連載小説
[TOP][目次]
Accomplice
 遥か聞こえる鐘の音。
 平原を伝う追風。
 振り向けばそこに君。

 都市へ向けて舗装された道を僕達は歩く。追風は僕達の足取りを軽やかにしてくれているが、その温度は少し冷たい。昨晩は今の季節にしては珍しく冷え込んだから、イヴが体調を崩していないかどうか心配だ。
「へっくし!」
「大丈夫? きのうは寒かったから……」
「大丈夫だよ……はは」
 自分の心配もしておかなければならないようだ。僕がイヴに心配されていては彼女に面目が立たない。
 野営地を畳んで朝から歩き始めて暫く、目的地は見えてきた。アルマリーク共和国首都、魔法都市ヴェルドラ。一週間の旅路など、勇者していた頃は大した時間に感じなかったはずだが、僕が想像していた以上に子連れというのはままならないものらしい。集落を出てからはイヴの調子も良く、愚痴を垂れることもなく平穏に進んでくれた。
 しかし、その平穏は一抹の疑問を運んでくる。勇者の頃と比べて、魔物の襲撃が極端に少ないことだ。恐らくは、傍にイヴという魔物がいるからだろう。魔物は、狙う男性が既に魔物と結ばれている場合には手を出してはならないという暗黙の了解があると聞いたことがあるが、この場合僕の相手は彼女ということになるようだ。魔物から見れば、身体が成熟しているかどうかは二の次なのだろうか。要らぬ面倒事が起こらないのは有り難いことだが、些か複雑な気分ではある。ハンスなんかに聞かれたら小突かれそうだが、何か周囲の魔物を騙しているようで気が引ける。そもそも魔物と行動を共にしている時点で大概だが。
「エリス、あれ」
 後ろを歩くイヴが前方を指差す。彼女にも見えたらしい。彼女が指差した先には、最上部に取り付けられた巨大な鐘が目を引く、円錐状にそびえる巨大な建造物。そして、そこに並び立つ雄大な観覧車。あと一刻も歩けば到着するだろう。
「ああ、あれがヴェルドラだ。もうひと踏ん張りだね」
「うん」
 子供の順応力とは目を見張るもので、最初に比べれば、イヴの文句も大分減ったように思う。最初は歩くのが疲れただの野宿は嫌だの言っていたのを考えると、目覚ましい成長だ。保護者もとい同行者としても感慨深いものがある。
「ね、エリス」
 ヴェルドラに着いたら労いの一つでもしてあげよう、そんなふうに考えていた矢先だった。
「どうした?」

「パパとママ、いるかな」

 その言葉と同時に遠くの街の鐘が高らかに鳴り響き、その鐘のように心を撞かれた。鐘の音が身体の内側へ滑り込むようにして響き続けている。本人にとっては何の気なしの質問だろうが、そんな感覚がした。
「……いるよ、きっとね」
 少しだけ意識を奪われたが、すぐに言い返した。そうでなければ、僕も困るから。
 昼前の綿雲は、その追い風に流されてゆく。



 ヴェルドラの雑踏はこれまでの街や集落より熱っぽくて、甘ったるい。魔物との交流が盛んであるだけに、道をゆくカップルの数もこれまでと比べて段違いだった。前に来たときよりも多く感じる。多分、もう一年もすれば魔界化するだろう。
 イヴが今にもあの人たちの真似をしよう、と言い出しそうで気が気でないが、珍しいことにその様子は今のところ微塵もなく、寧ろいつも以上に静かなくらいだ。事が円滑に運んでくれるならそれに越したことはないが、何かが足りない感じがする。彼女がこういった場所で賑やかになるのに慣れてしまった所為だろうか。
「前より、雰囲気が緩くなってる気がする。魔物の数も増えてるみたいだ」
 結局、静かな彼女に代わって僕が騒ぎだすのだった。
「前って?」
「ハンスって人と一緒にね。彼は魔物が嫌いな人だから、落ち着かなかったみたいだけど」
「エリスのともだちなの?」
「ああ」
「二人で来たの?」
「そうだ。あの時はハンスが倒れて……」
「そうなの」
 質問とイヴの口調に違和感を感じた。いつも通りに思えるが、何か重いというか、凄味の利いた感じがして、質問というよりは詰問されているような気がした。
「イヴ? 何か気になることでも……」
「何でもないよ」
 立ち止まり、彼女の方へ向き直ってみても、言葉を遮るようにしてすたすた前を歩いていってしまった。明らかな態度の変わりように思わず目を丸くする。
 つんとした表情といい、原因は分からなくもないが、どうやらイヴが不機嫌になってしまったのは確かなようだった。
「エリス、おいてっちゃうよ」
「ご、ごめん」
 ずんずん歩いていくイヴに急かされて、止まっていた足を慌てて動かす。歩く動きに合わせて小さく揺れる背中を見ながら、可笑しいような嬉しいような複雑な心持ちにさせられた。そういえば前にもエリスはわたしのものだとか、そんなことを言っていた覚えがある。親しい人間が周囲にいなかった分、それに対する独占欲が強く出ているのかもしれない。
 何にしても、このままヘソを曲げられていたのでは決まりが悪い。機嫌を取り直してもらえることを言わなければならなかったが、そういう時に限って頭は空回りするばかりで、彼女の雰囲気に飲まれてしまって、一歩後ろを歩くだけの歯痒い位置に落ち着いた。
「……また来るもん」
 言葉を選ぼうともたついていると、イヴの足がぴたりと止まり、彼女の口から何かが告げられた。ぼそりと言われて思わず立ち止まる。
「え?」
「エリスといっしょに、また来るもん。絶対」
 振り向いた彼女は赤らんだふくれっ面をしていて、また、その表情と言葉に僕はひどい安心感を覚えた。自分でそれに気付くとまた胸が締め付けられるような思いをしたが、彼女のこの言葉には観念せざるを得ない。彼女自身が出してくれた助け舟だ、乗らないわけにもいかないだろう。
「……そうだね。また来よう、二人で」
「絶対だよ」
「絶対だ」
 休日に親に遊んでもらう約束を取り付ける子供。念を押す彼女の表情を見た率直な感想だった。そういう約束は何がしか起こって反故にされてしまうものだろうけど、彼女はそういう道理を知ってか知らずか、周到に予防線を張ろうとする。
「ゆびきり」
「またかい?」
「ひとりで来るなんて、やだもん」
 何ということか、もうこの約束からは逃れられないようだ。イヴにとってこれは、彼女を決して独りにしないという約束と同じほどの重量をもっているのか。今日の彼女は舟ばかり出してくれるようだ。
 如何にイヴが僕を慕ってくれているとしても、イヴの親を見つければ、僕は暫く彼女の元から離れることになる。……しかし、彼女が然るべき年月を経て、それでもなお僕に対する気持ちが変わらなかったその時は――駄目で元々の希望でも、無いよりはずっとマシに違いない。

