リンドウを、あなたに

 無言で便箋を折りたたみ、封筒へ戻す。
 けれど、指が震えて上手くいかない。
 一度、二度、三度と失敗して、ようやく成功する。

 こうなるだろう、という予感はあった。
 だから、涙は出ないし、怒りの気持ちも湧いて来ない。
 ただただ「あぁ、やっぱり」という思いと、胸の真ん中に大きな穴が開いたような、何とも言えない喪失感を抱いていた。

 端的に言うと、僕は失恋をした。
 昼過ぎに届いた手紙には、異国へ留学した恋人からの別れの言葉が綴られていた。
 四年間の留学の後、この街へ帰ってくるはずだった『彼女』は、そのまま向こうに根を下ろし、夢に向かって生きる覚悟を決めたようだ。手紙にはその思いと僕への謝罪の言葉が並び、最後はこれからの健康と幸せを祈る言葉で締めくくられていた。

「……ちょっと、ズル休みをさせてもらおうかな」

 橙色をした夕暮れの光が差し込んで来る窓を見つめながら、僕はそう呟いた。
 そして紙とペンを取り出し、ぼんやりとした思考の中で黙々とこう書いた。

『まことに勝手ながら、三日ほどお休みをいただきます 〜 クララ・ベーカリー 店主』


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 何だか、良い匂いがする。
 食欲を刺激される、自分の大好物の匂い。

「ん……?」

 その匂いに引っ張られるように眠りから覚めた僕は、のっそりと自室のベットを抜け出した。夕暮れ時の光は既に無く、部屋の中は夜の色と落ち着きに満たされている。
 とはいえ、勝手知ったる我が家の中だ。ランプを点けずとも、何の問題もなく台所へ進む事が出来る。

「あぁ……ライラか」
「ん、起こしてしまったか? すまなかったな」

 台所には、静かに鍋をかき回している一人のケンタウロスがいた。
 無駄なく均整の取れた美しい栗色の馬体は、今日も芸術品のように美しい。
 そして、清潔感ある白いシャツに包まれた人としての肉体もまた、美女の気品を漂わせている。

「……どうしたの?」
「それはこっちの台詞だ。体の具合は、大丈夫なのか?」

 馬体と同じ艶のある栗色の長い髪を揺らしながら、少し不機嫌そうな表情でライラが言う。
 その言葉の意味が一瞬理解出来ず、首をかしげかけて……「あ」と思い当たる。

「あぁ、うん。ごめん。大丈夫大丈夫」
「本当か? 医者には行ったのか? 三日も休むつもりなんだろう?」
「いや、行ってないけど、大丈夫だよ」

 苦笑いしながら、ライラの言葉をかわす。
 どうやら彼女は、張り紙の内容と僕が眠っていたという事実を合わせて、『体調不良による臨時休業だ』という結論に至ったらしい。
 そう思っているのなら、彼女に余計な心配をかけないためにもこのままで……

「…………」
「……ライラ?」

 そう考えていた僕の顔を、ライラがじっと見つめて来る。
 シャープな輪郭に、大きな瞳。形の良い鼻と、花びらの様に可憐な唇。今も昔も、彼女は美人だ。

「嘘だな」
「え?」
「お前は嘘をつくと、右の眉が下がる。ものすごく申し訳なさそうな顔になるんだ。前にも言っただろう?」
「あぁ、うん……」

 そう言えば、そんな指摘を以前からしばしば受けていたような気がする。
 「本気でライラに嘘をつかなきゃいけないような場面なんて来ないよ」と言って、大して気にしていなかったのが仇になったか。
 鍋を火から下ろしながら、ライラが言葉を続ける。

「色々問い詰めたいところだが、まずは食事にしよう。何も食べていないのだろう?」

 皿を出し、グラスを出し、水を用意し……手際よく食卓の準備を進める彼女に、静かに頷いて答える。

「久しぶりに、お前の好きなものを作ってみたよ。さぁ、食べよう」
「うん、ありがとう……」

 そうして僕らは台所から料理を運び出し、テーブルに並べて向き合った。


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 僕の家は、祖父の代からこの小さな街でパン屋を営んでいる。
 子供の頃から師匠である両親の教えを受け、「これなら大丈夫だな」というお墨付きを貰い、三代目として店のバトンを受け継いだ。
 ……と言うと、何だか大そうな事をやっているように聞こえるが、実際には遊びの延長から始まった穏やかな道のりだった。

 ちなみに現在、両親は山を二つ越えた温泉の出る村へ移り住み、悠々自適の生活を楽しんでいる。
 そんなこんなの結果、現在の僕は一人では少し広すぎるように感じるこの店舗兼住居で、日々黙々と頑張っているのだ。

「今宵の恵みに、感謝」
「天と地の贈り物に、感謝……美味しかったよ。ありがとう」
「そうか。なら良かった」

 ほぼ同時に食事を終えた僕らは、そんな風に食後の挨拶を交わした。
 失恋しても、腹は減る。案外自分は、図太い奴だったのかも知れない。

「じゃあ、皿洗いは僕が……」
「いや、待て。先に話しをしよう」
「あぁ、うん。わかった」

 椅子から立ち上がりかけた僕を、足を折りたたんで床に座っている、テーブルの向こう側の彼女が制した。
 お互いの身長や体の構造が違う故の事ではあるが、見慣れぬ人の目には奇妙な対比に映るかもしれない。
 何となく、母親にイタズラを見破られた子供の様な気持ちになりながら、僕は椅子に座り直した。

「で、何があった。不貞寝していたのか? 言っておくが、嘘は通じないぞ?」
「うん、わかってるよ」

 念を押すように言う彼女に、苦笑いで応える。
 そして、何をどう伝えようかと思案して……結局は、これが一番わかりやすいだろうと結論付けた。

「何と言うか……これを見てもらえば、全部わかるんじゃないかな」
 郵便物をまとめて保管している木箱から、僕はあの手紙を取り出した。

「手紙、か。私が読んでも良いのか?」
「本当は、マナー違反だろうけどね。でも、知らない間柄の三人って訳でもないし」

 僕が口にした『三人』という言葉に、ライラがピクリと反応した。
 一瞬交錯したであろう複雑な感情が、彼女の眉間に深い皺を刻ませる。
 僕が黙って封筒を差し出すと、ライラは「では……」と低い声で応えながらそれを受け取った。


 ライラが手紙を読み終えるのに、そう長い時間はかからなかった。
 彼女は静かに便箋を折りたたみ、それを封筒に戻して僕へ返した。

 そして、部屋に沈黙が訪れる。

 僕は、これ以上に伝えるべき言葉が見つからず、ライラもまた、うつむいたまま黙っている。
 居心地が良いとは、決して言えない時間。けれども、逃げ出したいとは思わないような時間。
 窓からは、ホゥホゥとどこかで鳴いているフクロウの声だけが聞こえて来る。

「……無邪気な子供の季節は、どこで終っていたんだろうな」

 そう呟いたらライラの声に、僕は何も答えられなかった。


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 僕とライラと『彼女』は、幼なじみの三人だった。

 『彼女』は、音楽家の娘。
 僕は、パン屋の息子。
 そしてライラは、孤児院の子供。

「孤児院にお前と同じくらいの女の子がいるんだが、話し相手がいなくて寂しそうにしてるらしい。明日の配達、父さんと一緒に行かないか?」

 父親にそんな事を言われたのは、僕が五歳の時だった。
 丘の上に教会と共に建っている孤児院へ、僕の家は今も昔も無償でパンを提供している。
 その配達の際、教会を運営している神父様から、父はライラについての話を聞かされたらしい。

「うん、行く!」
 その女の子の話し相手になりたいという思いよりも【こじいん】なる場所に興味があって、僕は元気良くそう答えた様な気がする。
 そして翌日、僕は父と共に孤児院へ向かったのだが……ライラとの出会いは、大変なものになってしまった。

 その原因は僕にではなく、ライラにでもなく、全て父にあったと今でも思う。
 僕は、細かい事を何も聞かされていなかったのだ。

 ライラが、ケンタウロスの女の子であるという事を。
 ケンタウロスという種族が、幼い頃から高い誇りと自尊心を持っているという事を。
 そんなケンタウロスのライラが、孤児院の他の子供達に全く心を開いていなかったという事を。

