朝露桜を君と見る
意識の海の中を泳いでいた。それは揺蕩っていて、起きようと思えば起きられる、そんな感覚があった。目蓋を開いて、水面へ向かって手を伸ばした。
部屋はまだ暗い。瑠璃色がぼんやりと障子の外から差し込んできている。早起きの鳥が外で鳴いていた。もしかすると泣いていたのかもしれない。布団から体を起こしてみると、居るはずの場所に居るはずの者がいない。寝惚け眼で、僕は名前を呼んだ。
「飯綱……?」
返事は帰ってこなかった。或いは、声が小さすぎたのかもしれない。だが、今より大きな声で呼ぶ気も無かった。この頭では酷だ。
名前を呼ぶ代わりに、僕は彼女の姿を探した。丁度、親を探す子供のような感じで、僕は四つん這いで、のそりのそりと障子の方へにじり寄る。夜明け前の寒さが、ぬくぬくとしていた僕の身体から急速に熱を奪う。僕は我慢して障子に手を掛けた。木のひやりとした硬い感触だ。開けると、僕の目を青い光が差した。光というよりは、それは空で、どちらかというと障子から差していた瑠璃色だった。一面、見渡す限りの、瑠璃。澄んだ空気が僕の鼻腔を突き抜けて、喉を流れ、肺を冷やした。
「おや、起きちゃったのかい」
僕の探している姿がそこに居た。獣の尻尾。彼女が振り向けば、着崩した濃紫の着物から覗く開いた胸元。金の瞳が、僕を貫いた。
「飯綱」
姿を見つけて安心したのか、僕は気付くと彼女の名前を呟いていた。それを見て、彼女がころころと笑った。それに合わせて、彼女のふさふさした耳も揺れた。丁度、この空みたいな深く澄んだ青の、耳と、腰まで届く長い髪が。時折、毛先が明らんでパチパチと弾ける音がする。
「はは、だらしない顔だねえ」
普通なら僕は少なからず拗ねているところだろうに、今の僕は彼女に笑われても仕方ない顔で、彼女の顔を見つめていた。目も、半開きだ。
「仕方ないねぇ……はい、燗にしてるところだから今は冷やで我慢しとくれ」
「ん」
ずい、と僕の前に猪口が突き出された。猪口の中で、空の色が揺れている。僕は何ともなしにそれを受け取って、口を付けようとした。芳香が僕の鼻を差したところで、火鉢を使って二人分の徳利が暖められていることに漸く気付いた。灰の中で燻ぶっている橙色が、僕の眼まで焼いているように感じられた。
「って、朝から酒?」
そう、僕が飲もうとしていたのは酒だ。それも、こんな夜の開ける前から。僕は呆れ気味に抗議した。恐らく却下されるとは思うが。
「まあまあ、今日くらいはいいじゃないか。仕事も休みなんだし、偶には羽目を外さなきゃあ」
「はいはい」
我を押し通そうとする彼女に張り合うよりも、流れに身を任せることにした。濛々とした靄の掛かった頭がそうさせていた。猪口の中身を口に含むと、冷えたそれが喉を焼きながら通っていった。本来頭をぼやかすものだが、この時に限っては逆に頭がはっきりしてきた。それくらいに寝惚けていたのだろう。
「……こういうことだったのか」
「んー? 何がだい?」
僕は目の前の青景色に焦点を合わせたまま、ほうと息を吐いて納得した。一方で彼女はそれが何の事だか分かっていないらしかった。彼女の顔は見ていないが、この声色はきっと恍けているに違いない。恐らくは僕に言わせたいのだろう。
「昨日は何もしてこなかったな、ってさ」
「何かされたかったのかい?」
僕が敢えて彼女の口車に乗ると、案の定彼女は顔をにやつかせて声を弾ませた。見ていないがきっとそういう顔だ。こういう遣り取りも、もう慣れてしまったものだ。だから、別に狼狽したりはしない。
「そりゃまあ、毎晩毎晩あれだけされて、それがぱたりと途絶えたら怪しみもするよ」
「お気に召さなかったかい?」