 あの時と同じように僕は目線を彼女に合わせて、お互いの小指を絡め合った。
 相も変わらずなんて綺麗な指だろう。本当に、何にも影響されていないような白くて繊細な指。
 けれども、少しだけくっきりして熱い感触をもっていた。彼女も旅慣れしてきたのだろうか。
 透き通ったガラス玉のような碧い眼は、成長したでしょ、と言外に訴えかけている気がした。

 指切りは約束の証としての行為なのだろうけど、それでさっきまで凝っていたイヴの表情がいとも容易く綻んでいくのを見ると、彼女は単にこれをしたかっただけなのではとも思う。それは流石に自意識過剰がすぎるだろうか。
「えへへ……みんなもお祝いしてくれてるみたい」
「皆……? あっ」
 ともあれ、イヴが元に戻せて幸運だった。……ところで僕は彼女を気にかけすぎているだろうか。前は、周りが見えなくなるほど彼女に対して意識を向けていただろうか。
 親魔物派とは、それが身体的なものであれ精神的なものであれ、人と魔物との繋がりを推進するものだ。たとえそれが他人事だったとしても、人と魔物が手を取り合うきっかけになることを見れば、ささやかにそれを祝福するだろう。人間ですら、誰かと誰かが結ばれるのを見て晴れがましい気分になるのだから。
 いつしか、街を通り過ぎゆく雑踏は僕たちを見ていた。ちらと横目で見て僅かに頬を緩める者や、露骨な笑顔でいる者もいた。そんな雰囲気に慣れていない僕は、聞こえてもいないのに喝采を受けている気さえした。
 彼らにとっては矢張り、外見上の問題など瑣末なものでしかないのだろう。心が、完全に魔物側に傾いてしまっている。欠伸が出るほど良い考え方だと思う。
 そうやって冷静に分析しようと誤魔化したが、結局顔に集まる熱は止められず、今度は僕がイヴを急かす番になった。
「……ほら、行くよイヴ」
 先程イヴがそうしたように、淡々と言って淡々と歩きだす。咄嗟にとった動きだけれども、こうしても周りには照れ隠しにしか映っていないのだろう。その裏にある事情に関しては、彼らは考慮するべくもないのだ。
 僕の動きはあまりに急いていた。子供の足は細い。バランスを取る能力にも乏しい。独りよがりな真似をすれば、しっぺ返しをされる。走ろうとした彼女の足は、よった糸のようにもつれて。
「ま、待ってエリス……あっ」

 彼女の体が弾かれたように前へ傾いた。そうしたらどうなるか、なんて考えるよりも先に体が前に出てしまっていた。
 あの時よりも少しだけ、温かいだろうか。胸元に受け止めた彼女の顔は耳まで赤くなっていた。おずおずと上がった彼女の目線が自分の目と合った瞬間、心臓を鷲掴みにされるような感覚を覚えた。
 そうして思わず失いそうになった意識は、どこからか聞こえた口笛で取り戻された。ぴゅうと甲高い音がして、はっと辺りを見回すと、冷めかけた熱がぶり返す。周りはある意味あの時以上に居心地の悪い、にやにやした視線を向けていて、僕は彼女を隠す必要などないはずなのに、一刻も早くこの場から立ち去らなければならなかった。
「……二度目」
「ご、ごめんなさい……」
「いいから早くっ!」
 上から見ればなんて傷ましいのだろう。僕らは、いや、僕は俯き加減に惨めな敗走をした。イヴは恥ずかしげだったが、それは僕に対する申し訳なさと、それと……去り際にお姫様抱っこなんて物騒なことを言った奴がいた。誰がやるものか。



