読切小説
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魔物娘流表現弾圧
「冗談だと思っていたが、本当の話だったのか…」
 竜彦はうめき声を上げた。妻であるジュリエットから知事の暴走について聞いて、竜彦は呆れかえる。手に持っていた缶ビールを落としそうになり、慌ててテーブルの上に置く。せっかくの晩酌だが、ビールとソーセージの味が分からなくなりそうだ。
「私も耳を疑ったよ。でも、モントルイユさんの話なら、本当のことだろうね」
 ジュリエットは、赤い髪をゆすりながら話す。モントルイユは、県庁の総務部総務課の職員だ。総務部秘書課とは部屋が隣り合っており、両方の課はつながりが強い。総務課には、知事に関する情報は入りやすい。
 知事は、一つの条例を提出する計画を立てていると言われていた。出版物、映像などの作品を規制する条例だ。寝取り、寝取られなどを描いた創作物を有害図書、有害情報指定し、未成年に対する販売、頒布、貸与を禁止する条例だ。
 知事は淫魔サキュバスだ。性に対しては開放的な態度を取っている。だが、浮気、多重関係などに対しては敵意をむき出しにしている。魔物娘は、一人の伴侶とだけの関係を望む。そのために浮気を敵視する。サキュバス知事も同じなのだ。
 そのようなことから、寝取り、寝取られを描いた創作物を知事が規制するという噂があった。竜彦たちは、さすがに噂を信じていなかった。だが、県庁の総務課職員の話ならば、単なる噂ではとどまらない。
 竜彦とジュリエットは小説家だ。規制は他人事ではない。オレンジ色の照明に照らされたリビングには、二人の低いうめき声が響き渡った。

 サキュバス知事が創作物の規制を行おうとするきっかけは、一冊の小説を読んだことによる。その小説とは、アーネスト・ヘミングウェイの「日はまた昇る」だ。この小説は、スペインのサン・フェルミン祭を舞台に、一人の女をめぐって寝取り、寝取られ合戦が繰り広げられる様を描いた小説だ。この小説を読んで、サキュバス知事は激怒したそうだ。
 竜彦は、「日はまた昇る」について思い出していた。確かに胸糞悪い小説だ。中心となる女はビッチであり、その周りの男は女あさりが好きそうな連中だ。しかもこの小説は、ヘミングウェイの実体験を元にして書いている。自分の嫌いな小説家をモデルにした登場人物を出し、コケにしたのだ。小説を書く技術が優れている分、胸糞悪さは尋常なものでは無い。
 この小説に激怒したサキュバス知事は、寝取り、寝取られを描く創作物を規制することにした。寝取り、寝取られを描いた創作物は、知事の手で有害図書、有害情報として指定をする。指定された物は、未成年に販売、頒布、貸与することを禁じる。違反した者に対しては、懲役刑、罰金刑が課される。この内容の条例を出そうと言うのだ。
 竜彦は首をかしげた。確かに、寝取り、寝取られを描いた創作物は胸糞悪い。だが、それらを書くことは自由だろう。読者が寝取り、寝取られを嫌うのならば、読まなければ良いのだ。書く自由があると同時に、読まない自由はあるのだ。規制することは筋違いだ。
 ジュリエットも条例による規制には反対だ。彼女は、絵画や音楽、物語を愛する妖精リャナンシーだ。彼女自身が小説家として活動している。
「『有害』『不健全』の定義が不明確でしょ。規制するのならば基準を設けることが条件だけど、そんなことが可能なの?規制する者の恣意的な裁量が猛威を振るうことになるでしょ」
 ジュリエットは、怒りをあらわにしてまくしたてる。彼女の小柄な体は震え、可愛らしい顔は赤く染まっている。創作物を愛する妖精として、権力による恣意的な取り締まりには強く反発するのだ。
「寝取り、寝取られを小説で書いても、現実の被害者はどこにもいないじゃない。寝取られの被害者は小説の中で存在するだけで、現実にはいないでしょ。小説で寝取られを書いたら、現実の人間も寝取られるというわけ?小説で書いたことが影響して、現実でも寝取られが起こるとでも言いたいの?そんなこと証明できないでしょ」
 ジュリエットは、紫色の目をきらめかせながら話す。竜彦は、うなずきながら話を聞く。
 彼女の言う通りだ。規制派は、決まって根拠の無いことを言う。現実に被害者がいないのに騒ぎ、非科学的な影響論をまくしたてる。まともに相手にする価値の無いことを言うのだ。
 だが、と竜彦は顔をしかめた。そのまともに相手にする価値の無い論が、猛威を振るうことがある。特に権力者が乗り出して来たら、シャレにならない事態となる。彼は、唇を噛みしめる。
 竜彦は、歴史を題材とした冒険小説を書いている。恋愛を書くことは主ではないが、ストーリーの展開上、恋愛を書くことはある。その中には、魔物の価値観から言うと嫌われる描写もあるのだ。ジュリエットは、幻想世界を舞台とした日常生活を小説で描いている。こちらも恋愛を描くことは主ではないが、恋愛を描くこともある。サキュバス知事による条例は、二人を規制する可能性があるのだ。
 現在は、県庁職員の話として出ているだけだ。公的には、まだ出ていない。だが、創作に携わる者としては、備える必要はある。二人は、知り合いの県庁職員から情報を集めることにした。そして、地元マスコミの知り合いや、自分たちが作品を出している出版社と連絡を取り合うことにした。

 事態は、二人の予想を超えることとなった。二人が条例の話を聞いてから一か月後、サキュバス知事によって条例が公言された。創作物を規制する条例について、パブリックコメントが行われたのだ。
 明らかになった条例の内容は、二人の想定以上だった。寝取り、寝取られを描いた作品を未成年者に販売、頒布、貸与を禁ずるだけではない。殺人を描いた物も禁止すると発表したのだ。