「まさか」
僕は鼻を鳴らして彼女を一蹴した。少なくとも、それくらいの余裕はある。彼女の意地の悪い問いかけの一つや二つ、僕は散々浴びてきた。身に余ってしまうくらいの愛も、全部、全部受け止めてきた。それに比べればこれくらいはお茶の子さいさいだ。
「……っくし。春もまだ寒いな」
突然にくしゃみが飛び出したかと思うと、僕の体が身震いした。朝方のひんやりした空気は、予想以上に僕の体を弄んでいるらしい。そういえば、今日は春にしては大分冷え込んでいる気がする。
僕が寒がるのを見ていた彼女が、何かを思いついたように寝室へと消えて行った。僕は怪訝な目線でそれを追った。彼女がああいう顔で何かを思いついた時は、大概僕が何かに付き合わされることになる。やれやれと思いながら、僕は彼女を待った。
間もなく彼女の足音がひたりと聞こえると、猫背で朝酒を決め込む僕を何かが包んだ。
「えいっ」
「……近いよ、飯綱」
飯綱が僕ごと毛布で包み込んだのだった。すぐ近くの白い顔は、もう見慣れたはずなのに、褪せた様子も無く僕の息を飲ませる。吊れたきつめの目つきも、本来は威圧感を与えるものなのに、僕の目では狂おしいほどに愛くるしくしか見えない。不意に動悸がして、僕は原因を伝えた。
「でも、温かいだろ?」
「けど、ぴりぴりする」
勿論伝えただけでは原因が拭い去れないのも承知の上でだ。そもそも僕はこの動悸を本当に解消したいとも思っていない。寧ろ心地良さすら感じている。
着物越しにでも感じる彼女の体温が。繋がったところから伝わる刺激が。それは電気の様で……実際、電気なのだが、僕の身体を焦がすことは無い。程良い刺激と共に、流れた箇所からじんわりとした熱が拡がる。雷獣である彼女が放つ電気は、感電すると苦痛ではなく快楽を齎す。微弱なものなら、そう、丁度電気マッサージと同じだろう。
「なら、いいじゃないか」
「燗になるまでだよ」
僕の抗議を意に介さず、彼女は頬をくっつけた。ぴたりと密着したお互いの頬からも、彼女の電流が僕に伝わってくる。ぴりぴり、ぴりぴりと、僕の頭に。僕は口では辟易しながらも、彼女の肩を抱き寄せた。そのまま、全身に広がってゆく甘い痺れに身を委ねながら、僕は青く染まった庭を見ていた。八分咲きの桜も、遠く見える連山も、夜明け前のこの時ばかりは、空と同じ色になっていた。
その時だった。連山の隙間から白い筋が差し込んだ。夜明けだ。僕は連山の隙間から登る白日に目を細めた。白日が空の青に染められた景色に、色を戻していく。
「これは……」
僕は舌を巻いた。……桜の花が、きらきらと光っているのだ。桜の木が、陽光で眩いばかりに彩られている。日の出と共に、桜は鏡にでもなってしまったのだろうか。
「綺麗だろ? 花に付いた朝露が、朝日に反射して光るんだ」
呆気に取られている僕に、横の彼女が得意気に説明した。
「これの為に……?」
「そうさ。一緒になりたいのを必死で我慢して、早起きして……宗雅と、これを見たかったんだ」
「飯綱……」
魔物娘の性豪ぶりを知っている僕は、彼女が自分の性欲を抑える大変さも知っている。僕と交わるのを抑えてまで、彼女は僕と一緒に、この朝露桜を見たかったのだ。僕よりも早く起きて、態々お酒の準備もして。がさつで性交の事しか考えていないようないつもの彼女とのギャップで、僕は胸から熱いものが込み上げた。目尻すら熱くなる感動に、僕は戸惑った。
「だから、その分今日はいっぱい、愛しとくれよ?」
二言目にはまぐわい。おどけた風に言う彼女に、僕は湿っぽさが引いていくのを感じた。同時に、僕の身体を流れる電流が少し強くなった。
「言われなくてもそうするさ」