 そうして、いきなり結論から言えば……僕は、ライラに蹴り飛ばされて失神した。
 無理もないと思う。
 見知らぬ奴がいきなり駆け寄って来て背後に回りこんだ挙句、

「君、お馬さんなの? すごいね! ちょっと乗っていい?」
 ……なんて言ったのだから、ライラでなくても怒るというものだ。

 覚えているのは、「きさまぁぁぁ!」というライラの叫び声と、電光石火に振りぬかれた彼女の後ろ脚。あとは胸に感じたとんでもない衝撃と、神父様と父の「うわぁっ!?」という叫び声。
 後に聞いたところによれば、僕は優に三メートルは吹っ飛んだそうだ。結果、失神した後、そのまま緊急入院。「一体何がどうなってこんな怪我を!?」というお医者さんの言葉に、神父様も父も何も答えられなかったそうで……。


 けれど、物事と言うものは一体何が幸いするかわからない。

 そんな騒動以来、僕とライラは何故か一緒に遊ぶようになっていた。
「お前みたいな無礼千万な奴を放置していたら、この街が大変な事になると思ったんだ。だから、私が近くで見ていなければと考えてな」
 ……とは、大人になってからの彼女の言葉。

 それが嘘か真かはわからないけれど、とにかく僕とライラは友達になった。
 父の配達にくっついて行き、そのまま母が迎えに来る夕方過ぎまで彼女と遊ぶ。
 そんな事を繰り返しているうちに、ライラは孤児院で暮らす他の子供達とも次第に打ち解けていった。

 お母さんを亡くし、その悲しさから群れを飛び出して行き倒れていたというライラ。
 とてつもない悲しみと混乱の中で凍り付いていた心を溶かす事が出来たのなら……蹴り飛ばされたあの痛みも、良い思い出になるというものだ。


 そうして一年ほどが経った頃、『彼女』が両親と共にこの街へ引っ越して来た。

 呼吸器の病気に悩まされていた『彼女』の母親の療養と、あまりにも辺鄙な所へは行けないという父親の仕事の都合。
 その二つの落とし所として丁度良かったのが、程よく田舎で空気の良いこの街だったそうだ。
 そして『彼女』の両親が僕の両親と親しくなり、孤児院の事を知り、無償で音楽の授業を行うようになったのは、引越し後間も無くの事だった。

 僕とライラと『彼女』は、すぐに友達になった。
 明るく素直で、誰に対しても分け隔てなく笑顔を向けられる『彼女』。
 それは、昔も今も変わらない『彼女』の才能の一つだった。

「あんた達は、三人兄弟みたいだねぇ」
 飛んだり跳ねたり走ったり、いつも全力で遊んで同じ様に泥んこになっていた僕らを見て、母はよくそんな事を言っていた。
 抜群の運動神経の片鱗を見せていた、栗毛のライラ。歌の上手さと好きさが評判になっていた、金髪の『彼女』。そして、特にこれといった取り得の無かった、黒髪の僕。

「三色兄弟だね。うん。みんな違ったバラバラの個性。結構結構!」
 そう言って豪快に笑いながら、頭をグシャグシャと乱暴に撫でてくれた母の顔を、僕は今でもハッキリと覚えている。


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 そんな三色兄弟の日々に変化が生じたのは、僕達が十三歳になった時だった。

 ライラが、遠く離れた街にある、全寮制の武術学院への進学を決めたのだ。
 明晰な頭脳と飛び抜けた身体能力を併せ持つ、ケンタウロスという種族。
 その力と可能性を伸ばす事を提案した神父様の言葉に、ライラは静かに頷いた。

「我流ではなく、きちんと武術を学んでみたいんだ。槍術の達人だった、母さんみたいにもなりたいしな」

 少しだけ寂しそうに、けれどいつもの強い眼差しでそう語ったライラの旅立ちを、僕も『彼女』も祝福した。
 本音を言えば、ものすごく寂しかった。でもそれ以上に、ライラの選んだ道を応援したかった。自分と『彼女』のお姉さん役として、いつも凛々しく前を見ていたライラの成長を、邪魔したくなかった。

「進学したからと言って、二度と会えなくなる訳じゃない。手紙も書くし、長期の休みの間は帰って来る。約束する。だから、二人とも泣くな!」

 旅立ちの日、ボロボロと涙を流す僕達に、ライラは苦笑いしながらそう言った。
 僕と『彼女』は、ライラの背中が見えなくなるまでずっとずっと手を振り続けた……。


 そうしてライラが自らの道を歩み始めた後、僕と『彼女』の関係に微妙な温度が宿り始めた。

 今にして思えば、それはごく自然な事だったのかも知れない。
 思春期に入り、お互いを異性として意識し始めた頃に、僕と『彼女』はポンと二人だけ残された。
 別に、ライラに遠慮していた訳じゃない。ましてや、その存在が邪魔になっていたなんて事は、絶対に無い。

 しかし、ライラが旅立ってから……僕と『彼女』の距離は、ゆっくりと確実に縮まっていった。
 兄と妹、あるいは姉と弟の様な関係から、一人の男の子と女の子としての関係へ。

 きらきらと光を跳ね返す金色の髪と、エメラルドのような瞳。少しだけ厚めの唇と、なめらかな卵形の輪郭。
(……あれ? この子って、こんなに可愛かったっけ?)
 日々色づき、花開くように成長していく『彼女』の姿に、僕は何とも言えない困惑にも似た気持ちを抱くようになっていた。

 実際、『彼女』は相当にモテていた。
 同じ年頃の男の子達は『彼女』に気に入られようと一生懸命だったし、女の子達は少しだけ妬みの気持ちを抱いていたようだ。
 けれど、『彼女』は誰とも付き合おうとはしなかった。

「ごめんなさい……私には、好きな人がいるから……」
 それが、勇気を振り絞って告白して来た男の子に対する『彼女』のお決まりの返答だった。


「またフッたんだって? これで何人目?」
「……その数をかぞえて私が答えるのも、意地悪じゃないかな」
「まぁ、それもそうだ」

 ライラが育った孤児院へ、パンの配達をした帰り道。
 仕事を手伝ってくれた『彼女』と歩きながら、そんな会話を交わしていた。

「男どもは、結構必死になってるよ。『あの子の思い人は、何処のどいつだ!? 見つけ次第、襲い掛かって踏みつけてやるっ!!』って」
「それは……ちょっと、大変だね」
「大変だねって、君がその原因ですよ?」

 『彼女』の言葉に、思わず笑いながら言い返してしまう。
 茜色に染まった景色の中で……しかし、『彼女』は笑ってはいなかった。

「……大変、だよ」
「何がどう大変なの?」
「あなたが襲われたり、踏みつけられたりしないか心配だから……ちょっと、大変」
「……え」

 その言葉の意味が理解出来ず、間抜けな声と共に立ち止まった僕。
 茜色の光の中で、胸の前で手を組み、潤んだような瞳でじっとこちらを見ていた『彼女』。

 それが、十四歳の初夏のこと。
 僕と『彼女』が、三色兄弟の中の二人から、恋人同士の仲の二人になった日の出来事。


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「明日から、店は張り紙通りに休むのか?」

 不意に沈黙を破って、ライラが僕に訊ねて来た。

「あぁ、うん。ここのところ休み返上で仕事してたから、まぁ丁度良いかなと思って」
「そうか」

 そう言ってライラは「ふぅ」と一つ息を吐き、再び口を開いた。

「なら、少し私に付き合え」
「うん、別に構わないけど……何かあるの?」
「それは、明日以降のお楽しみだ」

 そしてライラはすっと立ち上がり、そのままにしていた食器類を台所へ運び始めた。
 僕も慌ててそれを手伝いながら、彼女の後に続く。

「あぁ、一泊二日の泊りがけになるから、それ様の準備をしておいてくれ。動きやすい服装と、履き慣れた靴でな」
「えぇ? 何処へ行く気なの?」

 手際よく皿を洗っているライラに、僕は少し戸惑いながら問いかけた。

「だからそれは、明日以降のお楽しみだ。野営の準備は私がしておくから、心配するな」
「野営って……まさか、どこかで僕をビシバシしごくつもり?」
「ん、そういうのが希望か? それなら、予定を変更してもいいぞ?」
「いやいやいや。まだ死にたくないから、勘弁してください」

 僕の体力が十だとすれば、彼女のそれは千や万の領域だ。
 人とケンタウロスの違い云々の話しではなく、これは幼い頃から変わらないお互いの個性の一部でもある。
 ブンブンと思わず本気で首を振った僕を見て、ライラはクスっと小さく笑った。

