読切小説
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こゆききらめき
 しんしんと雪降り積もる雪山に私は立っていた。どこをどう飛ばされたかは分からないが、かなり、いや相当に遠くへと天空の風に遊ばれたようだ。
 私が生まれた地とは魔力の質が全く違う。ともすれば異世界まで飛ばされてしまったのかもしれない。
「あら?」
 見慣れた、しかし全く知らない真っ白な世界、そこで初めて出会ったのは、私によく似た女性だった。
「初めまして、あなたも私と同じ妖でしょうか?」
「……」
 アヤカシ? 聞いたことのない言葉だ。目の前の女性が帯びる魔力は私と非常に似ていて、しかし全く別のもの。
「あなた、お名前は?」
「……」
 私に個体名は存在しない。氷の女王の一部である私たちに、お互いを見分ける術など必要のないことである。
「あの、同じ雪女とお見受けしましたが、違いましたかしら?」
「……私は雪ではない。氷の女王の一部」
 間違いを訂正すると彼女は「まぁ」と手を合わせた。
「氷精さんでしたか。聞いたことがあります。何でも異国には氷雪の支配する世界があると」
「……」
 成程、私を為す物が氷ならば彼女は差し詰め雪の精なのだろう。聞いたことがある。東の果てにはありとあらゆる物に精霊が宿る世界があると。
「もしもあなたさえよろしければなんですけど、私の庵にいらっしゃいませんか? 何ぶん人里から少し離れた山ですので、この時期は少し寂しくて」
「……」
 全く知らない土地に一人となると、宛もなくさまようのは効率的ではない。定点を定めてこの周辺を調べて回る方がよいだろう。
 そう考えた私は目の前の雪精の提案に頷き、しばらく彼女の世話になることにした。


−−−
「……」
「お帰りなさいきらめさん。外はどんな様子でした?」
「……別に」
「そうですか。変わりの無いことは良いことです。つまりは何の問題もないということですもの。変化のない平穏を退屈と呼び嫌う方もありますが、やはり何事もないということは良いものですわ」
「……そう」
「そうですとも。以前山の麓で戦がありましたが、あれはよくありません。何人もの尊い命が奪われてしまいかねないひどいものでした。結局最後は血を嫌った山の神の意志によって、妖が介入し事無きを得ましたが」
 雪の精、この世界で言うユキオンナのコユキのおしゃべりを聞き流しながらイロリと呼ばれる暖房器具に置かれた陶器に水を入れる。私はそうでもないが、コユキは空気が乾燥しているのが好きではないらしい。
「それにしても、やはり冬というのは寂しいものです。きらめさんがいらしたのがこの季節なのは喜ばしいことですわ。話し相手がいるのはとてもとてもありがたいことです」
 『きらめ』。目の前の雪女の『コユキ』がわたしに付けた名前だ。最初は必要ないと言い張ったが、コユキが「ここでは名前がないと不便ですよ」と言ったので好きに呼ばせている。
 まあ、話し相手に名前がある方が、コユキに都合が良いということもあるのだろうけれど。
「しかし、この山の夏の景色をお見せできないのが残念ではありますね。ああ、あちらを立てればこちらが立たず。もどかしいものです。あの生き生きとした風景をきらめさんにも知っていただきたい。きらめさんは暑いのはダメな方ですか?」
「……」
 無言で頷く。氷精である私が暑さに強いはずがないのは少し考えれば分かることだろうに。
 だからこそフユとやらが終わる前に帰り道を探したい。氷が全て溶けてしまうような場所にいたらこの身が無事である保証はない。
 とは言え帰る手段が見つからないのもまた事実であり、非常にままならない。いずれにしても私に出来ることといえば付近の様子を探る以外に無いのだけれど。
