メルトモノアイ
出る時には、今日も頑張って、と言うような普通のキスをされただけだった。この日に不可欠なそれを渡されたわけじゃない。だから家に帰ってからのお楽しみなのだろう、と思っていた。魔物というのを甘く見すぎていたと痛感した。
何の起伏も無い呆けた日常に突如現れた彼女。ゲイザーという単眼の魔物。大きな赤い一つ目に、背から生える眼の付いた無数の触手。血の気の失せた灰色の肌。手足に胸と局部を黒いスライムのようなもので覆っているだけの、小柄だが異様で刺激的な背格好。どうにもそんな異形に惹かれてしまったらしく、彼女と関係を持つ程度の仲になって、同棲を始めて最初のバレンタイン。
戸を開けたら、いつも通りに彼女が迎えてくれる。きっと、この日の特別な贈り物を添えて。そう考えていた。
「……おかえり。ハッピー、バレンタイン」
帰ると開口一番、少し躊躇いがちな彼女が腕を広げて迎える。彼女にとっては、少し歯の浮く台詞だったのだろう。その両手に贈り物が握られていると考えていたが故に、絶句せざるを得ない。てっきり眼を除けば白黒な彼女が待ち構えている、と安易ながらに思っていたのだ。
自分の目を疑った。色彩の認識能力が急におかしくなったのか。
「な、何か言えよ！ あ、アタシがヘンみたいだろ！」
言葉を失って立ち尽くす俺に彼女が触手を揺らして抗議する。未だ事態を上手く飲み込めない。
「いや、お前……どうしたんだよ、その体？」
「だからぁ、アタシがチョコだって……こと、だよ……」
尻すぼみになりながらも、彼女の言っていることは何も間違いではない。むしろ戸惑う俺には丁度理解するに易い説明だろう。言葉の通りだ。彼女は今、チョコレートだ。板状になったのではない。触手だの、髪だの……そういう彼女の体の黒い部分だけ、甘い甘い、ミルクチョコレートの色に変わってしまっている。いつもの俺なら、もっと皮肉の利いた言葉の一つでも返せたのだろうけど。
「あ、あぁ……えっと……じゃ、食べれば、いいの、か……？」
「お、おう……」
どうにもちぐはぐなやりとり。けれど彼女は右手を差し出す。彼女の腕を覆う、とろりとした茶色の液状のもの。鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、確かに甘ったるいカカオの香り。心の安らぐ、食欲をそそられる匂い。それは腕。いとしい人の手指。けれど口に含むことへの抵抗感は無かった。
ぱくり。人差し指と中指をまとめて口に含む。鼻腔に広がる芳醇で深みのある香り。舌に乗った指から甘みと苦みが同時に伝わる。
「んっ……」
「……甘い」
「そりゃそうだ。チョコなんだから」
「一体どうやって」
「ちょっと、薬を使ってな」
「薬？」
聞き返すと、彼女がリビングへ案内する。導かれるままに付いて行くと、確かにリビングのテーブルには見た事のないものが置かれている。少量の錠剤が入った「Sweet Eatee」というラベルの貼られた小瓶だ。甘い被捕食者……間違いではないが。彼女が瓶を手に取って解説を始める。
「これを食べるとしばらく体が甘くなるんだ。どう甘くなるかは服用したヤツの意志である程度自由にできるらしい」
「今日服用する女性は皆チョコ味になりたがるってわけか」
「それから、部位によって味に差異が出てくるらしい。この辺は飲んでからのお楽しみってヤツだな」
「部位によって……ね」
解説を聞いて悪い事を考えた俺は、全身スイーツと化した彼女を迷い箸をするようにねめつける。手は、見た目通りのミルクチョコだった。とすると、同じような色をした足や髪、触手も味は変わらないと思われる。残るは……
「な、なんだよ急に、じろじろ見て……んむ！？」
彼女が訝しがるが早いか、抱き寄せて唇を強引に奪い、舌を差し込む。彼女の手から瓶が抜け落ちて、がらんと大きな音を立てて床を転がっていく。
