医者と妖精
白いもやのかかる早朝の町で、一人の男が出立の支度をしていた。
動きやすそうな作業着と背負った大きなかごは、眼鏡をかけた線の細い容姿とは、控えめに言って似合っていない。
そんな男を見て、いくらか年若そうな青年は、不安を隠そうともせずに顔をしかめていた。
「先生、本当にお一人で大丈夫なんで?」
その言葉に、「先生」と呼ばれた男は、人の良さそうな笑みで答える。
「ええ。あの森に危険が無いと言うことは、今までみなさんが一緒に来てくださったおかげで、十分確認できましたから」
「しかし……」
青年は渋り、しばらく言葉を探していたが、やがて、心配が過ぎているのかもしれないと自覚したのか、小さくため息をついた。
「……分かりました。お気をつけて。でも、次の鐘が鳴っても帰ってこなかったら、町総出で探しに出ますからね」
「ありがとうございます。お手を煩わせないように気をつけますよ」
心配性な青年に一礼し、男は歩き出す。
向かう先は、町からほど近いところにある森。
その森に生る木の実の種が、町の風土病に効く薬になると分かったのは、最近のことである。
子どもや老人など、体力の無い者が数年に一度かかる、喉が焼けるように痛むという病。残念ながら種から作れる薬では予防にも根絶にもならないが、それでも、治癒が早くなると言うだけで、用意する価値はある。
かつては苦しむ人に何もできなかったことを思えば、と、医者である「先生」は、数日に一度の木の実拾いも、苦には思わない。
だが、この医者が一人で森を訪れるのには、もう一つ理由があった。
「……やあ、いるかい」
森の中を馬車で通るために切り開かれた林道とは違う、自然に生きる木々が気まぐれで譲り合った末に生まれたような開けた場所で、医者は見えない何者かへ呼びかける。
返事はない。
しかし、医者は焦ることもなく、木の実が入ったかごをかたわらに置き、その場に腰を下ろす。
森のどこかで、獣が鳴いた。だが、これではない。
森を吹き抜ける風が、木々を揺らした。だが、これでもない。
待っていたのは、しぃん、と、何か、鈴の音にも似た音。
風の音にも消える程度だったその音は、少しずつ大きくなり、やがて、はっきりとした声に変わった。
「せんせい!やっぱりせんせいだよ!ほら、アイリス!」
無邪気な声とともに、医者の頭上から、一匹の小さな生き物が――妖精が、樹上からほとんど落ちるような勢いで降りてきた。
人の手ほどの小さな体に、癖のある赤い髪。着ているものは人間の服と同じようなワンピースで、これもまた、髪と同じように赤い。
背にある三対六枚の透き通る羽をはばたかせ、忙しなく医者の周囲を飛び回る。
「ま、待ってよローズ!」
そんな赤い妖精、ローズからいくらか遅れて、アイリスと呼ばれていた妖精が、ひらひらと舞うように降りてくる。
こちらはローズとは対照的に、さらさらと流れるような青い髪をしている。水色のワンピースは、簡素なローズの物とは違い、ところどころに凝った刺繍が入っている。
背の羽は二対四枚だが、やはり透き通っており、医者の目の前で浮かぶアイリスを支えながら、時折、木漏れ日を受けて煌めいている。
「せんせい!せんせい!ね、ね、今日は何してあそぶ?あっ、そうだ!あのね、あのね!」
「だ、だめだよ、まずはごあいさつをって、こないだ教わったのに……」
「もー、アイリスはこまかいの!」
ぐるぐると大きく円を描いて飛び回るローズを、アイリスはわざわざその場で駒のように回って追いかける。
その光景を見て、紐で繋いだおもちゃのようだ、と「せんせい」は微笑みを浮かべていたが、流石にずっと眺めているわけにもいかず、十分に楽しんだところでやんわりとたしなめた。
「ほらほら二人とも。あんまり回っていると、目を回して落っこちてしまうよ」
そう言われて、ようやくアイリスは回るのをやめて、医者と向かい合った状態で止まった。
しかし、ローズはただ軌道を変えただけで、今度は∞を描きながら「そうだ!あのね!」と小さな体のどこから出ているのかと思うほどの大きな声で喋り続ける。
「あっちの、森の奥の方に、空っぽのおうちを見つけたんだよ!あそこでお話しよ!」
「それはいいかもしれないね。でもね、ローズちゃん。人間のお家は、空っぽだからって勝手に入ってはいけないんだ」
「えぇー、わたしはそんなの、ぜんぜん気にしないのに……」
頬を膨らませ、空中でくるりと前転をするローズ。
落ち着きのない赤い妖精とは異なり、青い妖精アイリスは、医者がそっと差し出した手の先にふわりと腰を下ろした。
そして、もじもじと、恥ずかしそうに、消え入りそうな声で言った。
「あ、あの……妖精がみんな、ローズみたいってわけじゃ、ないんですよ……?ローズは特別で……あっ、でも、特別と言ってもぜんぜんいないってほどじゃなくって……ええっと、とにかく、ローズは、わたしがお昼寝してても、窓からおうちに入ってくるんです……」
