前編
「やっと見つけた。」
その声に反応して、男たちがいっせいにこちらを振り向いた。
薄汚れた陣笠や鉢金にくたびれた腹当、手には数打ちの量産品と一目に分かる安物の打刀。瞳は例外なく粗野な欲望でギラついている。
どこからどう見ても、完璧に山賊である。
彼らが振り向いたことで人垣が崩れ、彼らが囲んでいた存在が明らかになった。
若く透き通るような白さを持ちながら、熟した果実のような匂いたつ色気を発散する肌。
白い絹糸のように艶やかで、濡れたようにしっとりとした髪。
紅玉をはめ込んだように赤く、底知れない深みをたたえて煌く瞳。
肩や二の腕、臍を露出していながら見る者に高貴な印象を与えずにはおかない白の巫女装束と、それを柔らかく豊かに押し上げる乳房。
そして腰から下の細やかな鱗に覆われた長い長い蛇体。
潤んだような朱の唇も、長く伸びた耳も、ふっくらとした頬も、男として生まれたからには見とれずにはいられない輝きを放っていた。
白蛇、と呼ばれる妖怪に相違ない。
台無しだ、と声の主……武芸者は思った。
髪も肌も装束も土埃で薄汚れてしまっており、表情は恐怖に引きつり、そのせいで瞳も輝きを失ってしまっていたためである。
「あんだァ、兄ちゃん。この辺のモンか?」
邪魔しやがって。
そう思っているのが一目で分かる苛立った声音をあげながら、頭目らしい一人が進み出る。
「いいや。」
対して、武芸者の声音はどこまでも冷静。
ちぐはぐな姿である。
顔の造作も得物の刀も、全てがジパング人の典型的なそれ。しかし、その身を包むのはどう見ても舶来の出で立ち。革製の留め帯に直接刀を差していた。それも3本。
左腰の大小はいいとしても右腰にまで小、つまり脇差を差しているのは何なのか。
しかも何故3本全てが天神差し(刃を下にして差した状態)なのか。
大方どこぞの世間知らずの坊ちゃんが、傾奇者気取りで奇抜な格好で旅をしているのだろう。
部下らしき男たちはそう言って男の風体を嘲った。
「そうかい、じゃあとっとと失せな。こいつァ俺たちの正当な稼ぎなんだよ。」
「知るかそんなもの。それより物部一味の頭目、壱坐ってのはお前で間違いないな?」
「なッ……手前ェ、俺たちを追ってき」
ごぎっ。
頚椎を破壊する嫌な音が響いて、言葉の続きを言えずに頭目は倒れ伏す。
武芸者が抜く手も見せずに振り抜いた一撃の結果である。
出血がないところを見ると峰打ちらしかったが、そもそも打刀というのは重量1.5kgに迫る金属製の棒である。
そんなものを全力で振り抜いた攻撃が首という人体の急所に直撃すれば……刃を返してあろうがなんだろうが人は死ぬ。
事ここに至ってようやくこの青年が強敵であることを理解した部下たちが口々に罵声を吐きながら彼を取り囲もうとする。
が、その動きに統制がまったく取れていなかったので、武芸者は一番先頭の敵から攻撃を加えていった。
「てめええぇっ!!」
めきっ。
口から泡を飛ばして向かって来た男が刀を振り上げる前にこめかみを横殴りに一撃。
「お頭をやりやがったなぁっ!?」
ごちゅっ。
唐竹割りの一撃を半身ずらして避け、股間を下から蹴り上げ、潰す。
「死ねゴラァッ!!」