「傷心の幼なじみを、しっかり慰めてあげようと言っているんだ。黙って私に付いて来い」
「はぁ……それは、どうも」
「気の無い返事だな」

 そう言ってライラは、僕の額を中指でビシっと弾いた。
 東方の国ではデコピン≠ニ呼ばれているらしい、これまた子供の頃から変わらない彼女の僕に対するおしおき方法だ。

「いてっ!」
「あぁそれと、裏口の扉……そろそろ付け替えた方が良いんじゃないか?」
「いてて……え、どうして?」
「いい加減、あれは無用心じゃないか? 前よりも簡単に開く様になっているぞ?」

 話しの内容の変化と額の痛みに難儀しつつ、僕は裏口の扉の事を考えた。
 実は、この家の裏口の扉は、かんぬきを掛けても開いてしまう。厳密に言うと【コツを掴んだ特定の揺さぶり方をすると、かんぬきが外れて開く】という、何とも妙な扉なのだ。

「僕らが子供の頃から使い続けてる扉だからね。いい加減、ガタが来てるのかな」
「……いや、私達が子供の頃から揺さぶると開いていたぞ、アレは」
「そうだったっけ? でもまぁ、別に構わないよ」
「そうか? 確かに私も、あまり強く言えた立場ではないが……」

 そう言ってライラは、フワリフワリと尻尾を揺らした。
 何となくバツの悪い思いや悲しみを感じている時に見せる、彼女の癖だ。
 彼女が僕の癖を見抜けるように、大人になった僕も、彼女が持っているいくつかのそれを察知出来る。長い付き合いという奴も、良し悪しなのかも知れない。

「今日だって、ライラは裏口の扉を開けて入って来たんでしょ?」
「あぁ、まぁな」
「扉を付け替えるとそういう事も出来なくなるし、そもそも開け方を知ってる人は……四人だけなんだし。大丈夫だよ」

 あの扉の開け方を知っている人。
 それは、僕の両親、僕、ライラ、そして恐らくもう二度とやって来る事は無いだろう……

「おい」
「いてぇっ!!」

 『ビシィっ!』という鋭い音が聞こえた……ような気がした。
 久々に食らう、ライラの本気のデコピンだ。痛い。ものすごく痛い。額の中心点が陥没したんじゃないかと思うほど痛い。

「そんな表情で、そんな事を言うな。悲しみと向き合う事と卑屈になる事は、全くの別物だろう?」
「あぁ〜、うおぉぉぉ〜……」
「とにかくそういう事だから、明日の準備をしておくように。昼の二時過ぎに迎えに来るから、店の前で待っていろ。わかったな。それでは」

 木製の床にゴツゴツという蹄の音を残しつつ、ライラは軽く手をあげて帰って行った。いつの間にか、食器類は完璧に片付けられている。その上で、悶絶している僕に心配の声をかけないあたりは、流石と言うか何と言うか。

「あぁ〜、もう……それにしても、何処へ連れて行くつもりなんだろ?」
 じんじんと熱を帯びた痛みに涙目になりながら、僕は独りぼっちの台所でそう呟いた。


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「そう、か……私達も、いつまでも子供ではないという事だな……」

 僕と『彼女』の話を聞いて、ライラはフワリフワリと尻尾を揺らしながらそう言った。
 秋期休暇を利用して街へ戻って来たライラに、僕と『彼女』は真っ先に事実を打ち明けた。
 他の誰かならばともかく、ライラにだけは何もかも全てをきちんと伝えておきたかった。
 それが、心から愛し、親しみを感じている、精悍さを増した【姉】への礼儀だと思ったからだ。

「あと、それともう一つ、ね?」
「うん……あのね、ライラ。私も、ライラと同じ様に学校で学ぶために、この街を出る事にしたの」
「そうなのか?」

 『彼女』の言葉に少しだけ目を丸くしながら、ライラは僕の方を見てそう言った。

「うん。首都の音楽学院の声楽科……だよね?」
「そう。パパが卒業した、全寮制の学校。一月前の入学試験に、合格出来たんだ」
「首都の音楽学院と言えば、大変な名門校じゃないか。すごいな!」

 常日頃から冷静なライラが、思わず大きな声をあげた。
 それも無理はない。ライラの言葉通り、その学校は異国からも生徒が集まる有名な学び舎なのだから。

「そうか……昔から歌が上手いとは思っていたが、あの学校に合格するほどだったとは。おめでとう!」
「うん、ありがとう!」

 ライラが差し出した右手を、『彼女』は微笑みながらそっと握り返した。
 その手を離した後、ライラは僕にこう問いかけて来た。

「では、これからお前はどうするんだ?」
「僕は、店を継ぐ事にしたよ。二人の進む道に比べると随分地味だけど、うちの味を守りながら、店を少しずつでも発展させていけたらなって……」
「そんな言い方をするな。地味なものか。お前にしか進めない、大切な道じゃないか」

 少し自信なく、うつむきがちに話した僕へ、ライラはきっぱりとそう言った。
 その言葉に『彼女』も続く。

「ね? ライラも、私と同じ事を言ったでしょう?」
「うん……ちょっと、自信が付いたよ。ありがとう」
「あら? 私の言葉じゃ足りなくて、ライラの言葉なら満足なのかしら?」
「え、いや、そういう事じゃなくて。うん。違う。違うよ?」

 おどけた様な、怒った様な、そんな『彼女』の弾む言葉に、僕は思わずしどろもどろになった。
 そんな僕達の様子を見ながら、ライラはやれやれと肩をすくめてこう言った。

「まったく……私がいない間に、お前達がどんな二人になったのか、よくわかったよ」

 そして、僕らは笑いあった。
 ライラの尻尾は、フワリフワリと揺れ続けていた。


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 少し妙な事ではあるけれど、三人がバラバラになったその後の数年間は、楽しく充実した日々になった。

 確かに、ライラも『彼女』もいなくなってしまった事は、とても寂しかった。
 けれど、二人から送られて来る手紙や、各種の大会で入賞、優勝したという知らせは、僕の心を常に暖かくしてくれた。

 二人に負けてはいられない。ライラに認めてもらいたい。『彼女』にもっと好きになってもらいたい。離れたからこそ感じる、そんな素朴な熱意と使命感が、僕を前向きにさせていった。
 大きな街で開かれた新人料理人コンテスト:パン部門で優勝したのも、そんな頃の話だ。

 それぞれが持ち帰ったメダルやトロフィーを見せ合いながら、朝まで語り明かした十七歳の秋の記憶は、これからもきっと色褪せる事は無いだろう。


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 明けない夜は無いけれど、永久に輝き続ける昼も無い。
 あたたかく楽しい季節の後には、風が吹きつける冷たい季節がやって来る。

「え、留学? 二年間……?」
「うん。特待生として、隣の国の音楽アカデミーへ……」

 春期休暇で街へ戻っていた『彼女』がそう告げたのは、十八歳の時だった。
 『彼女』が極めて優れた才能の持ち主であるという事実は、進学後すぐに明らかになっていた。
 そんな『彼女』に対して、異国の有名アカデミーが特待生の待遇を持って迎えようとする事も、当然の事だと理解出来た。

 ただ……一点だけ、僕の心に引っかかる部分があった。

「そのための手続きは、もう済ませてしまったんだよ、ね?」
「ごめんなさい……」

 そう、『彼女』の留学の話は、完全な事後報告だった。
 五年間の勉学を経て先に街へ戻っていたライラと同じ様に、『彼女』も戻って来てくれるのでは……という期待は、確かにあった。
 しかし、それと同じくらいの大きさで、恐らく『彼女』はここへは戻らず、さらなる成長の道へ進んでいくのだろうという予感もあった。

「いや、責めてる訳じゃないんだ。ただ、全部が完了した後に言われたのが……」
「ごめんなさい。急に話が持ち上がって、すぐに結論を出す必要があったから……ごめんなさい」

 三人で遊んだ孤児院の広場。その木陰で、『彼女』はうつむきながらそう言った。
 僕は、そんな『彼女』の姿を静かに見つめた。そして素直に、「綺麗になったな」と思った。
 恋人に対する惚気などではなく、純粋に一人の女性として、『彼女』は美しくなっていた。
 腰まで伸ばされた金色の髪は、昔と同じ様に輝いている。表情にあった甘さや頼りなさはいつしか消え去り、凛とした女性の美に溢れている。

(……昔と同じ、いや、たぶんそれ以上にモテているんだろうな)
 考えないようにしていても、いつの間にかそんな事を思って不安になってしまう。
 『彼女』が、以前ほど学校での交友関係について話さなくなっていた事も、そんな気持ちを加速させていた。

