前編 再会
商人の朝は早い。開店の準備で人影多い市場は活気はあれど賑わっている、と表現するにはいささか言が過ぎるだろう。商人たちはそれぞれの目的のために黙々と働いている。そこには客へのおべっかやおだて、のようなリップサービスは微塵もなく、短い指示とそれに応える無言の行動があるのみである。
こうして準備され、市場が開かれるとどこからともなく、客はやってくる。商品の卸売りを担当する業者や、気合の入った小売店の店長たちが目をこらして、その日の目玉をその目で買い付けて行く。こうなってくると市場は開店準備の時と違って賑わいが出て来る。
商人たちの格好は一見まちまちだが、必ず台帳を形態している。大抵は腰につけているが、上着のポケットだったり、シャツの胸ポケットなどに入れている者もいる。彼らは一様に目を店の商品に向けながら、休まずに台帳の上にペンを走らせている。
市場の主役は売り買いを行う商人達だが、そんな早朝の市場にずいぶんと場違いな人物が現れた。
黒いローブを身にまとい、修道士のような格好をした女が現れたのである。ほとんどの体の部分はローブに隠れて見えないが、唯一見える顔の一部は異様に白い。白雪に見紛う肌を持つ女は、商品の売買で大声飛び交う市場に足を踏み入れ、するすると進んでいく。商人たちは自分たちの商売に忙しく女が自分たちの傍に来ても少し怪訝な顔をするだけで、特に気に留めなかった。
女はそのまま市場を通り抜け、町の奥へと進んでいった。
市場の管理を行うのは商工会議所という部署である。商工会議所は商人たちの商売を支える役割を担うが、一方商人たちの暴走に目を光らせる部署でもある。市場の奥に建つ煤けた建物の一階に、この町の商工会議所があった。
一階に窓が無いので、極端に薄暗い会議所は常にランプの光が満ちていた。フロアの奥に入口と奥の部分をくぎる様に衝立が置かれており、そこに一人の男が座っていた。
男は老人と言っていい年頃だ。白髪混じりの髪と皺のきざまれた顔を嬉しくも悲しくもない、といった表情で固めて黙々と手を動かしていた。
老人はこの商工会議所に勤める男で勘定役に従事していた。商工会議所に集まる金の貸借や損益、流れ等を押さえて不透明な資金運用を排除するのが彼の役目である。老人の筋張った手はよどみなく紙幣と硬貨を数え、それを記入することに徹していた。老人が無言で行う作業以外にこの部屋に音はなく、それはすぐ外の市場の活気とは余りにも差があり過ぎるものであった。
だが、静寂は突如として破られた。
扉が勢いよく開き、どかどかと足音高く何者かが入って来る。
「爺さん! 爺さん! おい、爺さん! 生きてるか! 干からびてくたばっていなかったか!」
入って来たのは茶色い髪をした青年で、随分と口の悪い第一声だが、それとは対象的に人懐っこそうな顔立ちをした男であった。
「やかましいぞ、アレックス。そうがなりたてなくとも、聞こえている」
老人は数えている貨幣から目をそらさず、答えた。老人の声はしわがれてはいたが、よく通る声だった。
「お、爺さん。くたばっていなかったようだな。外に滅多に出てこないもんだから、もしかしたら数えている金に埋もれて死んでいるのかと思っちまったよ」
「朝っぱらからペラペラとよく回る舌を持っていることだ。寒くて敵わんから、早く戸を閉めてくれ。ところで、アレはどうした?」
老人が手を差し出すと、アレックスは待ってました、と言わんばかりにその手に紙の束を置いた。手渡した後、次の小言が飛んでくる前に後ろ手で戸を閉めて、呆れたように言った。
「まったく、唯一の趣味が新聞の購読なんだから、陰気さに拍車をかけるんだよなぁ。ちったぁ、外に出て仕事相手の顔とか商品とか見たらどうなんだい?」
老人はアレックスの言葉を無視して、勘定していた手を止めて、新聞を広げ記事を一読する。その様子を横目で見ながら、アレックスはふと、思ったことを老人に尋ねた。
「そういや、爺さんっていつからここにいるんだけっか?」
「なんだ、藪から棒に。そんなことを知ってどうする」
目線は外さず、紙の壁を挟んで二人は言葉を交わす。
「いや、そう言えばいつからいたっけかな、と思ってさ。オレがガキの頃からもうその椅子に座って、ずーっと金を数えていた記憶があるんだよね。つーことはだ、爺さんは20年ぐらい前からここにいるってことだよな」
「ほー、もうそんなに経つか」
「20年も同じ仕事していて、飽きないのかい?」
「飽きないな。している作業は変わらないかもしれんが、内容は一日たりとも同じものはないからな」
「ふ〜ん、勘定方ってそんな仕事なのか……オレさ、商人目指しているってことは爺さんも知ってんじゃん」
「そうだったのか。毎日遊び歩いているもんだとばかりに思っていたが」
「だぁ〜、そりゃオレは頭は良くないし、親父みたいな商才はないけどよぉ。いつか一人で自分の店を持って、商売をやってみたいんだ」
ばさっと老人がページをめくった。
「そのためにはさ、何につけても今は勉強と研究が必要なわけだ。と、いうわけでこの道20年の商人たちの畏怖と尊敬を集める爺さんにちょっと、商売についてご教授願いたいと言う訳で……」
「私は勘定の仕方は知っているが、商売のことは何も知らんぞ」
「またまた、ご謙遜を! そもそも勘定は損益を理解する上で避けては通れない仕事だろ。それに金の流れを見ることだってできる。 だったら、商人の意図や目的とかも金に乗って見えたりするんじゃないの? そう言うのを読み取れるように、考えられるようにするのが――」
「一人前の商人の条件だ、と親父に言われたか」
アレックスはばつが悪そうにポリポリと頬を掻いた。
また一枚、ばさりとページをめくった老人は新聞から目を放さず、口を開いた。
「勘定の仕事は言ってしまえば裏方だ。店舗の販売や業者との新規契約が……そうだな、前線、現場作業ならば、勘定の仕事は補給、後方支援だ。行った結果の後処理をし、統計、分析を行い、現場に返す。だからやる作業は至極単純だ。処理とチェック。ただ、それだけ」老人はここで一旦言葉を切り、机に置かれていたコップの中の液体を一啜りした。
「……勘定の仕事を重視してくれることは、素直に喜んでおこう。だが、今のお前さんにはこれ以上の知識は必要ないだろう」
「どうして?」
アレックスの問いに、老人は紙面から視線を外した。黒い瞳は字面ではなく、その向こうにいる一人の青年に向けられている。
「それは――」
老人はその次に句を紡ぐ事ができなかった。何故なら、老人がその思考を言葉に出す前に、その思考を邪魔する出来ごとが起きたからである。
商工会議所の扉が再び勢いよく開いたのである。
開け放たれた扉の外には額縁に収まる様に黒いシルエットがあった。朝日で逆光になるこの部屋からだと、扉の外にいる人物が誰なのかわからない。黒い影にしかアレックスには見えなかった。
その影はするすると部屋の中に足を踏み入れた。その瞬間アレックスは奇妙な感覚に襲われた。部屋の気温が少し低くなった様な気がしたのである。更に、アレックスは奇妙な光景を目にする。
その影が部屋の中に完全に入り切ると、扉がひとりでに閉まったのである。先ほどと違ってひどくゆっくりと静かにだ。風もないのになぜ、閉まるのだろうかと思った時には、その影はもうアレックスの直ぐ傍まで来ていた。