「だって、アイリスったら、いっつも何か食べてるか、寝てるかなんだもん!わたしが起こしてあげなきゃ、いつまでだって寝てるんだから!」
「そ、そんなこと……ない……よ?」
色も性格も対照的ながらとても仲の良い二匹の妖精を見ながら、医者は、久しく忘れていた幼い頃の憧れを――母親に語ってもらった「森には妖精がいる」というおとぎ話を聞いて感じていた喜びを、思い出していた。
人間ではなく、魔物でもない、不思議な隣人たち。
朝露に濡れた森の中で彼女たちと過ごす時間。
夢見ていた光景は、驚くほどそばにあったのだ。
「ね、せんせい!」
感慨に浸っていた医者が、ローズの声に我に返る。
かつて護衛として一緒に来ていた者たちの呼び方を覚えてしまったのだろうが、その意味は分かっていないのか、妖精たちの「せんせい」という言葉は、どこか変わった音の流れを持っていた。
「うん、どうしたんだい?」
「ほら、アイリス!はっきり言わないと!」
「う……その……せんせいさんは、わたしたちとお話してて、たのしい、のかなって……」
「……ああ」
沈黙を退屈と取られたのだな、と察した医者は、できる限り穏やかに、かつ弾んだ声を作って答える。
「もちろん楽しいよ。自分と縁遠い世界の話を聞くというのは、いつだって楽しいものだからね」
その答えに、アイリスは安心したように微笑んだ。
一方でローズはいまいち理解しきれなかったのか、発想を飛躍させたのか、あるいはその両方なのか、「じゃあ、じゃあ!」と続けた。
「妖精のこと知りたいなら、せんせいも、わたしたちといっしょに妖精の国に来ればいいんだよ!」
「……!そ、そうですよ!せんせいさんも、いっしょに妖精の国に来て……それで、いっしょにくらしましょう?」
普段はローズに振り回されてばかりのアイリスも、今回ばかりは同調し、「それがいいよ!」と語気を強める。
しかし、医者は「ありがとう」といいつつも、首を横に振った。
「それも悪くないかもしれないね。でも、私には仕事があるんだ。あの町の唯一の医者として、役目を投げ出すわけにはいかないんだよ」
「えぇー……おしごと、って、そんなにたのしいの?」
「楽しいことも、辛いこともあるよ。でもね、みんなのつらいとかくるしいとか、そういうのをどうにかしてあげるために、必要なことなんだ」
「じゃあ、いっしょには、いけないんですね……」
「うん、ごめんね。でも、いつか……私のような医者が不要になったら、その時は、妖精の国に行ってみたいかな」
「ほんとに!?じゃあ、じゃあ、せんせいのおうち、さがしとくね!」
「わ、わたしは……せんせいさんが食べられるもの、さがしておきますね……!」
医者の言葉が相当に嬉しかったのか、二匹の幼い妖精が、ダンスでもするかのようにくるくると絡み合いながら宙を舞う。
その姿に医者も頬を緩ませ、目を細める。
妻子も居ない身だが、子どもを可愛がる親の気持ちとはこういうものであるのかもしれない、と思うと、心の奥から温かいものが満ちた。
しばらく、二匹の妖精はあれがいいこれがいいといろいろ話をしていたが、地面に置いてあったかごの縁に着地すると同時に、ローズはその中身へと興味が移ったらしい。
こげ茶色の木の実は、一つ一つが妖精たちの顔ほどの大きさがある。あらためて比べると妖精たちはまるで人形のようだなと思った医者の顔を、ローズが見上げる。
「ね、ね。せんせいがいっつもあつめてるこの木の実って、おいしいの?」
「食べてみるかい?」
「うん!」
二つ返事のローズに、同じくかごの縁に立っていたアイリスが「やめたほうが……」と控えめに静止するが、ローズは聞く耳を持たず、医者が木の実を割るなり、その半分を両手で持って、小さな口でかじりついた。
その好奇心に満ちていた楽しげな顔が泣きそうに歪むまで、そう時間はかからなかった。
「……にっがぁい!なにこれ!おいしくない!ううん、まずい!」
うえぇ、と舌を出しながら涙目で訴えるローズの姿を見て、悪いとは思いつつ医者は肩を揺らして笑う。
「そうだろう?食べるものではないからね」
「じゃあ食べさせないでよぉ!」
そんなやりとりをしている隣で、アイリスはまるで自分がかじったかのように顔を歪めていた。
無論、医者からは、アイリスのその表情もよく見えていた。
「やめたほうが、って言ったということは、アイリスちゃんは食べたことがあったのかな?」
「…………はい。えっと、一回だけ、気になって……」
恥ずかしそうに、羽を揺らしながら呟いたアイリスに、ようやく口から「にがい」以外の言葉を出せるようになったローズが叫ぶ。
「アイリスったら、なんでもかんでも食べようとするんだから!おっかしいよね!」
「や、やめてよローズ!せんせいさんには言わないでよぉ!」