 行先を考えずに走り、止まったのはやけに騒がしい門の前。夢中で走ったからか、僕もイヴも息が上がってしまっている。イヴなんかは顔も真っ赤だ。少し走り過ぎてしまったか。
「少し休もうか。顔も赤いし」
「……え?」
 ごく自然に気を遣ったつもりだったが、意に反して彼女の反応は奇妙だった。こちらに向けた顔は確かに赤いが、加えて目がどこか虚ろでいる。走って疲れたにしては変だ。
「休もう。走って疲れただろ? 負ぶるから」
「大丈夫……」
 生じた疑念はここへ来て確信に変わった。イヴが発した声はあまりにか細く、それでも歩こうと動かしている足は真っ直ぐに進んでいない。
「大丈夫って……足元がふらついてるじゃないか! あんたやっぱり……!」
「だい……」
 彼女の言葉はそこで途切れて、僕の目の前で糸の切れたように街路の石畳に倒れた。ゆっくりと、己のずさんな目を恥じる余裕もあるくらいに。
「イヴッ……!」
 直ぐに駆け寄り、抱きかかえてイヴの額に手を当てる。街へ入る前から頭の隅でもしかしたら、と思っていた事は的中してしまっていた。熱だ。咳もある。
 薬が無いわけではないが、ここで飲ませるよりも医者に掛かって専門的な投薬をしてもらった方が効果的だろう。ともなれば一刻も早く診療所に彼女を連れて行かなければならない。辺りを見回すも、視界には診療所と思われる建物は見つからない。腕の中で苦しそうに息を荒げているイヴを見ると、気持ちばかりが焦ってくる。
 結局どこかで飛ばされた野次の言いなりになってイヴを抱えたが、今はつまらないことを気にしている場合ではない。急ぎ、最寄りの診療所を探して足を踏み出そうとした時だった。
「……もしかして、エリス君?」
 呼びかけた声は、いつか聞いた穏やかな調子で。