突然の事で彼女の口の動きは硬いが、舌を愛でる様に動かしているとすぐに動きは弛んだ。予想通り、ここはミルクチョコじゃない。もっともっと甘ったるい、濃厚で優しい味わいのホワイトチョコ。歯も舌も上顎も下顎も、どこを舐ってもとろける甘さ。唾液まで甘い。思わずずっと味わっていたくなる。口内から滲み出てくるのをどんどん嚥下する。
「ん、ちゅ、ふぅんん……ちょ、ちょっと、待って……」
息継ぎもせずに唇同士を密着させて貪っていると、息の切れた彼女がストップをかける。突き放された感じがして寂しいが、離れた彼女の息は苦しそうに上がっている。蕩けた顔で座り込んでいるところを見るに立っていられなくなったのだろう。行為に独りよがりな思いは厳禁だ。とはいえ、彼女が口付けだけでこうも敏感な反応を示したことはない。
「悪い、つい……ってお前、キスだけでそんなになったっけ……？」
「あれは、キスとか、甘噛みとか、口ですることに体が敏感になる効果も……あるんだよ」
訊ねてみればなるほど、要するに媚薬も兼ねているということだ。敏感になるのが口限定というところに拘りを感じる。どうしても食べろということなのか。
「……効果はすぐに出るぞ」
「？ 即効性か」
媚薬の類にとっては嬉しいものだろうが、彼女のその解説は今言わなければならないことでもない。それになんだか、彼女の謀ったような視線が気になる。……もしや。
「……今ので飲ませた？」
「ぴんぽーん」
してやられた。予め口に仕込んでおいたのかどうか知らないが、俺が唇を奪うのに乗じて俺にも同じ薬を飲ませたらしい。どう見ても俺のキスの虜になっていたくせに、こういうところはにひにひ笑って抜け目ない。何かと彼女は主導権を握ろうとするきらいがある。ちょっと強がりなのだ。俺はやれやれ溜め息を吐いた。だが。
「……お好きにどうぞ」
握りたがりでいい。彼女の好きなようにしてくれればそれで。
「言ったな」
彼女が寒気のする笑顔を浮かべ、俺を寝室へと運び去る。夕日の差すリビングには、落ちた瓶だけが乾いた音を立てて転がっていた。
日差しの強い時間帯なのでカーテンは閉めて。暖色の自然照明が二人だけの部屋を薄暗く照らす。お互いの輪郭は充分に確認できる程度に。昨晩も激しく愛し合ったダブルベッドに押し倒された。
被虐趣味があるとまでは言わない。が、彼女に振り回される自分は確かに存在しているらしい。人外の快楽に魅せられてしまった。人間とは違う存在。異形がもたらす背徳の快感。待ち望んでいる自分がいる。
「オマエの唇は、どんな味かな……」
抵抗する手段もなく横たわる俺を見て舌舐めずりをする彼女。捕食される小動物のように、体が震える。しかしこれは恐怖でなく、彼女がくれるであろう、身の毛のよだつような快楽への期待で……俺を狂わす大きな単眼がゆっくりと近づいてくる。
「ちゅ……」
唇を触れ合わせるだけの軽いキス。だったにも関わらず、自分の体は想定外にもびくんと跳ねていた。脳に静電気の走ったような感覚。あれだけで。
「イチゴ味だ。おいしいぞ。もっと食べたくなるくらい」
自分の味を褒められるというのは中々ない。そうだ、人体に元々味なんてないようなものだ。汗で塩辛くはなるだろうが、それ以上は、頭で錯覚させるしかないのだ。故になんだかこそばゆい。
そして恐ろしい。触れるだけのものであれほどの感覚を味わうということは、それ以上のことをすればどうなるか分かったものではない。それをするとにこにこ彼女は宣言しているのだ。恐ろしくないはずがない。
「待っ……」
「だぁめ」
「！？」
制止も虚しく唇を奪われる。舌は入れてくれない。唇から、甘く吸い付いて、舐め回されて、好き放題弄ばれる。その度ぞわぞわしたものが背中から這い登ってきて、足の指に不規則に力が入ってしまう。
けれど突き離せない。寧ろ自分から彼女を求めていく。覆い被さる彼女の背を腕に収めて抱きしめる。彼女は嬉しそうに笑い、ご褒美と言わんばかりに、背を抱き返しながら唇の隙間から舌を口内へ差し込んできた。
