連載小説
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Lead me
爆ぜる暖炉の薪。
忙しく駆け回る少女。
寝返りに軋む寝床。


結局、僕はイヴの家で怪我が治るまで静養する事になった。イヴの両親が居るにしろ居ないにしろ、少なくとも外に居るよりは安全である事に変わりは無い。どちらにしても僕はこの家に潜む事を選択する必要があった。
イヴが一人でこの家に住んでいるとなると、家主も当然イヴ以外には有り得ない。居候の要請もイヴにしなければならなかったが、当のイヴは僕が居候する事を寧ろ喜んでいた。僕が怪我が治るまでこの家で休ませてくれと頼むや、イヴは、

「それって、わたしとエリスが一緒に住むってこと?」
「まぁ、怪我が治るまでは」
「わたし、ひとりじゃなくなるのね!やったー!」

と、一頻り喜んだ後に快諾。僕は、とんとん拍子でリビングにあるベッドに案内された。作りは粗末で、サイズもあまり大きくない。僕は確かに傷を治すつもりでこの家に来たのだが、このベッドを使う事は躊躇われた。何故か。
この家の住人はイヴしかいない。そうなると、各々の家具も一人分しか無いと考えるのが妥当だ。テーブル、クロゼット、椅子、そしてこのベッドも。……要するに。このベッドはイヴが使っているものだ。流石の僕も、女性のベッドを無遠慮に使うほどデリカシーに欠けてはいない。
当然、僕は丁重に断ったが、イヴもイヴで「怪我人なんだから遠慮せずに休んで」と食い下がる。押し問答の末、とうとう僕は根負けしてこのベッドに押し込められてしまったのだった。
ベッドは思っていたよりも柔らかく僕を迎えた。別段寝心地は悪くなかったのだが、僕がここで寝ている限り、仄かに甘い香りが僕の鼻腔を擽り続けるのが難儀でならなかった。言うまでもなく、これはイヴの匂いだ。
矢張り、僕は今の今まで眠る気にもなれず、時折寝返りを打ってはギシギシと軋むベッドの音に耳を痛めていた。
イヴは、先程から落ち着き無く部屋中を歩き回っている。

「…イヴ。僕の事なら別に気にしなくても…」
「いいの!わたしがエリスの面倒をみるんだから!」

イヴは頬を膨らませた。一人前に責任を感じてムキになっているが、テーブルの周りをぐるぐる回っているだけなのに、面倒を見るも何もあったものではない。
僕はそれは面倒を見るとは言わないと指摘しようと思ったが、彼女のなけなしの責任感を無下にするのも大人げなく思われた。そこで僕は思いついた。イヴという不明瞭な存在を少しでも知るきっかけになる事を。

「……僕は今心細いんだ。誰か話し相手になってくれる人が欲しいんだけど」
「ほんとう!?じゃあわたしがなってあげるね!」

僕の言葉を受けて、ころりと表情を変えるイヴ。子供だからこそ成し得る、感情の豊かさ。成熟した大人では、こうはいかない。

「ありがとう。じゃあ、さっきはあんたが僕に質問したから、今度は僕があんたに質問するんだ。それでいい?」
「うん!何をきくの?」

僕の本音も知らずに、イヴは期待の眼差しで僕を突き刺してくる。何を訊いてくるのか楽しみでならないといった表情で。
これは既に何度か感じていた事だが、イヴを利用するに当たって、僕の思惑通りに事が運ぶ度、僕は胸の奥が針でつつかれている様な痛みに襲われる。
それは、イヴが純粋すぎるが故だ。イヴが猜疑心を知らない箱入り娘であるという事は、彼女を知って間も無い僕でも分かる。僕が巧く唆しさえすれば、僕が命じた行動がイヴの倫理観に障らない限り、彼女は恐らく何だってしてくれるだろう。僕は澄んだ水に汚泥を流入させている様な気がしていた。
それでも、僕はイヴを知らなければならない。これは僕の自衛でもある。イヴが僕を堕落させる存在ではないと、完全に決まったわけではないのだから。

「イヴは、この家に住み始めてどれくらいになる?」
「うーんと…一週間くらい?」
「気が付いた時って、あんたはどこにいたんだ?」
「この家のベッドで寝てたの」
「服の替えはある?」
「あるよ」
「この家に食べものはどれくらいあった?」
「いっぱい!」
「倉庫か何かがあるのか?」
「うん」
「料理は出来る?」
「たまに失敗しちゃうけど、できるよ」
「怪我の手当ても、やり方を分かっていたのか?」
「うん」
「…すごいな」
「えっへん!」

