Introduce
降りた夜の帳。
荒ぶ生温い風。
低く唸る木々。
僕は夜の闇を走っている。かれこれ何時間逃げているのだろう。平野を越え、この山岳地帯に逃げ込んだものの、それでもまだ奴らが追ってくる。草むらを掻き分ける音が、どれだけ走っても僕一人のものにならない。がさがさがさがさ。そのくせぜいぜい息を荒げて走っているのは僕だけ。そこに時折混じる怒号。追え、撃て、捕らえろ、逃がすな。山に茂る木々の合間を縫って走る僕へ、次々と矢が放たれている。それらは今のところは木の幹を捉えてくれているけれど、いつ僕に牙を剥けるか分からない。
僕はいつ終わるとも分からない逃走劇に、いい加減うんざりし始めていた。ここで足を止めれば、こんな疲れるだけの繁劇には簡単に幕を下ろせる。とは言え、僕はまだ僕の命という喜劇に幕を下ろしたくはない。自ら死を選ぶという境地に至るほど、僕はまだ人生というものを達観していない。
生き延びてやる。僕が疲れているなら、連中だってきっと疲れているはずだ。連中の数が多いのは、一人一人の実力が乏しいから。だから、寄せ集めて大きい力にする。妥当な考え方だ。だが、ただ寄せ集めただけでは、強くはならない。一人一人の結束がしっかりしていなければ、少し小突かれただけでも、簡単に崩れ落ちてしまう。
僕はそれを知っているんだ。他者との結び付きを知らない勇者なんて居るものか。
追手の全てが僕に追い付けているわけではない。これでも、逃げ始めた頃に比べればマシになった方だ。追手は確実に減ってきているんだ。このまま今夜を乗り切れば、国境はもうすぐそこだ。国境越えを果たせば、奴らも簡単には僕の場所を特定できなくなるだろう。こんな事で捕まってたまるか。
そら、一人、また一人。その辺の兵士が世界を救う勇者に敵うもんか。矢だって、ここまでただの一度も……
僕は風を切る音を聞いて身をよじった。右頬を鏃が掠める。危なかった。勇者にあるまじき慢心だった。もう少し反応が遅かったら、僕は何が起こったのか理解する間も無く倒れていただろう。全く、驚かせてくれる。
次の瞬間、僕の身体は宙を舞っていた。身をよじって、左足を踏み込んだところ。そこに地面はなかった。そこは急勾配の坂だった。
僕の身体は、バランスを崩して。
倒れ込んで。
勢いがついて。
回って。
回って。
回って。
ぶつかって。
回って
廻って
周って
まわって
回って。
意識が、遠退いていく。
何を考える余裕も無い。
僕はただ、限り無くワイドに拡がる視界の中、ありとあらゆる方向からくる衝撃を感じているだけだった。回転しながら、全身を強かに打ち付けている。それくらいしか思う事は無かった。
口の中が血の味でいっぱいになる頃になると、僕はもう何も見えなくなっていて、やがて、同じように、考える事も真っ暗になっていった。
勇者にあるまじき油断だった。
光。
朝日。
僕に差している。
水の音。川の流れ。
遠くに聞こえる。
それだけ？いや違う。
呼んでいる。誰かの声。誰？
誰を呼んでいる？僕？
揺れている。僕の身体が。
不自然に。ゆらゆら。
誰かの手で。誰の手？
「………てよ！ねぇ、ねぇったら！！」
声だ。女の子。まだ幼い声が僕を呼んでいる。小さな手が僕の身体を揺すっている。
誰だ？どうすれば判る？
……目だ。目を開けるんだ。
「………？」
僕の目蓋が開いた。光が僕の目に差し込んでくる。明るい。朝日を背に誰かが映っている。輪郭が見える。やっぱり女の子だ。僕を見ている。心配そうに覗き込んでいる。
「気が付いたのね！よかったぁ！」
女の子は目を覚ました僕を見て喜んでいる。とりあえずは一安心と表情を綻ばせている。
どういうことだ？この子は誰だ？僕は何をしていた？
意識が戻ってきて、少しずつ頭の中がはっきりしてきた。一体僕がどうなっているのか思考を整理したいところだが、どうもそうはいかないらしい。口の中に広がる鉄の味。これは……血だ。
「うっぐ…うぅ……」
僕は身体中を襲ってくる痛みに喘いだ。それはどうしてこんな痛い目に遭っているのかを考える事も出来ないくらいに強烈で、僕は歯を食い縛って身じろぎをした。