ただでさえ羞恥に朱が差していたアイリスの頬は、りんごか何かのように真っ赤に染まる。ローズよりもおとなしいアイリスにとって、食い意地が張っているかのように言われる事は、たとえ事実であっても、耐え難い事だった。
だから、興味の対象がころころ変わるローズが「そうだ!」と話題を変えた時、ひっそりと、アイリスは安堵を覚えていた。
「あのねあのねあのね!せんせい、キスって、どんな味がするの?」
だが、変わった先の話題は、アイリスをまた別の恥ずかしさに陥れるものだった。
「……どうしたんだい、突然」
医者も、大人びた対応というよりは、単に困っただけといった形で聞き返す。
「えっとね、こないだね、妖精の国に人間が……あっ、せんせいじゃない人間がきたの!それで、その人間……人間さん?が、リャナンシーちゃんといっつもキスしてるから、そんなにおいしいのかなって思ったの!」
「あの……リャナンシーちゃんに聞いても、おしえてくれなくって……だから、せんせいさんに聞けば、わかるかなって……」
まっすぐに視線をぶつけてくるローズに、控えめながらも興味を隠しきれていないアイリス。
二人分の期待を受けて、医者は助けを求める先が無いことを知った。
残念ながら、良い年をしているにも関わらずそういった経験の無い町医者にとって、こと男女の間のあれこれに関しては、他者からの伝聞に頼らざるを得ない。
そして、その伝聞ですら、空想の世界を夢見ていた幼少期の自分が、勝手に色付けをしてしまっている。
「……そうだなあ、私じゃなく、人から聞いた話だけど……その人は、溶けちゃいそうだった、って言ってたかなあ」
曖昧なたとえに、二匹の妖精は少女らしい好奇心で食らいつく。
「とけちゃう?」
「とけちゃう……こおりみたい、なんですか?」
「いや……言い換えるとすれば、甘い、なのかな」
「あまくてとける……キャンディ、ですか?」
「キスは、キャンディの味なの?」
「……まあ、うん、たぶん」
経験が無いから分からないけど、と付け加えるべきかは迷ったが、二匹の妖精の反応を見る限り、どうやら満足してもらえたようだ、とひとまず医者は胸をなでおろした。
「キャンディはおいしいもんね!わたし、りんご味が好き!」
「わ、わたしは……なんでも……」
きゃあきゃあとはしゃぐ妖精たちには、ずっと見ていたくなるような愛らしさがあった。
しかし、医者は、木漏れ日が徐々に暖かさを増していることにも気付いていた。
もう、町で朝を告げる鐘が鳴る頃だ。そろそろ帰らなければ、無用な心配をかけてしまう。
「さて、そろそろ帰らないと」
重い腰を上げると、やはりと言うべきか、ローズは不満そうに声を上げた。
「えぇー!もっとあそぼうよぉ!」
「わ、わたしも……もうすこし、お話したいです……」
無邪気で無垢な引き止めに、「じゃあそうしようかな」という言葉が医者の喉まで出かかる。それを飲み込ませたのは、かごに入った、薬になるのを待っている木の実だった。
「……また来るよ」
かごを背負い直して、これ以上名残惜しさを感じてしまう前に、と森の外に向かって歩き出す。
またね、ぜったいきてね。そんな妖精たちの声は、少し歩くだけで、森の音に消えてしまった。
数度、草木の匂いをいっぱいに吸い込んで、気持ちを入れ替える。
足跡とともに、妖精たちとの逢瀬を楽しむ自分を置いていく。ひとつ、ひとつ、森から、町へ。
そうして、森を出た頃には、妖精と戯れていた「せんせい」は、若い町医者としての顔を、取り戻していた。
……………………
ある日の昼下がり。
小さな診療所で黙々と薬を作っていた医者は、町がにわかに騒がしくなった事に気付いて、顔を上げた。
何か、あったのだろうか。
薬研から手を離し、外に出て様子を確かめようかと考えたところで、何者かが診療所のドアを勢い良く開けた。
「先生!大変です!」
返事を待っていられないとばかりに飛び込んできた顔には、見覚えがあった。
確か、森の向こうにある村に暮らす若者だ。
医者がいない村だということもあり、往診には何度も行っている。
「どうしました?もしかして、急患ですか?」
「ちがっ……ち、ちがいます……!」
村からこの町まで走り通しだったのか、若者は診療所の床にへたりこみ、何度も荒い息を繰り返す。
見かねた医者からコップ一杯の水をもらい、一息ついたところで、ようやく、若者は言った。
「魔物が……魔物が、村を!」
その言葉を聞いてからは、早かった。
薬や包帯を詰め込んだ往診カバンを手に、医者は町を飛び出した。
準備するかたわらで若者に託した伝言は、二つ。
明日になっても私が帰ってこなかったら、この町からも逃げること。
そして、絶対に、私を探しに森や村へ来たりはしないこと。
だが、医者は森を歩いている内に、言うべきだったのは「今すぐ町から逃げろ」であったのだと理解した。
「……これは」
いつもより薄暗かった森は、進むに連れその暗さを増していく。