僕はイヴにした質問の返答から、彼女についてある程度の仮説を立てた。イヴが覚えている限りで最も古い記憶は、この家のベッドで寝ていた事だ。そして、イヴは予め拵えてあった衣食住があったとは言え、たった一人で一週間生活している。少なくとも、イヴには見た目によらずそれだけの知識があるという事になる。
イヴは記憶を失っているが、その原因は第三者によって記憶を封じられたと判断した方が自然だ。
記憶を封印した上で山奥の小屋に一人残して去るだけの動機が、その者にあったのだろうか。そうだとすれば、それは僕には思いもよらない深い事情なのだろう。

「…ねぇ、他には?」
「え?」
「だからぁ、質問!わたしに質問するんでしょう?」

考察に頭を傾けすぎて、イヴの相手をするのを忘れてしまっていた。これはイヴが満足するまで僕が質問し続けなければならないのだろうか。イヴがいつ満足してくれるのかは僕には分からないが、これは長引くものだと僕の直感が告げていた。
これは僕に与えられた好機でもある。ここで出来る限りイヴについての情報を集めて、彼女を理解しておけば、仮に彼女が魔物娘の一面を見せてきた時に対応策を講じやすくなるというものだ。

「あ、あぁ。えっと…僕以外に知ってる人はいない?」

イヴの事が知りたいという好奇心が無いわけではない。だが、僕がイヴに質問する意味の凡そは保身の為だ。イヴがここまで僕に見せてきた振る舞いは、全て僕を懐柔する為の打算だとしたら。僕はまだ、イヴの全てを信じることは出来ない。

「いないよ。だから、エリスが初めての友達なの」
「とも…だち…?」
「うん。これだけお話したんだもの、わたしたち、もう友達でしょう?」

イヴは、僕のそんな懐疑に満ち満ちた心をただ無邪気に抉る。
友達。そう言って、イヴは僕に微笑む。緩んだ頬に出来た笑窪を見て、僕はとうとうイヴの顔から目を背けてしまった。これ以上イヴの顔を見ていたら、僕は、僕の穢い心を洗いざらい彼女にぶちまけてしまうに違いなかった。

「どうしたの?大丈夫?」
「……っ、急に体の調子が悪くなってきたみたいだ」
「どこか痛いところ、ある?」

胸だ。胸が、締め付けられるんだ。でも、そうは言えなかった。

「…大丈夫だ。少し寝れば、良くなるから……」
「無理、しないでね」
「ああ」

今は、イヴの顔を見ることは出来そうもない。それでもイヴは、僕を心配している。少しだけ不安の入り混じった声で、無理はするなと、僕に言った。
……きっと、また一人になるのが嫌なんだろう。
僕はイヴから身体ごと背けて、もう何も考えない様にして、毛布を被った。今なら、彼女の匂いも気にならない。匂いが瑣末な要素であると思える程度には、僕は追い詰められていた。



皆が、僕を責めている。
裏切者、異端者と、石を投げつける。
僕は、見つからない様に、暗いところへ、暗闇へ逃げていく。
僕は、気付けば周りが何も見えないくらいの闇の中に居た。
何も見えない。聞こえない。
ただただ、僕の意識までもを侵す様な黒。
僕は絶叫しそうな恐怖の中、一筋、差し込む光を見た。
僕は、その光へ、向こうへ、転びながらも、駆けて行く。



夢だった。窓から、紫色に染まった空が見えた。
僕は目を覚ました。だのに、寝息がまだ聞こえる。テーブルの方に目を遣ると、椅子に座ってうたた寝をしているイヴが目に入った。テーブルの上に、一冊の本とカンテラが置いてある。
僕はベッドから降りて、その本を手に取ってみる。茶色の表紙を、金色の印で装飾されている。装丁は小奇麗だが、背表紙にも題名は書かれていない。一体何の本だろうか。
僕はカンテラに火を灯し、適当なページを開いて、内容を確認した。だが、内容は判らなかった。他のページを捲っても、だ。
ただ一つ、手掛かりとなるページがあった。表紙を捲って最初のページ。


