えている……尖った葉。それ……食べてみなさい」

 一つどころにとどまって教えられることが尽きると、魔物は、枝から枝へと飛び渡り少年を導きながら、物を教えるようになった。
 高い枝の上にいるというのに、その目は、少年がしゃがみこんで目を凝らさなければ見つからないようなものも、たやすく見つける。

「どれですか?これ?」
「違うわ……それは、毒草……でも、そうね。似てるから、覚えておきなさい。縦に筋が入っている方が、毒……入っていないほうが……」
「……苦い!」
「……すりつぶせば、良い気付け薬になる。あなたの村に薬師がいるなら……持っていって、やりなさい……」

 時には少年を弄ぶような気軽さを見せつつ、魔物は少年に自らの知識を分け与え続ける。少年の小さな頭の中では、魔物から教えられる全てを収めることはできず、取りこぼしてしまうものも少なくはなかったが、それでも、魔物も少年も、「もう十分だ」とは言わない。

「あ、足跡だ」
「……それは、クマね」
「クマ」
「冬眠のために……食い溜めをしているのでしょう……」

 見れば、大きな足跡に沿うようにして、草花が食われた痕が残っている。その痕を見て、少年は想像する。巨体を揺らしながら、凍てつく冬を越えるために、細々とした食事を繰り返し続けるクマの姿を。他の獣が獲物となって眼の前に現れてくれることを願いながら、落ちている木の実一つひとつに目を光らせ、大きな手でつまみ上げては、口に入れる。雪が降るまえに、草木が眠る前に。

「……当分、森に来るのはやめなさい」
「……えっ」

 突然の忠告に、少年は驚いて魔物を見上げた。想像の中に意識を半分沈ませていたせいで、聞き間違えたのかとも思った。しかし、交わらない視線が、聞き間違いなどではないと語っていた。

「……これから冬が来て、森にも雪が降るわ。人の身では元々歩きづらいのに、加えて雪で足を取られては……あなたのような子どもではすぐに疲れ果ててしまうでしょう」
「でも……」

 首を縦には振らない少年に、魔物は諭すように続ける。

「……二度と顔を見せるな、とは言っていないのよ。でも、冬の間は……森が、人を完全に拒絶する季節くらいは……あなたが暮らすべき場所に、居なさい。それが退屈だと言うのならば……星の場所を、よく見ておきなさい。冬空は、とても澄んでいるから……きっと、色々、見つかるものがあるはず」
「じゃあ、冬が終わって、春が来たら……」
「…………いいえ、春になっても、すぐに来てはいけない。雪の下から起き出した獣たちが、餓えを満たそうと、いつもより貪欲になるから。獣に……襲われるのは、嫌でしょう。そうね……夏が来たら、また来なさい。まだ、飽きていなければ……だけど」

 いつになく饒舌な口に対し、宝石のような目は、決して少年の目を見ようとはしなかった。
 どうして、目をそらすのですか。少年はそう口にしようとして、飲み込んだ。今まで、たくさんのことを教えてもらった。でも、魔物自身のことは、何も教えてもらっていない。きっと、聞いてもはぐらかされてしまうのだろう。
 賢くはない少年にも、それくらいは、想像できた。

「……星は、良いものよ」

 ゆっくりと空を見上げる魔物につられ、少年も頭上へと視線を向ける。
 枝葉の隙間から見える空は、まだ青く、星など一つも出ていなかった。




…………


 冬の訪れとともに、空は灰色に曇る日が増えていった。時折晴れ渡るところは、かえって、いつ雪を降らせようか機会をうかがっているようにも思えた。
 夜、窓際に立つ少年の耳に入るのは、暖炉で薪の爆ぜる音ばかり。時折、両親が一言二言何事かを交わすが、冬の静けさは、その声すら吸ってしまう。