(馬鹿野郎! こんな時に、何をグズグズ考えてんだっ!)
 揺らぐ思考と震える膝に喝を入れ、僕は『彼女』に語りかけるべく口を開いた……。


「それで、お前はどうしたんだ?」

 その日の夜。僕はライラの家にいた。
 街へ戻って来た後、【自警団員 兼 保安官、および孤児院の教師 兼 事務員】としての任に就いた彼女の家が、ここだった。大きな武術大会で勝ち取った優勝賞金を、彼女はこの家を買うためにポンと全て使い切ったのだ。

 実は、ライラもまた『彼女』と同じく、その優れた才能と努力する信念を高く評価されていた。
 お母さんのようになりたいと願っていた槍術の腕前を、誰もが認める領域にまで磨き上げた事が、その一つの証拠といえるだろう。

 そして彼女は、エリート部隊として名高い首都防衛団のスカウトを受けた。
 誰もが憧れる組織からの誘い。待遇も名誉も、一度に手に入れる事が出来る世界。

 しかし彼女は、それを断った。
「私が守りたいと願うのは、あの街の人々なのです。全身全霊を傾けて働きたいと思う場所は、あの街なのです。そのお話し、まことに恐れながら謹んで辞退させて頂きます」
 何とか考え直させようと躍起になる教官や防衛団の人々に深々と一礼し、彼女はその場を去ったという。


(そんな風にライラが戻って来たから、『彼女』も同じ様にしてくれると思っちゃったのかな)

「おい、話を聞け」
「ぐっ……!?」

 質問に答える事無く黙り込んでしまった僕の額に、ライラはデコピンを放って来た。
 その痛みと衝撃が、僕の意識を一気に現実へと引き戻す。

「え、あ、何っ!?」
「何じゃない。それで、お前はどうしたんだと訊いているんだ」

 椅子に座っている僕と、足を折りたたんで床に座っているライラ。
 二人の間で、あたたかいお茶がゆっくりと湯気を立てている。

「行っておいでって……言ったよ」
「そうか」

 ライラの尻尾が、少しだけ動いた。

「だけど、たぶん……『彼女』は、もうこの街には帰って来ないような気がするんだ」
「どうして?」
「『彼女』の才能は、この街には収まらないと思う。あと……悔しいけど、もっと素敵な男とも出逢うんじゃないかな。これから」

 なんて女々しい物言いなんだと心の中で自嘲しながら、僕は言葉を搾り出した。
 そんな僕の顔をじっと見つめた後、ライラは少しだけ微笑んでこう言った。

「では、この街に戻って来た私は、ここにすっぽりと収まる女なのかな?」

 初めて耳にする彼女の皮肉めいた物言いに驚いて、僕は反射的に口を開いた。

「違う、そういう意味で言ったんじゃない! ライラは、その……上手く言えないけど、僕はライラの事は本当に尊敬してるんだ。だからっ……!」
「……すまない。嫌な言い方をしてしまったな。許して欲しい」
「いや、こっちこそごめん。大きな声を出して」

 その時、ライラの下半身……馬としての部分の毛が、少しだけ逆立っている事に気がついた。
 それが喜怒哀楽のいずれかをハッキリと感じた時に現れるサインだと、僕は長年の付き合いの中で知っていた。大きな声を出して、悲しませてしまったのだろうか。それとも、女々し過ぎる言い草に腹を立ててしまったのだろうか。

 そうして沈黙した僕に、ライラはそっと言い聞かせるように口を開いた。

「未来の事は、良くも悪くも誰にもわからない。お前の言う通り、『彼女』は戻ってこないのかも知れない。その心も、次第に離れて行ってしまうのかも知れない」
「うん……」
「今のお前の心は、不安で満たされているんだろうな。こんなに不安なら、怖いのなら、いっそ全てを壊してしまいたいとさえ思っているんじゃないのか?」

 その言葉に、僕は黙って頷いた。

「だけど、それは出来ないんだろうな。何故なら、お前は『彼女』の事が好きなのだから。他の誰よりも愛しいのだから。いざとなれば、お前は『彼女』のために命を差し出す事も厭わないだろう」

 そう言ってお茶を一口飲み、ライラは言葉を続けた。

「きっとその思いは、彼女から別れを告げられるか、拒絶されるかまで続く事になる。誰かを愛するという事は、心の生殺与奪を全て相手に委ねる事に等しいのかも知れないな」
「……辛いね」
「あぁ、辛い。辛いさ。けど、自分で愛したいと、信じたいと思ったのなら、その道を行くしかない。たとえその先に道がなく、断崖絶壁になっていたとしても、な」


 そうしてライラとの会話は終わり、その翌々日に『彼女』は旅立って行った。
 力なく日常の生活に戻った僕に、ライラはこう言った。

「頑張れ。私も、頑張るから。お前も、頑張れ」


━━ ━━ ━━ ━━ ━━ ━━ ━━ ━━


 前夜の予告通り、ライラは午後二時過ぎにやって来た。
 軽やかな若草色のシャツと、ポニーテールにまとめられた栗色の長い髪。格子模様の荷物鞍に野営用の品々を括りつけ、腰にはショートソードが携えられている。

「よし、ちゃんと動きやすい靴と服装だな」
「もちろん。あと、今日の夕飯と明日の朝食用のパンも用意しといたよ」

 そういって僕は、背負った自分の鞄を後ろ手でポンポンと叩いた。
 ……水や着替えも入っているから、正直結構重いのだけれど。

「素晴らしい。お前ならしっかり準備しておいてくれるだろうと思って、夕食の備えはして来なかったからな」
「……それは、僕が信用されてるってこと? それとも、ライラの計画性が博打的ってこと?」
「さぁ、出発だ。ついて来い」
「うわ、流した!」

 僕の問いに答える事無く、ライラはくるりと背を向けて歩き出した。
 その尻尾はピンと持ち上がり、体の動きに合わせて楽しげに揺れている。

(……ご機嫌は、上々のようだけど)
 僕はそれを見てクスっと笑い、小走りで彼女の横についた。


 商店が並ぶ通りを抜け、丘を上って教会と孤児院のわき道を通り、緩やかな上り坂を経て低い山を一つ越える。途中一度の休憩を挟み、大小二つの丘を越えると……そこには、小さいけれどとても美しい川が流れていた。

「よし、目的地に到着だ。この原っぱに野営するぞ」
「ハァハァ……は〜い……」
「何だ、ヘトヘトじゃないか。だらしがないな」
「ハァ……うん、ちょっと自分でもびっくりしてる……」

 汗一つかいていないライラに対して、僕はヘトヘトになっていた。仕事ばかりで体力が低下しているんだろうなぁと思ってはいたけれど、正直ここまで酷くなっているとは。

「野営の準備は私がしておくから、お前は荷物を下ろして顔を洗って来い。すっきりするぞ」
「うん、そうする……ありがとう」
「くれぐれも川には落ちるなよ?」

 夕暮れの終わりと、夜の始まり。その間の頼りない光の中で、僕は頷きながら静かに荷物を下ろし、ゆっくりと川へ近づく……前に、一つ気になっていた事をライラに問いかけた。

「ところでさ、今日は一つのテントに僕とライラで寝るの?」
「あぁ、その予定だが? 何だ? 外で寝たいのか?」
「いやいやいや、そうじゃなくてさ……あの……まぁ、いいや」

 『何を言っているんだお前は』という様子で首をかしげるライラにそれ以上伝えるべき言葉が見つからず、僕は川の方へ向き直った。
 雑魚寝とかは昔からし慣れているし、昨日の様に突然家にあがって来ている時もあるし、幼なじみの僕達にとってはまぁ今さらではあるのだけれど……。

 胸の中にある、そんなモヤっとした気持ちを濯ぎ落とすように、僕は顔を洗った。
 その水はとても美しく澄んでいて、程よく冷たかった。


「うん、これは美味い。このパンは、新商品なのか?」
「そう、新商品候補の一つ。どうかな?」

 パチパチと音を立てて燃える焚き火を眺めながら、僕とライラは夕食をとっている。
 あたりは夜の闇に包まれてしまったけれど、焚き火の明かりとライラの存在が一切の不安を取り除いてくれていた。

「うん、すごく良い味だ。これはお客さんにも受け入れられるんじゃないか」
「おぉ、ライラにそう言ってもらえると心強いな。じゃあ、それは商品化決定かな」

 今も昔も、ライラは僕の作ったパンを時に厳しく、時に美味しく食べてくれる。お世辞抜きの彼女の批評は、新たな創作パンについて考えたり、新商品を選定したりする際の重要な判断材料になっていた。