粘膜の触れ合う感覚。融け合うそれは普段の比じゃなく気持ちいい。鼻腔も肺も無遠慮に犯す豊潤なホワイトチョコの芳香。これだけで達してしまいそうなほどに甘美だ。
「蕩けた顔、かわいい」
思う様に息もできず、くたくたになってしまった俺を彼女が笑う。息のかかる距離。吐息さえ甘ったるく、しかし嘲笑ではない。仕方ない、と愛おしそうに口角を吊り上げるのだ。気の利いた言葉を返す余裕は無かった。
「うっさい」
「……チョコフォンデュ、だな。ちょっと背中向けてくれよ」
「あ？」
彼女の言いなりにはなりながらも疑問符を浮かべる。ただ、彼女がチョコになっていることを鑑みれば、絡め取られるのは間違いなく自分だろう。問題は、背を向けた俺に対して彼女が何をしでかすかだ。
どさり。背に感じる重みと体温。彼女のものでしかない。耳に吐息の掛かる距離にいる。それだけでぞくぞくする。これから彼女の齎す責め苦が自然と予想できた気がして、身震いした。
「――オマエさ、耳弱いよな」
覆い被されて身動きのとれない俺には最高の殺し文句だった。
「ふーっ」
反論する間も無く耳へ息を吹き付けられて、枕に顔を押しつけながらぶるぶる震えてしまう。焼ける。耳が焼けてしまう。大正解だと教えているようなものだ。けれど反応を止める術など無い。彼女の前では曝け出す以外にはほかない。くすくす。彼女の底意地の悪い声が聞こえる。
「どんな、味かな」
余裕綽々に彼女が次にすることを宣言する。俺にとっては処刑宣告に等しい。「Sweet Eatee」の薬効が脳内をよぎる。
くちゅり。ぞくっ。生暖かいものが右耳を撫ぜた。たった一度軽く耳を舐められただけ。なのに俺の体は意志に反して壊れたみたいにがたがた。自分が自分でなくなったようにびくびく。
「ちょっと酸っぱい……クランベリーだな」
それでも彼女の認識としては今のは飽くまでも味見でしかない。媚薬の効果も相まって気の遠くなりそうな期待が左耳を襲った。彼女の今の行動が味見なら、次はどこを責めるか予測するのは容易い。
やっぱりくちゅり。左耳の表面を這う舌に脳は収縮してざわざわした快感を身体中に射出する。口による愛撫で意識が飛びそうにながらも、それを更に欲する自分は否定しきれない。
「こっちはブラックベリー……きっとオマエはベリーになったんだな」
「あんま……似合ってないだろ」
「嘘つけ」
じゅるじゅる。口の減らない俺を彼女が容赦なく責める。ぬめぬめ這いずる舌は、実は既に俺の脳まで侵入しているのかもしれない。
「な、にが……っ」
なおも反論を続けようとしてもそれは叶わない。彼女の舌遣いは俺の言葉を遮る程度に蠱惑で有無を言わせない。脳まで入り込んだ彼女の舌は阻むものもなく思いのままに愛しき人を蹂躙する。舌で脳を溶かされる規格外の快楽が全身を襲い、何も考えられなくなる。
「アタシにとっちゃオマエはベリーみたいに小振りで可愛い果実だ。わかってるだろ？」
唾液に溶かされとろとろになった耳朶からは何の抵抗もなく彼女の言葉が滑り込んできて、まるでそれが世の真理のようにすら思える。それに一片の間違いはないと、それが全てであると思えてしまう。疑念すら起こらない。
だから彼女を抱きしめる。既に耐えられなくなったくらい溜まった熱の吐き出し場所を求めて、俺は彼女の体を向かい合わせる。
「ああっ……だからっ……」
「……オマエが出してくれるのは、きっと甘い、あまーい、練乳なんだろうな」
眼が合う。俺が惚れた他でもない眼に吸い込まれる。彼女が俺と秘所を合わせて腰を下ろす。ずぷり、とろとろ。お互いの両手を握り合う。不規則に握り締められるそれから気持ちが伝わってくる。待ちきれなかったのは彼女も同じなんだ。安堵。とろける単眼。準備はすっかりできていた。俺を迎え入れるぐちょぐちょに濡れた柔肉は逃げ場無く欲望の塊を迎え入れる。彼女が俺を求めて腰を振れば、何も考えることも、彼女を気遣うことさえできなくて、己の求めるままに腰を突きあげるしかできなくて。
