読切小説
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吹雪の山と雪の精
 その日の雪山は、気まぐれだった。
 旅人が足を踏み入れた時は穏やかであったのに、急に強い風が吹き始めたかと思えば、瞬く間に全てを凍て付かせるような吹雪へと変わった。
 横薙ぎの風に乗り、雪だけでなく、氷の粒までもが旅人の身に叩き付けられた。
 万全の用意をしていたはずなのに、厚い外套も、ブーツも、何の役にも立たなかった。
 麓の町で聞いた話では、道なりに歩けば、雪山を越えるのはそう難しくはない、容易く向こうの町へ辿り着けるはずであった。
 しかし、それはあくまでも吹雪いていない時の話。

 吹き付ける風が体から熱を奪う。体に張り付いた雪は、溶ける事無く次々と積もっていく。
 ただ呼吸するだけでも、口が、鼻が、肺が冷えて苦しい。
 喉が渇いたが、今頃は、水筒の中身もカチカチに凍っている事だろう。
 じっと耐えて歩く旅人の視界には、もはや、道らしい道はまったく見えていなかった。

 帰る場所の無い旅を続けている限り、骨を埋める場所も選べない。それが、旅人というものだ。
 食料が尽きて、崖から落ちて、獣に食われて、魔物に襲われて、病で、怪我で、様々な理由で、思いもよらぬ時に命を落とす。
 雪山で吹雪に巻かれて死ぬのも、それが自分の旅の終わりだというだけだ。

「……こっちに、来て」

 幻聴まで聞こえてきた。可愛らしい少女の声だ。
 なるほど、死神とはこういった声に姿を与えた物か。死を予感した人間の精神とは、なんと不安定なのだろう。
 少女の声を拒むように、旅人は前を睨み、歩き続ける。

「……そっちは、だめ」

 再び、声が聞こえた。先ほどよりもはっきりした声に、旅人は足を止めた。

「こっちに、来て」

 気配を感じて振り返る。吹き荒れる氷雪以外には何も見えない。しかし、確かに何かがいる。
 そういえば、麓の町で聞いた話には、雪山には雪男が出るなんてものもあった。
 道に迷った人間を案内するふりをして洞窟に誘い込み、頭から食ってしまうのだという。

「……そっちは、だめ。こっちに、来て」

 何も見えないが、やはり、少女の声だけは聞こえ続けている。
 寒さで回らない頭で、旅人は必死に考える。
 声の主が噂の雪男なら、着いていけば食われるに違いない。しかし、本当に助けてくれようとしているなら?
 そもそも、雪男に案内された人間が全員食われているのなら、そんな噂すら残らないのではないか?

「おねがい、こっちに、来て……」

 悲痛さすら感じる声を聞き、旅人は覚悟を決めた。
 恐らく、このまま自分の感覚で歩いていても、凍えて死ぬだけだ。それなら、雪男、あるいは雪女の誘いに乗ってやろう。
 もし食おうとしてきたら、ナイフで刺して、逆に食ってやる。無論、そんな事を出来る体力は残っていないが。

 向きを変えて、気配を感じる方へ向かって歩く。

「よかった……こっち、きて……」

 優しい声だった。見えない何かは、吹雪の中に姿を隠したまま、気配と声だけで旅人を導いた。
 少し手を伸ばせば触れられそうだが、どれだけ手を伸ばしても届かない。
 不思議な距離で、ずっと、旅人に寄り添って、励まし続けた。

 そうして、何かに導かれて旅人は歩き続けた。
 やがて、吹雪は弱まり、徐々に開けてきた視界の向こうに、光が見えた。

「もうすぐ、だから……」

 少女の声がそう言うと同時に、吹雪は止んだ。

「……越えられたのか」

 雪がはらはらと舞う雪原の向こうに、灯りの点っている町を見ながら、旅人は呟いた。
 同じ雪景色でも、生命を奪う雪山とは対照的に、その雪原は静かで美しかった。

 もう少しだけ歩けば、町へと辿り着ける。既に指先の感覚が失われた足で、一歩踏み出す。

「よかった……ばいばい」

 ずっと隣を歩いていたはずの少女の声が、後ろから聞こえた。
 ずっと隣にいてくれたはずの気配は、気付かぬうちに雪山へと戻っていた。
 思わず、旅人は振り向いていた。