 窓から見える畑には、夜闇でも分かる、白い霜が降りていた。わずかに浮かんだ土は、霜柱が張っているのだろう。
 少年が今よりもっと小さかった頃。作物も育たない冬の間は、畑の霜柱を踏んで歩くのが楽しみだった。ざくりざくりという感触はもちろん、葉や芽が居座っていた場所を自分の足で踏み荒らすことにも、軽い非日常感のようなものを感じていた。
 だが、今の少年は、土に目を落としはせず、静かに夜空を見上げていた。
 薄く開けた口から白い息を吐き、瞬く星々を視線でなぞる。
――星座。
 少年は、魔物が言っていたものを思い出す。
 星と星を繋ぎ、絵を見出したもの。生き物も、生きていないものも、あらゆるものが、夜空には浮かんでいる。
 言いながら、魔物は土に枝で打った点を、線で繋ぎ、囲む。
 これは、水瓶。これは、タカ。これは、ハープ。これは……。
 何時になく上機嫌で説明するものの、魔物が描くいくつもの「星座」は、少年には出来の悪い絵にしか見えなかった。
 今、空を見上げて自分の中で描き出す星座も、出来の悪い絵以外の何物でもない。
 草を食むウシも、吠え立てる犬も、うつむく女神も、すべて、どこかが妙に出っ張っていたり、へこんだりして、不格好になっている。瞬く一つひとつの星たちも、勝手に結び合わせられ困っているようにも思えた。
 本当に、絵に見えるのだろうか。それすら疑わしくなり、少年はため息とともに、視線を降ろした。

 少年の家から、森は見えない。
 だが、きっと、森にも雪が覆いかぶさっているだろう、とは想像できた。
 雪を被った森のなかで、あの魔物はどうしているのだろう。
 寒くないのだろうか。お腹は空かせていないだろうか。
 あるいは、クマがそうすると言っていたように、冬の間は、ずっと眠っているのだろうか。
 考えても考えても、少年の脳裏に浮かぶのは、枝に止まったまま目を閉じている魔物の姿だけ。起きているのか寝ているのかも分からず、ただ、凍りついたように畳んだ羽の中に身をうずめて、浅い呼吸を繰り返している。

 また、父親と母親が一言二言と、会話を交わした。
 雪が降るまえに、もう一度、町へ買い出しに行っておこうか。
 薪の弾ける音に混ざって続く会話は、少年にも向けられていたが、夜空を見上げたままの少年は、上の空だった。


…………



 そして、春が来た。
 雪も霜も、冬は足跡すら残さず立ち去り、それらと入れ替わるように、暖かな空気と柔らかな芽吹きが満ちる。
 草も木も人も獣も、命あるもの全てが、春の訪れに歓喜し、声を上げる。

「ねえ、これ、何が鳴いてるの?」

 夕食を終え、片付けを手伝いながら、少年は父親に尋ねた。
 遠く、どこかから聞こえる、何者かの鳴き声。鳥、のようだった。さえずりと言うほど可愛らしいものではない、何かの感情を抑え切れないとでも言うような、甲高い鳴き声。日も落ちて暗くなったというのに、一定の間を置きながら鶏鳴のように響いている。
 しかし、少年の疑問に、父親は柔和な笑みを浮かべて、首を傾げただけだった。
 少年の父親は、普通の人間である。知識を食らい生きるような性質の者ではない。知らないことなど、山のようにある。
 それが普通のことであり、あの魔物のように、聞いたことすべてに答えを返してくれる方が珍しいのだ、とまでは、少年の考えは及ばない。
 どうしても、静かながら聡明な魔物と、人々を比べてしまう。

 また、ひとつ、何かが鳴いた。
 遠く、小さく。だが、不思議なほどに耳につく。
 奇妙なほどに、心がざわめく。

 両親に「おやすみ」と告げてベッドに入っても、まだ、その声は聞こえていた。
 聞こえるたびに、少年は、眠りから遠ざけられた。
 不安とは違う、焦がれるような胸騒ぎは、やがて、少年を突き動かした。

 玄関から出ては両親に見つかってしまうから、と、靴を履いて、窓からこっそりと家を抜け出す。村の中では足音を殺し、柵を乗り越えてからは、一心不乱に駆けた。
 最後に村の外へと出たのは、秋だった。あの頃には既に草花は眠りについており、赤茶けた枯れ草も多かったが、今、道の両脇に茂る草花は青々と生きている。昼間は陽光を一身に浴びていたであろう葉は、月の光の中にぼんやりと浮かび上がっていた。

