娼妓画奇譚
以下に提示するのは、小説家永井龍彦と大学生宇月原克彦の失踪に関する資料である。交友関係のある両名は、平成二十六年九月四日前後にA県A市において共に行方不明となった。三年経った現在においても、両名の足取りは判明しないままである。
宇月原克彦の自宅のパソコンから、宇月原の記したと見られる日記が発見された。だが異常な内容であるため、警察では資料として重視しなかった。編者は参考資料になると判断し、失踪前十六日間分の日記を抜粋して以下に提示する。
八月二十日
先生がおかしな事を言い出した。「絵から彼女が出て来るんだ」と言っている。
その絵とは、娼妓が描かれている屏風絵だ。先生の話だと、先生が住んでいる家の前所有者の物らしい。その屏風絵の娼妓が出て来るんだそうだ。
おかしな所がある先生だったが、ますますおかしくなったのかも知れない。今の所は様子を見るしかないだろう。
八月二十一日
思えば先生は、以前からおかしな人だった。
先生は、怪奇幻想小説を書く小説家だ。小説家は変人が多いと言うし、「怪奇幻想小説」の書き手となれば変人ぶりも目立つものかもしれない。
先生は、旧家から買い取った日本家屋で独り暮らしをしている。人の出入りは、俺以外はほとんど無い。夏だと言うのに、黒いシャツに黒のスラックスと言う姿だ。家の中なのに、銀製の指輪やブレスレット、ネックレスを付けている。しかも髑髏の装飾が成された物だ。俺が訪問すると、銀箔を張った髑髏の杯で冷茶を入れてくれる。
ただ、趣味が変だと言うだけで、狂っているところは無かった。書く物は異様だが、だからと言って本人まで狂っているわけではないだろう。
しかし、「絵から人が出て来る」と言い出した現在では、先生の正気を疑わざるを得ない。先生が危険かどうかは分からないから、軽率な行動は慎んだほうが良いだろう。
明日にでも、もう一度先生の所に行ってみよう。
八月二十二日
やはり先生はおかしい。ちょっと屏風絵について質問したら、やたらと喋り散らす。先生は自分が興味あることはよくしゃべる人だが、それにしても少し度が過ぎている。
先生によると、この屏風絵は江戸時代に描かれたらしい。この地方は昔から海運業が盛んであり、江戸時代にも港町が栄えていた。その港町には遊郭があり、その遊郭の娼妓を描いた物らしい。
別の説によると、その遊郭に出没した毛娼妓と言う妖怪を描いた物らしい。毛娼妓とは、長い髪を振り乱した娼妓の妖怪であり、遊郭に出没したらしい。この屏風絵に描かれている娼妓は、髪を結わないで顔の前に垂らしている。普通の娼妓ではなく、毛娼妓を描いた物かもしれないと先生は言っている。
先生は、本当に喋りまくった。この地方の歴史、地理、遊女の歴史、この地方の遊郭の変遷、屏風絵の歴史、技術など。こちらは相槌を打つ事すら出来ない。
そして、絵から出て来る女の事を話しまくった。それは、聞いているほうが恥ずかしくなるような恋愛妄想だ。止めなければ、ポルノまがいの事まで喋り出したかも知れない。
先生の所から出た時は、さすがにぐったりとした。先生は面白い人だと思っているし、先生の小説は大好きだ。それでも、限度と言う物はある。取り敢えず今は休もう。考えがまとまらない。
それと、あの変な女は何だ?