 真っ白な雪の中、ぶかぶかの外套を纏った、雪のように白い肌の少女が、手を振っていた。

 旅人が手を振り返そうとした瞬間、冷たい風が吹き乱れ、氷雪が二人の間を遮った。風が止んだときには、少女の姿は消えていた。

 ふらりと、誘われるように雪山へ戻ろうと足を踏み出したが、数歩戻った所で、拒むように、吹雪は勢いを増した。

「……分かったよ」

 冷たいため息をついて、旅人は雪山に背を向け、人の集落へと歩き出した。

 雪山から離れても、町までは、もう少しだけ距離があった。

 積もった雪に足を埋め、もう少し、もう少しと自分を励まし続けていたが、雪原を抜けて、大門から町へ入った頃には、今にも倒れそうに、足は震えていた。
 雪だるまを作って遊んでいた子ども達に宿屋の場所を聞き、なんとか宿屋へたどり着きはしたが、それと同時に、足から力が抜け、床に崩れ落ちた。

 旅人は、恰幅のいい宿屋の主人に抱えられて、空いていた部屋に運ばれた。
 すぐに暖炉に火が入れられ、医者が呼ばれた。何度か、こういった事があったのだろう。とても慣れた対応だった。
 やがて、薬やらなんやらの入った鞄を持った、年老いた町医者が駆けつけた。

 濡れたブーツを脱いで、紫色に変色した足をさらけ出す。
 白い髭をたくわえた老人ではあるが、町医者の目には、長く何かを続けてきた者特有の、冷静で鋭い光を宿っていた。

 診察を受けながら、旅人はうとうとと船をこいでいた。
 熱を失い、疲労が満ちた体に、暖炉の暖かさがじんわりと染みる。
 今なら、炎の中に足を突っ込んでも平気かもしれないなどという事まで考えてしまう。

「凍傷だねぇ。薬でどうにかするよりも、ゆっくりと暖め続けるのが良い。
 しばらくは、この町で休んでいる方がいいだろう。少しくらいなら問題ないが、あまり歩き回るのは足に悪い。なに、切ったりする必要は無い。そこは、安心していいよ」
「そうか、それはよかった」

 医者の言葉に、夢見心地で返事をする。

「一日二日休んだら、町を見て回るといい。雪ばかりで退屈かもしれないが、飯は美味い」

 道具を纏めながらそう言った医者に頷く。
 あまりの眠さに、言葉も出なくなっていた。

「ああ、女将。あの部屋の暖炉、火を少し小さくしてやってくれ。寝ている間に、足が焼けたりしたら困る」

 眠りに落ちる寸前に、医者が女将にそんな事を言っているのが聞こえた。


 奇妙な夢を見た。
 吹雪の中で、少女が手招きをしている。透き通るような白い肌に、幼い体つき。
 こっち、こっち。そう繰り返して、こちらを呼んでいる。
 一歩、足を踏み出すと、少女も、一歩、遠ざかった。
 近付こうとしても近づけず、それでも、少女は手招きをやめない。

 ずっとそんな事を繰り返していると、目が覚めた。

 暖炉の火は小さくなっていたが、それでもまだ、部屋を暖め続けてくれていた。
 旅人は体中の痛みに顔を顰めたが、それが旅の疲れか、椅子で眠っていたせいかは分からなかった。
 足は、多少人間らしい色に戻ってはいるが、痺れたような感覚があった。恐る恐る立ち上がってみると、途端に足先に激痛を感じて、その場に蹲った。

「あら、起きてたの……ちょっと、大丈夫?」

 開きっぱなしだったドアから、幾重にも服を着込んだ女性が部屋を覗き込み、驚いたように旅人に呼びかけた。
 胴から上は人のものだが、腰から下は大蛇の姿、いわゆる、ラミアと呼ばれる魔物だった。

 燃えるような赤い髪と赤い尾を雪解けに濡らし、もこもこに厚着をして、襟巻きまで付け、それでも寒さで鼻と耳を赤くしたラミアの姿は何ともおかしかったが、それを見て笑う余裕は、旅人には無かった。

