読切小説
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赤と白
 釘を打つ音は、薄暗い森によく響いた。
 慣れない作業で疲れた腕を抑えながら、最後の木板を打ち付け終えた私は、数歩下がって修繕途中の廃屋を眺める。
 とりあえず穴の空いていた壁を塞いだだけで、そのために使った板の長さも色も滅茶苦茶で見栄えは悪いが、日が暮れる前に作業を終えられたのだから良いとしよう。
 幸いなことに、内装、特に暖炉と煙突には手を入れる必要はない。薪さえ用意すればそのまま使えるはずである。

「パパ!拾ってきたよ!」
「ありがとう。そこに置いておいてくれるかい」

 その薪も、たった今十二分な量が用意された。つまり、今日はもう休める。
 たくさんの枯れ枝を細腕で抱えて持ってきてくれた少女は、それを私の指差した地面に放り投げると、ぱたぱたと軽い足音を立てて駆け寄ってきた。
 そのまま何も言わずこちらを見上げられて少し戸惑ったが、もしやと思い頭を撫でてあげると、少女はくすぐったそうに身を捩りあどけなく笑った。

「ベラ、いい子?」
「うん、いい子だ」
「やった!パパにほめられちゃった!」

 簡単な褒め言葉にぴょんぴょんと小さく跳ねて喜ぶ姿は、見た目相応に可愛らしい。
 地面まで届きそうな白い髪に、大きな白い帽子。着ているワンピースまで白く、その色はこの子の純真さを表しているようにも思えた。
 しかし、この少女、ベラは、決して私の娘ではない。僅かな血の繋がりもない。
 私をパパと呼び慕ってくる彼女とは、昨日出会ったばかりである。

「ね、今日は、パパがごはん作ってくれるんだよね?」
「ああ。お手伝いしてくれたから、ベラの好きなものにしよう。何が好きなんだい?」
「えっとね、リンゴ!あと、お肉!」
「肉はあるけれど……リンゴは、あったかな……」

 だから、彼女については知らないことの方が遥かに多い。
 蝶番の錆びついた扉、歩くたびに軋む床、ガラスのかわりに布を張った窓。
 そして、小屋の隅に捨てられるようにして置いてあった獣の肉と、ベラの身の丈よりも大きな斧。
 どうして、それら全てが赤黒く汚れているのかも、知らない。
 人の住める環境には見えない廃屋で彼女がどうやって暮らしていたのかなど、想像もできない。
 当然のように呼んでいる「ベラ」という名ですら、名前を持たなかった彼女に私が付けたものだった。

 ただ一つだけ知っていることと言えば、ベラは、今の子どもらしい姿とは異なる一面を持っているということだけ。

 火打ち石で熾した火が、暖炉に入れた木くずへと移り、枯れ枝を巻き込んで徐々に大きくなる。
 やがて音を立てて燃えはじめた炎を見ながら、考える。
 私は、どうすればいいのだろうか。
 この父親ごっこを、いつまで続ければいいのだろうか。

「すごい、あったかい!」
「壁の穴も直したから、今日は寝る時も寒くないはずだよ」
「やったあ!パパ、ありがとう!」

 ベラの背丈は私の胸にも届かないほど小さいが、見た目よりもずっと力が強い。いきなり飛びつかれると、大人である私でもよろめいてしまうほどだった。
 背中に回された腕で痛いほど抱き締められ、少し苦しい。それでも、私はベラのそんな行動を咎めはしない。いや、咎める勇気が無いと言った方が正しいかもしれない。

「ベラ、そのままだとパパはご飯を作れないんだ。ちょっとだけ、離れて待っていてくれるかい?」
「はーい」

 出来る限り優しく、機嫌を損ねないような言葉を選ぶと、ベラは素直に私から離れてベッドへと座った。
 そういえば、ここにはテーブルが無い。そのうち用意しなければいけないだろう。街へ出て買うとなると、中々の大荷物になる。気軽に行って帰ってくるとはいかない。ベラは、街に連れていけるだろうか。
 考え事をしながらも、ベラが「狩った」らしい獣の肉を切り分けてから串に刺し、暖炉の火を使って炙る。皮を剥がれ四肢を落とされたそれは、何の獣か分からなかった。

 しばらく肉の焼ける様子を見ていたが、ふと気になってベラへと目を向けた。
 言われたとおり離れて待っているが、退屈なのだろう。ベッドに座ったまま、補修した壁の跡を見つめて足をぱたぱたと動かしている。
 やがて、視線に気づいたのか、こちらを見ると不思議そうに首を傾げた。

「そうすると、おいしくなるの?」
「パパは焼いた方が好きだけど、どうだろう、ベラの口には合うかな」

 今まで、火も通さずに生肉を食っていたというのか。そんな驚きは胸中に押し込んだ。

「……ほら、食べてみなさい」

 串焼きを軽く振って冷ましてから、ぺたぺたと足音を立てて近寄ってきたベラに渡す。
 ベラは、それに何の躊躇いもなく齧り付いた。鋭い牙でまだ中に赤みが残る肉を裂き、咀嚼する。
 生肉の方が良いと言われるかもしれないと不安だったが、もくもくと食べ進める様子を見ている限り、それは杞憂だったらしい。