 サキュバス知事は、条例について計画を立てている最中に、一つの小説を読んだ。その小説を読んで怒り狂い、条例の対象を拡大することにしたのだ。その小説とは、フョードル・ドストエフスキーの「悪霊」だ。
 「悪霊」は、十九世紀のロシアのテロリストを描いた小説だ。その小説の中で、主人公はある登場人物の妻を寝取る。その結果、妻は妊娠してしまう。だが、寝取られた男は妻を受け入れ、生まれてくる子を育てることを決意する。その男は、子が生まれた直後に主人公の影響下にある者によって殺される。
 ドストエフスキーは、マイナスのパワーに恵まれた小説家だ。この殺人前後の描写は、悪魔的な力量を叩きこんだ描写であり、耐えがたいほどの陰惨さがある。これを読んだサキュバス知事は、何時間も強張った表情で体を震わせていた。この小説を読んでサキュバス知事は、創作物の殺人描写を禁止することを決意したのだ。
 竜彦は、リビングで地元新聞を食い入るように見つめていた。力を入れ過ぎたために、新聞が破けそうだ。新聞には、条例について大きく書いていた。その地元紙は、条例について非難している。竜彦は、その地元紙の社会部記者と知り合いだった。二日前にあった時に、条例について話をした。「狂っているとしか思えない」その記者は、そう吐き捨てていた。
 竜彦も同じ意見だ。殺人を描いた創作物は山のようにある。それをすべて禁止するなど正気の沙汰ではない。仮に、条例が制定されたとする。その場合は、小説だけでも以下の事態が生ずる。
 未成年者は、当然のことながらヘミングウェイとドストエフスキーを読むことが出来ない。ディケンズもデュマもトルストイも読むことが出来ない。夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫も読むことが出来ない。未成年者に好まれる推理小説は、禁止対象の代表だ。ポーもコナン・ドイルも、江戸川乱歩も読むことが出来なくなる。
 あまりにもの馬鹿馬鹿しさに、竜彦は考えをまとめることが出来なかった。事態がくだらなすぎると、考えることさえ困難になる。そのことを、竜彦は体で分かった。
「知事はユーモアセンスがあるね。自分の支持者が集まった集会で『殺人よりもセックスを!』と演説したそうだね」
 ジュリエットは、知事の後援会が配布しているパンフレットを弄びながら言った。
 竜彦は苦笑する。「殺人よりもセックス」もしかしたら正論かもしれない。サキュバス知事は、明るいセックスを描いたポルノの普及には積極的だ。だが、創作物から殺人を全廃して、セックス描写ばかりになったらどうだろうか?おもしろいかもしれないが、生まれる創作物は狭い物となるだろう。
「条例は制定されないだろう。知事を支持する県会議員は、過半数割れをしている」
 竜彦は薄く笑う。条例を制定するには、県会議員の過半数の賛成が必要だ。サキュバス知事は、数か月前には過半数をわずかに超える県会議員を味方につけていた。だが、創作物を規制する条例の話が出たために、敵に回った議員たちがいるのだ。それにより過半数割れしたのだ。
「知事が専決処分をすれば成立するんじゃない?」
 議会の同意を得なくても、知事は条例を制定することが出来る場合がある。専決処分がそうだ。
「その場合は、緊急性が条件となる。乱用すれば違法性を問われる」
 創作物を規制する条例制定が緊急性を持つことは、まず無い。だとすれば、専決処分による条例制定は無理だろう。
「もし、知事が条例を制定したければ、議会を解散して選挙を行うことになる。だが、今の知事にそんな力があるとは思えないな」
 選挙には金がかかる。一年前の県議会議員選挙で、知事派はかなりの金を使ったと言われていた。また選挙をやる金は無いだろうと、竜彦は考えている。
 竜彦は軽く息をつく。少しは安心できる材料が出たからだ。だが、すぐに表情が曇る。知事が議会内で多数派工作に成功すれば、状況は変わる。魔物娘は、その手の工作が得意だ。
「あの知事はサキュバスだよ。敵を味方に変えるプロだよ」
 ジュリエットも同じことを考えていた。二人は、沈んだ眼差しで考えを巡らす。
「この条例については、もう全国レベルの話になっている。昨日、図書館で全国紙を読んでみたが、二誌が記事を書いている。出版社の中には、抗議声明を出す所があるだろう。俺は、俺の本を出している出版社に、どういう対応を取るか聞いてみるよ。この間、編集者と話したら、条例が出たら反対運動を起こすかもしれないと言っていた。反対運動が起きたら、俺も参加するつもりだ」
 竜彦は、嚙みしめるように話す。
「私も出版社に掛け合ってみるよ。私の本を出している所は、ほぼ確実に反対運動を起こすだろうね。私は雑誌にコラムを持っているから、この件について書くよ」
 ジュリエットも噛みしめるように言う。
 二人は、沈んだ表情でうなずき合った。

「危惧は当たったな」
 竜彦は吐き捨てるように言った。手に持っている地元新聞は、彼の手で半ば引き裂かれている。
 創作物を規制する条例は、出席した県会議員の過半数の賛成を得て可決した。パブリックコメント開始から、議会へ条例案を提出するまで四か月かかった。その間に、反対派の議員の中から知事派に寝返える者が出たのだ。彼らは、いずれも独身の議員だ。知事派の魔物娘たちが、何をやったのかは想像がつく。
「これで、うちの県は全国の笑いものだよ」
 ジュリエットも吐き捨てる。
 彼女の言う通り、新聞を始めとするマスコミは、条例に対する批判と非難を浴びせていた。条例が馬鹿馬鹿しい物であるため、マスコミは露骨に嘲笑している。ネットでは、条例をネタに馬鹿騒ぎが起こっている。
「笑いものになっているうちは、まだマシだ。この条例制定の動きは、全国に拡大する可能性が高い」