八月二十三日
昨日の女が気になる。昨日、先生の家を出てすぐに変な女と出会った。
女は泉潤子と名乗り、県内で商売をしている古美術商だと言っていた。何でも先生が所蔵している美術品に興味があり、先生と面識を得たいそうだ。
俺は先生の所に出入りしている大学生に過ぎず、先生に人を紹介する事は出来ないと言っておいた。女は、それであっさりと引き下がった。
あの女は奇妙だ。この暑いのに着物を着ていたし、腰まで届く長い髪をしていた。それに雰囲気が不気味だ。若くて美人なために不気味さが目立つ。
八月二十四日
あの古美術商を名乗っていた女が興味を持っているのは、娼妓が描かれている屏風絵かもしれない。
思い返せば異様な迫力のある絵だった。金地の中で、漆黒の髪を垂らして紫の着物を羽織った娼妓が立っている。着物ははだけてあり、むき出しになった胸を髪の毛が隠している。白い足もむき出しとなっており、異常なほど長い黒髪が絡まっている。
あの娼妓の絵でもっとも目立っているのは黒髪だ。足まで垂れ下がるほど長い黒髪が、結われる事も無く娼妓を覆っている。生命力を持って艶々と輝く闇の様な黒髪だ。この髪の間から、娼妓は妖艶な微笑を浮かべている。
この屏風絵は薄暗い部屋の中に置かれており、金がほの暗い輝きを放つ中で陰性の美を持つ娼妓が浮かび上がっていた。凄みすら感じさせる屏風絵だ。先生がおかしくなっても仕方が無い絵かもしれない。
古美術商を名乗る女については、メールで先生に教えておいた。
八月二十五日
先生について過剰に心配するのは止めよう。単に絵から人が出ると言っているだけなんだ。別に暴れたり自傷している訳ではない。俺が話し相手になる程度で良いだろう。
先生から、今日メールが届いた。古美術商を名乗る女について教えた事に対して礼を言っていた。文面からは特におかしなところは無い。
俺もこれから忙しくなるんだ。九月からは大学が始まるし、FPの資格試験もある。バイトだって有るんだ。先生には悪いけれど、あまり先生の面倒を見るわけには行かない。
あまりにも先生の様子がおかしい様だったら、心理学や社会福祉学の教授に相談しよう。
八月二十六日
「悪魔の手毬歌」(市川崑監督)を見終わる。やはり横溝正史原作の映画は良い。猟奇と耽美が混ざり合っていて、妖しい魅力がある。赤紫色の葡萄酒の中に娘の死体が漬けられ、頭の上に金色の小判のおもちゃが飾られている。
見ている途中に、先生の家にある屏風絵を思い出した。絵の中の娼妓の黒髪を葡萄酒に漬けたら、どの様になるだろうか?
八月二十七日
今日も先生とメールでやり取りをした。先生の家に近いうちに行ったほうが良さそうだ。先生のメールは、あの娼妓の絵の事ばかり書いている。別の話題を持ち出しても乗ってこない。
ただ、バイト先で夏バテの為に倒れた人が居て、俺が変わりに出なくてはいけない。何とか時間を作りたいのだが。
八月二十八日
バイトが忙しい上にFPの模擬試験もあり、先生の所に行けなかった。先生へメールを出したが、返事が来ない。
バイトの帰りに、あの古美術商の女と会った。相変わらず和服姿で長い髪をしている。少し話をしたが、あの女はおかしな事を言っていた。「向こう側」とは何の事だ?あの女の話しぶりだと先生に関わりが有るらしいが、先生の小説の事か?
八月二十九日
今日も先生へメールを出したが、返事が来ない。今までの先生だったらありえない事だ。先生は自分からはあまりメールを出さないが、俺が出したメールへは当日か翌日に必ず返事をくれた。
先生に電話をかけたいが、電話番号を知らない。先生は電話が嫌いで、編集者ともメールでやり取りをしているそうだ。
バイト先は混乱している。夏バテした人がまだ治らない上に、バイト同士が喧嘩を始めてその内の一人が仕事を放り出した。今日は仕事三昧だ。職長もヒステリックになっている。
あの女が言った「向こう側」について少し気になる。「向こう側」とは、普通は彼岸の事を言い表しているはずだ。先生の小説には常世の事が出てくるが、その事について言っているのか?