「はぁっ……♥もっと、くれよ♥♥」
絡みつく雌の肉。囲まれた俺の分身は何ら対抗手段をもたず、それがくれる快楽を受け容れるしかない。弱いところをたっぷり責められ抵抗を失った俺には、彼女を拒む手段はもうない。壊れた。だから彼女にも壊れてもらおうと思う。ただただこの快楽に溺れていってほしいと思う。幸い彼女の弱いところは知っている。奥を突くんだ。ピンポイントではなく、弱点を微かにずらすように。
「〜〜〜っ♥♥♥オマエっ、まだ、こんなッ……♥♥♥♥」
ほら、簡単に崩れた。上体を起こして腰を振っていたはずの彼女は、簡単に俺の胸に頽れて、俺のされるがままになる。ここぞとばかりに俺は彼女の矮躯を両腕で抱きしめる。溜め込んだ想いを吐き出そうと抱きしめる。媚薬の所為で我慢は利かない。彼女が愛おしくて、ただ愛おしくて、たまらなくて……腰の動きは止まらない。
「あッ♥あ゛ッ♥ひぃぃ゛っ♥♥おねがい、なかで、だしてぇぇッ♥♥アタシもっ……♥♥♥」
肉壺から受ける愛の快感にばちばち視界がスパークする。それでも彼女には壊れてほしい。俺が彼女のことしか考えられなくなるくらいどろどろに融けてしまったように、彼女も限界まで俺のことを感じてほしい。昇ってくる。どうしようもない欲望が昇ってくる。彼女は示唆する。ぱんぱん。俺に示唆する。ぱちゅぱちゅ。それでいいと示唆する。共に昇る。昇りながら堕ちる。いとしい人とぎゅうっと抱きしめ合いながら、そこへ堕ちる。往き場所の決まった白濁が溢れ出て。
「〜〜〜〜〜〜〜っっっ♥♥♥♥♥♥♥♥」
鼻腔を支配する甘い香り。雄と雌の噎せ返ってしまうくらくらした香りのなか、視界に閃光奔る。登頂を境に愛しいひとへの欲望を、その最奥が止め処なく溢れていく。噴出を受けて彼女も最高の絶頂をその身に刻む。待ち望んだ甘楽園への到達を果たすと、俺達はいよいよ思考をも失う。これだけの甘い、甘ったるいくらいの快楽でも一回なんかじゃ全然足りない。だから、出しながらも快楽と甘味を求めて腰を振り合う。口と腰を絡ませ合うくらいじゃ物足りない。全身で余すところなくお互いを感じ合っていたい。だから俺達は堕ちていく。どろどろ溶けていく。止められはしない。夕日の朝日に変わるまで。
「まっ♥待っひぇ♥♥いま、イッひぇ♥♥♥♥」
「……お前、俺が待ってって言っても待たなかったよね」
「あ゛っ♥♥あ゛っ♥♥ごぇんなひゃいぃ♥♥♥だしながら腰ふるのだめ♥♥♥♥〜〜〜〜〜ッッ♥♥♥――――」
いつの間にかぐずぐずになった彼女の口を塞ぐ。とろけるホワイトチョコ。真っ白に染まるフォンデュ。彼女の色に染まるフォンデュ。撹拌されるベリーとチョコは、どこまでも甘く深く溶け合っていく。
――――――
――――
――
恐らく、今日を休む学生はそう少なくない。とりわけ魔物娘を自分のパートナーとした者ならば。ベッドの傍に置いた時計は、目覚ましの機能もろくに果たさずに10時ばかりをそれが誇りであるかのように指している。彼女は幸せそうな顔で寝たままだ。
何かいろいろ口に出すのも憚られるようなことを考えていた気がする。
……まぁ、考えるだけならタダだ。彼女に知られなければそれでいい。どうせ今日は休むんだ。ちょっとくらい心地の良い二度寝に興じたって誰も怒りやしないだろう。そもそも彼女は今寝ているし、言葉にしたって罰は当たらない。
「……ホワイトデー、楽しみにしててくれよ」
誰も聞いていないことは独り言だが、その言葉に彼女の口角が微かに上がってくれた気がした。でも、あまりに微かすぎて判らない。だから気のせいでしかない。これ以上彼女の意識を追及する必要もない。概して二度寝は甘美なるものである。どうせ休むならそこに落ちたっていい……それが、愛しいひととのものなら、尚更。