その影はどうやら女のようであった。黒いローブで身を包み、随分と白い肌をしていた。前髪が長く顔面部分を隠しているが、隙間から覗くその造形は息を呑むほどに美しかろう事は、全貌を見なくてもアレックスには予想できた。
女はしずしずとアレックスに近づき、そのままアレックスの横を通り過ぎ、部屋の奥の机の前に立った。
「ようやく、見つけた」
感情のこもらない、声色だった。その白い肌と同じく透き通るような声で女が話す。
突然の闖入者にアレックスは二の句が告げない。
「随分、遠くまで来ていたな。おかげで探し出すのに時間が掛ってしまった」
女が話しかけているのは机を挟んで向かい合う新聞を読む老人に向かってだろう。老人は新聞の後ろ側から、女と同じ位無感動な声で返した。
「こんな老人をお探しとは不可解な話だ。悪いが私には、あなたのような女性の知り合いはいないが……」
パチン、と音がした。次の瞬間、老人の手から新聞が飛び出し、自動的に綺麗に折りたたまれ、老人の机とは違う机の上に一人でに飛んで行ってしまった。
「ま、魔術……ってことは、あんたはもしかして」
アレックスは目の前で起きたことが、一瞬理解できなかったが、直ぐにある予想を立てた。
「あなたは黙っていて。そう、私は魔物だ。今のは浮遊の魔術。私が話しているのはこの人だから」
年若いであろう女の放つ言葉にしては、その重みはアレックスの想像するものとは違い、有無を言わさない重みがあった。アレックスは口を噤むしかなかった。
女は老人に向き直る。老人と女を隔てるものは何もない。机を挟んで女と老人は相対した。
「どうして、私の元へ来なかった?」
前髪から覗く女の目は、その髪と同じく墨の様に黒い。その刺すような視線を受ける老人の瞳はガラス玉のように澄んでいる。
「……あなたが魔物だからだ」
「嘘だな。お前が教会軍の幹部だからと言って、お前自身が反魔物の思想を信奉していたわけではないこと、私が知らないとでも思ったか!」
アレックスは目を見張って老人を見遣った。
この老人は、教会軍の人間だったのか。教会軍はもう随分前に組織的に壊滅して、滅んだと聞いていたが、まさかこの老人がその教会の人間だったとは。アレックスは老人の過去について考えたことがあったが、その予想の中に教会の文字は存在しなかった。
女は問い詰める様に、机の前に乗りだす。
「40年前、お前が率いた部隊を壊滅させたのはこの私だ。お前を手にするのはこの私だったのだ! なのに、何故お前は私の下を去った? お前は私を恨んでいたのか? ならばここではっきりと言うがいい! 私が憎くて仕方が無かったと!」
女の詰問は激しい。この女はきっと、普段はここまで取り乱したりすることはないのだろう。その口調と声の通り、冷徹な頭脳で動く魔物なのだろう。しかし、この魔物は老人に対して取り乱している。
魔物は大昔は人を食らったり、殺したりしていたらしいが魔王が代替わりしてから人を殺すことはなくなり、人を愛し共存を図る生物になったと、アレックスは小さい頃に教わった。だが、そうなっても人は魔物としばらく争った。主神教を信仰する教会軍は魔物が邪悪な生物であるとして、剣を置くことをしなかったらしい。らしい、というのは最近の教会軍のことをアレックスは何も知らないからだ。現在では既に人間は魔物と争うことはなくなり、この町でも魔物を見かけることはざらになった。
だが、教会軍がどうなったとか、魔王軍がどうなったか、とかは知らない。聞かされた記憶がないのだ。
話から察するにこの老人と女はその教会軍と魔王軍に所属していたらしい。40年前、二人の間で何かが起こったことは間違いない様だ。
「私は魔物を憎いと思ったことは一度も無い。……神に誓って」
女の言葉を受けた老人は、微塵も揺らぐことなく、いつもの勘定仕事のように淡々と答えた。
「では、何故、どうしてお前は私の下を去った?」
女の言葉は尻すぼみに小さくなった。
老人言葉は岩の様に確りとしていた。
「私にはあなたの下を去らなければならない理由があった。それだけのことだ」
「――ッく! 何を言ってもその真意を明らかにするつもりはないようだな……いいだろう。こんなことは不本意ではあるが、40年前と同じ手を使わせてもらおう」
女の周りの空気が渦巻く。
女はまた魔法を使うつもりなのか。
アレックスはすかさず身構えた。
部屋の空気は女を中心にグルグルと渦巻き、その中心にいる女から強烈な光が発せられた。その瞬間、アレックスは自分の足が地面からふわりと浮く様な感覚を味わった。
気付いた時、アレックスは商工会議所の外にいた。自分が、女の魔法で建物の外に飛ばされた事を知ったアレックスは直ぐに会議所の扉を開けようとしたが、この木の扉はまるで自分を拒むかのように頑なに開かなかった。
「おやおや、どうしたんじゃ? 豆が鳩鉄砲食らった様に慌ておるぞ、チミは」
背後からかなり、意味のわからない言葉をかけられ、ギクッとして振り向くと誰もいなかった。いや、違う。声の主はいたのだ。自分の足元に。
アレックスに声をかけた主は背の小さい巻角が生えた少女だった。
「あ! ハンナさん。こ、こんなところで何をしてるんすか?」
「それはこっちの台詞じゃよ。アレックスの坊やこそ、こんな所で何をしておったんか?またぞろ、軽口が災いして勘定役に締め出されたか?」
少女はこの町に一大勢力を築く組織「サバト商事」の長である。魔物であり、その容姿に騙される人が多いが、彼女は既に齢百数十年を生きており、その実力は本物である。ただし、かなり変わった性格をしており、この町の実力者たちの会合でも異様な存在感を放って、周りを辟易させているらしい。その正体は、バフォメットという山羊の魔物であるらしく、凄まじい魔力と深い智恵を持つ魔物だ。しかし、彼女の素性もまた謎に包まれている所が多く、それを探ろうとしたものは皆、幼女趣味をこじらせてサバト商事の術中に堕ちて行ってしまった。
「そ、それが……」
アレックスはことの次第をこの少女に打ち明けた。
ハンナはじーっと老人と女がいる商工会議所の建物を見つめて、不意に視線をアレックスに向けた。
「ほーう、魔物が老人に襲いかかったと。何か問題でもあるかの?」
「いや、問題だらけだろ! 早く助けないと……」
「……アレックス、今の時代、魔物が人を襲うということは求愛することと同義じゃぞい。何も心配はいらんだろう」
ハンナはあっけらかんと言って、アレックスの言葉を真に受けなかった。
「いや、でもあの感じはとても求愛しているようには見えなかったんだけど……」
「うるさい奴じゃの〜。大丈夫なもんは大丈夫なんじゃ。兄上も認めるこのハンナの言葉を信用できんと申すか?」
先程までの緩い雰囲気とはガラリと変わり、少女の言葉に明らかな脅しの色合いが帯びる。この町の実力者に無暗に楯突く程、アレックスも向こう見ずではない。
しぶしぶながらも、ハンナの言葉を受け入れたアレックスを見たハンナは機嫌を良くしたのか、再び緩い雰囲気の言葉遣いで話しかけた。
「分かればよろしい。ところでお主、この後時間あるかのう? あるなら、ちと付き合って欲しいのじゃが」