木々の向こうが見えなくなり、数歩先も見えなくなり、ついには、伸ばした自分の手先すら見えなくなる。
自らの勘だけを頼りにしても、正しい方向へ進んでいるのか分からない。
足元もろくに見えない中、何度もつまづき、転び、間近で見てみれば、見慣れた草木の中には、禍々しい形をした植物が生えていた。
これが、魔物たちの影響だというのか。
この森がこんな状態ならば、村は、もう。
せめて何か灯りがあればよかったものを、と自分の迂闊さを責める気持ちで、恐怖を誤魔化す。それでも、逸るのは気持ちばかりで、足取りは急いでいるとは言い難い。
もしかしたら、今まさに、魔物が襲ってくるかもしれない。
そう思うと、風の音どころか、自らの足音にすら怯えてしまう。
「……!」
だから、その音を聞いた時、医者は思わず、叫んでいた。
「ローズ!アイリス!」
小さな、鈴の鳴るような音。
妖精たちの奏でる音に、すがるような思いで呼びかける。
そして、その呼びかけに答えるように、二つの光が、暗い森の中で踊った。
ひらり、くるりと、赤と青の光は交わりつつ、離れつつ、徐々に、近付き……そっと差し出された医者の手に、止まった。
ぼんやりとした、妖精たちの羽の光。ローズの光が、アイリスを。アイリスの光が、ローズを。互いが互いを、照らしている。
「二人とも、無事だったのか……」
何も頼れるものが無い中で、知っている存在に出会えた安堵感。
しかし、安心したのも束の間、二匹の妖精に、医者は不自然なものを感じた。
「せんせい、しんぱいしてくれたんだ……」
「えへへ……やっぱり、せんせいさんは、やさしいですね」
二匹の声は甘ったるく、瞳は熱に浮かされたように蕩けている。
幼い妖精には似つかわしくない、妖しさ。
妖精の小さな体は、人間よりも早く、魔物の影響を受けているのかもしれない。
歯噛みしつつも、医者の頭の中では、せめてこの二人だけでもという思いが生まれる。
「二人とも、今すぐこの森を出るんだ。ここにいたら……」
「ね……せんせいさんは、いま、しあわせじゃないですか?」
「……なんだって?」
唐突なアイリスの言葉に、医者は怪訝そうに問い返した。
「あのね、わたしたち、この森がこうなってから……なんだか、ふわふわするの。しあわせなの」
「それで、ローズとお話してたんです。きっと、人間さんも……せんせいさんも、しあわせにできるねって」
「……幸せに」
人間よりも魔物に近い存在である妖精たちにとって、この森の姿は親しみを感じやすいのか。
いや、あるいは、彼女たちは、人間がこの景色に呑まれた姿でもあるのかもしれない。
恍惚として、幸福感に満ちた姿。
ならば、どうして、自分は魔物に襲われた村を助ける必要があるのだろうか。
「だいじょうぶ、こわくないよ、せんせい……」
くるり、とローズが舞うたびに、心の底から不安が消える。
「せんせいさんも……ほら……」
ひそひそ、とアイリスがささやくたびに、頭の中から恐怖が溶け出す。
往診カバンを落としたことにも気付かず、医者は、二匹の妖精に尋ねる。
「助ける必要も、逃げる必要も、無いのか……?」
「そうですよ……もう、くるしいとかつらいとか、そういうのは、みーんな、なくなっちゃうんですから……」
「だから、ね……せんせい、やくそく、したよね」
「やく、そく……」
そうだ、約束。
小さい頃からずっと見ていた、夢。
「せんせいさんは、みんなのつらいとか、くるしいとか、そういうのをなくすために、あの町にいたんですよね……?」
「でも、つらいとか、くるしいとか、そういうのがなくなったら……せんせいは、わたしたちといっしょに来てくれるんだよね?」
ゆっくりと、頷く。
彼女たち妖精の優しさが、そこら中に満ちるのならば。
もう、医者など必要ないだろう。
「ほら、わたしたちと、いっしょに……」
「さあ、わたしたちと、おなじところに……」
二匹の妖精の小さな手が、うつろな目をした医者の両手に触れる。
荒れた指先と、ちいさな手を繋いで、妖精は、人間を導く。
青い光と赤い光に照らされた森の中を見れば、なんてことはない、歪だと思っていた草木は、中々愛嬌のある形をしている。朝もやよりも温かい桃色の空気が、きっと、森を変えてくれているのだろう。
「ほら、せんせい、見て?」
「せんせいさんのために、みんなにも、おてつだいしてもらったんです」
いつも二匹の妖精と遊んでいた、森の中の開けた場所。
そこでは、色とりどりの光が、たくさんの妖精が、円を作って踊っていた。
その中に足を踏み入れながら、ふと、思い出す。
森で遊んでいると、妖精に連れて行かれる。
幼いころに聞いたあの話は、嘘ではなかった。
「……ね、せんせい」
「……ねえ、せんせいさん」
踊り戯れる妖精たちの中心で、ローズが、アイリスがささやく。
母親のように優しく、恋人のように愛おしい、魔物の声で。
「これからは、ずっと、ずーっと……」