「大丈夫？どこか痛いの？」
どこかとかいう話ではない。全部だ。
「手…当、て……」
「そ、そうだよね。治してあげなきゃ。待ってて！」
痛い。痛い。痛みを治さなければ。自分では出来ない。助けて。息も絶え絶え、といった感じだったが、どうやら通じてくれたらしい。女の子は立ち上がると、向こうへ走っていった。僕はあの女の子を待つ間、この痛みに耐え続けなければならないわけか。どうやったって和らげられるものではない。ただ、あの子が戻ってくるのを、痛みの中、ひたすらに待つ。
これは打撲だろうか。全治には何日かかるだろうか。僕は今更ながら不安になった。あんな小さな子に手当が出来るのか。一先ず、動けるだけの状態にはしてもらえるのか。悪い事ばかりが頭を過ぎった。
救急箱を両手に抱えて、あの女の子が走ってくる。息を切らせて走ってくる。家に戻って取って来たのだろう。ついでに大人を呼んできてくれるともっと良かったのだが。しかし、来ていない以上はこの子の精一杯の善意に甘えるしかない。
「ご、めん……」
「いいから、わたしに任せて！」
胸をぽんと叩く女の子。任せるのが頗る不安だ。
そもそも僕は、痛いだけで動けなくはないのではないか。ちょっと無理をすれば、立つことくらいは叶うのではないか。
僕は傷がかえってひどくなってしまうのではないかと恐怖して、寧ろ怪我に対して前向きに考えた。
小さな子供に応急手当の心得なんて無い方が自然だ。素人が何も知らずに手当てをすれば、治すはずが傷を抉ってしまうのは言うまでもない。
僕の不安を余所に、少女は意気込んで救急箱を開いた。
額が沁みる。消毒液を付けた綿を、傷口に付着させている様だ。血で赤くなった箇所を、一つ一つ、丁寧に処置していく。一応、大丈夫みたいだ。
膝が冷たい。特に腫れのひどい箇所を冷やしているらしい。……なんだ、見た目の割には結構手際が良いじゃないか。
……やけに痛みの引きが早い気がする。治癒魔法？こんな小さな子が魔法を？
段々と頭の中も整理が付いてきた。
「………ふう、これで全部かな…どう？大丈夫？」
処置を一通り終えた女の子が、顔を覗き込んでくる。
僕がこんな痛い目に遭ったのは、追手に追われて、崖から転げ落ちたからだ。結構な距離を落ちてきたと思うのだが、命はおろか骨も折れていない。今の今まで気を失っていた事を差し引いても、我ながらひどい悪運だ。
僕は身体を起こせる程度には回復した。動かすと節々が痛むが、治療される前に比べればこの程度、痛みとも言えない。
僕はよろめきながらも立ち上がった。直ぐ近くに少女が居る。並んでみると、体格の差は明らかだ。こんなに小さい子が、僕を。
全身打撲で動くのも難しい状態のところを、この女の子が……
「！！ あんた……人間じゃないのか」
僕は痛みと霞んだ目の所為で、女の子の姿をはっきり捉えられていたわけではなかった。今なら、少女の姿ははっきり見える。
少女は『人間ではない』。それが意味するところは、この子は魔物ということだ。長く尖った耳。頭に生えた一対の角。クランベリーを思わせる色の羽と尻尾。この様な羽と尻尾に僕は見覚えがある。僕は、僕を助けてくれたはずの者を睨んだ。
「え？えっと、その…あの……」
魔物。それは人間を堕落へと誘う存在。自らに備えられた能力を駆使し、人間を籠絡させる。
僕はこの少女が治療に託けて僕に良からぬ事をしでかしたのではないかと考えたのだ。
僕の勢いに気圧されてしまったのか、今にも泣き出しそうな表情で肩を窄める少女。
僕は彼女のこの顔すら、僕を陥れる為の演技ではないのかと疑心暗鬼になった。ここで僕が痺れを切らして怒鳴り、彼女を追い詰めるのは容易い。だが、彼女が泣き出したとして、その泣き声に何らかの作用が含まれていないとも言い切れない。
僕は努めて穏やかに接するよう心掛けた。彼女の目線まで腰を下げて、目を柔らかに見ながら、語りかける。
「…ごめん。怖がらせる気は無かったんだ。…僕はエリス、勇者だ。あんたは？」
「……イヴ。エリスさんは、旅してるの？」