 それは、森の中でも同じだった。
 はるか頭上で屋根のように伸びた枝たち。その隙間からわずかに降る光を求めて、地上では競い合うように緑が伸びている。
 枯れた葉の混ざった土の匂いではない、生きる緑の匂いに包まれながら、少年は耳を澄ませた。迷子にならないためのロープを忘れたことなど、気にも留めなかった。それどころか、森への恐怖すら、消えてしまっていた。夜の暗い森で足も取られずに歩けることへの違和感は、微塵も生じていなかった。

 村にまで聞こえていた鳴き声は、やはり、この森から聞こえていた。
 しかし、どれほど歩き回っても、正体は分からない。遠くに、あるいは近くに。前に、あるいは後ろに。鳴き声は、聞こえるたびに場所が変わる。それでいて、決して追えない場所にはいかない。
 見えない何かに操られるように、少年は森をさまよう。危険な獣に出会うこともなく、地を這う蔦に躓くこともなく、ただ、さまよう。

 そして、声がついにすぐそばで聞こえたと思った瞬間、それを見つけた。
 闇の中に浮かび上がる、赤い点。
 月明かりも届かない、絡み合った枝葉の下で、小さく、だが何よりも美しく、灯っている一対の光。
 見覚えのある、恋い焦がれすらしていたもの。
 少年が、「あれは眼だ」と気付くのと、意識を失うのは、ほぼ同時だった。



 何か、柔らかいものに包まれていた。
 温かく、ふわふわとした、何か。
 鼻につくのは、草の匂い、土の匂い、獣の匂い。
 そして、それらの匂いではとても隠しきれない、濃く甘い、発情したメスの匂い。

「……起きてしまったの?」

 ようやく、少年の目が暗闇に慣れ、目の前にいるものを捉える。
 赤い、鋭い目。間違えようがない。あの魔物だった。

「まあ……起きていても、眠っていても……構わないわ……」
「それはどういう……っ!?」

 疑問を口にしようとした少年の身に、下半身からぞくぞくとした快楽が走り、言葉が切れる。
 何が起こったのか、まるで分からなかった。
 ただ、自分は一糸まとわぬ姿で何かの上に寝かされ、魔物に覆いかぶさられている。そして、それによって未知の快楽が起こったのだとは、予想できた。

「……愚かね。ええ、愚かよ、あなたは」

 魔物が呟くと同時に、その赤い眼が、奇妙に揺れた。
 身を捩り、抵抗しようとした少年の意識が、乱れた。自分で自分の行動が決められなくなり、身を委ねることが自然である、と認識が振れる。

「来るな……と、言ったはずよ。忘れたの?それとも……獣に襲われたくて、わざと来たのかしら。どちらにせよ……」

 再び、魔物の目が揺れた。
 より深く、より大きく、少年の心が転がされる。魔物の手の上で、弄ばれる。

「あなたのような愚かな人間……もう、放っておくわけには、いかないわ……」

 細く差し込む月明かりを頼りに、少年は魔物の顔に浮かんだ笑みを見た。今まで一度も見たことのない、彼女の欲望がそのまま表れたような、笑顔だった。
 その顔に見とれていた少年を、魔物はそっと羽根で撫でた。細い体をくすぐるように羽根が脇腹やへそをなぞり、意思とは関係なく、少年の身を悶えさせ、笑い声をこぼれさせる。
 だが、羽根が薄い胸板を辿り、乳首を撫でた瞬間、少年の口からは高い嬌声が上がった。

「ひっ、あっ……!?」

 乱れた思考の中でも、男である自分が妙な声を上げたのだとは理解でき、少年は羞恥に顔を赤らめる。しかし、魔物はむしろそれを喜ぶかのように、少年を羽根で弄び続ける。

「安心、して……ここは、私の巣だから……」

 少年の幼い性器が、胸からの快感で跳ね、震えた。そこが性感帯であることなど考えたこともなく刺激を与えられたこともない乳首が、魔力と手技と嗜虐心に開発されてゆく。魔物は、それを自らの体で覆い隠した結合部ではっきりと感じ、一層意地の悪い笑みを浮かべた。