「……旅の疲れが出たんでしょうね。二、三日安静にしていれば、大丈夫でしょう」
「よかった……ありがとうございます」
「いいんですよ、他ならぬエリス君ですし」
 深く頭を下げる僕に対して柔和な表情を見せている男性は、バーム先生だ。先生には以前の旅でハンスが倒れた際に世話になった恩があった。ハンスが治療を終えて街を出た後、野盗に襲われている誰かを僕とハンスで助けたところ、その誰かが先生だったり、依頼を達成したと思ったら依頼主が先生だったこともあるのを考えると、僕と先生には何か奇妙な縁があるらしい。
 イヴが倒れて僕が慌てていたところを、彼女を診察させてほしい、とまたも先生が名乗りを上げてくれたのだ。
 たれ目がちで如何にも人の良さそうな人相をしていたが、久しぶりに見てもそれは相変わらずで、そのうえ数段大人っぽく見えた。
「解熱剤と咳止め、出しておきますね」
 問診票にペンを走らせながら言うのは、マンドラゴラのマナさんだ。
「しかし……驚きました。先生がご結婚なさってたなんて」
 言わずもがな、彼女は先生の婚約者だ。以前の診療所には魔物の影も形も無く、先生もその方面には興味が無さそうだったが……親魔物領に住んでいる以上、こうなるのは必然とも言える。
「いや、製薬用にマンドラゴラの根があると便利ですからね」
 至って冷静な面持ちで返す先生。こう聞くと理由も相まって何だか冷たい人にも見えてくるが、そこですかさずマナさんがフォローを入れた。
「なんて言ってますけどね、私が住んでいた森にはもっと他のマンドラゴラもいたんですよ? それも群生で」
「それは君がたまたま目に入っただけですよ」
 先生が間髪入れずに反論するが、マナさんは負けじと更に返す。
「うそ、花びらが含んでいる魔力を診ればどんな体格のマンドラゴラが植わっているのか判るじゃないですか。先生、随分長く私の花びら触ってましたよね?」
「う……」
 マンドラゴラは地中から引き抜かれた時点で成長が止まる。引き抜く時期が早ければ幼い少女の姿で、遅ければ成熟した女性の姿で現れると、昔ハンスは教えてくれた。どんな姿のマンドラゴラが植わっているのか見分ける方法までは知らなかったが、先生が反論しあぐねている辺り、図星を突かれたのだろう。マナさんの方が一枚上手らしい。
「……お大事になさって下さい」
「うふふ」
「ご馳走様でした」
 先生は認めざるを得ず、降伏の証に話題を逸らした。となると、マナさんが先生のタイプということになる。引き抜く時期が遅かったのか、マナさんは気品に溢れた淑やかな佇まいで、グラマーな体型と相まっていかにも大人の女性といった感じだ。身長の高い先生と並んでいる姿はかなり見栄えのいいカップルで、少し羨ましい。馴れ初めを囃し立てたくもなるというものだ。
 そそくさとカルテを書き始める先生を見る。まんまと言いくるめられていたが、これでも先生は相当に頭が良い。人間と魔物、異なる種族の両方に対して診察を行える医師は稀だ。魔物といっても種族毎に差異はあり、全ての魔物を診れるわけではないと言っていたが、それでも多種族に対して医療的措置を行えるのは並の頭では出来ないことだ。
 ハンスの時といいイヴの時といい、先生への恩は大きい。
「あ、エリスさん」
 診察台に横たわっているイヴを抱きかかえようとしたところで先生に呼び止められる。イヴについてだろうか。
「宿はもう、取りましたか?」
「いえ、まだですが……」
「では、家に泊まっていきませんか?」
「えぇ? そんな……ご迷惑でしょう?」
 僕は当惑した声を上げずにはいられなかった。病人をそのまま泊めてしまう診療所が他にどこにあるだろうか。設備が整っている分、確かにイヴを安静にさせるには良いかもしれないが、いくら多少顔見知りの仲になっているとはいえ、これ以上世話になってしまうのも申し訳が立たない。
「いえいえとんでもない。ハンス君の時は都合が付きませんでしたし」
 そう言えば、野盗から助けた恩がどうとかでそんな話をされたことがあった。その時はハンスがやや強引に断ったので事無きを得たのだが、僕にはそこまでの事はできないし。
「しかし、折角夫婦二人でいらっしゃるのに……」
「あっ、私達のことなら全然気にしないでも大丈夫ですよ」
「いやそうじゃなくてですね……」
 マナさんまでノリノリになっている。このままでは場の雰囲気に流されかねない……というか既に流されてしまっている気もする。煮え切らない僕に見かねたか、先生が切り出した。
「……実を言うとですね、アリスをもっと診たいっていうのもあるんですよ」
 先生のその一言で場の空気が変わった。僕もそうだが、それ以上にマナさんの雰囲気が。無論よくない方向へ。
「せ・ん・せ・い?」
 にこやかに、だが刺す様な殺気を向けるマナさん。ここまでが穏やかな雰囲気だっただけに迫力は満点だ。
「いや……いや違う、別に変な意味で言った訳ではなくて、ほら……アリスは魔物の中でも希少な種族だし、あまり診察の経験も無いから、雰囲気だけでも知っておきたいなって、はは……医者としての性分みたいなものだよ、性分」
 先生が必死に弁解しようとする中、口調が素に戻っているのが気にならない程の疑問符が、僕の頭の中で飛び交っていた。一触即発の二人にも関わらず、僕はそこへ割って入らずにはいられなかった。僕がとんでもない思い違いをしている可能性が高かったからだ。
「待っ……ちょっと待って下さい。何ですか、アリスって……彼女は、イヴはサキュバスじゃないんですか!?」




「――と、以上がアリスの凡その特徴です」
「そんな性質が……」
 微弱な誘惑の魔力を放ち、獲物に自分を襲わせる。性交中の記憶は行為が終わると全て消失し、身体が処女の状態に戻ってしまう。性行為による魔力はアリスとしての性技術や誘惑の力を強めていく。……永遠の少女。先生の口から語られたアリスという種族の性質は、いずれも僕に大きな衝撃を与えた。アリスという魔物の特性は、僕が抱えていたイヴへの苦悩の悉くを霧散させてしまったからだ。僕がイヴに保護者以上の感情を抱いていることも、耐え切れずに彼女を襲ったことも、それを彼女が覚えていないことも、全て辻褄が合う。僕の頭を苦しめていたのはそもそも存在すらしていない幻想だったということになる。
 頭を抱える僕に先生が決まりの悪そうに声をかけた。
「相当、悩んでこられたようですね」
「……ええ」
「でも、これでイヴちゃんを心置きなく愛せるのではないのでしょうか?」
「よさないか、マナ」
 先生がマナさんの迂闊な物言いを窘めるのは、彼が人間であり、また勇者だった僕を知っているからだろう。二人の態度がどうであれ、僕を慮ろうとしていることに変わりはない。僕は切り込んだ。
「いえ……先生、大丈夫です。マナさんの言う通りですよ」
「しかし……」
 努めて穏やかな顔にするよう心掛けた。それが先生に筒抜けになっているとしても、今の僕は事をなるべく前向きに考え続けるべきだった。先生もそれを察したのか、食い下がりかけはしたが、それ以上は何も言わなかった。
 僕は診察台に横たわるイヴを見た。倒れた時よりは幾分落ち着いたようだが、息は平時と比べて上がったままだ。倒れていることを見ているのが、つらい。
「今は、イヴを安静にさせなければなりません。……本当に、お邪魔してもよろしいのですか?」
「寧ろ歓迎したいくらいですよ。診察室を出た通路の奥が私達の家に繋がっています。マナ、よろしく」
 マナさんは頷くと、僕を案内しようと診察室を出た。僕も続いてイヴを抱きかかえ、先生へ会釈をして診察室を後にした。