「少し待ってなさい。そろそろ、ご飯ができるはずだから」
「ああ……ありがとう、ございます」

 歯を食いしばっていた旅人は、額に汗を滲ませながらも何とかお礼の言葉を絞り出した。
 それを聞いて頷いたラミアは、くしゅん、と可愛らしいくしゃみを一つ残して、廊下の向こうに消えていった。うねうねと床を動く尾の先には、白い雪がうっすらと付いていた。
 その直後に、宿屋の奥、厨房から話し声が聞こえた。

「もう、アタシが寒いの苦手なの知ってるんだから、買い物くらいかわりに行きなさいよ!」
「鍋を火にかけたまま、放っておくわけにもいかないだろう」
「鍋を見るくらい、アタシにもできるわよ!」
「いや、鍋を任せたら、勝手にスープに蛙の肉を足したのを、俺は忘れていない」
「あれは……美味しかったからいいでしょ!」

 どうやら、あのラミアはこの宿屋の女将らしい。主人に向かって、何やら文句を言っているのがよく聞こえた。
 そして、入れ替わりに、今度は宿屋の主人が部屋へと顔を出した。

「傷が痛むか。それは、治りはじめた証だ」

 安心したといった様子で人の良さそうな笑顔を浮かべ、その手には小さな瓶を持っている。

「おかげさまで、いくらか感覚が戻りましたよ。物凄い痛いし、まだ、歩くのは厳しそうだけど……」
「焦らず、ゆっくりと、歩けるように戻していけばいい。薬を持ってきた。塗っておけ」

 薬の入っているらしい瓶を、主人はテーブルの上に置いた。旅人も何度か見た事がある、一般的な外傷薬だった。

「足の皮が膨らみ、破けていただろう。あんまり冷えると、人の体はそうなる」

 言いながら、主人は瓶の蓋を外し、綿棒を薬に浸して、旅人の足に塗りこんだ。柔らかい綿棒が触れただけでも、旅人は苦痛に声をあげた。

「凍傷は、治る時の方が痛むものだ。俺も、凍った湖に落ちたときは同じように苦しんだ」

 薬が塗られるたびに走る、むき出しになった神経を擦られるような激痛に、旅人は涙を浮かべながら耐えた。
 塗り終えられる頃には、強く握った手のひらに爪が食い込んでいたが、主人は、「そっちは薬はいらないだろう」と笑っていた。

「……そういえば、ここは、親魔物領なんですね」

 浮かんだ涙を袖で拭い、旅人は気にしていた事を言った。

 町に入った時に、宿の場所を教えてくれた子ども達の中には、ハーピィの子どももいた。そして、この宿の女将も魔物。うろ覚えだが、他にも何人か魔物を見た。この町では人と魔物が共に暮らしているらしい。
 最近ではそんな町も珍しくは無いが、雪山を挟んで反対側の町は未だに反魔物文化が深く根付いていたため、山を越えるだけで変わるものなのだと、少しばかり驚かされた。

「ああ、魔物たちは、人間よりもずっと色々な事を出来る。それに、魔物と一緒になった人間も、色々と力を得られる。拒む理由なんか無いだろうと、領主様が言って以来、近くの魔物たちを受け入れて、仲良く暮らしている」
「だけど、ここの女将さん……ラミアですよね?寒い場所にはあまりいない魔物じゃあ……」

 旅人がそう言うと、主人は肩を揺らして笑った。

「あれは、俺が独り身だった頃、砂漠の国にちょっと遠出した時に出会って、連れて帰ってきた」
「連れて帰ったって、凄いですね」
「どっちの故郷で暮らすか、揉めに揉めたがな。最後はこっちの頑固さが勝った。それに、あれはああ見えて中々謙虚な嫁で」
「ちょっと、やめなさいよ!」

 主人の語りは、食事を運んできたラミア女将本人によって遮られた。
 目元を釣り上げ、寒さ以外のもので顔を真っ赤にしている女将は、尻尾の先をくるくると回しながら、主人を睨んだ。
 しかし、主人はどうして怒られたのか分からないと言うように、平然としている。