「エリスでいい。僕は旅をして色んなところを見てきた」
僕が誠意を持って接すると、不安げに見つめながらも、少女はイヴと名を名乗った。何とか落ち着かせたらしい。ほっと胸を撫で下ろす。
…イヴはサキュバスの幼体なのだろうか。外見を鑑みればそれが正しい。勇者という単語に何ら反応を示さなかったのも頷ける。
勇者とは、イヴの様な魔物を倒す存在だ。この場合、イヴは狩られる側になる。イヴが成体のサキュバスであれば、何かしらの反応はしたはずだ。ただ……
「ほんとう！？わたし、まだこの山から出たことがないの！わたしも見たい！」
幼体であるにしても、振る舞いが無邪気というか、開けっ広げというか。
こちらを陥れようとしてくる素振りを全く見せてこない。まだ人間を魅了できる段階ではないのか？
僕は魔物についてはある程度の知識を持っているが、それは度重なる戦闘による経験則が殆どで、幼体の魔物については詳しく知らない。
ただ、イヴの言葉を信じるのであれば、彼女はまだ世間知らずだ。それでいて、とても好奇心旺盛。…淫魔特有の蠱惑的な雰囲気なんて、欠片ほども見られない。
「……大きくなれば、見られるさ」
目を輝かせるイヴに、僕は無難な言葉を返した。
さっきまで泣き出しそうな顔をしていたくせに、現金な奴だ。
「それっていつ？」
「いつのまにか。遅いかも、早いかもしれない」
「今がいい！」
大きくなれば。それがいつになるかなんてのは、僕にはまだ分からない。けれど、多分、僕はもう大きくなったんだと思う。それがいつだったかなんてのは、もっと分からない。僕に分からないのだから、イヴに分かるわけがない。
僕は知った風な口を利いたが、イヴはそれを鼻で笑うでもなく、素直に言葉を返した。だから、僕も素直になった。
「無理だね」
「ええー…つまんなーい」
イヴの年齢は、外見から判断する限りでは精々10歳前後。経験も何も無い、ただただ純粋な少女。一人で旅をするには、余りに荷が重すぎる。
イヴは唇を尖らせて不貞腐れた。まぁ、僕にはどうしようもない話だ。
…そうだ、荷で思い出した。懐に無いということは、転げ落ちた時に別のどこかへ転がってしまったのだろう。
「そういえば…この辺りに袋は落ちていなかった？僕の荷物なんだ」
「うん。向こうに落ちてたよ」
「悪いけど、取ってきてくれる？」
「いいよ！」
イヴは僕の頼みに嫌な顔一つせず、とてとてと駆け出していった。少女の小さな輪郭は、すぐに見えなくなる。僕はイヴを待とうとして、その場に座り込んだ。身体の節が軋んだが、立っているよりは座っている方が楽だ。
しかし、気付いてよかった。食料や雑貨を入れた袋が無くなっては、いよいよ僕は勇者から浮浪者に成り下がってしまう。
辺りを見回す。上には、僕が転げ落ちて来ただろう崖がそびえている。山肌が土と草木だったのも幸運だった。これがもし岩肌だとしたら、僕はもっとひどい怪我を負っていたのだろう。生きていたかどうかも覚束ない。
自由に動けるようになるには暫く療養が必要だが、生きているだけ儲けものだ。こんな所、早く抜け出してしまわないと……待てよ。
僕は療養と脱出が必要だということを理解していたが、それを実行するには障害があることに気付いた。
この山を下りるには、まず身体を全快させること。それについては、日数を掛ければ例え野宿でも可能だ。袋の中には薬も入っている。
ただ、外で過ごすよりも余程良い方法がある。イヴを利用すれば、それが叶う。
イヴが袋を抱えて戻ってきた。
「はい！」
「ありがとう。イヴ、あんたの家はどこにあるんだ？」
「この川を下った先だよ」
「そうか。悪いけど、案内してくれないか？」
「うん！ケガ、大丈夫？歩ける？」
「なんとかね」
「じゃ、いこ！」
僕はイヴが持ってきてくれた袋を受け取ると、イヴに家の場所を訊いた。イヴは怪訝に思うことも無く、自分の家の方角を指差した。崖とは反対側に流れている川…その下流に、イヴの家があるのだという。僕はイヴの家へ向かおうとして、彼女に道案内を頼んだ。普通に考えたら、見ず知らずの奴に家の場所なんか教えないし、案内にも応じない…とまではいかないにしても、少なくとも何故かは尋ねるだろう。