「あなたがどんな声を出しても……私に、どんな声を出させても……誰にも、聞こえない、から……」

 魔物は、少年を昏睡させて巣に運び込んでから、今までずっと、ただ繋がったままだった。精を搾り取るわけでもなく、自らの快楽を貪るわけでもなく、自分の全身と少年の体を余すところなく密着させたまま、少年を見つめ愛でていた。
 だが、それでも、魔物の体は、性に不慣れな子どもの体には刺激の強すぎるものだった。動いていなくても、緩やかに戯れるだけで、快楽は射精というはっきりした終着に向かう。
 ほんの僅かな動きすら愛撫に変わる柔らかな羽も、豊かな羽毛に隠れた肉付きの良い体も、濡れそぼり柔らかく食む秘裂も。すべてが、男というものを狂わせるためだけに作られている。
 そんな、並の男ならば早々に快楽に心を囚われてしまうような体が、今は、ろくに性知識も無い少年に向けられている。耐えられるはずなど、無かった。

 今や、少年は魔物の眼に、体に、言葉に思考をかき乱されて、自分の名前すら曖昧になっていた。そんな中で、一つだけ、「とても気持ちいい」ということだけがはっきりしている。そのはっきりしたものに縋れば縋るほど、若い体は魔物に都合よく変えられてゆく。
 触れられている場所すべてからもどかしいような快楽が集まり、下腹部でくつくつと煮詰まってゆく。頭も、体も、魔物の思うがままに弄ばれ、何一つ、少年の思うようにはならない。
 本能的に悟っている、楽になるための方法すら、魔物は選ばせてくれない。

「……子を作る方法、というのは……知っている……かしら?」

 唐突に、魔物はそんなことを訊いた。
 質問の意図も答えも分からない少年は、素直に首を横に振る。

「女の体に、男が快楽に任せて精を吐き出す……そう、ね……今、ちょうどやっているみたいに……あなたが、私の体に溺れてしまえば……子どもが、できるのよ……」

 子を為す。それがつまりどういう事なのか。それくらいは少年にも理解できるはずだった。
 しかし、今、少年の頭の中は乱れに乱れている。自分が。魔物が。子どもを。親に。言葉は浮かぶが、どれもがばらばらになってさまようばかりで、一つに繋がろうとはしない。

「ねえ……気持ちよく、なりたい……?」

 気持ちよく。もう、十分に気持ちいいのに。今よりも、もっと?
 誘導とすら呼べないような問いかけにも、少年は、迷うことなく頷いた。
 たとえ、その結果がどこに繋がるのか分かっていたとしても、拒否など選べなかったであろうほど、魔物の交尾は、そこから起きる快楽は、抗いがたいものだった。

「……いい子ね。素直な子は……好きよ」

 優しく、子を想う母のような慈愛すら感じさせる笑みで、魔物は少年を褒める。だが、言葉や表情とは裏腹に、少年の唇に落とした口づけは、乱暴で、貪るような行為だった。
 舌を絡め、唾液を啜る、キスなどと呼ぶよりも、口での性交とでも呼んだほうが正しい、暴力的で淫靡な交わり。じゅる、ぐちゅ、という濡れた音が、口から直接互いの頭に伝わり、その音がさらなる興奮を煽り立てる。その間も、魔物は少年への愛撫の手を休めない。乳首だけでなく、首筋や脇なども責め立て、元々敏感な体に、快楽神経をむき出しにさせる。そうしながらも、自分が快感を得ることも、忘れてはいない。挿入された少年のものを更に奥で感じるために腰を押し付け、肉壷の襞すべてで子どもの性器を愛でる。上体も、少年の細い体にこすりつけては、自分の大きすぎるほどの胸と、その先端でぷっくりと膨らんだ乳首で、しびれるような快感を得る。
 だが、何よりも快楽を得ているのは、一瞬たりとも少年の目を見つめることをやめない、魔物の美しい眼だった。
 愛しいオスが自分の体に酔い、快楽で狂いかけている姿を、涙を浮かべながら揺れる目を、見つめる。それだけで、魔物は軽い法悦にまで至ってしまうほどの悦びを感じていた。
 もはや、魔物はその眼から溢れる魔力を抑えようともしていない。選んだオスを自らのものにするという本能のままに、見つめ合う瞳であらゆる魔法を少年にかける。魅了という一語に括られる、あらゆる魔法を。
 内と外からの調教は、あまりにも強引で、いよいよ、少年の意識は歪む一歩手前まで差し掛かる。
 無意識で握りしめている不安を手放してしまえば、快楽に、身を委ねてしまえば。