ぴっちり閉められたカーテンは、勤勉な太陽を遮って、柔らかな光を俺達にもたらし続けていた。
何の起伏も無い呆けた日常に突如現れた彼女。ゲイザーという単眼の魔物。大きな赤い一つ目に、背から生える眼の付いた無数の触手。血の気の失せた灰色の肌。手足に胸と局部を黒いスライムのようなもので覆っているだけの、小柄だが異様で刺激的な背格好。どうにもそんな異形に惹かれてしまったらしく、彼女と関係を持つ程度の仲になって、同棲を始めて最初のバレンタイン。
戸を開けたら、いつも通りに彼女が迎えてくれる。きっと、この日の特別な贈り物を添えて。そう考えていた。
「……おかえり。ハッピー、バレンタイン」
帰ると開口一番、少し躊躇いがちな彼女が腕を広げて迎える。彼女にとっては、少し歯の浮く台詞だったのだろう。その両手に贈り物が握られていると考えていたが故に、絶句せざるを得ない。てっきり眼を除けば白黒な彼女が待ち構えている、と安易ながらに思っていたのだ。
自分の目を疑った。色彩の認識能力が急におかしくなったのか。
「な、何か言えよ！ あ、アタシがヘンみたいだろ！」
言葉を失って立ち尽くす俺に彼女が触手を揺らして抗議する。未だ事態を上手く飲み込めない。
「いや、お前……どうしたんだよ、その体？」
「だからぁ、アタシがチョコだって……こと、だよ……」
尻すぼみになりながらも、彼女の言っていることは何も間違いではない。むしろ戸惑う俺には丁度理解するに易い説明だろう。言葉の通りだ。彼女は今、チョコレートだ。板状になったのではない。触手だの、髪だの……そういう彼女の体の黒い部分だけ、甘い甘い、ミルクチョコレートの色に変わってしまっている。いつもの俺なら、もっと皮肉の利いた言葉の一つでも返せたのだろうけど。
「あ、あぁ……えっと……じゃ、食べれば、いいの、か……？」
「お、おう……」
どうにもちぐはぐなやりとり。けれど彼女は右手を差し出す。彼女の腕を覆う、とろりとした茶色の液状のもの。鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、確かに甘ったるいカカオの香り。心の安らぐ、食欲をそそられる匂い。それは腕。いとしい人の手指。けれど口に含むことへの抵抗感は無かった。
ぱくり。人差し指と中指をまとめて口に含む。鼻腔に広がる芳醇で深みのある香り。舌に乗った指から甘みと苦みが同時に伝わる。
「んっ……」
「……甘い」
「そりゃそうだ。チョコなんだから」
「一体どうやって」
「ちょっと、薬を使ってな」
「薬？」
聞き返すと、彼女がリビングへ案内する。導かれるままに付いて行くと、確かにリビングのテーブルには見た事のないものが置かれている。少量の錠剤が入った「Sweet Eatee」というラベルの貼られた小瓶だ。甘い被捕食者……間違いではないが。彼女が瓶を手に取って解説を始める。
「これを食べるとしばらく体が甘くなるんだ。どう甘くなるかは服用したヤツの意志である程度自由にできるらしい」
「今日服用する女性は皆チョコ味になりたがるってわけか」
「それから、部位によって味に差異が出てくるらしい。この辺は飲んでからのお楽しみってヤツだな」
「部位によって……ね」
解説を聞いて悪い事を考えた俺は、全身スイーツと化した彼女を迷い箸をするようにねめつける。手は、見た目通りのミルクチョコだった。とすると、同じような色をした足や髪、触手も味は変わらないと思われる。残るは……
「な、なんだよ急に、じろじろ見て……んむ！？」
彼女が訝しがるが早いか、抱き寄せて唇を強引に奪い、舌を差し込む。彼女の手から瓶が抜け落ちて、がらんと大きな音を立てて床を転がっていく。
突然の事で彼女の口の動きは硬いが、舌を愛でる様に動かしているとすぐに動きは弛んだ。予想通り、ここはミルクチョコじゃない。もっともっと甘ったるい、濃厚で優しい味わいのホワイトチョコ。歯も舌も上顎も下顎も、どこを舐ってもとろける甘さ。唾液まで甘い。思わずずっと味わっていたくなる。口内から滲み出てくるのをどんどん嚥下する。