 バーム先生夫妻の診療所のすぐ後ろにある家は、この付近としてはやや小ぢんまりしている。医者という職業柄、住まいは豪奢でもおかしくはないだろうが、敢えてそうしないのを見るに先生の人柄が窺える。
 建って新しいのか、まだ塗料の臭いが薄く残っている。吹き抜けの階段を上り、右の突き当りの客間へ導かれた。中のシングルベッドへイヴを寝かせると、マナさんを薬を取りに部屋を出て行った。少々ばつの悪い様子で。
 テーブルの傍らの椅子をベッドの横まで動かして腰掛ける。イヴの息は、依然荒いままだ。目も覚めていない。
「イヴ……」
 先生の口から語られたアリスという魔物が、さっきから頭の中を滅茶苦茶に飛び回っている。僕はその自由軌道が生み出す疑問の羅列に翻弄されていた。
 イヴが僕に語ってくれた夢の内容は……彼女の記憶を示しているのかもしれない。最早、不思議の国は御伽話の産物ではない。かつてその体験を語ったかの精神異常者は全く健常だったのだ。それにしても突拍子が無さすぎるだろうか。
 ただ、彼女の夢は何だか少なくない実感を伴っている気もした。語る彼女の言葉は決して流暢ではなかったが、にも関わらず僕はその情景を想像するに難くは無かったのだ。
 仮にそうだとして、不思議の国はどこにあるか知れない。誰も知らないのだ。当てにするにはあまりに頼りない。やはり、少しずつ手掛かりを見つけていくしかないのだろう。
 そうだ。結局やることは大して変わりはしないし、マナさんの言った通りだ。僕がイヴに惹かれるのは、イヴが放つ誘惑の魔力のせい。それに中てられ彼女に不貞を働くのも不可抗力。寧ろそうして睦びあう方が自然。
 ……僕が散々それで悩んだのは何だったんだ? 僕の葛藤は完全に行き場を失っているじゃないか。それら全て放りだして何も考えずに彼女と共に在れというのか。あまりに虚ろだ。あまりにやり場がない。
 僕が呟いた名はいよいよ客室に溶けて消えようとしている。
「エリス……」
 そうさせまいとしたのだろうか、僕に応えるように彼女が僕の名を呼んだ。今にも消え入りそうだった。
「イヴ?」
 思わず立ち上がり、横たわる彼女の顔を覗き込む。彼女は薄く目を開けてこちらを見つめた。取り戻した意識に僕は安堵せざるを得ない。
「ごめんね、エリス」
「いいんだ、僕が気付かなかったせいで……謝るのは僕のほうだ、ごめん。今は、休んでくれ。もうすぐ、薬がくるから」
「……ありがとう」
 すっかり火照ってしまった彼女の額を撫でながら、僕は懺悔でもするように平伏して、彼女に休息を促した。撫でていると少しずつ、彼女の苦しげな表情が安らいでくる。イヴがそのまま目蓋を閉じようかというとき、ノックの後に戸が開いて、薬の乗ったトレイを持ったマナさんが入ってきた。
「お待たせしました。お薬ですよ」
「ありがとうございます、マナさん」
 トレイには薬液の入った瓶と、それを入れるコップが乗っている。瓶とコップはいずれも子供用の小さいものだった。
 毛布をめくり、背中に手を回してイヴの身体を起こす。見ると、イヴは何故だか不安な顔をしている。
「イヴ?」
「おくすり、にがい?」
 ……幼い彼女にとっては、確かに重要なことだ。苦くとも治すには飲むしかないのだが、そう言っても彼女を刺激するだけだろうし、根拠もなく安心させようとしては、いざ苦かった時に僕が信頼を失ってしまう。
「飲まなきゃ、よくならないから……」
「うぅ……」
 半泣きで僕を見るイヴ。僕にはどうにもできず、縋るような視線に僕はマナさんの方を見遣る。
「甘く味付けしてありますから、大丈夫ですよ」
 見かねたマナさんが助け舟を出してくれた。僕らのような患者を相手にするのも一度や二度ではないのだろう。
「……ほんと?」
「ほんとうです」
 イヴは疑り深い目をマナさんに向けるが、当の本人は自身有り気に微笑みながら、瓶の中の薬液をコップの中に注いだ。コップの大きさに対して薬液の量は少なく、子供でも一飲みにできる程度だ。
 それをイヴが飲むのだが、どうしてかコップは僕に差し出される。オレンジ色の薬液の表面に、怪訝な顔の僕が映る。
「はい、飲ませてあげてください」
「僕が?」
「その方が、イヴちゃんも安心できそうですよ?」
 イヴがマナさんの言葉に頷く。成程言われてみれば納得だ。本人がそのまま飲むよりは、信頼のおける誰かに飲ませてもらう方が安心感は違うだろう。
「イヴ、それでいい?」