そう言えば、先生の小説には現実への嫌悪が描かれている事がある。それが先生の小説の魅力の一つなのだが。
八月三十日
今日、先生の家に行った。バイト先は混乱しているが、強引に切り上げた。職長は喚き散らした挙句掴み掛かって来たが、課長が止めてくれた。たぶん労働問題になったらまずいと思ったのだろう。
バイト先が荒れている事も気になったが、それよりも先生の事だ。先生の安否を確認しなくてはならない。
先生の家に着いたのは、午後六時少し前だ。辺りは夕闇に沈もうとしている時刻、逢魔時だ。先生の家は闇の中にある。
俺は玄関から入ろうとせずに、庭から回って屏風絵のある部屋へと行こうとした。先生の様子を探りたかったのだ。手には催涙スプレーを持っており、鞄にはミリタリーナイフが入っている。先生に危害を加えるつもりはないが、「何か」に備えていたのだ。
そうだ、俺は認める。ここ数日の内に、先生に「何か」が取り付いているのではないかと思う様になったのだ。それが何かは分からないが、先生を蝕む危険なものだと思ったのだ。
屏風のある部屋は西側の奥にある。俺は庭木の陰に隠れながら、足音を立てない様にそこへ向かう。屏風のある部屋は障子が閉まっており、そこから先生と何者かの声が聞こえる。障子は中からの光で金色に染まっている。俺は、障子に小さな穴を開けて中を覗き込んだ。
光は、屏風絵の金地から放たれていた。先生はその光に照らされ、何かの影で覆われている。先生の表情は恍惚としており、先生は喘ぎ声をあげている。俺は始めその影が何か分からなかったが、見続ける内に分かってくる。影だと思ったのは髪の毛だ。先生の裸の全身を長い黒髪が絡み付き、愛撫していたのだ。髪は意思を持つように蠢き、先生の全身を撫で回している。
髪の中から女の顔が現れる。あの絵の娼妓の顔が、髪の中で微笑んでいる。髪を使って先生を引き寄せると、先生に口付けて舌を這わせる。
先生が突然、痙攣するように震えだす。先生のペニスから白濁液が放たれて、漆黒の髪を汚す。髪に付いた精液が見る見る無くなると、光に照らされた黒髪がいっそう艶やかになる。あたかも精を吸って髪の美しさが増しているかの様だ。
俺は障子から離れた。
俺には分かってしまった。あの女は「向こう側」から来た者だ。先生は既に「向こう側」へと引き込まれてしまっている。もう、俺とは世界が違うのだ。
俺は逃げなくてはならない。息を潜め、足音を消し、そっと逃げなくてはならない。今は逢魔時だ、魔と遭遇する時間だ。俺は魔に捕まえられてはならない。俺は「こちら側」の者だからだ。
「いいえ、あなたも私達と同じ世界へ来るのよ」
低く笑うような声が聞こえた。俺は弾かれたように辺りを見回し、手に催涙スプレーを構える。俺に声をかけたのは誰だ?どこにいる?
足元の暗がりが蠢き、俺の脚を捉える。俺は、バランスを崩して転倒する。手に闇が絡みつき、催涙スプレーを奪い取られる。鞄を開けてミリタリーナイフを取り出そうとするが、闇が俺の手を捕えて取り出せない。声を上げようとするが、闇が俺の口をふさぐ。
俺はなめらかな感触に包まれ、涼やかさを感じる香りを嗅ぐ。俺の捕えている物は闇ではなく、漆黒の髪だ。
俺の前に人影が現れる。その人影から髪が伸びて地を這い、俺に絡み付いて捉えている。俺は、その女の影を見上げる。
「怖がらなくてもいいのよ。あなたを包み込んであげるのだから。私に抱かれて、快楽と安らぎを得る事が出来るのよ」
髪の毛は俺の体の至る所を探り、俺の服を脱がしていく。俺は髪の毛を引きちぎろうとするが、信じがたい強度を持っている。俺は、髪の毛の蠢きに逆らえない。
俺の体中を快楽が走る。俺は、始めは何が起こったのか分からない。全身を、くすぐったさと柔らかさの混じった快楽が覆う。快楽と共に、頭を狂わせる香りが俺の中に浸食してくる。
俺の全身を、魔性の黒髪が愛撫しているのだ。愛撫しながら俺の体に香りを刷り込んでいく。俺は快楽に、香りに抗えない。俺のペニスに巻きついた髪が、腰の巻きついた髪が、全身を愛撫する髪が俺を絶頂へと導く。俺は、耐えられずに精をぶちまけてしまう。
黒髪が白濁液で見る見る汚れていく。俺は、白が黒を汚す様に陶酔する。だが、白は黒にすぐさま飲み込まれていく。飲み込まれるごとに、黒髪のつややかさが増す。
女が俺を抱きしめ、俺の顔を見下ろす。その時に初めて、俺を嬲っているのがあの古美術商の女だと気付く。
「さあ、もっと精を出しなさい。私の髪を精で汚しなさい。そうすれば私の髪は美しくなれるわ」
女の言葉と共に、髪の毛が俺の全身を這い、くすぐり、締め付け、撫で回す。俺のペニスはすぐさま回復し、快楽を求めていく。女は俺に口付け、俺の口の中に舌を這わせる。
俺はもう逆らう気は無く、女の口を吸い返す。女の体に俺の体を押し付けていく。
俺は、何度射精しただろうか?女の髪に、女の口に、女の胸に、女の膣に、女の尻に出したのだろうか?射精するたびに女の髪は輝きを増す。あたかも精を糧にしているかの様に。俺は快楽の渦の中で嬲られ、翻弄され、沈んでいく。
俺は魔に捕らわれたのだ。もう手遅れだ。
八月三十一日
俺は夢を見ているのか?それともこれは現実なのか?