「おいしい!」
「そうか。それならよかった」

 嬉しそうな声に頷き、川から汲んでおいた水でリンゴを軽く洗う。まだ食べられそうなものが、ここに持ってきた旅荷の中に一個だけ入っていた。ベラのご機嫌取りには十分だろう。
 使い慣れたナイフでリンゴを食べやすい大きさに切り分けていると、ベラが食べる手を止めてこちらを見た。それも、リンゴではなく、私の顔を見ている。

「どうしたんだい?」
「パパは、ごはん食べないの?」
「大丈夫。食べるよ」

 そう言いながら、荷袋の底に埋もれていた、紙で包んだ干し肉を引っ張り出す。
 旅をしていた時に保存食として用意しておいた物だったはずだが、いつ荷物に入れたのかは覚えていない。それだけ、古い物だった。

「それ、おいしいの?」
「あんまり美味しくは無いかな」

 覚悟を決めて歯を立てると、非常に硬い。干されていたのだから当然だが、その上で日が経って、噛み千切るのにも苦労するほどになっていた。塩気も薄く、何を食べているのか分からなくなってくる。
 顔を顰めながら、ろくに噛みもせず肉片を飲み込む。その様子を見かねたのか、ベラは唐突に、私の目の前に串焼きを差し出した。

「ベラの、ちょっとあげる!」
「いいのかい?」
「うん!だって、パパにもおいしいものを食べてほしいもん!」
「……ありがとう」

 差し出された串に残っていた肉を齧り取る。
 それは、彼女の言うほど美味しいものではなかった。十分に火は通っていても、血生臭さはごまかしきれない。
 それでも、にこにこと笑顔を浮かべているベラの優しさが嬉しくて、つられて笑っていた。

「ああ、美味しいね。でも、これはベラが食べなさい。パパは自分が食べるよりも、ベラが美味しいものを食べている方が嬉しいんだ」
「……うん」

 言われたこと全てを理解している訳でも無さそうだが、ベラは素直にその串焼きをもぐもぐと食べ始めた。
 こうしている限りは、本当に可愛らしい少女である。私は父親として振る舞うには人間として未熟だと思っているが、それでもベラを見ていると父性を掻き立てられてしまう。私の両親も、こんな温かい気持ちで私を育てたのだろうか。

「ね、今日も、パパと一緒に寝ていい?」

 不意に、ベラがそんな事を言った。

「……あのベッドが、パパも一緒に入っても大丈夫だったらね」

 干し肉を包んでいた紙を床に広げ、その上に切り分けたリンゴを置きながら答える。
 小屋の隅に置かれた小さなベッドは、足が腐っているように見える。小さなベラ一人ならばともかく、私の体重も支えられるかどうか。
 そして、もしベッド自体が無事でも、敷いてある毛布は取り替える必要があるだろう。
 荷袋に丸めて括り付けていた毛布を広げ、確かめる。綺麗ではないが、少なくとも得体の知れない赤黒い汚れや泥は付いていない。

「パパは、それでおやすみしてたの?」
「ああ。ベラの毛布は、明日洗おう」

 毛布を片手に、ベッドを軽く押して耐久性を確かめる。ぎしぎしと軋む音が不安を煽るが、体を横たえただけで崩れるという事は無さそうだった。
 張り付いていた毛布を剥がし、私が使っていたものを敷く。これならば補修をすれば当分は使い続けられるかもしれないと考えていると、いつの間にかリンゴを食べ終えたベラがぴょんと跳ねて、ベッドへと転がった。

「わぁ……パパの匂いがする……」

 毛布を掻き抱き深く息をついた途端に、幼い少女の表情は悦楽に蕩けた。私を見上げる赤い目からも純真さは消え、濁ったものへと変わる。

「……ね、パパ。ぎゅって、して?」

 拒むのは簡単だった。まだ片付けがあるとでも言えばいい。
 だが、ベラのその目を見ていると、「これを拒んではいけない」と思わされてしまう。

 僅かな逡巡の後、上着と靴を脱いでベッドに上がった。
 小さな体は、私の腕の中にすっぽりと収まってしまった。ベラの方も私を抱き締め、匂いをつけるように頬ずりしている。

「えへ……ぱぱぁ……」

 とろんとした声で囁き、ベラが顔を上げた。
 そのまま、何かをねだるように目を閉じる。
 何を求めているのかは、明白だった。それでも、私はささやかな抵抗として、ベラの額にキスをした。
 そして、頭を撫で、親が子どもを寝かしつける時と同じように優しく微笑みかける。