「え? まァ、特に用事はないけど……」
ハンナはジト目になってアレックスを睨みつけた。
「な、なに?……」
「お主、その年になって平日の朝から用事がない、というのはどうかと思うぞ」
「ハ、ハンナさんが誘ったんじゃん!」
「ま、ええわい。ちょいとついて来い」
アレックスはハンナと連れられて、商工会議所を離れた。抜ける様な青空を見上げて、アレックスは一つため息を吐いた。
ハンナはアレックスを連れて、自分の経営するサバト商事の事務所に訪れた。
事務所は町の大通りに面した一等地にあり、一際大きな赤茶色の煉瓦造りの建物であった。入口に大きくデザインチックなロゴで「サバト商事」と書かれた看板が出ていた。入口を通り抜けると、丸いエントランスホールが現れる。最上階まで吹き抜けのホールには天窓があり、そこから降り注ぐ朝日がアレックスには眩しく思えた。アレックス達の正面には四階部分までの高さがある大きな柱時計があり、その柱の縁には「このホールを通るものは、一切の理性を捨て、幼女を愛せよ」と書かれていた。
ハンナはそのままホールを通り過ぎ、建物の奥に進んでいく。ハンナの姿を見た商事の職員達(みな一様に幼い少女だったが)は最敬礼でもするような勢いでハンナを出迎えた。
ハンナはそんな彼女たちに手を振り返したり、頷いて返したりとしていた。アレックスはハンナの先導で最上階の社長室に通され、応接用の椅子に座らされた。ハンナは社長の椅子に座った。社長室の調度品は彼女の体躯に合わせてあるのか、低めに作られており、アレックスは若干膝が辛かった。
「アレックス。お前、自分の会社を持ちたいそうだな」
「え? あ、うん。できれば持ちたいなって考えてたけど」
ハンナは天井を仰ぎ、によによと口の端を吊り上げた。
「そこで、だ。ワシは兼ねてから事業を広げたいと考えておってな。じゃが、この町の商人連中というのは、自分の家族は売り渡しても店の看板だけは渡さない、という根性入った連中ばかりがいるもんで、ワシの意に沿わんわけじゃ。じゃが、お前さんは自分の力で商売をやってみたいと考えている。つまりここに需要と供給の関係が成り立つわけなのじゃな」
「それは……つまりオレにサバト商事の拡大事業を任せたいって意味?」
アレックスは慎重に言葉を選んで返す。
「うむ。そういうことじゃ。もちろんお前さんの実力の程はワシとて知らぬわけではない。いきなりお前さんに全て任せた所で与えた資金をマイナス額数倍で返してくるのがオチじゃろうに。じゃから、お主を支える部下を数名お主に預けようではないか。営業にはワシ直伝のセールストークを持つ魔女を、マネジメントには管理業務のエキスパートたるアヌビス(幼女)を、更に経理事務には金勘定のために生まれてきた様な刑部狸(幼女)をつける。それで大方、会社としての体裁と実務は回るじゃろうに。お主はそやつらの仕事を直で見て仕事を覚えていけばよい。どうじゃ? 悪い話ではあるまいに」
ハンナは満面の笑みをアレックスに向けた。少女の無邪気な笑顔に目眩がする思いだったが、アレックスの頭は急速な勢いで回転して、話の内容を反芻していた。
ハンナの提案は降って湧いた美味しい提案だ。事業をやりたいと思う自分に対して、資金も人材もタダで与えると言ってくれているのだから。だが、美味しい話に裏があるというのはこの世界の常識でもある。用心して掛るべき所でもあるのだが、逆に考えてみると、もし裏があったとして、ハンナ程の大人物が自分をハメるような理由があるのだろうか。自分は中級商人の息子で、まだ商人として身も立てることができないようなヒヨっ子である。対してハンナはこの商売の街の頂点に君臨する魔物である。商売以外の理由なのだろうか。だが、ハンナには夫がいる。見たことはないが、噂によると町の古本屋の店主らしい。つまり、自分を伴侶にしたい、という魔物的発想は彼女にはないはずである。魔物は夫を手にするとそれまでの好色ぶりは夫以外には向けられず、鉄の操を持つと聞く。ハンナもこの例に漏れないはずである。そもそも、自分の身柄が目的なら、こんな回りくどい方法を使う必要がないではないか。一体、彼女の狙いは何だというのだ。
アレックスの思考がまとまっていないことを見透かしたかのようにハンナはアレックスの心をくすぐる様な言葉をかける。
「ワシに何か、他意があると考えているならばそれは余計な詮索という奴じゃ。もしあったとしても今のお主には分かるまいて。チャンスは掴める時に掴むのが、本物の商人じゃぞ。じゃが、いきなりこんな話をしても驚くばかりじゃろうから、訓話の一つでも垂れておくとしようかの」
そう言って、ハンナは秘書の魔女が出してきたココアを一口啜った。
「訓話?」
色々と話が急すぎる気がする、とアレックスは感じた。どうにも、作為的なものを感じるのだ。だが、この老獪な少女は思わせぶりな態度を取ってもその底を見せるほど甘くはない。
ハンナは机の上でその柔らかな毛に覆われたふわふわの指を組んで話し始めた。
今から何十年も前の話じゃ。世界は二分され戦争をしておった。片方は魔王軍。もう片方は教会軍。両者は交わることなく、飽くことなくずーっと争い続けておった。
ある時、魔王が代替わりをした。代替わりによって魔王になったのはサキュバスであった。サキュバスの魔王は魔物が人間と争うことが無くなる様に、魔物たちにある魔術をかけた。すると、魔物たちはその恐ろしげな姿を変容させ、『魔物娘』になった。加えて、魔物の本能をサキュバスの本能へと塗り替え、人と争うのではなく、人を愛するように変えた。そうすれば、魔物が人間を殺したり、傷つけたりすることはなくなると魔王は考えたのじゃ。魔王の目論見は当たり、人間との戦争は目に見えて収束に近づいた。戦う理由を、その異様な姿と自分たちを傷つける点に主神の教えを絡ませて確立していた教会軍は明らかに戦う目的を失うことになった。無論、彼らは口が裂けてもそのような事を認めたりはせなんだがな。
何千年と続いたその戦いは魔物が魔物娘に変わっただけで、ぽっかりと中心に穴があいてしまったのじゃ。魔王軍は改革され、戦闘力に加え魅了の力が加わったことにより強化されたのに対し、教会軍は失った戦闘理由を補強することもできず、代謝することのできない全ての組織がそうなるように、内側からの腐敗によって脆くも崩れ去り、世界の二分の一を統治する事ができなくなった。勢力としての力を失った教会軍が完全に崩壊するのも時間の問題だと、当時の魔王軍でも話されていた。
しかし、土壇場という時には何が起こるか分からないものじゃ。崩れゆく教会軍の中でも非常に強力な力を持った人材が現れたのじゃ。所謂勇者とか聖騎士などではない。彼らは戦局の一場面を覆す力は持つが、戦略的な勝利までをももたらす様な存在ではない。正確に言うなら、この時代の勇者や聖騎士などというものは権威だけを振りかざす様な輩になり下がってしまっていた。レスカティエ陥落以降、名を馳せるような勇者は存在せぬ。ワシが言ったのは、広範な視野を持って戦略を練り、それを遂行するための戦術を考案して実践する、実に効果的に戦争を……そう執行する力を持つ者たちがあらわれたのだ。