しかし、イヴは疑う事をしない。それどころか、僕の怪我を気遣ってくる始末。大丈夫……というわけではないが、歩けない程でもない。それでもイヴは、僕の、絆創膏が貼られた手を引いて、僕を先導する。純粋を通り越して無防備といった感じだ。親ももう少しマシな教育をした方が良いんじゃないのか。……僕も良心が無いわけではないのだから。
「ひ、一人で歩けるって」
「いいのいいの！遠慮しないで！」
止めろと言っても、イヴは握った手を放してはくれない。遠慮とかそういう話ではないのだが。
勿論、僕はこの手を無理矢理振り払っても良かったのだが、それでイヴがヘソを曲げると、僕は彼女をあやさなければならなくなる。彼女に案内を頼んでいる手前、それは面倒だ。だから、僕は釈然としない顔のまま、えっちらおっちらイヴに手を引かれて行った。身長差があるせいで、上体を軽く倒さないと歩けない。
それでも、僕はイヴの家に行かなくてはならない。
僕は確かに崖から落ちたが、追手は僕の死体を見たわけではないのだ。無論、僕が生きているのが判れば、奴らは血眼になって僕を追ってくるだろう。そんな状況下で野宿をしながら傷が治るのを待つのは少しばかり現実的ではない。
だから、室内で療養する。今、その目処を立たせられるのは、イヴしかいない。イヴの家で、イヴの両親と交渉して、匿ってもらう。仮に奴らがこの家を訪ねてきたとしても、僕の素性はこの家の者からすれば寧ろ匿って然るべきものだ。過信は出来ないが。
イヴは僕の曇った顔なんて見ていなかった。ただ、前を見ていた。
「エリスは、どうしてあそこに倒れてたの？」
「崖から転げ落ちてしまってね」
「どこから来たの？」
「街の方からかな」
「街には何があるの？」
「色々。お店とか、お城とか」
「いいなぁ…私も行きたいなぁ…」
「もう少し我慢しないと駄目だね」
「エリスって、何が好きなの？………」
イヴは、家に着くまでの間、僕に思いつく限りの質問をした。どれも、訊く必要があるのかと疑問に思う程のもので、僕はそこにイヴの子供らしさを感じた。別段、はぐらかす必要も無い質問ばかりだったので、僕は嘘偽り無く彼女の質問に答えていった。
身体に残る痛みで歩くのに疲れて来た頃(イヴのせいで変な体勢のまま歩いた事もあるが)、視界の向こうに小ぢんまりとしたログハウスが見えてきた。
外観はある程度くすんでいるが、住み心地は良さそうだ。住めて三人、といったところだろうか。
「ここがわたしの家だよ！」
「今、父親か母親は居る？」
「いないよ」
「いつ頃戻ってくるのか、分かる？」
「うーん…一人だから、わかんない」
ともあれ漸くまともな人間に…この場合は魔物だが、イヴが居るという事は、母親の魔物は既婚だ。まさか、夫をそっちのけにして僕を襲ったりはしないはずだろう。
どうにかして安全な場所で療養しなければ……僕はそう思っていたが、今、イヴの両親は留守だという。
僕は、程無くしてそれが勘違いだと気付いた。
一人だから。僕はイヴの返答に自分の耳を疑った。
どう考えても、このタイミングで言う言葉としては相応しくない。明らかに違和感がある物言いだ。僕は訊かずにはいられなかった。
「一人…？まさか…あんた、ここで一人で暮らしてるのか？」
「うん」
驚く程あっけらかんとしてイヴは肯定した。
信じられない事に、イヴが両親と三人で暮らしているという前提そのものが間違っていたのだ。
その前提は僕の計画の基礎の基礎だ。それが崩れるとなると、他のあらゆる前提も崩れてしまう。
僕は呆然としながらも、ただ質問攻めするしかなかった。
「なんで…？」
「だって、気が付いたらここにいたんだもん」
「気が付いたら、って…ここに住む前の事は？」
「おぼえてないの」
「………」
僕は思わず絶句した。
しかし、真っ白になった僕の頭でも、どういう事なのかはよく理解している。
とどのつまり…イヴは……記憶喪失だ。
荒ぶ生温い風。
低く唸る木々。