どごっ。
袈裟斬りの斬りつけを弾き返し、跳ね上げた刀で脳天唐竹割り。
「まだやるごきゃっってんなら容赦はしないが、どうする?」
「ひっ……!」
10秒に満たない時間で仲間3人を再起不能にした武芸者にぴたりと見据えられ、残りの山賊たちは心底震え上がった。
格の違う戦闘の腕前にではない。
金的を潰した男の首に足をかけその首を踏み折りながらの言葉でありながら、彼の口調にも表情にも一切の興奮がなかったからだ。
この男は、卵の殻を割るような平常心で敵を殺す。手向かえば、自分たちもあのように殺される。
そう思うに足る……いや、強制的にそう思わされる、いっそ静謐と言っていい眼差し。
山賊たちは転がるように逃げ去り二度と戻ってこなかった。
「あ、あの……助けていただいてありがとうございました。あなた様がいなかったら、わたくしの命はあの時消えておりました。……あなた様は、命の恩人でございます。」
打刀を鞘に収めて頭目の屍を検分している武芸者に、白蛇が声をかけてきた。振り返ると、深々と頭を下げられる。
声がまだ若干震えているのは、凄惨な戦闘現場を目撃した直後ならば仕方のないところだった。
「助けに来たわけじゃないんだけどな。単にこいつらが賞金首だったから討伐に来ただけで。」
「しかし、助けられたことには変わりがありません。わたくしは春賀(ハルカ)と申します。当地の水源である衣ヶ湖の護り龍、明日葉(アスハ)様の眷属で、ご覧の通りの白蛇でございます。
あの、よろしければお名前を……。」
「名前? 原村睦月(ハラムラ ムツキ)だ。こんな感じで賞金首を討伐しながら旅をしてる。」
白蛇…春賀の向けてくる尊敬の眼差しに、睦月は慣れていない。荒事を生業とする人間はそうでない人間からは疎まれるものだ。
少なくとも睦月はそうだった。
「で、その龍の眷属がなんでまたこんな目に?」
「はい、それが……」
彼女の話をまとめると、おおよそ以下の通りになる。
そもそもこの地方の沼や淵、池を治める龍たちは全員家族である。家族ならば当然親交がある。
一家団欒のためだったり、地方全体の治水の会議だったりのために、定期的に集まるのだ。
ただ、それぞれの都合で集まることができない場合はもちろんある。主に、付近に住む民の願いで雨乞いの儀式を執り行う時など。そういった場合には、配下の白蛇が近況などを記した手紙を届けることになっている。
明日葉の場合も雨乞いの儀式が集まる日にかぶってしまい、いつも通り春賀が手紙を届けたのだが……。
「その帰り道に移動してきた壱坐たちに出くわしたってわけか。」
「そうなります……なにぶん急な遭遇だったので、慌てているうちに囲まれてしまって……本当に、睦月さまが割って入ってくださらなかったらどうなっていたことか。」
「それはもういいって。じゃあ、残りの道中も気をつけてな。」
「そういうわけには参りません!」
やおらひしっと服の裾を掴む春賀。歩き出そうとした睦月はバランスを崩しかけてつんのめる。
「命の恩人と何のお礼もなしに別れたとあってはわたくしは明日葉さまにお叱りを受けてしまいます!
どうか、どうか一緒に明日葉さまの社へおいでください!