「あら、またお出掛けですかきらめさん。ええ、そうですわね。月明かりに照らされた雪を眺めるのもなかなかに素敵ですわ。せっかくのいい月の晩ですもの、私も窓から眺めていようかしら」
 コユキはおしゃべりなわりに出不精だ。家から外を眺めるだけで外には滅多に出ない。私に出会ったのも、小屋の近くで普段と違う魔力を感じて様子を見に来たかららしい。
「行ってらっしゃいませきらめさん。あなたの国にお帰りになるのでしたら出来れば別れの挨拶にいらして下さいね。このままお会いできなくなるのはあまりにも寂しいことですわ」
 こくりと頷きだけを返して庵を出る。無視しても良かったが、世話になった相手に礼も無く消えるのはあまり誉められたらことではないだろう。
「……」
 ふと、そんな考えが浮かんだ自分に違和感を覚えた。我々氷の精、グラキエスは氷の女王の一部であり手足も当然。女王の命令以外のことなど、本来ならばどうでもいい物のはず。
「……」
 どうやら私は随分とこの世界の魔力にあてられていたらしい。
 固有の魔力の影響かこの世界の雪はどことなく暖かみを感じる。そのせいか私を構成する氷の一部がじんわりと溶け出して、その中にあった何かが私を私の心を揺らめかせる。
 このままではここに馴染みすぎて帰れなくなってしまいそうだ。ここのところこの融けだした心を埋める暖かさをいつの間にか求めている自分がいる。
 これ以上取り返しがつかなくなる前に帰る方法を見つけなくては……
 柄にもなく焦燥感に駆られる私を落ち着かせるように、突如雲が空を覆い強い風と共に雪が吹き付けた。
 冷たい風と雪が私の心を氷で閉ざし始める。やはりグラキエスにはこれが一番良い。人間ならば凍え死んでしまうような寒さに一心地ついた私は、吹雪の中に身を預け、冷気の中でたゆたう。
 周囲には一切の氷雪、冷たい空気に暗い空。私が私を構成するための世界の全て。グラキエスである私が存在するための全て。
「……」
 ……だというのに、微かな命の熱が私の体温を再び上げる。生き物がみな死に絶えてしまうような氷点下の中を、死に抗うように駆け回る無粋な個体が一つ。
 吹雪に逆らえないことを知りながら、それでも必死に逆らうその光景は滑稽を通り越して哀れだ。だから私は見ていられなくてその命に近づく。
 それは人間の男だった。腕に布にくるまれた何かを抱えて、猛吹雪の中を必死に駆ける。息をはく度に顔に立ち上る湯気が炎のように揺らめいていた。
 男は私の姿を認めると、幽鬼のような形相で近づいて来る。
「……あんた、妖怪の類か?」
「……」
 ヨウカイ、恐らくは魔物を指す言葉なのだろう。魔物に恨みを持つ人間は少なくないが、この男もその一人か。この吹雪の中自暴自棄になっているとしたら厄介だ。仮に襲われたとて返り討ちにするのは容易いが、命を奪うような真似をしたら氷の女王の顔に泥を塗ることになる。
「頼む、この子を助けてくれ。この山を越えた先にある医者に診せてやってくれ。俺の命ならくれてやる。だからこの子を。……大切な妹夫婦の忘れ形見なんだ!」
 私の意に反して布を突き出し頭を下げる男に面食らいながら布の中をのぞき込む。
「……!」
 布にくるまれていたのは幼い少女だった。病に侵されているらしく、蒼白を通り越して土気色の顔色。吐く息も弱々しく、見ただけで分かる程の高熱にさいなまれている。このままでは確実に明日を迎えることは出来ないだろう。
「……」
 この少女をこのまま死なせてはならない。私の胸に熱いものがこみ上げる。
「……っ!」
 ……しかし今の私にはなす術がない。それでも男の必死の懇願、今にもその命を散らそうとしている少女、どちらも無視することができない私は、二人を抱え上げてコユキの住む小屋へと飛ぶ。