「今宵の恵みに、感謝」
「天と地の贈り物に、感謝。美味いパンをありがとう」
「いえいえ、どういたしまして」

 今日は僕が感謝される側になりつつ、昨日と同じ様に食後の挨拶を交わす。
 そして片づけを二人で協力して済ませると、「ふぅ」と一息ついたライラが僕に語りかけて来た。

「さぁ、それでは今日の真の目的地に向かうぞ」
「えっ!? ここが目的地じゃないの?」
「あぁ、野営地はここだがな。驚かせようと思って黙っていたんだ。荷物はそのまま置いておけばいい」
「……今日は、凝った作戦なんだね」

 彼女は、融通が利かない石頭のケンタウロスではない。毅然とした態度と中性的な言葉遣いの裏側には、消して小さくは無い茶目っ気が隠されている。
 実際、過去にはお茶の中にたっぷりと塩を混入されたり、寝ている間に顔に落書きをされたり、こっそりと鞄に石を詰められたり……僕は結構イジられているのだ。

「ふふ、すまないな。そのお詫びと言っては何だが……今日は、私の背中に乗っても良いぞ」
「ええぇっ!?」
「……声が大きい」
「いや、だって、ライラがそんなこと言うの初めて聞いたよ!?」

 そう、彼女は石頭のケンタウロスではない。しかし、誇り無きケンタウロスでもないのだ。
 あれは、蹴り飛ばされたあの日から数年が経った頃だろうか。
 「ライラは、背中に誰かを乗せたりしないの?」という僕の問いかけに、彼女はきっぱりとこう答えた。

「私は、荷物を運ぶための物ではない。人を乗せるための馬でもない。私は、ケンタウロスのライラなんだ」

 その凛とした言葉と態度を、僕は素直に格好良いと、素敵だと、そう思った。
 だから僕は、ライラの背中に自分の意思で乗った事は一度も無い。

「そうは言っても、お前は十年ほど前に乗ったじゃないか」
「いや、あれはいきなり熱が出てさ……ライラが『緊急事態だ!』って、医者まで走ってくれた時でしょう?」

 十年前の冬。いつものように孤児院の広場で遊んでいた僕は、何の前触れも無く高熱を発して倒れた。そして「すごい熱!」と驚く『彼女』や神父様に対して、ライラは自らが救急搬送する事を申し出てくれたのだ。

「だから、あの時の記憶は曖昧なんだ。ただ、すごく風が気持ち良かった事は覚えてるんだけど……」
「そうか。なら、今日が実質的に初めての日だな」

 そう言ってライラは静かに僕へ近づき、足を折って座った。

「さぁ、乗れ。私にここまでさせておいて、まさか断ったりする気じゃないだろうな?」
「何か、脅迫的なものを感じるなぁ……けど、ありがとう。すごく嬉しいよ」

 背中に跨った僕の言葉に、ライラは何も言わなかった。
 ただ、その耳が赤くなっている事に、僕は気付いていた。


━━ ┃ ━━ ━━ ┃ ━━ ━━ ┃ ━━


 あぁ、残念だけど、いよいよ本当に終わりなんだ。

 二十歳の夏の日。『彼女』の留学がさらに二年延長になった事を、僕は手紙で知らされた。
 またしても、事後報告。さらに今回は、直接顔を合わせての会話ですらない。そもそも、今年の春期休暇に『彼女』は帰って来なかったのだ。

 怒りの気持ちは、無かった。心の痛みも、感じなかった。
 うっかり剃刀を横に走らせてしまった時の様な、ただただ鋭利で冷えた感覚に包まれていた。

(自分から、別れの手紙を書こうか)
 まず第一に浮かんで来た考えが、それだった。
 『彼女』にとって、自分はもうどうでもいい存在なのではないか。邪魔な存在なのではないか。それならばいっその事、潔く自分から身を引いて、この恋を終らせよう。『彼女』を自由にさせてあげよう。

 だから僕は、便箋とペンを取り出して机に向かった。
 そして……何を書けばいいのかわからず、絶句した。
 浮かんで来るのは、『彼女』の顔。『彼女』の声。これまでの記憶。二人の気持ち。

 僕は、魔法の力で縛られたように動けなくなった。
 ペン先につけたインクがすっかり乾き切ってしまっても、動けなかった。

「落ち着け」

 その時、不意に後ろから声をかけられた。ビクリと体を震わせて振り返ろうとした僕の両肩に、そっと暖かな手が置かれる。振り返らなくても、それが誰のものなのかすぐに理解出来た。

「ライラ……」
「すまないな。借りていた本を返しに来たんだが、部屋の扉が開いていたのでな」
「…………」
「『彼女』に、手紙を書くつもりだったのか?」

 ライラの問いかけに、僕は小さく頷いた。彼女の両手は、変わらず僕の両肩に置かれている。

「そうか」

 そして両手が離れ……僕は、背後からライラに抱きしめられた。
 それは、時間にして一秒と少しほど。けれどそれでも、彼女のぬくもりを、香りを、暖かさを感じた抱擁。

「あるがままの、今のお前の気持ちを書けばいい。ただそれだけで良いんだと、私は思う。それでは」

 抱擁を解いたライラは、僕にそう告げて部屋を出て行った。


 僕は、『彼女』に手紙を書いた。

 今でも、君が好きだと。信じていると。
 けれど、もしも君がそれを望まぬのなら。より大きな世界を見つけたのなら。成し遂げたい何かや、添い遂げたい誰かと出逢ったのなら。

 どうか迷わず、その道を進んで欲しい。
 僕と君にとって、それが一番の幸せだと信じています。


 『彼女』からの返信は、無かった。


━━ ━━ ━━ ━━ ━━ ━━ ━━ ━━


「え、今回の事の詳細をみんなに話しちゃったの!?」
「あぁ。ある程度の部分はボヤかしているが、神父様や部下達に嘘をつく訳にはいかないからな」

 「今さらだけど、仕事はどうしたの? 休んだの?」という僕の問いかけに、ライラは振り返る事なくサラリとこう答えた。
 「あぁ、休暇を申請した。事情を説明したら、みんなきちんと了承してくれたよ」、と。

「うわぁ……ライラ、それは……うわぁ……」
「人に後ろ指をさされるような事ではないのだから、大丈夫だ」
「いや、そういう問題じゃなくて、辛いと言うか恥ずかしいと言うか……うわぁ」

 ライラの両肩に手を置いて、僕はがっくりとうなだれる。
 その実力と人柄を認められた彼女は異例の早さで出世し、現在は何人もの部下を束ねる地位にある。そんな部下の皆さんや、昔からお世話になっている神父様に、自分の失恋を知られてしまったというこの事実。

 川の流れに沿いながら、淡々と上流に向かって歩み続けるライラの背中の上で、僕は思わず盛大なため息をついてしまった。その動きに合わせて、腰の左右に括りつけた光を放つ魔法鉱石入りのランプが、カチャリと音を立てて揺れる。

「何分か前まではライラの背中に乗ってドキドキしてたのに、今は別の理由でドキドキしてるよ……」
「そうなのか? では、これからの時間は、素晴らしい光景にドキドキしてもらおう」
「え……」

 その言葉の意味を問いかけようとした僕の視界の隅を、フッと何かが横切った。
 一つ、二つ、三つ。黄色、黄緑色、黄金色。ゆらりゆらり。ふわりふわり。

「あ……」
「ほら、そのランプを消してみろ」

 ライラに促がされるまま、輝く鉱石に消灯用の鉱石を近づけて明かりを止める。
 すると、視界の全てが闇に塗りつぶされて真っ暗になり……


「うわぁ……!」


 一瞬の間をおいて目の前に広がったそれは、小さくも美しい光の乱舞だった。
 自分達の足元を、目線の高さを、さらにその上を、数え切れないほどの光が舞っている。

「蛍……すごい……」
「あぁ、ここは私だけの秘密の場所だ。お前に、これを見せてやりたかったんだ」

 そう言ってライラは、肩越しに振り返った。
 その微笑んだ横顔は柔らかな光に照らされ、儚いまでの美しさに満ちていた。

「ライラ……」
「お前と出会う前に、私は孤児院を脱走した事があってな。でたらめに走り続けて辿り着いた場所が、ここだった」

 前に向き直ったらライラは、穏やかな落ち着いた口調でそう言った。

「右手に台所から持ち出したナイフを持って、泣きながら走って、夜になって、ここで止って……喉を突いて死ぬつもりだったんだ」
「え、本当に……?」

 数え切れないほどの光の中、初めて聞くその話に、僕の声は自然と固いものになった。

「あぁ、本当だ。五歳やそこらの子供ではあったけれど、あの時の私の心は絶望に満ちていた。母さんの後を追いたかった。見知らぬ場所で、見知らぬ人間の庇護など受けたくはなかった」
「でも……踏みとどまる事が出来た」
「そう。この蛍達のおかげでな。両手でナイフを握りしめながら、私はこれを『綺麗だ』と思った。この世界に、こんなにも美しいものがあったのかと思ったんだ」