ワシはその頃、魔王軍を一部与る身であって、この流星のように現れた『最期の新星』たちへの対策を練っておった。中々骨の折らされる連中でな。同僚たちと日夜額を合わせて、どうやって彼らを攻略するか考えておった。
そんな時じゃ。ワシらの軍に一人の人間の女がやって来た。自分を魔王軍の一員として使ってほしい、とそ奴は言ってな。その女は魔術師だったから、魔術に心得のあるワシが力量を計ったのじゃが、これが中々の手練でのう。即、採用という運びになったのじゃ。彼女にはワシの副官を務めてもらい、新星たちとも何度か戦いを繰り広げた。実に有能で様々な献策を行い、難しい仕事も一度ならず成功させてきたが、ある戦闘で戦火に巻き込まれて命を落とした。と言っても、それほど気にする事はなかったのじゃ。女の身であれば魔物として蘇ることもある。そ奴もそれを見越して自身に蘇生の魔術を施してあったので、リッチとして蘇ったのじゃ。
女はリッチとなっても教会軍と戦い続けた。その意気は並々ならぬもので、ワシはついそ奴に戦い続ける理由を尋ねたのじゃ。そ奴曰く、自分は教会によって家も、財産も、家族も全て失った。だから、それを思い知らせてやろうと思った。戦うことを強制することしかできない無能な教会の幹部たちを引きずり出し、最も恥辱に塗れた、みじめな最期をくれてやるために戦うことを誓ったのだ、と。
魔物になってまでも人間に復讐する気持ちが残っていることにワシは正直驚いたのだが、人の身であるのにも関わらず魔物に匹敵する魔力を持った者ならば、そういった常ならぬ心を持っていても不思議ではあるまいと感じたのじゃ。そういう気持ちも、恋人ができれば次第に薄れていくだろうとも思ったがの。どれだけ強力な気持ちを持とうともな、結局そういったものはうつろいでいくものなんじゃ。
ワシの見立てはそう間違っておらなかったらしく、どうやらそのリッチにも気になる男がおったようじゃ。戦場に登場する教会軍の面容を随分と気にしておったからな。最初に来た頃には、そのような事はしておらなかったというのに、中々可愛げが出てきたもんだと、思っておったわい。
そんな中でも相変わらず新星たちとの戦闘は続いており、ワシらはある戦場でその中の一人と相対することになった。
その新星は他の新星達とは少し毛色が違うやつでな。前線の指揮官や参謀といった類ではなく、補給部隊の責任者だったのじゃ。軍として戦う点で重要なのは補給線というやつでな。ただ戦うことばかりを主張するヒヨっ子はどうやって戦うのか全く想像しておらんのじゃろう。補給部隊は、その名の通り物資を前線に送り届ける部隊じゃ。戦うには食料や武器、情報といった道具が必要なのじゃ。それらが無いと、まともに敵とぶつかることすらできず、一方的に攻撃されて前線は崩壊する。補給部隊の仕事は地味じゃが、実に重要な仕事なのじゃ。何せこれがないと戦を続けられないのじゃからのう。
その点、件の補給部隊は良く働いておった。ワシの記憶では、その部隊が戦場に出て来るとそれだけで、こっちとしては動きにくくなったもんじゃ。どれだけ戦下手が出てこようが、その絶妙な補給によってあれよあれよと言う間に形勢が不利になることが、ざらに起きたからのう。そういうわけじゃから、今回も手こずらせられるだろうと思っておると、ワシの副官であるリッチがかなり強く前線に出て指揮を取りたいと進言してきてな。これはもしや、と思って二つ返事でそのリッチを前線に送りだしたのじゃ。
この戦いは局地戦にも関わらず1カ月も要する長期戦になった。結局、決め手になったのは教会軍の暴発だった。補給線の火薬庫が爆発して補給部隊が機能停止になったことによって、勝負はついた。
……ワシの下に戻ってきたリッチは意中の男を仕留めて意気揚々と帰って来るだろうと思っておったのじゃが、リッチの手には何もなく、その表情は初めて魔王軍の門を叩いた時の顔よりも更に酷いものであった。この世の終わりのような顔をして帰って来たリッチに事情を聞こうとしたのじゃが、その日リッチはワシと口を利いてくれなんだ。そして、そのしょぼくれた後姿が、ワシがリッチを見た最後だったのじゃ。
次の日、リッチは辞表を残して魔王軍を去り、その行方をワシは知らん。
長い語りを終えたハンナは、ココアを啜って一息ついた。
「それで、その話にどんな訓があるのさ?」
アレックスの問いに、ハンナは顎を引いて斜に視線を投げた。
「様は、機を逃すべからずということじゃ。んで、さっきの件じゃがどうする? 乗って見るか? それとも乗らないか?」
「……少し、時間をくれ。難しい選択になるから」
「よかろう」
アレックスはハンナに礼を述べて、その場を辞した。
帰り際、ハンナから好きに内部を見て良いと言われたのでアレックスはサバト商事の中を見学して行った。収穫は大きく、社員にあれやこれやを尋ねているうちにすっかり日が暮れてしまい、家路に着く頃には町はすっかり暗闇に包まれていた。
ハンナに言われた様々な事を頭の中で考えていると、家までの長い道のりは意外に早いものであった。家の近くにある繁華街を通っていると、アレックスは前方に黒い影が佇んでいるのを見つけた。
アレックスはその姿に見覚えがあった。
今朝、老人の下を訪れた女だ。
アレックスの関心は既に二人には無かった。それよりも、ハンナからされた提案ついて思案する事に時間を使いたかった。しかし、あの青白い女の姿がどうにもアレックスには気になってしまった。自分でもどうかしていると思いながらもアレックスは女に話しかける。
「あの、今朝商工会議所に来た人だよね?」
女の反応は驚くほど鈍かった。声をかけて、二呼吸入れても余りあるほど、のろのろと女は此方をふり返った。ふり返った女には今朝見た漲るような気迫はなく、その表情には暗い影が挿し、悲愴感で溢れていた。
「あぁ、あなたか。こんな所で何をしている?」
相変わらず、感情のこもらない声をしているが、かなりぐったりしているのは確かだ。その墨より黒い眼がどんよりと濁って見えた。
「大丈夫か? 具合が悪そうだけど……」
「大丈夫そうに見えんだろう。私は今これほど、自分が憎いと思ったことはない。あらゆることを可能にしたこの身体を持ってしても、たった一言の想いも告げられぬとは……」
女は自嘲気味に力なく笑った。
質問の答えとしては、方向性がおかしい解答にアレックスの表情筋がおかしな具合で締まるのを見て取った女が、付け加えた。
「心配には及ばない。あなたの心配する気持ちには感謝するが、益なきことだ。捨て置かれるがよろしかろう。……ではな」
女は踵を返して去っていく後ろ姿を眺めたアレックスの脳内にあるイメージが閃いた。閃くと同時に、アレックスは女に声を掛けていた。
「き、君は、もしかしてリッチなのか?」
女の歩みが止まる。
「君は元魔王軍の副官で、爺さんを追って来たのかい?」
「その話、どこで聞いた?」
女の声は氷のように冷たい。
「君の元上官がこの町にいるんだ」
「ふっ……昔から、私の周りには読めない者が多いからな」
女はゆっくりと此方にふり返った。
「名前を聞いておこう。少年」
「アレックス。この町の商人の息子だ」
「そうか。アレックス、少し付き合ってくれないか」