俺は、髪の毛に捕らわれている。あの女がいない時にも、こうして髪の毛が俺にまとわり付いている。他の奴等は、俺の姿を見てもおかしく思わないらしい。俺にまとわり付いている髪の毛が分からないらしい。
髪の毛は俺を包み、愛撫する。俺に快楽と安らぎを与える。それにこの髪の毛の香りだ。俺の頭を浸食する。
九月一日
俺は、あれ以来何度もあの女と交わり合っている。俺は、これほどの快楽が在るとは思わなかった。俺は、繰り返し繰り返し射精した。俺は、悦楽に浸り続けている。いくら味わっても味わい足りない。それを十分に分かっているかのように、あの女は俺にいくらでも快楽を与えてくれる。
俺は、既に堕ちている。快楽さえ味わえればそれでいいのだ。あの女の髪が与えてくれる快楽さえあれば。
九月二日
先生は既に「向こう側」へ行ったらしい。それで良いのかもしれない。先生は、「こちら側」で生きて行けない人かもしれない。あの絵の女が先生を導いてくれるそうだ。
俺も「向こう側」へ連れて行くそうだ。女は、俺に髪の毛をまとわり付かせながら囁く。俺は、逆らう気はもう無い。俺も「こちら側」で生きていけない者かもしれない。
九月三日
悦楽だ、悦楽だ。俺を翻弄し、嬲り、包み込む。
何も考える気もしない。考える必要も無い。
九月四日
俺は、今日「向こう側」へ行く。俺は魔に捕らわれ、逃れられない身となった。
だが、それでいい。魔が魅力のあるものだと分かった。俺は、魔が与えてくれる快楽から逃れられない。逃れる気も無い。
考えてみれば、俺は「こちら側」には適応できなかったんだ。学校にも、地域にも、社会にも適応できなかった。この先就職すれば、企業や役所にも適応できないだろう。今から思えば、俺が幻想小説や怪奇小説のめり込んだのは、現実に適応出来ずに現実を嫌悪していたからだろう。もしかしたら先生も同じかもしれない。
あの魔の女は、俺に快楽を与えてくれる。既に繰り返し書いたとおりだ。あの女は、今もすぐ側で俺が日記を書くのを見守っている。俺の精を吸って輝きを増した髪の間から、微笑を浮かべて見守っている。俺は、この魔の女が言う愛は分からない。だが、魔の女が与えてくれる快楽は分かる。それで十分だ。
俺を今まで育ててくれた父と母を放って置いて「向こう側」に行のは、申し分けない事だと思う。それでも俺は「向こう側」へ魔の女と行きたい。
さあ、時間だ。日記を書くのもこれで終わりだ。「向こう側」へ行くんだ。
以上で日記は終る。少し付記する事がある。
日記に出て来た「泉潤子」と名乗る古美術商は、県内の古美術商関係者の中に確認されていない。日記の中に出て来た屏風絵は、失踪後の家宅捜査時には長井龍彦宅に存在しなかった。家の前の所有者に確認を取ったが、屏風絵については知らないと話している。