「ん、ちゅ、ふぅんん……ちょ、ちょっと、待って……」
息継ぎもせずに唇同士を密着させて貪っていると、息の切れた彼女がストップをかける。突き放された感じがして寂しいが、離れた彼女の息は苦しそうに上がっている。蕩けた顔で座り込んでいるところを見るに立っていられなくなったのだろう。行為に独りよがりな思いは厳禁だ。とはいえ、彼女が口付けだけでこうも敏感な反応を示したことはない。
「悪い、つい……ってお前、キスだけでそんなになったっけ……？」
「あれは、キスとか、甘噛みとか、口ですることに体が敏感になる効果も……あるんだよ」
訊ねてみればなるほど、要するに媚薬も兼ねているということだ。敏感になるのが口限定というところに拘りを感じる。どうしても食べろということなのか。
「……効果はすぐに出るぞ」
「？ 即効性か」
媚薬の類にとっては嬉しいものだろうが、彼女のその解説は今言わなければならないことでもない。それになんだか、彼女の謀ったような視線が気になる。……もしや。
「……今ので飲ませた？」
「ぴんぽーん」
してやられた。予め口に仕込んでおいたのかどうか知らないが、俺が唇を奪うのに乗じて俺にも同じ薬を飲ませたらしい。どう見ても俺のキスの虜になっていたくせに、こういうところはにひにひ笑って抜け目ない。何かと彼女は主導権を握ろうとするきらいがある。ちょっと強がりなのだ。俺はやれやれ溜め息を吐いた。だが。
「……お好きにどうぞ」
握りたがりでいい。彼女の好きなようにしてくれればそれで。
「言ったな」
彼女が寒気のする笑顔を浮かべ、俺を寝室へと運び去る。夕日の差すリビングには、落ちた瓶だけが乾いた音を立てて転がっていた。
日差しの強い時間帯なのでカーテンは閉めて。暖色の自然照明が二人だけの部屋を薄暗く照らす。お互いの輪郭は充分に確認できる程度に。昨晩も激しく愛し合ったダブルベッドに押し倒された。
被虐趣味があるとまでは言わない。が、彼女に振り回される自分は確かに存在しているらしい。人外の快楽に魅せられてしまった。人間とは違う存在。異形がもたらす背徳の快感。待ち望んでいる自分がいる。
「オマエの唇は、どんな味かな……」
抵抗する手段もなく横たわる俺を見て舌舐めずりをする彼女。捕食される小動物のように、体が震える。しかしこれは恐怖でなく、彼女がくれるであろう、身の毛のよだつような快楽への期待で……俺を狂わす大きな単眼がゆっくりと近づいてくる。
「ちゅ……」
唇を触れ合わせるだけの軽いキス。だったにも関わらず、自分の体は想定外にもびくんと跳ねていた。脳に静電気の走ったような感覚。あれだけで。
「イチゴ味だ。おいしいぞ。もっと食べたくなるくらい」
自分の味を褒められるというのは中々ない。そうだ、人体に元々味なんてないようなものだ。汗で塩辛くはなるだろうが、それ以上は、頭で錯覚させるしかないのだ。故になんだかこそばゆい。
そして恐ろしい。触れるだけのものであれほどの感覚を味わうということは、それ以上のことをすればどうなるか分かったものではない。それをするとにこにこ彼女は宣言しているのだ。恐ろしくないはずがない。
「待っ……」
「だぁめ」
「！？」
制止も虚しく唇を奪われる。舌は入れてくれない。唇から、甘く吸い付いて、舐め回されて、好き放題弄ばれる。その度ぞわぞわしたものが背中から這い登ってきて、足の指に不規則に力が入ってしまう。
けれど突き離せない。寧ろ自分から彼女を求めていく。覆い被さる彼女の背を腕に収めて抱きしめる。彼女は嬉しそうに笑い、ご褒美と言わんばかりに、背を抱き返しながら唇の隙間から舌を口内へ差し込んできた。