突然の誘いにアレックスは少なからず動揺した。魔物娘の誘い、というのはそれだけでどうにも男女の事柄に聞こえてしまう。だが、その女の今にも泣き出しそうな顔を見て、アレックスはその誘いを受けることにした。
こうして準備され、市場が開かれるとどこからともなく、客はやってくる。商品の卸売りを担当する業者や、気合の入った小売店の店長たちが目をこらして、その日の目玉をその目で買い付けて行く。こうなってくると市場は開店準備の時と違って賑わいが出て来る。
商人たちの格好は一見まちまちだが、必ず台帳を形態している。大抵は腰につけているが、上着のポケットだったり、シャツの胸ポケットなどに入れている者もいる。彼らは一様に目を店の商品に向けながら、休まずに台帳の上にペンを走らせている。
市場の主役は売り買いを行う商人達だが、そんな早朝の市場にずいぶんと場違いな人物が現れた。
黒いローブを身にまとい、修道士のような格好をした女が現れたのである。ほとんどの体の部分はローブに隠れて見えないが、唯一見える顔の一部は異様に白い。白雪に見紛う肌を持つ女は、商品の売買で大声飛び交う市場に足を踏み入れ、するすると進んでいく。商人たちは自分たちの商売に忙しく女が自分たちの傍に来ても少し怪訝な顔をするだけで、特に気に留めなかった。
女はそのまま市場を通り抜け、町の奥へと進んでいった。
市場の管理を行うのは商工会議所という部署である。商工会議所は商人たちの商売を支える役割を担うが、一方商人たちの暴走に目を光らせる部署でもある。市場の奥に建つ煤けた建物の一階に、この町の商工会議所があった。
一階に窓が無いので、極端に薄暗い会議所は常にランプの光が満ちていた。フロアの奥に入口と奥の部分をくぎる様に衝立が置かれており、そこに一人の男が座っていた。
男は老人と言っていい年頃だ。白髪混じりの髪と皺のきざまれた顔を嬉しくも悲しくもない、といった表情で固めて黙々と手を動かしていた。
老人はこの商工会議所に勤める男で勘定役に従事していた。商工会議所に集まる金の貸借や損益、流れ等を押さえて不透明な資金運用を排除するのが彼の役目である。老人の筋張った手はよどみなく紙幣と硬貨を数え、それを記入することに徹していた。老人が無言で行う作業以外にこの部屋に音はなく、それはすぐ外の市場の活気とは余りにも差があり過ぎるものであった。
だが、静寂は突如として破られた。
扉が勢いよく開き、どかどかと足音高く何者かが入って来る。
「爺さん! 爺さん! おい、爺さん! 生きてるか! 干からびてくたばっていなかったか!」
入って来たのは茶色い髪をした青年で、随分と口の悪い第一声だが、それとは対象的に人懐っこそうな顔立ちをした男であった。
「やかましいぞ、アレックス。そうがなりたてなくとも、聞こえている」
老人は数えている貨幣から目をそらさず、答えた。老人の声はしわがれてはいたが、よく通る声だった。
「お、爺さん。くたばっていなかったようだな。外に滅多に出てこないもんだから、もしかしたら数えている金に埋もれて死んでいるのかと思っちまったよ」
「朝っぱらからペラペラとよく回る舌を持っていることだ。寒くて敵わんから、早く戸を閉めてくれ。ところで、アレはどうした?」
老人が手を差し出すと、アレックスは待ってました、と言わんばかりにその手に紙の束を置いた。手渡した後、次の小言が飛んでくる前に後ろ手で戸を閉めて、呆れたように言った。
「まったく、唯一の趣味が新聞の購読なんだから、陰気さに拍車をかけるんだよなぁ。ちったぁ、外に出て仕事相手の顔とか商品とか見たらどうなんだい?」
老人はアレックスの言葉を無視して、勘定していた手を止めて、新聞を広げ記事を一読する。その様子を横目で見ながら、アレックスはふと、思ったことを老人に尋ねた。
「そういや、爺さんっていつからここにいるんだけっか?」
「なんだ、藪から棒に。そんなことを知ってどうする」
目線は外さず、紙の壁を挟んで二人は言葉を交わす。
「いや、そう言えばいつからいたっけかな、と思ってさ。オレがガキの頃からもうその椅子に座って、ずーっと金を数えていた記憶があるんだよね。つーことはだ、爺さんは20年ぐらい前からここにいるってことだよな」
「ほー、もうそんなに経つか」
「20年も同じ仕事していて、飽きないのかい?」
「飽きないな。している作業は変わらないかもしれんが、内容は一日たりとも同じものはないからな」
「ふ〜ん、勘定方ってそんな仕事なのか……オレさ、商人目指しているってことは爺さんも知ってんじゃん」
「そうだったのか。毎日遊び歩いているもんだとばかりに思っていたが」
「だぁ〜、そりゃオレは頭は良くないし、親父みたいな商才はないけどよぉ。いつか一人で自分の店を持って、商売をやってみたいんだ」
ばさっと老人がページをめくった。
「そのためにはさ、何につけても今は勉強と研究が必要なわけだ。と、いうわけでこの道20年の商人たちの畏怖と尊敬を集める爺さんにちょっと、商売についてご教授願いたいと言う訳で……」
「私は勘定の仕方は知っているが、商売のことは何も知らんぞ」
「またまた、ご謙遜を! そもそも勘定は損益を理解する上で避けては通れない仕事だろ。それに金の流れを見ることだってできる。 だったら、商人の意図や目的とかも金に乗って見えたりするんじゃないの? そう言うのを読み取れるように、考えられるようにするのが――」
「一人前の商人の条件だ、と親父に言われたか」
アレックスはばつが悪そうにポリポリと頬を掻いた。
また一枚、ばさりとページをめくった老人は新聞から目を放さず、口を開いた。
「勘定の仕事は言ってしまえば裏方だ。店舗の販売や業者との新規契約が……そうだな、前線、現場作業ならば、勘定の仕事は補給、後方支援だ。行った結果の後処理をし、統計、分析を行い、現場に返す。だからやる作業は至極単純だ。処理とチェック。ただ、それだけ」老人はここで一旦言葉を切り、机に置かれていたコップの中の液体を一啜りした。
「……勘定の仕事を重視してくれることは、素直に喜んでおこう。だが、今のお前さんにはこれ以上の知識は必要ないだろう」
「どうして?」
アレックスの問いに、老人は紙面から視線を外した。黒い瞳は字面ではなく、その向こうにいる一人の青年に向けられている。
「それは――」
老人はその次に句を紡ぐ事ができなかった。何故なら、老人がその思考を言葉に出す前に、その思考を邪魔する出来ごとが起きたからである。
商工会議所の扉が再び勢いよく開いたのである。
開け放たれた扉の外には額縁に収まる様に黒いシルエットがあった。朝日で逆光になるこの部屋からだと、扉の外にいる人物が誰なのかわからない。黒い影にしかアレックスには見えなかった。
その影はするすると部屋の中に足を踏み入れた。その瞬間アレックスは奇妙な感覚に襲われた。部屋の気温が少し低くなった様な気がしたのである。更に、アレックスは奇妙な光景を目にする。
その影が部屋の中に完全に入り切ると、扉がひとりでに閉まったのである。先ほどと違ってひどくゆっくりと静かにだ。風もないのになぜ、閉まるのだろうかと思った時には、その影はもうアレックスの直ぐ傍まで来ていた。
その影はどうやら女のようであった。黒いローブで身を包み、随分と白い肌をしていた。前髪が長く顔面部分を隠しているが、隙間から覗くその造形は息を呑むほどに美しかろう事は、全貌を見なくてもアレックスには予想できた。