 竜彦は、苦虫を噛み潰したような顔で言う。ジュリエットも同じような顔でうなずく。
 魔物娘の首長が選出されている自治体は、複数ある。また、議員の多数が魔物娘の自治体もある。それらの自治体では、竜彦たちの県を見習い、規制条例を制定する動きがあるのだ。
「条例に反対する団体は、これからも活動を続ける。複数の出版社が、その団体を支援し続ける。俺は、団体の事務局で働き続ける。君はどうする?」
 規制条例のパブリックコメントが出て二か月後に、条例に反対する市民団体が立ち上がった。竜彦とジュリエットは、市民団体に参加した。条例制定後は廃止を訴えて活動を続けることを、団体は決定している。
「私も続けるよ。支援している出版社は、私の本を出している所だからね。それに、日本にいるリャナンシーの大半は、反対運動に参加しているよ」
 竜彦は微笑む。妻が一緒に活動を続けてくれると嬉しい。それに、リャナンシーたちが参加していることは心強い。
 ただ、今回の件でリャナンシーは、魔物娘たちの少数派になるかもしれないことが気がかりだ。サキュバス知事は、魔物娘たちの中では一般的な考えの持ち主だ。彼女の条例制定が成功した理由は、魔物娘たちの支持を得ているからだ。魔物娘の多数派が動けば、人間たちも大勢動く。魔物娘の言いなりになっている人間は多いのだ。
 竜彦は破れた新聞を置くと、コーヒーを飲む。砂糖を四さじ入れているにもかかわらず、甘さを感じられなかった。

 創作物を規制する動きは、全国に広がった。各自治体では、規制する条例が提出されようとしていた。これにより、全国で規制賛成派と反対派の対立が起こった。
 賛成派は、魔物娘とその影響下にある人間だ。魔物娘たちは、寝取り、寝取られ、殺人を激しく嫌う。現実で行われることを嫌うだけでなく、小説や漫画などの創作物で描かれることに対しても嫌悪する。彼女たちは、規制する条例制定に賛成した。魔物娘の伴侶などの人間も、彼女たちに同調した。
 魔物娘は、すでに日本で大きな力を持っていた。多くの魔物娘は、政治家、官僚、財界人として活動している。彼女たちの影響下にある政治家、官僚、財界人も多い。魔物娘は、権力者として条例制定へと動いていた。
 マスコミは反対派だと思われていたが、マスコミにも賛成派は多くいた。新聞記者などの中には、魔物娘がかなりいる。そして魔物娘が、新聞社を経営している場合もあった。規制が進めば、テレビ局は大打撃を受ける。だが、魔物娘が経営しているテレビ局もあるのだ。マスコミに勢力を持つ魔物娘たちは、規制を推進するプロパガンダを積極的に行った。
 広告代理店にも、魔物娘は大勢入り込んでいた。彼女たちは広告代理店を動かし、マスコミを背後から扇動していた。
 全国で、規制を推進する市民団体が形成されている。それらは魔物娘によって構成されている場合もあれば、魔物娘の影響下にある人間によって構成されている場合もある。それらの団体は、政治勢力や行政と結びつき、財界から豊富な資金を与えられ、マスコミによって援護射撃を受けた。
 規制反対派の中心は出版社だ。殺人描写を規制する条例制定が進めば、多数の出版物が販売不可能になる。出版社にとっては死活問題だ。それに魔物娘の中では、リャナンシーたちが出版社で勢力を持っている。そのことも、出版社を規制反対派にした。各出版社は条例反対の声明を出し、条例を批判する本を次々と緊急出版した。
 政治家、弁護士、学者、マスコミ関係者のかなりの者が、反対派となった。政治家の中には、表現の自由を重視する者もいる。弁護士会は、表現の自由を守る戦いの牙城になることが多い。学者の中でもリベラルな者は、表現の自由を守ることを主張する論文を書く者が多い。マスコミの中には、表現の自由を否定すれば自分の首を絞めるという基礎的なことをわきまえている者もいる。彼らは、規制に反対するために次々と市民団体を形成した。
 すでに弁護士たちは、条例が憲法違反だとして法廷闘争の準備を進めていた。憲法二十一条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定めている。条例は憲法違反だとして、法廷闘争を行おうとしていた。
 それに対して規制賛成派は、憲法十三条の「公共の福祉」によって表現の自由は制約を受けると主張している。寝取りや寝取られ、殺人の描写を野放しにすることは、公共の福祉に反すると言うのだ。
 法廷闘争ということになると、最高裁判所判事の構成が問題となる。表現の自由をめぐる法廷闘争では、最高裁まで行くことを想定する必要がある。最高裁判所は、長官は一人、判事は十四人だ。判事のうち五人が魔物娘だ。残りの十人のうち、魔物娘の影響下にある者は誰なのかは不明だ。裁判は、やってみないと結論は分からない。
 ただ、法による戦いとは別の所で決着はつくかもしれない。規制に賛成する魔物娘たちは、反対派の切り崩しを行っていた。条例を定める地方自治体の議員、そして法律を定める国会議員の中には、規制賛成派に転向する者達が現れた。魔物娘は、男をたらしこむことに関してはずば抜けている。例えばクノイチの様に、権力者をたらしこむことに長けた魔物娘もいる。議員の妻や秘書の正体がクノイチだということは、十分にあり得た。
 こうして規制賛成派が有利になってくると、条例は過激化してきた。今までは、未成年を対象にして販売、頒布、貸与を禁止していた。だが規制派は、全ての年齢を対象にして禁止する条例を制定しようと画策し始めた。
 さらに、売る側だけではなく、買う側も処罰しようとしていた。単純所持を罰しようと言うのである。殺人を描いた推理小説を持っているだけで、軽くて罰金刑、重ければ懲役刑を受けることになるのだ。もはや日本は、前例の無い表現の自由の弾圧が行われようとしていた。