「俺は、お前の愛を誇らしく思っている。恥ずかしがる事は無い」
「そんな、愛だなんて……じゃなくて、勝手に話されるのが嫌なのよ!」
「では、お前の口から語ればいい」
「なんでそうなるの!」

 目の前のテーブルに勢いよく置かれた皿が、がしゃんと音を立てて小さく跳ねた。中に入っていたスープも跳ねたが、旅人は見なかった事にした。
 そして、今度は旅人の方へと、見る者を萎縮させる鋭い目線を向けた。

「けが人なら、食べて寝なさい!変な話を聞いてないで!」
「変な話とは心外だ。酒が入るたびにお前も同じ話をしたがるから、気に入っていると思っていたが」
「それはそれ!これはこれ!」

 女将の顔が、ますます赤くなっていく。
 見ているだけでごちそうさまと言いたくなるようなやり取りに、旅人は微妙な笑顔を浮かべた。同時に、何か、寂しさを感じた。

「ほら、鍋を火にかけてるんでしょ!厨房に戻りなさい!」
「火は止めただろう」
「私が点け直したの!いいから!」

 襟を掴まれた主人は、引きずられながらも、旅人に向かって手を振った。
 そして、女将は器用に尻尾を使って、叩き付けるようにドアを閉めていった。

「しばらく泊まっていくのなら、いずれ続きを話そう」
「話さなくていい!」

 ドアを閉められてもなお聞こえた、そんな会話に、旅人は笑うことしかできなかった。

 騒がしい夫婦がいなくなると、途端に、部屋は静けさを取り戻した。
 薪が燃える音を聞きながら、旅人は温かいスープを口にした。飢えていた体に、料理の温かさが染み渡る。
 しかし、間違いなく美味しいはずなのに、心はどうしても満たされず、何かが足りないように感じていた。
 何が足りないのかは、どれだけ考えてみても、分からなかった。


 奇妙な夢を見た。
 吹雪の中、寒さを物ともせず歩いていた。

「こっちに、来て……」

 すぐ近くに少女の気配を感じるのに、すぐ近くに声が聞こえるのに、歩いても歩いても、少女には触れられない。

「また、会いたいな……」

 会いたい。それは、こっちも同じ気持ちだと叫びたかったが、声は出ない。

 そうして、目を覚ますまで、ずっと吹雪の中を歩き続けていた。


 次の日には、旅人の足は歩ける程に回復していた。
 驚くほどの回復速度だと町医者は唸り、これなら明日には完治しているかもしれないと頷いた。
 とにかく、治る分には悪い事は無い。足が萎えてしまわないように、辛くない程度に歩くといいと町医者に言われた旅人は、宿を出て町の中を見て回る事にした。

 雪の降っていない日の方が少ないと言われる町は、どこを見ても新雪に覆われているが、そこで暮らす人々は、寒さに負けず、元気に笑っている。

「あ、こないだのお兄ちゃんだ!」
「ほんとだ!こんにちは!」

 後ろから元気のいい挨拶が聞こえたので振り向いてみれば、そこにいたのは、宿屋の場所を教えてくれたハーピィの少女と、人間の少年だった。

「ああ、こんにちは。この間は、ありがとう」
「どういたしまして!ねえ、お兄ちゃん、山を越えてきたんでしょ?」

 少年が耳当てを外しながら、興味津々といった様子で旅人に尋ねた。

「雪男がいるって、本当?」
「雪男?」
「うん、お母さんが、雪山には雪男がいるから近付いちゃいけませんって言うんだ」

 反対側の町でも同じ話を聞いた。もしかしたら、雪山で聞こえた声を他の誰かも聞いていて、それが雪男の物として伝わったのだろうか。
 しかし、今思い返しても、あの声は、恐ろしい雪男という存在にはとても似つかわしくない物だった。

「どうだろう……僕は見なかったけど、もしかしたら、いたのかもしれない」

 少し考えて、旅人は当たり障りの無い答えを選んだ。
 恐らく、少年の母親は、雪山は危ない場所だと教えるために「雪男がいる」という話を使っているのだろう。ならば、それを否定するのは、親を困らせることになる。