『Knight of Alice』


アリスの騎士。最初のページにはそれだけ書かれていて、後のページは全て白紙だった。
これは……何の本だ?イヴの所有物なのか?
記憶の失い方といい白紙ばかりの本といい、イヴには特別な因果があるのだろうか。今の僕には憶測すら立ちそうもない。
僕は未だ腕に顔をうずめて寝ているイヴに視線を戻した。

(…風邪、引くかもしれないな)

掛けるものも無く、テーブルに突っ伏して寝ているのでは、イヴが魔物であると言えども体に良くないのは確かだろう。僕ですら今は怪我人なのに、イヴにまで体を壊されては困る。
僕は寝ているイヴを何とかして抱きかかえた。熟睡しているのか、イヴに起きる気配は無い。
僕はイヴをベッドに横たえて、上に毛布を掛けた。寝息は乱れておらず、胸も規則正しく上下したままだ。
…胸の奥が疼いている。イヴを欺いているという罪悪感か。
僕はそれについて深く考えない様にして、カンテラを持って家の探索を開始した。
イヴが寝ているという事は、僕が好き勝手に動いても咎められたりしないという事だ。この家のどこに何があるのか。それもまた、イヴが信じるに足る者なのかを示す指標となるはずだ。
イヴを起こさない様に、なるべくそっと歩きながら、僕はこの家の構造を把握できる程度に見て回った。

僕は家の見回りを終えると、リビングの椅子に座って状況を整理する。窓の外には、既に夜の帳が降りていた。

この家は二階建てではあるが、二階は殆ど使用されていなかった。三つある部屋の内、書斎を除いて空き部屋だ。書斎の本棚は魔導書と絵本が中心。魔導書は初級のものが殆どだった。イヴが使っていたものなのだろうか。
階段の裏側に倉庫と冷暗室があり、そこには向こう一週間分の食料が備蓄されていた。
イヴが言った事と照らし合わせると、この家には元々二週間分の食料があったという事になる。二週間が過ぎた場合、イヴは飢餓状態となるだろう。
その場合、イヴは自力で食料を調達しなければならなくなる。果物程度なら彼女でも採取は出来るだろうが、僕の様な誰かが現れるまで、彼女はずっと偏った食生活をする事になる。正直、悲惨だ。
イヴの記憶を封じた者は、一体何を思ってそんな事をしたのだろう。それとも、僕の様な者が現れるという確信でもあったのだろうか。
…いや。ここはレスカティエ教国領だ。魔物即殺を地で行く様な連中が跋扈している様な場所にイヴを置き去りにするのは危険すぎる。ならば何故……

ぐーーーー。

……考察は一旦中断しよう。勇者とて仙人ではないのだから、空腹には勝てない。
僕はカンテラを持ってキッチンに向かった。キッチンに吊るされているランタンに火を灯し、手元がよく見える様にして、調理の準備を行う。カンテラは、手頃な棚に置いておく。樽の中の水は残り半分ほど。戸棚にある各種調味料はまだまだ余裕がある。魔導式調理台……魔力の伝達によって加熱などを行える代物だ。オーブンも完備されている。調理台のすぐそばに踏み台がある。イヴが使っていたものだろう。
…さて。あまり凝ったものを作れるわけではないが、取り敢えず食べられるものを出すとしよう。




……ナイフをまな板に下ろす音。鍋の中でスープが煮える音。これはもう少し甘い味付けにするべきだろうか。そういえば、まともな設備でまともな料理をするのは久々な気がする。

「……エリス?」
「あぁ、起きたんだ。もう少しで出来るから待ってて」

振り向くと、イヴが寝惚け眼で目を擦っていた。起きてしまったらしい。完成まであと一歩というところなので、丁度良いタイミングではある。
僕はイヴにリビングで待つ様にと促したが、イヴは首を横に振った。

「お部屋、暗いの」
「あー、じゃあこれ持って行って」

イヴは暗所が嫌いだと言う。魔物としてそれはどうなんだと思うが、イヴはまだ幼いので仕方ない。僕は棚に置いてあったカンテラをイヴに手渡した。これで大人しく待っていてくれると思いきや、イヴは手渡されたカンテラをその場に置いた。