 この状況の中で、小説家、漫画家、映像関係者、ゲームクリエイターなどの中から、自主規制する動きが出て来た。寝取り、寝取られはもちろんのこと、殺人の描写を避ける動きが出て来たのだ。ひどい場合だと、人が死ぬことを作品に全く出さない者も出て来た。
 さらに事態は劣悪なものとなった。創作者の中には、他の創作者を攻撃する者が出て来たのだ。寝取り、寝取られ、殺人を描いているとして、他の小説家や漫画家をやり玉にあげ、大衆を扇動して攻撃していた。
 すでに表現の自由は失われつつあった。

「ネット弁慶のチンカスの分際でつけあがるな!」
 竜彦の喚き声が部屋の中に響いた。竜彦は、自室のパソコンの画面の前で立ち上がっている。彼の顔は赤黒く染まり、体はけいれんしているように震えている。
 パソコンの画面には、竜彦のツイッターの通知欄が表示されている。竜彦のツイートに対するリプライが並んでいる。そのほとんどは、竜彦に対する誹謗中傷、罵倒、嘲笑、そして恫喝だった。中には、明らかに名誉棄損に該当するものも有る。
 彼は、それらのアカウントを通報し、ブロックする。罵倒を返したいが、我慢する。ジュリエットに止められているからだ。
 竜彦は、自分のブログやツイッターで規制反対の論を主張していた。反対運動のメンバーということで、新聞やテレビ、週刊誌の取材に答えている。また、月刊誌に規制に反対する論文を書いている。ただ、まだ足りないと考え、ネットで規制反対を主張していたのだ。
 当然のことながら、竜彦はネット上で標的になった。彼は、一日に十前後ツイートするが、それに対して少なくて百、多い時には四百以上のクソリプが襲ってきた。規制賛成派による攻撃、後は炎上屋の仕業だ。
 怒り狂った竜彦は、クソリプを送ってきたアカウントに対して、罵詈雑言を叩き返した。その結果、彼は毎日ネット上で罵倒合戦をする羽目となった。ジュリエットが止めなければ、竜彦の罵倒はエスカレートし、彼のアカウントは凍結されただろう。
 あるアカウントから送られてきたクソリプを読んだとき、竜彦の怒りは頂点に達した。
「才能のない中二の売文屋は、グロ文を書かないと目立たないんですね。条例ができたら、どこも書かせてくれないんでしょ。社会性のないおっさんに就職は無理ですね。来年にはニートW」
 このクソリプを読んだとき、竜彦は危うくパソコンを壊すところだった。震えながら自分を抑える。そのアカウントのツイートをさかのぼってみると、悪魔の魔物娘デーモンと結婚したがっていることが分かった。そこで、そのアカウントに対して「マザーファッカーは引っこんでいろ。気色悪い」とクソリプを送ろうとした。デーモンは、母親並みに伴侶を庇護することで知られており、「デーモンおかん」と呼ばれているからだ。
 送る直前にジュリエットに見つかり、羽交い絞めにされて止められた。
「連中は、竜彦に罵倒させることが目的なんだよ!そうすれば連中は通報して、竜彦のアカウントを凍結させることが出来るんだよ!」
 竜彦は、かろうじて自分を抑える。
 それ以来、竜彦は罵倒を返すことを止めて、通報とブロックで対処することにした。ネットで規制反対を訴えて始めてから、すでに通報した回数は六百を超え、ブロックしたアカウントは千を超えた。もはや通報とブロックは日課だ。
 ただ、罵倒を返せないことは、彼の怒りを増幅させる。通報とブロックをしながら、放送禁止用語を喚き散らす。出来ることならば、自分にクソリプを送ってくる者に対して、放送禁止用語を叩き付けたかった。
 通報とブロックを終えると、竜彦は床に寝転がる。フローリングの冷たさが、彼の熱を冷ます。大きく息を吸って、吐く。いくらか怒りが収まってくる。
 彼は、ある有名小説家のことを思い出した。彼の発言は新聞に載っていた。「あたしゃ、キレました。もう一度、プッツンします」そう言って、その小説家は断筆宣言をした。
 その小説家の作品は、規制派の標的とされた。各自治体が規制条例を制定するとき、彼の作品を例に出した。国会議員も彼の作品を槍玉にあげる。マスコミは、彼への攻撃を繰り返す。出版社の中には、彼の作品を増刷することを拒否するところが出て来た。さらに原稿を依頼した編集者の中には、彼の書く物に細かく注文を付けたあげく、勝手に書き直す者も出て来た。それで、とうとう彼は断筆を宣言したのだ。
 やってられねえよ。竜彦はつぶやく。小説家の創作意欲を削ぐことばかり起こる。すでに彼の住む県では、彼の小説は有害図書指定されていた。彼の小説は本屋、図書館から回収されている。ジュリエットの小説も、有害図書指定されたものが有った。
 しかも、この規制の動きに小説家が加担している。竜彦も断筆宣言をした小説家も、他の小説家から攻撃されていた。「有害図書を批判する作家の会」などと言う、馬鹿げた団体まで立ち上がる始末だ。
 昭和十年代の出版統制について書かれた本の内容を、竜彦は思い出した。「今後、風俗を乱すような場面や不道徳な行為は、小説に一切書いてはならない」情報局の役人は、作家を集めてそのように命令した。「盗賊が後悔して真人間になる小説を書くには、盗みの場面を書かなくてはならないが」菊池寛は、そう反論した。「たとえ後で後悔しても、やはり盗みの場面はいけない」そう、情報局の役人は答えたそうだ。
 一昔前ならば、このエピソードは笑い話だ。いっそう笑えることには、菊池寛は「ペン部隊」のリーダーとして戦争協力している。小説家を権力者の使い走りにした張本人だ。そのご褒美として、盗みの場面すら書くことが出来なくなった。
 今は、このエピソードを笑うことが出来ない。同じようなことが起こっている。「有害図書を批判する作家の会」とやらは、自分の創作ががんじがらめになった時、菊池寛を笑うことが出来るのだろうか?