「ほら、やっぱりいるんだよ!」
「いないよ!だって、見たって言う人、誰もいないもん!」
「いるよ!お兄ちゃんだって、いるかもしれないって言ったじゃん!」
「いないよ!お兄ちゃんは、見なかったって言ったもん!」

 目の前で始まってしまった微笑ましい口論に、旅人は苦笑した。
 どうやら、この二人はしょっちゅうこんな事を繰り返しているらしい。
 この二人が大きくなった時には、きっと些細な喧嘩も覚えている周囲の人々にからかわれる事だろう。
 そんな事を思ってしまうほどには、二人は仲が良さそうに見えた。

「いーる!」
「いーない!」

 掴み合いの喧嘩でもあるまいし、止める必要は無いと判断し、旅人は子ども二人を置いてその場を離れた。

 足が治ったら、この町を出るつもりだった。次にどこへ行くかも決めていないが、ある程度の荷物は揃えておきたい。
 まず、保存食と水は必須。多くあっても困る物ではない。
 幸い、この町は他の町との交流も盛んで、買い物には困らないようであった。
 近くの氷湖で取れる魚の干物、近隣の町から仕入れた肉の塩漬け、牛革の丈夫な水筒、いずれも質の良い物が、安く手に入る。こんな雪の中でも、城下町顔負けの活気がある。
 吹雪で痛んだ外套も買い換えた。厚い毛皮の、とても暖かそうな外套。ブーツも、何枚かの革を重ねた、しっかりとした物へと変えた。これならば、雪山を歩いても平気だろう。

 いくつかの店を巡って旅荷を買い揃えた旅人は、ベンチに積もっていた雪を払ってから、そこに座り、細く息を吐いた。
 歩いて体が温まったせいか、寒さは感じない。あるいは、町の活気に当てられたのかもしれない。
 ふと、足先に痛みを感じて、顔を顰めた。ずきずきと疼く。
 歩きすぎたのかもしれない、そろそろ宿に戻ろう。ちょうど、夕刻の鐘もなっている。

「……こっちに、来て」

 ごぅん、ごぅんという鐘の音の隙間に、声が聞こえた。
 聞いた事のある声だった。立ち上がって、声の主を探す。雑貨屋の店先に白い何かを見つけて、駆け寄ったが、それはただの雪だるまだった。
 歯噛みして、不審なほどに必死にあたりを見回して声の主を探したが、結局、それらしい姿は見当たらなかった。

 山に反響した鐘の音が、変に聞こえたのか。そう納得して、旅人は自嘲した。
 あの少女の声が、こんな所で聞こえるはずが無い。あれは、雪山の精霊か何かだったのだ。それなのに、慌てて探してしまうなど、どうかしている。

 再びため息をついた旅人は、背中を丸めて宿へと戻っていった。
 途中、すれ違った子ども達は、旅人の息が白く染まっていない事に首を傾げたが、その直後には、今日のご飯の話で盛り上がっていた。




 夕食を終えた旅人は、暖炉の前に座り、穏やかな時を過ごしていた。
 今日の夕食は、新鮮な野菜のサラダと、ミルクのスープだった。スープに入っていた肉は見慣れない形をしていたので、何の肉か女将に聞いてみたが、言いづらそうに口ごもられたので、それ以上の追求はしなかった。

 外で感じた足の痛みは一時的な物だったようで、今は特に痛みを感じたりはしていない。
 近いうちに、雪山にも行けるようになるだろう。
 まどろみの中でそんな事を考えた所で、旅人は首を傾げた。何故、雪山に行こうと考えたのだろう。

「……暖炉くらい、点けなさいよ」

 その声に顔を上げれば、ドアの所に、女将が立っていた。
 相変わらず暑そうなくらいに服を着込み、どこか不機嫌そうな顔をしている。
 言われて初めて暖炉の火が消えていた事に気付いた旅人は、ああ、と眠たげに返事をして、椅子から立ち上がろうとした。