「…できるの、待ってる」

不機嫌そうに言うイヴに、僕は寝起きでぐずる子供を思い出した。このままイヴを待たせるのも手だが、そうしていてはまたイヴの口から不満が零れる様な気がしてならない。

「……じゃあ、スープをテーブルに運んでくれる?」
「…うん」
「それなら、先ずカンテラをリビングに持って行くんだ」
「わかった」

イヴはカンテラを持ってリビングに戻って行った。何とか上手くいなせた様だ。何にしても、子供の機嫌を損ねるのは決まりが悪い。僕はなるべく早く調理を終了させられる様に急ぐ羽目になった。
幸いにも食器は幾つかあるので、戸棚からスープカップを二つ出して、既に出来上がったオニオンスープを注ぐ。

「持ってったよ」
「それじゃ、スープを。熱いから気を付けて」
「うん」

二つのカップを片手に一つずつ持って、イヴに手渡す。イヴはスープを零さない様にゆっくりと、スープの液面を見ながら、おっかなびっくり運んでいった。
不安に思いながらもキッチンを出て行くところまでを見届け、僕も最後の仕上げに入る。輪切りにし、軽く焼いたフランスパンに、カットトマトを入れたソースを乗せて、後はこれを器に乗せれば良い。
イヴがスープを運び終えて戻ってきた。

「あとは?」
「もう大丈夫。さ、リビングに行こう」
「うん!」

僕はパンを乗せた器を持って、イヴと一緒にリビングへ向かった。
テーブルにはスープとカンテラ、白紙の本はベッドの上に置かれていた。僕はキッチンから持ってきた踏み台を使い、カンテラを天井に吊るした。明かりがリビング全体を明るく照らす。イヴの表情も心なしか安心している様に感じた。
イヴは椅子に、僕は踏み台に腰掛け、テーブル越しに向かい合う。テーブルの中心には器に盛りつけられたブルスケッタ。カップに入ったオニオンスープが仄かな香りと共に湯気を立てている。

「お待たせしました。さぁ、食べよう」

僕が音頭を取って、夕食が始まった。イヴが取り皿に取ったブルスケッタを一つ、口に含む。表面をカリカリに焼いたフランスパンが、さくっと小気味良い音を立てる。

「……どう?」
「おいしい!」
「良かった」

自分が作った料理を他の人が食べている。それを見れば、作った側としては感想が気になるというのが道理だろう。それは僕も例外ではなかった。もぐもぐと咀嚼するイヴに、僕は恐る恐る訊いた。
イヴは、僕の不安など消し飛んでしまう様な笑顔を見せた。自分の作った料理を素直に美味しいと言われれば、嬉しくなるのも道理だ。勿論、僕は例外ではない。
僕も空腹感がひどくなってきていたので、試しにそれを一つ食べてみた。
擦り付けておいたニンニクの香りが食欲をそそる。オリーブオイルの仄かな苦みと、トマトの酸味がよくマッチングしている。我ながら良い出来だ。
続いて、オニオンスープも啜ってみる。じっくり炒め、煮込んだ玉ねぎは甘く、とろみが効いていて、体の芯から温まる様だった。
僕は空腹に任せて、イヴと時折談笑しながらも、久しぶりの温かい夕食に酔いしれた。

「おいしかったねー!」
「それは何よりだ」
「わたし、誰かにごはん作ってもらうの初めてなの!」
「……イヴは初めてづくしなんだな」

夕食を終え、二人で後片付けをする僕達。山小屋なので水道は通っておらず、水は川から汲んだものを濾過器に通して使用する。川はすぐそばにあるので、男手があればさほど苦労は無い。
イヴは僕の料理を頻りに褒めてくれるが、それは単に料理の味が良いだけではなかった様だ。
初めて、もてなされた料理だから。イヴは記憶を失っているのだから、本人からすれば、記憶を失う前に経験していた事象も初めて行うものとして映るのは当たり前の事だ。
そうは理解していても、まるで愛情を受けずに育った子供を見ているみたいで、少しやりきれなくなる。

「…そろそろ寝ようか」
「うん」
「じゃあ、おやすみ」

片付けは終わり、後はもうやる事が無い。ゆっくり眠って、明日に備えるだけだ。イヴの方も、素直に応じてくれた。夕食前に寝てしまっていたから寝付けないのではないかと思ったが、杞憂に終わった様だ。
僕はおやすみの挨拶をして、床に横になった。すかさずイヴが訊いてくる。

「え?エリスはどこで寝るの?」
「どこって…床だよ。ベッドはイヴが使うんだ」
「そんなのダメ、エリスが使って。ケガ、ちゃんと治さなきゃ」
「けど、僕が使ったらエリスが床で寝るんだろ?それも申し訳が無い」