 竜彦は、乾いた笑い声を上げた。

 条例制定に成功する自治体が増えてきた。その中には、政令指定都市を県都とする県もある。未成年者への販売、頒布、貸与を禁止するにとどめる所から、全年齢に対して禁止する所、単純所持に対して刑罰を科する所と別れている。
 規制の動きは、条例にとどまらなくなっていた。国会では、超党派による議員立法として、創作物を規制する法律が提出されようしていた。法律が制定されれば、自治体だけにはとどまらず、全国に規制が猛威を振るうことになる。そして法律は、条例よりも罰則を重く出来る。また法律は、条例では出来ない違反者への直接強制が出来るのだ。
 この法律制定に関して、一つの疑惑が反対派の間で言われている。警察が、ネットを使っておとり捜査をする可能性があるのだ。ネット上に寝取り、寝取られ、殺人を描いた作品をわざと出しておく。それを閲覧した者を特定し、逮捕する可能性があるのだ。
 刑事事件を多く扱う弁護士や警察関係の取材をするジャーナリストは、このおとり捜査について指摘し、警察関係者に取材を繰り返す。そして、規制賛成派と警察の接触を暴きたてた。おとり捜査について、大きな騒ぎが起こった。
 だが、それを上回る事態が進み始めている。憲法二十一条を改正しようという動きが公然と出て来たのだ。憲法二十一条は、言論、表現の自由を認めている。規制反対派は、条例は憲法二十一条に反していると主張している。そこで規制賛成派は、憲法を改正しようとしているのだ。
 憲法改正は、衆議院、参議院のそれぞれ三分の二以上の議員が賛成することによって発議される。国会が発議した後は、国民投票にかけられる。改正に賛成する投票が、総投票数の二分の一を超えると、国民に承認されたとみなされる。そして憲法は改正されるのだ。
 竜彦は、新聞をにらみつけていた。与党国会議員である龍は、憲法二十一条改正案を新聞に寄稿していた。表現の自由を有名無実化する案である。別の新聞には、野党国会議員であるデーモンの憲法改正案が掲載されている。こちらも、表現の自由を有名無実化するものだ。
 彼は、唇を噛みしめながら考える。憲法改正の発議は、超党派によって行われるだろう。魔物娘たちは、与党、野党双方に存在する。人間の議員も、魔物娘の息がかかっている者が大勢いる。すでに水面下では、魔物娘たちは画策しているだろう。条例制定で、彼女たちの手腕を見せつけられた。憲法改正に必要な議員数を、彼女たちはそろえる可能性が高い。
 憲法改正が国民投票にかけられたら、どうなるだろうか?マスメディアを通して、魔物娘たちはプロパガンダに励んでいる。ネット上も、魔物娘たちのプロパガンダの舞台だ。
 竜彦は、最近あるアニメを見た。人間と魔物娘のドタバタラブコメを描いたアニメだ。魔物娘のスタッフが制作している物だ。過去のラブコメをきちんと調べたらしく、良く出来た創りだ。視聴者を飽きさせないように工夫を凝らしている。コメディーに重要な間の取り方も絶妙だ。説教臭さは慎重に排除されている。
 だが、注意して見てみると、プロパガンダが挿入されていた。寝取られた者の哀しみ、殺人への嫌悪などが間接的な表現を用いて、ギャグの合間に挿入されていた。そして、それらの被害者を見て楽しむ者が、デフォルメされて出て来た。登場する場面はわずかであり、作品の流れには影響しない。大半の視聴者は、ギャグの方に注意するだろう。だが、視聴者の意識、あるいは無意識に残るような挿入のされ方だ。
 魔物娘は、俺が想定した以上に狡猾だ。奴らは、「楽しいプロパガンダ」を知っており、それを実行に移しているんだ。竜彦は、唇から血がにじむほど噛みしめる。すでに、魔物娘たちは小説、漫画、アニメ、テレビドラマ、映画、ゲームなどを製作し、それらをプロパガンダの道具として使っていた。
 魔物娘を支持する人間は、極端なほど戦闘的な態度で攻撃してくる。この連中に対して、「危険な狂信者」のレッテルを貼り、大衆に印象付けることは出来る。だが魔物娘たちは、そのような失態は犯さない。人間が楽しさを望んでいることを知っており、それを利用してプロパガンダを行うのだ。下手に魔物娘のプロパガンダを攻撃すれば、野暮な連中扱い、イデオロギーに凝り固まった「イタい人」扱いされてしまう。
 連中のプロパガンダは成功しつつある。国民の過半数を味方につけるかもしれない。
 竜彦は、血が流れていることに気が付かないまま、唇を噛みしめ続けた。

 竜彦は、市民公園の中で歩き回っていた。市民公園で規制反対の集会を行うからだ。彼は、規制に反対する団体の事務局のメンバーだ。すでに、団体形成から八か月経っており、集会も回数を重ねている。竜彦も運動に慣れてきている。彼は、集会参加者間の連絡を取るために歩き回っていた。やや曇っているが天気は良く、休日でもあり、参加者はそれなりに集まるだろう。
 竜彦は、事務局の中核メンバーの指示に従い、会場内を整えていく。竜彦に指示する事務局員は、出版社の労働組合の職員だ。反対運動を行う団体を運営するために、労働組合から派遣されていた。運動歴が長い男であり、経験豊富な実務家だ。
 実務家がいないと、運動を起こすことは出来ない。そのことを、竜彦は体で思い知っていた。規制反対運動には、小説家、脚本家、漫画家、イラストレーター、アニメーターなどが参加している。彼らは運動の顔であり、声明を出す時には必要だ。だが、運動の実務に関しては、あまり役に立たない。