宇月原克彦の自宅のパソコンから、宇月原の記したと見られる日記が発見された。だが異常な内容であるため、警察では資料として重視しなかった。編者は参考資料になると判断し、失踪前十六日間分の日記を抜粋して以下に提示する。
八月二十日
先生がおかしな事を言い出した。「絵から彼女が出て来るんだ」と言っている。
その絵とは、娼妓が描かれている屏風絵だ。先生の話だと、先生が住んでいる家の前所有者の物らしい。その屏風絵の娼妓が出て来るんだそうだ。
おかしな所がある先生だったが、ますますおかしくなったのかも知れない。今の所は様子を見るしかないだろう。
八月二十一日
思えば先生は、以前からおかしな人だった。
先生は、怪奇幻想小説を書く小説家だ。小説家は変人が多いと言うし、「怪奇幻想小説」の書き手となれば変人ぶりも目立つものかもしれない。
先生は、旧家から買い取った日本家屋で独り暮らしをしている。人の出入りは、俺以外はほとんど無い。夏だと言うのに、黒いシャツに黒のスラックスと言う姿だ。家の中なのに、銀製の指輪やブレスレット、ネックレスを付けている。しかも髑髏の装飾が成された物だ。俺が訪問すると、銀箔を張った髑髏の杯で冷茶を入れてくれる。
ただ、趣味が変だと言うだけで、狂っているところは無かった。書く物は異様だが、だからと言って本人まで狂っているわけではないだろう。
しかし、「絵から人が出て来る」と言い出した現在では、先生の正気を疑わざるを得ない。先生が危険かどうかは分からないから、軽率な行動は慎んだほうが良いだろう。
明日にでも、もう一度先生の所に行ってみよう。
八月二十二日
やはり先生はおかしい。ちょっと屏風絵について質問したら、やたらと喋り散らす。先生は自分が興味あることはよくしゃべる人だが、それにしても少し度が過ぎている。
先生によると、この屏風絵は江戸時代に描かれたらしい。この地方は昔から海運業が盛んであり、江戸時代にも港町が栄えていた。その港町には遊郭があり、その遊郭の娼妓を描いた物らしい。
別の説によると、その遊郭に出没した毛娼妓と言う妖怪を描いた物らしい。毛娼妓とは、長い髪を振り乱した娼妓の妖怪であり、遊郭に出没したらしい。この屏風絵に描かれている娼妓は、髪を結わないで顔の前に垂らしている。普通の娼妓ではなく、毛娼妓を描いた物かもしれないと先生は言っている。
先生は、本当に喋りまくった。この地方の歴史、地理、遊女の歴史、この地方の遊郭の変遷、屏風絵の歴史、技術など。こちらは相槌を打つ事すら出来ない。
そして、絵から出て来る女の事を話しまくった。それは、聞いているほうが恥ずかしくなるような恋愛妄想だ。止めなければ、ポルノまがいの事まで喋り出したかも知れない。
先生の所から出た時は、さすがにぐったりとした。先生は面白い人だと思っているし、先生の小説は大好きだ。それでも、限度と言う物はある。取り敢えず今は休もう。考えがまとまらない。
それと、あの変な女は何だ?