 コユキなら、コユキならきっとなんとかしてくれる。縁もゆかりもないこの地で私が頼れるただ一人の友人である彼女ならきっと……


−−−
 小屋に飛び込み担いでいた少女を差し出すと、コユキはすぐに事態を察知したようで、いつものおしゃべりをすることなく真剣な顔で少女を診ていたが、やがて弱々しく首を振った。
「……これはいけません」
「……っ!」
「そんなっ!」
 絶望的なコユキの宣言に打ちひしがれる私と男。悔しさと悲しみがないまぜになり私の胸を締め付ける。
「ここから麓のお医者様のところまで早くても二刻、おまけにこの吹雪です。たどり着くまでにこの子が保つかどうか……」
「……」
 土地勘のない私の出る幕はない。山道は多少把握しているとはいえ、人の住む集落が何処にあるか分からない私では余計に時間がかかる可能性がある。まして道に迷ってしまえば完全におしまいだ。
 何も出来ない自分がもどかしい。己の無力がこんなにも口惜しいものだとは……
「……この子を助ける手立てはあります」
「本当か!?」
 弾かれたようにうなだれた首を上げる男。
「何でもする! 俺はどうなってもいい、この子を、千代を助けてくれ!」
「いえ、問題はこの子なんです」
「どういうことだ」
 コユキは憂うように少女を見て言う。
「この子を山の神様に捧げます。そうすることでこの子は山の者となり病も遠ざけられるでしょう。しかし、この子は妖となり、この山に棲む存在として、山から出ることが出来なくなってしまいます」
「……それは」
「……人として生きることはもう出来ないでしょう」
「くっ……」
 悔しげに歯噛みする男。それは私には理解できない行動。
「……何で、躊躇う?」
「は?」
「……魔物になれば、この子は助かる。なのに、何で躊躇う」
「お前!」
「きらめさん……」
 男はいきり立ち、コユキは悲しそうにこちらを見る。
「妖になるということは、人の社会から完全に切り離されるのと同じなんです。忌むべき物として見る方や強すぎる力に恐怖する方、人の命を弄ぶという誤解や偏見を持つ方さえいます」
「……そんなことは分かってる」
「だったら!」
「……あなたもそうなの? この子が魔物になったら、もう一緒に暮らす気はないの?」
「……っ!」
「……そうだとしたら吹雪を過ごして山を降りればいい。私はこの子を魔物にしてでも助ける。あなたはこの子のことを忘れて人の集落で生きればいい」
「……そんなこと、出来るわけないただろう!」
「……だったらやることは一つ。こんなに小さな命がこのまま消えるなんて絶対に間違ってるから」
「……」
 男は瞑目し何かを考えているようだったが、やがてコユキを見て口を開いた。
「……千代を、頼んだ」
「……よろしいのですね」
 頷いた男に小さく笑いかけるとコユキは少女をくるんだ布ごとかかえて小屋を出て行った。
 小屋には私と男の二人きりだ。……まあ、だからといって私にすることはないのだけれど。
「……なあ、あんた」
 声を掛けられて男の方を見る。今までの形相はなりをひそめて、とても穏やかな顔をしていた。
「さっきはすまなかった」
「……別に」
 唐突な謝罪の理由は分からない。だから私は当たり障りなく答える。
「もう少しで俺は大切なものを失うところだったんだ。礼を言わせてくれ」
「必要ない。そんなことよりも、あの子を大切にして。あの子には多分あなたしかいない」
 なんとなく分かる。この男にとってあの子が必要なように、あの子にとってこの男は必要なもの。
「……あんた、不思議な奴だな」
「?」
「たかが人の命、なんて言い放つ妖怪がほとんどなのに。やっぱり雪女ってのは情が濃いんだな」
「『たかが』などと言うべきでない。命はどんなものよりも尊い。それに私はユキオンナではない。氷の……」
 ……今私は何を言った? ……自分の言葉が理解できない。