女はしずしずとアレックスに近づき、そのままアレックスの横を通り過ぎ、部屋の奥の机の前に立った。
「ようやく、見つけた」
感情のこもらない、声色だった。その白い肌と同じく透き通るような声で女が話す。
突然の闖入者にアレックスは二の句が告げない。
「随分、遠くまで来ていたな。おかげで探し出すのに時間が掛ってしまった」
女が話しかけているのは机を挟んで向かい合う新聞を読む老人に向かってだろう。老人は新聞の後ろ側から、女と同じ位無感動な声で返した。
「こんな老人をお探しとは不可解な話だ。悪いが私には、あなたのような女性の知り合いはいないが……」
パチン、と音がした。次の瞬間、老人の手から新聞が飛び出し、自動的に綺麗に折りたたまれ、老人の机とは違う机の上に一人でに飛んで行ってしまった。
「ま、魔術……ってことは、あんたはもしかして」
アレックスは目の前で起きたことが、一瞬理解できなかったが、直ぐにある予想を立てた。
「あなたは黙っていて。そう、私は魔物だ。今のは浮遊の魔術。私が話しているのはこの人だから」
年若いであろう女の放つ言葉にしては、その重みはアレックスの想像するものとは違い、有無を言わさない重みがあった。アレックスは口を噤むしかなかった。
女は老人に向き直る。老人と女を隔てるものは何もない。机を挟んで女と老人は相対した。
「どうして、私の元へ来なかった?」
前髪から覗く女の目は、その髪と同じく墨の様に黒い。その刺すような視線を受ける老人の瞳はガラス玉のように澄んでいる。
「……あなたが魔物だからだ」
「嘘だな。お前が教会軍の幹部だからと言って、お前自身が反魔物の思想を信奉していたわけではないこと、私が知らないとでも思ったか!」
アレックスは目を見張って老人を見遣った。
この老人は、教会軍の人間だったのか。教会軍はもう随分前に組織的に壊滅して、滅んだと聞いていたが、まさかこの老人がその教会の人間だったとは。アレックスは老人の過去について考えたことがあったが、その予想の中に教会の文字は存在しなかった。
女は問い詰める様に、机の前に乗りだす。
「40年前、お前が率いた部隊を壊滅させたのはこの私だ。お前を手にするのはこの私だったのだ! なのに、何故お前は私の下を去った? お前は私を恨んでいたのか? ならばここではっきりと言うがいい! 私が憎くて仕方が無かったと!」
女の詰問は激しい。この女はきっと、普段はここまで取り乱したりすることはないのだろう。その口調と声の通り、冷徹な頭脳で動く魔物なのだろう。しかし、この魔物は老人に対して取り乱している。
魔物は大昔は人を食らったり、殺したりしていたらしいが魔王が代替わりしてから人を殺すことはなくなり、人を愛し共存を図る生物になったと、アレックスは小さい頃に教わった。だが、そうなっても人は魔物としばらく争った。主神教を信仰する教会軍は魔物が邪悪な生物であるとして、剣を置くことをしなかったらしい。らしい、というのは最近の教会軍のことをアレックスは何も知らないからだ。現在では既に人間は魔物と争うことはなくなり、この町でも魔物を見かけることはざらになった。
だが、教会軍がどうなったとか、魔王軍がどうなったか、とかは知らない。聞かされた記憶がないのだ。
話から察するにこの老人と女はその教会軍と魔王軍に所属していたらしい。40年前、二人の間で何かが起こったことは間違いない様だ。
「私は魔物を憎いと思ったことは一度も無い。……神に誓って」
女の言葉を受けた老人は、微塵も揺らぐことなく、いつもの勘定仕事のように淡々と答えた。
「では、何故、どうしてお前は私の下を去った?」
女の言葉は尻すぼみに小さくなった。
老人言葉は岩の様に確りとしていた。
「私にはあなたの下を去らなければならない理由があった。それだけのことだ」
「――ッく! 何を言ってもその真意を明らかにするつもりはないようだな……いいだろう。こんなことは不本意ではあるが、40年前と同じ手を使わせてもらおう」
女の周りの空気が渦巻く。
女はまた魔法を使うつもりなのか。
アレックスはすかさず身構えた。
部屋の空気は女を中心にグルグルと渦巻き、その中心にいる女から強烈な光が発せられた。その瞬間、アレックスは自分の足が地面からふわりと浮く様な感覚を味わった。
気付いた時、アレックスは商工会議所の外にいた。自分が、女の魔法で建物の外に飛ばされた事を知ったアレックスは直ぐに会議所の扉を開けようとしたが、この木の扉はまるで自分を拒むかのように頑なに開かなかった。
「おやおや、どうしたんじゃ? 豆が鳩鉄砲食らった様に慌ておるぞ、チミは」
背後からかなり、意味のわからない言葉をかけられ、ギクッとして振り向くと誰もいなかった。いや、違う。声の主はいたのだ。自分の足元に。
アレックスに声をかけた主は背の小さい巻角が生えた少女だった。
「あ! ハンナさん。こ、こんなところで何をしてるんすか?」
「それはこっちの台詞じゃよ。アレックスの坊やこそ、こんな所で何をしておったんか?またぞろ、軽口が災いして勘定役に締め出されたか?」
少女はこの町に一大勢力を築く組織「サバト商事」の長である。魔物であり、その容姿に騙される人が多いが、彼女は既に齢百数十年を生きており、その実力は本物である。ただし、かなり変わった性格をしており、この町の実力者たちの会合でも異様な存在感を放って、周りを辟易させているらしい。その正体は、バフォメットという山羊の魔物であるらしく、凄まじい魔力と深い智恵を持つ魔物だ。しかし、彼女の素性もまた謎に包まれている所が多く、それを探ろうとしたものは皆、幼女趣味をこじらせてサバト商事の術中に堕ちて行ってしまった。
「そ、それが……」
アレックスはことの次第をこの少女に打ち明けた。
ハンナはじーっと老人と女がいる商工会議所の建物を見つめて、不意に視線をアレックスに向けた。
「ほーう、魔物が老人に襲いかかったと。何か問題でもあるかの?」
「いや、問題だらけだろ! 早く助けないと……」
「……アレックス、今の時代、魔物が人を襲うということは求愛することと同義じゃぞい。何も心配はいらんだろう」
ハンナはあっけらかんと言って、アレックスの言葉を真に受けなかった。
「いや、でもあの感じはとても求愛しているようには見えなかったんだけど……」
「うるさい奴じゃの〜。大丈夫なもんは大丈夫なんじゃ。兄上も認めるこのハンナの言葉を信用できんと申すか?」
先程までの緩い雰囲気とはガラリと変わり、少女の言葉に明らかな脅しの色合いが帯びる。この町の実力者に無暗に楯突く程、アレックスも向こう見ずではない。
しぶしぶながらも、ハンナの言葉を受け入れたアレックスを見たハンナは機嫌を良くしたのか、再び緩い雰囲気の言葉遣いで話しかけた。
「分かればよろしい。ところでお主、この後時間あるかのう? あるなら、ちと付き合って欲しいのじゃが」
「え? まァ、特に用事はないけど……」
ハンナはジト目になってアレックスを睨みつけた。
「な、なに?……」
「お主、その年になって平日の朝から用事がない、というのはどうかと思うぞ」