イヴがそう言う気持ちも分かるが、僕は自分がベッドを使って寝ている横で小さな子供が床で寝ている方が余程嫌だ。イヴが純粋すぎるが故に感じる罪悪感も一入だ。
僕はどうあってもイヴにベッドを使ってもらおうとしたが、イヴは僕のそんな気遣いをぶち壊しにする提案をした。

「でも……あっ、じゃあ一緒に寝よう?」

イヴの提案はある種の折衷案だが、それは人間の僕にとっては余りにリスキーな選択だった。魔物と一緒に寝るなんて、如何に魔物が教団によって歪められたものであるとしても、自殺行為である事に変わりは無い。
密着するのはまだいいが、それで僕が眠りに落ちたところを狙われでもしたら一溜まりもない。

「…二人じゃ狭いだろ」
「ちゃんとくっつけば大丈夫!それに、エリスと一緒ならわたしもさみしくないもん!」

僕は同衾を明確に拒否する自分の意思を感じ取っていたが、同時にまた別な意思が自分の中にあるのを見過ごせはしなかった。
一週間とは言え、イヴは右も左も判らない状況でずっと一人だった。年齢にしても孤独に耐えるのは酷だ。
だから、せめて、僕が居る間くらいは、イヴの我が儘を聞いてやるのも人情ではないのだろうか。

「……仕方ないな」
「やったぁ!」

僕は、僕の貞操を奪われるという懸念を尻目に、イヴの願いを聞き入れた。
天井に吊るしたカンテラの明かりを消すと、部屋を照らしているのは窓から差し込む月光だけになった。
僕達はベッドに潜り込むと、互いを抱き寄せた。一人用の、それもイヴが使う様な小さなベッドでは、こうでもしないと身体がベッドからはみ出てしまう。体格の差から、イヴが僕の胸に顔をうずめる格好になっている。

「苦しくはないか?」
「ううん。エリスの体、あったかいよ」
「……そうか」

イヴの身体は、密着してみると見た目以上に柔かくて、小さいものだった。イヴからすると、僕の身体は温かいらしい。僕は僕で常に冷たい思いをしていると思っていたのだが。
だから、イヴの身体の方がよっぽど温かく感じた。けれど、僕はそれをイヴみたいに口に出したりはしない。

「おやすみ、エリス……」
「ああ、おやすみ」

金糸の様なブロンドから香るのは、花と石鹸を混ぜた様な、清涼感のある甘い芳香。
改めておやすみを言った僕は、程無くして眠りに落ちたイヴを見て、ある事を考えていた。
……僕の怪我が完治して、この家を出たら、イヴはまた一人になってしまう。暮らしの目処も立たないまま、また孤独な生活に逆戻りする事になる。下手に出歩いて、教団の連中に見つかりでもしたら、イヴは……

「……イヴ?」

僕は小さく彼女の名前を呼んだ。胸の中から細い寝息が聞こえるだけで、返事は戻ってこない。
僕は目蓋を閉じた。甘い香りは僕の睡魔を増長させて、僕の意識をいとも簡単に奪い去っていった。






何かの焼ける音が僕の耳を突いてくる。目を覚ますと、僕は一人でベッドの中に横たわっていた。窓の外から差し込む光は白い。朝だ。

「……イヴ?」

僕はまた彼女の名前を呼んだ。返事はまた、戻ってこない。焼ける音はキッチンの方から聞こえてくるらしかった。
僕は身体を起こした。昨日よりは調子が良くなっている。傷は順調に癒えている様だ。テーブルの傍に置いてあったはずの踏み台は無くなっていた。
僕は頭を掻きながら、キッチンへ向かった。予想通りの小さなコックが、そこで忙しなく動き回っていた。

「あっ、エリス、おはよう!もうちょっとで出来るから待っててね!」

踏み台を上り下りして、時には踏み台を動かして。イヴは先に起きて、二人分の朝食を作っていた。子供は早起きだ。
かっと開いた黄色い瞳孔がフライパンの中から僕を見ていた。それと、塩っぽい、肉の焼ける匂い。ボウルに注がれた牛乳と溶き卵。すぐ傍にあるブレッド。
朝食のメニューを想像するのは容易だった。

「何か手伝おうか?」
「えっと……じゃあミルクを持ってって」
「分かった」

僕は二人分のコップと、牛乳の入った瓶を持ってテーブルへ向かった。イヴが何か失敗しやしないかと少し心配だった。
コップに牛乳を注いでキッチンに戻ると、既に完成したベーコンエッグが皿に盛りつけられていた。瑞々しいサニーレタスとミニトマトが目にも楽しい。