ぜひともきちんとしたお礼をさせていただきたいのです!」
「いや、俺はそういうのはちょっと……。」
「もう一度わたくしを助けると思って、お願いします!」
「こいつら討伐した賞金を受け取らないといけないし……。」
「もっとたくさんお礼を差し上げてもいいですから! どうかひとつ!」
「……。」
「……。」
しゅるり。
「そんな目で見ながら尾を巻きつけるんじゃない! 分かった! 行くから! 行くから離せ!」
「そうおっしゃっていただけると思っておりました♪」
春賀に案内された社は思ったより近く、それから半日弱……日の暮れる前に到着。本殿の代わりに広大な水面を臨む拝殿で、睦月は突端の舞台のように張り出した部分で龍神に目通りをした。
思いの外丁寧に礼を述べられ、ささやかな酒宴が催され……そして、彼のために寝室が用意された。
そして、夜も更けた頃。
明かりを消して微睡んでいた睦月は近づいてくる気配に目を覚ました。基本的に武芸者は眠りが浅い。眠り込んでいるところを襲われれば、死に直結するからだ。
目を細く開けて見やれば、月光が差す障子に蛇体の輪郭が影を作っている。
「……春賀、か?」
「はい。…睦月さま、少しだけお時間をいただけませんか?」
「ああ、構わない。」
短い会話のあと、静かに障子を開けて春賀は部屋に入ってきた。身を起こした睦月は枕元の行灯に火を灯す。
柔らかな明かりに照らされた春賀は、昼間とは異なり白の肌襦袢一枚だけを身に纏っている。
最初に会ったときよりも肌の露出は遥かに少ない。にも関わらず睦月の鼓動が高鳴ったのは、薄手の布に肌の色が微かに透けていたからか、汚れの落ちた顔に蠱惑的な微笑が乗っていたからか、それとも焚き染められた桜の香が微かに届いたからか、あるいはその全部か。
布団を畳もうとする睦月を手で制し、再び腰を下ろした彼の正面に座る春賀。
「で、話ってのは?」
「そんな、折り入ったものではないんです。ただ、あの……睦月さまは変わった服を着ていらっしゃいますし、きっとたくさん旅をされてきたんですよね?
なので、できたら旅のお話とかを聞かせていただきたいな、って。」
そんなことか、と睦月は苦笑を隠そうともしない。
どこへ行くにも制限のない旅人と違い、特定の水源を守る龍やそれに仕える白蛇は言ってしまえばその土地に縛られた存在だ。他所の話を聞きたがるのも当然だろう。
睦月はせがまれるままに語って聞かせた。
西洋魔術で駆動する、高さ3間にも達する全身鎧を駆って戦う国。
竜を誼を結んだ王族たちによって、大災害と呼ばれる地震が封じられている北の雪国。
あるいは南洋、恐るべき装甲船をたった一人で操りながら、とうとう一人で生涯を終えた不器用な魔術師の話。
「睦月さまは生まれはジパング……ですよね?」
「ああ。」
「旅に出たのは、何故なのです……?」
ひとしきり語り終え、春賀の用意した茶を啜っていた睦月。僅かに目を細めた。
「……掟だ。元服を迎えた士族の男子は、諸国行脚によって武芸と見識を磨くべし。」
「それでは、あの、睦月さまももうすぐ故郷に……」
「もうない。」
沈んだ調子になった白蛇の言葉を武芸者の言葉が打ち消した。
はっとして彼の顔を見る。椀の中の小さな水面を見据えたまま、武芸者は言葉を連ねていった。
「その時の行脚はあくまでジパング内の話だよ。何年後かに戻ったら、もう滅ぼされた後だった。」
「では、復讐のために修行を……?」
「それも違う。
『力と技は民のため。私欲は武芸を濁らせる』。それが受けた教えでな。