 人の命などとるに足らないもの。そう思っていたはずの私が命を尊いなどと……
「……っ!?」
 自覚した瞬間に致命的な熱を感じる。今までの私が全て溶け、消え去ってしまうようなの強烈な熱情。
 私という器から凍り付いていた心が身体の外へと溶けだしていく。
「……ううっ……はぁっ」
 足りない。猛烈な飢餓感が私を苛む。何が足りないか分からない。だけど足りない。
「どうしたんだ!?」
 うずくまる私に男が近付いてくる。気が付けば縋るように男にしがみついていた。
「……お、おい」
 男の腕に抱かれると飢餓感は少しやわらいだ。それでもまだ足りない。欠けた部分を補うために、身体を密着させるように抱きついた。
「ぐっ!?」
「……あうっ!」
 男の匂いと温もりを感じた瞬間、歓喜に近い衝動とともに飢えを満たす方法が脳裏に閃いた。
 精、精だ。男の精を取り込めばこの飢餓感は治まる。理解すると同時に精の取り込み方も頭に浮かぶ。
「あんた、一体どうし……んむっ!?」
「んっ!」
 取り乱す男の口をふさぐ。舌を懸命に伸ばして男の口内を貪ると僅かな精が身体へと流れ込む。
「……んっ、……んふっ、……んあっ」
 粘膜同士を絡ませるたびに極上の甘露が舌を撫で、精とともに私を夢中にさせた。
「……れるっ、……んじゅっ、……んっ、……ぷぁっ」
 だがそれでも足りない。流れ込む精と入れ替わるように私が溶けだしていく。お腹の中を熱しながら渦巻いて、下腹部へと流れ落ちていく。
「……はぁ、……はぁ」
 ぽっかりと空いた穴に埋めるべきものは何か分かってる。そしてそれの準備が整っていることも分かる。
「な!?……よせっ!」
 暴れる男をがっしりと押さえながら下穿きを脱がすと、いきり立った肉棒が飛び出してくる。
「……はぁっ!」
 下腹部に渦巻く疼きに熱い溜め息が漏れた。
 身体が求めてる。その逞しい肉の槍でこの身を貫けと。溶けだして空っぽになった身体に精を注げと。
 その衝動に突き動かされるままに胎内へとペニスを突き刺した。
「くあっ!?」
「……っ!」
 瞬間、何もかもが真っ白になる。自分が何者なのかも自らの使命も忘れるほどの衝撃。
 目の前の雄と繋がることだけが自分の存在理由とすら錯覚する歓喜の奔流。
「だっ、ダメだ、出るっ!」
「……っ!!」
 子宮に熱いものが流れ込んで来た時、最早私は私ではなくなっていた。
−−−


 どれだけの時間がたっただろう。あれからずっと行為は続いていた。
 膣だけでなく口で、身体で、精を受ける快楽を知った私は、内側も外側も精液にべっとり浸かっている。
 心は満たされた悦びで埋め尽くされ、余計な思考などは全て消え去り、雄の精を求める氷の人形となった私は、その情動に操られ淫らに踊り続ける。
「……ぐっ、……また出るっ!」
「……あんっ」
 男の方もとうに理性を手放したらしく、欲望のまま私に合わせて腰を振る。何十という射精を繰り返し、それでもなお男の精は絶えることがない。
「……んっ、……ふぅぅ、……ん?」
 私を組み敷いて射精した男の動きが急に止まる。
「……?」
 男の視線の先を追いかけて小屋の外の方を見てみると……
「…………」
「あ、あの……」
 扉の前で立ち尽くしているコユキと目があった。
「……っ!」
 慌てて私から離れる男。ペニスを抜き去る際にこすりあげられた膣がひくりと反応した。
「す、すいません。覗き見するつもりは無かったんです。千代ちゃんの快気を急いでご報告したくて、その、決して目を奪われていたとかそんなことではなくてですね。混ざりたいなんて思ってませんよ。ええ、断じて」
「落ち着きなさいな」
 慌てふためくコユキをなだめながら白いラミアが小屋に入ってくる。
 腕には狐の耳を生やした少女、チヨを抱えていた。
「……千代」