「いっしょ、ですよ……」
動きやすそうな作業着と背負った大きなかごは、眼鏡をかけた線の細い容姿とは、控えめに言って似合っていない。
そんな男を見て、いくらか年若そうな青年は、不安を隠そうともせずに顔をしかめていた。
「先生、本当にお一人で大丈夫なんで?」
その言葉に、「先生」と呼ばれた男は、人の良さそうな笑みで答える。
「ええ。あの森に危険が無いと言うことは、今までみなさんが一緒に来てくださったおかげで、十分確認できましたから」
「しかし……」
青年は渋り、しばらく言葉を探していたが、やがて、心配が過ぎているのかもしれないと自覚したのか、小さくため息をついた。
「……分かりました。お気をつけて。でも、次の鐘が鳴っても帰ってこなかったら、町総出で探しに出ますからね」
「ありがとうございます。お手を煩わせないように気をつけますよ」
心配性な青年に一礼し、男は歩き出す。
向かう先は、町からほど近いところにある森。
その森に生る木の実の種が、町の風土病に効く薬になると分かったのは、最近のことである。
子どもや老人など、体力の無い者が数年に一度かかる、喉が焼けるように痛むという病。残念ながら種から作れる薬では予防にも根絶にもならないが、それでも、治癒が早くなると言うだけで、用意する価値はある。
かつては苦しむ人に何もできなかったことを思えば、と、医者である「先生」は、数日に一度の木の実拾いも、苦には思わない。
だが、この医者が一人で森を訪れるのには、もう一つ理由があった。
「……やあ、いるかい」
森の中を馬車で通るために切り開かれた林道とは違う、自然に生きる木々が気まぐれで譲り合った末に生まれたような開けた場所で、医者は見えない何者かへ呼びかける。
返事はない。
しかし、医者は焦ることもなく、木の実が入ったかごをかたわらに置き、その場に腰を下ろす。
森のどこかで、獣が鳴いた。だが、これではない。
森を吹き抜ける風が、木々を揺らした。だが、これでもない。
待っていたのは、しぃん、と、何か、鈴の音にも似た音。
風の音にも消える程度だったその音は、少しずつ大きくなり、やがて、はっきりとした声に変わった。
「せんせい!やっぱりせんせいだよ!ほら、アイリス!」
無邪気な声とともに、医者の頭上から、一匹の小さな生き物が――妖精が、樹上からほとんど落ちるような勢いで降りてきた。
人の手ほどの小さな体に、癖のある赤い髪。着ているものは人間の服と同じようなワンピースで、これもまた、髪と同じように赤い。
背にある三対六枚の透き通る羽をはばたかせ、忙しなく医者の周囲を飛び回る。
「ま、待ってよローズ!」
そんな赤い妖精、ローズからいくらか遅れて、アイリスと呼ばれていた妖精が、ひらひらと舞うように降りてくる。
こちらはローズとは対照的に、さらさらと流れるような青い髪をしている。水色のワンピースは、簡素なローズの物とは違い、ところどころに凝った刺繍が入っている。
背の羽は二対四枚だが、やはり透き通っており、医者の目の前で浮かぶアイリスを支えながら、時折、木漏れ日を受けて煌めいている。
「せんせい!せんせい!ね、ね、今日は何してあそぶ?あっ、そうだ!あのね、あのね!」
「だ、だめだよ、まずはごあいさつをって、こないだ教わったのに……」
「もー、アイリスはこまかいの!」
ぐるぐると大きく円を描いて飛び回るローズを、アイリスはわざわざその場で駒のように回って追いかける。
その光景を見て、紐で繋いだおもちゃのようだ、と「せんせい」は微笑みを浮かべていたが、流石にずっと眺めているわけにもいかず、十分に楽しんだところでやんわりとたしなめた。
「ほらほら二人とも。あんまり回っていると、目を回して落っこちてしまうよ」
そう言われて、ようやくアイリスは回るのをやめて、医者と向かい合った状態で止まった。
しかし、ローズはただ軌道を変えただけで、今度は∞を描きながら「そうだ!あのね!」と小さな体のどこから出ているのかと思うほどの大きな声で喋り続ける。
「あっちの、森の奥の方に、空っぽのおうちを見つけたんだよ!あそこでお話しよ!」
「それはいいかもしれないね。でもね、ローズちゃん。人間のお家は、空っぽだからって勝手に入ってはいけないんだ」
「えぇー、わたしはそんなの、ぜんぜん気にしないのに……」
頬を膨らませ、空中でくるりと前転をするローズ。
落ち着きのない赤い妖精とは異なり、青い妖精アイリスは、医者がそっと差し出した手の先にふわりと腰を下ろした。
そして、もじもじと、恥ずかしそうに、消え入りそうな声で言った。
「あ、あの……妖精がみんな、ローズみたいってわけじゃ、ないんですよ……?ローズは特別で……あっ、でも、特別と言ってもぜんぜんいないってほどじゃなくって……ええっと、とにかく、ローズは、わたしがお昼寝してても、窓からおうちに入ってくるんです……」