粘膜の触れ合う感覚。融け合うそれは普段の比じゃなく気持ちいい。鼻腔も肺も無遠慮に犯す豊潤なホワイトチョコの芳香。これだけで達してしまいそうなほどに甘美だ。
「蕩けた顔、かわいい」
思う様に息もできず、くたくたになってしまった俺を彼女が笑う。息のかかる距離。吐息さえ甘ったるく、しかし嘲笑ではない。仕方ない、と愛おしそうに口角を吊り上げるのだ。気の利いた言葉を返す余裕は無かった。
「うっさい」
「……チョコフォンデュ、だな。ちょっと背中向けてくれよ」
「あ？」
彼女の言いなりにはなりながらも疑問符を浮かべる。ただ、彼女がチョコになっていることを鑑みれば、絡め取られるのは間違いなく自分だろう。問題は、背を向けた俺に対して彼女が何をしでかすかだ。
どさり。背に感じる重みと体温。彼女のものでしかない。耳に吐息の掛かる距離にいる。それだけでぞくぞくする。これから彼女の齎す責め苦が自然と予想できた気がして、身震いした。
「――オマエさ、耳弱いよな」
覆い被されて身動きのとれない俺には最高の殺し文句だった。
「ふーっ」
反論する間も無く耳へ息を吹き付けられて、枕に顔を押しつけながらぶるぶる震えてしまう。焼ける。耳が焼けてしまう。大正解だと教えているようなものだ。けれど反応を止める術など無い。彼女の前では曝け出す以外にはほかない。くすくす。彼女の底意地の悪い声が聞こえる。
「どんな、味かな」
余裕綽々に彼女が次にすることを宣言する。俺にとっては処刑宣告に等しい。「Sweet Eatee」の薬効が脳内をよぎる。
くちゅり。ぞくっ。生暖かいものが右耳を撫ぜた。たった一度軽く耳を舐められただけ。なのに俺の体は意志に反して壊れたみたいにがたがた。自分が自分でなくなったようにびくびく。
「ちょっと酸っぱい……クランベリーだな」
それでも彼女の認識としては今のは飽くまでも味見でしかない。媚薬の効果も相まって気の遠くなりそうな期待が左耳を襲った。彼女の今の行動が味見なら、次はどこを責めるか予測するのは容易い。
やっぱりくちゅり。左耳の表面を這う舌に脳は収縮してざわざわした快感を身体中に射出する。口による愛撫で意識が飛びそうにながらも、それを更に欲する自分は否定しきれない。
「こっちはブラックベリー……きっとオマエはベリーになったんだな」
「あんま……似合ってないだろ」
「嘘つけ」
じゅるじゅる。口の減らない俺を彼女が容赦なく責める。ぬめぬめ這いずる舌は、実は既に俺の脳まで侵入しているのかもしれない。
「な、にが……っ」
なおも反論を続けようとしてもそれは叶わない。彼女の舌遣いは俺の言葉を遮る程度に蠱惑で有無を言わせない。脳まで入り込んだ彼女の舌は阻むものもなく思いのままに愛しき人を蹂躙する。舌で脳を溶かされる規格外の快楽が全身を襲い、何も考えられなくなる。
「アタシにとっちゃオマエはベリーみたいに小振りで可愛い果実だ。わかってるだろ？」
唾液に溶かされとろとろになった耳朶からは何の抵抗もなく彼女の言葉が滑り込んできて、まるでそれが世の真理のようにすら思える。それに一片の間違いはないと、それが全てであると思えてしまう。疑念すら起こらない。
だから彼女を抱きしめる。既に耐えられなくなったくらい溜まった熱の吐き出し場所を求めて、俺は彼女の体を向かい合わせる。
「ああっ……だからっ……」
「……オマエが出してくれるのは、きっと甘い、あまーい、練乳なんだろうな」
眼が合う。俺が惚れた他でもない眼に吸い込まれる。彼女が俺と秘所を合わせて腰を下ろす。ずぷり、とろとろ。お互いの両手を握り合う。不規則に握り締められるそれから気持ちが伝わってくる。待ちきれなかったのは彼女も同じなんだ。安堵。とろける単眼。準備はすっかりできていた。俺を迎え入れるぐちょぐちょに濡れた柔肉は逃げ場無く欲望の塊を迎え入れる。彼女が俺を求めて腰を振れば、何も考えることも、彼女を気遣うことさえできなくて、己の求めるままに腰を突きあげるしかできなくて。