僕は夜の闇を走っている。かれこれ何時間逃げているのだろう。平野を越え、この山岳地帯に逃げ込んだものの、それでもまだ奴らが追ってくる。草むらを掻き分ける音が、どれだけ走っても僕一人のものにならない。がさがさがさがさ。そのくせぜいぜい息を荒げて走っているのは僕だけ。そこに時折混じる怒号。追え、撃て、捕らえろ、逃がすな。山に茂る木々の合間を縫って走る僕へ、次々と矢が放たれている。それらは今のところは木の幹を捉えてくれているけれど、いつ僕に牙を剥けるか分からない。
僕はいつ終わるとも分からない逃走劇に、いい加減うんざりし始めていた。ここで足を止めれば、こんな疲れるだけの繁劇には簡単に幕を下ろせる。とは言え、僕はまだ僕の命という喜劇に幕を下ろしたくはない。自ら死を選ぶという境地に至るほど、僕はまだ人生というものを達観していない。
生き延びてやる。僕が疲れているなら、連中だってきっと疲れているはずだ。連中の数が多いのは、一人一人の実力が乏しいから。だから、寄せ集めて大きい力にする。妥当な考え方だ。だが、ただ寄せ集めただけでは、強くはならない。一人一人の結束がしっかりしていなければ、少し小突かれただけでも、簡単に崩れ落ちてしまう。
僕はそれを知っているんだ。他者との結び付きを知らない勇者なんて居るものか。
追手の全てが僕に追い付けているわけではない。これでも、逃げ始めた頃に比べればマシになった方だ。追手は確実に減ってきているんだ。このまま今夜を乗り切れば、国境はもうすぐそこだ。国境越えを果たせば、奴らも簡単には僕の場所を特定できなくなるだろう。こんな事で捕まってたまるか。
そら、一人、また一人。その辺の兵士が世界を救う勇者に敵うもんか。矢だって、ここまでただの一度も……
僕は風を切る音を聞いて身をよじった。右頬を鏃が掠める。危なかった。勇者にあるまじき慢心だった。もう少し反応が遅かったら、僕は何が起こったのか理解する間も無く倒れていただろう。全く、驚かせてくれる。
次の瞬間、僕の身体は宙を舞っていた。身をよじって、左足を踏み込んだところ。そこに地面はなかった。そこは急勾配の坂だった。
僕の身体は、バランスを崩して。
倒れ込んで。
勢いがついて。
回って。
回って。
回って。
ぶつかって。
回って
廻って
周って
まわって
回って。
意識が、遠退いていく。
何を考える余裕も無い。
僕はただ、限り無くワイドに拡がる視界の中、ありとあらゆる方向からくる衝撃を感じているだけだった。回転しながら、全身を強かに打ち付けている。それくらいしか思う事は無かった。
口の中が血の味でいっぱいになる頃になると、僕はもう何も見えなくなっていて、やがて、同じように、考える事も真っ暗になっていった。
勇者にあるまじき油断だった。
光。
朝日。
僕に差している。
水の音。川の流れ。
遠くに聞こえる。
それだけ？いや違う。
呼んでいる。誰かの声。誰？
誰を呼んでいる？僕？
揺れている。僕の身体が。
不自然に。ゆらゆら。
誰かの手で。誰の手？
「………てよ！ねぇ、ねぇったら！！」
声だ。女の子。まだ幼い声が僕を呼んでいる。小さな手が僕の身体を揺すっている。
誰だ？どうすれば判る？
……目だ。目を開けるんだ。
「………？」
僕の目蓋が開いた。光が僕の目に差し込んでくる。明るい。朝日を背に誰かが映っている。輪郭が見える。やっぱり女の子だ。僕を見ている。心配そうに覗き込んでいる。
「気が付いたのね！よかったぁ！」
女の子は目を覚ました僕を見て喜んでいる。とりあえずは一安心と表情を綻ばせている。
どういうことだ？この子は誰だ？僕は何をしていた？
意識が戻ってきて、少しずつ頭の中がはっきりしてきた。一体僕がどうなっているのか思考を整理したいところだが、どうもそうはいかないらしい。口の中に広がる鉄の味。これは……血だ。
「うっぐ…うぅ……」
僕は身体中を襲ってくる痛みに喘いだ。それはどうしてこんな痛い目に遭っているのかを考える事も出来ないくらいに強烈で、僕は歯を食い縛って身じろぎをした。
「大丈夫？どこか痛いの？」
どこかとかいう話ではない。全部だ。