「言うねぇ……いいのかい?」
僕の大口に実に嬉しそうに彼女が訊いてくる。これだけのものを見せられては、僕は彼女の期待に応えなくてはならない。感動への恩返しとして、今日は恐らく、彼女が満足するまで僕は彼女に付き合うのだろう。別に、憂鬱ではない。思いの外風流を重んじた彼女が、やけに愛しく感じられただけなのだから。
「今から……は、流石に無理だけどね」
「ふふ……期待してるよ」
出来ればあまり焦らさない方が良いのだろうが、僕は図らずも彼女を焦らしてしまったように感じた。微笑む彼女の細まった金眼の奥には、確かに燃えるものが見えた。
「……っと、そろそろいいみたいだね」
火鉢の方を見た彼女が、良い頃合いになった燗酒を取ろうとする。火鉢までは微妙に距離があって、彼女が毛布から身を乗り出した。
「あっ……」
「ん?」
彼女が毛布から出ると、僕は声を零していた。全くの無意識で、声に気付いた彼女が振り向くまで、僕が声を出しているのだと判らなかった。いざ僕の声だと判ると、この声がどうして漏れたのかは他でもない本人なのだからすぐに判る。けれども、それを彼女に説明するのは躊躇われた。かといって、都合の良い嘘は咄嗟に出てこない。
「う、いや……」
どもる僕を見て、彼女は声の意味に気付いてしまったらしかった。彼女の瑞々しい唇が弧を描いて、また目が細くなった。からかうような、にやにやした笑いが、それだった。
「離れて寂しかった? あはは……かわいいじゃないか」
「……ほっといてくれよ」
ここぞとばかりに彼女は、伏し目がちになってしまった僕を茶化す。あまつさえけらけらと僕を嘲って、僕の羞恥をぐいぐいと煽る。僕が拗ねてそっぽを向いている間も、よほど可笑しいのか、彼女はさも嬉しそうに笑っていた。
「く、くく……」
「流石に笑いすぎじゃないか」
一頻り笑って、毛布の中に戻ってきた後もまだしゃっくりみたいに笑う彼女を見て、僕は口を尖らせた。僕が失態を曝したせいではあるが、笑われっぱなしで良い気持ちがしないのは確かだ。
「あ、ああごめんごめん。でもね……嬉しいんだよ」
「嬉しい?」
「宗雅が、あたしのことを好きでいてくれてるんだなぁ、ってさ」
「そんなこと……」
何を今更、と嘲ろうとした僕を遮って、彼女は続ける。
「それでもね。……嬉しいものは嬉しいんだよ」
その顔は特に意識していないらしかった。夜明けを告げる暁光のような微笑みを、彼女は僕に向けた。強引だけど、時折見せてくるこの真っ直ぐさに僕は惹かれたのだったな、と、出逢った時を思い返していた。そうでもして気を紛らわさなければ、僕は照れ臭さでまた目を伏せてしまうに違いなかった。
「……飯綱」
「ああ」
僕は誤魔化すように、彼女に向かって熱くなった猪口を差し出して促した。気付いた彼女も、自分の猪口を僕に向ける。
「乾杯」
かつん、と乾いた音が、僕達の間に響いた。猪口の中身をぐいっと一飲みにすると、身体がかあっと熱くなる。気付けば、あれだけ身体を震わせていた寒さは無くなっていた。周りが、暖かいものに溢れているからだろうか。そのまま、僕達は朝日とお互いの温かさに包まれながら、からりとした花見に興じた。音は精々、起き出した鳥の輪唱と、二人の呑兵衛が息を吐くくらいしかない。
僕は彼女を見た。五臓六腑に染み渡る燗に、心地良く目を閉じている彼女の横顔を。見た、というよりは見惚れていた。
「飯綱。こっち向いて」
「んー……?」
僕は彼女を振り向かせた。もう回ってきているのか、金の瞳はほろ酔い気味に微睡んでいた。……寧ろ、好都合かもしれない。ひょっとすると、彼女はこれを忘れてくれるかもしれなかったから。
「ありがとう」