 そう語るライラの目の前を、一匹の蛍が光を放ちながら横切っていく。
 少しだけ首を動かし、その光の行方を見つめながら、彼女は言葉を続けた。

「そして、まだ死んではいけないのではないかと思った。私はまだ、この世界の事を何も知らない。何も見ていない。何も学んでいない。誰とも触れ合っていない。だから……」
「生きようと思ったんだね。それがきっと、お母さんの望む事でもあると思って」
「あぁ。ナイフを握ったまま泣き疲れて眠って、翌朝に孤児院へ戻って……その二日後に、お前が現れたんだ」
「え、そうだったの?」

 僕の驚いた声に、ライラはクスクスと笑った。
 ポニーテールにまとめられた彼女の髪が、楽しげに揺れる。

「あぁ、そうだ。それまで私が見て来た人間の中で、一番無礼で、一番元気で、一番頭の悪そうな奴だった」
「うわっ、ひどい」
「いいや、あの出来事に関しては、私もお前も同罪だ。蹴り飛ばした私も悪いが、いきなり現れてケンタウロスを馬扱いする馬鹿がいるか」
「う……確かに。ごめん」

 そしてライラは、静かに右手を前方へ差し出した。
 数秒の後、その手と腕に何匹かの蛍がとまり、優しげな光の明滅を見せ始める。
 彼女の肩越しに見たその姿は、聖霊の話に耳を傾ける女神のように神秘的だった。

 しばらくの沈黙の後、それまでとは少し違うトーンの声で、彼女が言った。

「だけど、どうしてかな。そんなお前に興味が湧いて、一緒に遊ぶようになって、とても楽しくて。お前には、自分の心を見せても良いような気がしたんだ」
「……うん」
「だから……だから私は、『彼女』が憎かった」

 その時吹いた一陣の風が、僕とライラの髪を静かに乱して行った。


━━ ┃ ━━ ━━ ┃ ━━ ━━ ┃ ━━


「これを君に、と。先日、娘から届いた手紙に同封されていたものだ」

 去年の夏、『彼女』の両親がこの街を出て行く事になった。
 『彼女』の母親の病が癒え、父親の仕事に適した大きな街へと引っ越す事になったのだ。

「あ、はい……ありがとうございます」
「君には、色々と辛い思いをさせてしまっているようだね。すまない。娘を許してやってくれ」

 小さく頭を下げた『彼女』の父親に、僕は慌てて言った。

「いいえ、そんな! 僕の方こそ、『彼女』の悩みや物憂いの種になってしまっているようで……」
「いや、そんな事はない。私達に送られて来る手紙にも、君の事はしばしば書かれていたよ。優しく大らかな心で、私を支えてくれています、とね」
「そう、だったんですか……」

 その言葉に、僕は思わずうつむいてしまった。正直、何をどう信じれば良いのかわからなかった。
 そんな僕の心の動きを察したように、『彼女』の父親が言葉を続けた。

「君は、真剣に娘の事を思ってくれている。それは、私も妻もきちんと理解しているよ。本当に感謝している」
「……はい」
「だから、この先に君達二人がどんな未来を描く事になろうとも、今の自分を、若き日の自分を、否定したり蔑んだりしないで欲しい。それが、私達の希望だ」


 そして、『彼女』の両親はこの街を後にした。
 自室に戻った僕の手の中には、手渡された『彼女』からの手紙が残った。

 そこに綴られていたのは、いくつかのメッセージ。
 返事を書けなかった事に対する謝罪。僕の気持ちに対する感謝の気持ち。自分を取り巻く様々な状況や人々に対する思い。今はまだ未来の事を語れないという率直な言葉。

「…………」
 散々待ち望んだはずの、『彼女』からの手紙。『彼女』の気持ち。けれどそれを読み終わっても、僕の心には何の波も起こらなかった。
 ただ単純に「あぁ、そうなんだ」と、平淡に納得してしまった心。胸に抱いたそんな予想外の感情に、僕自身が戸惑っていた。

 以前に手紙で留学の延長を告げられた時点で、返信が無かった時点で、僕の心は『彼女』から離れていたのか。あるいは、恐らく確実に訪れてしまうであろう別れに対する準備を整えるように、無意識に心の痛覚を遮断してしまったのか。

 郵便物をまとめて収納している木箱にその手紙を放り込み、パタンと蓋をしたところで、僕は自分自身が何かを覚悟し、何かを無くしている事にハッキリと気がついた。


━━ ━━ ━━ ━━ ━━ ━━ ━━ ━━


 ライラが、泣いている。

 うつむいて、肩を震わせて泣いている。
 僕は、彼女の背中から静かに下りて、その正面に立った。

「『彼女』を、憎んだ……?」
「……あぁ、憎んだ。私には無い人間としての可憐さを持って、いつも美しく輝いて、お前を射止めた『彼女』を、私は憎んだよ」

 その言葉と涙に、僕は何も言えなくなった。
 ライラが、『彼女』を憎んだと言っている。いつも清廉で、不必要な欲や妬みを誰よりも嫌っていたライラが、『彼女』を憎んだと言っている。

「自分でも嫌になったよ。こんな私も、女だ。『彼女』が、お前に対して愛しいという気持ちを持っている事くらい察知出来た」
「…………」
「だから私は、街を出た。武術を学びたかったのは本当だ。だけど『彼女』とお前の邪魔をしたくなかったし、これ以上二人を見てはいられないと思ったんだ」

 これまでに一度も聞いた事が無い、涙に震えるライラの声。
 顔を覆う彼女の両手で、何匹かの蛍が悲しげに輝いている。

「それなのに……それなのに、いざ恋人同士になったお前達を見た時のあの悲しさと、嫉妬の思いが……っ」
「ライラ……」
「その時、わかったんだ。どんなに偉そうな事を言った所で、自分は魔物なんだと。ケンタウロスという魔物なんだと。欲と嫉妬と憎しみに身を焦がす粗暴な存在なんだと!」

 そしてライラは脚を屈し、僕と同じ目線で慟哭した。
 僕は何も言わず、ライラを抱きしめた。彼女の体や頭にとまっていた蛍達が、静かに輝きながら飛び去っていく。

「もういい。ライラ、もういいんだ。君は……」
「昨日だって、今だって、そうだ。私は、お前に別れを告げた『彼女』を憎んだ。お前の思いを振り切る事を選んだ『彼女』を憎んだ……!」

 イヤイヤをする子供のように首を振りながら、涙に濡れた顔でライラが言葉を紡いでいく。

「そして……何より嫌になったのは……お前が『彼女』と別れた事に歓喜した自分自身の心だ……!!」

 ライラの言葉は、夜の闇と蛍の光の間に重く落ちていった。まるでその姿は、己の過ちを告白する罪人のようだった。
 僕の胸にしがみつき、ポタポタと涙の粒をこぼしながら、ライラの告白は続く。

「こんな女が、醜い心のケンタウロスが、お前に愛を告げる事なんて出来ない。『彼女』のように愛される資格なんて無い」
「ライラ、それは違う……」
「いいや、違わない。恋人と別れて心が弱っているお前に、突然こんな一方的な思いを並べ立てている事が、私の卑劣さの証明だ……!」
「ライラ……」


 そして、僕達は沈黙した。
 聞こえて来るのは、川のせせらぎ。遠くで鳴いているフクロウの声。僕の胸の中でしゃくりあげるライラの吐息。

 お互いの体から飛び去っていった蛍達が一匹二匹と戻って来た頃、僕は、ライラを抱きしめる腕に力を込めながら言った。

「ライラ……『彼女』のお父さんが、僕にこう言ったんだ。この先に君達二人がどんな未来を描く事になろうとも、今の自分を、若き日の自分を、否定したり蔑んだりしないで欲しい≠チて」
「…………」
「ライラ。僕は、悲しいよ。とても、とても悲しいんだ」