「だって、アイリスったら、いっつも何か食べてるか、寝てるかなんだもん!わたしが起こしてあげなきゃ、いつまでだって寝てるんだから!」
「そ、そんなこと……ない……よ?」
色も性格も対照的ながらとても仲の良い二匹の妖精を見ながら、医者は、久しく忘れていた幼い頃の憧れを――母親に語ってもらった「森には妖精がいる」というおとぎ話を聞いて感じていた喜びを、思い出していた。
人間ではなく、魔物でもない、不思議な隣人たち。
朝露に濡れた森の中で彼女たちと過ごす時間。
夢見ていた光景は、驚くほどそばにあったのだ。
「ね、せんせい!」
感慨に浸っていた医者が、ローズの声に我に返る。
かつて護衛として一緒に来ていた者たちの呼び方を覚えてしまったのだろうが、その意味は分かっていないのか、妖精たちの「せんせい」という言葉は、どこか変わった音の流れを持っていた。
「うん、どうしたんだい?」
「ほら、アイリス!はっきり言わないと!」
「う……その……せんせいさんは、わたしたちとお話してて、たのしい、のかなって……」
「……ああ」
沈黙を退屈と取られたのだな、と察した医者は、できる限り穏やかに、かつ弾んだ声を作って答える。
「もちろん楽しいよ。自分と縁遠い世界の話を聞くというのは、いつだって楽しいものだからね」
その答えに、アイリスは安心したように微笑んだ。
一方でローズはいまいち理解しきれなかったのか、発想を飛躍させたのか、あるいはその両方なのか、「じゃあ、じゃあ!」と続けた。
「妖精のこと知りたいなら、せんせいも、わたしたちといっしょに妖精の国に来ればいいんだよ!」
「……!そ、そうですよ!せんせいさんも、いっしょに妖精の国に来て……それで、いっしょにくらしましょう?」
普段はローズに振り回されてばかりのアイリスも、今回ばかりは同調し、「それがいいよ!」と語気を強める。
しかし、医者は「ありがとう」といいつつも、首を横に振った。
「それも悪くないかもしれないね。でも、私には仕事があるんだ。あの町の唯一の医者として、役目を投げ出すわけにはいかないんだよ」
「えぇー……おしごと、って、そんなにたのしいの?」
「楽しいことも、辛いこともあるよ。でもね、みんなのつらいとかくるしいとか、そういうのをどうにかしてあげるために、必要なことなんだ」
「じゃあ、いっしょには、いけないんですね……」
「うん、ごめんね。でも、いつか……私のような医者が不要になったら、その時は、妖精の国に行ってみたいかな」
「ほんとに!?じゃあ、じゃあ、せんせいのおうち、さがしとくね!」
「わ、わたしは……せんせいさんが食べられるもの、さがしておきますね……!」
医者の言葉が相当に嬉しかったのか、二匹の幼い妖精が、ダンスでもするかのようにくるくると絡み合いながら宙を舞う。
その姿に医者も頬を緩ませ、目を細める。
妻子も居ない身だが、子どもを可愛がる親の気持ちとはこういうものであるのかもしれない、と思うと、心の奥から温かいものが満ちた。
しばらく、二匹の妖精はあれがいいこれがいいといろいろ話をしていたが、地面に置いてあったかごの縁に着地すると同時に、ローズはその中身へと興味が移ったらしい。
こげ茶色の木の実は、一つ一つが妖精たちの顔ほどの大きさがある。あらためて比べると妖精たちはまるで人形のようだなと思った医者の顔を、ローズが見上げる。
「ね、ね。せんせいがいっつもあつめてるこの木の実って、おいしいの?」
「食べてみるかい?」
「うん!」
二つ返事のローズに、同じくかごの縁に立っていたアイリスが「やめたほうが……」と控えめに静止するが、ローズは聞く耳を持たず、医者が木の実を割るなり、その半分を両手で持って、小さな口でかじりついた。
その好奇心に満ちていた楽しげな顔が泣きそうに歪むまで、そう時間はかからなかった。
「……にっがぁい!なにこれ!おいしくない!ううん、まずい!」
うえぇ、と舌を出しながら涙目で訴えるローズの姿を見て、悪いとは思いつつ医者は肩を揺らして笑う。
「そうだろう?食べるものではないからね」
「じゃあ食べさせないでよぉ!」
そんなやりとりをしている隣で、アイリスはまるで自分がかじったかのように顔を歪めていた。
無論、医者からは、アイリスのその表情もよく見えていた。
「やめたほうが、って言ったということは、アイリスちゃんは食べたことがあったのかな?」
「…………はい。えっと、一回だけ、気になって……」
恥ずかしそうに、羽を揺らしながら呟いたアイリスに、ようやく口から「にがい」以外の言葉を出せるようになったローズが叫ぶ。
「アイリスったら、なんでもかんでも食べようとするんだから!おっかしいよね!」
「や、やめてよローズ!せんせいさんには言わないでよぉ!」
ただでさえ羞恥に朱が差していたアイリスの頬は、りんごか何かのように真っ赤に染まる。ローズよりもおとなしいアイリスにとって、食い意地が張っているかのように言われる事は、たとえ事実であっても、耐え難い事だった。