「ハ、ハンナさんが誘ったんじゃん!」
「ま、ええわい。ちょいとついて来い」
アレックスはハンナと連れられて、商工会議所を離れた。抜ける様な青空を見上げて、アレックスは一つため息を吐いた。
ハンナはアレックスを連れて、自分の経営するサバト商事の事務所に訪れた。
事務所は町の大通りに面した一等地にあり、一際大きな赤茶色の煉瓦造りの建物であった。入口に大きくデザインチックなロゴで「サバト商事」と書かれた看板が出ていた。入口を通り抜けると、丸いエントランスホールが現れる。最上階まで吹き抜けのホールには天窓があり、そこから降り注ぐ朝日がアレックスには眩しく思えた。アレックス達の正面には四階部分までの高さがある大きな柱時計があり、その柱の縁には「このホールを通るものは、一切の理性を捨て、幼女を愛せよ」と書かれていた。
ハンナはそのままホールを通り過ぎ、建物の奥に進んでいく。ハンナの姿を見た商事の職員達(みな一様に幼い少女だったが)は最敬礼でもするような勢いでハンナを出迎えた。
ハンナはそんな彼女たちに手を振り返したり、頷いて返したりとしていた。アレックスはハンナの先導で最上階の社長室に通され、応接用の椅子に座らされた。ハンナは社長の椅子に座った。社長室の調度品は彼女の体躯に合わせてあるのか、低めに作られており、アレックスは若干膝が辛かった。
「アレックス。お前、自分の会社を持ちたいそうだな」
「え? あ、うん。できれば持ちたいなって考えてたけど」
ハンナは天井を仰ぎ、によによと口の端を吊り上げた。
「そこで、だ。ワシは兼ねてから事業を広げたいと考えておってな。じゃが、この町の商人連中というのは、自分の家族は売り渡しても店の看板だけは渡さない、という根性入った連中ばかりがいるもんで、ワシの意に沿わんわけじゃ。じゃが、お前さんは自分の力で商売をやってみたいと考えている。つまりここに需要と供給の関係が成り立つわけなのじゃな」
「それは……つまりオレにサバト商事の拡大事業を任せたいって意味?」
アレックスは慎重に言葉を選んで返す。
「うむ。そういうことじゃ。もちろんお前さんの実力の程はワシとて知らぬわけではない。いきなりお前さんに全て任せた所で与えた資金をマイナス額数倍で返してくるのがオチじゃろうに。じゃから、お主を支える部下を数名お主に預けようではないか。営業にはワシ直伝のセールストークを持つ魔女を、マネジメントには管理業務のエキスパートたるアヌビス(幼女)を、更に経理事務には金勘定のために生まれてきた様な刑部狸(幼女)をつける。それで大方、会社としての体裁と実務は回るじゃろうに。お主はそやつらの仕事を直で見て仕事を覚えていけばよい。どうじゃ? 悪い話ではあるまいに」
ハンナは満面の笑みをアレックスに向けた。少女の無邪気な笑顔に目眩がする思いだったが、アレックスの頭は急速な勢いで回転して、話の内容を反芻していた。
ハンナの提案は降って湧いた美味しい提案だ。事業をやりたいと思う自分に対して、資金も人材もタダで与えると言ってくれているのだから。だが、美味しい話に裏があるというのはこの世界の常識でもある。用心して掛るべき所でもあるのだが、逆に考えてみると、もし裏があったとして、ハンナ程の大人物が自分をハメるような理由があるのだろうか。自分は中級商人の息子で、まだ商人として身も立てることができないようなヒヨっ子である。対してハンナはこの商売の街の頂点に君臨する魔物である。商売以外の理由なのだろうか。だが、ハンナには夫がいる。見たことはないが、噂によると町の古本屋の店主らしい。つまり、自分を伴侶にしたい、という魔物的発想は彼女にはないはずである。魔物は夫を手にするとそれまでの好色ぶりは夫以外には向けられず、鉄の操を持つと聞く。ハンナもこの例に漏れないはずである。そもそも、自分の身柄が目的なら、こんな回りくどい方法を使う必要がないではないか。一体、彼女の狙いは何だというのだ。
アレックスの思考がまとまっていないことを見透かしたかのようにハンナはアレックスの心をくすぐる様な言葉をかける。
「ワシに何か、他意があると考えているならばそれは余計な詮索という奴じゃ。もしあったとしても今のお主には分かるまいて。チャンスは掴める時に掴むのが、本物の商人じゃぞ。じゃが、いきなりこんな話をしても驚くばかりじゃろうから、訓話の一つでも垂れておくとしようかの」
そう言って、ハンナは秘書の魔女が出してきたココアを一口啜った。
「訓話?」
色々と話が急すぎる気がする、とアレックスは感じた。どうにも、作為的なものを感じるのだ。だが、この老獪な少女は思わせぶりな態度を取ってもその底を見せるほど甘くはない。
ハンナは机の上でその柔らかな毛に覆われたふわふわの指を組んで話し始めた。
今から何十年も前の話じゃ。世界は二分され戦争をしておった。片方は魔王軍。もう片方は教会軍。両者は交わることなく、飽くことなくずーっと争い続けておった。
ある時、魔王が代替わりをした。代替わりによって魔王になったのはサキュバスであった。サキュバスの魔王は魔物が人間と争うことが無くなる様に、魔物たちにある魔術をかけた。すると、魔物たちはその恐ろしげな姿を変容させ、『魔物娘』になった。加えて、魔物の本能をサキュバスの本能へと塗り替え、人と争うのではなく、人を愛するように変えた。そうすれば、魔物が人間を殺したり、傷つけたりすることはなくなると魔王は考えたのじゃ。魔王の目論見は当たり、人間との戦争は目に見えて収束に近づいた。戦う理由を、その異様な姿と自分たちを傷つける点に主神の教えを絡ませて確立していた教会軍は明らかに戦う目的を失うことになった。無論、彼らは口が裂けてもそのような事を認めたりはせなんだがな。
何千年と続いたその戦いは魔物が魔物娘に変わっただけで、ぽっかりと中心に穴があいてしまったのじゃ。魔王軍は改革され、戦闘力に加え魅了の力が加わったことにより強化されたのに対し、教会軍は失った戦闘理由を補強することもできず、代謝することのできない全ての組織がそうなるように、内側からの腐敗によって脆くも崩れ去り、世界の二分の一を統治する事ができなくなった。勢力としての力を失った教会軍が完全に崩壊するのも時間の問題だと、当時の魔王軍でも話されていた。
しかし、土壇場という時には何が起こるか分からないものじゃ。崩れゆく教会軍の中でも非常に強力な力を持った人材が現れたのじゃ。所謂勇者とか聖騎士などではない。彼らは戦局の一場面を覆す力は持つが、戦略的な勝利までをももたらす様な存在ではない。正確に言うなら、この時代の勇者や聖騎士などというものは権威だけを振りかざす様な輩になり下がってしまっていた。レスカティエ陥落以降、名を馳せるような勇者は存在せぬ。ワシが言ったのは、広範な視野を持って戦略を練り、それを遂行するための戦術を考案して実践する、実に効果的に戦争を……そう執行する力を持つ者たちがあらわれたのだ。
ワシはその頃、魔王軍を一部与る身であって、この流星のように現れた『最期の新星』たちへの対策を練っておった。中々骨の折らされる連中でな。同僚たちと日夜額を合わせて、どうやって彼らを攻略するか考えておった。