「これも持ってくよ」
「うん、おねがい」

皿を持って行く時に見えたイヴの横顔は、ただ朝食を作っているだけのはずなのに、ひどく真剣な面持ちで、僕は何だか可笑しかった。それを自分の中に押し留めておけない程度には。

「……ふふっ」
「どうしたの?」
「いや、一生懸命だなーって、そう思ってさ」
「だって、エリスにも食べてもらうんだもん。頑張らなきゃ!」
「……そうだな」

イヴは臆面も無く、僕に食べてもらうから頑張らなければならないと言った。
僕ははっとした。そうだ。僕が昨日の夕食を作っている時にイヴの事を考えていた様に、イヴは僕の事を考えながら朝食を作ってくれているのだ。
それを笑ってしまったのは、些か失礼が過ぎたかもしれない。
敢えて言い訳をするならば、僕自身もどうして笑ったのか分からなかったのだ。
僕は心の中で頑張れ、と応援しながら、リビングの方に戻り、朝食の完成を待った。
程無くすると、イヴが両手に皿を乗せて戻ってきた。曲芸師の様に、片手に一枚ずつ、フレンチトーストが盛りつけられた皿を乗せている。今にも落ちそうでヒヤヒヤする。

「おまちどおさま!」

僕の不安は幸いにも的中せず、イヴは無事に皿をテーブルに乗せた。
僕はキッチンからイヴが使っていた踏み台を持ってきて、テーブルの傍に置いた。昨日と同じく、僕が踏み台に、イヴが椅子に座り、テーブルを挟んで対面する。

「さ、食べよ!」

誰かに作ってもらう朝食。宿で出てくる食事は度々食べていたが、こうして食卓を囲んで食べるのは久しく感じられた。
フレンチトーストはハチミツがかけられていて、見た目としてはデザートに近い。朝食としては少しずれているかもしれないが、イヴの女の子らしさが発揮されたと言えば、無理も無い。
僕はナイフとフォークでそれを切り分け、ハチミツをしっかりと絡めて口に入れた。

「おいしい?」
「ああ、美味しいよ」
「よかった!」

イヴは昨日の僕の様に料理の感想を訊いてくる。イヴは問いかけに頷く僕を見て安心した様ににっこりと笑った。僕の感想は嘘ではなかった。朝食には合わないかもしれないが、フレンチトーストとしての味は本物だ。ハチミツの濃厚な甘さが主張しすぎない程度にアクセントを加えている。ブレッドに浸す液は、卵と牛乳に、この匂いはシナモンだ。香りも申し分無い。
……これだけのものを作る技術を、恐らくは記憶を失う前に教えられていたのだろう。イヴは一体、何者なんだ?
僕はイヴの料理に舌鼓を打ちながら、またイヴについて考えていた。
イヴはそれに気付いた様子も無く、終始にこやかに朝食を食べていた。僕が美味しいと言った事がそこまで嬉しかったのだろうか。気持ちは分からないでもないが。



朝食を終え、食器の後片付けをする僕達。食器洗いをするイヴに、洗った食器を拭く僕。イヴは僕に休めと言ったが、少し無理を言って、こうしてイヴの隣に立っている。
見ず知らずの僕を介抱してくれたイヴ。気遣いも怠らず、献身的。
サキュバスにしては幼い容姿。魔物娘は男性から精を摂取する事を目的として人間を誘惑するが、サキュバスの場合は、魔術や容姿で魅了させる事が多い。そのため、サキュバスの多くは豊満な肉体を持っている。男性の嗜好に適応し、少女の様な姿をした個体も見られるが、いずれにおいても、露出度が高く扇情的な格好をしている場合が殆どだ。
イヴは、その特徴に殆ど当てはまらない。
露出らしい露出など殆ど無く、フリルの付いたエプロンドレスに、ニーソックス、角や翼、尻尾に至るまで付けたリボンは年頃の少女を彷彿とさせる可憐なものだ。青と白を中心とした色合いは清楚さすら感じさせる。
それでいて、イヴはそんな見た目相応の振る舞いしかしてこない。
……僕を堕とすチャンスなら、何度もあった。そしてイヴは、その全てを見逃している。
もしかすると、イヴは、本当に僕には無害な存在なのではないのだろうか。僕の疑念は、全くの的外れではないのだろうか。