「手…当、て……」
「そ、そうだよね。治してあげなきゃ。待ってて！」
痛い。痛い。痛みを治さなければ。自分では出来ない。助けて。息も絶え絶え、といった感じだったが、どうやら通じてくれたらしい。女の子は立ち上がると、向こうへ走っていった。僕はあの女の子を待つ間、この痛みに耐え続けなければならないわけか。どうやったって和らげられるものではない。ただ、あの子が戻ってくるのを、痛みの中、ひたすらに待つ。
これは打撲だろうか。全治には何日かかるだろうか。僕は今更ながら不安になった。あんな小さな子に手当が出来るのか。一先ず、動けるだけの状態にはしてもらえるのか。悪い事ばかりが頭を過ぎった。
救急箱を両手に抱えて、あの女の子が走ってくる。息を切らせて走ってくる。家に戻って取って来たのだろう。ついでに大人を呼んできてくれるともっと良かったのだが。しかし、来ていない以上はこの子の精一杯の善意に甘えるしかない。
「ご、めん……」
「いいから、わたしに任せて！」
胸をぽんと叩く女の子。任せるのが頗る不安だ。
そもそも僕は、痛いだけで動けなくはないのではないか。ちょっと無理をすれば、立つことくらいは叶うのではないか。
僕は傷がかえってひどくなってしまうのではないかと恐怖して、寧ろ怪我に対して前向きに考えた。
小さな子供に応急手当の心得なんて無い方が自然だ。素人が何も知らずに手当てをすれば、治すはずが傷を抉ってしまうのは言うまでもない。
僕の不安を余所に、少女は意気込んで救急箱を開いた。
額が沁みる。消毒液を付けた綿を、傷口に付着させている様だ。血で赤くなった箇所を、一つ一つ、丁寧に処置していく。一応、大丈夫みたいだ。
膝が冷たい。特に腫れのひどい箇所を冷やしているらしい。……なんだ、見た目の割には結構手際が良いじゃないか。
……やけに痛みの引きが早い気がする。治癒魔法？こんな小さな子が魔法を？
段々と頭の中も整理が付いてきた。
「………ふう、これで全部かな…どう？大丈夫？」
処置を一通り終えた女の子が、顔を覗き込んでくる。
僕がこんな痛い目に遭ったのは、追手に追われて、崖から転げ落ちたからだ。結構な距離を落ちてきたと思うのだが、命はおろか骨も折れていない。今の今まで気を失っていた事を差し引いても、我ながらひどい悪運だ。
僕は身体を起こせる程度には回復した。動かすと節々が痛むが、治療される前に比べればこの程度、痛みとも言えない。
僕はよろめきながらも立ち上がった。直ぐ近くに少女が居る。並んでみると、体格の差は明らかだ。こんなに小さい子が、僕を。
全身打撲で動くのも難しい状態のところを、この女の子が……
「！！ あんた……人間じゃないのか」
僕は痛みと霞んだ目の所為で、女の子の姿をはっきり捉えられていたわけではなかった。今なら、少女の姿ははっきり見える。
少女は『人間ではない』。それが意味するところは、この子は魔物ということだ。長く尖った耳。頭に生えた一対の角。クランベリーを思わせる色の羽と尻尾。この様な羽と尻尾に僕は見覚えがある。僕は、僕を助けてくれたはずの者を睨んだ。
「え？えっと、その…あの……」
魔物。それは人間を堕落へと誘う存在。自らに備えられた能力を駆使し、人間を籠絡させる。
僕はこの少女が治療に託けて僕に良からぬ事をしでかしたのではないかと考えたのだ。
僕の勢いに気圧されてしまったのか、今にも泣き出しそうな表情で肩を窄める少女。
僕は彼女のこの顔すら、僕を陥れる為の演技ではないのかと疑心暗鬼になった。ここで僕が痺れを切らして怒鳴り、彼女を追い詰めるのは容易い。だが、彼女が泣き出したとして、その泣き声に何らかの作用が含まれていないとも言い切れない。
僕は努めて穏やかに接するよう心掛けた。彼女の目線まで腰を下げて、目を柔らかに見ながら、語りかける。
「…ごめん。怖がらせる気は無かったんだ。…僕はエリス、勇者だ。あんたは？」
「……イヴ。エリスさんは、旅してるの？」
「エリスでいい。僕は旅をして色んなところを見てきた」