僕は彼女と唇を重ねた。僕が虜になった雷は、そこにも落ちた。
部屋はまだ暗い。瑠璃色がぼんやりと障子の外から差し込んできている。早起きの鳥が外で鳴いていた。もしかすると泣いていたのかもしれない。布団から体を起こしてみると、居るはずの場所に居るはずの者がいない。寝惚け眼で、僕は名前を呼んだ。
「飯綱……?」
返事は帰ってこなかった。或いは、声が小さすぎたのかもしれない。だが、今より大きな声で呼ぶ気も無かった。この頭では酷だ。
名前を呼ぶ代わりに、僕は彼女の姿を探した。丁度、親を探す子供のような感じで、僕は四つん這いで、のそりのそりと障子の方へにじり寄る。夜明け前の寒さが、ぬくぬくとしていた僕の身体から急速に熱を奪う。僕は我慢して障子に手を掛けた。木のひやりとした硬い感触だ。開けると、僕の目を青い光が差した。光というよりは、それは空で、どちらかというと障子から差していた瑠璃色だった。一面、見渡す限りの、瑠璃。澄んだ空気が僕の鼻腔を突き抜けて、喉を流れ、肺を冷やした。
「おや、起きちゃったのかい」
僕の探している姿がそこに居た。獣の尻尾。彼女が振り向けば、着崩した濃紫の着物から覗く開いた胸元。金の瞳が、僕を貫いた。
「飯綱」
姿を見つけて安心したのか、僕は気付くと彼女の名前を呟いていた。それを見て、彼女がころころと笑った。それに合わせて、彼女のふさふさした耳も揺れた。丁度、この空みたいな深く澄んだ青の、耳と、腰まで届く長い髪が。時折、毛先が明らんでパチパチと弾ける音がする。
「はは、だらしない顔だねえ」
普通なら僕は少なからず拗ねているところだろうに、今の僕は彼女に笑われても仕方ない顔で、彼女の顔を見つめていた。目も、半開きだ。
「仕方ないねぇ……はい、燗にしてるところだから今は冷やで我慢しとくれ」
「ん」
ずい、と僕の前に猪口が突き出された。猪口の中で、空の色が揺れている。僕は何ともなしにそれを受け取って、口を付けようとした。芳香が僕の鼻を差したところで、火鉢を使って二人分の徳利が暖められていることに漸く気付いた。灰の中で燻ぶっている橙色が、僕の眼まで焼いているように感じられた。
「って、朝から酒?」
そう、僕が飲もうとしていたのは酒だ。それも、こんな夜の開ける前から。僕は呆れ気味に抗議した。恐らく却下されるとは思うが。
「まあまあ、今日くらいはいいじゃないか。仕事も休みなんだし、偶には羽目を外さなきゃあ」
「はいはい」
我を押し通そうとする彼女に張り合うよりも、流れに身を任せることにした。濛々とした靄の掛かった頭がそうさせていた。猪口の中身を口に含むと、冷えたそれが喉を焼きながら通っていった。本来頭をぼやかすものだが、この時に限っては逆に頭がはっきりしてきた。それくらいに寝惚けていたのだろう。
「……こういうことだったのか」
「んー? 何がだい?」
僕は目の前の青景色に焦点を合わせたまま、ほうと息を吐いて納得した。一方で彼女はそれが何の事だか分かっていないらしかった。彼女の顔は見ていないが、この声色はきっと恍けているに違いない。恐らくは僕に言わせたいのだろう。
「昨日は何もしてこなかったな、ってさ」
「何かされたかったのかい?」
僕が敢えて彼女の口車に乗ると、案の定彼女は顔をにやつかせて声を弾ませた。見ていないがきっとそういう顔だ。こういう遣り取りも、もう慣れてしまったものだ。だから、別に狼狽したりはしない。
「そりゃまあ、毎晩毎晩あれだけされて、それがぱたりと途絶えたら怪しみもするよ」
「お気に召さなかったかい?」
「まさか」