 竜彦は、企業に勤務した経験があるためにいくらかマシだ。だが、創作者の中には、学校にいる間にデビューしたために、企業や行政での勤務経験が無い者たちがいる。そのような者たちは、運動に関しては右も左も分からない。いや、それ以前の者もいる。竜彦は、運動に参加する前に、市民運動の実務について解説した本を何冊か読んだ。だが、それすらしない者もいる。
 実務に役に立たない創作者は、実務から外れてもらった。竜彦と労働組合の男は、慎重に言葉を選んで彼らを説得した。プライドを傷つけられたと彼らに思われたら、厄介なことになる。彼らにはメディアでの活動や、声明を発表することに専念してもらう。
 会場内で雑用をこなしながら、竜彦は苦笑する。実務家から見れば、俺も役立たずだろうな。ただ、雑用係くらいは出来るだろう。慰めにもならないことを考えて、竜彦は自分を慰める。
 ジュリエットは、野外設置された壇上にいた。集会で講演する憲法学者と打ち合わせをしている。ジュリエットも、竜彦と同じ団体に参加していた。講演者と連絡を取り、交渉し、スケジュールを組むことが彼女の仕事だ。彼女は、小説家になる前は編集者であり、学者や評論家との交渉は慣れていた。
 もう十分で集会が始まる。人の集まりも良い。竜彦は公園の端により、集会を見守ろうとする。
 不意に、公園の東側で騒ぎが起こった。竜彦は、騒ぎが起こっている方を見る。三、四十人くらいの男たちが、集団で集会の中に乱入してきている。喚き散らしながら、集会に集まっている人々を突き飛ばしている。会場の整理係が制止しようとしているが、男たちは体当たりを食らわせている。
 竜彦は、騒ぎの起こっている方へ駆け出した。規制賛成派が乱入してきたのだ。賛成派であっても、魔物娘は反対派の集会に襲撃をかけたりはしない。だが、魔物娘を支持する人間の男の中には、反対派を襲撃する者もいるのだ。
 壇上にいるジュリエットは、竜彦に向って何か叫ぶ。だが、彼はそれを振り切り、乱入者たちに受かって走っていく。
 オーバーサイズのシャツを着た太った男が、会場整理の青年を殴った。青年は、頬を抑えながら座り込む。太った男は、青年を蹴り上げる。竜彦は、太った男に突き進む。右こぶしを握り締め、突き出す。太った男は、竜彦に気が付いて振り返る。竜彦の右こぶしは、男の左頬に直撃する。こぶしに固い感触がした。同時に、男はわめき声を上げる。
 竜彦は、繰り返しこぶしを叩きこむ。固い感触が伝わるたびに、歓喜が彼の体に走る。太った男のメガネが吹っ飛ぶさまを見て、竜彦は笑い声を上げる。太った男はうなり声をあげ、竜彦に体当たりをくらわす。竜彦は後ろに倒れ、アスファルトに尻を叩き付けられる。
 起き上がろうとすると、竜彦の腰が蹴り上げられた。鼻髭を生やした痩せた男が、竜彦を蹴り上げている。竜彦は、立ち上がろうとする。だが、その鼻髭を生やした男は、竜彦の股間めがけてくり返し蹴りを入れる。
 竜彦は身をかがめると、その男の腹に向かってショルダー・タックルをくらわそうとする。竜彦の右肩は、腹ではなくて股間に炸裂する。くらった男は、うめき声とわめき声が合わさったような声を上げながら倒れる。
 何人もの男がこぶしを振るい、蹴りを放つ。怒号と叫喚が交差し、まともな言葉は聞き取れない。男たちの鼻からは血が流れ、アスファルトの上にこぼれる。地面に倒れた男は、複数の男に蹴り上げられる。
 竜彦は、殴り合いの中心にいた。殴った回数、殴られた回数は、彼には分からない。口の中に広がる鉄の味と、シャツにこぼれる鼻血、こぶしに広がるしびれと、蹴られた股間の鈍痛を把握できるくらいだ。殴り倒され、突き飛ばされるたびに立ち上がる。蹴りを入れられながら立ち上がり、ショルダー・タックルをくらわす。倒れた男の顔を蹴り上げる。太陽の光が彼の目を射る。
 竜彦は、意識が暗転するまでこぶしを振るい続けた。

 竜彦は、寝室のベッドに横たわっていた。隣には、ジュリエットが横たわっている。いつもならば、二人はセックスを楽しむ。だが、今日はただ横たわっているだけだ。
 集会は失敗した。会場周辺にいた警察が駆け付け、乱闘を抑えた。警察は、集会主催者たちに集会を中止することを要請した。要請を無視して集会を行おうとする者もいたが、主催者たちは中止を決定した。
 竜彦は、病院で治療を受けた。その後で、警察の取り調べを受けた。取り調べが終わった後は、竜彦は疲れ切っており、何も考えることが出来ない状態だ。こうして、ぼんやりとベッドに横たわっている。
 ネットには、今日の乱闘の動画が上がっているだろうな。クソ以下のコメントが、動画に山ほど寄せられているだろう。竜彦は、うんざりしながらそう思う。馬鹿馬鹿しくて、いちいちネットで確認する気にならない。体中の鈍い痛みが、彼をいらだたせる。
 俺たちは負けるのか?竜彦は、無意識のうちにそう思う。思念を振り払おうとするが、無理だった。
 規制賛成派、反対派の人間男は、くだらない争いを繰り返している。その醜態をよそに、魔物娘たちは規制条例を次々と制定している。今年中には、規制する法律も出来るだろう。来年には、憲法が改正されるかもしれない。あるいは、法律と憲法の整合性を取るために、規制法制定は、憲法改正と共に来年行われるかもしれない。