 そして、魔物は誘う。

「……そう、ね。一緒に……ねえ、一緒に、気持ちよく……なりましょう……」

 魔物の声は、上ずっていた。
 今にも弾けてしまいそうなものを必死に我慢している、そんな声だった。
 その我慢も、少年の首肯が、終わらせた。

「……ふふっ。やっぱり、いい子ね……とても、素敵だわ……もう……もう、どこへも行かせない……私の……私だけの……」

 暗い、巣の中。魔物の目が一際美しく、強く輝いた。
 その瞬間、少年は、自分の中で溜まっていた何かが弾けるのを感じた。溜め込まされ、膨らまされた快楽が、射精という行為によって、強烈な快感に変わる。
 大量の、ゼリーのように固まった精液を吐き出すたびに、少年はあごを反らし、声にならない悲鳴をあげる。

「……だめ、よ。その顔も……ちゃんと、見せて……」

 そうして反らした顔も、魔物の羽に包まれ、正面へと向き直らされる。

「ああ……止まらないわね……とても、気持ちよさそう……とても、とても……」

 魔物は、自分の体を満たす精液を感じながら、同時に少年の視線も楽しんでいた。少年の、許容量を越えた悦びに振り回され続ける目は、魔物にとって、一番深い場所で感じる精と等しく、愛おしい喜びをもたらしてくれる。

「分かる……かしら?私も……私も……さっきから、ずっと……っ!」

 不意に、魔物が体を震わせた。より多くの精を搾り取るために、少年を締め付け、愛し、見つめる。そうやって得られた精がまた、魔物を歓喜に震わせる。
 その繰り返しは、少年が溜め込んでいた精を出し尽くし、指一本動かせなくなるまで続いた。
 下腹部に感じる青い熱を感じながら、魔物は満足そうに笑う。

「……えらいわね。こんなにいっぱい出して……私も……お腹いっぱい、よ……」

 しかし、褒め言葉は、少年の耳には入っても、反応を生みはしなかった。どこか深いところへ沈んでいくような疲労感が、少年を眠りへと導く。
 まぶたが落ち、魔物の顔が見えなくなる。

「……ええ、ゆっくり……眠りなさい」

 直前まで精を貪っていたとは思えないほど、魔物は優しく言い、少年を抱きしめた。子守唄など無かったが、ただ抱きしめるだけでも、少年を寝かしつけるには十分だった。

「何も……怖がらなくていいわ……ここは、私の巣だから……そして……あなたの……」

 ふわり、と、魔物の羽が少年の全身を包む。
 その羽毛は、今まで少年が触れたどんなものよりも柔らかく、心安らぐ香りがした。


…………


「……食べなさい」

 巣へと戻ってきた魔物は、どこからともなく取り出した干し肉を、少年に押し付けた。
 少年は、寝ぼけ眼で受け取った干し肉を何も考えず口に運ぼうとして、けほ、と小さく咳をする。

「……お腹よりも、喉が」
「飲みなさい」

 渇きました、と少年が言い終える前に、今度は皮の水筒が少年に押し付けられる。
 少年が振ってみると、水筒はちゃぽちゃぽと中身を鳴らした。木の蓋を開けてぐいと呷れば、水はとても冷たく、澄んでいた。
 喉の渇きも癒えたところで、少年はきょろきょろと周りを見る。
 家、というよりも、巣だった。
 木の板を適当に貼り合わせた、箱型の巣。細長く切られた出入り口から外を見るに、どうやら樹上にあるらしい。
 驚きはしなかった。ただ、「こんなところで暮らしてたんだ」と、魔物について一つ知ることができたという喜びがあった。

「……食べないの?」

 魔物に言われ、少年は自分が干し肉を持ったままだったことを思い出す。
 返事の代わりに齧ってみると、干された肉は硬く、塩辛かった。

「…………どうして」

 しばらく少年を見つめていた魔物が、躊躇うように、呟く。
 魔物の眼は、赤い。変わらず美しいが、今までとは、何かが違う美しさを孕んでいる。

「森には来るな、と言った……はず。なのに……どうして、来たの……?」
「それは……」

 噛んでも噛んでも噛み切れない干し肉に屈し、水で流し込んでから、少年は、思い返す。
 森に来た理由。それも、危険なはずの夜に、来るなと言われていた森に。

「……呼ばれた気が、したんです」
「……誰に?」
「分かりません。でも……鳥の鳴き声、だったと思います。何かを叫んでるみたいな声で、どうしても気になって……気付いたら、森に来ていて」
「…………そう」