僕は鼻を鳴らして彼女を一蹴した。少なくとも、それくらいの余裕はある。彼女の意地の悪い問いかけの一つや二つ、僕は散々浴びてきた。身に余ってしまうくらいの愛も、全部、全部受け止めてきた。それに比べればこれくらいはお茶の子さいさいだ。
「……っくし。春もまだ寒いな」
突然にくしゃみが飛び出したかと思うと、僕の体が身震いした。朝方のひんやりした空気は、予想以上に僕の体を弄んでいるらしい。そういえば、今日は春にしては大分冷え込んでいる気がする。
僕が寒がるのを見ていた彼女が、何かを思いついたように寝室へと消えて行った。僕は怪訝な目線でそれを追った。彼女がああいう顔で何かを思いついた時は、大概僕が何かに付き合わされることになる。やれやれと思いながら、僕は彼女を待った。
間もなく彼女の足音がひたりと聞こえると、猫背で朝酒を決め込む僕を何かが包んだ。
「えいっ」
「……近いよ、飯綱」
飯綱が僕ごと毛布で包み込んだのだった。すぐ近くの白い顔は、もう見慣れたはずなのに、褪せた様子も無く僕の息を飲ませる。吊れたきつめの目つきも、本来は威圧感を与えるものなのに、僕の目では狂おしいほどに愛くるしくしか見えない。不意に動悸がして、僕は原因を伝えた。
「でも、温かいだろ?」
「けど、ぴりぴりする」
勿論伝えただけでは原因が拭い去れないのも承知の上でだ。そもそも僕はこの動悸を本当に解消したいとも思っていない。寧ろ心地良さすら感じている。
着物越しにでも感じる彼女の体温が。繋がったところから伝わる刺激が。それは電気の様で……実際、電気なのだが、僕の身体を焦がすことは無い。程良い刺激と共に、流れた箇所からじんわりとした熱が拡がる。雷獣である彼女が放つ電気は、感電すると苦痛ではなく快楽を齎す。微弱なものなら、そう、丁度電気マッサージと同じだろう。
「なら、いいじゃないか」
「燗になるまでだよ」
僕の抗議を意に介さず、彼女は頬をくっつけた。ぴたりと密着したお互いの頬からも、彼女の電流が僕に伝わってくる。ぴりぴり、ぴりぴりと、僕の頭に。僕は口では辟易しながらも、彼女の肩を抱き寄せた。そのまま、全身に広がってゆく甘い痺れに身を委ねながら、僕は青く染まった庭を見ていた。八分咲きの桜も、遠く見える連山も、夜明け前のこの時ばかりは、空と同じ色になっていた。
その時だった。連山の隙間から白い筋が差し込んだ。夜明けだ。僕は連山の隙間から登る白日に目を細めた。白日が空の青に染められた景色に、色を戻していく。
「これは……」
僕は舌を巻いた。……桜の花が、きらきらと光っているのだ。桜の木が、陽光で眩いばかりに彩られている。日の出と共に、桜は鏡にでもなってしまったのだろうか。
「綺麗だろ? 花に付いた朝露が、朝日に反射して光るんだ」
呆気に取られている僕に、横の彼女が得意気に説明した。
「これの為に……?」
「そうさ。一緒になりたいのを必死で我慢して、早起きして……宗雅と、これを見たかったんだ」
「飯綱……」
魔物娘の性豪ぶりを知っている僕は、彼女が自分の性欲を抑える大変さも知っている。僕と交わるのを抑えてまで、彼女は僕と一緒に、この朝露桜を見たかったのだ。僕よりも早く起きて、態々お酒の準備もして。がさつで性交の事しか考えていないようないつもの彼女とのギャップで、僕は胸から熱いものが込み上げた。目尻すら熱くなる感動に、僕は戸惑った。
「だから、その分今日はいっぱい、愛しとくれよ?」
二言目にはまぐわい。おどけた風に言う彼女に、僕は湿っぽさが引いていくのを感じた。同時に、僕の身体を流れる電流が少し強くなった。
「言われなくてもそうするさ」
「言うねぇ……いいのかい?」