 表現の自由は失われる。竜彦は、小説を出版することが出来なくなる。くだらない規制がある状態で小説を書けるほど、彼は器用ではない。
 いや、まだ終わったわけでは無い。憲法が改正されても、第一ラウンドが終わっただけだ。第二、第三ラウンドがまだある。竜彦は、口元を引き締める。彼の目に力強さが戻ってきている。
 表現の自由が無くなったら、地下出版で対抗しよう。まさか日本で地下出版することになるとは思わなかったが、今となってはやらざるを得ない。おとなしく規制に従うつもりは無い。竜彦は、歯を噛みしめながらそう考える。
 やってやろうじゃないか。竜彦は笑う。
 いきなり笑い出した竜彦を見て、ジュリエットは怪訝そうに彼を見る。竜彦は、彼女の顔を見返す。彼女の腰に手を当てて、自分の方に引き寄せる。
 ジュリエットは、少し驚いた表情をした。だが、すぐに微笑み、自分から竜彦に抱き付く。ジュリエットの甘い匂いが、彼の鼻腔をくすぐる。
 二人は、ベッドの上で強く抱きしめ合った。

「どういうことだ?」
 竜彦は、パソコンの画面を見ながらつぶやく。一緒に見ているジュリエットは、無言のままだ。
 画面には、白銀色の髪と赤い瞳が印象的な女が映っている。頭に生えている黒い角と、背に広がる薄紫色の翼から、彼女は魔物娘だと分かる。美女揃いの魔物娘の中でも類まれな美貌を持つ女だ。彼女は、涼やかな声で話している。
 彼女は、魔王の娘であるリリムだ。彼女は、マスメディアを通して声明を発表した。表現の自由を規制する法改正に反対するという声明だ。
 新聞には、彼女の声明全文が乗っている。テレビのニュースでも、声明を発表する彼女が映し出された。ただニュースでは、重要な所だけを映して全部は映さない。ネットには、彼女の声明発表を全部映している動画が上げられている。二人は、それを見ているのだ。
 声明の内容は、次のようなものだ。表現の自由の侵害に反対する。表現を法で規制することは蛮行である。表現の自由を認めている憲法二十一条を守るべきだ。表現の自由は、公共の福祉のために制約を受けるが、制約は極力抑制すべきである。例えば、差別を煽る表現は規制すべきだ。だが、特定の性描写や死の描写を規制することは、不適切である。
 もし、それらの表現が不快であるのならば、それらの表現を行っている創作物に背を向ければよい。もし、自分の望む表現を欲するのならば、創作者ならば自分で創るべきだ。享受する者ならば、自分の望む表現をする創作者を支援すれば良い。創作を法で規制することは、人間と魔物の自由が敗北することを意味する。自由が自己の存在と深くかかわっていることを思い起こすべきだ。
 以上のような内容の声明を、魔王の娘であるリリムは発表した。
 竜彦にとっては意外な声明だ。リリムが法規制に反対するとは考えていなかった。法規制の黒幕はリリムだと考えていたからだ。リリムは、魔物の中の魔物というべき存在だ。寝取り、寝取られ、殺人描写を敵視し、法による弾圧を望んでいると考えていたのだ。
「さすがリリム様ね。支配者として生まれ育っただけあるね。政治と法について、きちんと考えているわけだ」
 竜彦は考える。確かに、近現代の国家と社会にとっては、自由は中心となる概念だ。政治に携わる者ならば、その価値を尊重することが要求される。ただ、それは人間の話であって、魔物にとっては別だと思っていた。リャナンシーを別とすれば、魔物は自由の価値を理解しない存在だと考えていた。
「これで流れは変わるのか?」
 竜彦はつぶやく。
「ええ、リリム様の声明で、魔物娘の意見と行動は分裂するだろうね」
 楽観的じゃないか、と竜彦は思ったが黙っていた。今は、流れがどうなるか見たほうが良い。そう考えながら、竜彦はパソコンの画面を見つめ続けた。

 表現の自由を規制する流れは変わった。憲法改正と規制法制定は、暗礁に乗り上げた。与党、野党の魔物娘の議員たちは、法案提出に消極的になった。魔物娘政治家の意思を汲んで行動する魔物娘官僚たちも、行動が鈍くなった。マスコミを使ったプロパガンダも下火となった。財界からの資金供給も止まった。各地で立ち上げられた規制賛成派団体の行動も停滞している。
 魔物娘の行動が消極的になると、彼女たちの言いなりになっていた人間たちは右往左往し始めた。自分で行動を決められず、魔物娘の様子をうかがう者が続出した。未だに規制賛成を強固に唱える人間もいたが、彼らは少数だ。
 結局、憲法改正と規制法提出は頓挫した。各自治体で制定された規制条例も、廃止へ向かって動き出している。条例を提出し、制定させた者たちが廃止しようとしているのだから、そのさまは喜劇的だ。
 竜彦はテレビを見ていた。県議会の中継が映し出されている。条例廃止を要求する議員に対して、サキュバス知事は頑強に拒んでいる。その挙句、廃止の議決があったら、首長の拒否権を行使すると言い放つ。たちまち議会は紛糾する。
 これで、条例廃止は時間の問題だな。竜彦は薄く笑う。知事が拒否権を行使しても、出席議員の三分の二が廃止に賛成して再可決されれば、廃止は成立する。この様子だと、三分の二がそろうことは予想出来る。条例制定から一年経たずに廃止と言うわけだ。