 服を整えた男がラミアから降ろされたチヨを抱きしめる。
「……無事だったか」
「おいたん……」
「千代、千代! 良かった。本当に良かった」
「おいたん、おいたんっ!」
 この気持ちは何だろう。胸を暖かく包み、心そのものを溶かすような……。コユキも目を潤ませて固く抱き合う二人を眺めている。
「……おいたん」
 しばらくの間男の胸に顔をうずめていたチヨが口を開く。
「こおりのおねえちゃんにしたこと、ちよにもやって」
「はぁ!?」
「おいたんのおちんちん、ちよのなかにもほしいの」
「な、何を言って……」
「してあげなさいな」
 白いラミアがさらりと言った。
「妖怪にとって、好きな人とそういうことをするのは当たり前のことなの。小さい子も出来るようになるし、近親姦のタブーもないわ」
「いや、だからと言って……」
「えいっ!」
「ぬわっ!?」
「それに妖怪は子供でも力は普通の人間以上だしね。諦めて交わってあげなさいな」
「おいたんの……おっきい」
「ち、千代、だめだ、そんな」
「んっ、くうっ、んぐぐぐっ!」
「くひっ!? ああっ、入って……」
「ひっ!? ひああぁぁ!?」
「ぐうっ! きついっ! で、出るっ!」
「あんっ! おいたぁんっ!」
「……少し外に出ましょうか」


−−−
 喘ぎ声の響く部屋を出ると、外はすっかり明るくなっていた。ひんやりとした外気が心地よい。
「さてと、何から話そうかしら。ああ、きらめさんは初めましてだったわね。この山の神の使い、白蛇の紫野です」
 シノと名乗ったラミアは頭を下げると続けた。
「まずはお詫びからかしらね。きらめちゃん、あなたはもう氷の女王のものではないわ」
「……」
「この世界の魔力と男性の精、この二つを取り込んだあなたは完全に妖怪となってしまったの」
「……そう」
 なんとなく分かる。氷の女王の一部であったはずの私の身体が、今は完全に魔力で構成されている。
 つまり今の私はグラキエスでありながら全くの別物、早い話が魔物化してしまったということだろう。
「残念だけどあなたがいた世界にはもう帰れないと思う。」
「……そう」
「ごめんなさい」
 すまなそうに頭を下げるシノに首を振る。心残りが無いわけではない。しかし、この世界で私が手にした物にはとても大きな価値があるように思えた。
「……コユキ」
「はい」
「……これからも、一緒に」
「ええ、もちろん歓迎致しますわ。私の方からお願いしようかと思ったくらいですもの。やはり誰かが一緒にいてくれるというものは素敵なことです。千代ちゃんや彼、……ああそうでした誠司さんとおっしゃるそうです。お二人もよろしければ御一緒して頂きたいと考えてますの」
「……そう」
「ええ、四人で一緒に暮らす。きっととても素晴らしい生活になりますわ。出来れば、……その、私も殿方の精を頂きたいと言いますか、……たまに、本当にたまにでよろしいので、私も誠司さんと、……その」
「……セイジはチヨのものだから、チヨがいいと言えば」
「……きらめさんは、よろしいのですか?」
「私がセイジから精を貰ったのは錯乱していたせい。後でチヨには謝らないといけない。チヨがいいと言わないなら私たちはセイジから精を貰うことは許されない」
「分かりました! 千代ちゃんを納得させればよいのですね!」
 珍しく短い言葉で会話を終えて小屋に飛び込むコユキ。目の色が変わっていたが大丈夫だろうか。
「……これでよかったのかしらね」
 シノが呟く。穏やかな表情でコユキか飛び込んでいった扉を見ていた。
「氷精さん、少し昔話を聞いて頂けないかしら」
「……」
 頷きで返すとシノは表情を緩めて腰を落とす。
「むかし、……と言っても妖怪にとっては先週くらいのむかしの話、この山に一人の少女が迷い込んだの」
「……」