「足、治ってないんでしょう。座ってなさい」

 しかし、それより早く女将はするりと部屋に入り、軽く手を振って、炎の魔術で暖炉に火を入れた。
 一気に燃え上がった炎に手をかざし、うっとりとため息をつく。

「はぁ……やっぱり火はいいわね……いや、そうじゃないのよ」

 我に返ったように、女将は気の強そうなつり目を旅人に向けた。

「アンタ、故郷に恋人でもいるの?」
「はい?」

 唐突すぎる質問に、旅人の口からは間の抜けた返事しか出なかった。

「暖炉も点けずにぼーっとするのは、大抵、好きな人の事を考えてる時よ。ご飯持ってきた時だってぼーっとしてたし、恋人の事でも考えてたんじゃないの?」
「いや、ずっと旅をしていて、恋人なんて……」
「じゃあ、片思い?旅の途中に一目惚れなんて良くあるでしょう」

 片思い、一目惚れ。旅人は咄嗟に否定しようと口を開いたが、考え直して、首を傾げた。

「……どうなのですかね、自分でも分かりません」
「分からないのなら、会いに行きなさいよ。遠くにいるのかもしれないけど、本当に好きな人のためなら、どこにだって行ける。会いに行かないでいいやって思ったなら、そんなに好きじゃない。そういうものよ」
「砂漠から雪国に来た人が言うと、説得力がありますね」
「そうね。アタシだって、あの人のためならここからもっと寒い場所だろうと……じゃなくて!」

 滑らかに惚気へと移りそうになったところで、女将は顔を赤くして旅人を睨んだ。
 こちらが悪いのでは無いだろうと言おうとも思ったが、更に怒られそうなのでやめておく事にした。

「とにかく、それだけ」

 むすっとした顔で、女将はそう言い残して部屋を出ていった。
 若干分かりづらいが、彼女なりに心配してくれたのだろう。
 ありがとうございます、と礼を言うと、尻尾の先が軽く振られた。返事代わりらしい。

「会いに行く、か……」

 旅人は、暖炉の火を見つめながら呟いた。自分の事なのに、どうしてしまったのか、はっきりとは分かっていない。
 だが、それでも、今のままでは満たされないと言う確信だけはあった。

 本当に好きな人のためなら、どこにだって行ける。

 その言葉を何度も自分の中で繰り返しているうちに、まどろみが再び体を支配した。
 そして、それは静かに、深い眠りへと変わっていった。



 少女と雪山を歩いていた。雪山で導いてくれた、あの少女だ。
 外套で顔が隠れていたが、少女は笑っていると信じられた。
 自分が笑っているから、きっと少女も笑っていると、信じられた。
 相変わらず雪山は吹雪いているが、寒くは無かった。
 不意に、一際強い風が吹いた。思わず、少女の手を離してしまった。
 風が止んだ後、隣にいた少女は、消えていた。

「こっちに、来て」

 耳元で少女の声が聞こえて、旅人は椅子から跳ね起きた。
 あたりを見回す。深夜の真っ暗な部屋には、誰の気配も無い。
 そこでようやく、いつの間にか眠ってしまい、夢を見ていたのだと気付いた。

 暖炉の火はとっくに消えていた。ドアが開けっ放しになっていた部屋には冷たい空気が流れ込んでいるが、そんな事はどうでもよかった。
 夢ではない、本物を、心と体が求めていた。

「こっち……待ってる、から・・・」

 買ったばかりの外套を纏う時間すら惜しく、着の身着のままに宿を飛び出した。
 足を圧迫しないための薄い靴は、凍った地面の冷たさを殆ど防いでくれなかったが、それも、問題にはならなかった。
 深夜の町は静まり返っていて、走る旅人を止めようとする者は、誰もいなかった。
 それに、もし誰かが見ていても、旅人は抑止を振り切って走り続けただろう。そう思うほど、その表情には鬼気迫るものがあった。

 町の門は閉ざされていたが、凍りついた鉄門の飾りをよじ登って外へ出た。
 一歩毎に足が埋まってしまうような雪の上を、平地を行くように走り続けた。

 月明かりが雪原に反射して、行くべき道を照らし出していた。

「また、会いたい……」
「僕もだ……もう一度、会いたい……」

 どこからか聞こえる声に答えながら、旅人は雪山へと足を踏み入れた。
 あの日と変わらない全てを凍て付かせるような吹雪の中でも、寒さは感じなかった。
 真っ白な視界の中でも、どこに向かえばいいのか、はっきりと分かった。気配なんて曖昧な物ではなく、「そこにいけば彼女はいる」という確信があった。