「これでひと安心だね」
 ジュリエットは微笑む。
 竜彦は微笑み返すが、その表情は曇る。
「リリムという権力者の手によって、表現の自由は守られたんだ。国民、あるいは大衆の手によってでは無い」
 竜彦は、吐き捨てるように言う。
 国民、大衆は、表現の自由を規制する方向へ動いていた。自分の自由をドブに捨てようとしていたのだ。言論、表現に携わる者たちは抵抗したが、その力は弱かった。リリムという権力者にすがりつかなくてはならなかった。
 魔物娘たちは、考えを改めたわけではないだろう。リリムの声明は、規制反対派が繰り返し言ったことと同じ内容だ。リリムが言ったから従ったのだ。表現の自由は、リリムという権力者の掌の上にあるようなものだ。リリムが規制しようとすれば、あっさりと表現の自由は奪われるだろう。
「そうだね、私たちの自由はぜい弱だよ」
 ジュリエットは、うつむきながら言う。
「でも、私たちに出来ることをやろうよ。今は、小説を書こうよ。もしかしたら、それが自由へとつながるかもしれないんだから」
 竜彦は、薄く笑いながらうなずく。俺に出来ることは、それくらいだな。竜彦は、声に出さずにつぶやいた。

「また、サキュバス知事は荒れているのか」
 竜彦は、苦笑しながら言った。コーヒーカップを手で揺する。彼は、ジュリエットとリビングでくつろいでいる。
「ええ、県警が出動するところだったらしいね」
 ジュリエットも苦笑している。
 規制条例は、先月に廃止となった。竜彦とジュリエットの小説は、有害図書指定されることは無くなった。条例廃止に追い込まれてから、サキュバス知事の機嫌はすこぶる悪い。
 県庁の総務課職員であるモントルイユから、また知事の話を聞いたのだ。知事は、ある小説を読んで発狂したような状態になった。その小説は、元都知事である小説家が若いころに書いた短編小説だ。
 その小説の内容は、次のようなものだ。主人公は、精神病院から抜け出してきた女を拉致、監禁し、仲間と一緒に輪姦する。その後、女を売春宿に売り飛ばそうとするが失敗する。女が邪魔になった主人公は、女を崖から突き落として殺す。
 この小説を読むと、サキュバス知事は本を引き裂いた。床に叩き付けて、踏みにじり、シュレッダーに叩き込んだ。細切れになった本の残骸を、どこから持ち出したのか火炎放射器で焼き払ったのだ。作業をしている間中、サキュバス知事は放送禁止用語を喚き散らしていた。
「あの小説はくだらねえよ。ほっとけばいい。売れなければ、それまでだ」
 竜彦は、白けたように言う。ジュリエットも、つまらなそうな顔でうなずく。
「胸糞悪い小説を書く奴の中には、実生活で無様な奴がいるんだよな」
 竜彦は、ヘミングウェイが「日はまた昇る」を書いた事情を思い出した。ヘミングウェイは妻帯者だが、ある女に好意を持っていた。だが、その女には婚約者がいて、加えて女は別の小説家と関係を持っていた。
 呆れたことに、このメンバーは勢ぞろいして、スペインのサン・フェルミン祭に参加したのだ。その最中にヘミングウェイは、女と関係のある小説家と喧嘩をした。その腹いせに「日はまた昇る」を書いたのだ。
 「日はまた昇る」は、ヘミングウェイの都合の良いように事実を改ざんしたものだ。嫌いな小説家を、女に振られた情けない男として書いた。だが実際には、振られたのはヘミングウェイだ。しかも、喧嘩の後に嫌いな小説家に詫びを入れている。それから少しして、ヘミングウェイは妻と離婚する羽目になった。
 このように、ヘミングウェイの実態は情けないものだ。元都知事である小説家も、かなり情けない実態を持っている。その情けない実態を笑い、小説は無視すれば良い。小説を発禁する必要は無い。そう、竜彦は考えている。
 これらに比べると、ドストエフスキーの小説は深刻だ。ドストエフスキーは、人間と世界の暗部を描くことに執着している小説家だ。自分が血を流しながら小説を書いている。ドストエフスキーの小説の凄まじいまでの迫力は、技術に加えて自分をえぐりながら書く姿勢にあるのだろう。だからこそ、多くの人が引き付けられて、歯を食いしばりながら読む。そして、自分なりの答えを見つけ出すのだ。
 だが、ドストエフスキーの小説は、読者にとっては手術のようなものだ。場合によっては、手術が必要となる。だが、手術ばかりしていては、心身共に壊れてしまう。読者にとっては、風邪薬程度の小説で良い場合が多いのだ。そう、竜彦は考えている。
 俺は、風邪薬のような小説を書こう。竜彦は、そう考えて小説を書いている。
 竜彦は、次に書く小説を冒険小説仕立てのラブコメにするつもりだ。寝取り、寝取られ、殺人は書かない。主人公たちは、ハッピーエンドを迎える。そのような小説を望む読者は、多いだろう。
 次の小説はどのようなものにするのか、竜彦はジュリエットに聞いた。幻想世界を舞台とした、少年と少女の淡い恋を書いてみると、彼女は言う。読んでみたいなと、竜彦は答える。
 二人は、コーヒーを飲み終わると席を立った。二人とも新作を書かなくてはならないのだ。
17/04/02 00:02更新 / 鬼畜軍曹

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