新しい支配者連中が重税なり、賦役なり、圧制を布いてたら俺も抵抗を考えたんだけどな。意外なことに、連中の施政は良かった。いっそ前より民の暮らし向きが豊かになった程度には。
……あそこはもう、俺の故郷じゃない。俺はもうあそこには必要なかった。
だからどうしていいか分からなくなって、ジパングを出たんだよ。
結局それも5年くらいで帰ってきたけどな。あとはそのまま今に至る。」
「……ごめんなさい。」
「いや、俺も人に話すような話じゃなかった。悪かっ」
悪かったな、とは言えなかった。
いきなりのしかかってきた春賀に押し倒されたためだ。
「おい、春賀落ち着け!?」
「ごめんなさい、睦月さまっ♥ 助けていただいた殿方からそんな弱いところを見せられたら……春賀は、春賀はもう我慢ができませんっ♥」
ジパングの着物にはないボタンが外されていく。最初は苦心しながら、コツを覚えればするすると滑らかに。
露になった胸板に、するりと春賀の白い裸体が絡みつく。いとおしげにふっくらとした頬を擦り付ければ、睦月にもほのかな桜の香りに混じってどこか甘酸っぱい……春賀の匂いが感じられた。
「だから落ち着けって、気を確かに持て!」
「わたくしの身体は、お気に召しませんか……?」
「いや、それはすごく綺麗だと思うが……って、そういうことじゃない!」
何とか肩を掴んで引き剥がす。春賀に押し倒されたまま、腕の長さだけ距離をもって見詰め合う形になる。
「昼間の俺を見ただろう、俺は殺生を躊躇う類の人間じゃない。神域に長くとどまるべきじゃないのは、俺が一番わかってる。」
「あら、そんなこと。」
睦月の弁を春賀は一笑に付す。
細い腕を睦月の頭に絡ませれば、自然とふたりの距離は息がかかるほど、近い。
「殺生を躊躇わなくとも、睦月さまは振るう相手を間違えたりはしませんでしょう? 民の笑顔を案じて復讐さえ思いとどまったのがその証拠でございます。
ふさわしくないなどと、誰にも申させるものですか。」
顔にかかる春賀の息が甘い。そんな距離で微笑む顔に、つい見惚れる。
そのままふたりの距離は縮まって、ついに睦月の顔が襦袢越しに豊かな胸の谷間に埋まった。
「睦月さま、おっしゃいましたよね? 故郷に必要とされなくなってしまったって。だからジパングを出たって。
自分が必要とされるところを探していたんですよね? いてもいいところを探して、ずっと、ずっとさまよってきた。…そうですよね?」
「……なんで、お前に、そんなことが、分かる。」
「だって、昔のことを言っている時の睦月さまがすごく、寂しそうで……まるで迷子みたいって思ったんですもの。
あとは……女の勘ですわ♪」
普通、図星を指されると人は怒るものだ。理由が曖昧ならば、特に。
しかし春賀の笑顔を見ると、その怒りもなぜか何処かに溶けて消えてしまう。ちょうど彼女の名前のようだった、祝いの春が来て解けていく雪のよう。
あるいはこのとき、もう睦月の心は彼女に囚われていたのかもしれない。
「ねえ……春賀は、睦月さまのことが大好きになってしまいました。もう、睦月さまと一緒にならないで生きてはいけませんわ。
決して裏切りません。いつもいつも、睦月さまをお慕い申し上げます。
だから、どうか……そんな風に幸せを怖がらないでください。
わたくしでは、睦月さまの支えになれませんか……?」
会って一日と経っていない異性に、意識しないようにしていた自分の本心を丸裸にされて……それでも、不思議と嫌な気分ではなかった。
頭を撫でられる。頭上から優しい声が降ってくる。春賀の鼓動、暖かさ、柔らかさ、甘い香り。何年振りかも分からない安らぎがあった。