 僕はライラを静かに胸から引き離し、その肩に手を添えて瞳をじっと見つめた。
 蛍の光に映し出された彼女の頬には、涙の筋が幾重にも描かれている。

「僕の『彼女』に対する思いは、本当だった。そして『彼女』も、本当に僕の事を思っていてくれたんだ」
「あぁ……」
「ねぇ、ライラ。率直に訊くよ。ライラは、僕の事を好きだと思ってくれていたの?」
「私、は……私は……」

 再び、彼女の瞳に涙が満ちる。それが粒となって溢れ出すのと同時に、ライラが口を開いた。

「私は……お前を、愛している。たぶん、出会ってすぐの頃から、ずっと。だけど、何も言い出せなくて、それなのに嫉妬して、憎んで……」

 僕は再び、ライラを強く抱きしめた。
 彼女の下半身の、馬としての毛が激しく逆立っている事に、僕はその時ようやく気付いた。
 彼女は、自分自身の全ての感情を開放して僕と向き合っている。ならば、僕もそれに応えたい。 
 心から、自分自身の全てを向けて。

「なら、ライラが僕と『彼女』に向けている気持ちも、きっと本当なんだよ。だから、自分を否定したり、蔑んだりしないで欲しいんだ」
「たけど、私は……っ!」
「うん。わかってる。でもね、ライラ。誰かを好きになる事は辛い事だって。それでも進まなきゃいけないって。そう僕に教えてくれたのは、ライラなんだよ?」

 『彼女』から留学への旅立ちを告げられたあの夜の事を思い返しながら、僕は言った。
 いつの間にか、たくさんの蛍達が僕とライラの周りに集まり、まばゆいほどの光を放っている。

「嫉妬心や猜疑心に苛まれたり、心の生殺与奪を相手に委ねて苦しんだり、自分自身の女々しさや醜さに苦悩したり……それはきっと、僕もライラも『彼女』も同じなんだよ」
「でも、それでも、私は……!」
「聞いて、ライラ。そこには、男と女の違いも、人と魔物の違いも無いんだ。だから、自分の事を魔物だなんて、醜い心のケンタウロスだなんて、お願いだから言わないで欲しいんだ」

 いつの間にか、僕も涙を流していた。
 蛍が作り出す光の中で、涙にまみれたクシャクシャの表情で、僕とライラは見つめ合った。

「ライラ、悲しい事を言わないで。今日は、恋を無くした男と恋を告げた女とで、泣き明かそうよ。こんな夜が一生の中で一度くらいあっても、きっとバチは当たらないはずだから」

 泣きながら笑っている、たぶん相当に奇妙な表情で、僕はライラにそう言った。

「……ありがとう。本当に、ありがとう」

 蛍の幻想的な輝きに包まれながら、ライラは僕の言葉に頷いた。

 そして僕らは強く抱きしめあって、子供のようにわんわんと泣いた。
 これまでの思いを、迷いを、悔いを、間違いを、葛藤を、嫉妬を、絶望を、諦めを……全てを涙で洗い流すように。




━ ╋ ━━ ╋ ━━ ╋ ━━ ╋ ━━ ╋ ━




「ふぇ〜……パパとママって、大恋愛だったんだねぇ」

 おだやかな昼下がり。
 居間で娘と共に過ごす、お茶の時間。
 ふとした話の流れから、私はあの頃の思い出を娘……レイラに語り聞かせる事になった。

 私にとっては、苦悩と葛藤、そして生きる事についての確固たる答えを得た、いつまでも色褪せない日々の記憶。
 彼女にとっては、初めてその詳細を知る、自分の両親が歩んだ恋と苦悶の物語。

「大恋愛であったかどうかはわからないが、あの頃の私達が一生懸命だった事は事実だな」
「いやぁ、すごい大恋愛だと思うよ? 私、ちょっと鳥肌が立っちゃったもん。ほらほら」

 そう言ってレイラは、左腕を私に差し出した。なるほど、確かにそこには鳥肌があった。
 そして彼女に気付かれぬよう、それとなく下半身を見てみると……見事に馬体の黒毛が逆立っている。「遺伝ってすごいよね。自分達の妙な癖まで、きちんと子供に伝わっちゃうんだから」という、彼の言葉を思い出す。

「ふむ。私達の話しに感動してくれるのは嬉しいのだが……そんなお前自身はどうなんだ? 好きな男の子がいるんだろう?」
「えっ? あぁ、う〜ん、まぁ……ハハハ。私には、そういうのはまだまだ先の話かな」

 あぁ、我が最愛の夫よ。私も、遺伝とはすごいものだと確かに思う。
 何故なら、ほら。この子もまた、嘘をつくと右の眉が見事に下がるのだから。

「……東方の国から来た、あの家族の息子さんか」
「ふぇっ!? 何でママが知って、いや、あの、ゲフン、ゲフン!」

 甘い。甘いぞ、我が娘よ。私は、お前の母親だ。そして、恋する女としての先輩だ。
 そんな私が、お前の心の動きと揺れ動く視線に気がついていないとでも思ったのか?

「いや、そんな事よりもさ、あの、その……そう! その『彼女』さんって、それからどうなったの?」
「あぁ、『彼女』か」

 私はそこで一度言葉を切り、カップの中に残っていたお茶をグイと一息に飲み干した。
 娘よ、話の逸らし方はもう少し上手くするものだぞ……と思ったが、それは言わないでおいてあげよう。

「【憂いのセイレーン】という通り名を持つ歌手を知っているか?」
「憂いの……うん、知ってるよ。外国にも公演旅行に行くような、有名な歌い手さんだよね」
「そう。彼女が、『彼女』だ」
「へぇ……って、ええぇぇぇ!?」

 その見事な歌唱力と表現力で、各界から高い評価を得ている【憂いのセイレーン】。
 特に悲恋の歌に関しては、その表現の奥深さと素晴らしさに並ぶ者無しと評される稀代の歌い手。

「う、ウソだぁ。ママったら、私を驚かせようと思って、またそんなこと言ってるんでしょ?」
「私がお前につまらない嘘をついた事が、今までにあったか?」
「……時々あったよ?」
「ほぉ」

 娘よ、なかなか言うようになったではないか……とりあえず、デコピンを見舞っておこう。
 私がスッと右手を動かすと、その意図を察した娘が素晴らしい速さで謝った。

「ゴメンナサイ嘘です冗談ですママがそんな事言うわけ無いですよねハイ」
「うむ。とりあえず、お茶のおかわりを頼む」
「喜んで!」

 右手を下ろし、代わりに左手で私がカップを差し出すと、娘は電光石火でそれを受け取り、台所へと向かって行った。ふむ。こういう所の反応は、昔から素晴らしい。しかし、武術のセンスが全く無いのは不思議で残念だ。

「……その分、パンや料理作りの才能はあるようだから、別に構わないかな」
窓から差し込んでくる日差しに目を細めながら、私は小さくそう呟いた。


━━ ┃ ━━ ━━ ┃ ━━ ━━ ┃ ━━


 私と彼は夜が明けるまで抱き合い、涙した。
 そして蛍達が消え去り、朝日がその光を見せ始めた頃、私は静かに立ち上がり、腰に携えていたショートソードを鞘から抜き祓った。

「今日までの私の弱い心に、過ちに、永久の懺悔を。そしてあなたへの愛を、永久の誓いに。これは、その証し」

 私はそう宣言してポニーテールにまとめていた髪を斬り落とし、宙に投げ放った。
 朝日に照らされた髪はキラキラと輝き、風に吹かれ、やがて静かに見えなくなっていく。
 襟元を吹きぬける風を感じつつ、軽く目を閉じた私に、彼が言った。

「ライラ、僕は……」
「あぁ、わかっている。私は、いつまでもあなたを待つ。あなたの心が恋を失った痛みから解放され、私に向いてくれるその日を。いつまでも、いつまでも待っているよ」
「ライラ……ありがとう」

 立ち上がった彼の手を取り、引き寄せ、ぎゅっと強く抱きしめる。
 お互いの身長差の結果、彼の顔は私の胸の中にすっぽりと納まってしまう。

「う、ちょっと、ら、ライラ……」
「私の胸も、役に立つ時があるのだな。今までは、ただ邪魔なだけだと思っていたが」
「うん、すごく柔らかい……いや、そうじゃなくて」
「遠慮するな、この胸もやがてはあなたのものだ」

 私の言葉に、彼の顔が熟したトマトのように赤くなる。その顔と反応が可愛くて、私は思わず笑ってしまう。
 すると、話を逸らしたいという気持ちがバレバレの様子で、真っ赤な顔のままの彼が言った。