「多額の借金をして夜逃げしている両親とはぐれてしまったのね。……私が見つける頃にはもう命の灯が消えようとしていた」
「……」
「私はすぐに妖怪に転生させたの。その子が生きるためにはそれしかなかったから」
「……それが、……コユキ?」
 笑顔の中に複雑な感情を織り交ぜてシノがこくりと頷く。
「……両親は?」
「雪が溶け始めた頃、麓で凍死した死体が二つ。……きっと最期まで探し続けていたのでしょうね」
「……」
「……勝手な話なのかもしれない。それでも命が目の前で消えるのを黙って見てられなかった。……そのせいで小雪は独りでこの小屋に住むことになってしまったのだけれど」
 憂いを帯びたシノの言葉。……その想いは昨夜の私と同じだ。
「……間違いではないと思う」
「きらめさん……」
 だから私はこう答える。命は何よりも大切であると、今なら声を大にして言える。
「それにコユキに会えたのはシノのおかげ。だからシノには感謝しないといけない」
「私もあなたに感謝しないといけないわ。私のせいでひとりぼっちだった小雪ちゃんに友達が出来たんですもの」
「……シノ」
「これからもあの子と仲良くしてあげてね」
 母のような優しい笑顔に頷いて応える。私の新しい生活はこうして始まった。


−−−
 木々の葉が赤く色付いている。モミジが降り積もった地面は真っ赤な絨毯のようだ。
 この世界のキセツは、白と黒しか知らなかった私に様々な色彩を教えてくれた。
 色とりどりの花が咲き乱れるハル、コユキたちが「アオアオ」と表現する木々の緑がまぶしいナツ、そして燃えるようなモミジが美しいアキ。
「……」
 そしてキセツの移ろいに表情を変える空も私が知らなかった素晴らしい物の一つだ。その中でも私がとりわけ気に入ったのはアキの夕暮れ。深い赤に染まった空を橙の太陽が沈んでいくのは、何とも言えない美しさがある。
 その景色に魅入られた私は毎日のように夕日がよく見える場所へ出掛けては空を眺めていた。
「これはこれは、素晴らしい景色ですね。どちらに行かれていたのかと思えば、きらめさんはいつもこの景色をご覧になっていたのですか。素敵ですね、実に素敵です」
「……コユキ?」
「申し訳ありません、きらめさんがいつもどちらに出掛けているのか気になりまして」
「……チヨは?」
「今ごろ『おいたん』とおねむかと」
「……そう」
 世界を赤く染めて夕日が沈んでいく。コユキも口を噤むほどに美しい姿を誇示しながら。
 その赤が地平線の下に消えるまで私たちは空を眺めていた。
「……」
 日が沈みきり暗くなって行く空、その景色は私に酩酊と興奮をもたらす。燃え尽きた炭のような空の色が、胸の奥にくすぶった情欲の炎を連想させるのだ。
 身も心も融けてしまいそうなほどに精を浴び、チヨとコユキと共にセイジに愛の言葉を囁く、熱く、熱い情交。
 セイジとの交わりを思い出し、自然と口角がつり上がる。
「ふふふ、きらめさんも色々な表情をなさるようになりましたね」
 少しからかうような声色でコユキが言う。確かに、ここに来るまで笑顔というものなど知りもしなかったというのに、最近では表情を隠すほうが難しくなってしまっている。最早わたしに氷の女王との繋がりはないだろう。
「さあ、帰りましょうきらめさん。この景色も素敵ですが、そろそろ誠司さんと愛し合いたいです。大変名残惜しいですがやはり愛する人の傍が一番満たされますわ」
「うん」
 だがそれは決して嘆くべきことではない。こうして大好きな人と、愛する人と共に暮らせる。それだけでいい。もうグラキエスではないかもしれないが、わたしはこの山に暮らすアヤカシのきらめで、それがとても幸せだ。
17/07/02 23:14更新 / びろーん

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