抵抗しているのが馬鹿らしくなってくる、蜜のような安らぎ。妖怪の常として、これが罠や美人局の類ではないと分るから余計に。
このまま浸ってしまいたいと願って、しかし素直になれない心は最後に少しだけ抵抗した。
「いいのか、俺で。後からもっといい男が見つかっても知らんぞ。」
「いいえ。睦月さまでなくては、だめです。わたくしにとっては睦月さまよりいい男などおりません。」
すねたような響きの問いに即座に答えが返ってくる。瞬きした目から涙が一粒だけこぼれて、すぐに襦袢に吸い取られた。
「まったく。……俺なんかでいいなら、好きにしろ。」
「はい、一生好きにさせていただきますわ♪」
ぶっきらぼうな声の調子も、胸の中で背けられた顔も、春賀はちっとも気にしなかった。
背中にそっと添えられた睦月の手が何より雄弁に彼の本心を教えてくれたから。
その声に反応して、男たちがいっせいにこちらを振り向いた。
薄汚れた陣笠や鉢金にくたびれた腹当、手には数打ちの量産品と一目に分かる安物の打刀。瞳は例外なく粗野な欲望でギラついている。
どこからどう見ても、完璧に山賊である。
彼らが振り向いたことで人垣が崩れ、彼らが囲んでいた存在が明らかになった。
若く透き通るような白さを持ちながら、熟した果実のような匂いたつ色気を発散する肌。
白い絹糸のように艶やかで、濡れたようにしっとりとした髪。
紅玉をはめ込んだように赤く、底知れない深みをたたえて煌く瞳。
肩や二の腕、臍を露出していながら見る者に高貴な印象を与えずにはおかない白の巫女装束と、それを柔らかく豊かに押し上げる乳房。
そして腰から下の細やかな鱗に覆われた長い長い蛇体。
潤んだような朱の唇も、長く伸びた耳も、ふっくらとした頬も、男として生まれたからには見とれずにはいられない輝きを放っていた。
白蛇、と呼ばれる妖怪に相違ない。
台無しだ、と声の主……武芸者は思った。
髪も肌も装束も土埃で薄汚れてしまっており、表情は恐怖に引きつり、そのせいで瞳も輝きを失ってしまっていたためである。
「あんだァ、兄ちゃん。この辺のモンか?」
邪魔しやがって。
そう思っているのが一目で分かる苛立った声音をあげながら、頭目らしい一人が進み出る。
「いいや。」
対して、武芸者の声音はどこまでも冷静。
ちぐはぐな姿である。
顔の造作も得物の刀も、全てがジパング人の典型的なそれ。しかし、その身を包むのはどう見ても舶来の出で立ち。革製の留め帯に直接刀を差していた。それも3本。
左腰の大小はいいとしても右腰にまで小、つまり脇差を差しているのは何なのか。
しかも何故3本全てが天神差し(刃を下にして差した状態)なのか。
大方どこぞの世間知らずの坊ちゃんが、傾奇者気取りで奇抜な格好で旅をしているのだろう。
部下らしき男たちはそう言って男の風体を嘲った。
「そうかい、じゃあとっとと失せな。こいつァ俺たちの正当な稼ぎなんだよ。」
「知るかそんなもの。それより物部一味の頭目、壱坐ってのはお前で間違いないな?」
「なッ……手前ェ、俺たちを追ってき」
ごぎっ。
頚椎を破壊する嫌な音が響いて、言葉の続きを言えずに頭目は倒れ伏す。
武芸者が抜く手も見せずに振り抜いた一撃の結果である。
出血がないところを見ると峰打ちらしかったが、そもそも打刀というのは重量1.5kgに迫る金属製の棒である。
そんなものを全力で振り抜いた攻撃が首という人体の急所に直撃すれば……刃を返してあろうがなんだろうが人は死ぬ。
事ここに至ってようやくこの青年が強敵であることを理解した部下たちが口々に罵声を吐きながら彼を取り囲もうとする。