 そして、ついに、旅人は見つけた。はじめてあの声を聞いた場所で。ずっと求めていた少女の姿を。
 吹雪の中でも、大きな外套を纏ったその姿ははっきりと見えた。

 外套のフードで目元は隠れているが、少女は笑っていた。
 ずっと待っていた人が来てくれた喜びを抑えきれずに。

「……えへ、また、会えたね」
「ああ、また、会えた」

 旅人は、外套ごと少女を抱きしめた。
 その体は、驚くほど小さかった。
 少女も、旅人を抱きしめ返す。
 互いの存在が、互いの感じていた空虚を満たした。

「声、ずっと聞こえてた」
「うん。ずっと、呼んでた。ずっと、待ってた」

 幻聴ではなかった。遠く、雪山から、ずっと呼びかけてくれていたのだ。
 それが、姿も見せずに助けてくれるような恥ずかしがり屋の、精一杯だったのだろう。

「夢にも見た」
「わたしも。手を繋いで、一緒に歩いて、ぎゅーってしてもらって……ぎゅーって……」

 続きを言いよどんでいる少女に、風が少しだけ悪戯をして、外套のフードを取り去った。
 牛のような角が生えた頭に、白い髪。そして、それよりも更に白い肌。
 角はともかく、旅人が想像していた通りの、美しい少女だった。
 だが、今は、その白い肌に朱が差している。

「ぎゅーってしてもらって……えっちなことしてもらう、夢も……うん……」

 そう言い終える頃には、少女は湯気が出そうなほどに真っ赤になっていた。
 笑いながら、旅人は少女の頭を撫でる。
 
「そこまでの夢は見なかったな……」
「うぅ……じゃあ、わたしだけ……?夢でも、嬉しかったのに……」
「でも、そういう夢も、その内見てたと思う」

 旅人の言葉に、少女は驚いて顔を見上げてから、嬉しさ半分、恥ずかしさ半分と言った、複雑な笑顔を見せた。

「えへへ、じゃあ、一緒だね」
「ああ、でも、こうしてまた会えたんだから。夢じゃなくて……」
「うん。夢じゃなくて、本当の、あなたと……」

 そこまで言って、少女は目を閉じた。
 薄い唇を震わせて、その時を待つ……はずだった。

「へぅ……」

 奇妙な鳴き声と共に、少女は口を開いた。
 そして、

「くしゅん!」

 可愛らしいくしゃみをした。
 抱きしめられたまま、口付けされ、更にそこから先も。
 そう考えていた少女は、自分のくしゃみという思わぬものに予定を狂わされ、泣きそうになりながら必死に言い訳を繰り返す。

「ちっ、違うの!ちょっと風が……っくしゅん!」
「……まあ、仕方ない。家に行こう。続きは、そこですればいい」
「うぅ……台無し……」

 差し出された手を取って、少女は旅人に手を引かれて歩き出した。

 行った事も無い少女たちの集落の場所も、旅人には分かっていた。
 最初に少女と出会った時から、旅人の奥底には記憶が、知識が流れ込んでいた。
 そしてそれは、「ウェンディゴ」という存在とあたらめて結ばれた事で、はっきりと自覚できる物へと変化していた。

「あぁ、そうだ。ずっと、言いたかった事があったんだ」
「ん、なぁに?」
「ありがとう」

 そのお礼が何に対するものか、首を傾げて少し考えてから、少女はふふんと笑った。

「ありがとうは、わたしの方だよ。また会いにきてくれて、ありがとう。ぎゅーってしてくれて、ありがとう……この山にきてくれて、ありがとう」

 手を繋いだまま、腕を組んで、ぴったりと寄り添う。
 二人とも、すこし歩きづらいとは思ったが、だから離れようなどとは言わなかった。
 互いの温もりを感じられる方が、遥かに大事だった。