「……おやすみ」

 しかし、やはりそれはベラの求めていたものとは違ったらしい。口を尖らせて、ベラは不満そうに言った。

「いじわる……」

 何のことか分からないと誤魔化す前に、ベラの両手が、私の頭を押さえつけた。
 逃げることも出来ないまま、小さな唇を重ねられ、更には、熱い舌が口内に潜り込んでくる。

「んぅ……ふふっ……」

 口内を犯すようなキスをしながら、ベラは笑う。その笑みとともに、こちらの理性を溶かすほどの熱い吐息が流れ込む。
 細められた赤い眼、柔らかい唇、甘い香り。全てが情欲を煽り立て、振り払う意思を奪い去る。
 自分よりもずっと小さな少女に、良いように弄ばれている。恥ずべきことであるはずだが、今は、それすら興奮の糧になっていた。
 苦痛と快楽。そんなものの虜に、なってしまっていた。

…………

 気を失っていた私を起こしたのは、暖炉の音でもなく、ベラの声でもなかった。
 微かに聞こえる、馬の足音。それも、一つや二つではない。
 幸せそうに眠っているベラを起こさないよう、静かにベッドから降りた。気怠さが残った体で床に落ちていた服を拾い、袖を通す。
 ドアを開けようとすると、腕に痛みが走った。手首には、小さな手に押さえつけられていた痕が残っていた。

 森からは、朝の空気が消え始めていた。柔らかな木漏れ日は、既に暖かい。
 耳をすませば、人の声と馬の足音に混ざり、馬車を引く音もする。目を凝らすと、木々の向こうに、列を成して騎行する人々が見えた。荷物は多いが、鎧や剣のたぐいは持っていない。
 どうやら、商隊が森を抜けようとしているらしい。

 ふと、思った。
 ベラはまだ眠っている。今ならば、あの商隊に助けを求める事もできる。
 この森には魔物がいる。血塗れの大斧を持った化物だ。助けてくれ。
 そう言って馬車に乗せてもらえば、こんな薄暗い森から逃げ出して、人間との生活に戻れるかもしれない。
 これが、最初で最後の機会かもしれない。
 逃げるなら、今のうちだ。

 しかし、私は何もせず、ただ立ち尽くしていただけだった。
 こちらに気付くこともなく、商隊は通り過ぎていく。徐々に姿は見えなくなり、足音も遠ざかる。
 そして、鬱蒼と茂る木々だけが視界に残った。草土を踏む音も消え、森は元の静けさを取り戻す。
 今から駆け出しても、商隊にはもう追いつけないだろう。

「……パパ?」

 今にも泣き出しそうな、震えた声がした。振り向けば、開け放していたドアのそばに、ベラが立っている。
 その表情は不安げで、両手でしっかりと持った大斧が酷く不似合いだった。
 どうしたのか、と、私が尋ねる前に。
 駆け寄ってきたベラは、その手に持った斧を横薙ぎに振るう。
 赤く濡れた刃が、鈍い風切音を立てて、私の首を通り過ぎる。
 一瞬、本当に首を刎ねられたのかと思うほどの熱さが走った。思わず、手で触れて確かめるが、そこには傷跡も何も残っていない。
 ただ、血のかわりに何かもっと根源的な物が失われたようだった。
 膝を付き、前のめりに倒れそうになった私の体はベラによって受け止められたが、今度はそのまま仰向けに地面に押し倒された。

「パパは、ベラと、ずっとここにいなきゃダメなの!」

 それは、悲痛な叫びだった。
 地面に斧を投げ捨てて私に抱きつくベラの姿は、親に捨てられそうになって癇癪を起こした子どもにしか見えない。何を持っていたかなど関係ない。ベラは、見た目相応の子どもなのだ。
 それにも関わらず一瞬でもこの子を捨てようなどと考えた自分を、恥ずかしく思った。

 後悔に押しつぶされそうな気持ちで、しゃくりあげる愛娘を抱き返し、頭をそっと撫でる。
 寝ている間にも外さなかった大きな帽子は、いつの間にか、まだらに赤く染まっていた。

「……大丈夫。パパはどこにも行かないよ」
「ほんとに?ずっと、ベラと一緒にいてくれる?」
「ああ」

 返事を聞いて、安心したらしい。ベラは涙の跡が残った顔で笑った。
 温かい少女の体温が、密着した体から伝わってくる。慰めるために、長い髪をゆっくりと指で梳く。
 髪に触れた手が赤く濡れてしまったが、構うことはない。これは、彼女の涙のようなものなのだろう。
 怖がらせてしまったせめてもの償いとして、その涙を拭わなければ。

「……パパ」
「うん?」
「……大好き」

 いじらしい言葉とともに、ベラの小さな唇が首に触れた。
 不可視の傷跡を唇が、舌がなぞる。所有物としての痕を残すためだろうか、時折、音がするほどに吸い付いている。
 何度も、何度も、立ち上がる力もない私に口付けを落とし続け、やがて、自らの行為に興奮しきったように、ベラは紅潮した顔で微笑んだ。

「……だから、これからも、いっぱい可愛がってあげるね」

 獰猛な独占欲と喜悦を押し隠そうともしない、歪んだ笑み。
 その表情に、初めて彼女を見た時の姿が重なった。
 廃屋の中、追い詰められた私に、心底楽しそうな笑顔で斧を振り下ろしたベラの姿が。
16/10/16 12:35更新 / みなと

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