が、その動きに統制がまったく取れていなかったので、武芸者は一番先頭の敵から攻撃を加えていった。
「てめええぇっ!!」
めきっ。
口から泡を飛ばして向かって来た男が刀を振り上げる前にこめかみを横殴りに一撃。
「お頭をやりやがったなぁっ!?」
ごちゅっ。
唐竹割りの一撃を半身ずらして避け、股間を下から蹴り上げ、潰す。
「死ねゴラァッ!!」
どごっ。
袈裟斬りの斬りつけを弾き返し、跳ね上げた刀で脳天唐竹割り。
「まだやるごきゃっってんなら容赦はしないが、どうする?」
「ひっ……!」
10秒に満たない時間で仲間3人を再起不能にした武芸者にぴたりと見据えられ、残りの山賊たちは心底震え上がった。
格の違う戦闘の腕前にではない。
金的を潰した男の首に足をかけその首を踏み折りながらの言葉でありながら、彼の口調にも表情にも一切の興奮がなかったからだ。
この男は、卵の殻を割るような平常心で敵を殺す。手向かえば、自分たちもあのように殺される。
そう思うに足る……いや、強制的にそう思わされる、いっそ静謐と言っていい眼差し。
山賊たちは転がるように逃げ去り二度と戻ってこなかった。
「あ、あの……助けていただいてありがとうございました。あなた様がいなかったら、わたくしの命はあの時消えておりました。……あなた様は、命の恩人でございます。」
打刀を鞘に収めて頭目の屍を検分している武芸者に、白蛇が声をかけてきた。振り返ると、深々と頭を下げられる。
声がまだ若干震えているのは、凄惨な戦闘現場を目撃した直後ならば仕方のないところだった。
「助けに来たわけじゃないんだけどな。単にこいつらが賞金首だったから討伐に来ただけで。」
「しかし、助けられたことには変わりがありません。わたくしは春賀(ハルカ)と申します。当地の水源である衣ヶ湖の護り龍、明日葉(アスハ)様の眷属で、ご覧の通りの白蛇でございます。
あの、よろしければお名前を……。」
「名前? 原村睦月(ハラムラ ムツキ)だ。こんな感じで賞金首を討伐しながら旅をしてる。」
白蛇…春賀の向けてくる尊敬の眼差しに、睦月は慣れていない。荒事を生業とする人間はそうでない人間からは疎まれるものだ。
少なくとも睦月はそうだった。
「で、その龍の眷属がなんでまたこんな目に?」
「はい、それが……」
彼女の話をまとめると、おおよそ以下の通りになる。
そもそもこの地方の沼や淵、池を治める龍たちは全員家族である。家族ならば当然親交がある。
一家団欒のためだったり、地方全体の治水の会議だったりのために、定期的に集まるのだ。
ただ、それぞれの都合で集まることができない場合はもちろんある。主に、付近に住む民の願いで雨乞いの儀式を執り行う時など。そういった場合には、配下の白蛇が近況などを記した手紙を届けることになっている。
明日葉の場合も雨乞いの儀式が集まる日にかぶってしまい、いつも通り春賀が手紙を届けたのだが……。
「その帰り道に移動してきた壱坐たちに出くわしたってわけか。」
「そうなります……なにぶん急な遭遇だったので、慌てているうちに囲まれてしまって……本当に、睦月さまが割って入ってくださらなかったらどうなっていたことか。」
「それはもういいって。じゃあ、残りの道中も気をつけてな。」
「そういうわけには参りません!」
やおらひしっと服の裾を掴む春賀。歩き出そうとした睦月はバランスを崩しかけてつんのめる。
「命の恩人と何のお礼もなしに別れたとあってはわたくしは明日葉さまにお叱りを受けてしまいます!
どうか、どうか一緒に明日葉さまの社へおいでください!