だから、興味の対象がころころ変わるローズが「そうだ!」と話題を変えた時、ひっそりと、アイリスは安堵を覚えていた。
「あのねあのねあのね!せんせい、キスって、どんな味がするの?」
だが、変わった先の話題は、アイリスをまた別の恥ずかしさに陥れるものだった。
「……どうしたんだい、突然」
医者も、大人びた対応というよりは、単に困っただけといった形で聞き返す。
「えっとね、こないだね、妖精の国に人間が……あっ、せんせいじゃない人間がきたの!それで、その人間……人間さん?が、リャナンシーちゃんといっつもキスしてるから、そんなにおいしいのかなって思ったの!」
「あの……リャナンシーちゃんに聞いても、おしえてくれなくって……だから、せんせいさんに聞けば、わかるかなって……」
まっすぐに視線をぶつけてくるローズに、控えめながらも興味を隠しきれていないアイリス。
二人分の期待を受けて、医者は助けを求める先が無いことを知った。
残念ながら、良い年をしているにも関わらずそういった経験の無い町医者にとって、こと男女の間のあれこれに関しては、他者からの伝聞に頼らざるを得ない。
そして、その伝聞ですら、空想の世界を夢見ていた幼少期の自分が、勝手に色付けをしてしまっている。
「……そうだなあ、私じゃなく、人から聞いた話だけど……その人は、溶けちゃいそうだった、って言ってたかなあ」
曖昧なたとえに、二匹の妖精は少女らしい好奇心で食らいつく。
「とけちゃう?」
「とけちゃう……こおりみたい、なんですか?」
「いや……言い換えるとすれば、甘い、なのかな」
「あまくてとける……キャンディ、ですか?」
「キスは、キャンディの味なの?」
「……まあ、うん、たぶん」
経験が無いから分からないけど、と付け加えるべきかは迷ったが、二匹の妖精の反応を見る限り、どうやら満足してもらえたようだ、とひとまず医者は胸をなでおろした。
「キャンディはおいしいもんね!わたし、りんご味が好き!」
「わ、わたしは……なんでも……」
きゃあきゃあとはしゃぐ妖精たちには、ずっと見ていたくなるような愛らしさがあった。
しかし、医者は、木漏れ日が徐々に暖かさを増していることにも気付いていた。
もう、町で朝を告げる鐘が鳴る頃だ。そろそろ帰らなければ、無用な心配をかけてしまう。
「さて、そろそろ帰らないと」
重い腰を上げると、やはりと言うべきか、ローズは不満そうに声を上げた。
「えぇー!もっとあそぼうよぉ!」
「わ、わたしも……もうすこし、お話したいです……」
無邪気で無垢な引き止めに、「じゃあそうしようかな」という言葉が医者の喉まで出かかる。それを飲み込ませたのは、かごに入った、薬になるのを待っている木の実だった。
「……また来るよ」
かごを背負い直して、これ以上名残惜しさを感じてしまう前に、と森の外に向かって歩き出す。
またね、ぜったいきてね。そんな妖精たちの声は、少し歩くだけで、森の音に消えてしまった。
数度、草木の匂いをいっぱいに吸い込んで、気持ちを入れ替える。
足跡とともに、妖精たちとの逢瀬を楽しむ自分を置いていく。ひとつ、ひとつ、森から、町へ。
そうして、森を出た頃には、妖精と戯れていた「せんせい」は、若い町医者としての顔を、取り戻していた。
……………………
ある日の昼下がり。
小さな診療所で黙々と薬を作っていた医者は、町がにわかに騒がしくなった事に気付いて、顔を上げた。
何か、あったのだろうか。
薬研から手を離し、外に出て様子を確かめようかと考えたところで、何者かが診療所のドアを勢い良く開けた。
「先生!大変です!」
返事を待っていられないとばかりに飛び込んできた顔には、見覚えがあった。
確か、森の向こうにある村に暮らす若者だ。
医者がいない村だということもあり、往診には何度も行っている。
「どうしました?もしかして、急患ですか?」
「ちがっ……ち、ちがいます……!」
村からこの町まで走り通しだったのか、若者は診療所の床にへたりこみ、何度も荒い息を繰り返す。
見かねた医者からコップ一杯の水をもらい、一息ついたところで、ようやく、若者は言った。
「魔物が……魔物が、村を!」
その言葉を聞いてからは、早かった。
薬や包帯を詰め込んだ往診カバンを手に、医者は町を飛び出した。
準備するかたわらで若者に託した伝言は、二つ。
明日になっても私が帰ってこなかったら、この町からも逃げること。
そして、絶対に、私を探しに森や村へ来たりはしないこと。
だが、医者は森を歩いている内に、言うべきだったのは「今すぐ町から逃げろ」であったのだと理解した。
「……これは」
いつもより薄暗かった森は、進むに連れその暗さを増していく。
木々の向こうが見えなくなり、数歩先も見えなくなり、ついには、伸ばした自分の手先すら見えなくなる。