「ライラ、あの、さ、さっきから僕の事を『あなた』って呼んでるよね?」
「あぁ。もう私は、自分の心を偽ったりしない。自分にとって一番愛しく、大切な人の事を『お前』などとは呼べないさ」
「ライラ……あ、それと、もう一つ……」
「何だ?」

 私の瞳をじっと見つめながら、彼は心を落ち着けるように深呼吸した後、こう告げてくれた。

「短い髪も、すごく似合ってる。可愛いよ」

 私は彼を、もう一度強く強く抱きしめた。
 たぶん、彼と同じくらい赤くなってしまっただろう、自分の顔を見せないために。


━━ ━━ ━━ ━━ ━━ ━━ ━━ ━━


 私と彼が恋仲になったのは、それから三年後の事だった。
 人は、その時間を長いと言うのかも知れない。あるいは、短いと言うのかも知れない。けれど、彼の心の整理がつき、私の思いを受け入れるまでには、それだけの時間が必要だったのだ。

 その間、私はずっと彼のそばにいた。
 もちろん、不安はあった。彼の心は、結局『彼女』から離れる事は無いのではないか。やはり彼には、人間の女性こそふさわしいのではないか。
 そんな風に心が揺れるたび、私は鏡に映る自分の顔を直視した。そして、伸ばす事無く短髪の状態を保ち続けた髪を触った。
 私に成長した部分があったとすれば、そんな風に弱い自分と正面から向き合えるようになった点なのかも知れない。


 それからさらに二年後、私と彼は結婚した。
 彼のご両親、孤児院の子供達と神父様、自警団や保安官の部下や仲間達、そして街の人々。
 私達の結婚式は質素だったけれど、手作りのとてもあたたかい宴になった。

 そして……『彼女』からの贈り物が届いたのは、結婚式から半月程が経った雨の日の事だった。

「どうしたの、ライラ? 誰からの荷物?」
「…………」

 いつも陽気なハーピーの運送屋から荷物を受け取った私は、差出人の名前を見つめて沈黙した。
 すると、その様子を見て全てを察した彼が、私の手から優しく荷物を取り上げた。

「開けてみよう。ね?」
「……あぁ」

 硬い表情のままの私に、彼は穏やかに微笑みかけ、素早く荷物の封を解いていった。

「絵……絵画? これは……」
「私達、なのか……?」

 その荷物の中身は、美しい額縁に収められた一枚の絵画だった。
 あたたかな陽射しがふりそそぐ、晴れの日の木陰。そこで微笑む黒髪の男性と、栗毛のケンタウロス。そしてその視線は、日の光の中、小鳥と共に駆ける幼いケンタウロスの女の子へと向けられている。

「これは、未来の僕達の姿、なのかな」
「あぁ……きっと、そうだ。これは、『彼女』からのメッセージだ」

 恋と夢の狭間で悩み、不器用な別れを告げた金髪の少女は、都にその名を響かせる華麗な歌い手になった。
 生まれ育った街で恋人の帰りを待ち続け、その願い叶わずとも日々誠実に生きた黒髪の少年は、心優しい腕利きのパン屋になった。
 時に己の心を偽り、役割を演じ、本当の思いを封印しようとした愚かな栗毛のケンタウロスの私は……果たして、何になったのだろうか。何になれるのだろうか。

 どこまでも優しく、あたたかなタッチで描かれたその絵を見つめながら、私は未だに克服出来ない自分の弱さに泣いた。
 そんな私に、彼が静かに言葉を投げかける。

「ね、ライラ。僕は、ライラを幸せにするよ。だから、ライラも僕を幸せにして欲しいんだ」
「え……?」

 彼は、少し照れくさそうに笑いながら言葉を続けた。

「上手くは言えないけど……幸せって、一人で作るものじゃないと思うんだ。特別な人と特別な思いを交換し合いながら、幸せは生まれたり、作られたりするんじゃないかなぁって」
「あぁ……」
「僕にとって、ライラは特別な存在だよ。だから、特別に思うし、特別扱いもするよ。人から『依怙贔屓だ!』って言われたら、『そうだよ』って言い返すよ」

 少し顔を赤くしながら、けれど小さく胸を張りながら、彼は言った。

「特別思い、特別返し。僕はライラが大切だから、愛しいから、幸せにするよ。他の誰よりもね。だからライラも、僕にそうしてくれると嬉しいんだけど……どうかな?」
「あぁ……あぁ……っ!!」

 私は、彼を絵画ごと抱きしめた。
 自分が何になったのか、何になりたいのか、何になれるのか。

 下手な生き方をした私は、下手な中身の大人になった。
 でも、そんな私を幸せにしたいと言ってくれる人と、長い時間を共に過ごしながら今日までやって来れた。
 ならば私は、この人を愛す存在になろう。愛される存在になろう。依存ではなく、彼とまだ見ぬ我が子を地上の誰よりも愛し、愛されるために生きよう。

 三人の中で一番不器用な私が、一番単純で、しかし一番難しい道を選んだのかもしれない。
 けれど、それで良い。それが良い。

 もう私は、何があろうとも絶対に迷わないと心に決めた。


━ ╋ ━━ ╋ ━━ ╋ ━━ ╋ ━━ ╋ ━


「そして、その夜に仕込んで出来たのがお前だ」
「えっ!?」
「嘘だ」
「うおぉぉぉぉぉいっ!!」

 私の言葉に、レイラはもんどりうって倒れた。

「ちょっと、ママ! 感動してるところに冷水浴びせるような事言わないでよ!!」
「うむ。母の可愛い照れ隠しだと思ってくれ」

 そう言って私は、娘が煎れてくれたおかわりのお茶を一口飲んだ。
 彼女は何とか起き上がりつつ、「まったくもう……」などと文句を言っている。

「それにしても……あの絵が飾られるまでには、そんな事があったんだね」
「あぁ。あの絵は私達三人が辿り着いた、一つの答えの形なのかもしれないな」

 居間の壁に掛けられた絵を見つめながら、私とレイラはしばし沈黙した。
 そしてふと、我が最愛の娘はこう呟いた。

「私も……ママとパパみたいに、なれるのかな。本当に大好きな人と、心を通わせ合う事が出来るのかな」

 私に似た輪郭と、彼に似た切れ長の瞳。
 私から受け継いだケンタウロスとしての肉体と、彼から受け継いだ少しクセのある黒髪。
 私と少し似てしまった意地っ張りな性格と、彼と同じように嘘をつけない性分。
 あぁ、この子は紛れもなく私達の娘だ。

「好きな人がいる。ライバルがいる。それは、素晴らしい事であり、時に辛い事でもある」
「うん……」
「だから、精一杯悩んで、精一杯喜んで、精一杯正直に生きなさい。本当にわからない事とぶつかった時は、何か助言をしてあげるから」
「うん……ママ、ありがとう!」

 そう言ってレイラは、花が咲くように美しく笑った。

「……ふむ、なるほどな。やはりお前の恋路には、強力なライバルがいるのか。あの酒屋の娘さんかな?」
「うっ!? マ、ママっ!!」


「ただいまぁ〜」


「ほら、パパが配達から帰って来たぞ? ちゃんと出迎えて、パパの分のお茶を煎れてあげなさい」
「いや、だって、ちょっと、あの……あぁん、もうっ!!」

 赤い顔で百面相をしながら、レイラが彼を出迎えるために、あの裏口の方へ駆けて行く。
 その勢いと顔色に驚いたのか、彼の「うわっ、どうした!?」という声が聞こえて来る。

「だって、ママが意地悪なんだもん!」
 そんな娘の声に思わず笑いながら、私は日の光が差し込む窓を開けた。
 爽やかに吹き込んでくる風が、私の短い髪の裾を少しだけ揺らしていく。
 近づいて来る二人の声の方へ向き直り、愛しいその姿が現れるのを待ちながら、心から思った。


 あぁ……私達は、今、とてもとても、幸せだ。

考えてはいたけれど、物語の中には登場しなかった設定。

 《 『彼女』は、ものすごく料理が下手。 》
 《 ライラは、文武両道なんだけど何故か妙に悪筆。 》

……いや、個人的に【美人なのに悪筆な人】というのが萌えポイントなんです(^_^;)。

こんな変な事を考えているのは自分だけかと思っていたら、
タレントの勝俣 州和さんがTVで全く同じ事を仰っていて、ものすごく驚きました。

以上、心底どうでもいい内容のあとがきでした。

09/10/19 09:12 蓮華

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