そんな時じゃ。ワシらの軍に一人の人間の女がやって来た。自分を魔王軍の一員として使ってほしい、とそ奴は言ってな。その女は魔術師だったから、魔術に心得のあるワシが力量を計ったのじゃが、これが中々の手練でのう。即、採用という運びになったのじゃ。彼女にはワシの副官を務めてもらい、新星たちとも何度か戦いを繰り広げた。実に有能で様々な献策を行い、難しい仕事も一度ならず成功させてきたが、ある戦闘で戦火に巻き込まれて命を落とした。と言っても、それほど気にする事はなかったのじゃ。女の身であれば魔物として蘇ることもある。そ奴もそれを見越して自身に蘇生の魔術を施してあったので、リッチとして蘇ったのじゃ。
女はリッチとなっても教会軍と戦い続けた。その意気は並々ならぬもので、ワシはついそ奴に戦い続ける理由を尋ねたのじゃ。そ奴曰く、自分は教会によって家も、財産も、家族も全て失った。だから、それを思い知らせてやろうと思った。戦うことを強制することしかできない無能な教会の幹部たちを引きずり出し、最も恥辱に塗れた、みじめな最期をくれてやるために戦うことを誓ったのだ、と。
魔物になってまでも人間に復讐する気持ちが残っていることにワシは正直驚いたのだが、人の身であるのにも関わらず魔物に匹敵する魔力を持った者ならば、そういった常ならぬ心を持っていても不思議ではあるまいと感じたのじゃ。そういう気持ちも、恋人ができれば次第に薄れていくだろうとも思ったがの。どれだけ強力な気持ちを持とうともな、結局そういったものはうつろいでいくものなんじゃ。
ワシの見立てはそう間違っておらなかったらしく、どうやらそのリッチにも気になる男がおったようじゃ。戦場に登場する教会軍の面容を随分と気にしておったからな。最初に来た頃には、そのような事はしておらなかったというのに、中々可愛げが出てきたもんだと、思っておったわい。
そんな中でも相変わらず新星たちとの戦闘は続いており、ワシらはある戦場でその中の一人と相対することになった。
その新星は他の新星達とは少し毛色が違うやつでな。前線の指揮官や参謀といった類ではなく、補給部隊の責任者だったのじゃ。軍として戦う点で重要なのは補給線というやつでな。ただ戦うことばかりを主張するヒヨっ子はどうやって戦うのか全く想像しておらんのじゃろう。補給部隊は、その名の通り物資を前線に送り届ける部隊じゃ。戦うには食料や武器、情報といった道具が必要なのじゃ。それらが無いと、まともに敵とぶつかることすらできず、一方的に攻撃されて前線は崩壊する。補給部隊の仕事は地味じゃが、実に重要な仕事なのじゃ。何せこれがないと戦を続けられないのじゃからのう。
その点、件の補給部隊は良く働いておった。ワシの記憶では、その部隊が戦場に出て来るとそれだけで、こっちとしては動きにくくなったもんじゃ。どれだけ戦下手が出てこようが、その絶妙な補給によってあれよあれよと言う間に形勢が不利になることが、ざらに起きたからのう。そういうわけじゃから、今回も手こずらせられるだろうと思っておると、ワシの副官であるリッチがかなり強く前線に出て指揮を取りたいと進言してきてな。これはもしや、と思って二つ返事でそのリッチを前線に送りだしたのじゃ。
この戦いは局地戦にも関わらず1カ月も要する長期戦になった。結局、決め手になったのは教会軍の暴発だった。補給線の火薬庫が爆発して補給部隊が機能停止になったことによって、勝負はついた。
……ワシの下に戻ってきたリッチは意中の男を仕留めて意気揚々と帰って来るだろうと思っておったのじゃが、リッチの手には何もなく、その表情は初めて魔王軍の門を叩いた時の顔よりも更に酷いものであった。この世の終わりのような顔をして帰って来たリッチに事情を聞こうとしたのじゃが、その日リッチはワシと口を利いてくれなんだ。そして、そのしょぼくれた後姿が、ワシがリッチを見た最後だったのじゃ。
次の日、リッチは辞表を残して魔王軍を去り、その行方をワシは知らん。
長い語りを終えたハンナは、ココアを啜って一息ついた。
「それで、その話にどんな訓があるのさ?」
アレックスの問いに、ハンナは顎を引いて斜に視線を投げた。
「様は、機を逃すべからずということじゃ。んで、さっきの件じゃがどうする? 乗って見るか? それとも乗らないか?」
「……少し、時間をくれ。難しい選択になるから」
「よかろう」
アレックスはハンナに礼を述べて、その場を辞した。
帰り際、ハンナから好きに内部を見て良いと言われたのでアレックスはサバト商事の中を見学して行った。収穫は大きく、社員にあれやこれやを尋ねているうちにすっかり日が暮れてしまい、家路に着く頃には町はすっかり暗闇に包まれていた。
ハンナに言われた様々な事を頭の中で考えていると、家までの長い道のりは意外に早いものであった。家の近くにある繁華街を通っていると、アレックスは前方に黒い影が佇んでいるのを見つけた。
アレックスはその姿に見覚えがあった。
今朝、老人の下を訪れた女だ。
アレックスの関心は既に二人には無かった。それよりも、ハンナからされた提案ついて思案する事に時間を使いたかった。しかし、あの青白い女の姿がどうにもアレックスには気になってしまった。自分でもどうかしていると思いながらもアレックスは女に話しかける。
「あの、今朝商工会議所に来た人だよね?」
女の反応は驚くほど鈍かった。声をかけて、二呼吸入れても余りあるほど、のろのろと女は此方をふり返った。ふり返った女には今朝見た漲るような気迫はなく、その表情には暗い影が挿し、悲愴感で溢れていた。
「あぁ、あなたか。こんな所で何をしている?」
相変わらず、感情のこもらない声をしているが、かなりぐったりしているのは確かだ。その墨より黒い眼がどんよりと濁って見えた。
「大丈夫か? 具合が悪そうだけど……」
「大丈夫そうに見えんだろう。私は今これほど、自分が憎いと思ったことはない。あらゆることを可能にしたこの身体を持ってしても、たった一言の想いも告げられぬとは……」
女は自嘲気味に力なく笑った。
質問の答えとしては、方向性がおかしい解答にアレックスの表情筋がおかしな具合で締まるのを見て取った女が、付け加えた。
「心配には及ばない。あなたの心配する気持ちには感謝するが、益なきことだ。捨て置かれるがよろしかろう。……ではな」
女は踵を返して去っていく後ろ姿を眺めたアレックスの脳内にあるイメージが閃いた。閃くと同時に、アレックスは女に声を掛けていた。
「き、君は、もしかしてリッチなのか?」
女の歩みが止まる。
「君は元魔王軍の副官で、爺さんを追って来たのかい?」
「その話、どこで聞いた?」
女の声は氷のように冷たい。
「君の元上官がこの町にいるんだ」
「ふっ……昔から、私の周りには読めない者が多いからな」
女はゆっくりと此方にふり返った。
「名前を聞いておこう。少年」
「アレックス。この町の商人の息子だ」
「そうか。アレックス、少し付き合ってくれないか」
突然の誘いにアレックスは少なからず動揺した。魔物娘の誘い、というのはそれだけでどうにも男女の事柄に聞こえてしまう。だが、その女の今にも泣き出しそうな顔を見て、アレックスはその誘いを受けることにした。
16/04/17 23:35更新 / ウモン
戻る
次へ