「あと、一つだけ聞きたかった事もあったんだ」
「今度は、なぁに?」
「この山に、雪男って、いる?」
「雪男……?あ、もしかしたら、パパとママかな……大きなクマさんみたいな外套に二人で入って歩いてる時があるから……」

 寄り添ったまま、まるで花畑を行くかのように、吹雪の中を二人は歩く。
 真っ白な世界の中、二人の姿はやがて影だけになり、気配しか感じられない何かになる。
 そして、やがて、人がまだ知らない、彼らのための場所へと、消えていった。


……


「だから、なんで、アタシが!」

 赤い尻尾で雪を叩きながら、宿屋の女将であるラミアは、吹雪の音に負けじと力強く叫んだ。
 炎のように揺れる赤い髪は、氷雪が付いたそばから、そこに宿る熱で溶かして水へと変えている。

 宿に泊まっていた旅人が、荷物を部屋に置いたまま姿を消してから、数日が経った。
 主人と話し合い、客がどこかで凍死していたら気分が悪い、そろそろ探した方がいいだろうと言うことになったのだが、雪原や氷湖にはいなかった。
 残るはこの雪山だけになったところで、宿屋の主人に「そろそろ夕食の用意を始めるから」と言われ、女将は一人で吹雪の雪山に来る羽目になっていた。

 アラクネ製の服を着重ねた上に、炎の魔術によって覆われた体は、たとえ一晩中雪山を歩き回っても凍りつくような事は無い。
 それでも、寒いものは寒い。
 
「どこに行ったのよ、もう!」

 寒さで苛立った女将の叫びが、山を揺らす。
 そして、それに答えるように、吹雪の向こうから大きな影が現れた。
 のそのそと動く、外套を纏った大きな影の中には、白い肌の少女が見える。
 人が見れば「雪男が少女を食っている」と大騒ぎしそうな姿にも、同じ魔物である女将は一切驚かなかった。
 あれが、二人で一つの「ウェンディゴ」という魔物の姿であると、理解していた。

「……あぁ、何よ。いるならさっさと出てきなさいよ」

 ため息をつき、女将はそのウェンディゴに向かって乱暴に手を振った。
 少女を支えるように立っていた影が、ゆっくりと手を振り返した。
 その影の正体が何かは、はっきりとは見えないが、女将は一々それを確認しようとはしなかった。

「出ていくなら出ていくって手紙でも置いていきなさいよ!あと、宿の代金、荷物から勝手に貰っておくわよ!」

 吹雪の音にかき消されないように、大声でそれだけ伝え、女将は手を振り返してきた少女と影に背を向けた。
 そして、そのまま立ち去ろうとしたが、何かを思いついたようにイタズラっぽい笑顔を浮かべ、もう一度だけ振り返って叫んだ。

「アタシとあの人の話、まだ聞いてないんでしょ!話してあげるから、その内、その子も連れて宿屋まで挨拶に来なさいよ!『僕たち結婚しました』って!」

 その言葉に、手を振っていた少女は驚いて、後ろにいる影に振り向き、何事かをまくし立てていた。
 影は、大きな手で少女の頭を、ぽんぽんと軽く叩くように撫でていた。そして、もう一度、女将に向かって大きく手を振った。

「まったく……」

 言いたい事は全部伝えた。ようやく帰れる。
 女将は、真っ白なため息をついて、雪山を降り始めた。
 吹雪は少し和らいだが、それでもやはり、寒いものは寒い。
 冷たい風が吹くたびに、ラミアの女将は身震いした。

 それにしても、ああして二人で一つの外套に入るのは、何とも暖かそうで、幸せそうだった。
 そうだ、今夜は、いっそ部屋を目一杯寒くして、ベッドの中で主人と自分の温もりだけを感じてみよう。
 一晩中暖めてもらおう、何を言われようと離してやるものか。
 にやにやと笑いながら雪山を降りるラミアは、一人でそんな決意を固めていた。

 そして、ラミアを見送った幸せなウェンディゴは、外套の中で顔を見合わせ、頷き合うと、再び雪山の奥へと消えていった。
16/04/14 16:40更新 / みなと

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