八月二十三日
昨日の女が気になる。昨日、先生の家を出てすぐに変な女と出会った。
女は泉潤子と名乗り、県内で商売をしている古美術商だと言っていた。何でも先生が所蔵している美術品に興味があり、先生と面識を得たいそうだ。
俺は先生の所に出入りしている大学生に過ぎず、先生に人を紹介する事は出来ないと言っておいた。女は、それであっさりと引き下がった。
あの女は奇妙だ。この暑いのに着物を着ていたし、腰まで届く長い髪をしていた。それに雰囲気が不気味だ。若くて美人なために不気味さが目立つ。
八月二十四日
あの古美術商を名乗っていた女が興味を持っているのは、娼妓が描かれている屏風絵かもしれない。
思い返せば異様な迫力のある絵だった。金地の中で、漆黒の髪を垂らして紫の着物を羽織った娼妓が立っている。着物ははだけてあり、むき出しになった胸を髪の毛が隠している。白い足もむき出しとなっており、異常なほど長い黒髪が絡まっている。
あの娼妓の絵でもっとも目立っているのは黒髪だ。足まで垂れ下がるほど長い黒髪が、結われる事も無く娼妓を覆っている。生命力を持って艶々と輝く闇の様な黒髪だ。この髪の間から、娼妓は妖艶な微笑を浮かべている。
この屏風絵は薄暗い部屋の中に置かれており、金がほの暗い輝きを放つ中で陰性の美を持つ娼妓が浮かび上がっていた。凄みすら感じさせる屏風絵だ。先生がおかしくなっても仕方が無い絵かもしれない。
古美術商を名乗る女については、メールで先生に教えておいた。
八月二十五日
先生について過剰に心配するのは止めよう。単に絵から人が出ると言っているだけなんだ。別に暴れたり自傷している訳ではない。俺が話し相手になる程度で良いだろう。
先生から、今日メールが届いた。古美術商を名乗る女について教えた事に対して礼を言っていた。文面からは特におかしなところは無い。
俺もこれから忙しくなるんだ。九月からは大学が始まるし、FPの資格試験もある。バイトだって有るんだ。先生には悪いけれど、あまり先生の面倒を見るわけには行かない。
あまりにも先生の様子がおかしい様だったら、心理学や社会福祉学の教授に相談しよう。
八月二十六日
「悪魔の手毬歌」(市川崑監督)を見終わる。やはり横溝正史原作の映画は良い。猟奇と耽美が混ざり合っていて、妖しい魅力がある。赤紫色の葡萄酒の中に娘の死体が漬けられ、頭の上に金色の小判のおもちゃが飾られている。
見ている途中に、先生の家にある屏風絵を思い出した。絵の中の娼妓の黒髪を葡萄酒に漬けたら、どの様になるだろうか?
八月二十七日
今日も先生とメールでやり取りをした。先生の家に近いうちに行ったほうが良さそうだ。先生のメールは、あの娼妓の絵の事ばかり書いている。別の話題を持ち出しても乗ってこない。
ただ、バイト先で夏バテの為に倒れた人が居て、俺が変わりに出なくてはいけない。何とか時間を作りたいのだが。
八月二十八日
バイトが忙しい上にFPの模擬試験もあり、先生の所に行けなかった。先生へメールを出したが、返事が来ない。
バイトの帰りに、あの古美術商の女と会った。相変わらず和服姿で長い髪をしている。少し話をしたが、あの女はおかしな事を言っていた。「向こう側」とは何の事だ?あの女の話しぶりだと先生に関わりが有るらしいが、先生の小説の事か?
八月二十九日
今日も先生へメールを出したが、返事が来ない。今までの先生だったらありえない事だ。先生は自分からはあまりメールを出さないが、俺が出したメールへは当日か翌日に必ず返事をくれた。
先生に電話をかけたいが、電話番号を知らない。先生は電話が嫌いで、編集者ともメールでやり取りをしているそうだ。
バイト先は混乱している。夏バテした人がまだ治らない上に、バイト同士が喧嘩を始めてその内の一人が仕事を放り出した。今日は仕事三昧だ。職長もヒステリックになっている。
あの女が言った「向こう側」について少し気になる。「向こう側」とは、普通は彼岸の事を言い表しているはずだ。先生の小説には常世の事が出てくるが、その事について言っているのか?