僕は……

後片付けを終えて、元通りにベッドへ戻る。イヴは椅子に座って、何気なくあの白紙ばかりの本を開いた。そういえば、僕はあの本の事をイヴから訊いていない。あれはイヴのものなのか。そうだとしたら、一体何の本なのか。

「イヴ、その本って……」
「あーっ!!」

僕が訊こうとすると、イヴはそれを遮る様に叫んだ。甲高い声に押されて思わず目を閉じる。

「本が……描かれてる!!」

驚いたのは僕だけではなく、イヴもだった。僕はベッドを降りて、イヴの後ろから本を覗き込む。
表紙を捲って2ページ目。白紙だったはずのそれは、童話調の絵で埋められていた。絵だけではない。




これは迷ってしまった騎士と、それを導く女の子のおはなし………

あるところに、勇敢な騎士がいました。
騎士は世界を救うために旅をしていましたが、世界を救うということに疑問を持ち始めます。
騎士は仕える主に迷いを伝えますが、主は逆上して、騎士との縁を切ってしまいます。
主がいなくなった騎士は、イカリの無い船の様に、たださまよっていました。
騎士は歩くのにも疲れて、その場に座り込んでしまいます。
そこに、一人の女の子が手を差し伸べました。

「あなた、誰にも仕えていないの?」
「はい、僕は主に見捨てられてしまいました」
「じゃあ、わたしの騎士になってくれないかしら?」
「貴女が僕の新しい主に?」
「ええ、わたしを守ってくれる?」

仕える者の無い騎士には価値がありません。騎士はこんな自分にもまだ価値があるならと、女の子に仕える事を決めました。

「……はい。貴女に仕えます」



絵本に描かれているのはここまでだった。僕はイヴと顔を見合わせた。

「イヴ、この本は……?」
「わたしが起きた時、このテーブルに置いてあったの。でも、最初は何も書いてなかったのに……」
「この題名も?」
「うん」

イヴも動揺していた。イヴが言うには、この本は書斎ではなく、テーブルに置いてあったものだそうだ。
僕が見た『Knight of Alice』という題名も、イヴが初めて見た時には無かったらしい。
そうなると、この本は僕達が見ていない間に描き足されている事になる。この家には僕とイヴ以外、誰もいないはずなのに。

「勝手に描かれるなんて、魔法みたい」
「魔法?」
「そう、魔法」

……確かに、そう解釈出来なくもない。僕は誰かがこの本を描いていると考えていたが、ある一定の条件を満たすと、絵が現れる……そんな仕掛けがあるという可能性が無いとも言えない。魔法なら、それが出来得る。

「もしもこれが、魔法で独りでに書き足されていく本だとしたら……」
「どんなお話なのかな?」
「分からない」
「……ねぇ、エリス」

イヴがこれまでに無い神妙な面持ちで僕を見つめる。

「ケガが治ったら……わたしを山の外に連れて行ってほしいの」

それは、半ば予想出来ていた頼みだった。僕も、頭のどこかではそうしなければいけないと考えていたのかもしれない。このまま僕がこの家を去れば、イヴはたった一人でこの山の中を生きていかなければならなくなるのだから。

「……僕でいいのか?」

実際問題、僕はイヴの頼みを断る理由が無かった。イヴは魔物だが、僕に危害を加えてくるわけではない。イヴを連れて行くにしろ行かないにしろ、僕は教国領から出る必要がある。そしてイヴも、このままでは教団に見つかる。見つかれば命の保証は無い。
僕には最早、勇者としての資格など残ってはいない。魔物を屠るだけの義勇は、既に消え失せていた。
それでもなお、僕は訊いた。そこまで、僕は迷っていたのかもしれない。

ドンドンドン!

玄関のドアを乱暴に叩く音が聞こえて、僕達は同時にドアを見た。ドアの向こうから、不躾な声が聞こえる。

「騎士団の者だ。開けてもらおう」

僕は戦慄した。連中は矢張りここを突き止めたのだ。いや、突き止めてはいないにしても、僕を探しにここを尋ねるのは容易に想像がつく。ここでドアが開いたら、僕はおろかイヴも無事では済まない。

「騎士団?何かな?」

そう思った時には、イヴが既に椅子から立ち上がってドアに手を掛けていた。

(イヴッ!!)