ぜひともきちんとしたお礼をさせていただきたいのです!」
「いや、俺はそういうのはちょっと……。」
「もう一度わたくしを助けると思って、お願いします!」
「こいつら討伐した賞金を受け取らないといけないし……。」
「もっとたくさんお礼を差し上げてもいいですから! どうかひとつ!」
「……。」
「……。」
しゅるり。
「そんな目で見ながら尾を巻きつけるんじゃない! 分かった! 行くから! 行くから離せ!」
「そうおっしゃっていただけると思っておりました♪」
春賀に案内された社は思ったより近く、それから半日弱……日の暮れる前に到着。本殿の代わりに広大な水面を臨む拝殿で、睦月は突端の舞台のように張り出した部分で龍神に目通りをした。
思いの外丁寧に礼を述べられ、ささやかな酒宴が催され……そして、彼のために寝室が用意された。
そして、夜も更けた頃。
明かりを消して微睡んでいた睦月は近づいてくる気配に目を覚ました。基本的に武芸者は眠りが浅い。眠り込んでいるところを襲われれば、死に直結するからだ。
目を細く開けて見やれば、月光が差す障子に蛇体の輪郭が影を作っている。
「……春賀、か?」
「はい。…睦月さま、少しだけお時間をいただけませんか?」
「ああ、構わない。」
短い会話のあと、静かに障子を開けて春賀は部屋に入ってきた。身を起こした睦月は枕元の行灯に火を灯す。
柔らかな明かりに照らされた春賀は、昼間とは異なり白の肌襦袢一枚だけを身に纏っている。
最初に会ったときよりも肌の露出は遥かに少ない。にも関わらず睦月の鼓動が高鳴ったのは、薄手の布に肌の色が微かに透けていたからか、汚れの落ちた顔に蠱惑的な微笑が乗っていたからか、それとも焚き染められた桜の香が微かに届いたからか、あるいはその全部か。
布団を畳もうとする睦月を手で制し、再び腰を下ろした彼の正面に座る春賀。
「で、話ってのは?」
「そんな、折り入ったものではないんです。ただ、あの……睦月さまは変わった服を着ていらっしゃいますし、きっとたくさん旅をされてきたんですよね?
なので、できたら旅のお話とかを聞かせていただきたいな、って。」
そんなことか、と睦月は苦笑を隠そうともしない。
どこへ行くにも制限のない旅人と違い、特定の水源を守る龍やそれに仕える白蛇は言ってしまえばその土地に縛られた存在だ。他所の話を聞きたがるのも当然だろう。
睦月はせがまれるままに語って聞かせた。
西洋魔術で駆動する、高さ3間にも達する全身鎧を駆って戦う国。
竜を誼を結んだ王族たちによって、大災害と呼ばれる地震が封じられている北の雪国。
あるいは南洋、恐るべき装甲船をたった一人で操りながら、とうとう一人で生涯を終えた不器用な魔術師の話。
「睦月さまは生まれはジパング……ですよね?」
「ああ。」
「旅に出たのは、何故なのです……?」
ひとしきり語り終え、春賀の用意した茶を啜っていた睦月。僅かに目を細めた。
「……掟だ。元服を迎えた士族の男子は、諸国行脚によって武芸と見識を磨くべし。」
「それでは、あの、睦月さまももうすぐ故郷に……」
「もうない。」
沈んだ調子になった白蛇の言葉を武芸者の言葉が打ち消した。
はっとして彼の顔を見る。椀の中の小さな水面を見据えたまま、武芸者は言葉を連ねていった。
「その時の行脚はあくまでジパング内の話だよ。何年後かに戻ったら、もう滅ぼされた後だった。」
「では、復讐のために修行を……?」
「それも違う。
『力と技は民のため。私欲は武芸を濁らせる』。それが受けた教えでな。
新しい支配者連中が重税なり、賦役なり、圧制を布いてたら俺も抵抗を考えたんだけどな。意外なことに、連中の施政は良かった。いっそ前より民の暮らし向きが豊かになった程度には。
……あそこはもう、俺の故郷じゃない。俺はもうあそこには必要なかった。
だからどうしていいか分からなくなって、ジパングを出たんだよ。
結局それも5年くらいで帰ってきたけどな。あとはそのまま今に至る。」
「……ごめんなさい。」
「いや、俺も人に話すような話じゃなかった。悪かっ」
悪かったな、とは言えなかった。