「エリスなら、平気だよ」
 彼女もそれで構わないと言うので、イヴさんからコップを受け取ってイヴの口元へ近づけていく。
「口移しで飲ませるラブラブな患者さんも時々いますけどね、うふふ」
 僕の手がマナさんの言葉でぴたりと止まる、それは動揺だ。しかし気付いた、今は寧ろ止めてはいけない。イヴがいる。
「うつったりしないの?」
 そのまま飲ませようとするよりも先にイヴが訊いた。嫌な予感がする。
「先生が言うには、魔物と人間の風邪はそれぞれ性質が違うので、うつったりしないんだそうですよ」
「そうなんだ……」
 マナさんの穏やかな微笑みは未だ絶えず、真意の測れない深みを湛えている。これは天然なのか確信犯なのか。
 イヴは既に興味津々な様子で頷いている。とても、嫌な予感がする。
「早く飲んじゃおう、イヴ」
「ね、エリス」
 急かす僕を意に介さず、どこかわくわくした様な、期待に満ちた目を向けるイヴ。そんな目で僕を見ないでくれ。凄く嫌な予感がする。
「な、何かな」
「くちうつし、してほしいの」
 もう半ば予想出来ていたおねだりが、彼女の口から告げられた。晒される僕は救いの目をマナさんに向けるも、彼女はそんな僕の意を欠片も読み取ってはくれていないような微笑みに終始している。いいから応じろと言外に訴えている気さえする。
 当たり前だ。そもそも魔物が口移しだなんて、そんな真似を咎める理由はない。嘗ての葛藤に囚われていた僕ならいざしらず、イヴの正体を知ってしまった僕には彼女の懇願を無下にする手段は無い。
 そもそもマナさんがあんなことを呟いた時点で僕は詰んでいたのだ。……覚悟を決めるしかない。
「マナさん……後ろ、向いててもらえますか」
 とはいえまだ僕には、人目も憚らずにそんな真似が出来るほど成熟してもいない。音を聞かれてしまうとしてももう顔から火が出そうだけれども、マナさんは素直に応じてくれた。そこまで非道な方ではないようで安心した。もしも彼女がメロウだったらそれすら拒否されていたかも判らない。
「……いくよ、イヴ」
「きて、エリス……」
 マナさんが後ろを向いたのを確認して、コップの中の薬液を口に含む。薬液はシロップのような甘い味付けがなされているのだろうが、僕はもう既に味が判らなかった。
 薬を飲ませるだけなのになんて遣り取りをしているんだ僕らは。まるで……。
 イヴの顎に手を添えて、薬液を嚥下しやすいように上を向かせる。
 これは薬を飲ます為だ、口移しなんてことは鳥類だって普通にやっていることだ。親鳥が雛鳥に獲ってきた餌を与える。そんな感じでいい。下手に意識することなんて微塵もない。薬を飲ませる為なのだから。
「ん……」
 薬液が零れることのないように、ぴったりと唇を合わせて、そのまま舌をイヴの口腔内に挿し込む。彼女の唇は柔らかくて、口内は風邪の所為かあの時よりも数段上の熱を感じる。口に含んだ薬液が、舌を漏斗代わりにして彼女の口の中へ伝っていく。
 イヴの細い舌は、そうして落ちてくる薬液なんかお構いなしで、僕の舌に絡んでくる。執拗に、僕の舌を撫でくり回す。頭の芯がびりびり痺れる。
「ん、ふぅ、ちゅ……、んっ」
 薬液の味付けが気に入っているのだろうか。それとも、舌の絡まる感覚に酔っているのだろうか。わからない。僕はただ、彼女の舌に翻弄されている。細い舌にねっとり這いずられ、意識が蕩けそうになるのを必死に堪えていた。
 なすがままに、彼女が薬液を飲み込み終えるのを待っている。……彼女は寧ろ、僕の唾液を多く飲み込んでいるのだろうか? 僕の唾液は薬じゃないぞ。いや、魔物にとっては薬なのか? 耳孔を貫く絶え間ない水音に僕はいよいよ正常な思考能力さえ溶かされてしまったのだろうか。
 ……どれくらいの時間、こうしていたのだろう? 僕はイヴがやっと薬液を全て飲んだのを確認すると、口を離した。それでもなおイヴは熱に浮かされた、どこか名残惜しげな目を向けてくる。末恐ろしい奴だ。
「おいしかった……ふふ」
 イヴは目をとろんとさせて薬液の感想を述べる。きっと、薬液だけじゃない。
 振り向くと、何となく満足げな顔をして見えるマナさんが立っていた。
「とっても上手でしたよ、エリスさん」
「……見たんですか?」
「いえ、とんでもない。イヴちゃんの声が、とっても穏やかでしたから。うふふ」
 この人の微笑みはきっと僕にとっての凶兆なのだろう。僕はそれに気付くとひどく赤面して頭を抱えた。