僕は反射的にイヴの口と手を押さえていた。イヴが、驚愕と恐怖に満ちた目で僕を見つめる。僕は静かにしろという意味を込めるために人差し指を口に当てて、イヴを解放した。ドアにカンヌキをそっと仕掛けて、白紙の本を引っ掴む。

「留守じゃないのか?」
「いや……何か人の気配がするな」

物騒な会話がドアの向こうから聞こえる。イヴの手を引いて、静かに、だが素早く、階段を上って書斎に滑り込んだ。
イヴは何が何だか分からないという顔をしているが、今は一刻を争う。

「エリス…?」
「今は説明してる時間が無い。イヴ、よく聞くんだ」

僕は書斎にある窓の傍までイヴの手を引いて、彼女が理解出来るギリギリの早さで説明した。
イヴは僕の言葉に恐々と頷く。

「僕はこの窓から外に飛び出す。そうしたら、イヴもこの窓から飛び出すんだ。僕が必ず受け止めるから、勇気を出してくれ。いいね?」

イヴは不安そうだった。無理も無い。

「僕を、信じてくれ」
「……うん」
「良い子だ」

僕はイヴに目線を合わせて、彼女の目を見た。透き通るような紺碧の双眸を見つめて、もう一度言った。
今度は頷いてくれた。僕はイヴの頭を撫でて、白紙の本を彼女に預ける。そして、窓を開けて、頭から思い切って飛び出した。風を切る様な感覚が体を通り抜けた直後、僕は地面を転がった。一回転ほどして身体の勢いは止まる。傷も癒えていないので体中が痛むが、受け身は何とか成功した様だ。
ここからが本番となる。飛び降りるイヴを受け止めなければならない。
イヴは頷いたものの、中々ふんぎりが付かないらしく、飛び降りるタイミングを図れないでいる。

ドン!!    ドン!!

玄関の方から大きな音が聞こえる。体当たりでもしているのだろう。
僕は早くと叫びそうだったが、それをしてはイヴの決心が台無しになる。ただイヴを受け止める体勢で祈るしかなかった。

飛び出すんだ、ここから!!

バン!!とドアを蹴破る音が聞こえた。イヴは一瞬玄関の方を見た。そして、やるしかないと悟った。イヴの身体が宙に舞う。

「きゃっ」
「大丈夫か?」
「うん。ちょっと怖かったけど……」
「よく頑張ったな、イヴ」

受け止めた瞬間、イヴが腕の中で小さく悲鳴を上げた。大事も無く、本もしっかりと彼女の腕の中に収められている。後は連中に気付かれない内に逃げ切れば、僕達の勝ちだ。

「首に手を回して」
「こう?」

僕はイブを所謂お姫様抱っこで抱えている。恐らく、僕がイヴを下ろして一緒に走るよりも、僕がイヴを抱えて走った方が早い。
僕は魔物娘との戦いを通して、彼女たちと対峙する際には重装備が好ましくない事を知っている。
軽装ならば、長距離を走ることもわけは無い。
イヴが、僕の首に手を回す。これなら彼女の体勢も楽になるだろう。準備は整った。

「よし。急ぐから、しっかり掴まってて」
「うん!」

一先ずはその場を離れること。山道に出たら、道伝いに下山し、関所を越える。
傷がまだ完治していないなどと、泣き言は吐いていられない。僕の生存がまだ知れ渡っていない内に、急がなければ。
僕は傾斜の付いた坂道を駆け下りる。木々の合間を駆け抜ける。そこに後を追う者はいない。
腕の中のイヴは、まるでアミューズメントのアトラクションにでも乗っているかの様に楽しげだった。僕が願った通りに、僕を信じてくれているのだろう。
僕達は風。険しい山を吹き下ろす風。
急げ、急げと胸が高鳴る。

最早、僕に迷いは無い。

僕は粗末な革のマントをはためかせて走る。転びもせずに、あの向こうへ…!
15/09/18 18:24更新 / 香橋
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■作者メッセージ
小さい女の子と一緒に寝たり(深い意味は無い)、お食事したり(深い意味は無い)する回でした。
キャラクター性を付けるのは、私には中々難しいのかもしれません。
文章で飯テロ出来るくらいの技術があればと思う今日この頃です。

諄い様ですが初の連載ですので、マンネリやムジュンに怯えながら、なんとか投稿していく所存であります。

ご意見ご感想を、しっかりした返しが出来るかどうか不安に思いながらお待ちしております。

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