自らの勘だけを頼りにしても、正しい方向へ進んでいるのか分からない。
足元もろくに見えない中、何度もつまづき、転び、間近で見てみれば、見慣れた草木の中には、禍々しい形をした植物が生えていた。
これが、魔物たちの影響だというのか。
この森がこんな状態ならば、村は、もう。
せめて何か灯りがあればよかったものを、と自分の迂闊さを責める気持ちで、恐怖を誤魔化す。それでも、逸るのは気持ちばかりで、足取りは急いでいるとは言い難い。
もしかしたら、今まさに、魔物が襲ってくるかもしれない。
そう思うと、風の音どころか、自らの足音にすら怯えてしまう。
「……!」
だから、その音を聞いた時、医者は思わず、叫んでいた。
「ローズ!アイリス!」
小さな、鈴の鳴るような音。
妖精たちの奏でる音に、すがるような思いで呼びかける。
そして、その呼びかけに答えるように、二つの光が、暗い森の中で踊った。
ひらり、くるりと、赤と青の光は交わりつつ、離れつつ、徐々に、近付き……そっと差し出された医者の手に、止まった。
ぼんやりとした、妖精たちの羽の光。ローズの光が、アイリスを。アイリスの光が、ローズを。互いが互いを、照らしている。
「二人とも、無事だったのか……」
何も頼れるものが無い中で、知っている存在に出会えた安堵感。
しかし、安心したのも束の間、二匹の妖精に、医者は不自然なものを感じた。
「せんせい、しんぱいしてくれたんだ……」
「えへへ……やっぱり、せんせいさんは、やさしいですね」
二匹の声は甘ったるく、瞳は熱に浮かされたように蕩けている。
幼い妖精には似つかわしくない、妖しさ。
妖精の小さな体は、人間よりも早く、魔物の影響を受けているのかもしれない。
歯噛みしつつも、医者の頭の中では、せめてこの二人だけでもという思いが生まれる。
「二人とも、今すぐこの森を出るんだ。ここにいたら……」
「ね……せんせいさんは、いま、しあわせじゃないですか?」
「……なんだって?」
唐突なアイリスの言葉に、医者は怪訝そうに問い返した。
「あのね、わたしたち、この森がこうなってから……なんだか、ふわふわするの。しあわせなの」
「それで、ローズとお話してたんです。きっと、人間さんも……せんせいさんも、しあわせにできるねって」
「……幸せに」
人間よりも魔物に近い存在である妖精たちにとって、この森の姿は親しみを感じやすいのか。
いや、あるいは、彼女たちは、人間がこの景色に呑まれた姿でもあるのかもしれない。
恍惚として、幸福感に満ちた姿。
ならば、どうして、自分は魔物に襲われた村を助ける必要があるのだろうか。
「だいじょうぶ、こわくないよ、せんせい……」
くるり、とローズが舞うたびに、心の底から不安が消える。
「せんせいさんも……ほら……」
ひそひそ、とアイリスがささやくたびに、頭の中から恐怖が溶け出す。
往診カバンを落としたことにも気付かず、医者は、二匹の妖精に尋ねる。
「助ける必要も、逃げる必要も、無いのか……?」
「そうですよ……もう、くるしいとかつらいとか、そういうのは、みーんな、なくなっちゃうんですから……」
「だから、ね……せんせい、やくそく、したよね」
「やく、そく……」
そうだ、約束。
小さい頃からずっと見ていた、夢。
「せんせいさんは、みんなのつらいとか、くるしいとか、そういうのをなくすために、あの町にいたんですよね……?」
「でも、つらいとか、くるしいとか、そういうのがなくなったら……せんせいは、わたしたちといっしょに来てくれるんだよね?」
ゆっくりと、頷く。
彼女たち妖精の優しさが、そこら中に満ちるのならば。
もう、医者など必要ないだろう。
「ほら、わたしたちと、いっしょに……」
「さあ、わたしたちと、おなじところに……」
二匹の妖精の小さな手が、うつろな目をした医者の両手に触れる。
荒れた指先と、ちいさな手を繋いで、妖精は、人間を導く。
青い光と赤い光に照らされた森の中を見れば、なんてことはない、歪だと思っていた草木は、中々愛嬌のある形をしている。朝もやよりも温かい桃色の空気が、きっと、森を変えてくれているのだろう。
「ほら、せんせい、見て?」
「せんせいさんのために、みんなにも、おてつだいしてもらったんです」
いつも二匹の妖精と遊んでいた、森の中の開けた場所。
そこでは、色とりどりの光が、たくさんの妖精が、円を作って踊っていた。
その中に足を踏み入れながら、ふと、思い出す。
森で遊んでいると、妖精に連れて行かれる。
幼いころに聞いたあの話は、嘘ではなかった。
「……ね、せんせい」
「……ねえ、せんせいさん」
踊り戯れる妖精たちの中心で、ローズが、アイリスがささやく。
母親のように優しく、恋人のように愛おしい、魔物の声で。
「これからは、ずっと、ずーっと……」
「いっしょ、ですよ……」
18/01/21 22:56更新 / みなと