「はぁっ……♥もっと、くれよ♥♥」
絡みつく雌の肉。囲まれた俺の分身は何ら対抗手段をもたず、それがくれる快楽を受け容れるしかない。弱いところをたっぷり責められ抵抗を失った俺には、彼女を拒む手段はもうない。壊れた。だから彼女にも壊れてもらおうと思う。ただただこの快楽に溺れていってほしいと思う。幸い彼女の弱いところは知っている。奥を突くんだ。ピンポイントではなく、弱点を微かにずらすように。
「〜〜〜っ♥♥♥オマエっ、まだ、こんなッ……♥♥♥♥」
ほら、簡単に崩れた。上体を起こして腰を振っていたはずの彼女は、簡単に俺の胸に頽れて、俺のされるがままになる。ここぞとばかりに俺は彼女の矮躯を両腕で抱きしめる。溜め込んだ想いを吐き出そうと抱きしめる。媚薬の所為で我慢は利かない。彼女が愛おしくて、ただ愛おしくて、たまらなくて……腰の動きは止まらない。
「あッ♥あ゛ッ♥ひぃぃ゛っ♥♥おねがい、なかで、だしてぇぇッ♥♥アタシもっ……♥♥♥」
肉壺から受ける愛の快感にばちばち視界がスパークする。それでも彼女には壊れてほしい。俺が彼女のことしか考えられなくなるくらいどろどろに融けてしまったように、彼女も限界まで俺のことを感じてほしい。昇ってくる。どうしようもない欲望が昇ってくる。彼女は示唆する。ぱんぱん。俺に示唆する。ぱちゅぱちゅ。それでいいと示唆する。共に昇る。昇りながら堕ちる。いとしい人とぎゅうっと抱きしめ合いながら、そこへ堕ちる。往き場所の決まった白濁が溢れ出て。
「〜〜〜〜〜〜〜っっっ♥♥♥♥♥♥♥♥」
鼻腔を支配する甘い香り。雄と雌の噎せ返ってしまうくらくらした香りのなか、視界に閃光奔る。登頂を境に愛しいひとへの欲望を、その最奥が止め処なく溢れていく。噴出を受けて彼女も最高の絶頂をその身に刻む。待ち望んだ甘楽園への到達を果たすと、俺達はいよいよ思考をも失う。これだけの甘い、甘ったるいくらいの快楽でも一回なんかじゃ全然足りない。だから、出しながらも快楽と甘味を求めて腰を振り合う。口と腰を絡ませ合うくらいじゃ物足りない。全身で余すところなくお互いを感じ合っていたい。だから俺達は堕ちていく。どろどろ溶けていく。止められはしない。夕日の朝日に変わるまで。
「まっ♥待っひぇ♥♥いま、イッひぇ♥♥♥♥」
「……お前、俺が待ってって言っても待たなかったよね」
「あ゛っ♥♥あ゛っ♥♥ごぇんなひゃいぃ♥♥♥だしながら腰ふるのだめ♥♥♥♥〜〜〜〜〜ッッ♥♥♥――――」
いつの間にかぐずぐずになった彼女の口を塞ぐ。とろけるホワイトチョコ。真っ白に染まるフォンデュ。彼女の色に染まるフォンデュ。撹拌されるベリーとチョコは、どこまでも甘く深く溶け合っていく。
――――――
――――
――
恐らく、今日を休む学生はそう少なくない。とりわけ魔物娘を自分のパートナーとした者ならば。ベッドの傍に置いた時計は、目覚ましの機能もろくに果たさずに10時ばかりをそれが誇りであるかのように指している。彼女は幸せそうな顔で寝たままだ。
何かいろいろ口に出すのも憚られるようなことを考えていた気がする。
……まぁ、考えるだけならタダだ。彼女に知られなければそれでいい。どうせ今日は休むんだ。ちょっとくらい心地の良い二度寝に興じたって誰も怒りやしないだろう。そもそも彼女は今寝ているし、言葉にしたって罰は当たらない。
「……ホワイトデー、楽しみにしててくれよ」
誰も聞いていないことは独り言だが、その言葉に彼女の口角が微かに上がってくれた気がした。でも、あまりに微かすぎて判らない。だから気のせいでしかない。これ以上彼女の意識を追及する必要もない。概して二度寝は甘美なるものである。どうせ休むならそこに落ちたっていい……それが、愛しいひととのものなら、尚更。
ぴっちり閉められたカーテンは、勤勉な太陽を遮って、柔らかな光を俺達にもたらし続けていた。
17/02/17 02:44更新 / 香橋