いきなりのしかかってきた春賀に押し倒されたためだ。
「おい、春賀落ち着け!?」
「ごめんなさい、睦月さまっ♥ 助けていただいた殿方からそんな弱いところを見せられたら……春賀は、春賀はもう我慢ができませんっ♥」
ジパングの着物にはないボタンが外されていく。最初は苦心しながら、コツを覚えればするすると滑らかに。
露になった胸板に、するりと春賀の白い裸体が絡みつく。いとおしげにふっくらとした頬を擦り付ければ、睦月にもほのかな桜の香りに混じってどこか甘酸っぱい……春賀の匂いが感じられた。
「だから落ち着けって、気を確かに持て!」
「わたくしの身体は、お気に召しませんか……?」
「いや、それはすごく綺麗だと思うが……って、そういうことじゃない!」
何とか肩を掴んで引き剥がす。春賀に押し倒されたまま、腕の長さだけ距離をもって見詰め合う形になる。
「昼間の俺を見ただろう、俺は殺生を躊躇う類の人間じゃない。神域に長くとどまるべきじゃないのは、俺が一番わかってる。」
「あら、そんなこと。」
睦月の弁を春賀は一笑に付す。
細い腕を睦月の頭に絡ませれば、自然とふたりの距離は息がかかるほど、近い。
「殺生を躊躇わなくとも、睦月さまは振るう相手を間違えたりはしませんでしょう? 民の笑顔を案じて復讐さえ思いとどまったのがその証拠でございます。
ふさわしくないなどと、誰にも申させるものですか。」
顔にかかる春賀の息が甘い。そんな距離で微笑む顔に、つい見惚れる。
そのままふたりの距離は縮まって、ついに睦月の顔が襦袢越しに豊かな胸の谷間に埋まった。
「睦月さま、おっしゃいましたよね? 故郷に必要とされなくなってしまったって。だからジパングを出たって。
自分が必要とされるところを探していたんですよね? いてもいいところを探して、ずっと、ずっとさまよってきた。…そうですよね?」
「……なんで、お前に、そんなことが、分かる。」
「だって、昔のことを言っている時の睦月さまがすごく、寂しそうで……まるで迷子みたいって思ったんですもの。
あとは……女の勘ですわ♪」
普通、図星を指されると人は怒るものだ。理由が曖昧ならば、特に。
しかし春賀の笑顔を見ると、その怒りもなぜか何処かに溶けて消えてしまう。ちょうど彼女の名前のようだった、祝いの春が来て解けていく雪のよう。
あるいはこのとき、もう睦月の心は彼女に囚われていたのかもしれない。
「ねえ……春賀は、睦月さまのことが大好きになってしまいました。もう、睦月さまと一緒にならないで生きてはいけませんわ。
決して裏切りません。いつもいつも、睦月さまをお慕い申し上げます。
だから、どうか……そんな風に幸せを怖がらないでください。
わたくしでは、睦月さまの支えになれませんか……?」
会って一日と経っていない異性に、意識しないようにしていた自分の本心を丸裸にされて……それでも、不思議と嫌な気分ではなかった。
頭を撫でられる。頭上から優しい声が降ってくる。春賀の鼓動、暖かさ、柔らかさ、甘い香り。何年振りかも分からない安らぎがあった。
抵抗しているのが馬鹿らしくなってくる、蜜のような安らぎ。妖怪の常として、これが罠や美人局の類ではないと分るから余計に。
このまま浸ってしまいたいと願って、しかし素直になれない心は最後に少しだけ抵抗した。
「いいのか、俺で。後からもっといい男が見つかっても知らんぞ。」
「いいえ。睦月さまでなくては、だめです。わたくしにとっては睦月さまよりいい男などおりません。」
すねたような響きの問いに即座に答えが返ってくる。瞬きした目から涙が一粒だけこぼれて、すぐに襦袢に吸い取られた。
「まったく。……俺なんかでいいなら、好きにしろ。」
「はい、一生好きにさせていただきますわ♪」
ぶっきらぼうな声の調子も、胸の中で背けられた顔も、春賀はちっとも気にしなかった。
背中にそっと添えられた睦月の手が何より雄弁に彼の本心を教えてくれたから。
12/09/11 23:24更新 / 霧谷 来蓮
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