 女の子がいなくなれば、騎士はまた居場所をなくしてさまようことになるでしょう。
 騎士はそのことをひどく恐れました。騎士にとって女の子は何よりも大事で、かけがえのない人になっていたのです。
 だから、騎士は女の子が見つかることを必死で祈りながら、懸命に捜しました。
 祈りが天に届いたのでしょうか。騎士は山賊に連れられている女の子をついに見つけます。

「賊よ、その子は私の主だ。返してもらおう!」

 助けに来てくれた騎士を見て女の子の顔には光が差します。けれどもそれに応じる山賊ではありません。

「けけけ、久しぶりの上玉なんだ、返すわけねえだろ!」
「ならば腕ずくで返してもらうだけだ!」

 騎士は話が通じないと見るや剣を抜いて飛びかかります。
 山賊はそれでも動じません。女の子を盾のように突き出しながら斧の刃を女の子の首元へ突きつけます。

「おっと、こいつが死んじまってもいいのか? 命が惜しけりゃ動かねえこった」
「っ、卑怯な真似を……!」

 騎士は唇を噛んで動きを止めます。女の子を人質にされては山賊は倒せないのです。
 このまま騎士は女の子を救うことはできないのでしょうか。

「僕も手段は選ばないぞ!」

 そう言うと、騎士のうなじが赤く光り、山賊の身体が一瞬にして燃え上がります。
 炎は山賊だけを燃やして、女の子に移ることはありません。騎士には不思議な力があったのです。
 無事に解き放たれた女の子はほっとするあまり、涙を流して騎士の胸に抱き付きました。
 騎士は、女の子が泣き止むまで謝って、抱きしめ続けました。泣き止んだ女の子と騎士は、明るい月の下で一緒に眠ります。
 
 女の子はその夜、夢を見ます。絵の具を撒き散らしたような色とりどりの国で、ひとり歩く夢です。女の子は騎士を探していました。
 その国にはみんな自分の恋人がいました。女の子だけがひとりなのです。周りの人は自分の恋人にしか目がなくて、誰も話を聞いてはくれません。
 どこを歩き回っても、女の子は騎士を見つけられません。女の子が疲れてその場にへたり込んでいると、どこかから来た騎士が、手を引いてその場から連れ出します。
 夢はそこで終わってしまいました。



 首ががくんと落ちる感覚で目が覚めた。すぐ目の前には、薬が効いているらしい、静かな寝息を立てて眠るイヴがいる。イヴの様子を見ているうちに眠ってしまったようだ。
 テーブルを挟んで向かいに取り付けられた窓から見える空は、茜色に染まろうとしている。彼女の汗を軽く拭った後、額に乗せたタオルを冷やして戻した。

 眠る彼女の顔を見ているだけで、僕は罪の意識に苛まれる。僕は既に彼女を二度も犯している。
 一度目は媚薬を摂取してしまい。二度目は彼女が眠ったまま。山賊からイヴを救い出した後、辱めを受けていたであろう彼女は、体の火照りを冷ましきれずに僕へ縋った。
 僕も仕方なく応じて何とか彼女を寝付かせるに至った。そこで事が済めば何の問題もなかったのだが、僕は、月下に曝された彼女の痴態に自分の欲望を抑えきれなかった。
 自慰ならまだしも、無防備に眠る彼女をそのまま犯したのだ。その瞬間の僕は、完全に快楽と背徳の虜となっていた。既に人間を辞めたのではないかという錯覚しそうになった。
 翌朝起きた彼女を暫く見ることが出来なかったのは言うまでもない。それ以前の僕であればあんな真似はしなかったのだと思うと反吐の出る思いだった。
 恐るべきはそんな理性を融かしてしまうアリスの魔力。理屈で言えばそうなるが、理屈だけでは割り切れない部分が自分が確かにいた。
 椅子を立って、テーブルに置いた例の本を手に取る。すると、テーブルから何かが床へ滑り落ちた。本の下に敷かれていた――誰かが置いた――恐らく本の持ち主である僕達以外に見られる事は想定していない、それでいて先生でもマナさんからでもない第三者からの――手紙。
 その第三者がどういう人物なのか。僕はその者の立場に関しては凡その見当がついた。その当てが外れてほしいと思って僕は慄いていた。便箋に恐る恐る目を走らせていく。