 そっけなく相槌を打ちながら、魔物は少年の頭に翼を伸ばした。先端の羽根を器用に使い、少年の髪を撫でる。柔らかく梳く、上等なブラシのような感触に、少年はつい口元を緩めた。その表情を見て、魔物の目も優しげに細められる。

「……鳥に呼ばれるなんて、あなたは本当に……おかしい、子ね」
「おかしい……のかなあ。森にいたなら、聞こえてましたよね?あの鳴き声って、何の動物の声だったんですか?」
「…………知らないわ」
「知らないんですか?」
「……ええ」

 あくまでも否定を繰り返す魔物の言葉を、少年は素直に受け取る。

「なんでも知ってると思ってました。知らないことも、あるんですね」
「当たり前でしょう。私は……全能では、ないわ」
「他には、どんなことを知らないんですか?」
「……難しい質問を、するわね」

 それは、呆れているようにも、考え込んでいるようにも聞こえる言葉だった。
 羽を畳み、襟の羽毛に口元を埋めたまま、しばらく、魔物は床を見つめる。
 そして、おもむろに言った。

「……名前」
「名前?」
「あなたの名前を、知らないわ……それに、私の名前も……」
「自分の名前を、知らないんですか?」
「……必要なかったから。誰も……私と話なんて、しなかったもの……」

 嘘ではなかった。そもそも、人が森に来たところで、わざわざ迷うような場所まで踏み入ることなどなかった。
 魔物がいるという噂が立っている場所で危険を冒し、あまつさえ出会った魔物と会話を試みる者がいるなど、考えてもいなかった。

「じゃあ、名前を探しましょう」

 だからこそ、魔物は、少年が当然のようにそんな提案をしたことに、少なからず驚いた。

「……どうやって?」
「えっと……」

 言い出しておきながら具体的な案を持たなかった少年は、誤魔化すように視線をさまよわせる。きょろきょろと、巣の中を、外を見ては、左右に首をかしげる。
 だが、巣の出入り口から顔を出し、外を眺めたところで、何かを見つけて戻ってきた。

「じゃあ、僕が思いついたものを言っていくので、聞いていてください」
「……構わない、けれど……聞いているだけで、いいの?」
「はい。星にも、そうやって名前を付けてたんです」

 少年の言うところを理解しかね、首を傾げた魔物に、少年は「えっとですね」と続けた。

「星座は教えてもらったけど、星の一つ一つには、教えてもらってなかったから、名前がいるなって思って。それで、思いついた名前を言っていって、その時に光った星に、その名前を付けたんです」
「……随分、暇を持て余して…………いえ、私も……変わらない、わね……」

 少年に教えた星座も、魔物が自分で考えたものが少なくない。星に名を付けるのも、線で結んで形を見出すのも、大差は無かった。

「でも……私は、名前を聞いて光ったりは……しない、わ……」
「光りますよ」
「……どこが?」
「眼が。光る、というよりも……ぼんやりするというか、ふわっとするというか……とにかく、そんな感じになるんです」

 信じられない、とでも言うように、魔物は目を細めた。魔力を持つ赤い目で壁を見つめ、天井を眺め、それから、羽で触れてみる。

「……知らなかった、わ」
「どういう時に光るのかは、僕も知らないんですけど……でも、たぶん、悪い時じゃないって思うんです」
「……そう、ね。きっと……そう、だわ」

 じゃあ、と、少年はぽつりぽつり、名前を挙げはじめた。
 花の名前、動物の名前、食べ物の名前……。
 種類を問わず、本当に、思いついたままに、知っている名前を。
 その中に、魔物の名前になるものがあるのか、今はまだ分からない。
 ただ、互いの目を見つめ合う二人は間違いなく、幸福そうな表情をしていた。
18/11/16 21:43更新 / みなと

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