そう言えば、先生の小説には現実への嫌悪が描かれている事がある。それが先生の小説の魅力の一つなのだが。
八月三十日
今日、先生の家に行った。バイト先は混乱しているが、強引に切り上げた。職長は喚き散らした挙句掴み掛かって来たが、課長が止めてくれた。たぶん労働問題になったらまずいと思ったのだろう。
バイト先が荒れている事も気になったが、それよりも先生の事だ。先生の安否を確認しなくてはならない。
先生の家に着いたのは、午後六時少し前だ。辺りは夕闇に沈もうとしている時刻、逢魔時だ。先生の家は闇の中にある。
俺は玄関から入ろうとせずに、庭から回って屏風絵のある部屋へと行こうとした。先生の様子を探りたかったのだ。手には催涙スプレーを持っており、鞄にはミリタリーナイフが入っている。先生に危害を加えるつもりはないが、「何か」に備えていたのだ。
そうだ、俺は認める。ここ数日の内に、先生に「何か」が取り付いているのではないかと思う様になったのだ。それが何かは分からないが、先生を蝕む危険なものだと思ったのだ。
屏風のある部屋は西側の奥にある。俺は庭木の陰に隠れながら、足音を立てない様にそこへ向かう。屏風のある部屋は障子が閉まっており、そこから先生と何者かの声が聞こえる。障子は中からの光で金色に染まっている。俺は、障子に小さな穴を開けて中を覗き込んだ。
光は、屏風絵の金地から放たれていた。先生はその光に照らされ、何かの影で覆われている。先生の表情は恍惚としており、先生は喘ぎ声をあげている。俺は始めその影が何か分からなかったが、見続ける内に分かってくる。影だと思ったのは髪の毛だ。先生の裸の全身を長い黒髪が絡み付き、愛撫していたのだ。髪は意思を持つように蠢き、先生の全身を撫で回している。
髪の中から女の顔が現れる。あの絵の娼妓の顔が、髪の中で微笑んでいる。髪を使って先生を引き寄せると、先生に口付けて舌を這わせる。
先生が突然、痙攣するように震えだす。先生のペニスから白濁液が放たれて、漆黒の髪を汚す。髪に付いた精液が見る見る無くなると、光に照らされた黒髪がいっそう艶やかになる。あたかも精を吸って髪の美しさが増しているかの様だ。
俺は障子から離れた。
俺には分かってしまった。あの女は「向こう側」から来た者だ。先生は既に「向こう側」へと引き込まれてしまっている。もう、俺とは世界が違うのだ。
俺は逃げなくてはならない。息を潜め、足音を消し、そっと逃げなくてはならない。今は逢魔時だ、魔と遭遇する時間だ。俺は魔に捕まえられてはならない。俺は「こちら側」の者だからだ。
「いいえ、あなたも私達と同じ世界へ来るのよ」
低く笑うような声が聞こえた。俺は弾かれたように辺りを見回し、手に催涙スプレーを構える。俺に声をかけたのは誰だ?どこにいる?
足元の暗がりが蠢き、俺の脚を捉える。俺は、バランスを崩して転倒する。手に闇が絡みつき、催涙スプレーを奪い取られる。鞄を開けてミリタリーナイフを取り出そうとするが、闇が俺の手を捕えて取り出せない。声を上げようとするが、闇が俺の口をふさぐ。
俺はなめらかな感触に包まれ、涼やかさを感じる香りを嗅ぐ。俺の捕えている物は闇ではなく、漆黒の髪だ。
俺の前に人影が現れる。その人影から髪が伸びて地を這い、俺に絡み付いて捉えている。俺は、その女の影を見上げる。
「怖がらなくてもいいのよ。あなたを包み込んであげるのだから。私に抱かれて、快楽と安らぎを得る事が出来るのよ」
髪の毛は俺の体の至る所を探り、俺の服を脱がしていく。俺は髪の毛を引きちぎろうとするが、信じがたい強度を持っている。俺は、髪の毛の蠢きに逆らえない。
俺の体中を快楽が走る。俺は、始めは何が起こったのか分からない。全身を、くすぐったさと柔らかさの混じった快楽が覆う。快楽と共に、頭を狂わせる香りが俺の中に浸食してくる。
俺の全身を、魔性の黒髪が愛撫しているのだ。愛撫しながら俺の体に香りを刷り込んでいく。俺は快楽に、香りに抗えない。俺のペニスに巻きついた髪が、腰の巻きついた髪が、全身を愛撫する髪が俺を絶頂へと導く。俺は、耐えられずに精をぶちまけてしまう。
黒髪が白濁液で見る見る汚れていく。俺は、白が黒を汚す様に陶酔する。だが、白は黒にすぐさま飲み込まれていく。飲み込まれるごとに、黒髪のつややかさが増す。
女が俺を抱きしめ、俺の顔を見下ろす。その時に初めて、俺を嬲っているのがあの古美術商の女だと気付く。
「さあ、もっと精を出しなさい。私の髪を精で汚しなさい。そうすれば私の髪は美しくなれるわ」
女の言葉と共に、髪の毛が俺の全身を這い、くすぐり、締め付け、撫で回す。俺のペニスはすぐさま回復し、快楽を求めていく。女は俺に口付け、俺の口の中に舌を這わせる。
俺はもう逆らう気は無く、女の口を吸い返す。女の体に俺の体を押し付けていく。
俺は、何度射精しただろうか?女の髪に、女の口に、女の胸に、女の膣に、女の尻に出したのだろうか?射精するたびに女の髪は輝きを増す。あたかも精を糧にしているかの様に。俺は快楽の渦の中で嬲られ、翻弄され、沈んでいく。
俺は魔に捕らわれたのだ。もう手遅れだ。
八月三十一日
俺は夢を見ているのか?それともこれは現実なのか?