 エリス・バーンズへ――

 今夜零時、ヴェルドラ北部の平野にて待つ。
 来なければ、お前の傍に居る奴を一人殺す。

 読んで血の気の引くのが判った。少なくともこれは僕に宛てたもので、僕を殺したいがための内容だ。つまり教団側の人間による手紙。僕はこの誘いに乗らないという選択肢は選べない。当然の事ながら、待ち合わせには一人でいかなければならない。
 黒いチョーカーの下のうなじに熱が溜まって疼いた。鼓動は未だ不安定で、不快なほどに僕の頭の中まで響いてくる。しかし僕は決意しなくてはならない。これを乗り越えずして彼女は護れない。
「う……ん。エリス?」
「……イヴ。起きたのか」
 声が聞こえ、咄嗟に便箋を懐に隠して振り向くと、イヴが起き上がって目を擦っていた。彼女の額に乗っていた濡れタオルがはらりと落ちた。ベッドを降りて、こちらへ近づいてくる。
 熱で覚束ない足取りながらも傍まで来ると、僕の胸に顔をうずめて抱き付いてきた。
「安静にしないと……イヴ。ほら」
「このままがいいの。おねがい、エリス。エリスがどこか遠いところへ行っちゃいそうだったの」
「行かないよ。……どこにも、行くもんか」
 きっと、あの手紙を見ている僕の顔を見たのだ。赤銅の夕日に照らされ、影の落ちた僕の横顔を見たのだ。それゆえ僕は咎めきれずに、彼女の気が済むまで抱きすくめた。
 黄昏は、もはや宵の向こうに消えゆこうとしている。僕の背に腕を回したまま、イヴが言う。
「こうしてるとね、胸がどきどきするの」
「うん」
「エリスの音も聞こえてくるんだよ。どきどきしてるの」
「……うん」
「エリスも、わたしと同じ気持ち?」
「きっと、ね」
 イヴの腕の力が少し強くなった。僕からは彼女の顔が見えないけれど、なんだかひどく安堵している気がした。
「ベッドに、戻ろうか」
「うん」
 そう言ってくれた彼女は、自分自身の気持ちに抗っているらしかった。ひどくもの惜しげな顔をしているのを見なかったことにして、僕は彼女をベッドに横たえて毛布を被せた。
 目が冴えてしまっただろうから、すぐには寝付きそうにない。イヴは熱に浮かされながら、僕を見つめてくる。これだけが頼りだとでも言うかのように。
 僕の手が、彼女の少し傷んでしまった金髪を撫ぜる。
「エリス」
「ん?」
「そばに、いてね」
 そう訴える彼女の目は寂しげだった。風邪を引くと、言い知れない寂莫に駆られるのは、人間も魔物も同じらしい。彼女のそれを理解した僕は頷いて、彼女の額にキスをしていた。
「おやすみ」
 やがて彼女が眠りに落ちると、僕は席を立ってバーム先生のもとへ向かった。



 午後十一時。ベッドの中のイヴはすっかり眠り込んでいる。良い子はとっくに寝る時間なのだから何もおかしいことはない。だが僕は彼女が良い子であるということに甘えられなかった。先生から、最近眠れないなどと適当に理由をつけて睡眠薬を出してもらい、その白い粉を彼女の夕食に混ぜた。幸い、食欲はそこまで減っていなかったらしく、彼女は余さずポトフを飲み干した。朝まで起きることはない。
 部屋を出る直前、僕はイヴの寝顔を覗き込んだ。夜の闇でよくは見えない。けれどそこに浮かぶ輪郭を頼りに、僕は彼女の頬に手を添えた。風邪で余計な熱を帯びているけれど、張りがあってすべすべで、とても柔かい。熱は確かに彼女の身体を蝕んでいるだろうが、それは同時に彼女が生きていることの紛いようのない証左でもある。イヴは今ここに生きて、僕の愛撫を受けるに至っている。
 この感触をまた愉しむというのなら……これから起こることと、逃げずに一人で向き合う必要がある。部屋の戸を開けて、最後にもう一度、彼女の眠るベッドの方へ向いた。僕はまたここへ戻って来ることを誓うと、診療所を後にした。
 手紙に記された待ち合わせ場所へ行かなければならない。僕の頸椎の辺りは、いっそただならぬ熱を帯びてきている。
 これから起こるのは殆ど避けようもない戦いで、それはイヴを護るためだ。無論、他の誰も巻き込んではならない。僕が魔物と関係を持った時点で、いつか必ず訪れることだったのだ。
 親魔物領の街は基本的に良い子ではない。そこをこの時間に歩いているだけで、どこからともなく押し殺した嬌声が聞こえてくる。それは自分からは見えないところだ。見えているところでは大抵、そんな歓楽街を楽しもうとデートに興じているカップルか、そうでなければ配偶者を求め血眼になっている独身の魔物がうろついているだけだ。
 僕はただ、これからしなければならないことを幾度も反芻しながら、何者をも寄せ付けない険しさで街の北部へと向かった。
 

 街を出て三十分ほど歩いた頃。街の北部の平野は見通しが良く、人影が見やすい。夜の黒い空には青白い十六夜月が浮かんでいる。その爛漫とした月光の下、僕と、僕を呼び出した人物が相対した。
 睡眠薬を貰う時、先生は思い出したように言っていた――そう言えば、エリス君が来る前に、診療所にハンス君がやってきたんですよ。君のところにも行ったそうですが、間が悪かったですねぇ。彼が急ぎでなければ、ゆっくりしていってもらおうと思っていたのですが――と。
17/05/21 00:00更新 / 香橋
戻る 次へ

■作者メッセージ
結構な時間が経ってしまいました。お待たせして申し訳ないです。これからも気長に待って下されば幸いです。

風邪を引いた女の子は良いものです。

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33