僕の大口に実に嬉しそうに彼女が訊いてくる。これだけのものを見せられては、僕は彼女の期待に応えなくてはならない。感動への恩返しとして、今日は恐らく、彼女が満足するまで僕は彼女に付き合うのだろう。別に、憂鬱ではない。思いの外風流を重んじた彼女が、やけに愛しく感じられただけなのだから。
「今から……は、流石に無理だけどね」
「ふふ……期待してるよ」
出来ればあまり焦らさない方が良いのだろうが、僕は図らずも彼女を焦らしてしまったように感じた。微笑む彼女の細まった金眼の奥には、確かに燃えるものが見えた。
「……っと、そろそろいいみたいだね」
火鉢の方を見た彼女が、良い頃合いになった燗酒を取ろうとする。火鉢までは微妙に距離があって、彼女が毛布から身を乗り出した。
「あっ……」
「ん?」
彼女が毛布から出ると、僕は声を零していた。全くの無意識で、声に気付いた彼女が振り向くまで、僕が声を出しているのだと判らなかった。いざ僕の声だと判ると、この声がどうして漏れたのかは他でもない本人なのだからすぐに判る。けれども、それを彼女に説明するのは躊躇われた。かといって、都合の良い嘘は咄嗟に出てこない。
「う、いや……」
どもる僕を見て、彼女は声の意味に気付いてしまったらしかった。彼女の瑞々しい唇が弧を描いて、また目が細くなった。からかうような、にやにやした笑いが、それだった。
「離れて寂しかった? あはは……かわいいじゃないか」
「……ほっといてくれよ」
ここぞとばかりに彼女は、伏し目がちになってしまった僕を茶化す。あまつさえけらけらと僕を嘲って、僕の羞恥をぐいぐいと煽る。僕が拗ねてそっぽを向いている間も、よほど可笑しいのか、彼女はさも嬉しそうに笑っていた。
「く、くく……」
「流石に笑いすぎじゃないか」
一頻り笑って、毛布の中に戻ってきた後もまだしゃっくりみたいに笑う彼女を見て、僕は口を尖らせた。僕が失態を曝したせいではあるが、笑われっぱなしで良い気持ちがしないのは確かだ。
「あ、ああごめんごめん。でもね……嬉しいんだよ」
「嬉しい?」
「宗雅が、あたしのことを好きでいてくれてるんだなぁ、ってさ」
「そんなこと……」
何を今更、と嘲ろうとした僕を遮って、彼女は続ける。
「それでもね。……嬉しいものは嬉しいんだよ」
その顔は特に意識していないらしかった。夜明けを告げる暁光のような微笑みを、彼女は僕に向けた。強引だけど、時折見せてくるこの真っ直ぐさに僕は惹かれたのだったな、と、出逢った時を思い返していた。そうでもして気を紛らわさなければ、僕は照れ臭さでまた目を伏せてしまうに違いなかった。
「……飯綱」
「ああ」
僕は誤魔化すように、彼女に向かって熱くなった猪口を差し出して促した。気付いた彼女も、自分の猪口を僕に向ける。
「乾杯」
かつん、と乾いた音が、僕達の間に響いた。猪口の中身をぐいっと一飲みにすると、身体がかあっと熱くなる。気付けば、あれだけ身体を震わせていた寒さは無くなっていた。周りが、暖かいものに溢れているからだろうか。そのまま、僕達は朝日とお互いの温かさに包まれながら、からりとした花見に興じた。音は精々、起き出した鳥の輪唱と、二人の呑兵衛が息を吐くくらいしかない。
僕は彼女を見た。五臓六腑に染み渡る燗に、心地良く目を閉じている彼女の横顔を。見た、というよりは見惚れていた。
「飯綱。こっち向いて」
「んー……?」
僕は彼女を振り向かせた。もう回ってきているのか、金の瞳はほろ酔い気味に微睡んでいた。……寧ろ、好都合かもしれない。ひょっとすると、彼女はこれを忘れてくれるかもしれなかったから。
「ありがとう」
僕は彼女と唇を重ねた。僕が虜になった雷は、そこにも落ちた。
15/10/08 00:25更新 / 香橋