俺は、髪の毛に捕らわれている。あの女がいない時にも、こうして髪の毛が俺にまとわり付いている。他の奴等は、俺の姿を見てもおかしく思わないらしい。俺にまとわり付いている髪の毛が分からないらしい。
髪の毛は俺を包み、愛撫する。俺に快楽と安らぎを与える。それにこの髪の毛の香りだ。俺の頭を浸食する。
九月一日
俺は、あれ以来何度もあの女と交わり合っている。俺は、これほどの快楽が在るとは思わなかった。俺は、繰り返し繰り返し射精した。俺は、悦楽に浸り続けている。いくら味わっても味わい足りない。それを十分に分かっているかのように、あの女は俺にいくらでも快楽を与えてくれる。
俺は、既に堕ちている。快楽さえ味わえればそれでいいのだ。あの女の髪が与えてくれる快楽さえあれば。
九月二日
先生は既に「向こう側」へ行ったらしい。それで良いのかもしれない。先生は、「こちら側」で生きて行けない人かもしれない。あの絵の女が先生を導いてくれるそうだ。
俺も「向こう側」へ連れて行くそうだ。女は、俺に髪の毛をまとわり付かせながら囁く。俺は、逆らう気はもう無い。俺も「こちら側」で生きていけない者かもしれない。
九月三日
悦楽だ、悦楽だ。俺を翻弄し、嬲り、包み込む。
何も考える気もしない。考える必要も無い。
九月四日
俺は、今日「向こう側」へ行く。俺は魔に捕らわれ、逃れられない身となった。
だが、それでいい。魔が魅力のあるものだと分かった。俺は、魔が与えてくれる快楽から逃れられない。逃れる気も無い。
考えてみれば、俺は「こちら側」には適応できなかったんだ。学校にも、地域にも、社会にも適応できなかった。この先就職すれば、企業や役所にも適応できないだろう。今から思えば、俺が幻想小説や怪奇小説のめり込んだのは、現実に適応出来ずに現実を嫌悪していたからだろう。もしかしたら先生も同じかもしれない。
あの魔の女は、俺に快楽を与えてくれる。既に繰り返し書いたとおりだ。あの女は、今もすぐ側で俺が日記を書くのを見守っている。俺の精を吸って輝きを増した髪の間から、微笑を浮かべて見守っている。俺は、この魔の女が言う愛は分からない。だが、魔の女が与えてくれる快楽は分かる。それで十分だ。
俺を今まで育ててくれた父と母を放って置いて「向こう側」に行のは、申し分けない事だと思う。それでも俺は「向こう側」へ魔の女と行きたい。
さあ、時間だ。日記を書くのもこれで終わりだ。「向こう側」へ行くんだ。
以上で日記は終る。少し付記する事がある。
日記に出て来た「泉潤子」と名乗る古美術商は、県内の古美術商関係者の中に確認されていない。日記の中に出て来た屏風絵は、失踪後の家宅捜査時には長井龍彦宅に存在しなかった。家の前の所有者に確認を取ったが、屏風絵については知らないと話している。
14/08/23 16:30更新 / 鬼畜軍曹