僕が誠意を持って接すると、不安げに見つめながらも、少女はイヴと名を名乗った。何とか落ち着かせたらしい。ほっと胸を撫で下ろす。
…イヴはサキュバスの幼体なのだろうか。外見を鑑みればそれが正しい。勇者という単語に何ら反応を示さなかったのも頷ける。
勇者とは、イヴの様な魔物を倒す存在だ。この場合、イヴは狩られる側になる。イヴが成体のサキュバスであれば、何かしらの反応はしたはずだ。ただ……
「ほんとう！？わたし、まだこの山から出たことがないの！わたしも見たい！」
幼体であるにしても、振る舞いが無邪気というか、開けっ広げというか。
こちらを陥れようとしてくる素振りを全く見せてこない。まだ人間を魅了できる段階ではないのか？
僕は魔物についてはある程度の知識を持っているが、それは度重なる戦闘による経験則が殆どで、幼体の魔物については詳しく知らない。
ただ、イヴの言葉を信じるのであれば、彼女はまだ世間知らずだ。それでいて、とても好奇心旺盛。…淫魔特有の蠱惑的な雰囲気なんて、欠片ほども見られない。
「……大きくなれば、見られるさ」
目を輝かせるイヴに、僕は無難な言葉を返した。
さっきまで泣き出しそうな顔をしていたくせに、現金な奴だ。
「それっていつ？」
「いつのまにか。遅いかも、早いかもしれない」
「今がいい！」
大きくなれば。それがいつになるかなんてのは、僕にはまだ分からない。けれど、多分、僕はもう大きくなったんだと思う。それがいつだったかなんてのは、もっと分からない。僕に分からないのだから、イヴに分かるわけがない。
僕は知った風な口を利いたが、イヴはそれを鼻で笑うでもなく、素直に言葉を返した。だから、僕も素直になった。
「無理だね」
「ええー…つまんなーい」
イヴの年齢は、外見から判断する限りでは精々10歳前後。経験も何も無い、ただただ純粋な少女。一人で旅をするには、余りに荷が重すぎる。
イヴは唇を尖らせて不貞腐れた。まぁ、僕にはどうしようもない話だ。
…そうだ、荷で思い出した。懐に無いということは、転げ落ちた時に別のどこかへ転がってしまったのだろう。
「そういえば…この辺りに袋は落ちていなかった？僕の荷物なんだ」
「うん。向こうに落ちてたよ」
「悪いけど、取ってきてくれる？」
「いいよ！」
イヴは僕の頼みに嫌な顔一つせず、とてとてと駆け出していった。少女の小さな輪郭は、すぐに見えなくなる。僕はイヴを待とうとして、その場に座り込んだ。身体の節が軋んだが、立っているよりは座っている方が楽だ。
しかし、気付いてよかった。食料や雑貨を入れた袋が無くなっては、いよいよ僕は勇者から浮浪者に成り下がってしまう。
辺りを見回す。上には、僕が転げ落ちて来ただろう崖がそびえている。山肌が土と草木だったのも幸運だった。これがもし岩肌だとしたら、僕はもっとひどい怪我を負っていたのだろう。生きていたかどうかも覚束ない。
自由に動けるようになるには暫く療養が必要だが、生きているだけ儲けものだ。こんな所、早く抜け出してしまわないと……待てよ。
僕は療養と脱出が必要だということを理解していたが、それを実行するには障害があることに気付いた。
この山を下りるには、まず身体を全快させること。それについては、日数を掛ければ例え野宿でも可能だ。袋の中には薬も入っている。
ただ、外で過ごすよりも余程良い方法がある。イヴを利用すれば、それが叶う。
イヴが袋を抱えて戻ってきた。
「はい！」
「ありがとう。イヴ、あんたの家はどこにあるんだ？」
「この川を下った先だよ」
「そうか。悪いけど、案内してくれないか？」
「うん！ケガ、大丈夫？歩ける？」
「なんとかね」
「じゃ、いこ！」
僕はイヴが持ってきてくれた袋を受け取ると、イヴに家の場所を訊いた。イヴは怪訝に思うことも無く、自分の家の方角を指差した。崖とは反対側に流れている川…その下流に、イヴの家があるのだという。僕はイヴの家へ向かおうとして、彼女に道案内を頼んだ。普通に考えたら、見ず知らずの奴に家の場所なんか教えないし、案内にも応じない…とまではいかないにしても、少なくとも何故かは尋ねるだろう。
しかし、イヴは疑う事をしない。それどころか、僕の怪我を気遣ってくる始末。大丈夫……というわけではないが、歩けない程でもない。それでもイヴは、僕の、絆創膏が貼られた手を引いて、僕を先導する。純粋を通り越して無防備といった感じだ。親ももう少しマシな教育をした方が良いんじゃないのか。……僕も良心が無いわけではないのだから。
「ひ、一人で歩けるって」
「いいのいいの！遠慮しないで！」
止めろと言っても、イヴは握った手を放してはくれない。遠慮とかそういう話ではないのだが。
勿論、僕はこの手を無理矢理振り払っても良かったのだが、それでイヴがヘソを曲げると、僕は彼女をあやさなければならなくなる。彼女に案内を頼んでいる手前、それは面倒だ。だから、僕は釈然としない顔のまま、えっちらおっちらイヴに手を引かれて行った。身長差があるせいで、上体を軽く倒さないと歩けない。
それでも、僕はイヴの家に行かなくてはならない。
僕は確かに崖から落ちたが、追手は僕の死体を見たわけではないのだ。無論、僕が生きているのが判れば、奴らは血眼になって僕を追ってくるだろう。そんな状況下で野宿をしながら傷が治るのを待つのは少しばかり現実的ではない。
だから、室内で療養する。今、その目処を立たせられるのは、イヴしかいない。イヴの家で、イヴの両親と交渉して、匿ってもらう。仮に奴らがこの家を訪ねてきたとしても、僕の素性はこの家の者からすれば寧ろ匿って然るべきものだ。過信は出来ないが。
イヴは僕の曇った顔なんて見ていなかった。ただ、前を見ていた。
「エリスは、どうしてあそこに倒れてたの？」
「崖から転げ落ちてしまってね」
「どこから来たの？」
「街の方からかな」
「街には何があるの？」
「色々。お店とか、お城とか」
「いいなぁ…私も行きたいなぁ…」
「もう少し我慢しないと駄目だね」
「エリスって、何が好きなの？………」
イヴは、家に着くまでの間、僕に思いつく限りの質問をした。どれも、訊く必要があるのかと疑問に思う程のもので、僕はそこにイヴの子供らしさを感じた。別段、はぐらかす必要も無い質問ばかりだったので、僕は嘘偽り無く彼女の質問に答えていった。
身体に残る痛みで歩くのに疲れて来た頃(イヴのせいで変な体勢のまま歩いた事もあるが)、視界の向こうに小ぢんまりとしたログハウスが見えてきた。
外観はある程度くすんでいるが、住み心地は良さそうだ。住めて三人、といったところだろうか。
「ここがわたしの家だよ！」
「今、父親か母親は居る？」
「いないよ」
「いつ頃戻ってくるのか、分かる？」
「うーん…一人だから、わかんない」
ともあれ漸くまともな人間に…この場合は魔物だが、イヴが居るという事は、母親の魔物は既婚だ。まさか、夫をそっちのけにして僕を襲ったりはしないはずだろう。
どうにかして安全な場所で療養しなければ……僕はそう思っていたが、今、イヴの両親は留守だという。
僕は、程無くしてそれが勘違いだと気付いた。
一人だから。僕はイヴの返答に自分の耳を疑った。
どう考えても、このタイミングで言う言葉としては相応しくない。明らかに違和感がある物言いだ。僕は訊かずにはいられなかった。
「一人…？まさか…あんた、ここで一人で暮らしてるのか？」
「うん」
驚く程あっけらかんとしてイヴは肯定した。
信じられない事に、イヴが両親と三人で暮らしているという前提そのものが間違っていたのだ。
その前提は僕の計画の基礎の基礎だ。それが崩れるとなると、他のあらゆる前提も崩れてしまう。
僕は呆然としながらも、ただ質問攻めするしかなかった。
「なんで…？」
「だって、気が付いたらここにいたんだもん」
「気が付いたら、って…ここに住む前の事は？」
「おぼえてないの」
「………」
僕は思わず絶句した。
しかし、真っ白になった僕の頭でも、どういう事なのかはよく理解している。
とどのつまり…イヴは……記憶喪失だ。
15/09/11 01:06更新 / 香橋
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